陸軍史あちらこちら−(117) 荒木肇 特別企画『戦車と日本人(7)』

2011/06/08発行
「海を渡った自衛官─異文化との出会い
─」
□はじめに
東西冷戦時代、北海道にソ連軍はとうとう上陸してきませんでした。私は、そ
の理由の一つをわが自衛隊の戦車部隊がいたことを挙げます。
ソ連が崩壊してずいぶん経ちました。情報が公開されるようになり、憶測で語
られていたことがずいぶん明らかになっています。ノモンハン事件の実態の一部
や、ソ連指導部によるモンゴル軍や国民への弾圧の様子なども分かるようになり
ました。
そういう中で、やはり1970年代にも極東ソ連軍は、わが国への侵攻も十分
考えていたことが分かる資料も出てきました。
戦争を起こすには「意思と能力」が必要です。極東ソ連軍には侵攻の意思はあ
っても、北海道に展開し、重厚な装備をもっていた陸自北部方面隊を完全に打ち
破る能力はありませんでした。61式という砲戦能力が高い戦車、より機動力が
向上し、砲も強化された74式戦車の群れを叩きつぶせる自信がもてなかったの
でしょう。
いま、大きな国難の中にあるわが国に、ロシアも中国も、軍事的なちょっかい
を出し続けています。90式も十分調達されず、せっかくの10式戦車も数が一
気に増えそうもない。もう戦車など時代遅れだという人もいるようですが、何か
あってからでは遅すぎます。
先週は富士学校へうかがって10式戦車に接する機会をいただきました。4ス
トロークのエンジンの起動は軽やかで、加速力もあり、素晴らしいものでした。
詳しくはお伝えできないのが残念ですが、オキジャリーエンジンが必要なほど、
電子装備が充実しています。旋回はゆるく行なってくれましたが、それでも身体
に大きな横Gがかかり、短い時間なのにすっかりくたびれました。
加藤徹様、94式37ミリ速射砲は実際に製造が始まったのは1936(昭和11)年
でした。つまり、2年もサバをよんでいたのです。このように制式年と実際の完
成が食い違うことはよくありました。わが国の例でいえば、38式と名付けられた
物は必ずしも明治38年にできたものではありません。
当時、上海事変で苦労した陸軍は、そこでドイツ軍の装備の多くを手に入れた
のです。じっさい、国民政府軍は借款(しゃっかん)のおかげでふんだんにドイ
ツ製の兵器を買いました。しかし、兵士たちはいとも簡単に、それらを捨てて逃
げていたようです。その他、欧州の技術情報も当時の陸軍技術本部は貪欲に集め
ていました。歩兵に有効な対戦車兵器を持たせようと上層部は考えていましたが
、20ミリ機関砲か37ミリ速射砲か。興味深い論争の結果、決定したのがこの94
式(実際の製造開始は96年)です。いずれ詳しくご紹介するつもりです。
74式無名様、応援ありがとうございました。勇気が出ます。築山様、いつもメ
ールを楽しみに待っております。74式の未来に関してのご提言、たいへん勉強に
なりました。ほんとうに仰る通り、発想の転換が必要ですね。今回もご批評を楽
しみにしております。
▼極東ソ連軍の侵攻
わが国はロシアや中国から見れば、広い外海にふたをする島々である。ソ連太
平洋艦隊が日本海から太平洋に出るには、宗谷、青函、対馬の3海峡を通るしか
ない。なかでもウラジオストクとカムチャツカ半島のペトロパブロフスクを結ぶ
最短距離になる宗谷海峡の打通をはかる可能性が高い。
そうであれば、ソ連軍は道北に戦力を集め、着上陸作戦をとることだろう。少
なくとも、旭川より北を占領する、そうした事態になることは確実である。
1945年の敗戦前後には、米ソの秘密協定があった。留萌と釧路、この両都
市を直線で結ぶ。その線より北はソ連軍が手に入れる予定だったそうだ。そうで
あるなら、謀略がお手のもののソ連のこと、冷戦時にはわが国内のシンパやその
同調者たちからも十分、わが防衛情報は手に入れていたことだろう。
いまの世間から見れば信じがたいことだが、敗戦当時やその後の時代には、革
命を起こしてソ連に加わろうと公言する知識人や労働者はけっこういたものだ。
わが国のような島国が侵攻されたら、被害を最小限に防ぐには3つの方法・段
階がある。
まず、敵の根拠地をあらかじめ叩く。集結している状態が最高なので、それま
で満を持して待つ。
次に進撃してくる敵艦隊、輸送船、揚陸艦などを洋上で撃破する。現在は88式
地対艦ミサイルが北の空をにらんでいる。また、航空自衛隊のF2や、海自のP3C
が翼で運ぶ対艦ミサイルもある。
最後になるのが、陸自のパンフレットにも必ず載っている水際で迎撃する方法
である。海岸堡を造らせない。もちろん、ソ連のことだから背後に空挺も降ろす
だろうから、それもわが機甲戦力で包囲殲滅する。
素人が考えてもこれが一番良い方法である。ただ、現在でもこれが実行できる
か。専守防衛、つまり、殴られてから初めて反撃する。それではとても不可能で
ある。
現在も北朝鮮のミサイル基地の監視ができている。発射用の燃料注入行為が確
かであっても、まだ手を出せない。撃ち出されてから測定して、それがわが国へ
落ちる可能性を計算して、それからやっと迎撃命令が出る。そんな法が整備され
ている国である。
現場の自衛官は勝手に戦闘を開始してはいけない。昔、奇襲攻撃を受けたら「
超法規」で断固迎撃するといった将官がいた。たちまちマスコミや識者に袋叩き
にされて、政治家の判断でクビになってしまった。
スクランブルという行動がある。わが国の領空を犯そうとする可能性のある敵
性軍用機に緊急発進して接近、監視して警告する。もちろん、戦闘機には実弾を
積み、ミサイルも吊るしている。
わが戦闘機は必ず2機で飛ぶ。撃たれてから撃ち返すように法律で決まってい
るからだ。だから、2機のうちどちらかは絶対に落とされてしまう。仲間に機関
砲やミサイルが発射された瞬間、初めて残った僚機は反撃を加えることができる。
▼音威子府こそワレラの終焉の地
「僕らね、音威子府(おといねっぷ)で、みんな死ぬと思っていましたよ」
当時、小隊長だった元将補は笑う。北恵庭にあった第1戦車群第104戦車大隊
で61式に乗った。1970(昭和45)年頃である。相手にするのはソ連軍のT54・5
5。
第1戦車群は第101、同103、同104の3個大隊で構成されていた。
「90ミリ砲だったし砲塔の前面装甲が厚い。馬力があって良い戦車でした。何よ
り、国産戦車です。誇りがほんとうに持てましたね。これで敵とまともに撃ちあ
ったら、負けるものじゃないと思っていました」
音威子府は上川支庁にあり、宗谷本線と天北線(1989年廃線)の分岐点にな
る鉄道の村である。ソ連軍は稚内付近に奇襲上陸後、二手に分かれて旭川市があ
る上川盆地を目指すとされた。主力は内陸のサロベツ原野に向かう。もう一方は
、オホーツク海にそって南下。浜頓別で右折して天北峠へ向かう。そこは音威子
府から南へ約10キロ。
あるいは、もう一つの上陸に適する浜頓別と枝幸の間の海岸に揚がる。そこか
ら天塩川の線に進出し名寄盆地(高射特科群と第3普通科連隊の駐屯地)を目指
す。
対してワレは中頓別から音威子府にかけて、続いて歌登から咲来峠で頑張る。
天塩川沿いの長縊路では、美深などで抵抗する。名寄盆地が制圧されたら、雲竜
川と剣淵川に沿う長縊路で持久しながら抵抗、上川盆地への侵入を許さない。そ
うしているうちには、機甲打撃集団が前進してくるだろう。また、アメリカ軍が
きっと黙ってはいない……と誰もが考えていた。
まず、自衛隊ができることは地形を利用しての敵兵力の漸減(ぜんげん)作戦
である。内陸部に誘致して、増援を得てから決戦する。もちろん、航空優勢は望
むべくもない。制空権は敵にある。だから昼間は森林内にひたすら隠れ、夜間に
粛々と行進する。第1戦車群は北方総監の命令のもと、手塩での戦闘に参加すべ
く急行する。距離はおよそ250キロ。2夜3日の戦闘行軍である。とちゅう、上富
良野に一泊した。
戦場に到着すると、まずエンジンの整備である。規則によって250キロごとに
定期点検を行なうからだ。リカバリー(戦車回収車)がやってきてエンジンを吊
り上げる。隊員は整備に励む者、戦車がすっぽり入るような壕を掘る者、装備品
を受領、確認する者などで忙しい。
周りには普通科隊員が陣地を築いている。普通科連隊小銃中隊には対戦車小隊
が編制の中に入る。彼らは106ミリ・リコイルレス(無反動砲)やロケット・ラ
ンチャー、いわゆるバズーカ砲を装備する。戦車が撃ちもらした敵は、彼らが仕
留めなければならない。
また、64式MAT(有線誘導の対戦車ミサイル)は師団の対戦車隊がもつ。つい
この間まで富士の総合火力演習では観衆の称賛をよく浴びた(あまりに人気があ
るので、部隊では使っていないのに、富士だけで見せていた)。髪の毛より細い
ケーブルを引っ張りながら飛び、操作手のコントロールで上昇し、下降し、見事
に命中する第1世代のMAT(ミサイル・アンチ・タンク)である。現在のMATは
速すぎて、シュパッという発射音の後にはシャーッという音だけが後に残り、気
がついたら目標はバラバラ。拍手、歓声をあげる間もない。
相手のソ連軍は重装備の機械化部隊である。朝鮮戦争の中国軍のように山の稜
線を越えて浸透してくるようなことはしない。おそらく道路を進撃してくるにち
がいない。トンネルや主要な橋はできるだけ施設科(工兵)部隊が破壊しておく。
▼歩兵直接協力の戦闘
戦術用語では敵に土地を渡しても時間を稼ぐことを「遅滞(ちたい)行動」と
いう。決定的な近接戦闘をさける。行軍隊形で進撃してくる敵に射撃をすれば、
敵は横隊に隊形を変える。ワレが後退すれば、敵は再び行軍隊形にもどす。それ
だけで進撃速度は落ちる。地形をよく知っている味方は、自由に攻撃場所を選ぶ
ことができる。敵はいつワレが襲うか分からない。偵察や警戒行進が必要になり
、これもまた時間が稼げる。
こうした戦闘で難しいのは、どれだけ粘り、いつ離脱するかである。理想的に
は近接航空支援(CAS)を受ける。敵が頭を上げられないようにしてから逃げる。
しかし、予想されるのは敵の航空優勢である。こちらの対地攻撃機、戦闘爆撃機
が行動できるような状況ではなかった。
「ほら、戦争映画であるでしょ。戦車が後ろ向きになって砲塔を真後ろにして逃
げる。もちろん撃ちながら。スモークを焚くこともあるし、発煙ですね。わざと
排気煙を多く出すこともある。そうやってわが歩兵を敵の目から隠して後退する
」
「あそこの山があるでしょ。ほら、あの独立樹木、あのちょっと下。あそこにボ
クらMG(機関銃)をもって肉薄攻撃を掩護する役目でした。ロケット・ランチ
ャー、ほら一般の人がバズーカっていうやつ。あれを2人1組で持っているのです。
ソ連軍は歩兵と戦車は離れないから、それを迫撃砲などで乱打する。MGで撃つ。
戦車にあたったって、迫撃砲弾も機関銃弾も効果がないけど、デサント(跨上・
歩兵などが戦車の表面にとりついて乗ってくる)してきたり、随伴してきたりす
る敵歩兵を倒さなくちゃ、こちらのランチャーも接近できない」
ロケット・ランチャーは89ミリロケット発射筒といわれた。朝鮮戦争で60ミ
リのバズーカがT34に通用しなかった。そこで89ミリに口径を大きくし、成形炸
薬弾を撃った。本体は軽量(6.8キロ)で、ロケット弾(M35A1型対戦車榴弾)
の破壊力は大きい。全長は1,535ミリだからけっこう長い。有効射程は点目標、
あるいは移動する目標には200メートル、地域目標は600メートル。弾丸重量は3.
45キロ、初速は102メートル。
T54やT55には十分に有効だったといわれる。
そんな思い出を語ってくれたのは、若い3曹のころに第7師団第11普連にいた
元3佐。迷彩服の胸ポケットには、いつもその峠のMG陣地の位置が書かれた地図
が入っていた。自分の死に場所だった。
▼T34を改良したT54と55
T34/85の走行装置を改良したのがT44、それを基に開発されたのがT54とい
われる。1949年に生産が開始された。そのT54のエンジン出力を高め、トランス
ミッションを改良、機関銃を新型に換装し、砲塔形状を変えたのがT55。1950年
代末(昭和30年代半ば)から生産されたという。
その砲塔は扁平で曲面性が高い。避弾経始(ひだんけいし)性がたいへん高そ
うである。敵の砲弾をガチンと受け止めるのではなく、当たりを逸らしてしまお
うという発想だった。また形態上の特徴は、第1、第2転輪の間が広く開いている。
砲塔が独特な形、そのおかげで主砲の俯角はわずか4度となった。戦闘室の内
部もたいへん狭くなっている。
主砲はもともと海軍艦艇に載せた100ミリ砲。いつも西側陣営より主砲の口径
が大きいのがソ連軍戦車である。APHE弾(徹甲榴弾)、HEAT弾(モンロー効果
を利用した成形炸薬弾)、HE弾(粘着榴弾)の3種類の砲弾を撃てる。APHE弾
の場合、初速は1000メートル(毎秒)、射距離1000メートルで185ミリの厚み
の装甲板を貫通する(ただし、衝突角0度)。HEATのときは、それぞれ900メー
トル、380ミリとされる。
装甲は車体前面で100ミリ(傾斜角60度)、側面上部で70ミリ、上面30ミリ
、底面20ミリ、後面で60ミリ。砲塔の前面装甲厚は170ミリあった。エンジンは
V型12気筒水冷ジーゼル、出力600馬力といわれる。
次回は61式と74式の戦い方に移りたい。