ジョン・メイナード・ケインズとは 何ものであったのか

64
《学際人の肖像
ジョン・メイナード・ケインズ》
ジョン・メイナード・ケインズとは
何ものであったのか
中村 達也
◆◆
「ジョン・メイナード・ケインズは、経済学者でもあった」など
と書くと、いかにも奇をてらった物言いと感じるかもしれない。そ
れと言うのも、彼は、まぎれもなく20世紀を代表する経済学者の一
人であるし、その著『雇用・利子および貨幣の一般理論』
(1936年)
は、まぎれもなく経済学史上の古典の一つと言っていいからである。
ところで、当のケインズは、そもそも自分自身をどのようなものと
して意識していたのであろうか。
よく引き合いに出される、ケインズの『人物評伝』(1933年)の
中の一節を見ることにしよう。
「経済学の学術専門書には、大きな教育的価値があるかもしれな
い。多分われわれは、各世代ごとに一冊の学術専門書を必要とす
るだろう。しかし、現実の経済は絶え間なく変化するものであり、
現実から遊離した経済理論がまったく不毛であることを考えれ
ば、経済学が進歩し有用であり続けるためには、新しい経済学を
構築しようとする者が書くべきは、学術専門書ではなく、むしろ
©2016 Institute of Statistical Research
ジョン・メイナード・ケインズとは何ものであったのか
65
John Maynard Keynes(1883−1946)
パンフレットやモノグラフの方ではなかろうか。……経済学者た
ちは、四つ折り版の大著の栄誉を、ひとりアダム・スミスだけに
任せればよいのであり、その日その日の出来事をつかみ取り、パ
ンフレットを風に吹き飛ばし、常に時間の相の下にものを書き、
たとえ不朽の名声を得ることになったとしても、それは偶然によ
るほかないのである」。
この一節は、ケインズの師であるA・マーシャルを論じた章の中
のものであるが、ケインズ自身もまた、まずは時々刻々に生起する
現実問題への有効な政策を書き連ねる時論家・経世家として自らを
意識していたのではあるまいか。彼の名を一躍世界中に知らしめた
のが、他ならぬ『平和の経済的帰結』(1919年)であり、これは、
第一次大戦後における戦勝国の対独賠償の無謀さを痛烈に批判し
た、まさしく時論の書・経世の書であったし、それ以降も、不況・
雇用問題、金本位制復帰への対応策等々をめぐって、いくつものパ
ンフレットを書き連ねていったのである。
©2016 Institute of Statistical Research
66
学際
第2号
しかも、それらは、時々刻々に変化する現実を対象にしたものだ
からして、相互に矛盾することさえあったのも不思議ではない。
『平
和の経済的帰結』の中で、ロイド・ジョージ首相を「古代ケルトの
うなされた魔の森から我々の時代へやって来た半人の訪問者」と口
を極めて批判していたかと思うと、不況・雇用問題をめぐって1929
年に書いた「ロイド・ジョージはそれをなしうるか」では、一転し
てその政策に期待を表明している。だからして、W・チャーチルが
こんなふうに言ったことがある。「同じ質問を七人の経済学者に発
した。ところが得られた答はみな異なり、八つであった。しかもそ
のうちの二つはケインズからのものであった」と。
◆◆
それにしても、『雇用・利子および貨幣の一般理論』は、もちろ
んパンフレットなどではなく、まぎれもなく学術専門書である。果
たして彼は、そもそも学術専門書を書くことを意図していたのであ
ろうか。『ケインズ革命』(1947年)の著者L・R・クラインが、
こう述べている。「ケインズの理論が、彼を現実的政策へと導いた
のではない。何びとも否定しえない経済的疾患を癒すために考えら
れた現実的政策が、遂には彼をその理論へと導くにいたったのであ
る」と。時論家・経世家としての思索の積み重ねが結果的に学術専
門書を生み出したというわけである。そしてそのプロセスに関わっ
たのが、ケインズ・サーカスと呼ばれた人たち、J・ロビンソン、
A・ロビンソン、R・F・カーン、P・スラッファ、J・ミード等々
の仲間たちであった。その一人であるカーンによれば、「煽動家ケ
インズがいつも理論的学術専門書の著者ケインズの前を歩いてい
た」のである。
かくして、1935年1月1日、バーナード・ショーに宛てた手紙の
中で、ケインズはこう宣言する。
©2016 Institute of Statistical Research
ジョン・メイナード・ケインズとは何ものであったのか
67
「私は今、人々の経済に対する見方を一変するような̶直ちに
ではないにしても10年ほどのうちに̶経済学の本を書いてい
ます。……あなたにしても他の誰にしても、こうしたことをにわ
かに信じることはできないでしょう。しかし私はただ自分の夢想
を書いているわけではありません。私の頭の中ではもはや確実な
ことなのです」。
◆◆
ところでケインズは、経済学者を、どのようなものと考えていた
のだろうか。ふたたび『人物評伝』の中のある一節を見てみよう。
「経済学の研究には、何らかの人並み外れて高度な専門的資質が
必要とは思わない。知的見地からみて、哲学や純粋科学などのよ
り高級な部門に比べれば、経済学はごく平易な学問ではなかろう
か。それなのに、優れた経済学者、いな有能な経済学者でさえ稀
れな存在なのである。平易で、しかもこれに抜きんでた人の極め
て乏しい学問! こうしたパラドックスの説明は、おそらく、経済
学の大家はもろもろの資質の類い稀れな組み合わせを持ち合わせ
ていなければならない、ということのうちに見出されるだろう。
そういう人は、いくつかの異なる方面で高い水準に達しており、
めったに一緒には見られない才能を兼ね具えていなければならな
い。彼はある程度まで数学者で、政治家で、哲学者でなければな
らない。彼は記号も分かるし、言語も話さなければならない。普
遍的な見地から特殊を考察し、抽象と具体とを同じ思考の動きの
中で取り扱わなければならない。彼は未来の目的のために、過去
に照らして現在を研究しなければならない。人間の性質や制度の
どんな部分も、すべて彼の関心の外にあってはならない。彼はそ
の気構えにおいて、目的意識に富むと同時に公平無私でなければ
ならず、芸術家のように超然として清廉、しかも時には政治家の
©2016 Institute of Statistical Research
68
学際
第2号
ように世俗に接近していなければならない。こうした理想的な多
面性の多くを、そのすべてではないが、マーシャルは具えていた」
。
元々は数学の研究者として出発したマーシャルが、
「経済理論家に
課せられる仕事は、数学的技術の展開よりもいっそう広範で、いっ
そう困難であることを理解していた」と述べていることを紹介した
うえで、ケインズはその個所に次のような興味深い脚注を付してい
る。
「量子論の著名な創始者であるベルリン大学のプランク教授が、
かつて私〔ケインズ〕に、自分は若い頃に経済学を研究しようと
思ったが、それがあまりにも難しいことが分かった、と述べたこ
とがある。プランク教授ほどの人であれば、ほんの2、3日で数
理経済学の全体系をいとも容易に習得することができたであろ
う。彼が言ったのはそのことではなかった。最高の形態における
経済学的解釈にとって必要な、論理と直観の混合や、その大部分
が正確ではない事実の広範な知識を扱うことは、プランク教授に
とっては、とても困難だったのである」。
マーシャルと同様、ケインズもまた数学の研究からスタートした
経歴を持つのだが、その彼の経済学は、いわゆる数理経済学ではな
く、散文を軸に組み立てられているのである。
◆◆
実は、キングズ・カレッジの学生時代、ケインズは経済学を専攻
したわけではなかった。すでにイートン校で、数学と古典学で大学
への特待給費生資格を得ており、大学進学後の彼の関心は、数学、
形而上学、倫理学、論理学、美学など、広義の哲学ないしモラル・
サイエンスへと拡がっていた。そして、数学トライポス(卒業優等試
験)を受けて学部を卒業。マーシャルからは、たびたび経済学研究
者への途を勧められたものの、本腰を入れて経済学を学んだという
©2016 Institute of Statistical Research
ジョン・メイナード・ケインズとは何ものであったのか
69
形跡はなく、結局は官吏への途を選択し、1906年(23歳)、インド
省に入省。R・スキデルスキーの推測するところによれば、大学時
代に本格的に経済学を勉強したのは、ほんの8週間ほどであったら
しい!
ところで、インド省勤務はわずか2年ほどで、1908年(25歳)に
は、キングズ・カレッジの講師として、金融関連科目を担当。そし
て、翌1909年にはフェロー(終身)に。しかし、マーシャルやA・
C・ピグーなどのように教授としてではなく、身分は講師。しかも
講師として大学に在籍したのは、通算しても決して長い期間ではな
かった。1915年(32歳)には、大蔵省に移って国際金融問題に関わ
る部署に身を置く。そして、第一次大戦終結後のパリ講和会議には、
イギリス大蔵省首席代表の重責を担って出席したものの、対独賠償
問題を巡って意見が対立し、大蔵省を去ってふたたびキングス・カ
レッジの講師に戻っている。大学では、講師としてだけでなく、1919
年(36歳)に副会計官、さらに1924年には正会計官となって、大学
の財務問題に辣腕を振るった。一方、1911年(28歳)には、異例の
若さで、伝統ある学術雑誌『エコノミック・ジャーナル』の編集者
に抜擢されている。
大学卒業後そのまま大学に籍を置き、いわば象牙の塔の中で経済
学研究に勤しむ、よくあるタイプの経済学者とはおよそ異なって、
実に多面的な顔をケインズは持ち合わせていた。現実政策への関わ
りで言えば、1929年(46歳)にマクミラン委員会委員、1930年に
経済諮問会議委員、1940年に大蔵大臣顧問、そして1941年には、
かつてその政策を厳しく批判したイングランド銀行の理事となっ
て、自らの主張を現実の政策に反映させうる場に身を置き続けてき
た。
そうした公人としての活動だけではない。ソースタイン・ヴェブ
レ ン 流 に 言 う な ら ば 、 堅 気 の industry と 対 比 さ れ る 金 儲 け の
©2016 Institute of Statistical Research
70
学際
第2号
businessの世界にも深く関わっていた。1919年(36歳)にナショナ
ル・ミューチャル生命保険の経営に参加し、後には会長。1923年に
プロヴィンシャル生命保険の取締役、1924年にインディペンデント
投資会社取締役。いずれも、単なる名義貸しなどではなく、実質的
に経営に参加していた。それだけではなく、すでに若い頃からあれ
これの投機活動に手を染めていて、時に大損をしたものの、結局は
二十数億円相当の遺産を残したという。
◆◆
そうした活動とは対照的に、ケインズには、文学や芸術に対する
関心、いや憧憬とでも呼ぶべきものがあった。すでにキングズ・カ
レッジの学生時代に、秘密のエリート集団たる「ソサエティ」に参
加していたし、さらに後年には、ブルームズベリー・グループでの
作家や芸術家たちとの濃密な交流があった。ケインズにとってこの
グループは、自らが属する世俗世界とは異質のものであったし、逆
にグループのメンバー達にとっては、ケインズは、唯一、世俗世界
に身を置くメンバーとして特別な存在であったにちがいない。ケイ
ンズ自身は芸術家ではないものの、熱心な芸術愛好者であり支援者
であった。ケンブリッジ芸術劇場の創設に尽力して、『雇用・利子
および貨幣の一般理論』の刊行年と同じ1936年(53歳)に、同劇場
の会長に就任しているし、1941年には国立美術館理事、1942年に
は音楽・美術奨励委員会の委員長に就任。そして絵画や稀覯本の収
集家。42歳で結婚したその相手は、ディアギレフ・バレー団のプリ
マドンナ、リディア・ロポコヴァであった。
人間の生活全体の中で、経済問題はごく限定的な意味を持つにす
ぎない、とケインズは考えていたようだ。「孫の世代の経済的可能
性」(1930年)の中で彼はこう書いている。
「経済問題の重要性を過大評価せず、経済問題の解決に必要だ
©2016 Institute of Statistical Research
ジョン・メイナード・ケインズとは何ものであったのか
71
とされることのために、より重要でより恒久的な事柄を犠牲にし
ないようにしようではないか。経済は、たとえば歯学と同じよう
な意味で専門家に任せておけばいい問題なのである。経済学者が
歯科医と同じように、謙虚で有能な専門家だと思われるようにな
れば、素晴らしいことである」。
ここでケインズが「より重要でより恒久的な事柄」と呼んでいる
ものとは何であろうか。
R・F・ハロッドが『ケインズ伝』(1951年)の中で、ある興味深
い場面を紹介している。
「経済学者は経済学者らしく度を越えてはならないということ
をケインズは知っていた。彼はかつて自分の地位を、非常に慎重
に選択したことがある。それは1945年、彼が33年間にわたる『エ
コノミック・ジャーナル』の編集者の地位を退くに当たって、王
立経済学会の評議員会が彼を招いた晩餐会の席上で、彼が行なっ
た演説の最後の部分においてである。……彼は祝杯をあげる段に
なった。『私は諸君に乾杯を捧げます。王立経済学会のために、
経済学のために、ならびに文明の担い手ではなく……』彼は言葉
を選んでいたのである。『文明の担い手ではなく、文明の可能性
の担い手たる経済学者のために』。こうした言葉を語る段になっ
て、ケインズの心の中には、ブルームズべリー・グループのリッ
トン〔・ストレイチー〕やダンカン〔・グラント〕やヴァージニ
ア〔・ウルフ〕達の面影がかすめたのであろうか。彼らこそは文
明の担い手であった。経済学者は不可欠ではあるがはるかに地味
な役割を持つのであり、それこそが彼が生涯を捧げたものなので
あった」。
ハロッドが語っているように、経済学者は、文明を下支えする縁
の下の力持ちの役割に甘んじるべきだというのが、どうやらケイン
ズの立場のようである。もしも将来的に豊かになって、経済問題の
©2016 Institute of Statistical Research
72
学際
第2号
重要性が相対的に小さくなった暁には、芸術を存分に堪能できる自
由な時間をより多くの人々が享受できるよう、ケインズは夢見てい
たのかもしれない。強烈なエリート意識の持ち主であり、時に傲岸
とも思える振る舞いさえ見られたケインズの、もう一つの顔である。
◆◆
晩年を迎えるにつれて、次第に、苦渋の色がケインズを覆うよう
になる。パックス・ブリタニカの栄光は、はるか過去のものとなり、
急速に力を増しつつあるアメリカとの間で、彼はイギリスの威信と
利害を背負って、いくつもの困難な交渉の矢面に立つことになる。
ひとりの経済学者としてというよりは、むしろ憂国のナショナリス
トとしてのケインズがそこにいる。しかも、彼は心臓病に苛まれて
いた。
1941年(58歳)、アメリカへの援助要請と武器貸与法をめぐる交
渉のために渡米。1943年、戦後国際金融通貨体制についての協議の
ために渡米。1944年、ブレトン・ウッズ会議、武器貸与援助計画問
題のために渡米。1945年、戦後金融借款交渉のために渡米。そして
1946年、IMFおよび世界銀行の理事として創立会議に出席し、この
二つの機関の将来を祝福しつつも、同時に、その運命を憂えてこん
な演説をしている。
「ここには悪意ある妖精などいないことを希望します。というの
は、その悪意ある妖精は必ずや呪文を唱えて、こう言うに違いあ
りません。お前たちIMFと世界銀行が大きくなったら、きっと政
治屋にしてみせるから。お前たちの考えも行いもあくどいものに
してみせるから……」。
IMFと世界銀行への影響力を目論んでいたアメリカに対する、ケ
インズ流の精一杯のメッセージであった。そしてこれが、公の場で
の彼の最後の発言となった。イギリスに帰国して1カ月半後、ケイ
©2016 Institute of Statistical Research
ジョン・メイナード・ケインズとは何ものであったのか
73
ンズは、心臓病の発作で世を去った。サセックス州ティルトンのケ
インズ卿、62歳。
このように見てくると、冒頭の「ジョン・メイナード・ケインズ
は、経済学者でもあった」という一文も、決して奇をてらった言い
回しではないように思うのである。
(なかむら
たつや
中央大学名誉教授)
©2016 Institute of Statistical Research