癒しと悪霊払いをどう見る?

癒しと悪霊払いをどう見る?
マルコによる福音 12
癒しと悪霊払いをどう見る?
3:1-12
主の復活を記念する季節です。モスクワやアテネでは、あと 3 週間でイー
スターを迎えます。5 月 1 日です。カトリック教会は、ご存じのように、先
週 3 日に一足早く「復活祭」を済ませました。もちろんプロテスタントの教
会は、カトリックのお付き合いをして 400 年になるので、先週にイースター
礼拝をしなかった教会は少ないでしょう。
教会が定めた祭りや祝日を一つも守らないというのも、「ちょっと偏狭か
な……」と反省しないこともありません。でも、現にボスニアとか、アイル
ランドとかで続いていることを見ると、あれは結局、仲間うちで共通の宗教
を持って、同じ文化と習慣とお祭りで団結して、それを守らない人たちを“少
数派”として支配下におきたいから、あの戦いを続けているわけでしょう。
こういう時代であればこそ、
「聖書とイエス様とは一生お付き合いするが“キ
リスト教”はやらない」という変人の群も、“希少価値”くらいはありまし
ょう。
今日はマルコの福音書から、二つの段落を取り上げることにしました。
「手
の萎えた人をいやす」と「湖の岸辺の群衆」という見出しのついている所で
す。初版では 2 頁にまたがっていますが、第 2 版では同じ頁の上下にまとま
っています。(新共同訳)
前半 1~6 節では、イエスが安息日に、手の不自由な病人を治療なさったい
きさつが語られます。ここは、前回に学んだ安息日のテーマが少し重点を変
えて出てきます。そして、後半 7~12 節では、イエスのお力にすがろうとし
て、病気の人や悪霊つきの不幸な人が、イエスの回りに殺到した様が描かれ
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ます。現代式に言うなら“フィーバー”です。では新共同訳の見出しを利用
させていただきましょう。
1.手の萎えた人をいやす。 :1-6.
この患者がどんな病気であったのかは、分かりません。腕が「乾いてしな
びた」
状態だったと、マルコは当時の俗語の表現で描写します。
その“しなびて麻痺した”腕と手首に力が戻って、この人は自分の手で働け
るようにされたのです。
すでにイエスの周りには、悪意を持ってイエスの行動をじっと窺う人たち
の目がありました。前の麦畑の事件では、ファリサイ派の方から弟子たちの
行動を意地悪く批判して、あの問答が始まりましたが、今度はイエスの方か
ら、彼らの悪意を暴露するように、敵意をかきたてるかのように、積極的に
一歩踏み込んで、お問いかけになります。
1.イエスはまた会堂にお入りになった。そこに片手の萎えた人がいた。2.
人々はイエスを訴えようと思って、安息日にこの人の病気をいやされるかど
うか、注目していた。 3.イエスは手の萎えた人に、「真ん中に立ちなさい」
と言われた。 4.そして人々にこう言われた。「安息日に律法で許されている
のは、善を行うことか、悪を行うことか。命を救うことか、殺すことか。」
彼らは黙っていた。
この場合、命を救うとか殺すとか、そんな大袈裟なことではないと、この
人たちは考えたでしょう。何も今日、わざわざ安息日に直してやらなくても、
命に拘わることではないと。しかし、イエスのお考えは違っていました。悪
意の批判を恐れてこの人を見捨てることは、この人を殺すことになる。彼の
手に力を回復してやること、彼がその手で家族を養えるように健康にしてや
ることは、命を救うことになると。
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この「命を救うことか、殺すことか」という言葉には、しかし、もう一つ
の意味が隠されています。イエスへの憎しみと殺意を含んだまま主の会堂に
集まって、それで何か、「立派なこと」
をしているつもりの宗教熱
心者に、「あなたたちのもくろんでいるそれが“善”で、今わたしがしよう
としているこれが、安息日違反の“悪”だと言えるか?」と、皮肉な問いを
投げかけたとも読めます。あるいは、もっとストレートに、「私を殺したい
くらい憎んでいるあなたが、人の命を救おうとする私を責めるのか!」と切
り込んだとも取れます。いずれにせよ、4 節の引用符の中の問いは、幼稚園
の保母さんの問いとは違うのです。「ハーイ善です」とか、「命を救うこと
です」という答えを言わせるための誘導ではありません。(ルカ 10:36 とは
趣向が違う)だからこそ、彼らは押し黙ったまま、憎しみを内に沸騰させた
のです。
5.そこで、イエスは怒って人々を見回し、彼らのかたくなな心を悲しみな
がら、その人に、「手を伸ばしなさい」と言われた。伸ばすと、手は元どお
りになった。 6.ファリサイ派の人々は出て行き、早速、ヘロデ派の人々と一
緒に、どのようにしてイエスを殺そうかと相談し始めた。
一昔前までの説教の流行は、この手の萎えた患者が、イエスのお言葉に素
直に従って、命じられた通りに手を伸ばしたから即座に癒された、という所
に重点を置きました。“癒しの集会”などでよく、「信じなさい。そうすれ
ば癒される」と短絡的に利用されるのは、見ていてゾッとする思いでした。
「あなたは信じないから癒していただけない!」―私も若い頃それで振り
回された経験がありますから、聞くだけで怒りが込み上げてきます。でも、
そういう短絡的な適用とは別に、「罪の赦しを受けるにも同じ素直な応答が
大事です。疑わずに信じて委ねれば力を頂くことができます」という適用な
ら、私も昔は説教によく使いました。肉の癒しでなく、霊的な癒しの話にす
るのです。
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しかし、果してそれを教えるために 5 節の後半があるのかと言うと、どう
も、マルコの重点はそこにはないように思えます。マルコはこの人の応答を
信仰の鑑のようには扱っていないのです。そこに本当に浮き彫りにされてい
るのは、イエスの力。イエスの戦い。イエスの憐れみ。特に、古い宗教のパ
ターンからはみ出したイエスと、それに我慢ならない人たち。それがこの場
面を一貫しているマルコの主題です。
2.湖の岸辺の群衆。 :7-12.
7.イエスは弟子たちと共に湖の方へ立ち去られた。ガリラヤから来たおび
ただしい群衆が従った。また、ユダヤ、 8.エルサレム、イドマヤ、ヨルダン
川の向こう側、ティルスやシドンの辺りからもおびただしい群衆が、イエス
のしておられることを残らず聞いて、そばに集まって来た。 9.そこで、イエ
スは弟子たちに小舟を用意してほしいと言われた。群衆に押しつぶされない
ためである。 10.イエスが多くの病人をいやされたので、病気に悩む人たち
が皆、イエスに触れようとして、そばに押し寄せたからであった。
先程は“フィーバー”と表現しましたが、イエスへの期待が驚異的に盛り
上がって、収拾がつかない様をマルコは描いてみせます。それも決して、「こ
の信仰のリバイバルを見て学べ」という、感激押し売りの文章ではなくて、
私たちの言葉で言うなら、「分かってんのかいなァ……いったい?」と思わ
せるくらい、猫も杓子もみんな尻尾を振ってついて来た。そんな感じです。
さっきの手萎えの人の話を聞いて、2 頁前に出た中風の人のことも知って、
「それやったら、うちも治してもらわな損や」という手合がワンサと押しか
けた。病人を癒すイエスのお姿も、愛と自己犠牲の極致というより、「よう
やらはる!」という感じ―愛する大阪言葉で。もう少し丁寧に「共通語」
で言いなおしてみましょうか。L.Williamson の言葉を借ります。
「イエスは、自分のもとに来るおびただしい数の人々を、不平も言わずに
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受け入れる。しかし、その数が何の喜びの根拠にもならないことを知ってい
る。そればかりか、イエスは彼らに対して多少の留保を示す。」そして、こ
れが、この後の「種を蒔く人」の譬えの伏線になっていることを指摘します。
恐らく大衆は、イエスが驚くべき力をお持ちであることを知っている以外は、
何にも分かっていなかったのでしょう。その中で皮肉なことが起こります。
11.汚れた霊どもは、イエスを見るとひれ伏して、「あなたは神の子だ」と
叫んだ。 12.イエスは、自分のことを言いふらさないようにと霊どもを厳し
く戒められた。
「言いふらすな」という戒めの趣旨は、イエスが悪霊の証言を拒否された
ということの外に、その時点では恐らく、伝えても受け止める人はいなかっ
たからでしょう。もっと正確に言えば、イエスに対する誤った熱狂の火に“油
を注ぐ”だけになるからでした。イエスがどんな意味で「神の子」であるの
かの秘密は、十字架で死なれるイエスの中にだけ、後に弟子たちが見るので
す。
恐らくこの時点では、イエスの中に清い命の力が宿って働いていることだ
けを、押し合う群衆に、ショックのように、天の父が印象づけておられたの
です。「イエスの本質は、分かっても分からなくてもいい。とにかく、この
イエスの手で、壊れた人間がまともに造り治されるのを見よ。(シャローム
の回復です―新「ローマ書の福音」2 講2.)霊に振り回されて正気を失っ
た者が、清くされて、正しい判断力を備えた本来の人間に戻る。そこに働い
ている命の力がどこから来るか……そのヒントだけでも、奇跡の中に感じ取
れ」と。
毎週会堂で、モーセと預言者を読んで準備されていた民が、ただただ病気
を治してもらって、有り難がっている間に、「汚れた霊」だけがイエスを見
ると、「あなたがメシアだ」、「神が立ててこの国に遣わした貴い方だ」と
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叫んだ、というところで、マルコ福音書はこのフィーバーに最大の皮肉を利
かせて、イエスの孤独を極度に高めています。
この「汚れた霊」“unclean spirits”は、「悪霊」“evil spirits”とも呼
ばれています。人間の清さと人間の尊厳を破壊しようとする根源の力(サタ
ン)がその道具として使った無形の武器、agent―代行者として総動員し
た目に見えない勢力を、「悪霊」または、「汚れた霊」という名でユダヤ人
は呼んだものです。現代でも、恐らく隠れた形で人間の霊の命と清さを奪う
「悪霊」活動は続いていると思いますが、福音書の時代にはイエスの行く先々
に、おぞましい形で、凄まじい力を発揮していたのだと思います。
旧約聖書の中には、悪霊は全く(あるいは殆ど)現れません。サムエル記
に一か所、これに近い表現があるだけです。精神の異常を来たしたサウル王
が、「主から来る悪霊にさいなまれるようになった」という箇所(サムエル
上 16,18,19 章……註 4)です。新約聖書では、使徒行伝に二回だけ(16,19
章)しか出ません。その聖書であまりなじみのない悪霊―汚れた霊が、福
音書の 3 年間にだけ、かなりの件数で出て来るのはなぜなのか……? これ
は、古来聖書の読者にとっての謎でした。私自身の理解は、12 年前にルカの
福音書(16 講)を読んだ時に発表したものが、今も変わっておりません。
福音書のあの 3 年間は、人間の歴史の中で非常に特殊な位置を占めていま
す。それは、聖なる神の決定的な救いが啓示された時でした。人間性を死と
汚れの中から、ナザレのイエスの手で引き起こそうとなさる聖なる神の力が、
創造以来の御計画により地球上のあの地点に集中して働いた時です。その決
定的な意味を持つ 3 年間に、人間を圧し潰す力、人間の尊厳を奪い人間の清
さを奪って汚そうとする意志がグロテスクなまでの姿で荒れ狂ったことは
考えられないでしょうか。悪霊による狂気。汚れた霊に捕えられて汚れの底
まで落ちる魂。肉体と精神のゆがみと奇形(モンスター)の極……。
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その「汚れた霊」と戦って征服するイエスを福音書は描いて、見る目を持
った読者に呼びかけているのです。ヨハネ書簡(1ヨハネ 3:8b)の言葉で
これを表現するなら……。
「その悪霊の仕業を破壊して崩すため、そのために来られたのが神の子な
のです。」
この真実は、「汚れた霊」の恐ろしい力を受けてたじろいだ経験のある人
にだけ通じる……と言ってよいでしょう。イエスのお力でだけ、私は悪霊を
克服できるからです。もっとも、「悪霊」とか、「汚れた霊」は古代人の迷
信で、実際には無いものを福音書が神話として書いた、という人もいます。
しかし、その悪霊が、現に愛する友人たちを汚れに引き込むのをこの目で見
て、自分もまたイエスから目を離せば、いつ同じ淵に転落するかも知れない
ことを経験から知る人は、マルコやルカの記事を決して笑わないのです。
(本
講第 5 講をも参照)
《 結 び 》
「癒しと悪霊払いをどう見る?」という題を掲げました。見方はいろいろ
です。私の育った教会では、あまり聞きませんでしたけれど、教会によって
は、「イエスがなさったのだから、信仰があれば、病を癒すことができる」
という、受け止め方もあります。祈って、祈って、癒されたという例も、も
ちろん出てくるでしょう。ただ戒めるべきは、「あなたは信仰が足りないか
ら治らないのです」という、心ない言葉です。あれは、ゆるせません。「イ
エスは怒って人々を見回した」という、イエスの怒りを私は連想してしまい
ます。
最近の神学書を読んで驚くのは、「イエスにはもともと、奇跡を行う力は
なかったし、また、イエスは奇跡は何ひとつなさらなかった」(?)と見る
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傾向が強くなっていることです。すぐれた作家の中にも、「イエスは何もで
きない人だった」と書くことによって、読者をより強くイエスの人間性に引
き寄せる人も出てきました。
「あの人は駄目な男だった。何もできない人だった」というセリフがアル
パヨやシメオンの口から、何度も語られる小説が競って読まれました。「…
…あの人の哀しい目は、皆、知っている。……ガリラヤ湖のほとりの貧しい
町で、あわれな病人や老人が彼に奇跡をほしがる時、イエスは同じような目
をした。マグダラの町で、一人の母親が熱病のためにぐったりした子をだい
て、この子の命を救ってくれと頼んだ時、イエスは黙ったままその子を両手
にのせて、そのような目で母親を見ていた。やがてあの人の手の中で子供が
動かなくなり息たえた時、その唇から喘ぐような声が洩れた。……それは、
神よどうして見棄てられるのか、という詩篇の祈りだった。」(遠藤周作:
「死海のほとり」)
その人はいつも、死にかけの老人や、高熱にうなされる人のそばにいて、
手を握っていてくれた。「そばにいる。あなたは一人ではない」と耳元で声
をかけて、朝まで一緒にいてくれた。そんな人であったからこそ、イザヤが
証言したように、「彼は軽蔑され、人々に見捨てられ、多くの痛みを負い、
病を知っている。……彼が担ったのはわたしたちの病、彼が負ったのはわた
したちの痛みであった」と言えるのだ……と。
それでは、福音書の記録する“力強いイエス”の姿は何か? それは、この
本当のイエスに飽きたりなかった初代教会の人たちが、イエスを美化して、
輝かしい救主の絵をこしらえたのである。だから福音書の伝えるイエスに惑
わされてはいけない。みすぼらしく敗北しながら、奇跡ひとつ行えないでい
ながら、死に行く者と共にいてくれたイエスを、福音書の文字の背後に読み
取れ……とこの人たちは言います。
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キリストの十字架についても同じ見方を、この人たちはします。次のは、
小説家の書いたものではなくて、バプテストの著名な牧師で、神学部の教授
の言葉です。
「このようにして十字架につけられて殺された者に対してこそ『神の子』
告白がなされているとすれば、それに後続する『復活者』イエスについての
記事において、その『復活者』が実に神々しく力強い姿で登場するなどとい
うことは、全くありえないことなのである。」(青野太潮:「どう読むか、
聖書」朝日選書 p.490)
この視点から見れば、イエスがマタイやルカの描くような形で現実に復活
したと受け取ることは、せっかく、みすぼらしく死んで勝利したイエスの十
字架のぶちこわしになる? というのです。奇跡などしなかったからこそイエ
ス。復活しなかったからこそ十字架が生きる……と。
時代は変わります。「イエスを現代的にこう受け止めた方が、感動も大き
いし、福音も福音らしくある」という現代人の好みは、これからも変わり続
けるでしょう。「現代の知識人ならこう考えなければウソだ」とか、「復活
の信仰は元々、弟子たちの心の中に神様が植え付けた信念だった。それが美
化されて、あの復活物語ができたものだ。それなのにマタイやヨハネが書い
たあの姿で本当に復活のイエスが現れたと考えるのは、中世の修道士が平た
い地球を考えていたのと同じ頑迷だ」とか、「頭の悪い人だけがイエスの奇
跡を本当だと思っている」という声が高まる中で、「いや、そうではない。
天の父の意志はやはり、使徒たちが本当に見て証言したものを、あなたも見
よということだ。」「聖霊の光が照らす中で目を据えて見たら、あなたを生
かすために生ける神が本当に歴史の中で行為された聖なる御業が見えて来る」
と、確信を持って証言する人もいるのです。私もその一人です。
福音の使徒パウロが、彼の正味の信仰の言葉として断言したように、「死
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人を復活させる聖意志がなければ、キリストを復活させなさることもなかっ
た」のです(1コリント 15:16)。福音書の末章に記された出来事が、「弟
子たちに与えられた復活信仰の投影」のような頼りないものではなくて、神
の手によって実現された事実であったればこそ、コリント書の著者は、あそ
こまではっきりと言い切ったのです。
「だが事実、キリストを死人の中から復活させて、現に眠りについてしま
った者たちの初穂になさったのだ。」(同:20)
私たちは今朝マルコの 3 章に、癒しをなさるイエスを見ました。また汚れ
た霊から人を解放なさるイエスを見ました。それは、天の父が理由あって歴
史上にただ一度、死者の中から生かした“復活者キリスト”の本質を暗示す
る“前置き”になっていたのです。
(1994/04/10)
《研究者のための注》
1. 安息日の治療については、「生命の危険は安息規定に先行する」と規定されていて、
具体的にどのようなケースがそれに該当するかは、ラビたちの伝承によって細かく定
められていたと言います(Lane)。
2. ヘロデ派
(:6)について E.Schweizer は、「ヘロデと結託していた
政治的党派の人々が、イエスの中に危険を察知したため政治的理由に基づいて、ファ
リサイ派と協力したかもしれない」と言います。この場合のヘロデはガリラヤの領主
アンティパス、ヘロデ家の権力はローマに依存していました。
3. 群衆の出発地のリストはユダヤ、エルサレム、イドマヤが南部、ヨルダン川の向う側
は東部、ティルス、シドンの辺りが北部で、「十二人の任命で始まるさらに広い地域
への宣教を予示している」(Williamson)と見られます。
4. 「汚れた霊」(:11)は
「悪霊」(1:34)は
同じ存在を指すとされますが、この二つの名を組み合わせた
がルカ 4:34 に使われています。使徒 19:15「邪悪な霊」
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も同じものの別呼称でしょう。ただ、サムエル上 16:14 以下に出る「主の
もとからの邪悪な(害する)霊」
(
)は、「悪霊」であるのか、それとも主なる神がサウルの精神を損なうため
に送った主御自身の力であるのかは、断定できません。
5. 「神の子」(:11)の意味は、14:61(マタイ 26:63)、8:27(マタイ 16:16)か
ら明らかなようにメシア(キリスト)を指すものです。「子」の持つ意味内容、旧約
における用例等からメシアへの適用については 1981.5.20.「ユニークな神の子」(講
解録音 DVD 版)を参照してください。
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