天上の薬と世俗の薬――中世ヨーロッパの医療 久木田 直江 会のすみ

天上の薬と世俗の薬――中世ヨーロッパの医療
久木田
直江
1千年に及ぶヨーロッパ中世はキリスト教を受容・発展させ、キリスト教的価値観を社
会のすみずみまで浸透させた。中世の医療について考える場合も、まず、キリスト教に
おいて病と癒しがどのように考えられていたかを知ることが必要だ。
キリスト教の黎明期から、教会の教父たちは、病は人間の罪の結果であると考えた。
その由来は旧約聖書の「創世記」に記されたアダムとイヴの楽園追放にさかのぼる。教
会はアダムとイヴが神に背いて楽園を追放されて以来、人間は原罪を背負い、病苦、貧
困、死すべき運命を与えられたと説いたのである。原罪はキリストの十字架上の犠牲や
洗礼によって減じられたが、聖人ならぬ普通の人間は罪を重ね、罰を受ける。病気が罪
の結果の罰であるならば、身体の健康は悔悛と罪の赦しによって得られる霊的な健康の
上に成り立つことになる。このような身体と魂の共生的関係を前提とする心性はデカル
ト以前のキリスト教世界に浸透していた。身体は魂に影響を与え,その反対も然りであ
る。こうして、薬の心身に与える効果はキリスト教と結びつき、キリストを霊的な「医
師」、
「薬剤師」と考える伝統が生まれ、象徴的意味が増幅した。
同時に、中世ヨーロッパが古代ギリシャ・ローマの知的遺産を継承して成立したこと
も忘れてはならない。プラトンやアリストテレスの哲学が中世のスコラ学に影響を与え
たように、ヒポクラテス派の医学はガレヌスを経由して中世医学の基礎をつくった。後
述するが、ギリシャ医学は体液病理学を基本として、体液のバランスが崩れると病気に
なると考えた。人びとはこれに基づき薬効に関する知識を蓄積し、経験に基づいて薬を
使ったのである。しかし、ギリシャ医学によって病気が説明され、治療が行われたとし
ても、中世の教会は依然として病や死は神から与えられると説き、神学者も医師も教会
の教えを信じ、従っていた。古代ギリシャの医学とキリスト教の教えはアントニー・フ
ァン・レーヴェンフーク(Anthonie van Leeuwenhoek、1723 年没) が顕微鏡を発明し、
目に見えない微生物によって病気が広がることが分かるまで、キリスト教世界の医療を
支配した。本稿では、病気と薬についての教会の教えと実践、続いて世俗の薬の実際に
ついて考える。
第 4 回ラテラノ公会議と医療
(1)告解・悔悛の義務
「医師キリスト」という概念はキリスト教の初期の教父時代からあり、さまざまな比
喩が生まれた。例えば、聖アウグスティヌス(354 年-430 年)は、十字架上のキリス
トが味わった「苦い盃」
(
「マタイによる福音書」第 26 章、42 節)を病人に処方される
苦い薬に譬え、魂の医師であるキリストは患者に苦い薬を与える前に自らがそれを試し
1
たと説いた。1キリストを医師や薬剤師に重ねるこのような解釈は広く中世の文化の中
2
、11 世紀
に浸透した。 (図版、写本挿絵「ライ病患者をいやすキリスト」
略)
しかし、中世のキリスト教会が病気と治療に対して制度的に関与するようになったの
は、12-13 世紀のグレゴリウス改革と呼ばれる教会の刷新運動をとおしてである。1215
年、第 4 回ラテラノ公会議において、教皇イノケンティウス 3 世はキリスト教会の綱紀粛
正を目指し、様々な改革令を発布した。教令第 21 号はすべての男女のキリスト教徒に少な
くとも年一回の告解と悔悛の義務を課した。また,教令第 22 号は病床にいる信徒の告解を
義務付けたばかりか、医師が病人を告解させず治療した場合、破門を命じた。3 病苦は罪に
由来しているのであるから、告解と悔悛によって身体の病も魂の病も癒されると考えられ
たのである。この公会議をきっかけに告解の秘蹟4は身体と魂の救済にかかわる重要な問題
となった。
第 4 回ラテラノ公会議から 100 年を経て施行された病院規則を例にとろう。レスタ
ーにあったこの病院はお告げの聖母マリア病院(ニューアーク)と呼ばれ、ランカスタ
ー家にゆかりが深い。初代ランカスター公ヘンリー・グロスモント(1310 年頃-61 年)の
父であるランカスター伯ヘンリーが 1330 年代に当院を建て、その後、1351 年から約 10
年間、息子のヘンリー公がランカスター家を治めた際、貧者の病苦を憂い、病院を改築
するなどの慈善事業を精力的に行なった。5
病院の改善の施策のなかには、父が制定
した病院規則の改定もあり、新しい病院規則では,貧者や病者を入院させる場合、病院
長である司祭に告解し悔悛することを義務付けた。6
(2)聖体拝領と聖体崇拝
教会の関与は告解の義務にとどまらない。第 4 回ラテラノ公会議の教令は病者に対す
る聖体拝領に力点を置いたため、医療は教会典礼と深く結びついていく。イノケンティ
ウス3世は司祭を魂の医者と呼び、キリストの受難を再現するミサで信徒が拝領する聖
1
R. Arbesmann, ‘The Concept of Christus Medicus in St Augustine’, Traditio, 10 (1954), 1-28 (p. 15).
「薬剤師としてのキリスト図」については,奥田潤「中・近世ヨーロッパにおける“薬剤師とし
てのキリスト画”」『薬史学雑誌』
、36 (2),2001 年,175-9 参照。
3
Decrees of the Ecumenical Councils, Norman P. Tanner (ed.), 2 vols, Washington, D C: Georgetown
University Press, 1990, I, pp. 245-6; Gregory IX, Decretales 5.38.13 (Cum infirmitas [or Quum
infirmitas] in Darrel W. Amundsen, Medicine, Society, and Faith in the Ancient and Medieval Worlds,
Baltimore and London: Johns Hopkins University Press, 1996, p. 201 参照。
4
カトリック教会の 7 つの秘蹟には、洗礼、聖体、告解、婚姻、叙階、堅信、終油の秘蹟がある。
5
ランカスター公ヘンリーはガーター騎士団設立からのメンバーの一人であり,その気高い心や
高貴な振る舞いは人々の賞賛を集めた。しかし,彼の活躍の場は宮廷や戦いの場に留まらず,当
時の社会の様々な階層の人々に向けて心を砕いた。
6
Sources for the History of Medicine in Late Medieval England, selected, introduced and translated by
Carole Rawcliffe (Kalamazoo, MI: Medieval Institute Publications, Western Michigan University, 1995),
p. 3. 中世の病院では病者だけではなく巡礼者や貧者も受け入れていたが,やがて病人を主に受
け入れるようになった段階においても貧者を受け入れる施設が多かった。児玉義仁『<病気>の
誕生-近代医療の起源』、平凡社、1998 年、222-3 頁。
2
2
体(ルビ
ホスティア)は薬であると説いた。そもそも、聖体を薬とする考え方は、ア
ウグスティヌス以来、神学者たちによって継承されてきたのだが、イノケンティウス 3
世は、聖体は人間の罪を消し去り、悔悛する者に永遠のいのちと健康を与えると述べ、
聖体を聖なる万能薬であると宣言したのである。
パンと葡萄酒というシンボルは中世後期のキリスト教文化の中心にあった。キリスト
教会は、信者はミサに与りパンと葡萄酒を拝領することによって、神と融合して一にな
り、永遠の救済を約束されると教えている。聖体拝領はあらゆる世代のキリスト教徒に
とって本質的に同じ意味をもつ。しかし、第 4 回ラテラノ公会議において、ミサのなか
で司祭が聖別したパンと葡萄酒がキリストの体と血そのものに変化するという教義(聖
体の実体変化)が裁可され、さらに、1年に1回、キリスト教徒は罪を告解して聖体拝
領に与ることが義務付けられると、聖体拝領の重要性はいや増した。同時に、中世末に
聖体にはさまざまな奇跡を起こす能力が潜在すると考えられ、魂の薬としての効力も強
調されるようになったのである。
永遠のいのちを約束する聖体は瀕死の病人のもとにも運ばれた。聖体を教会や聖堂か
ら持ち出す際の諸注意が残っているが、終油の秘蹟を受ける病人が聖体を拝領したり拝
んだりすることはと中世末には定着していた。7 14 世紀末から 15 世紀の前半にイース
ト・アングリアのキングズ・リンに生きた富裕商人の妻マージェリー・ケンプが口述筆
記した自伝『マージェリー・ケンプの書』にも病人のもとに聖体を運ぶ様子が描かれて
いる。マージェリーの自伝はキリストの受肉と贖罪の神秘が市井の人々の日常の中に息
づいていたことを伝えているが、聖体がロウソクの灯されたなかを恭しく運ばれていく
光景は、マージェリーや敬虔な平信徒たちが畏敬と崇拝の念をこめて聖体がもたらす魂
の癒しを期待していたことを窺わせる。8
このように聖体への期待と関心が高まると、ミサの中で起きる聖体の実体変化に注
目が集まり、聖体にまつわる話が人々の想像力を膨らませた。
「聖グレゴリウスのミサ」
として知られる奇跡譚では、聖グレゴリウスがミサを挙げているときに、祭壇上の聖
体が「悲しみのキリスト」に変わり、墓の中から上半身を現す。人びとはこの奇跡に
驚嘆し、
「聖グレゴリウスのミサ」は典礼書の挿絵や絵画の題材となって広く流布した。
9
この図像のように,司祭が聖別し高く挙げたホスチアは受難のキリストに変化すると
7
Rubin, Corpus Christi: The Eucharist in Late Medieval Culture (Cambridge: Cambridge University
Press, 1992), p. 78.
8
The Book of Margery Kempe, Sanford Brown Meech and Hope Emily Allen (eds), vol. I, EETS OS 212
(London: Oxford University Press, 1940), chap. 72. 邦訳は『マージェリー・ケンプの書 イギリス
最古の自伝』石井美樹子、久木田直江訳 (慶応義塾大学出版会、2009 年)。14 世紀のはじめには
聖体を賛美し祝う聖体祭が定着し,ヨーロッパ各地で聖体を運びながら町の中を練り歩く聖体祭
の行列が見られた。マージェリーもこの行列に加わり神への愛が高まったことを回想している
(第 45 章)。マージェリー・ケンプの神秘的霊性については,久木田直江『マージェリー・ケン
プ 黙想の旅』(慶応義塾大学出版会、2003 年) に詳しい。
9
Rubin, Corpus Christi, pp. 308-10.
3
考えられた。人々は奉挙されたホスチアを拝み,感謝、畏怖,歓喜につつまれた。10病
者にとってその意義はさらに大きい。聖体を拝むと苦しみは和らげられ、病や癒える
と信じたからである。実際に身体の中を電流が走る感覚が襲うような呪術的な効果が
あったようだ。中世の病院ではミサと聖体拝領が毎日の治療計画の重要な部分を占め
ていた。ランカスター公ヘンリーの病院では病院のレイアウトも,病者がベッドにい
ながらにして聖体を拝めるように配慮されていた。11しかも、この病院では夜明けと朝
9 時にミサがとり行われていた。
(図版
ボーヌの病院内部
略)
もっとも、ランカスター公ヘンリーは聖体が魂にもたらす治癒効果に個人的にも全
幅の信頼を寄せていた。 12 公爵は黙想の書『聖なる治癒の書』(Le Livre de Seyntz
Medicines)
13
を著し文学史に名をとどめているが、その書のなかで、自らが犯した傲慢
や大食などの 7 つの大罪を告解し、罪ゆえに満身創痍となった自分自身の身体をさら
け出す。そして、ヘンリー公は傷の癒しをキリストの血でつくられた膏薬を求めるの
である。14身体と魂の救済をキリストの受難と贖罪に委ねるヘンリー公の黙想は、第 4
回ラテラノ公会議以降,告解と聖体拝領という魂の治療が強化され、病者は天上の薬
であるキリストの体と血によって癒されるとする考えが社会に浸透していたことを示
唆している。
日ごとの祈り
ミサ聖餐が病苦を癒す薬であるばかりではなく、教会典礼をとおして神に祈りを捧げ
ることが薬として機能した。中世では人間の罪を購ったキリストの受難について思い巡
らし、天国での救済を祈ることで病苦は和らぐと考えられていた。例えば,マージェリ
ー・ケンプは赤痢がきっかけで慢性盲腸炎や胆嚢炎を患ったのだが、苦痛が押し寄せて
くる度にキリストの受難を黙想して必死で祈った。すると、身体の痛みは消え、魂は絶
望の淵から救われたと述懐している。15また,14 世紀のイングランドを代表する隠修女、
ノリッジのジュリアンも病苦の中でキリストの受難を黙想し神の啓示を受け,身体と魂
の健康を取り戻した。16
10
マージェリー・ケンプはミサに与り聖体を拝領するとき受難を思い激しく泣いた。The Book of
Margery Kempe, chap. 56.
11
12 世紀以前の病院修道院では十字形に配置された広間の中で全ての寝台が祭壇の方に向けら
れ,病者も介護者もミサに参加することができた。シッパーゲス『中世の医学』
,244-6 頁。
12
Carole Rawcliffe, Medicine and Society in Later Medieval England (Stroud: Alan Sutton, 1995), p. 19.
Naoë Kukita Yoshikawa, ‘Le Livre de Seyntz Medicines’, Medical History, 153 (2009, forthcoming).
13 Le Livre de Seyntz Medicines: The Unpublished Devotional Treatise of Henry of Lancaster, E. J.
Arnould (ed.), Anglo-Norman Texts 2 (Oxford: Basil Blackwell, 1940; repr, 1967)
14中世末には七つの大罪がもたらした致命傷や病を癒す薬をキリストに懇願する宗教抒情詩が
作られた。‘Medicines to Cure the Deadly Sins’, in Carleton Brown (ed.), Religious Lyrics of the
Fifteenth Century (Oxford: Clarendon, 1939), pp. 273-7 参照。
15 The Book of Margery Kempe, chap. 56.
16
Julian of Norwich, A Revelation of Love, Marion Glasscoe (ed.), 3rd rev. edn, Exeter Medieval English
Texts and Studies (Exeter: University of Exeter Press, 1993)参照。
4
このような祈りの文化の中で、病院においても祈りは心身のケアに欠かせなかった。
中世では医師が常勤していない病院も多かったので、祈りが治療計画の一部をなしてい
た。17小規模な施療院を除いて、すべての病院で聖務日祷が唱えられていた。聖務日祷
は修道院で用いられていた祈りであり、一日八つの祈りで構成されていて、キリストや
聖母マリアの生涯におきた八つの出来事がテーマとなっている。ロンドンのサヴォイ病
院では、早朝 5 時に病院中を起こす大きな鐘が鳴り、朝課が始まった。この鐘は各時課
を知らせ,病院中の人々を祈りへ導いた18。ノリッジの聖ジャイルズ病院はその一部が
教区教会にもなっていたので、聖務日祷を唱えるばかりではなく、近隣の住民もやって
来て病院内で結婚式や洗礼式、遺体洗浄などの死の儀式や葬礼を行なったのである。病
棟と教会内陣を区切る仕切りは板一枚だった。それで、病人や看護の修道女も死者ミサ
などの典礼行事の祈りに加わり,魂の救済を希求した19。また、この病院には 10 名をこ
える聖歌隊員がいて、美しい歌声を響かせミサや聖務日祷を唱えていた。典礼用の音楽
には心身を癒す力があると考えられていたが、霊的回復を約束する聖体を拝みながら聴
く祈りの調べは魂の癒しと身体の健康を促したであろう。20
世俗の薬
次に、ギリシャ・ローマの医学や薬学を継承した世俗の薬について考察する。中世の
キリスト教会がギリシャ・ローマというキリスト教以前の医学を受け入れた理由は、そ
れがキリスト教の思想に適合したからに他ならない。たとえば、ドイツの女性神秘家ビ
ンゲンのヒルデガルト(Hildegard of Bingen)は、宇宙をマクロコスモス、人間の身体
全体をミクロコスモスととらえるプラトニズムのアナロジーを継承し、
『スキヴィアス』
や『神の業の書』などの著作において、人間の身体は宇宙と同様に、水、空気、火、土
から成り立ち、人間は宇宙のはたらきと同じようにはたらくと説明した。ヒルデガルト
の幻視には「コスモス人間」と呼ばれるイメージがあるが、図版(略)のように、円を
なす宇宙(マクロコスモス)の中心に両手を広げた人間(ミクロコスモス)が立ってい
る。人間を宇宙全体のなかに位置づけることにより、ホリスティックな宇宙観、人間観
が生まれたのだろう。ヨーロッパ中世における薬治療において、動植物や鉱石など神が
創造した自然界に存在するすべてのものに治癒力が潜んでいるという考え方があるの
はこのような背景による。
さらに、中世の知識人は、ヒポクラテス派やガレノスの古代がキリスト教徒にとって
有益と判断すると、ためらいなくキリスト教にとりこんだ。図版(古代の医者
17
略) ギ
Rawcliffe, Medicine for the Soul, p. 105.
Carole Rawcliffe, ‘Hospital Nurses and their Work’, in Richard Britnell (ed.), Daily Life in the Late
Middle Ages (Stroud: Sutton, 1998), pp. 43-64 (p. 62).
19
パリの市民病院であるオテル・デュでは病棟と聖堂は一続きの病院もあった。
20
Rawcliffe, ‘Hospital Nurses and their Work’, p. 62; Peter Murray Jones, ‘Music Therapy in the Later
Middle Ages: The Case of Hugo van der Goes’, in Peregrine Horden (ed.) Music as Medicine: The
History of Music Therapy since Antiquity (Aldershot: Ashgate, 2000), pp. 120-44 参照。
18
5
リシャの体液説をキリスト教の教えと見事に符合させたことが、中世において体液生理
学が診断・治療の基本として君臨し、近世にいたるまで続いた所以であろう。神学者は
創世記のアダムとエヴァの楽園追放を人間の病の始まりと考えた。アダムとエヴァは楽
園で完璧な体液のバランスを保っていたが、神に背き楽園を追放されたときに体液のバ
ランスは崩れ、疾病がこの世に入ってきた。原罪を背負った人間の体液バランスは崩れ
ているのである。しかし、キリストは完璧な体液バランスを保っている。教会がキリス
トに倣う生き方を奨励したのは想像に難くない。古代の医学はこの意味でも教会の教え
に一役買った。ヒポクラテスらはいかに身体を管理し、体液のバランスを保つかの規範
を作った。アリストテレスは節度を重んじ、摂生した生活を奨励した。これらの考え方
は教会の教えに容易に引き寄せることができた。怠惰や大食などは 7 つの大罪に含まれ
ていたし、生活をコントロールして病気を予防するのは教会の教えに適っていた。節制
とバランスを基本とする古代ギリシャの医学はこのようにキリスト教の教えに調和し
たのである。
ところで、中世の世俗の薬を考えるとき、21 世紀の医療の常識を離れる必要がある。
抗生物質も点滴も MRI もない中世では、ひとたび病気になれば、効果的な治療方法を
見つけるのが困難だったのは言うまでもない。外科手術は最後の手段であり、手術を受
けると多くの場合命を失った。ペストが全ヨーロッパに広がっても有効な治療方法はな
く、医者は手をこまねいている状態だった。そうであれば、病気にならないことが最も
現実的な健康への道であると考えるのは自然な発想で、節制と体液のバランスの維持に
つとめる養生法があらゆる階層の人びとに受け入れられたのである。
養生法に関する中世の書物として 12-13 世紀に著された『サレルノ養生訓』(Regimen
sanitatis Salernitanum)21が広く知られている。同書はエンペドクレス(Empedocles, BC490
頃-430)、ヒポクラテス派の医学者、ガレノス等が確立した古代の養生法に依拠して書
かれており、ここから中世ヨーロッパのキリスト教徒が、どのように古代の医学や薬学
を継承して心身の健康を保持しようとしたかを垣間見ることができる。22
『サレルノ養生訓』は英国王に献呈された書物で、健康の規則が教訓詩の形式をとっ
て書かれている。韻を踏んでいるのは、実際に声に出して覚え、日常的に活用するため
だと考えられる。英国王とは征服王ウィリアムの子、ノルマンディー公ロバートのこと
で、パレスティナからの帰途、腕の傷を癒すためにシシリア島のサレルノにしばらく滞
在した。同書の内容は健康を維持・増進するための 6 つの生活の基本に則った理性的な
生活方法のすすめである。そもそも、古代の医学者は 6 つの「非・自然」(six non-natural)
‘Diet and Regimen’の項目で一部が以下に抜粋されている。Regimen Sanitatis Salernitanum, The
Englishmans Doctor. Or, the School of Salerno, trans. Sir John Harington (London, 1608; reprinted New
York, 1920) in Edward Grant (ed.), A Sourcebook of Medieval Science (Cambridge, MA: Harvard
University Press, 1974), p. 775-78.
22 14 世紀半ばからペストの猛威をいくども経験すると、人びとの間でこのような健康本への関
心が急速に高まり、ラテン語から英語に翻訳されて広く流布した。
21
6
と呼ばれ、人間が生きていく上では避けることのできない要素を、大気、飲食、運動、
睡眠と覚醒、排泄と停留、情念に分類し、健康を維持するためにそれらを上手に操作す
るよう唱えた。すなわち、空気などの環境を整える、食物と飲み物に配慮する、運動と
安静の時間を適宜とる、睡眠時間の調整をして過度の睡眠と不眠を避ける、また、体液
の排泄(性交、瀉血を含む)によって体液のバランスを保持する。そして、喜び、怒り、
恐れ、不安などの感情をコントロールし、正しい人格を磨くことも大切だった。23具体
低には、「怒りは健康によくない」、「ワインを飲みすぎてはいけない」などの指南が記
されている。このように、理性を使い、体液のバランスと心の平静に留意することで健
康が保持されるのだが、特に、飲食が重視されているのは、「食べ物は治療薬」という
ヒポクラテス派やガレノスの体液病理学に基づく伝統的な考え方があったからである。
古代ギリシャの体液説
ここで、体液説について概観しよう。体液説は古代ギリシャのエンペドクレスが唱え
た自然観に由来している。エンペドクレスは、宇宙は土、水、空気、火の 4 元素から成
り立ち、さらに、この世にあるすべてのものは二組の元素の組み合わせによってできる
温、寒、乾、湿の4つの性質に分類されると考えた。組み合わせの基本は、温は火と空
気、寒は水と土、乾は土と火、そして湿は空気と水であるが、配分の度合い(1 度から
4 度の 4 段階)によって性質に強弱が与えられた。こうして、理論的には 4 つの要素の
組み合わせとその配分の度合いによって、この世のすべてのものの固有の特質や気質が
説明できたのである。
ヒポクラテス派はこの理論を体液生理学に応用し、空気、火、水、土の 4 元素を血液、
胆汁、粘液、黒胆汁の 4 体液に対応させた。また、人間の気質は主にどの体液が支配し
ているかによって、多血質、胆汁質、粘液質、黒胆汁質の 4 つに分類されると考えた。
また、多血質は温と湿の組み合わせ、胆汁質は温と乾、粘液質は寒と湿で、黒胆汁質は
寒と乾の組み合わせとなる。さらに、図版(略)の元素の図式が示すように、4 元素は
体液や気質のみならず年齢、季節とも呼応している。つまり、健康とは宇宙全体と呼応
する体液のバランスがとれていることであり、人間を宇宙全体のなかに位置づけること
により、ホリスティックな医学・薬学の理論が発展した。
ところで、エンペドクレスが説くように、人間の体液をつくる食物にも固有の性質が
ある。摂取する食べ物の性質が与える影響は体液に大きな影響を及ぼすので、何を食す
るかによって体液が変わると考えられた。食べ物は薬にも毒にもなるので、すべてのも
のが何の混成物であるか、また、どのような割合でどのような性質のものと混成される
かを摂取する側の人間は知る必要があった。
『健康全書』
23
教会の音楽、美しい調べが薬の役割をもつことにも符合する。
7
食べ物の性質はどのように理解されたのであろう?中世の科学は百科全書的である。
11 世紀にバクダッドで医学を学んだキリスト教徒の医師 イブン・ブトラーン( Ibn
Butllăn)は Taqwīm al-Sihha と云うアラビア語の書物をラテン語に翻訳した。同書は健康
のために役立つ事物の情報を表にまとめたもので、直訳すれば『健康表』であり、その名
のとおり、個々の食物の温、乾、寒、湿と云った性質とその度合いが表に明示されてい
る。しかし、健康に関するさまざまな知識がまとめられているということで,しばしば『健
康全書』
(Tacuinum Sanitatis)と呼ばれている。ブトラーンは食餌と摂生した生活を通し
て健康を確保することを提唱した。彼の健康と衛生の考え方はヒポクラテスが唱え、ガ
レヌスが発展させた体液説に基づくバランスの健康学に依拠いている。さらに、この情
報が人びとの注目を集めたことは、その後、おそらく 14 世紀末の北イタリアで,図版を
中心とした写本が作成されることになったことからもわかる。24これらの図版は当時の生
活における薬の実際の利用を知るうえで、極めて貴重な資料である。
例えば、春野菜のアスパラガスは温 1・湿 1、ハーブのサフランは温 1・乾 1、バラ
は寒 1・乾 3 の性質をもつと考えられた。(図版(略))レタスは冷 1・湿 2 なので、ほ
てった肌を冷やしたり、痛みを鎮める効果があった。カモミールは温 1・乾 1 だったの
で穏やかな効き目があるとされ、広く使われた。ハーブは、薬として単体で使う場合、
強く効きすぎる懸念がある水銀や砒素なに混ぜて使われることもあった。その際は冷の
性質を持つハーブを 3 倍、4 倍混ぜて、火のように激しい性質を抑えた。但し、水銀や
砒素を混ぜた薬を用いるのは、外科手術に換わる最後の手段であった。
肉類では、鳥肉は温と湿ともに理想的な状態であると考えられた。家禽類では特にニ
ワトリとひよこが薦められた。オンドリは去勢したうえで、若ければ食用に適した。豚
やラムも去勢し、しかも、その際、丸々と太っていなければならない。理由は簡単だ。
雌は雄より水分が多く美味しいからだ。穀類も薬として使われた。図版(略) 米はア
ジアの穀物だが、イタリア人の薬剤師が薬用に有していた。イタリアでは 15 世紀の中
ごろから終わりにかけて、米の栽培が始まっている。
このような食物重視の医学において、料理と医学の二つの領域が交差する書物が作ら
れた。健康に関心のある人が医学書にも料理の作り方も参考にする。医者は実際に調理
に携わっていたし、少なくとも 15 世紀までは続いていた。例えば、1330 年代にミラノ
の医者、マイノ・デ・マイネリ(Maino de’ Maineri)が著した健康本は食物の特質の分
析に多くのページを費やしている。例えば、シリアル、葉物野菜、フルーツ、根菜、マ
ッシュルーム、肉、魚、ミルク、チーズ、卵、ハーブ、スパイスの入ったソースや香辛
24
Tacuinum のウィーン写本はヴェローナの Cerruti 家の所有とされていたが、紋章の調査から、
パドヴァの Speroni 家と訂正されている。Catheleen Hoeniger, ‘The Illuminated Tacuinum sanitatis
Manuscripts from Northen Italy ca. 1380-1400: Sources, Patrons, and the Creation of a New Pictroail
Genre’, in Jean A. Givens, Karen M. Reeds, and Alain Touwaide (eds), Visualizing Medieval Medicine
and Natural History, 1200-1550 (Aldershot: Ashgate, 2006), pp. 51-81 (p. 61).
8
料、飲み物など、百科全書的に網羅されている。25最も適切な食べ物、食べ方は健康な
ときの体液バランスに即し食べ物を摂取することであり、健康本はそれを薦めている。
食事療法
中世の医師は 6 つの生活の基本や解剖学、病理学などを学んだ上で、体液と気質を診
断の基本として、栄養指導による治療を積極的に行った。中世の医師は現代の管理栄養
士の役割を担い、食べ物を薬として処方した。裕福な家では住み込みの医師がいて、一
家の体調の維持にあたった。フランスのブルゴーニュ伯爵は 6 人の侍医を雇ったが、彼
の主な責務は伯爵の食べ物の管理だった。伯爵が食卓に着くと、医師がそばで食べ物や
飲み物をすべて調べ、健康の維持にふさわしいかどうか助言した。26 医師の専門的知識
が食卓で発揮されたことが窺える。
14 世紀のイギリスを代表する詩人、ジェフリー・チョーサーの『カンタベリー物語』
のプロローグに巡礼の一人として登場する医師は、水分が多すぎず、栄養に富み、消化
によい食事を摂るよう指導する。
[その医者は] 病気という病気の原因でも、温、寒、湿、乾のいずれであれ、よ
く知っており、どんなところに病気が生れ、どんな体液からそれが生じたかを
知っていた。
[中略] 食事はほどほどにしていました。というのは、決してたくさん食べるの
ではなく、非常に栄養があって消化しやすいものだけを食べたからでした。27
1530 年代にイギリスのある貴族の夫人が想像妊娠のために体調を崩した。侍医は夫
人の不摂生な食習慣が原因で体液が冷えてどろどろした状態になったと診断した。病気
の治療には、温・湿の性質をもつ食物が処方された。中でも鳥やアーモンドは、温、寒、
乾、湿の4つの性質において理想的なバランスを持つ食べものなので、摂取すれば体液
を理想の状態に近づける薬効が期待できた。アーモンドは病人食の定番であるブラマン
ジェの主たる食材だった。それで、夫人にはブラマンジェと去勢したオンドリを煮込ん
だスープを処方されたのである。鶏肉は安全だが、魚は水の中に棲んでいるので、粘液
質で消化もよくないとされた。それで料理人は魚を乾燥させてつくる料理法を考案する
のに骨を折った。また赤肉は、多血質の人の体液に害のある血を多く作ると考えられた。
28
このように食餌療法が治療の中心に位置していたのである。
25
Terrence Scully, The Art of Cookery in the Middle Ages (Woodbridge: Boydell, 1995), p. 43.
Scully, The Art of Cookery, p. 42.
27
ジェフリー・チョーサー『カンタベリー物語』(上)
、桝井迪夫訳、岩波文庫、1995 年、36-
37 頁。
28
Rawcliffe, Medicine and Society, p. 40; Scully, The Art of Cookery, pp. 185-95.
26
9
香味料薬草・ハーブ
香味料や調味料は風味や味つけに欠かせないが、薬の働きもする。例えば、蜂蜜は早
くからロウソクの原材料として使われたが、薬としても胃腸を清浄して便秘を解消した
り、筋力の保持を促すと考えられていた。また、その性質は温・湿なので、冷え性の人
や老化で体内の水分が涸れ気味の高齢者に適しているなど、蜂蜜の効能は枚挙のいとま
がない。蜂蜜は果物のコンポートなどの保存食をつくるときには必須であり、また、貴
族はミード(蜂蜜酒)を楽しんだ。
香味料のほとんどは植物が原料であり、総称してハーブと呼ばれる。薬草としてハーブ
が中世の医療に果たした役割ははかり知れない。家庭には菜園という薬箱があり、病気に
なると、大多数の人びとは家庭菜園(ハーブ・ガーデン)で育てたハーブを台所で煎じ、
ホームメードの薬をつくった。イギリスでは、アングロ・サクソン時代から人びとは薬草
についての初歩的な知識を持っていた。
中世の教会や修道院は大きな薬草園をもっていた。( 図版: イーリー大聖堂の薬草園
略)
ベネディクト修道会が中世ヨーロッパ医学や薬学の発展に貢献したことはよく知られ
ている。修道院の図書館にはディオスコリデスが著したギリシャの薬草学を含む古代の医
学書が伝わったばかりではなく、修道院には実際に病者に治療を施す医務室があった。
(図版:ディオスコリデス、De Materia Medica, ‘blackberry’
略)同修道会がどのような
医療施設を建造しようとしていたかは、「ザンクト・ガレンの修道院平面図」として知
られる 9 世紀の設計図からわかる。医療施設の図面には薬草園が医師の住まいに隣接し
て配置されている。ここでの医師の主な仕事は薬の処方であり、ほとんどが一種類の薬
草か薬効のある物質の処方である。29
この薬草園が修道院の北東の角に計画されたの
は修道院を取り巻く壁で北風や東風から守るためであったと考えられる。30
医師が処方する薬への需要が急速に高まったのは、地中海交易が盛んになった中世末に
かけてである。そもそも、薬草学はギリシャ医学に由来するが、これを発展させてヨーロ
ッパに広めたのはアラブ人だった。東西交易の興隆によって、新奇でエキゾチックな動植
物・鉱物が薬としてヨーロッパに流れ込んできた。14 世紀になると、多くの薬の原料はア
ラブ商人を仲介に安定して調達された。すると、富裕層は高価で珍しい薬に飛びついた。
多くの薬は香辛料や香草であったので、交易や販売に携わる香辛料商人が早い時期から薬
剤師を兼ねていた。英語で薬局を’spicer’とも呼ぶ由来である。
アラブ世界で発達した薬学が地中海からヨーロッパに広がり、薬草の処方もより手の込
んだものとなった。アラブから伝わった様々な舐め薬や混ぜ薬の処方はラテン語や俗語に
29
英語で‘simples’と呼ばれ、複数の薬草や物質を混ぜ薬 ‘compounds’と区別した。
30
Maria A. D’Aronco, ‘The Benedictine Rule and the Care of the Sick: The `Plan of St Gall and
Anglo-Saxon England’ in Barbara S. Bowers (ed.), The Medieval Hospital and Medical Practice
(Aldershot: Ashgate, 2007), pp. 235-51( p. 244).
10
翻訳された。1244 年頃にサレルノのニコラウスが著わした『ニコラウスの処方集』
(Antidotarium of Nicolaus of Salerno)には 175 種類の処方が明記されている。
薬の種類や消費の拡大には砂糖の使用が極めて大きな貢献をした。薬に砂糖を使う習慣
は元来アラブ世界にあった。砂糖は温 1 度・湿 2 度の身体に安全な甘味料であり、健康増
進に役立つと考えられたのだ。アラブ人はギリシャの薬草学を学び、様々なハーブやスパ
イスを砂糖と混ぜて薬をつくった。砂糖は水薬、シロップ、テリアカと呼ばれる万能薬
などのベースとして使われ、薬の消費は著しく拡大した。砂糖は中世の薬局の棚に常置
されていた。
『健康大全』にはこのような記述がある。
「食料品店で塩のように硬く、白
いきれいな砂糖を求めなさい。はちみつと同様に、砂糖には身体を浄化する効果がある。
胸、腎臓、膀胱の疾患に効く。血液にもよい。だからあらゆる気質、年齢の人に勧めら
れる。咳で胸が苦しいときに効果があったり、舌が乾いているときもよいとの情報が添
えられている」と。31
砂糖は医師にも料理人に歓迎され、数々のレシピが生まれた。砂糖は特に、病人食や
回復期の食事に使用された。32Scully の論文。裕福な人びとは健康の維持・増進のため医
師のアドヴァイスを受けて薬を常用していたが、たとえば、ハーブとスパイスを砂糖で練
った舐め薬は、消化を助け、食欲を高め、心身の強壮に効くとされた。王侯貴族に仕える
薬剤師は大量の砂糖を購入して甘い薬をつくり、彼らはこの甘味の虜になったのだが、そ
の代償として歯痛に悩まされたのは想像に難くない。
新しい薬の情報はサレルノからヨーロッパ中に広がった。舶来の新奇なスパイスの他に
象牙や琥珀なども珍重された。特に、貴重な薬だったのがテリアカだ。この薬は古くから
ヘビ毒の毒消しと知られる大変高価な薬だったが、その効能は次第に毒消しから万能薬へ
と広がった。テリアカはむくみを防ぎ、腸の詰まりを解消し、おできを治し、熱を下げ、
心臓にも効いて浮腫を抑え、はたまた癲癇や中風にも効果を発揮する薬として重宝された。
また、予防薬としても知られた。ペストが流行したとき、ワインなどの水に溶かして飲む
ように医者は指導した。
その一方で、ハーブやスパイスのなかにはその性質ゆえに、薬としての摂取が禁忌の
種類のものもあった。ペストの予防に使われたレシピがそれを物語る。1347 年、ペス
トの波が初めてヨーロッパを襲って以来、ペストは周期的にヨーロッパ各地で流行し、
14-15 世紀のヨーロッパはペストの脅威に晒された。33この間、人口の 3 分の1(都
市部では 3 分の 2)以上のいのちが失われたと推定される。34 ペストは発汗病とも言わ
31
The Four Seasons of the House of Cerruti, Judith Spencer (trans.) (New York: Facts on File, 1983), p.
15.
32 Scully, The Art of Cookery, p. 189.
33
黒死病とも呼ばれるこの疫病は、中央アジアから地中海を経て、イタリアの港に運ばれた積荷
に潜んでいたノミが媒体となって発生したとされている。最初のペストの流行が終息するのは
1351 年だった。
34
現代人の寿命に比べはるかに短かった中世の人々の寿命は、ペストの流行によってさらに縮ま
った。中世ヨーロッパに生きた人びとの平均寿命は女性が 29 歳、男性は 28 歳と推定される。
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れ、温・湿の多血質の疾病と考えられていた。それで、健康な人はペスト患者の汗や息
によって汚染された空気に触れないよう指導された。汚染された空気は毛穴を通して体
内に入ると考えられ、極力毛穴を閉じるような工夫がなされた。食事においても、香辛
料、葱、にんにく、香りの強いワインなどの体温を上げ、発汗しやすい食べ物は禁じら
れた。反対に、酢が積極的に使用された。外出や伝染源に近づくときは、酢を含ませた
布で鼻と口を覆い、食べ物にはスパイスの換わりに酢を用い、家の中にも酢をまいた。
35
酢は寒1度、乾3度だったので、防腐効果を期待できたのである。
まとめ
中世ヨーロッパの医療は、ギリシャ・ローマ医学の 4 大元素説、体液説に由来する。
食べ物の性質と摂取する人間の体質が密接な関係にあると理解し、医療が推進されたの
である。同時に 6 つの生活の基本のなかに食が入っているように、中世の人びとは生活
環境や心身の安寧と同じように食の重要性を認識し、ホリスティックな人間観をもって
いた。病気や飢饉、天災、災害の危険に晒され、近代科学の恩恵を受けずに、生活を営
んだ人びとにとって、食べることは命そのものであったことを垣間見ることができる。
しかし、このホリスティックな人間観をもつ人びとがキリスト教徒であったことを忘れ
てはならない。第 4 回ラテラノ公会議以降,告解と聖体拝領が魂の救済につながること
が制度化されると、身体の健康は霊的な健康の上に成り立つとする教会の教えが社会の
すみずみまで浸透した。このような身体と魂の共生的関係を前提として病者は天上の薬
である聖体によって癒された。病院の中では教会典礼を通して,身体と魂の間には区別
のないケアが行われていたのである。ギリシャ・ローマ医学の継承に加え、身体と魂が
互いに密接に結びついている中世末の心的世界を知ることが、中世ヨーロッパの医療の
文化を理解する鍵であるといえよう。
コラム
薬剤師のいかさまやごまかしなどの倫理問題は早くからあった。フランスは他の国々に先
駆けて、国と地方がそれぞれ薬局業に関する規則を制定した。そこで重点がおかれたのは
薬剤師の教育のレヴェルの確立である。見習いの薬剤師は経験ある薬剤師の監督のもとで
訓練を受けた。店舗を構えるためには、ギルドの長老から許可をもらうほかに、薬を処方
し商うにふさわしい店舗を開設しなければならなかった。また、秤の標準化によってごま
かしを防ぐようにした。売薬の種類も取り決めた。その際には、医師の処方が必要な薬か
どうかについても規則があった。また、薬局には『ニコラウスの処方集』(Antidotarium of
Nicolaus of Salerno)などの注釈つきの処方集を備えなければならなかった。
イギリスでは中世末になっても医者の資格を得るための教育・訓練が制度化していなか
ったが、薬剤師においても状況は同じだった。しかし、薬業のギルドの果たした役割は大
35中世のキッチンに酢は必ずあった。しかも、一昼夜つけておくとハトの骨を溶かすほど強い。
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きい。特に、13 世紀末以降、市当局の干渉を避ける目的もあって、厳しい規則を自らに課
した。このような努力によって、1340 年代には食料雑貨商、スパイス商人、薬剤師が一つ
の同業組合を結成し、互いの監視・監督のもとで薬品・薬局業の質の向上を目指した。
参考文献
Carole Rawcliffe, Medicine and Society in Later Medieval England (Stroud: Alan
Sutton, 1995), pp. 154-5 など。
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