松原神社について

松原神社について
1.所在地
浜田町一丁目六
2.建立時期
文明の間(1469∼87)
但し、大島神社宮司の森本氏の談による
3.松原神社に関する資料
(1)松原神社入り口の案内板より(尼崎市教育委員会)
『松原神社(浜田の神事)
主祭神は素 盞鳴 命で崇徳天皇を相殿神とし、三輪明神を配 祀 する。末社は琴浦神社、
八幡神社、稲荷神社。浜田に残る伝承によれば、崇徳天皇が讃岐(現在の香川県)に移
られる途中、大風雨を避けてこの地で休息された時、村民が、このしろ・はまぐり・か
き・まてがい・ばい・ゆば・湯とうふ・よめな・しいたけ・ごぼう・かまぼこ・やき米
・やき豆・塩おはぎなどを差し上げてもてなしました。その由縁から没後も御霊を慰め
おまつりするに至ったといわれています。現在三月十三日に行われている春祭りを(ダ
ンゴボー)といい、当時と同じものを献上する神事が行われています。また、特定の家が
神事に奉仕する当屋の制度が残っています。
12月31日の除夜には、当屋の中の宮当番が、新しい藁を垂らした注連縄を、松竹
梅に寄せあわせて根元を笹でくくった門松に張って、拝殿前に飾りつけます。元旦の早
朝、当屋の人たちは威儀を正した服装や裃を着て、一切無言で神事を行います。このよ
うな当屋は宮講と呼ばれ現在も神社を中心とするいろいろな年中行事を踏襲して、厳粛
に行っています。
なお、浜田の地は崇徳院の御影堂領が比叡山粟田社領に護持されていた史実と合致し
古くから浜側の田地が(浜田の地名由来)開かれていたことを物語っています 。』
(2)松原神社のパンフレットより(大島神社の作成)
『松原神社
御祭神
素 盞鳴 命 すさのおのみこと 崇徳天皇 すとくてんのう 三輪明神 みわみょうじん
崇徳天皇が讃岐国(現在の香川県)に移られる途中に、大風雨を避けてこの地のご休
息された時、村民が海の物・山の物を差しあげて持て成した。その由縁から 歿 後も霊を
お慰めお祀りするに至ったといわれている。
文明年間(1469∼87)に、素 盞鳴 命を脇殿に合祀するも何時しか素 盞鳴 命を主
祭神として祀り、崇徳天皇を相殿神とし、更に三輪明神をも配祠する。末社に琴浦明神
社、八幡宮社、稲荷神社がある。
当社の春の祭りはダンゴノボーという。コノシロのかすむし(コノシロに酒のかすを
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のせて蒸す。焼き物の替わり) マテガイ二つ(カイをゆでて身だけをダイコンなます
にのせる) バイ二つ(ゆでてから、ふたが開かないように止めておく) ハマグリ四
つ(二つは水を出すところを切って、ふたが開かないようにゆでておく。もう二つは、
ゆでてからおからをつめておく) およね(ダイズと米をいって、花が咲いたように米
をはぜさせたもの) おひら(ゴボウは中をくりぬいて皮だけとしたものを斜めに切っ
て二きれ 湯とうふ ゆば しいたけ かまぼこ) 塩味のおはぎ(米の粉で団子を五
つ作り、塩味のアズキあんをつける )。
また当屋制度も残存し、十二月三十一日の除夜には宮当番が元旦の神まいりの準備を
し、歳旦早朝威厳を正した服装や袴を着て、一切無言で神まいりを行うという神事も厳
粛に踏襲されている。
すさのおのみこと
古事記・日本書紀・出雲国風土記などに見える神。伊邪那岐(いざなぎ)命・伊邪那美
(いざなみ)命の子。天照大神の弟。すさは進む、荒ぶの意味で荒荒しい振舞いの話が
多い。その凶暴さによって高天原(たかまのはら)を追放され、出雲国に下った。八岐
大蛇(やまたのおろち)を退治、天叢雲剣(あめのむらくものつるぎ)を得、天照大神
に献じた。後に新羅(朝鮮半島南部)に渡り、わが国に船材の樹木を持ち帰り、植林法
を伝えたという。暴風神、農業神、英雄神なお多面的な神とされる。
すとくてんのう(1119∼64)
平安後期 。第七五代の天皇 。鳥羽天皇の第一皇子 。名は顕仁( あきひと )。永治元年( 1
141 )、美福門院(びふくもんいん、鳥羽天皇の皇后)の子近衛天皇への譲位をしい
られて退位。のち保元の乱を起こしたが、敗れて讃岐国(香川県)に配流 。(在位11
23∼41)
みわみょうじん
大己貴(おおなむち)神、大物主(おおものぬし)神、大国主(おおくにぬし)神、八
千矛( やちほこ )神のほか様々な名前を持つ 。大国主は因幡の白兎の神話で有名である 。
奈良県大神(おおみわ)神社は三輪(三諸=みもろ)山を御神体としており本殿をもた
ない 。』
(3)尼崎市史より(1974年12月発行
第10巻 P 413∼415)
『現在、浜田の松原神社の宮座を構成しているのは北講であった六家と南講であった二四
家で、この三○家というのは天明期い南・北両講に加入していた家数と同じである。北
講と南講とは昭和四〇年ごろに合併して一つの講となったが、それまでは正月の参拝も
北講が先に供え物をしてまいり、供え物をさげたあとで南講があらためて供え物をして
参っていた。参拝のとき、北講の人は紋付きの羽織・袴を着けていく。南講に属する人
は裃を着て定紋の入った提灯をもっていくことになっていて 、これは現在も残っている 。
なお、講に入っている三〇家の人びとは自分たちを神子といって、講に入れない人たち
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と区別している。天明以後に分家した家は、講に入れないので神子ではなくて氏子なの
である。
講員のうちから当番が決められ、上番・下番をそれぞれ三人ずつで一年間つとめる。
その年の宮神事についてのすべての責任は上番の三人がもつ。下番の三人は翌年上番と
して宮奉仕するために、そのしきたり・作法を覚える見習いである。
三一日に宮当番が寄って、元旦の神まいりの準備をする。拝殿の前にマツ・タケ・ウ
メを寄せて根方をササで締めた門松を立て、新しい藁で七、五、三の藁しべを垂らした
シメナワを作り、門松の間に張る。
元旦は家を出てから神まいりを済ませるまで一切無言で、往来で知人と出会っても頭
をさげるだけである。神社につくと宮当番が居並ぶ拝殿まで上がって礼拝し、あと神酒
をいただく。
春の祭りはダンゴノボーといい、旧の二月一八日に行われていたが、現在は三月一三
日に行っている。浜田の伝承によれば、崇徳上皇が讃岐に流される途中大風が吹いて、
この地に風を避けられた。そのとき自分たちの先祖が海の物・山の物を差しあげてお慰
めした。上皇が讃岐で亡くなられてから、上皇の喜ばれたものをお供えして、その霊を
お慰めしているという。
昭和四〇年ごろまでは、北講の六家が一年交替でダンゴノボーの供え物をととのえて
きた。供え物は七組作って供えたあと、各家に一組ずつあさがりとして配り、うち一組
は浄専寺へ持っていく。
秋祭りは南講がつとめ、一二月のオヒタケ祭りは北と南と両方の講でつとめてきた。
北講は一時期三家となったことがあるので、一年に一回は供え物をととのえたが、北と
南の講が合併した四〇年ごろ以後は、それも間遠くなったという。
ダンゴノボーの供え物は、コノシロの粕むし(コノシロに酒の粕をのせて蒸す。焼き
物の替わり) マテガイ二つ(カイをゆでて身だけをダイコンなますにのせる) バイ
二つ(ゆでてから、ふたが開かないように止めておく) ハマグリ四つ(二つは水を出
すところを切って、ふたが開かないようにゆでておく。もう二つは、ゆでてからおから
をつめておく ) およね( ダイズと米を炒って 、花が咲いたように米をはぜさせたもの )
おひら(ゴボウは中をくりぬいて皮だけとしたものを斜めに切って二きれ 湯とうふ
ゆば しいたけ かまぼこ) 塩味のおはぎ(米の粉で団子を五つ作り、塩味のアズキ
あんをつける )。 』
(4)大庄村誌(大庄村教育調査会
1942年6月発行
P248)より
『村社松原神社(浜田字北居地)
素 盞 鳴尊を祀り、崇徳天皇・三輪明神を配祀する。三月十三日、十月十三日例祭を執行
する。明治六年八月村社に加列せられ境内一千八十坪ある。境内に末社二座、琴浦明神
社(祭神琴浦明神 )・八幡宮社(祭神八幡宮 )・及び稲荷社を祀っている。氏子は大正
時代までは十戸位なりしも、今日では戸口増加して一八○○戸位になっている。境内は
元禄十三年伊丹の油屋が寄進された石燈籠が一対と、文化十一年寄進の狛犬が一対あ
る 。』(但し、新かなづかいになおしている)
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4.資料を調べて
案内板にある「崇徳天皇」は「崇徳上皇」のあやまりではないかと思われる。その根拠は
「保元の乱」の当事者として遠隔地である讃岐に流されたのは、天皇を退いて上皇となってか
らであり、浜田の地に立ち寄ったのはその途中のことであるということらしい。以下にその
根拠となる文献・資料を示しておく。
(1)広辞苑( 1992 年第4版第2刷)より
『崇徳天皇
第七五代の天皇。名は顕仁(あきひと )。讃岐院とも称。鳥羽天皇の第
一皇子。父上皇より譲位させられ、新院とよばれる。保元の乱に破れ、讃岐国に配
流、同地で崩 。(在位1123∼1141 1119∼1164 )』
(2)世界大百科事典(平凡社1973年版)より
『崇徳天皇 1119∼64
第75代天皇(在位1123∼41 )。名は顕仁。鳥羽天皇の第1子、母は中宮藤
原 璋子。1123年(保安4)皇太子となり、即日鳥羽天皇の譲りをうけて即位。その後39
年(保延5)鳥羽上皇の女御美福門院藤原得子は体仁親王を生んだが、上皇はこれを偏
愛し、41年(永治1)崇徳天皇に迫って強いて位を譲らせ、体仁親王を立てて近衛天皇と
した。55年(久寿2)近衛天皇が死に崇徳上皇はその子重仁親王を立てようとしたが、美
福門院のはばむところとなり、位は上皇の同母弟雅仁親王に譲られ、後白河天皇の即位
をみた。ここにおいて崇徳上皇の心は平らかならず、1156年(保元1年7月)鳥羽法皇
の死に際して藤原頼長らとはかり、源為義、為朝らを召して兵を起こしたが敗れ、讃岐(さ
ぬき)に移された。これを保元の乱という。上皇は讃岐で<五部大乗経>を血書し、これ
を安楽寿院に納めようとしたが後白河天皇に拒否され、失意のうちに讃岐で死去した。
世に讃岐院という。陵墓は香川県坂出市松山にあり、白峰陵という。』
(3)大辞泉(小学館1995年版)より
『保元の乱
保元元年(1156)京都に起こった内乱。皇室では皇位継承に関
して不満を持つ崇徳上皇と後白河天皇とが 、摂関家では藤原頼長と忠通とが対立し 、
崇徳・頼長側は源為義・平忠正の軍を招き、後白河・忠通側は源義朝・平清盛の軍
を招いて交戦したが、崇徳側が敗れ、上皇は讃岐 さぬき に流された。貴族の無力化
と武士の実力を示した事件で、武士の政界進出を促した 。』
案内板の「崇徳天皇が讃岐に移られる途中」とあるのは、尼崎市史の記述にあるように
保元の乱で「崇徳上皇が讃岐に流される途中」が正しいのではないだろうか。
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5 .「浜田の伝承」について
原典について調べてはいないので、どのような史実や資料からこの話が伝わっていたの
かわからない。
6.現在の「松原神社」について
「大島神社」の宮司森本氏の談より
『
近代以前は、地域の村の中で神主を交代で務めるなどして、松原神社の神事やその
他の運営を行っていた。現在のように宮司という専門職ができたのはずっと後からで
ある。
現在は松原神社の宮司も兼ねている 。』
(2002.9.30記)
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