横浜市立大学エクステンション講座 パリ史こぼれ話 第1回(11/5) エッフェル塔ものがたり 横浜市立大学名誉教授 松井道昭 はじめに 本講座の冒頭は、前期エクステンション講座第 8 回「パリ万博の歴史―エッフェル 塔異聞―」でやり残した部分である。まず、このおさらいから始めることにしよう。 エッフェル塔は第 4 回パリ万博(1889)の目玉として企画された。ゆえに、万博と の関連を抜きにして論じられない。そもそも、万博とは何か。それをひと言でいえば、 文明の所産を一か所に集めて見世物とすることだ。それがなぜヨーロッパで始まったか ――これが前期講座第8回の主題であった。 (1)物流と見世物としての中世ヨーロッパ定期市の伝統 博覧会とは、 「異」なるものを見出した衝撃に喚起された人間がそれを他人に知って もらおうとする欲求にもとづいている。そして、 「博覧」とは、珍奇物をでたらめに陳列 するのではなく、なにがしかの体系のもとに整序し陳列する(Expose)することにほか ならない。中世ヨーロッパの交通の要衝(シャンパーニュと南ドイツ)で国際的規模の 取引がおこなわれた。それは交易が主だったが、サーカス、大道芸、ダンス、酒食、占 い、講談など気晴らし行事を伴った。経済活動が娯楽活動を率いるという点で万博の先 駆けとみなしてよい。 (2)大航海時代による異文明の発見 ヨーロッパは大航海時代に商業とキリスト教布教の大遠征を経験し、ヨーロッパ人 は進出先で珍奇な商品と並んで異人種、動植物、異なった文化・生活様式を発見し、強 い衝撃を受けた。 (3)博物学の誕生 17 世紀においては類似と相違が「知」を成す基本原理であった。人々は珍奇な商品、 動植物、文化・生活様式の類似と相違の由来を尋ね、ここから博物学が誕生し、これを 一般大衆に知らしめるため、各地に動物園・植物園が建設された。 (4)博物館の設置 18 世紀になると、さらに進んで異文化や異生活様式の分類と体系化が図られ、これ を陳列した常設博物館が設置されていく。 (5)博覧会の誕生 異文明の所産の陳列および公開につづくのが万博である。博物館から博覧会への跳 1 躍台となったのが資本主義の発達だ。それまでの異文明下の珍奇なものを観るという視 点から、今度は自信を深めたヨーロッパ文明(産業革命の所産)を積極的に見せるとい う点に力点が移っていく。19 世紀のナショナリズムがこれを後押しする。 第1章 パリ万博とエッフェル塔建設の概要 万 国 博 年 表 (1940 年まで) 開催年 都市 会場・出展目玉 入場者(万人) 1851 ロンドン 水晶宮 産業機械 600 1853 ニューヨーク 水晶宮の模倣 125 1855 パリ 産業宮 産業機械と美術品 520 1862 ロンドン 産業機械 独鉄鋼品 日本美術工芸品 620 1867 パリ 楕円形会場 機械 大砲 工芸品 美術品 680 1873 ウィーン 電気モーター 日本庭園 700 1876 フィラデルフィア 建国百年 ミシン タイプライター 1,000 1878 パリ トロカデロ宮 蓄音機 水族館 1,600 1889 パリ エッフェル塔 機械館 電灯照明 3,200 1893 シカゴ コロンブス四百年 高架鉄道 自動改札 2,750 1900 パリ 新世紀展望 動く歩道 映画 電気宮 4,800 1904 セントルイス ルイジアナ百年 飛行船 自動車 無線 2,000 1915 サンフランシスコ パナマ運河 地震復興 芸術スポーツ 1,800 1924 ロンドン オリンピック記念 大英帝国博 2,700 1925 パリ 装飾美術と近代工業 アールデコ 500 1926 フィラデルフィア 建国 150 年 7 万台大駐車場 640 1930 リエージュ 市制百年 産業と科学 日本機械出品 200 1933 シカゴ 市制百年 無窓建築 プレハブ住宅 4,800 1935 ブリュッセル 民族を通じての平和 参加国展示館 200 1937 パリ 芸術と技術 独ソ館がエ塔を挟み対峙 3,400 1939 ニューヨーク 大戦勃発 ナイロン プラスチック 録音機 4,500 1940 東京 <中止> 勝鬨橋 第1節 万博がパリで 7 回も催行された理由 万博は最初、定期的に開催する予定はなかったようだ。しかし、ロンドン、ニュー ヨーク、パリ、ウィーン、フィラデルフィアと回を重ねるにつれて高人気を博し、大衆 娯楽の少ない時代の環境にもマッチし、都鄙・貧富・貴賤の別なく老若がいっしょに楽 しめる場として国中をお祭り気分の最中においた。これがナショナリズムの刺激を受け て国際的な競争というかたちで次から次へと催されることになった。 結果から見ると、第二次世界大戦前における万博開催地はパリが 7 回でダントツの 2 トップである。それだけフランスが文化・技術遺産をふんだんに有し、しかも催事の演 出が上手だった。また、パリがヨーロッパの中心に位置し、交通が至便(水上・陸上・ 鉄道)だったことも幸いした。それ以上に、主催者側のフランスがやる気十分だったこ とを忘れてはならない。 ひとたび万博の会場で非日常的な祝祭的気分を味わったパリ市民はウキウキした気 晴らしの楽しさだけを記憶し、市内に大勢が集まることで商売も堅調だった。よって、 拒否反応はない。そして、第三共和政の支配者たちはこの記憶を巧みに使って、国民の あいだで深刻な対立が生まれるたびに、パリ万博の開催で危機を乗り切ることになる。 1855 年こそ中途半端だったが、1867 年、1878 年、1889 年、そして第一次大戦前 にもう一度 1900 年に開催され、入場者数最多を記録する。78 年と 89 年のパリ万博が 67 年万博の基本理念を継承する点では同じだが、植民地展示にウェイトがかかっている こと(植民地獲得)と、安定期に入ったフランス共和政の宣揚というプロパガンダ性が 強まったことである。 会場はシャン・ド・マルス広場、トロカデロ広場、セーヌ河岸、シャンゼリゼ南端、 アンヴァリード広場へと拡大していく傾向を見せた。1889 年と 1900 年の万博が規模の 点で圧巻だった。1889 年の場合、シャン・ド・マルスには産業と美術の展示を中心とす る 115 メートルもの巨大な機械館が建てられ、その横に聳え立つエッフェル塔の下には 多数の外国パヴィリオンが集められ、トロカデロ広場で園芸、オルセー河岸で農業の展 示館が建てられた。アンヴァリードにはフランス植民地や自治領のパヴィリオンが一堂 に集められた。 第2節 都市鳥瞰図にこだわるフランス人 これら多数の会場施設の中で、1889 年万博の最大のモニュメントとなったのはいう までもなくエッフェル塔である。すでに 67 年パリ万博の時からこの催事に関与し、78 年に主会場の玄関ホールやパリ市展示館などを担当していた建築技師エッフェルだが、 89 年のパリ万博では高さ 300mの巨大鉄塔の建設によりスター的存在になる。 このサクセスストーリーは多くの零れ話が詰まっていて、紐解けばおもしろいこと 限りがない。たとえば、デュマやモーパサンなど知識人が建設エッフェル塔反対の陳情 書をパリ市に提出したことは有名である。曰く。 「エッフェル塔は商業主義優先のアメリカでさえ欲しなかったものであり、疑いようもなくパリ の恥である」 それでも、完成後のエッフェル塔は各世界に賛否両論の激論の渦を描きながらも、 大衆的なレベルでは大人気を博し、やがてはパリのシンボルとなっていく。 エッフェル自身は塔について当初は興味を示さなかったといわれる。 「300mもの高い鉄の塔が立つものか! 倒れたらどうする? 芸術都市パリに不似合いの長物!」 3 という酷評があまりに続くものだから、反発したエッフェルが敢然と挑んだという話も ある。これは十分考えられることだ。 いずれにせよ、彼自らが進んでコンクールに応募したのでないことだけは確かであ る。むしろ、パリに 300mの鉄塔の建立を熱心に求めたのは世論のほうだ。その前史は 長い。フランス人は高所からの景観遠望を望む気質をもつ。それは 18 世紀前半のテュ ルゴー図に示されるような鳥瞰図願望である。 「パリの外科手術」とまで呼ばれたオスマンの都市改造は 1853 年から 1870 年まで 続き、万博がしばしば開催されたのは刷新されたパリを国内はもとより世界の人々に誇 示するためだった、と私はかつて[注:前講座「エピソードで綴るパリとフランスの歴史」]言 った。パリと世界のその他の万博を較べるとき、際だった対照がある。それは、会場鳥 瞰図がパリにおいて抜きんでて多いことだ。単に入場者に会場案内を周知徹底させるた めのものではなく、鳥瞰図には必ずといっていいほど都市遠景が描かれている。 19 世紀全体を通じて建築家は 300mを超える塔を建てる夢を描き、実際にさまざま なプランを提出した。イギリスでもアメリカでも高い塔を建てる構想があったにもかか わらず、ほかならぬパリにおいてのみエッフェル塔として実現された点に着目しなけれ ばならない。他の都市の万博よりも華々しく、他のどの都市よりも美しく改造されたパ リを一望のもとに視野におさめたいという願望が、一方で鳥瞰図をつくり、他方でエッ フェル塔を建てる原動力になったといってよいだろう。 工業化が抜きんでて激しかったロンドンで鳥瞰図をつくれば工場の煙突ばかり ― 「都市のおでき」 ― ということになり、景観を愛でるどころではなくなる。煙突・煤 煙・スラム・浮浪者で満ち溢れた住みにくい街では外国人に見せたくなかったのであろ う。ロンドンは住む処ではなく昼間働く場所であり、有産階級はみな住処として郊外に 出ていく。年がら年中、街中に残るのはほとんどすべて労働者であった。 一方のパリは芝居小屋や美術館など都市アメニティが整い、街路や大・中・小の公 園が人々の集合場所となっていた。万博を梃として都市改造を見事にやり遂げたパリは 住民の誇りでもあった。それは特に都心部スラムを一掃して都市の美観を取り戻したブ ルジョア層においてそうであった。ゆえに、彼らが都市美観をこの眼で確かめたく思っ たのは自然の成り行きである。それが 300mの上空からパリを眼下にしてみたいという 願望に連なっていく[注]。 [注]じっさい、塔の頂上部から下界を望めば 150 キロメートルにわたり、パリとその周辺部がパノラマ のようにひろがる。この超然とした高さゆえにエッフェル塔は無線電信やラジオ中継局としての機能 をもつ。それゆえに、何度か巻き起こった解体の運命をそのつど逃れることができたのだ。 だが、それはパリジアン全員一致しての願望ではなかった。パリ人はエッフェル塔 とサクレ=クールを殊のほか嫌った。鉄の塔は近代的であるかもしれないが、歴史の都 に似つかわしくない。この慨嘆は民衆よりも高身分の人々や知識人たちに固有のもので ある。慨嘆の理由について高身分および知識人たちと、民衆とでは違う。 前者が反発した理由はこうだ。オリエント風建築物のサクレ=クールはパリの伝統 的景観にマッチしないし、だいいち無骨な鉄では芸術にそぐわない。この美観論争につ 4 いては後で詳しく述べる。 民衆が嫌った理由はこうだ。サクレ=クールの創建は「騒動の町パリは信仰心がな いから騒ぐ」という政府の極めつけにもとづき、信仰心を市民に植えつけるために造ら れた教会堂である。カトリックは長く時の権力と結びつき民衆を支配しており、パリの 民衆のあいだではすでにカトリックは支持基盤を失っていただけに、サクレ=クールは 憎たらしい長物と映ったのだ。 これら2つの記念碑が今ではパリの象徴となっているのだから、人の意志とは無関 係に作用を及ぼす時の風化作用はまさに偉大であるとともに皮肉でもある。 第2章 巨塔に関する美観論争 第1節 エッフェル塔に向けられた毀誉褒貶の特徴 新しいものにはとかくイチャモンがつく。エッフェル塔もその例外ではない。しか し、エッフェル塔の場合はそれが極端で、最初の設計案の段階(一般応募コンクールで あり、最初から原案が世間に晒された)から反対の嵐に遭った。そして、竣工後となる と、徐々に認められるようになっていく。その賛否をめぐる応酬の中心を占めるのは美 観である。 パリのど真ん中に 300 メートルの鉄塔をつくる応酬にはいくつかの特徴があり、そ れをまず述べておこう。 そのひとつは前述したように、階層による評価の違いである。エッフェル塔の評価 は4半世紀前のパリ都市改造(オスマニザシオン)に対する評価と似ている面がある。 すなわち、身分の高い人や知識人ほど鉄筋構造物を嫌い、中産階級は絶賛し、職人や労 働者は冷淡ないしは無関心だった[注:民衆はサクレ=クールは嫌ったが、エッフェル塔には顕 著な拒絶反応を示さなかった] 。ふつうに考えると、貴顕や知識人はそのレベルが高くなれ ばなるほど、奇抜なものを許容ないしは称揚すると考えられがちだが、他事と異なり、 芸術や建築学に関してはそのリード役を果たすどころか、それへの反発を示すのだ。身 分・階層によって評価が違うことは美観との絡みで非常に重要である。 もうひとつの特徴は、評価者の居住する位置、すなわちパリから遠い処に住むか近 隣に住むかによっても評価が違う。外国人は全体的にみて ― 関心度はフランス国内や パリ市内と較べ低かったにせよ ― 300 メートルを超す長身の鉄塔に驚嘆し、羨望の眼 差しを向けた。遠隔地に住む外国人が反発を覚える例はほとんどなかった。違和感を覚 える外国人は、パリをよく知っている者で、せいぜい古都パリに似合うかな? といった レベルの懸念でしかなかった。 一方、 街中に住むパリジアンは嫌忌と冷淡に二分された。 さらに、三つめの特徴をいうと、計画段階 → 着工段階 → 完成段階 → 万博会期 中の利用段階 → 万博終了後での違いも見られる。すなわち、時間が経つにつれて鉄塔 に対する公衆の評価は是認方向に傾いていく。 5 第2節 鉄を利用した巨大建造物の前史 ここで注意しなければならないのは、巨大建造物一般が争点になっていないことだ。 2 千年の古都パリのど真ん中に鉄塔を建てて周囲の文化環境と調和するかどうかが問わ れているのだ。巨大鉄橋はそれこそエッフェル技師自身の手でフランス各地はおろか、 ヨーロッパ中に雄姿を現わし絶賛を浴びた。それでもって「鉄の魔術師」エッフェルの 名はすでに世に知れわたっていた[注]。峻厳な谷底から百数十メートルも伸びあがり、 強い風圧との闘いを強いられつつ数百メートルの長さの鉄橋を建造してきた技術をもっ てすれば、彼にとって鉄の塔を一本建てるぐらいは容易な業であっただろう。パリの鉄 の塔をめぐっては高さとの争いではなく美観との争いであった。 [注]ボルドー(フランス) 、ドゥロ、ビアンナ、ミリホゾ、タメガ、リオ・クリス(以上5鉄橋は ポルトガル) 、セゲティン(ハンガリー) 、メサジュリー、ショロン(以上、ヴェトナム) 。他の 業績は以下のとおり。1867 年万博の機械館、1878 年万博パビリオン、ニース天文台、ノートル ダム・デ・シャン教会、サン=ジョセフ教会、ユダヤ教会、クレディ・リヨネ銀行本社屋、ボン マルシェ百貨店、カルノー中学校舎、アシェット書店本社屋、ペストの駅舎、自由の女神像(ニ ューヨーク) 、 高さとのたたかいについていえば、1880 年代になると、欧米で高層タワーの建設は 珍しくなかった。アメリカで高さ 169 メートルのワシントン記念塔が建立されたのは 1878 年、当時は他にも多数の建設計画が相次いでいた。早くも 70 年代にフィラデルフ ィア万博に直径 9 メートル、高さ 300 メートルの円柱の構想もあったが、資金が工面で きなくて最後の土壇場にきて計画倒れに終わった。要するに、エッフェル自身において 高さにチャレンジしてみようという志はなかったとみてよい。おそらく、誰かがいつか 試みるだろうぐらいにしかみていなかった。もし、パリという古都ではなく大原野での 高層タワーなら、エッフェル塔が遭遇したような大論争は起きなかった公算が高い。 第3節 美観論争 (1)街中建造物の高度規制 パリの場合は高さと鉄の両方が美観論争の中心テーマになった。高さについては 1889 年の万博計画委員会のコンクール実施要領(1886 年 5 月)の中に条件 ―「300 メートルが可能かどうか」という緩やかなかたちで ― として含まれており、これ自体 はエッフェルがうち出したものではない。 万博開催の決定は 1885 年のことで、建築家ジュール・ブルデは高さ 50 メートルの 電気照明の灯台を乗せた高さ 300 メートルの花崗岩の塔の計画を発表していた。題して 「太陽の塔 Tour du Soleil」これである。 「太陽の塔」は6階建てで、1階の台座部分が 66 メートル、その上がピサの斜塔を細長くしたような塔となり、頂上に灯台が設置され る。圧巻はその塔の役割にある。頂上に特殊な反射鏡をつくり、地上から強烈な電光を 送り、反射鏡でパリ市全体に向け照りだすというのだ。ブルデは能書きを垂れる。 「パリ市民はどこに住んでいても、366 メートルの頂上から送られてくる反射電光 6 の明るさで夜間でも真昼と同じように新聞が読める。 」 これでもってパリは不夜城になり、まさしく文字どおりの「光の都」になるという のだ。だから、 「太陽の塔」なのである。したがって、300 メートル論争の火付け役を演 じたのはエッフェルではなく、ブルデなのである。彼はシャン・ド・マルス広場ではな く、アンヴァリード前広場での建立を考えていた。 この計画を知った政府当局は技術的な可能性を確認しただけで、ブルデ案におそら く何かしら不満を感じたようで採用せず、新たにコンクールを起こしたのだ。政府のほ うでは最初からエッフェルの鉄塔案を採用するつもりでいたらしく、コンクール公告の 15 日後が締め切りとなっていた。設計案の提出に 15 日間ではあまりにも短すぎる。し かし、とにかく百点以上の応募があった。総数 107 件のうちから選ばれたのが果たして エッフェルの案だった。 エッフェル計画が世に明らかになり、着工が間近いことがわかったとたん、計画が 前述の建物高度規制とパリの“歴史的規制”に抵触することがわかった。そこで、後者 についてもふれておかねばなるまい。 パリの高層建築物は過去から暗黙の縛りがあった。すなわち、以前の高層建造物の なかで百メートルを超えるものはアンヴァリードの尖塔の 105 メートルだけである。 パンテオン………………79 メートル ノートルダム寺院………66 メートル 凱旋門……………………50 メートル バスティーユ記念塔……47 メートル ヴァンドーム円柱………45 メートル よって、パリの建築基準の中にセーヌ右岸でノートルダム寺院より高い建造物を建 てるのは畏れ多いとばかり、事実上自粛しようという空気があった。 「聖」なるものを見 下ろしてはならないというのだ。そこにきて、1840 年代の条例で明確に建物正面の道路 幅との関係で高度規制が法文化され、旧都心部では高さ 40 メートルを超す建造物はで きない相談となっていた。 (2)パリのトポグラフィー ここで少し脱線を許していただきたい。セーヌ左岸は川辺からすぐにせり上がる丘 陵となっており、そのてっぺんにパンテオンが乗っかる。セーヌの流れに沿って丘地を 西方に降りていくとアンヴァリード広場に出る。アンヴァリードに尖塔がある。隣がシ ャン・ド・マルス広場である。1000×500mのこの広場は元練兵場ということもあって、 都心からはかなり離れている。だから、この広場ならば 300 メートルを超す建造物があ ってもそれほど奇異には思えない。それでもやはり 300 メートルで、サクレクール寺院 のてっぺん(161+80=241m)よりも高いのだ。あまりにも高すぎて、パリのどこから も見えるという難(利!)点があった。その問題は後でふれる。 パリを考えるとき、街の4つの軸を考慮しなければならない。頭文字で示せば「聖」 「政」 「商」 「知」である。 7 そのひとつは、ノートルダム大聖堂のあるシテ島 ― まさにパリの中心に位置し、 パリの「聖地」である。ここの表徴はほかでもないノートルダム大聖堂である。 シテ島の後ろに従うサン=ルイ島とセーヌ川右岸は貴族の館が軒を連ねる旧邸宅街 であり、いうならば「政地」である。その表徴がルーヴル宮である。 ルーヴルの北に中央市場があり、周り一帯が経済活動の中心をなし、さらに西方の 新開地にブルジョワジーの居住地が拡がる。ここはいうならば「商い地」だ。この中心 核はオペラ座と隣接する百貨店である。今も昔もパリの中心である。 右岸の華やかさに較べ、セーヌ左岸のサント=ジュヌヴィエーヴ丘は教会と修道院 が建ち並ぶ界隈は知識と学問の場すなわち「知の府」となっている。地味だが、独特の 雰囲気を漂わせる。 「知の府」こそ、パリをヨーロッパの文化都市として伸し上げる重要 な要素となった。その中核がパンテオンとソルボンヌである。 とかく激しい毀誉褒貶に晒された 19 世紀後半に達成されたオスマン都市改造だが、 彼がパリに対しておこなったことで忘れてならないのは、上記4軸がバラバラになって いて連絡がつかない、もつれあった道路網に大胆にメスを入れ、広い幅の道路を貫通さ せることによって相互連絡できるようにしたことだ。 オスマン都市改造でパリは完成したか? というと、そうでもない。芸術・美観の風 趣が欠け、所々が櫛抜け状態のまま放置されている。都心部の充実ぶりに較べ周辺がお 粗末である。セーヌ左岸の都心から離れいく部分に未だ空白地帯あり、さらに北端モン マルトルから東北の山並みに続くベルヴィルに畑地が拡がっていたことだ。なかでも、 セーヌ左岸の無味乾燥ぶりがひどく、右岸の華々しさと好対照をなす。これら空白状態 を埋めたのがエッフェル塔とサクレ=クール寺院であったのだ。 いうならば、エッフェル塔はセーヌ右岸に「聖」なる場所をつくりだしたのだ。北 半球の都市は西に、西に引っ張られるかたちで成長していく。人間と街は太陽と光を求 め、かつ煤煙を避けるために西側偏重の動きを示していくのだ。まさしくエッフェル塔 は(凱旋門もそうだが)この“パリの西漸運動”の牽引軸の中心となった。この鉄塔の 眼下一帯は、出世を果たした新興ブルジョワジーの住宅地となっていく。 一方、パリの北辺は市内でいちばん高い丘地が西から東へと連なっている。モンマ ルトルの丘に鉄筋コンクリート製のサクレ=クール(着工 1876 年、竣工 1914 年、序幕 1919 年)が聳え立ち、新たな聖地となった。この丘からパリ市街に降り立った麓に歓楽 街が拡がるものだから、パリ市内北端のこの新聖地は「新性地」を見下ろすことになっ た。あたかも窘(たしな)め諭すかのように―。反面、市中から見て丘の裏地のほうが 高級住宅地となっていく。 それにはここが南斜面になっていることもある。 北半球の人々 はいつも太陽と光を求めて移動していくのだ。 (3)隠れ場を失ったパリジアン 作家モーパッサンは自分がちっとも好きではないエッフェル塔のレストランでしば しば食事を摂った。彼はエッフェル塔の建設に反対する知識人の一人としてキャンペー ンを張った人物である。それを知っている人に窘められると、彼は言った。 「私がパリで 塔を見ないで済む唯一の場所がこのレストランだから」 、と。目障りなものを避けるのは 8 その中に入ってしまったほうがよい …。 まことにいい得て妙あるブラックユーモアだが、 事の実相を見事に言いあてているようにも思える。 じっさい、パリで塔を見ないためには無限の配慮をしなければならない。どんな季 節でも晴れた日はもとより、霧、黄昏、曇り、雨の時でもどんな地点からでも、また屋 根、円屋根、葉むらのつくるどんな風景が隔てていても、塔は常にそこにある。塔はパ リのどこにいても人の眼に入るのに、塔上からの視線を避ける方法はない[注]。 [注]現在の日本でもそうだが、高層マンションを背にもつ戸建て住宅の住民はいつも監視され ているようで気持が落ち着かないのだ。椿山荘の楼閣のてっぺんから覗かれる浜離宮の“哀れさ” には気の毒さを思い起させる。 ところで、エッフェル塔は見世物か、芸術作品か、美術館(博物館)か?―― その いずれでもない。敢えていえば人工の展望台、しかも空中に浮かぶ展望台である。そこ から見下ろす観察者すらも黒影となって中空に浮かび上がる。見下ろしているようで下 から見つめられてもいる実体なのだ。すなわち、360 度が視界に収まる開放感を満喫で きる一方で、実に身の隠し場のない被観察者ともなる。高壇に立つ成りたて弁士が不特 定の多数の聴衆を前にする緊張心理に似ている。 美術館を訪れる鑑賞者は閉じられた部屋の中で眼前にくりひろげられる、黄金の剣 や宝飾物、豪華な椅子や寝台、置物、壁掛け、衣装、壁画を愛でる。それは、観察者が けっして所有することのできない豪華物品と雰囲気の所有感を疑似体験できる歓びを伴 う。閉じられた空間だからこそ、こうした歓びが生じるのだ。 レース編みのように「針金」で織られた鉄塔の中では、こうした美術館の密室にお けるような所有感は味わえない、眼下に広がる景色全体を味わうことができても、視線 の先にある街並みや緑地の微細さは確かめることはできない。せいぜいのところで、遮 るもののない視界の広さに由来する解放感である。 第4節 石と鉄の「美」争い (1)造形美 鉄橋の技師エッフェルは構造材として鉄を盛んに駆使した。構造材としての長所を 鉄が多くもっていたことのほかに独特の造形美を有していたからだ。よって、19 世紀後 半における美観論争の主要な争点は「石の美」か「鉄の美」か、ということになる。 ところで、われわれは日常生活でいつも「美」について論議する。だが、これは哲学 上の永遠の主題「真」 「善」と並んで、古今東西を通し万人が一致するに至らない難物で ある。なぜなら、 「美」は人間に固有の観念であることはまちがいないが、人間の道徳観 や心理、快・不快の感覚と密接に絡んでいるため、生物学的な影響や時代・文化の影響 下におかれていて、不変不動の意識ではないからだ。 「真」 「善」 「有益」 「快適」はすべて「美」の感覚につながっている。まず快適につ いて。凍死するような厳寒の最中に身をおいている人は眼前に現れた氷山に「美」を感 じることはないだろうし、また、失恋の悲嘆な思い沈む人が何事を見ても「美」を見出 すことはないだろう。 「美」は道徳観との絡みも避けがたい。殺人行為の中に「美」を見 9 出すのは精神倒錯者でないかぎり、むりだろう。また、 「美」は時間と空間の変化の影響 も免れることはできない。端的にいえば、西洋の「美」と東洋の「美」は違うし、ギリ シャ=ローマの「美」と中世ヨーロッパの「美」は違う。 「自然美」も「造形美」も人によってとらえ方は違う。同じ西洋でもギリシャ時代 の「美」と中世期の「美」は違う。ルネサンス期、バロック期、近代進歩主義の時代で も「美」は移ろいで行く。ある人は何もしない、加えない自然のままがよいとし、別の ある人は人為の加わらないものに「美」を感じない。たとえば、深山幽谷の自然に「美」 を見出す日本人とヴェルサイユ庭園やシェーンブルン庭園の幾何学的な整列にしか「美」 を見出さない西洋人との対照を考えてみよ。同じ文明、また同じ人間でも「美」意識は 変わる。あまりに見慣れてしまうと、 「美」は飽きられ、次の瞬間に別の「美」を求める ようになる。だからこそ、流行は起こるのである。 自然と造形物は「美学」の主要な対象である。 「美」を掘り下げてみる価値は大きい。 19 世紀後半のエッフェル塔時代において争われているのは「造形美」か「機能美」かで ある。予め結論づければ、実はエッフェル塔が旧来の「造形美」に対抗して「機能美」 を措いたのであり、それの確立と周囲の説得のために彼は苦心惨憺の思いをしたのだ。 「造形美」は太古の昔からある観念である。昔の人々は「神」との絡みにおいて人 工の造形物を愛でた。 「造形美」というとき、旧来の考え方は建造物の外形(荘重さ、天 と地の接近・離隔、背景としての自然との取り合わせ) 、石や木の造形物上に刻まれた装 飾や彫像ですべてであった。ところが、19 世紀になって鉄がふんだんに生産されるよう になって[注]、造形物の材料において主流の地位を占めるようになった。そこで、この 鉄でできた造形物に美を与えるかどうかの問題が新たに浮上したのである。 [注]1856 年、イギリス人ヘンリー・ベッセマーが転炉を発明し、圧延することのできる強靭な鋼 鉄を創出した。いわゆるベッセマー製鋼法がこれだ。これを機に製鉄という大産業が生まれ、あ らゆる分野で鉄鋼製の機械・機具、橋梁、建造物が誕生した。さらに、1864 年にドイツ人ヴィ ルヘルム・ジーメンスとフランス人ピエール・マルタンが反射炉を発明し、鋼鉄中の不純物を焼 き去り、品質の格段に優れた鋼鉄を生産した。さらに、ジーメンスは電気炉も発明して現代とほ ぼ同じ高品質の鋼鉄を生産した。それまでは鋳鉄か錬鉄しかなかったのに較べ、高品質の鋼鉄を 大量生産(安価に)できるようになり、特殊鋼は合金をつくりだすことも可能になった。 観察者が被造物の全体を眺めるのに離れたところに身をおいて造形美を論じるとき、 鉄製の造形物と石造の造形物の間で問題は生じないであろう。たとえば、昔の石造の神 殿の「美」と鉄製の神殿の「美」を比較することはできるか? ―それはできる。審美の 対象が鉄の橋、鉄製ドーム、鉄の駅舎であっても同じことだ。観察者は被造物の外に身 をおいて眺めまわすという点で、被造物が石造だろうが、鉄製だろうが特段の差異は生 じない。 しかし、ここで問題なのは、被造物の中に観察者がすっぽり取り込まれてしまうほ どに巨大な造形物について問う「美」である。観察者が外から被造物を眺める場合と被 造物の内部から眺める場合は分けて考察しなければならないだろう。 この考察の前に鉄製の構造物についての特徴を論じておかねばならない。この特徴 10 を論じる際に不可避的に出てくるのが機能美の問題であるからだ。つまり、従前の造形 美と異なる次元の美観が登場したのである。それは鉄の性質と関連する。鉄は優れた性 質をもつ。たしかに、風雨に対する耐久性や耐火性の関連で他の建材を凌駕していた。 それ以外に鉄はどのような長所をもつのだろうか。箇条書き的に整理しておこう。 ① 火災の危険を軽減できる ② 重量を軽くでき、基礎工事のコストを軽減できる ③ 持久力と弾力に富むため風圧に耐えるし、鉄骨間に風を逃がせば全く問題ない ④ 折り曲げや曲線化も容易で、建築計算や造形に好都合 ⑤ 部品組み立てが容易で、破損・腐食部分の取り換えも可能 ⑥ 工業生産に適し、時間と人手の節約につながり、引いては建造費を節約できる これらに一瞥をくれるだけで、鉄が建材として石に勝っているのは明瞭である。木 造や石造との関連で鉄骨が圧倒的に優越している例をみるのに、野戦用の組立式橋梁を 思い浮かべてみればよい。それは鉄によってのみ可能である。組み立て橋梁は材料を現 場に大量に運び込み、迅速に組み立てねばならない。しかも、重量物が上を通過しても それに耐える応力をもたねばならない。石材ではとうてい無理な相談となる。 鉄が石に優っているにもかかわらず、建造物に鉄の利用が渋られたのはひとえに伝 統の惰力、特に造形美とのかかわりのゆえである。鉄骨を軸とし、表面に薄い石板を貼 りつける工法(疑似石造)がとられるのはまさに伝統的な審美観のなせるわざである。 また、鉄は赤錆が嫌われた。錬鉄や鋳鉄は風雨に曝されるとすぐに錆びる。大砲や 扉のように堅牢さを必要とするときは青銅や真鍮が用いられた。しかし、鋼鉄の出現に より錆びの問題は大幅に改善された。 もうひとつ、伝統の惰性との関連で忘れてならないのはギルドの圧力である。宏壮 建造物といえば石工組合が独占した部門であり、この道一筋で腕を磨いた連中の独断場 であった。彼は石切りから研磨、そして鑿打、浮彫、彫像までの全コースを熟せる能力 をもち、また、そうした自負にふさわしい実力をもっていた。それが鉄工技師によって 失職させられては堪ったものではない。陰日向に抵抗するのは当然でもあった。 (2)鉄は醜悪! の大合唱 現代人の目から見て、万博のシンボルマークとして 300 メートルの鉄塔を建てたと ころで、なぜ大騒ぎする? という疑問をもつ人は多いだろう。しかも、それは恒久的施 設ではなく、計画では 20 年後に姿を消すことになっていた。万博終了後すぐに解体で きないについては、建造費がかかっているのだから、その償還のために入場料を徴収す る必要があったからだ。瞬時に建て、瞬時に消えるものならば大論争を呼ばなかったは ずだ。 湧き起こった猛反発は常軌を逸していた。 「錯乱」 「狂気」 「無意味」 「醜悪」の罵声 は知識人・文化人の側から起きたものだから、新聞の紙面を賑わせ世論を誘導するにい たった。当時の新聞は、現在の多様なメディアから成るマスコミとは比較にならないほ どの影響力をもっていた。新聞は政治・経済・社会・風俗趣味・科学・演芸・文学・名 士ゴシップなどすべてを扱った。世界中の人々の憧れの的で、美の象徴たるパリに街の 11 秩序と調和を大きく狂わす粗野な鉄の塔が化け物のようにどっかり街中に姿を現わす、 と聞いただけで人々が怒りで身を震わせないほうがおかしい。 反対の急先鋒がオペラ座の建造者で有名なシャルル・ガルニエである。オペラ座が 創建された 30 年前、この計画が同じく「無国籍」 「アナクロニズム」 「真似もの」とい った悪罵を招いたが、今や、人々はそのことをまったく忘れ、ガルニエ自身はパリ人の ヒーローとなっていた。ついでにいっておくと、オペラ座の建設工事は非難を避けるた めにシートに覆われた状態で作業がおこなわれたし、批判や非難について独裁皇帝ナポ レオン三世が世論に睨みを効かせていたのである。 そのことをガルニエ本人はもとより、 世の人々は忘れてしまったのだ。 流行とか評価とかはそういうものである。塔の創建時にこれ以上はないほどに罵詈 雑言のシャワーを浴びたエッフェル塔自体が今やパリの象徴となっているのだから。 ともあれ、計画に寄せられた批判と反対の声に耳を貸そう。 「周囲のものを台なしにしてしまう悪趣味」 「空っぽのシャンデリア」 「石やレンガで覆う前の、建設中の工場の骨組み」 「じょうご形の金網」 「無用で醜悪」 「芸術性に欠ける足場」 「発狂するピラミッド」 「商業主義の想像力」 ガルニエをはじめとする錚々たる顔ぶれの文化人たち 47 名が連名で当代随一の有 力紙『ル・タン』に「パリを守れ」というタイトルで抗議文を掲載したのだ。こうなる と、まさに美観論争の枠を出て一大スキャンダル騒動となった。 いわゆる名を馳せた知識人・文化人なるものは、今の日本でもそうだが、彼らが功 なり名を遂げている以上、既存の秩序を脅かす奇異なるものの出現に警戒心を懐く保守 主義者にほかならない。その点で往時の石工組合と同じだ。彼らが飛び出したばかりの 少壮気鋭の徒であったなら、このような悪罵慢罵の大合唱に合流したとは思えない。著 名人たちは、この塔の後に続く新しい時代の到来が自らの地位を脅かすのを警戒したも のと思われる。 こうした酷評を浴びたエッフェルは、それまでさほど乗り気ではなかった鉄塔構想 に本腰を入れて臨むようになる。この悪評に立ち向かうにはよほどの覚悟が必要である ことを悟ったのだ。 しかし、前述したように、政府はエッフェルの創案に賛同し、即座に採用した。そ のわけは、政府自体が安定期に入りはじめた第三共和政を支える産業資本家の利害を代 弁し、鉄鋼業こそ彼らの社会的・経済的浮上の後押しをする花形産業であったからだ。 第3章 エッフェルの挑戦 — 機能美 第1節 エッフェルの反論 さて、エッフェルの反論の検討に移ろう。それまで無欲だったエッフェルは「芸術 12 家の抗議文」を目にするや、敢然とうって出る。彼は『ル・タン』紙 1887 年 2 月 14 日 号に反論を掲載した。少々長くなるかもしれないが、19 世紀末の美観論争の様相を知る うえで重要であるので引用しておこう。 塔の建設に抗議する芸術家の動機は何か? 無用で醜悪な塔とは?…無用かどうかについて は後で述べよう。ここでは芸術家の領分である芸術性について語ることにしよう。 まず、彼らの判断の根拠があいまいである。そもそも、塔はまだ完成していないので、誰もみ たことがないのだから、何人もどのようなものになるかは予想はできないはずだ。今のところ、 一枚の設計図でしか知ることができないのだ。たとえ 10 万部刷られていようと、建造物の高さ や形態が一般的なものからかけ離れたものである場合に、単なる設計図からその芸術的効果を十 分に判定することができるであろうか? さて、塔が竣工したあかつきに、美しいものとして関心を呼ぶようになったとすれば、芸術家 諸氏は早急に反対運動に加わったことを後悔しないだろうか? 塔を実際に見てから公正に考 え、正しい判断をしていただきたい。 ここで私の考えと予想を述べる。私は塔には独自の美しさがあると信じる。我々は技師である が、技師というものは建設の際、耐久性のみを念頭におき、優美なものを造ろうとはしないとお 考えではないだろうか? 物理的な力の条件を十分に考慮すれば、つねに調和ある結果が得られ るのではないだろうか? 建築美学の第一原則は建造物の基本的な輪郭がその目的と完全に適 合していることであろう。 さて、この塔に関しては、どのような条件を考慮したのだろうか? 風圧に対する抵抗である。 巨大な基礎部分から出ている、塔の4つの稜線は頂上に行くにつれ細くなっているが、力強い美 しさが感じられるものと思う。全体に大胆な構想であることがはっきりわかるだろう。鉄骨が複 雑に組まれているのは強風に対する抵抗を強め、塔の安定を図るためである。 塔は人類史上、最高の建物となるだろう。壮大というべきである。エジプトで称賛されている ものがなぜパリでは醜悪なものとなるのだろうか? 私にはどうしても納得できない。 抗議文によれば、塔という野蛮な塊がノートルダム大聖堂、サント=シャペル聖堂、サン=ジ ャックの塔、ルーヴル宮、アンヴァリードの円天井、凱旋門などの歴史的建造物を押し潰すとい う。なんと大げさな! 笑いがこみ上げてくる。ノートルダム大聖堂を眺める場合は前庭から見 る。大聖堂の前庭に立つ人は、シャン・ド・マルスにあるエッフェル塔は目に入らないだから、 エッフェル塔がその妨げになるとは考えにくい。 そもそも、高層建築が周辺の建物を押し潰すという考えは芸術家のあいだにもひろまっている が、これはまちがいである。たとえば、オペラ座のほうが周辺の建物に押しつぶされているよう には見えないだろうか? じっさいはその逆で、建物は本来の高さ 15 メートルのように見える し、凱旋門がその 3 倍の 45 メートルと納得するには少し頭を働かさなければならない。 最後に、 「無用」の問題であるが、芸術論ではないので、抗議文と一般の人々の意見を対比さ せようと思う。 率直にいって、これほど人気のある設計図もないと言って自慢するつもりはないが、パリでは ごくふつうの人々のあいだでもこの計画が知れわたっていることを毎日実感している。外国でも、 たまたま旅行先でその反響に驚くことがある。 13 有用性については学者の判断が求められるが、彼らの意見も全員一致している。塔は天文学、 気象学、物理学の観測・研究に寄与するとみられるし、監視塔としても役立つだろう。つまり、 今世紀における工業技術の進歩の輝かしい証左となるであろう。 われわれの時代になって初めて、ここ数年間に正確な計算をし、かなり精密に鉄を加工するこ とによってこれほどの大事業を実現できたのだ。 この現代科学の精華ともいうべきものがパリ市内に立つことはパリの栄光にとって無に等し いことであろうか? …[中略]… フランスは単に娯楽本位の国ではなく、橋、高架橋、駅や近代的な工業を造るために世界中か ら技師や建築技術者を呼びよせる工業国であることを明らかにする必要があろう。この意味でエ ッフェル塔は丁重にとり扱うべきであろう。 エッフェルは機能美を造形美に代置する一方で、鉄の塔を近代科学の勝利! と謳い あげる。鉄塔に芸術性があるかどうかについては、そんな基準は時代とともに動くし、 今の世でだれが判定するかによって変動するものだともいう。それよりも、最先端の技 術の所産を大胆に展開することによって「19 世紀の首都」と賛美されるパリの威信をい っそう世界中に誇示すればよいのだ。現に、パリ人の大多数と外国では大評判をとって いるのではないか、と胸を張って見せる。 以下は筆者の解説である。とかく芸術と科学は対語として扱われがちだが、この両 者は異なったカテゴリーに属するもので、芸術と科学はけっして矛盾するのではなく、 科学の粋が世に出現すると同時に、芸術的な視点からみてその粋が芸術になじむかどう かが問われるようになる。つまり、芸術が先にあって科学が存在するのではなく、科学 があって芸術(論議)が後追いするのである。最新鋭の飛行機や高速鉄道の電車の流線 形をみて「芸術的に劣る」と評価する人はまずいないであろうし、 「劣る」と評価された からといって、飛行機や新幹線の車両の外形が凸凹型になるとはとうてい思えない。 第2節 自然美、芸術美、技術美、機能美 そもそも、芸術美は芸術的所産に帰属させられた「美」であって、これは芸術の本 質上、人間が美的に価値あるものをつくりだそうとする意図をもって、自然の与えられ た素材を加工することで成立する。自然美と芸術美は等しく「美」であるかぎり、究極 において合致し、帰一するものとして統一的原理のもとに包括されるのだが、その対象 の相違によって両者がひとまず区別されるのはやむをえない。 芸術は単なる自然と違って広義の技術に属し、 美的価値あるものを制作する技術 (美 的技術)であるから、その固有の「美」は一種の技術美であるともいえるが、本来の芸 術作品と別に扱われる技術的工作物(機械・道具・乗物・建物・橋梁・道路など)も一 種の「美」を具備すると考えてさし仕えない。芸術家のいう「美」とは役に立つ、役に 立たないという目的論的見地を廃し、とにかく自分の目で読み込んだ自然の「美」を造 形において表現することにほかならない。 一方、工作物の「美」はその機能と一体のもので、機能を離れては考えられない。 その「美」の元をなす機能美とは実は「技術美 technical beauty」にほかならない。こ 14 れは近代における工業生産技術の目覚ましい発達に伴ってようやく注目されるにいたっ た観念であり、その「美」の説明も一定しないが、自然美と芸術美の中間に位置すると 考えて差し支えない。 技術的所産は実用性を目的として制作されるが、それが一定の秩序と法則に従って むだなく構成され、その機能を十分に発揮するならば、一種独特の「美」を成立させう る。この「美」は芸術家によって後追い的に発見・確認されるものであって、芸術家に よって先験的に創られるものではない。すでに頭脳の硬化した知識人・文化人によって 美醜の判定を受けるものではない。だいいち、彼らには工作物の機能のメカニズムがわ かっていない。 万博とは、産業技術の「美」を展示する場であり、その意味でこの美を一か所に集 中して、そこを訪れる人々に誇示する場であり、その意味でエッフェル塔は完全に万博 の精神に合致したのである。 第3節 300 メートルへの挑戦 喧々諤々の世評につきあっている暇はない、先を急ごう。1886 年 7 月、政府、パリ 市、セーヌ県の代表とエッフェルとのあいだに建設契約が交わされた。かくて、89 年 3 月末日に引き渡さねばならなくなった。ということは、場所の選定と現地調査期間を含 めて工期は 2 年 8 か月しかないことになる。鍬入れ式がおこなわれたのは 87 年 1 月 28 日。和暦でいえば明治 20 年、まさしく鹿鳴館時代にあたる。 工事は始まった。脚を支える台座は、地下 25 メートルまで掘り下げ、そこに潜函を 沈めコンクリートを流し込んで造り上げた。4つの台座の完成に 5 か月かかった。残り 期間は 1 年 10 か月しかない。しかし、エッフェルは焦らない。事前にパリ郊外ルバロワ の自社工場で準備した鉄骨をシャン・ド・マルスに運び込み、ここで組み立てる工法(プ レハブ)に拠った。その鉄骨には一つひとつリベット用の穴があけられ、現場で締めあ げるのだ。穴の総計は 250 万個にもなり、穴の位置は1ミリメートル未満の誤差しかな く、 ぴったりボルトで締めることができた。 この組み立て方式は工期の短縮だけでなく、 腐食などで取り換える必要が生じたとき、難なく補修できる利点があった。このプレハ ブ工法は鉄橋建設で培われた新式のものだった。 軸受けには鋼鉄がつかわれたが、部材の大部分は最新の鋼鉄ではなく錬鉄であった。 錬鉄は高熱が得られない時代のもので鉄鉱石を反溶融状態にしてつくられ、炭素成分が 少なかった。鍛えて鋼鉄に較べ強度は落ちるが錆びにくく、加工が容易であり、大量生 産になじんだ。鉄材の総重量は 7,341 トン。より軽量でしなやかな鋼ではなく、錬鉄の 大きな部材が一つひとつ組み立てられているのだから、現代の工法からみると少々重々 しく無骨に見えるが、塔の下部では部材にレリーフ模様を彫り入れたり、アーチ形や透 かし組み物が多用され、当時なりに美術的であろうとする工夫が凝らされていた。 そのせいか、遠くから見るとなかなか印象的で、台座から立ち上がる4本の脚がつ くる稜線が弧を描いて上にのび、向こう側の空が透けて細長い先端が虚空に消えていく 効果をもたらした。まさに“鉄のレース編”と呼ばれるゆえんである。このころになる と、 「発狂するピラミッド」の酷評はすっかり影を潜め、毎日、見物客が詰めかけた。多 15 い日で 3 千人を超えた。 建設が進むにつれ、下層から順に赤茶色の塗料が塗られていく。塗装工事は吹き付 けではなく刷毛塗りの難工事であった。全表面積 20 万平方メートルに 50 トンもの塗料 を要した。1888 年 12 月、それまでの人工の構造物で世界一のワシントン記念塔を抜い た。そして、翌 1889 年 3 月 31 日、全高 300.65 メートルが無事落成する。一か月後の 5 月 5 日ははやパリ万博の開幕であった(~11 月 6 日) 。エレベータは少し遅れて竣工し、 操業開始は 5 月 26 日に動き出した。 工期 2 年 2 か月は驚異的といってよい速さである。 1 日平均 150 人の作業員が冬は 9 時間、夏は 13 時間も働いたから、現代では考えられない長時間労働であった。ここにも 「良質のものを安く早くつくる(良・廉・早) 」という近代の合理主義が見事に貫徹して いるのである。転落事故は 1 件、それも事故というよりは事件といったほうがよい。眼 下にフィアンセを見つけた工事人がカッコよさを見せつけようと、サーカス曲芸師気取 りで欄干を歩き出したところ、突風に煽られて 100 メートル下に転落死したのだ。 完成したころにはエッフェル技師はまさに「時の人」となり、社交界のトップスタ ーに躍り出た。エッフェル塔がパリ万博最大の呼び物となったのはいうまでもない。け っして安くはない料金にもかかわらず、半年の会期中にエッフェル塔に昇った人の数は 200 万を数えた。 第4節 新機軸 エッフェル塔には近代科学の粋が集められた。以下、逐一説明は省略し、装置を挙 げるにとどめよう。 ① エレベータ … 出現は 1853 年 Othis, 1861 年の蒸気力エレベータが登場 ② 夜間のガス灯イルミネーション … 記念物を内部から照らす草分け的存在 ③ レストラン …… 仏・英・露・アルザス…英(!?)とアルザス料理が異色 ④ 電信局 ……… 電報 ⑤ 郵便局 …… 1 日に 1 万通の絵葉書が世界各地に送り出された ⑥ 新聞発刊 ……『ル・フィガロ』…塔の2階に編集室と印刷所 ⑦ 登頂証明書の発行 ⑧ 芳名録 …… エジソンも署名。寄贈した蓄音機にエジソン自身が吹込み 第4章 塔の延命のための努力 第1節 救いの神としての気象学、空気力学、航空力学 1889 年の万博が終わると、エッフェル塔への熱狂も一気に冷めた。1990 年の客足 は万博時の5分の1の 40 万に落ち込む。 所詮はお祭りの出し物の一つにすぎなかったか ら、宴の後となれば冷めいくのは当然だった。しかし、1900 年の万博がまたもパリで開 催されることが決まり、さしあたっては大丈夫という見通しがあったのは幸いだった。 16 問題はその後である。20 年後の契約切れ(1909)とともに塔が解体される運命にあ ることをエッフェル自身は十分に承知していたため、なんとか塔の延命を図るべく思案 を重ねた。万博の翌 1890 年に気象観測所が頂上に設置された事実を見れば、彼がここに 活路を見出したのはまちがいない。このおかげで気圧、風速、風向、風雨のなどの測定 と記録が可能となった。エッフェルはパリの鉄塔だけでなく、郊外のセーヴル、南仏コ ート・ダジュールのボリュ、ジロンドのヴキ、ブルターニュのプルマナ、スイスのヴェ ヴェイにも観測所を所有しており、西ヨーロッパの気象学の発達に大いに貢献した。 エッフェルが鉄塔において他に利用価値を求めた分野は空気力学である。突風は怖 い。19 世紀後半に高層建築物が増えはじめると、突風対策は建設業者にとって焦眉の課 題となっていた。さしあたっては経験と勘に基づいて設計をおこなっていたが、空気力 学については始まったばかりであまりよく知られていなかった。また、エッフェルは塔 の下に風洞を設置し、ここに人工の風を起こして飛行機の翼型とプロペラの実験をおこ ない、20 世紀の最初の 10 年間の航空力学の発達に大きく寄与した。これはきわめて重 要なことだが、述べると長くなるのでやめたい。 第2節 無線電信局、ラジオ放送局、軍事利用 エッフェル塔の有用性が人々の心に刻まれたのは、誕生まもない電信を通じてであ る。塔の4階に軍部が最初の信号通信機を設置したが、すぐに無線電信施設にその座を 譲った。1898 年 10 月、エッフェル塔とパンテオンの間で無線連絡をおこなった。実験 は一応の成果を挙げた。 第一次大戦前夜、電信局は国土をカバーする電信網の軍司令部となり、通信を傍受・ 記録するセンターとなった。戦争中の塔の有用性には図り知れないものがあった。ドイ ツ軍の侵入は部隊相互間で交わされる通信の傍受によりキャッチされた。第一次マルヌ 会戦(1914 年 9 月)では電信局がキャッチした情報のおかげでドイツ軍の動静が察知さ れた。パリ軍防衛司令官ガリエニ将軍はパリのタクシーを動員して予備軍を移送し、ド イツ軍の侵攻を阻止することができた。塔を舞台とする電波の冒険は戦後も続き、塔は ラジオ放送、ついてテレビ放送の重要拠点となるにいたった。 この軍用無線電信を研究し指揮した人物がギュスターヴ・フェリエ(1868~1932) がいる。名前がギュスターヴ・エッフェル(1832~1923)に似ているため、エッフェル は無線電信までやっていたのか? という誤解をしばしば生んだ。 エッフェル塔を科学的実験場所として国防ばかりでなく基本的分野においても積極 的に利用することによってエッフェルは鉄塔の有用論の立場を強めていった。 第3節 建造物から文化遺産へ エッフェル塔の誕生は、今から見ると異例のように思われる。これは建築史上稀な 事業であるが、この建物は人間の活動のための施設でもなければ、特定の用途のための ものでもなかった。建物の高層と施工の唯一の理由は、当時の建築技術の水準を遥かに 超える 300 メートルの塔を建ててフランスの力量を示し、世界を驚嘆させるためであっ た。端的にいえば、見世物、技術の見栄を張るためである。技術の中に建築と鉄骨構造 17 に関する教育的資料である。塔は当時不評だった鉄骨材料に逆に多く長所があることを 実証した。数度にわたる補修工事を経て、塔は構造体のもつ柔軟性を示した。予想に反 して塔は、一時的建造物に適しているとされた鉄骨構造の建物が長く残ることを明らか にした。つまり、塔は、鉄骨が必ずしも敬遠される材料ではないことを示したのである。 塔の歴史の初期には建設者エッフェルはつねに取り壊しの脅威に晒されてきた塔を 熱心に保存しようとした。塔は何回も骨組みや外観が変化した。それにもかかわらず、 それと矛盾することだが、歴史的・文化的遺産としてどう扱うかの問題が生じた。真の 文化遺産政策の条件とは、歴史建造物が社会生活に根を下ろすことである。エッフェル 塔が 19 世紀と 20 世紀の激動の時代を生き抜いたということは社会的に認められたとい うことを意味する。 エピソード (1)女スパイ、マタ・ハリ逮捕……フェリエはカネに糸目をつけず、無線電信網を全 国に張り巡らせ、情報をエッフェル塔に集めた。1915 年、塔を経由した暗号文を解 読し、当世の人気踊り子 Mata Hari(暁の目)が独軍スパイと睨まれ逮捕された。 (2)広告塔……1925~36 年、夜間照明灯により縦書き文字で「シトロエン」の広告塔 となった。シトロエンは一躍世界に有名になった。 (3)パリは燃えているか?……1940 年 6 月 23 日、ヒトラーがお忍びでパリを訪問し (たった2時間) 、エッフェル塔を見物。ブールジェ空港を飛び立つとき、 「もう一 度パリを見たい」と上空を旋回させた。ヒトラーは独軍がパリを明け渡すとき、占 領軍司令官にパリ爆破命令を出していたが、司令官はヒトラーが気狂ったと思い、 破壊命令に従わなかった。ヒトラーの電話命令が「パリは燃えているか?」である。 (4)空飛ぶ人間、パラシュート訓練……1912 年 12 月、ライシェルトなる男が蝙蝠衣 装を着用して2人の立会人のもとで欄干から飛び降りたが、地面に叩きつけられ即 死。1928 年 3 月、時計職人マルセル・ガイエがパラシュートをつけ衆人監視のも とで降下したが、パラシュートが開かず墜落死する。 (5)自殺の名所……こうした高所が自殺の場になることは当初から予想されていたこ とで、 厳重に監視されていたが、 年当たり 4 人ずつの割合で身投げ自殺がつづいた。 最近はフェンスが設けられ越せないようになり自殺者は減っているという。運のよ い(自殺志願者にとっては運の悪い)人もいるもので、これまで落下の途中で何か に引っかかって助かった人もいる。 (c)Michiaki Matsui 2015 18
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