東洋と西洋の都市 - 比較都市史研究会

東洋と西洋の都市
私の日本滞在とこの講演とセミナーが実現いたしましたことに対しまして、日本学術振興
会に感謝申し上げます。
本日の講演は私の二つの仕事によるものです。私の『ヨーロッパの都市と町』(オクスフォ
ード、2009 年)、および『世界史における都市のハンドブック』(オクスフォード、2013 年)
です。
2007 年に初めて、世界の半分以上の人が農村ではなく都市に住みました。世界
は、ある意味で、本当に都市的になりました。ことに顕著なのは大都市の激増でした。18
世紀には、たった 1 つの 100 万都市(江戸、現代の東京)しかなかったのに対して、400 以上
の 100 万都市また 100 以上の 300 万都市があります。この重大な変化はどのようにして生
じたのでしょうか。世界の都市システムは、過去にどのように発展し相互に影響し合って
いたのでしょうか。社会の中における都市の役割は何であり、また、それは地域間でどの
ように対比されるものだったのでしょうか。
世界の過去の都市コミュニティーの比較研究が、現在と将来の世界的な都市発
展を理解することの必須条件であるということが私の仕事の基本的主張です。この講演で
は、私は、都市比較の文献について最初にお話したい。それに次いで第二に、世界の都市
化の広範な趨勢について。そして最後に、東洋と西洋の都市の間の制度上の相違点と類似
点に焦点を当てます。
過去数年間に比較都市史研究は革新と増大を見ましたが、既に 50 年か 60 年前
に比較研究には旺盛な関心がありました。初期の一つの影響はロバート・パークとシカゴ
学派から来たもので、その詳細な分析はアメリカの都市に基づいていましたが、都市の一
般的なモデルを構築しようとしたものでした。これは第二次世界大戦後に米国と英国でお
おきなインパクトを持っていました。もう一つ刺激は、フランスのアナール学派から来た
もので、やはり第二次大戦後ブローデルの影響下でヨーロッパと地中海をまたいで比較し
たものでした。
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東洋と西洋の都市の比較については、恐らく最も重要な仕事はマックス・ウェ
ーバーの『都市』でした。最初 1921 年にドイツで出版されましたが、1958 年に英訳され
広く知られるようになりました。ドイツの指導的社会学者であるウェーバーの研究は、高
いレベルの都市自治とコミュニティー意識を有する中世キリスト教の遺産に根差し、都市
を革新の中心にする強力な都市制度をもったヨーロッパの都市の特殊な市民的・コミュニ
ティー的アイデンティティーを強く主張しました。対照的に、彼は、中東とアジアの都市
を都市の制度が備わっておらずアイデンティティーが未発達で強力な専制国家によって影
が薄く意味のないものにされていたと見なしました。
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ウェーバーの議論は、イスラムの都市や中国の都市の比較研究に重要なはずみ
をつけて議論され続けていますが、激しい論議を引き起こし、大部分は疑問視されてきま
した。一つの主な批判は、彼のヨーロッパ都市の分析の大半が、後期中世およびルネッサ
ンス期の盛期ドイツ帝国都市と北イタリアの都市国家の周辺に集中していたということで
す。これらの都市は、その当時相当な自治および成功を享受しました。しかし、ヨーロッ
パの他の多くのところでは、都市にはしばしば限定的な自治しかないかまったく自治があ
りませんでした。例えばイングランドでは、700 程の都市のうちわずか 100 あまりしか自
治都市の特許状および何らかの都市の自治があったに過ぎません。北ヨーロッパでも、同
様に限られた数の都市が、一定の自治を享受しました。イングランドおよび北、東ヨーロ
ッパでは、多くの都市が、国王や地方の地主に極度に依存していました。第二の主要なウ
ェーバーに対する批判は、16 世紀から、ヨーロッパの国民国家の興隆が都市の独立の多く
をますます浸食したということです。ドイツおよび北イタリアでさえ、都市の制度はしば
しば掘り崩されました。第三に、アジアの都市の研究が示すところでは、正式の都市制度
が存在しなかったところにさえ、非公式の権力集団ないしエリートおよび団体のような非
公式の制度が都市の政治的および社会的生活において重要な役割をはたしていたというこ
とです。
ウェーバーへの第四の主な批判は、西洋の都市が東洋の都市より、一般によりう
まくいっており、より変化に富んでいたと彼が見なしていることです。しかしこれから見
ますように、過去の世界的な都市化プロセスは、一貫していたわけでもはなく、予測可能
であったりしたわけではなく持続的であったりするようなものではありませんでした。そ
の発展にはジェット・コースターのような特徴があり拡大の波の後に減速や非-都市化さえ
もが続くものでした。何度かの拡大(そして時に縮小)は一般的なほぼ世界的なプロセスで、
11 世紀から 14 世紀の間アジアからヨーロッパまで都市大成長の顕著な時代にありました。
しかし他の時代は、そうではなく 17 世紀から 19 世紀におけるように最初ヨーロッパがそ
して次に後の中国およびインドが主な都市化傾向の外にいました。
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では、世界中の広範な都市化傾向を見ることにしましょう。しかしまず、ちょ
っと背景を。都市は、紀元前 3200 年ごろメソポタミアから始まり、次に、ナイル川流域に
広がり、そこから地中海世界に広がったようです。都市は、さらにインダス川流域にもか
なりの規模で出現し(紀元前 2600 年から 1900 年)紀元前 1400 年には中国にもかなりの規
模で出現しました。
紀元1世紀までに、発達した都市システムは世界の多くの地域で見られました。
地中海を横切って中東へ入るローマの支配下の大部分です。しかしまたアフリカ北部へサ
ハラを横切ってその触手を伸ばしました。インド北部と西で、そして漢朝の中国で。中央
アメリカではさらに初期のマヤの発展もあります。
しかしながら、紀元後 3 世紀からの長期間、既存の都市のシステムに不安定の
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増大がありましたし、また新たな都市発展の兆候はありませんでした。ギリシャ・ローマ
的ネットワークは東西の帝国に分割され、その後特に西の帝国において大いに衰退させら
れました。中東では、アラビア人イスラム教徒の征服は、古代都市への攻撃と新たな都市
の建設を伴う短期の動乱につながりました。六朝時代の中国の都市は不安定と戦争に苦し
みました。政情不安定 、つまり 蛮族のヨーロッパ都市への侵入、ビザンチン帝国のイス
ラム教徒の侵入、インドと中国の大政変 もインパクトを持っていました。しかし、人口の
一割を殺傷し、農業を破壊し遠隔地貿易を混乱させる、大伝染病の蔓延(特に3世紀からの
腺ペスト)は大きなインパクトがありました。これはすべて都市の沈滞あるいは不安定につ
ながりました。
しかしながら、9 世紀から世界は、ヨーロッパから中東およびアジアへと広がる
長期間の都市拡張を享受したかに見えます。明らかに高都市率が顕著であっただけでなく
中東と中国のメガ都市の増殖が顕著でした。12 世紀に 100 万人までの人口のあったバグダ
ッド、恐らく 50 万人のカイロ、12 世紀に 140 万人の開封、13 世紀に約 100 万人の杭州 な
どで、
それに比べて、
恐らくヨーロッパの都市は 25 万人を超えることはありませんでした。
都市数の大増加が起こりましたが、例えば北および中東ヨーロッパのような新たな地域に
都市中心や市場町が創設されたり成長したりしました。日本で、中国、インド南部で、
アフリカ東部で、そして中央-南アメリカでも。奢侈工芸品の急増を伴う都市経済が開始さ
れ地球上の一地域内だけで地域間の遠隔地交易の大増加がありました。かくして中国とイ
ンド中東とヨーロッパの間の陸上と海上のルートが発展しました。
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市民自治および制度のレベルは世界の異なる地域間で非常に相違しましたが、恐らく都市
の政治的な重要性が高まったという感じもあったでしょう。より明白なのは、多くの地域
の都市で文化的役割の高揚の兆候があったことです。建築や宗教や教育の意味や画像に現
れるものです。なぜそのような発展があったのでしょうか?世界的な都市化のこの第 2 の主
な波を促進するのに役だった流行病の減少によって助けられた、人口の広範囲の成長でし
た。また農業生産の増大もありました。大規模な政治的安定 もありありました。 最も顕
著なのはヨーロッパから東アジアにいたるモンゴル人の帝国の創造でした。そして、これ
らの発展と結びついて、大陸間貿易の回復および開花がありました。
14、15 世紀の間に、都市の成長は再び勢いを失い、世界のいくつかの地域では
逆戻りしたかもしれません。これは恐らくヨーロッパと中東においてより当てはまりまし
たが、中国と日本、あるいはラテンアメリカには当てはまりません。それにもかかわらず、
世界の主要な都市のうちのいくつかでは人口衰退の指標があります。また都市数も増加し
ていませんでした。新しい都市中心の総数にも重要な増加を示す証拠はほとんどありませ
ん。経済的には、都市のサービスは拡大したように見えますが、アジアと中東およびヨー
ロッパの間の大陸間貿易の混乱は、都市産業の重要性を縮小させることにつながったかも
しれません。影響力があったのは、都市人口、農業および遠隔地貿易に破壊的な影響を及
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ぼす中央アジア経由で中国から中東およびヨーロッパへ広がる 14 世紀前半からの伝染病の
大流行の再発でした。同様に重要なのは、ヨーロッパ、中東およびインドでモンゴル帝国
の分裂やその他の形の政情不安でした。さらに 15 世紀後半から内乱が起き日本でも同様で
した。
都市のジェット・コースターは、16~18 世紀に再び前に進みました。都市成長
の復活は、特に後期明および清の下の中国で維持されましたし、1520 年代からのムガール
帝国下のインドでも、16 世紀の内乱が終わった後の日本でも。ヨーロッパでは、都市復活
は 17 世紀前半までは続きました。非常に大きな都市の顕著な興隆が、アジア(江戸、北京)、
中東(イスタンブール)およびヨーロッパ(ロンドン)で起きました。中国、日本で、またヨー
ロッパやラテンアメリカでも(植民地の町の新しいネットワークが作り出されました)、さら
に北アメリカとアフリカでは少数でしたが、多くの新しい都市が設立されていました。ハ
バナからマニラ、杭州、バタヴィア、カルカッタ、マドラス、ボンベイ、リスボン、アム
ステルダム、ロンドンおよびハンブルクへと相互に接続している国際的な港市のネックレ
スの発展もありました。
この時期、大都市での流行病の持続的な高い発生率にもかかわらず、都市の成
長は新たな人口拡大によって推進されました。それは、農村からの大規模な移住の決定的
な重要性を強調するものです。
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もう一つの要因は農業改良およびますます洗練された農業取引でした。その一方で東南ア
ジアを結節点とする南北アメリカとアジア、中東およびヨーロッパの間の世界的な海上交
易の発展は、工業生産および都市消費に推進力を与えました。劣らず重要だったのは、国
家権力の新たな統合でした。アジアでは(トルコ人の下の)中東、そして(より効率がよくし
ばしば集権的な国家の興隆をともなった)ヨーロッパ、および南北アメリカへのヨーロッパ
の支配の拡張です。都市は拡張した国家権力の特権的な中枢になりました。
したがって、ウェーバーの考えに反して、18 世紀まで、東洋の都市は、西洋の
都市よりはるかに上手くいっているように見えます。しかしながら、18 世紀後半と 19 世
紀前半は都市の移行期でした。大分岐について語る著者もいます。前の時代には、アジア
の都市は、世界で、最大で、最先端にあり最も変化に富んでいました。しかし、19 世紀初
めまでには、西ヨーロッパの都市がますます革新的で拡張的になりました。これを示すの
は、イギリスとベルギーに先導されて都市化がヨーロッパで加速し始めたことで、これに
対して、中国、日本、インドでの都市化比率は恐らく停滞していました。同時にロンドン
やパリやとブリュッセルのようなヨーロッパの首都が力強く成長しました。また、新しい
産業中心や最初のレジャー都市を含む専門的な都市も初めての高揚をしました。しかしな
がら、経済的には、ヨーロッパの都市は多くの伝統的特徴を保持したままでした。また、
それは政治的な支配にも妥当しました。その結果、ヨ-ロッパの都市は、都市化の増大す
る社会的圧力に適合するのが遅れました。1850 年に、人類の大部分はまだ都市の外部に住
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んでいました。また、都市住民でさえ、大部分は、社会経済的、政治的構造や文化建築的
環境において基本的に前近代的で伝統的なコミュニティーに住んでいました。
19 世紀後半から第二次世界大戦までの時代は、都市化の第三の黄金時代の始ま
りを画しました。ヨーロッパでは、西ヨーロッパの国が、都市の成長のレベル、および都
市の社会や統治の新しいモデルの生成において先頭に出て、世界中で強力な影響を持つこ
とになりました。同時に、ヨーロッパ内部では、より都市化されていなかった地域が追い
つき始めました。その一方で大西洋を越えてアメリカの都市数が増加し始め、ちょうど大
都市の数が膨らむのと同時に、東海岸から中西部へ西海岸へと蛙跳びをしていき、またヨ
ーロッパにおけるのと同様で、産業やその他に特化した都市の高揚が起きました。その間
に、国際的な港湾都市のネットワークは世界的な貿易や汽船の興隆によって強化され統合
されました。ヨーロッパと北アメリカの外部では、これらの世界的な港湾都市は多くの場
合最もダイナミックな都市的中心地でした。それに比べれば、ラテンアメリカ、中東、イ
ンドおよび中国の従来の都市のシステムは不活発で、なかなか拡大しませんでした。
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アジアの大きな例外は、日本でした。明治維新以降、都市化と工業化が加速し、地方の大
都市の回復に対応する都市化率の上昇がありました。
ヨーロッパとアメリカの人口の大多数は、1939 年までにますます都市に住むよ
うになりましたが、それのみならずそれらの都市は西洋の都市生活のための世界的な規模
の強力なショーケースでもありました。すなわち、工業とサービスの中心としての西洋の
都市の成長、しばしば中央政府の支援をえた都市の設備やインフラストラクチャーの拡充、
文化的中心としての都市の開花、都市計画の拡充などです。これらすべては先進的な西洋
の外側の都市の発展に重要な影響がありました。
我々がよく知っているように、20 世紀後半も等しく劇的な変化の時期でした。
第 1 に、既に述べたように、アフリカは遅れをとりましたが都市の成長率が日本、中国、
インド、中東およびラテンアメリカで急激に上昇し、第二次世界大戦後の期間にますます
都市への集中がありました。それに比べれば、ヨーロッパや北アメリカの都市化率は、1970
年代から広い範囲で停滞しました。第 2 に、より多くの国々での高率の新たな都市成長は、
東京からカイロおよびメキシコシティへとメガ都市に集中しました。それに比べれば、比
較的わずかしか新しい都市はありませんでした。第 3 に、初期の専門的な都市は工業都市
であれ世界的な港湾都市であれ、ヨーロッパと北アメリカだけでなくアジアで成立した場
合にも、深刻な後退を被りました。最後に、多くの発展途上国で大幅な準備不足はあった
ものの、西洋モデルの都市のサービスの大きな拡張がありました。北アメリカとヨーロッ
パの一部でさえ、戦後の数十年間の大規模拡張は 1970 年代と 1980 年代から縮小に転じま
した。
これらの発展の背後において影響力のあった要因として、一方で西洋の都市に
おける技術的リーダーシップおよび労働生産力の相対的な下落があげられます。他方で、
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アジア、中東およびラテンアメリカにおける大きな人口増加は農村からの大規模移動につ
ながりました。世界的な貿易には大きな進歩がありましたが、しかし今や再構築され、よ
り平等に非西洋の国々の方へ平衡が保たれました。ヨーロッパと北アメリカの多くのとこ
ろで、政府と都市の間の関係の問題が増加しています。
この像は極めて図式的です。しかし、長期にわたる都市の世界的趨勢を理解す
ることなしに、過去だけでなくは将来における都市の発展を理解することは不可能です。
全世界的比較分析は都市発展に関する 3 つの基本的問題を提示しているように思えます。
第 1 に、発展はどこまで自立的かということです。つまり地域に固有な要因(例えば、地勢
的、政治的、など)によって形作られたか、ということです。第 2 に、地域間で平行現象を
示すかもしれない発展はどこまで都市化の共通の構造的圧力に影響を受けているのでしょ
うか。例えば、激しい移住のインパクトのような。第3に、都市間の特徴の収斂現象は、
どこまで接合の帰結なのでしょうか。すなわち、貿易や流行病や政治的文化的リンクによ
る都市システム間の相互作用のような接合の。
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ここで、この講演の最終部分では、私は、西洋と東洋の都市を比較するマック
ス・ウェーバーのモデルの重要な構成要素のうちの一つをより詳細に見ることにより、こ
れらの問に光を当てたい。ウェーバーによれば、主な分割標識のうちの 1 つは都市の自治
の基準に加えて、西洋の都市における都市の、制度(裁判所も含めて)の重要性でした。
『ハ
ンドブック』においてジャン・ルテイン・ヴァン・ザンデン Jan Luiten van Zanden とそ
の共著者は、前近代経済についての章の中で、市民自治が、非西洋の都市と比較して西洋
の都市の長期的な経済的成功の重要な理由だったと主張しています。しかし、私は多少異
なる問をしたい。近世期の都市にとって都市の制度はどれくらい重要だったのでしょうか。
まず第一に、少数のヨーロッパの都市だけ(恐らく 15%)が重要な都市特権を持っていたこ
とを思い出す価値があります。また、都市自治もヨーロッパとその植民地の外でも未知で
はありませんでした。かくして、16 世紀日本の京都や堺は、市民統治の形式を享受しまし
た。その当時あるポルトガルの訪問者は、
「堺はヴェニスのような領事によって統治される」
と明言しました。中東でも、市民エリートは、時に政情不安定時に権力を奪いました。し
かし、これは例外でした。また、ウェーバーの東洋のではなく西洋の都市の制度に関する
見解は、一般に妥当します。しかし、それが問題なのでしょうか。何が都市に実際生じる
のでしょうか。紛争の解決という重大な問題を見ることによりこの質問に答えることを試
みてみましょう。ここで、私は地域の紛争やけんかなどのことを考えています。
東洋の都市では、ウェーバーが述べるように、裁判は帝国の役人によって公的
に執行されました。中国では、ヨーロッパと同様、裁判の制度化があったように思われま
す。しかしながら、恐らく裁判所と共同して、多くの紛争処理が種々様々の非公式の機関
によって実際には扱われたという相当な証拠があります。ギルドは、特に重要だったよう
に見えます。日本では、都市の座は、メンバー間の紛争処理をしましたし、17 世紀からは
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いわゆる株仲間が自分たちを監視しました。清朝中国では、重要な仲裁裁判は、しばしば
出身地団体とオーバーラップしたギルドの取締役会によって受け持たれました。出身地団
体 ( 同じ地域からの移住者)も、必要ならば法廷で示すことができた公式の署名をされ
た協定によって、紛争と争議を解決する際に重要な役割を果たしました。中東では、争議
を終わらせることに明らかに大きな関心を持って都市ギルドがオスマン朝の下で増加しま
した。イスラム教の下では、法定外の仲裁および仲裁裁判は、早い時期から広く認められ
ていました。隣人団体共同体は、中東の都市と同様に日本やタイでも同様の仲裁機能を持
っていました。公的宴会場は、争議を調停するための別の重要な場所でしたので、トルコ
帝国のコーヒーハウスは 16 世紀後半にはイスタンブールに 600 ありました。
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清中国の都市では、茶屋は、多くのクラブや団体の中心として用いられ、所有者が証言を
集めたり時には裁定を下したりして、両当事者の多くが参加する紛争解決の儀式を提供し
ました。
そうだとすると、ヨーロッパの都市の像とでどれくらい異なっていたのでしょ
うか。恐らく、それほど異ならないでしょう。裁判所が紛争に関与していた時にさえ、他
のすべてが失敗した時だけ裁判官が公式制裁を使用したことを示す証拠があります。ウェ
ーバーの地方自治体の原型であるドイツの帝国の都市フライブルクでは、ジョン・ジョー
ダンは、市の裁判にとって「暴力を罰する望みではなく仲裁が重要な目的だったように見
える」と主張しました。ここ、イギリスの都市の裁判費用保証人(suretors)のように、ド
イツの裁判費用保証人(burgen-)もしばしば、隣人たちや口論や戦いの当事者が紛争解決
の条件にしたがって行くように保証する重要な役割を果たしました。ジョーダンは市内の
平和を維持する責任の大部分は、形式上の制度上の領域から人的で隣人的で職業的な関係
による非公式の領域に大部分が移されたと主張しています。
スペインでは、訴訟は、単にそれに先立つ仲裁を確認したりする方法であった
かあるいはその形式的前兆あったかもしれません。中世の終わりにブルゴスでは、スペイ
ンの商人に関する訴訟の 4 分の 3 は、仲裁者を使用して結局解決されました。スウェーデ
ンでは、都市の法廷ではますます王の裁判を行ないましたが、多くの都市では法廷の外側
の仲裁裁定および仲裁が標準のままでした。イングランドではボブ・シューメカーや他の
人が示したように、仲裁裁定が種々様々の都市のより小さな対立やもめごとの解決には広
く行われていた。都市の指導者は、可能なときはいつでも、住民が彼らの争を法廷に持っ
ていかないように努めました。1575 年のレスターでは、町が次のように命じました「住民
はだれもいかなる原因でもいかなることでも相互に法廷で訴えてはならない。ただし被害
者は、市長か地方の長老が被害者のために出向き可能な場合には頼みを聞き法的訴訟なし
に同意できる場合には市長らに苦情を言うべきである」それが町の法廷で訴えることを許
してもらえなかった場合のみ。
東洋でのように、ヨーロッパ中で仲裁裁定は隣人および地域の有力者の手中に
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ありました。低地地方では都市の隣人取締役会(ヘントには 200 ありました)が争議を処理し
ました。さらに、ギルドは特にギルド内の会員が対立しないように維持し紛争の解決のた
めにヨーロッパの町(ヨーロッパの外でのように)において重要でした。ロンドンでは、メン
バーが互いに裁判所に行くことを禁じ、ギルド役員による仲裁裁定に争議を委ねることを
要求する規則がギルドにはありました。中世から、商人ギルドは全ヨ-ロッパで、非常に
仲裁裁定に関わっており、商人が、商用負債を書きとめたり帳消しにしたりすることを意
味するときにさえ、評判を維持するために法的手続きを回避したがるからでした。
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17 世紀から、仲裁の新しいチャンネルが現われていました。ジョージ王時代の
英国には約 20,000 のクラブおよび協会があったようです。ロンドンには非常に多く恐らく
3000 の協会が 90 の異なるタイプでありました。多くのクラブが、メンバー間の争いを解
決する規則を持っていました。また、多くのクラブの活動時間はメンバーの行為をコント
ロールすることに費やされました。1760 年代から主要港都市で激増した 1 つの専門的協会
である商工会議所は、やや古くからの商人ギルドのように、その流動的なメンバー間の争
いを仲裁するための特別の手続きを有していました。
しかし、これはユニークではありませんでした。最も成功した 18 世紀の協会で
あるフリメーソンは、1717 年にロンドンで設立され、1800 年までに英国で約 500 のクラ
ブを持っていましたが、その主な原理の 1 つとしてメンバー間の争いの解決を持っていま
した。さらに、それは移住メンバーへの支援で有名でした。そこで仲裁が、同居者ないし
隣人あるいは同業のメンバーを調停するという伝統的役割を超えて、商業化する社会でま
すます重要になる移動するジェントルマンや職人や商人というきちんとした移民を含みよ
り一般的な規模で拡大していくところをまさに見ているということも可能でしょう。しか
し、これはこの新しい発展の斬新さを誇張するものではありません。英国のクラブがほと
んどすべて酒場で集まったとすれば、地域の仲裁裁定のより古い伝統との連続性を見るこ
とができると言えましょう。英国とは対照的に、協会の活動は、ヨーロッパ大陸では重要
な違いがあり、したがって、酒場で集まることはそれほど一般的ではありませんで、もっ
と制限されていました。とはいえまたやはり、ドイツとフランスの協会、特に多くの石工
の会員宿はメンバーの仲裁裁定過程で同様の重要な役割を果たしました。
そこで、この短い概観から、仲裁裁定は多くのヨーロッパや中東や東アジアの
都市の紛争解決において同様の形式で広く普及していたようにみえます。都市の統治の他
の領域に関しても同様なことが言えます。―例えば社会福祉、都市改良、しかし、ここで
それらのトピックについて議論する余裕はありません。むしろ、なぜ広範囲に多くのコン
テキストの中で仲裁裁定を使用するかということに集中したい。みなさんには、さらに別
の考えがあることは間違いないと思いますが、仲裁裁定を用いる理由の短いリストは下記
を含んでいるとおもいます。
1. 法廷における訴訟のよくない評判。被害者にとって、訴訟は長い時間をとる
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ことと見なされていました。それは高くつきました。
訴訟当事者とその弁護士は、相手側の信用を中傷するために最善を尽くので、それは市民
の評判に長期的な効果がありえました。ビジネスの成功ないし継続が多く信用にかかって
いる場合、これは次には彼の経済的将来性を損なったかもしれません。
2. 訴訟に悪いイメージがあった場合、弁護士のステータスは限りなく悪いもの
でした。弁護士はみな自分の金目的のための訴訟を食いつくし、人々の貪欲な申し立で汚
されていました。良かれ悪しかれ、訴訟の問題の多くは弁護士の責任にされました。イン
グランドとヨーロッパのその評判は極めて悪いものでした。低地地方では、弁護士は太古
の昔から守銭奴という名前がありました。17 世紀初めのイエズス会士には法律家を道徳を
改めさせるための(疑いなく無駄でも)特殊な礼拝がヘントにはありました。中国では、彼
らは「訴訟詐欺師」(songgun)、「利益のための人々をわなに掛ける悪党の仲間」とよばれ
ました。
3. エリートは訴訟が嫌いです。それが調和と良き秩序をむしばむからです。
中国では、儒教が明確に、社会調和を維持する方法としての仲裁裁定を推奨していました。
ヨーロッパでは上述の様に、都市の指導者は訴訟を悪い選択とみなしていましたが、きち
んとした営業者が高い訴訟費用によって破滅し、経済的にまた市の役職を通じて都市コミ
ュニティーに寄与する能力を減退させることに対する配慮に一部はよるものでした。
しかしながら、少なからず重要だったのは、訴訟に不可避的に伴う中傷で、都市規則の中
で繰り返されてきた、慣習的な市民の調和や秩序といった理想化されたレトリックが、他
の市民が目撃者などとして法的な乱闘に引き込まれることによって、そこなわれることに
対する配慮でした。
4. これが、都市化がコミュニティーの社会秩序のためにつくりだした圧力に
リンクされました。未決着の争いは、前述のようにしばしば扱い難く、社会宗教的その他
の市内の関係の上で悪化し醸成されました。それは単なる市民偏執病ではありませんでし
た。都市民の間の訴訟が、コミュニティーを包み、その市政府を疑問視させる、長期的な
分裂や争いを促進したことには
多くのイングランドの都市からの相当な証拠があります。
5. 供給側では、都市の名士、隣人、同様に隣人組織やギルドやクラブを含む複
数の仲裁人が利用できる可能性が都市に組み込まれていました。それはヨーロッパやその
外の近世都市の尋常ならざる組織的多元性を反映しています。そのような人々にとって、
仲裁は、地域レベルのグループの結束および同一性を強調するのに役立っただけではあり
ませんでした。さらに、それは、多くの場合本質的に壊れやすい組織や取決めの中の分割
や分解を防ぐのに役立ちました。
最後にしかし最小でなく、それは、それらの人ないし組織がどのようにより広
いコミュニティーの調和および結合に寄与したか、そこでまた自分の働きを正当化したか
を示す方法でした。
私たちは、私が以前に提示した都市生活に影響を与える重要な問いのコンテキ
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ストにおいて何が理解できるのであろうか。すなわち、ローカルなパターン、構造的な都
市化圧力さらに都市の相互作用というコンテキストです。仲裁の厳密な形式は、ローカル
の要因あるいは地方的要因(つまり法制度や政治制度)に形作られたローカルのパターン
を確かに示しました。
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間違いなく、18 世紀及びおそらくそれ以前に、少なくとも世界的な商人の間の争いの仲裁
裁定にはある相互関連がありました。しかし、とりわけ、制度上の違いにもかかわらず、
世界中の都市が対立を処理する仲裁裁定と仲裁の広く同様のプロセスを採用したり主催し
たりすることによって社会の秩序や結合に対する比較可能な構造的挑戦に対処しようと努
力したように見えます。私の前の質問に答えるために、自治問題を扱うでしょうか?このコ
ンテキストでは、それは単に限られ範囲に見えます。
したがって、私は基本的な3点を示すことによって結論としたい。第 1 に相対
的な都市史、西洋と東洋の都市の比較は、グローバルな都市の趨勢を理解するだけでなく
自分の国々ないし世界の地域がどのように動いているのかを理解するために重要です。第 2
に、グローバルな都市の歴史は文明の起源にさかのぼります。また、グローバルな都市化
趨勢は、世界中への都市の広範な成長の主な時期を示すとともに地域差の時期を示します。
第3に、都市機能、例えば争ごとへの対処における詳細な比較は、都市の歴史への新しい
アプローチを必要とすることを提起しています。歴史家は、当然ながら、今日まで都市社
会を構成し変化させる地方的地域的要因(いわば第一次レベル因果連関)のインパクトに主
として集中してきました。しかし、既述の様に近世についても驚くべきことではないが近
代についてもより一層、高度の都市化という構造的な問題に共通の対応をする中で、世界
の都市は著しく同様な発展を経験していました。すなわち第二次レベル因果連関です。ま
た、最後に、私たちは常に心に留めておく必要があることは、大きな都市や港湾へ第三次
レベルの因果連関つまり国際的な相互作用、世界の異なる地方をまたいだ相互連携の衝撃
が増加していることです。
ご静聴ありがとうございます。
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