バッハ通信 Nr.8 - 名古屋市民コーラス

BACH通信(バッハつうしん)
Nr.8
2009年10月27日発行
バッハ研究会
名古屋市民コーラス
編集:小川(A)、安藤(T)、堀尾(S)
今年度お届けしてきた『BACH通信』も最後の号となりました。連載「BACHを訪ねて」はバッハ終焉の地であるライプツィヒを紹介、コラム「Ach、Je
sus」はイエスの生涯で最も謎とされる内容にせまります。また、イエスの受難について深く知るために、今からでも間に合うおすすめ本を紹介します。
BACH を訪ねて<第7回 時代を超えたカントル>
【ライプツィヒ】 (38~65 歳、1723~50) ライプツィヒは「ベルリンの壁」を崩し(1989 年)、ドイツ統一へ至るきっかけを生んだ街。今も昔も進歩的な気風にあふれた街である。バッハの時
代、ライプツィヒは経済的・文化的に繁栄を誇り、ザクセン選定候国下の 1 都市でありながら、殆ど独立国のように運営されていた。バッハは名誉ある聖トーマス教会付属学校カントル兼市音楽監
督の職に就いた。仕事は主要 4 教会と市の行事のために音楽を提供し、トーマス学校の生徒を教育することであった。バッハは音楽活動に専念したかった(楽長型カントル)が、市参事会・
教会等からは教育活動に重きを置くことを求められた(教師型カントル)。一方領主は文化政策上、楽長型を望んでいたようで、始めから波乱含みであった。
【トーマス・カントルの激務】(38~44 歳、1723~29)
カントルの最大の仕事はライプツィヒの主要教会における礼拝用の音楽を作曲し、上演することであった。具体的
には年間 60 曲ものカンタータの作曲、練習指導、上演を要求された。結果として 200 曲ものカンタータを作曲し、ほ
かにも市の行事のために多くの音楽を提供した。激務だったが、バッハは熱心に取り組んだ。しかし上司との関
係は最初からギクシャクしており、ついには 28 年に、聖職会議との対立が表面化することに。
この時期カンタータのほか「ヨハネ受難曲」「マタイ受難曲」等を作曲した。
【転機と危機】 (45~54 歳、1730~39)
30 年に今度は市参事会がバッハの職務怠慢(教育)を非難、これに対しバッハは教会音楽の改
善を求める書面を提出するという事態が起きる。教会での音楽活動に失望したバッハは、新し
聖ト-マス教会
い仕事「コレギウム・ムジクムへの音楽提供及び指導」に取り組むようになる。また、市参事会等に対
抗すべく、選帝侯に接近、36 年に「ザクセン選帝侯宮廷作曲家」の称号を得る。一方で、37 年にはシャイベによるバ
ッハ批判論文が発表され、苦境に立たされることに。この時期、「クリスマス・オラトリオ」「クラヴィーア練習曲集 2 巻・3 巻」
「平均律クラヴィーア曲集第 2 巻」等の世俗音楽の作曲が中心となる。
教会前のバッハの銅像
【晩年】(55~65 歳、1740~50)
バッハ批判はシャイベが詫びて収まった。47 年にはフリードリヒ大王に招待され、同年「音楽芸術協会」に入会を許される等の名誉を
得た。この時期ポリフォニー音楽の集大成ともいえる「ゴルトベルク変奏曲」「音楽の捧げもの」「フーガの技法」等を作曲した。頑健なバッ
参考文献:「バッハへの旅」加藤浩子著 東京書籍、
ハも体力面での衰えは隠せず、眼の病気が元で 1750 年 7 月、65 歳でこの世を去った。バッハは演奏家としてその名を轟かせてい
「バッハ」樋口隆一 新潮文庫、「J・S・バッハ時代を超え
たカントール」 川端純四郎 日本キリスト教出版局
たが、作曲家としては存命中は十分に評価されなかった。その真価が認められるには死後 1 世紀近くも要することになる。
(生涯チーム T 成田・T 安藤)
セバちゃんのお部屋 ~耳より情報・・・今回はお役立ち情報~
J.S.バッハの曲名にある「BWV」とは何でしょう?ご存知の方も多いと思いますが、バッハ
の作品目録 Bach-Werke-Verzeichnis の略で、BWVに続く番号が目録の整理番号です。音楽
学者ヴォルフガング・シュミーダーが 1950 年に提唱したもので、作品の発表順でなくジャンルご
とに番号がつけられているのが特徴。例えば BWV1-231 はカンタータやモテット、BWV525-771
はオルガン曲につけられており、オラトリオは BWV244-249 でマタイ受難曲はここに含まれます。
このジャンル別の目録はヘンデルの「HWV」やシュッツの「SWV」にも影響をあたえていま
すが、どちらかと言えば作曲年代順に並べるのが一般的。ワーグナーの作品番号は「WWV」
で、これは年代順になっています。ただし、どちらの整理方法にも一長一短あるようです。
他には、モーツァルトの「K.」(ルートヴィヒ・フォン・ケッヘル 1862 年提唱、KVと記されることもあ
る)やハイドンの「Hob.」(アントニー・ヴァン・ホーボーケン 1958 年提唱、ジャンル(ローマ数字)ごと
に番号が 1 から振られている)やシューベルトの「D」(オットー・エーリッヒ・ドイッチュ 1951 年提唱)
が有名であり、いずれの略字も編纂者の名前で呼ばれます。
では研究者や編纂者がいない場合はどうか。よく使われる略字は「Op.」 で、作品や仕
事を意味するラテン語の opus(オーパス)の略。日本語でも「作品○○」と言いますね。ちなみ
に opus は opera(オペラ)と語源が一緒です。 またバッハのBWVのさらに後ろに「Anh. 」と
いう文字がついているのをたまに目にしますが、これは追加や補遺という意味の独語
Anhang の略。作品目録が作られた後に追加した番号をつける場合に使われます。
参考:ウィキペディア他 (情報提供:S.小木曽、文責:A.小川)
コラム
Vol.Ⅶ
Ach,Jesus!
イエスよ、あなたは何処から来て何処へ行かれたのですか・・・・?
✜このコラムもいよいよ最終回となりました。敢えて第1号で書かせていただいたサブタイトルに戻ってみたいと思います。イエス
の出自や風貌に関しては新約聖書以外に2世紀頃に書かれた親イエス、反イエスの様々な書物、ユダヤ総督ピラトによるロ
ーマ皇帝への報告書簡、ヨセフスのユダヤ戦記などにいろいろ興味深い記録が残っていますがここでは省略させて頂きます。
✜前号ではユダの裏切りのなぞに触れましたが今回は新約聖書のもう一つの大きななぞである、何故イエスはピラトの
裁判で弁明せずに敢えて磔刑についたのか、について考えてみたいと思います。
✜ご存知のようにイエスはユダヤの律法に精通しており、旧約聖書全般に深い見識を持
っていたと考えられています。一時期若い頃はクムランなどで集団生活していたエッセネ派
で深くユダヤ教の経典の勉強をしていたのではないかとも考えられています。特にイザヤ
書、エレミヤ書、ダニエル書、ゼカリヤ書、マラキ書などの預言的部分を強く意識していた
のではないかと思われます。また詩篇の内容もよく口にしています。
✜西暦26年秋頃イエスは、神の国の到来を告げ悔い改めよと厳しく説教する洗礼者
ヨハネから洗礼を受け、師ヨハネに倣って自らも洗礼活動を行うようになりました。洗礼者
ヨハネは自らをマラキ書に預言された「道を整える使者」と重ね合わせていました。旧約聖
書ではダビデの血を引く王の裔とレビ族の祖アロンの血を引く二人のメシアが神の王国の
到来を告げると、あちこちに書かれています。ユダ族出身のイエスはレビ族出身の師ヨハネ
と共に西暦27年末まで洗礼活動を続け多くのユダヤ人達に神の国の到来に備えるよう
宣教活動をしていましたが、西暦28年初頭に師ヨハネがヘロデ・アンテパス王に逮捕され
るという衝撃的な事件が起こりました。ユダヤ南部で活動していたイエスと弟子達は身の安全を図るために密かに出身地
のガリラヤに戻り、カナやカファルナウムなどで暮らし次の計画を練っていたと考えられています。さらに西暦29年初頭ヘロ
デによりヨハネは処刑されました。イエスはこの事件に大変ショックを受けたようです。イエス達はヘロデの支配域外のガリラ
ヤ北部ペトサイダに潜伏します。しかしやがてこの頃からイエスはエレミヤ書やイザヤ書に
あるようにダビデの末裔がメシアとして登場することを強く意識し始めたと思われます。と
同時に旧約聖書にあるようにメシアがやがて死ななければならないことも意識し始めま
す。それはゼカリヤ書にある、諸国民が結集して奪われたエルサレムに激しく戦いを挑
み、神の力で主の王国を実現させるというくだり(ゼカリヤ:14)の直前の一節です。
剣 よ起 きよ、私 の羊 飼 いたちに立 ち向 かえ
私 の同 僚 であった男 に立 ち向 かえと
万 軍 の主 は言 われる
羊 飼 いを撃 て、羊 の群 れは散 らされるがよい
私 はまた、手 を返 して小 さいものを撃 つ
(ゼカリヤ:13-7)
羊飼い、すなわちメシアは神の手によって撃たれるのです。死を覚悟してメシアの道を決意したイエスは潜伏していたガリラ
ヤ地方を離れ、危険を冒してエルサレム近郊のベタニアに滞在し毎日エルサレムに出かけるようになります。ゼカリヤ書に
書かれた通りに・・・
娘 シオンよ大 いに踊 れ
娘 エルサレムよ歓 呼 の声 を上 げよ
見 よ、あなたの王 が来 る
彼 は神 に従 い、勝 利 を与 えられた者
高 ぶることなく、ロバに乗 ってやってくる
雌 ロバの子 であるロバに乗 って
(ゼカリヤ:9-9)
✜イエスは最後に十字架の上でいくつかの言葉を残しています。有名な「エロイ、エロイ、レマ、サバクタニ」はダビデの作
といわれている詩篇22の暗誦です。死に瀕する者の祈りですが、受難の後に主が助けを求める叫びを聞いて下さる、
という希望に満ちた言葉で終わります。イエスは最後もダビデの末裔として死んでいったのかもしれません。
参考文献:旧約聖書、新約聖書、「イエスの王朝」ジェイムス・D・テイバー著 他
(B:弘瀬)
遠藤周作「イエスの生涯」 を 読 ん で
イエス生誕から十字架の死までの生涯は、預言の成就である、とのこと
だが、その宗教的意義がいまひとつ納得できないでいたある日、図書館
でこの作品に出会った。
この中に描かれるイエスは、病む人を奇跡で
救うわけでなく、苦しんでいる人のそばでいつ
までも祈り続ける。その人が疲れて眠るまで、
あるいは息をひきとるまで。
どこまでも頼りなげで、何もできない、何もして
くれない人。やがて囚われみじめに引いてゆ
かれるイエス。裁判でも抗弁せず、残酷な刑も
甘んじて受ける。何故?どうして?弟子たちさ
え去って行ったのに・・・
遠藤氏はこんなイエスを永遠の同伴者と呼ぶ。
新潮社文庫 264p.
病気に苦しむあなた、絶望の淵に嘆くあなた、
(改訂版 1982 年)
′ ′ ′ ′ ′ ′
私(イエス)はあなたの苦しみを知っています。
私はけっしてあなたから去らず、いつまでもそばにいます。私はその
ためにここ(地上)に来たのです。
イエスが永遠の同伴者であることを身を持って証明するために、あの
受難は成された。汝・・・するなかれ、と戒めるだけの神ではなく、人々
とともに苦しみ、いっしょに泣いてくれるイエス。すべての人のために
(害をなすひとでさえも)神にゆるしを乞い、祈ろうとするイエス。いちど
は逃げ去った弱虫の弟子たちも、後には師にも勝るとも劣らぬ迫害に
耐え、キリスト教の基を築いてゆくことになったのだから、大いにイエス
の受難には意義があったといえる。
≪おまけ≫
最近DVDでメルギブソンの「Passion」を観た。イエスが鞭打たれる場
面は正視できないリアルさだ。そこまでしなくても・・・でもいつか、自分
が重い病気などでくじけそうになったら、イエスもそばで一緒に苦しん
でいらっしゃると思えば耐えられるかも。
(A.三浦)
<編集後記>
みなさまのおかげで『バッハ通信』も無事8号まで発行することが
できました。執筆陣を中心に発行に関わった方々の大奮闘により、
このまま出版してもよいくらいの素晴らしい内容となりました。こ
の場をお借りして御礼を申し上げます。
今年度の研究会は、練習と同様、例年よりも早く立ち上げられ、お
よそ一年に渡って活動を続けてきました。
「バッハ」や「キリスト教」
というテーマは大きく深く、私たちはちょっと入口を覗いた程度か
もしれません。しかし、これらすべてが私たちの糧となり、
「マタイ
受難曲」の世界を豊かな表現をもって聴衆に伝えていくことができ
たら、と思います。一年間、本当にありがとうございました。
(A.小川)