明恵上人の死 明恵上人は貞永元年(1232)1月19日に60歳で大往生を遂げられました。 10日頃から重態になり、11日に「置文」が定められました。遺言状です。これによ り、寺主は定真、学頭は喜海、知事は霊典、説戒は信慶・性実と定まりました。そし て、「すべて大事あらん時は、説戒列座の衆、和合して諸事、議定あるべきなり」と戒 められています。 病臥してのちは自由な気持で周囲の僧に法を説かれました。上人が一生の間に 学んだあらゆる教えを振り返って、それを統一して理解できるようになられたようです。 そして、「根本は人法二空の教えで、それがすべての聖者の践まれた(ふまれた)妙理 である」と繰り返し弟子たちに教えられたということです。 12日には昼夜不断に文殊菩薩の五字真言を誦え(となえ)られました。15日の初 夜、弥勤の像に対して坐禅入観して数刻、ほとんど入滅かと疑われる状態になりまし た。18日辰の刻(午前9時頃)、「もうその時が近づいたと思う」と言って諸衆の不断 真言をやめさせ、看病人5人ばかりで真言を誦え、弥勒の宝号を唱えました。 19日辰の一点(午前8時)、「その時である」と言って看病人によりかかりながら安 坐し、五聖に対し入観したのち、 われ、宿善により諸仏諸菩薩の御たすけにより、聖教の宗旨に迷なく、如来の 本意をたづねえたり。さらに来世のうらみなし。 と語り、兜率上生の思いをのべ、「南無弥勤菩薩」と唱え、五秘密法の行法を行じ、 我昔所造諸悪業(がじゃくしょぞうしょあくごう) 皆由無始貪瞋痴(かいゆうむしとんじんち) 従身語意之所生(じゅうしんごいししょうしょう) 一切我今皆懺悔(いっさいがこんかいさんげ) の句を唱え、間もなく入滅されました。その時枕元に近づいた喜海は「われ、戒を護 る中より来る」という最後のことばを聞いたということです。 これより先、寛喜元年(1229)57歳の年に、ある僧がこんなことを訊きました。 わたくしはこれまで阿弥陀仏の極楽世界に往生したいと志してまいりましたが、 師は弥勤の兜率天へ上生することを願っておられます。わたくしも師にならって 兜率上生を願おうと思いますが、いかがでございましょうか? ところが明恵はそれを止めています。華厳宗では阿弥陀仏は釈迦と同体で、その分 身の仏と考えているし、阿弥陀仏は来迎を特別の願としているとその徳を讃え、行者 には生まれながらにして属している仏があり、その属するところに従って速やかに道 を得べきである。極楽往生と兜率上生と、どちらが易しいかなどということに思い煩う てはならぬ、と言い聞かせたのです。 これは晩年の明恵上人のいた自由な、大らかな境地を示すものであり、また、密 教の絶対肯定的な広い世界を示すものですが、確かに明恵上人は弥勒信仰という べきものを持っていたのです。 明恵上人のこの弥勤信仰は笠置の解脱上人貞慶に影響されたものだといわれて います。しかし明恵上人は寛喜元年9月に禅浄房に語って、 我は当時(現在のこと)より住兜率と存ずるなり。 と言い、貞慶の弥勤信仰との違いを明らかにしています。死んでから弥勤の天宮に 赴きたいというのではない、生きている今、このままで兜率天に居るつもりでいるのだ、 ということです。 弥勒は釈尊入滅の後、56億7千万年経ってからこの世に出るという未来の仏です。 しかもこの仏は、阿弥陀仏のようにその名号を称えた者を無条件で救うというような 楽天的な仏ではないのです。 弥勒は、人間が努力して素晴らしい社会を造り出した時に、初めて姿を現わすと いう、大変厄介な、ものぐさな仏さまなのです。人間としては一所懸命やらぬことには、 どうにもならぬ仏さまなのです。 『弥勒菩薩所問本願経』を読むと、この仏の性格がよく現われています。そこでは 仏が阿難と大衆に向かって弥勒が将来仏であると予言され、弥勒の性格が、こう語 られています。 弥勒は自分よりも42劫も前に仏になろうと発意したのに、いまだに成仏してい ない。それは、自分の場合は物や、妻子や、頭や、目や、王位など、自分の持 てるものを悉く衆生に施すことによって、速やかに成仏したのであるが、弥勒は そういう布施行をせず、ただ善権方便(ぜんごんほうべん・仮の方法)としての安楽 行によって無上正真の道を致さんという方法をとったからである。 また弥勤は、 某を仏ならしめん時は、国中の人民をして諸(もろもろ)の垢瑕穢(こかえ・罪と傷と 汚れ)あることなく、姪・怒・癖(いん・ぬ・ち)において大ならず、懸繁に十善を奉行 せしめん。(その時)我すなわち正覚を取らん。 という本願を立てたのである。弥勒は、人間たちの努力によって、この地上から罪や 傷や汚れや悪行が一掃された時に、はじめて大衆と共に成仏したいという願を立て たのである。 このことが、人間の努力を重視する明恵上人の心にピッタリ来たのでしょう。明恵 上人は、ただ念仏を称えさえすれば後生は極楽浄土に往生できるというような考え を、どうしても持つことができなかった人です。だから自分は、遂にこの信心を疑わな かった。しかし、自分の考えを弟子に強制することはなかった。この信心が弟子にふ さわしいと思えば、その弟子には念仏の信心を勧めています。しかし、明恵上人自 身の信心は弥勒信仰でした。しかも、生きながら弥勒の天宮にあるという確信だった のです。実に驚くべき確信ですね。日本仏教史上、弥勒と共にあるというようなことを 言ったのは明恵上人お一人です。 こうして明恵上人は入滅されました。弥勒信仰は中世日本のユートピア思想の根 底であったといいます。そうだとすれば明恵上人は日本に数少ないユートピア思想 家の一人だということになります。夢を持つことを忘れ、自ら刻苦努力することを忘れ た今日の日本人は、明恵上人の力に満ちた生き方を深く思うべきですね。 明恵上人の臨終の有様をもう少しゆったりと振り返ってみましょう。 寛喜4年正月から、明恵の病気は次第に重くなりました。病気の間も結跏趺坐(け っかふざ・両脚を組んで坐禅すること)しておられたそうです。常人にできることではあ りませんね。 正月19日、明恵は「今日が命の終る時である」といって、別の衣と袈裟に着替え、 人はとかく名利という欲が知らぬ間に体にまとわりついて心から離れないもので ある。山中の僧侶たちよ、充分に謹んで要心なされよ。 と言われました。 いよいよ臨終が近づくと、禅定から出て、 「臨終の時刻が近づいたから、右脇を下に身を横たえよう。」 と告げて横になられました。これは釈尊がご臨終の時の姿です。手は蓮華拳の形に して胸に置かれ、右足はまっすぐ伸ばし、左足は少し膝を曲げて右足の上に重ね、 顔には宗教的な喜びが俄に(にわかに)現われ、微かな笑みを浮かべて穏やかに亡く なられました。時に60歳でした。 21日夜に禅堂院の後ろに葬りましたが、お姿は少しも変わらず、眠っているかの ようでした。 18日の夕方から異香が漂い、多くの人がその香りをかぎましたが、葬式のあと2∼ 3日もこの異香は漂っていたということです。病中坐禅の時は、呼吸も止まり、体は少 しも動かず、もしや亡くなられたのではと手を口にあてても呼吸がない。驚いたもの の、 「自分の呼吸が止まって死んだと見えても、体が冷えきってしまうまで手をかける な。」 と言われていたことを思い出して待っていると、数刻たって少しずつ動き出され、自 分から横になって寝られたりしたということです。 明恵の死後、弟子の慈弁と尊弁は23日に栂尾を脱け出し、25日に海に身を投じ て師のあとを追いました。善妙寺の尼明達は、山城守広綱の妻だった人ですが、夫 を斬られ、子も斬られたのを悲しんで明恵を頼って出家したのですが、7月8日、清 滝川に身を投げて明恵のあとを追いました。 大勢の人たちの心の支えとなっていた明恵は、こうして世を去りました。最初から 最後まで、きちんとした、静かな、透明な人生を送った稀有の人であったと思います。 (紀野一義)
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