† BACHを訪ねて バッハは生涯のほとんどをドイツ国内、それも生まれ故郷テューリンゲンと バッハの時代(17~18 世紀)のドイツはいまだ国として統一されておらず「神聖ローマ帝国」の名の下、 中小の国家が林立していた。 宗教面ではカトリック教会とプロテスタント教会が並存、プロテスタントはさらに音楽を重んじる ルター派と教会音楽に否定的なカルヴァン派に分かれていた。 バッハは生涯で 5 回転職したが、そのたびに、上司(自由都市の場合は市参事会及び教会、宮廷の場合 は領主)の宗教や音楽への要望に合わせて音楽活動を行うことを求められた。 音楽史の上では、バロック音楽が興隆し、やがて終焉を迎える。この時期の音楽を先導したのはイタ リア(オペラ・協奏曲、作曲家:スカルラッティ、ヴィヴァルディ等) 、フランス(ポリフォニー音楽、 作曲家:リュリ、ラモー、クープラン等)であった。 バッハはドイツの伝統音楽(オルガン音楽、コラール等)を源としながら、先進諸国の音楽を吸収し、 独自の音楽を作り上げ、バロック音楽の頂点を極めた。 それに隣り合うザクセンで過ごした。以下年代順にゆかりの地を紹介しながらその生涯を辿る。 【ヴァイマール➏】 ヴァイマル城内教会「天 の城」1660 年リヒター筆 【アイゼナハ➊】(~10 歳) 「バッハの生地」 アイゼナハはバッハが生まれた当時、ザクセン・アイゼナハ 公国の首都だった。J・S・バッハは 1685 年 3 月 21 日 8 人 兄弟の末子として生まれた。父は優秀な町楽師であった。7 歳で ラテン語学校に入学し、聖歌隊で歌った。10 歳で父母が相次い で他界、兄に引き取られることになった。 当地にある「バッハハウス(バッハ博物館)」では、バッハ 関連資料や当時の楽器・家財道具等を見ることができる。 リューベック ■ ■ハンブルク J・S・バッハ 【オールドルフ➋】(10~15 歳) 長兄ヨハン・クリストフに引き取られ、ラテン語学校で学び、教会の聖歌隊にも 加わった。音楽への情熱に芽生え、兄が集めた楽譜を夜中に持ち出し、月明かりを 頼りにその全てを筆写したという。 【リューネブルク➌】(15~18 歳) 聖ミカエル教会付属学校給費生となり、学校で学び、教会の「朝歌合唱隊員」を 勤めた。変声期後は聖歌隊の器楽奏者兼オルガン奏者になった。一方で、オルガン の巨匠ラインケン等の演奏に触れ多大な影響を受けた。また、しばしばツェレの宮 廷を訪れ、リュリやクープラン等のフランス音楽にも接した。 リューネブルク➌ ■ ツェレ ■ ●ベルリン ポツダム ケーテン ➐ ハレ■ ミュールハウゼン➎ 【アルンシュタット➍】(18~22 歳) 「若き音楽家誕生」 新教会(現バッハ教会)のオルガニストの職を得、演奏と創作 活動に意欲的に取り組んだ。 当時リューベックではブクステフーデの「夕べの音楽」が評判 になっていた。バッハは 4 週間の休暇を取り、聴きに行ったが、 実際には 4 ヶ月にも及んだ。その後、賛美歌の伴奏にブクステ フーデ風の即興演奏を取り入れたが、理解されなかった。いず れも聖職会議で非難されることに。バッハは現状に物足りなさ を感じ、辞職を申し出た。 ブクステフーデ この時期「トッカータとフーガ」等多数のオルガン及びチェン バロ曲を作曲した。 アイゼナハ ➊ オール ➋ ドルフ ➍ アルン シュタット 《バッハ関連地図》 番号付:バッハが住んだ街 ■印:バッハが訪ねた街 【ミュールハウゼン➎】(22~23 歳) 聖ブラジウス教会 ヴァイマール ➏ 帝国自由都市ミュールハウゼンの主導的な教会のひとつ聖ブラジウス教会の オルガニストとして就任。これを機にかねて付き合いのあった従妹のマリア・ バルバラと結婚した。 バッハはカンタータ作曲やオルガンの改修に力を注いだ。しかし教会宗派間 の抗争に巻き込まれ音楽活動がやりにくくなった。そのため短期間で当地を去 ることになる。 「偉大なるオルガニスト」 ヴァイマールは、バッハが、後にはゲーテ、シラーが活躍した宮廷文化都市であり、 今もその名残りは息づいている。 バッハはザクセン=ヴァイマール公国の宮廷オルガニストとして赴任した。領主ヴィ ルヘルム・エルンスト公はルター派正統主義を信仰し、教会音楽を重視していた。領主 と意見が合い、指(演奏)も筆(作曲)も踊った。領主の許しを得てハレ、ドレスデン等 各地でオルガン演奏を披露、その名声はドイツ中に響き渡った(ドレスデンではフラン スの名手マルシャンとの腕比べに勝った)。 一方、領主の甥で共同統治者のアウグスト公とその弟は大の音楽好きで、ヴィヴァル ディなどのイタリア音楽に詳しかった。バッハはそこに頻繁に通った。これが原因で領 主との間がギクシャクし、望んでいた宮廷楽長への道が閉ざされた。 そんな折、ケーテン公からの誘いがあった。バッハは退職を願い出たが、領主はそれ を許さず、4 週間も牢に拘留されるという事態が起きる。 オルガン曲の大半がこの時期に作られた。 【ケーテン➐】 (32~38 歳) 「宮廷楽長に就任」 アンハルト=ケーテン公国の宮廷楽長に就任。宮廷の宗派はカルヴァ ン派であった。ケーテンは小さな街であったが、領主レオポルト公は音 楽を愛し、宮廷楽団は名手揃いであった。この時期のバッハは世俗音楽 の演奏・作曲にいそしんだ。そんな中、35 歳のとき妻マリア・バルバラ を亡くすが、翌年アンナ・マクダレーナと再婚し、家庭は落ちつきを取 り戻す。 平和な生活にもやがて転機が訪れる。宮廷楽団の維持が財政的に困難 になったうえ、領主が結婚し、迎えた妻は音楽嫌いであったため、領主 のバッハに対する態度も変わった。バッハも再び教会音楽に携わりたい と思い、空席の出たトーマス・カントルの職に応募することにした。 この時期、 「ブランデンブルク協奏曲」 「無伴奏ヴァイオリン・ソナタ」 「無伴奏チェロ組曲」 「平均律クラヴィーア曲集第 1 巻」等、後世に残 る曲を作った。 【ライプツィヒ➑】(38~65 歳) テューリンゲン地方 ➑ ライプツィヒ (23~32 歳) ザクセン地方 ■ ドレスデン レオポルド公 「ト-マス・カントルに就任」 名誉ある聖トーマス教会付属学校のカントル兼市音楽監督に就任。仕事は主要 4 教会と市の 行事のために音楽を提供し、トーマス学校の生徒を教育することであった。 ライプツィヒは当時ザクセン選定候国下の 1 都市でありながら経済的・ 文化的繁栄を誇り、大幅な自治権が認められていた。バッハは選定候、 参事会、聖職会議、校長といった多くの上司たちに仕えなければなら あつれき なかった。上司たちとの軋轢を繰り返しながらも、亡くなるまでこの 職を続けた。 (前期 38~44 歳) ・聖職会議との対立始まる(42 歳) 。 ・コレギウム・ムジクムの指揮者に就任(44 歳) 。 ・教会カンタータ 200 曲、 「ヨハネ受難曲」「マタイ受難曲」等を作曲。 聖トーマス教会 (中期 45 歳~54 歳) (写真:テノール 松浦義勝) ・市参事会がバッハの職務怠慢(教育)を非難、これに対し、 バッハは 教会音楽の改善を求める書面を参事会に提出(45 歳) 。 ・シャイベがバッハの音楽を批判する論文を発表(52 歳) 。 ・「クリスマス・オラトリオ」「クラヴィーア練習曲集第 2 部・第 3 部」等作曲。 (晩年 55 歳~65 歳) ・眼を患いイギリス人医師の手術を受けるが失敗、それがもとで 1750 年 7 月 28 日死去。 ・ 「ゴールドベルグ変奏曲」 「平均律クラヴィーア曲集第 2 巻」「音楽の捧げ物」等を作曲。 (テノール 安藤正彦)
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