辻説法第八回講義をより理解したい方のための参考文献

目次
辻説法第八回講義をより理解したい方のための参考文献・・・・・・・・・・・・・・1
付録エッセイ:
「GODZILLA 2014」は花田清輝テーゼを実証したか?・・・・・・・6
新サービスのご案内・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・9
○辻説法第八回講義をより理解したい方のための参考文献
「F ライフ2」
(小学館)
☞ 好評の「F ライフ」第二弾。浅羽通明は、前号に続き執筆。「<<時間SF>>としての
ドラえもん・過去は変えられる?変えられない?
なぜドラえもんはのび太のところにし
か来ないのか?」で、今回の辻説法前半と対応するタイムパラドックス概説と、
「ドラえも
ん」の時間 SF 的世界観をめぐる一新説を提示する。ヒントは藤子Fの別作品『T・P ポン』
。
戦争や大天災といった歴史上の大惨事の現場へ赴いて、膨大な犠牲者のなかから救っても
未来が変わらない例外的人間のみを助け出すとタイム・パトロールを描くこの物語。児童
向け SF マンガとして、一見いかにもかつありがちと思えるが実はかなり特異ではないか。
その独特の世界観を、
「ドラえもん」解釈へ応用したら?辻説法後半とはまた違う方向での
タイムパラドックス論をどうぞ。
もっとも、この「F ライフ2」の白眉は残念ながら浅羽 SF 論ではない。このムックを購
入するとは、ひとえに光浦靖子の「
「ドラえもん」で一番乙女な生きものへ」を読むことで
ある。ドラえもんを連れてきたセワシの目的は、のび太とジャイ子が結婚する未来を阻止
し、しずかちゃんと結婚する未来を実現するためだった。では、そうなった時、ジャイ子
の立場はどうなるのだ?のび太が幸福になる権利は、彼女の幸福と両立するのか?ジャイ
子という「ドラえもん」でもっとも微妙な立ち位置にいるキャラクターを才能ある女性エ
ッセイストならではの視点と筆致で描き切った一篇、必読である。藤子 F は、美少女でな
いジャイ子をやがて少女マンガ家としてデビューする才女と設定して救っている。素直で
美少女で優等生のしずかちゃんには、こうした才能だけはない。ピアノを習っていてもた
しなみ以上ではあるまい。マンガだの音楽だのでプロとなるに必要な歪みや狂気が微塵も
ないからしずかちゃんなのである。ここでふと思う。近年のアニメでオタたちに人気のあ
る美少女キャラの一タイプ、泣きぼくろのオタク少女、なんとかインターフェイスの文学
少女、ゴスロリ猫少女、眼帯の中二病少女、帰国科学者少女などなどは、容姿でなくメン
タリティとしては、ジャイ子のミームを引き継いだ末裔ではなかったろうか?
少なくと
もしずかちゃんよりは…。クリスティーヌ・剛田ことジャイ子の作品には、
「愛フォルテシ
1
モ」や「ペロペロキャンディキャンディ」だけでなく、SF 作品「アンコロモチ・ストーリ
ーズ」も歴史オカルト大作「日出処は天気」もあるらしいのだから。それはないだろう…
とまだ納得ゆかぬ男子のために、ミッシングリングを一つ埋めるならば、あの「ちびまる
子ちゃん」はどうか。まる子は勉強も嫌いで俊足のくせにマラソンが嫌いというぐうたら
娘だが、朝日新聞朝刊でいしいひさいちが描く「ののちゃん」のようなただの劣等生では
ない。ハマジくんが好きな歌は「買い物ブギー」だと飛ばしたボケをかませば、即「笠置
シズ子の?」と突っこめるくらいのサブカル系博識少女なのである。そして将来の志望は
ジャイ子同様マンガ家だ。作者さくらももこ自身をモデルにした回想エッセイまんがから
出発したのだから当然であるが。
☞ 『未来からのホットライン』ジェイムズ・P・ホーガン(小隅黎訳 創元推理文庫)
大長編ドラえもんの一篇『のび太の大魔境』には「先取り約束機」なるドラえもんひみつ
道具が登場する。言葉で「後で――するから、――したい」と約束事をすると、その行為
に対する結果をその場で実現できる機械だ。たとえば作中では、空腹なのに食事にありつ
けない場面で「明日必ずごはんを食べるから」と約束することで、その場で口に美味しい
味が広がり、腹も満ちるが、その代り、翌日は 2 日分の食事を取らなければならなくなる。
砂漠でしずかちゃんはお風呂に入りたいと切に思い、明日入るから…と約束すると、入浴
後のさっぱりしたからだとなるのだ。しかし、そうした翌日以降、倍の食事をしなかった
らどうなるのか?
しずかちゃんが風呂へ入らなかったらどうなるのだ?
まぁすずかち
ゃんが風呂にはいらないことは絶対ないだろうけれど。なにしろ、議会が憲法二十一条を
狭く解する条例を強化したがってやまぬ東京都において、マンガにおけるエロティシズム
表現の自由は今、ただただ彼女の入浴意志ひとつに支えられているのだから。
「先取り約束機」使用後、約束破ったらどうなるのか?この謎に冒頭数十ページで取り
組み、いちおうの解答を出しているのが、1980年代を風靡したハード SF の雄ホーガン
のこのタイムパラドックス巨編だ。単一時間線、平行宇宙、ともに検討しながら敢えて多
世界解釈を採用せず、展開されてゆく物語。セカイの巨大な危機を二つも救う物語が同時
に切ないラブストーリーをも奏でている様は、かつての SF が、セカイ系、中二病系物語の
原点であった史実を今更ながら確認させられる。ゲーム&アニメ&マンガ&ライトノベル
において時間ものを極めた一篇として人気の『STEINS;GATE』も(ベンフォードの『タイ
ムスケープ』などとともに)この長編を淵源としていることはしばしばネット上で指摘さ
れてところだ。
小林信彦『うらなり』の一節に倣って一つ付け加えよう。商売柄、近年の SF、グレック・
イーガンも伊藤計劃も読んではいるものの、古きよき二〇世紀、懐かしき昭和に SF へはま
った一人としては、やはりホーガンや野尻抱介や山本弘がなつかしい…と。
2
『無常の月』ラリー・二―ヴン 早川文庫
☞ 「タイム・トラベルの理論と実際」収録。この手のエッセイの古典。しかし、近年の時
間 SF の主流である多世界解釈的タイムパラドックスについては、wiki でも参照したほう
が早いかも。二―ヴンのエッセイでは、我々の言語は時称体系ひとつ取っても、タイムト
ラヴェルを表現できないとさらっと触れているあたりが貴重だ。入不二基義『時間は存在
するか』
(講談社現代新書)は、アリストテレスやゼノン、龍樹と並ぶ時間論者として、最
後の国学者といわれた国語学者山田孝雄を紹介している。岩波新書には、藤井貞和の『日
本語と時間』もある。タイムトラヴェルが可能な世界ではまず言語が異なるのでは? 『バ
ベル 17』
『虐殺器官』など言語をネタとした SF の延長上に、習得すると時を超えられる文
法の物語を誰か構想しても良いのでは?
なお『無常の月』には、
「スーパーマンの子孫存続に関する考察」も収録されている。町
山智浩氏もご推薦の、批評的二次創作の古典だ。
わずか一頁強の「未完成短編一番」を浅羽は中学三年の時、初出の「F&SF」誌から翻訳
したことがある(笑)。ほとんどの単語を辞書で引き何日もかかって。手書きの回し読み同人
誌に発表した。もしかしたら本邦初訳かもしれない。
『世界のもうひとつの顔』 アルフレッド・べスター 創元推理文庫
☞ 今回の辻説法でふれた「マホメッドを殺した男たち」がこれで読める。時間を、物理的
に超えるタイムトラヴェルではなく、深層心理的、生理的に超えるタイムトラヴェルとし
ては、ディックの『火星のタイムスリップ』
『ユービック』ほかの試みがある。しかし、我々
の感覚からしたら個人的なものと思われる生理や心理が、客観的時間変容へ直結してゆく
説明がいまいち単純な気がする。ユング心理学とかに依拠しているためだろうか。その点、
時間軸は個人ごとであるが、無数の人々のそれがスパゲティのごとくからまって世界の時
間軸となっているという「マホメットを殺した男たち」のイメージは鮮烈だ(SF は絵だ!
というテーゼはこんなところにもあてはまる)。これと、ヴァン・ヴォクトが『非 A の世界』
で描いた、既存の認識枠組みを意識の変革によりいったん解体することで超能力を獲得す
る発想を組み合わせられないか。解体対象を時間観念まで拡張するのだ。そして、フッサ
ールの一見、唯我論的な現象学が、メンロ・ポンティへ到って、間主観性なる概念を得、
客観的世界像が複数の人間主観の寄り合わせで構築されてゆく哲学へ発展していった過程
(木田元『現象学』
、竹田青嗣『現象学入門』など参照)をも連想させる。一種の多数決、
他人をも巻きこめば、過去も未来も変えられる。ここから、タイムトラヴェル SF の新境地
を編み出せないか?ハイデガーがなぜナチスへ加担したのかなどのネタも面白く組みこめ
そうではないか?
3
『タイムトラベルの哲学」青山拓央 ちくま文庫
☞ 現代哲学の時間論は、それぞれにスリリングでセンスオブワンダーに溢れているが、従
来、SF のタイムトラベルものとはいまいち相性悪かったように思う。アシモフ三原則を踏
まえたロボット SF が、ロボットと人間の境界如何?といった哲学的面白さとは別ものであ
るのと似ている。ベルグソン以降、哲学では、自然科学に準じて時間を空間に次ぐ四つ目
の次元と考える発想を、時間を空間のようにとらえた誤謬として退けてきたからだろう。
タイムマシン小説の始祖ウェルズは、この時間を空間的に考えるところから、時間旅行を
描いているのだ。青山は、こうした SF の思考法に、第Ⅱ部まではつきあう。その最後であ
る七章「空間化と SF の破たん」は、そうした SF の思考法の限界を示した上で、その限界
を前提としながら、エンタメとして SF が成功する二つの道を解明していて興味深い。ハイ
ンライン「時の門」
、本広克行「サマータイムマシンブルース」から最後の藤子Fドラえも
ん「ガラパ星からきた男」まで、触れられる作品の幅もなかなかだ。
第Ⅲ部では、ゼノンの「不動の矢」「アキレスと亀」のパラドックスが解明されてゆく。
この二つ、隣接するようでいて、実はまるで異なる問題系だったらしい。
著者青山拓央は山口大学時間額研究所准教授だ。数学者広中平祐が学長だったとき設立
されたこの研究所、入不二基義、橋元淳一郎らもメンバーらしい。「サマータイムマシンブ
ルース」は、SF 研究会が舞台だが、上野樹里主演の映画では徳島大学でロケされ地方色が
いい味を出していた。山口大学が舞台の時間 SF はまだ誰も書いてないのかな?
『偶然性と運命』木田元 岩波新書
☞ 去る夏、85 歳で逝った哲学研究者のどちらかといえば晩年(2001 年)の一冊。
「SF マガジン」に延々連載されていた「SF エンサイクロペディア」の「タイムパラドッ
クス」
(1985.12 月号。執筆はマルカム・J・エドワーズ、訳は朝倉久志&伊藤典夫)の項目
は、このテーマの根底には「決定論」と「自由意志」の対立があると指摘しながら、SF で
は哲学的面白さよりパズル的論理構築が追及されてきたと結ばれていた。正しいと思う。
それはそれでいいのだが、哲学的センスオブワンダーを目指したエンタメがこの線上にも
っと生まれてもいい。その時、哲学者が「偶然」と「運命」をどう捉えて来たかを概観で
きる本書はよいハンドブックとなろう。岩波新書には、統計学者竹内啓『偶然とは何か』
もある。数式混じりで統計学へ入ってゆく中盤を飛ばしても(笑)、全体は理解できる。歴史
は必然?偶然?といった問題にも言及されている。
『戦前日本 SF 映画創世記」高槻真樹 河出書房新社
☞ 講義で触れた「續・清水港」についての紹介が読める。ほとんどが失われてしまった戦
4
前のプレ SF 映画というべきフィルムを発掘し、系譜づけた一冊。これまでの映画史では取
りこぼされてきた世界が、
「SF 映画」という認識の篩をかけると次第に浮かび上がってく
る知的興奮自体が SF 的だ。その意味で、古典 SF という認識枠を創造することで、あまた
の幕末から明治・大正・昭和へ到る奇書珍本を我らの文化的視野へ浮上させた横田順彌の
仕事と並ぶ、知的認識の冒険たる書である。SF とは?SF映画とは?なぜ戦前日本はめり
エスのごとき作品を産めなかったかという本質的考察を、著者が省いていないのも、この
点に自覚的だからだろう。紹介作品では、1932 年製作のアマチュアミニアニメ「百年後の
或る日」が興味深い。1942 年世界大戦争で主人公が死ぬとか、2030 年の日本を磁石で空中
に浮く列車が走っているなど、その予言力には舌を巻く。
さて、この著でもそうだが、上記横田順彌の『日本 SF 古典こてん』を読んでも思うのは、
戦前期の SF として、未来戦記、ロボットもの、破滅もの、宇宙旅行などはいちおう見られ
るものの、時間ものはほとんど見当たらないことだ。ご存じの方がいらしたらご教示願い
たい。ウェルズの「タイムマシン」が大正初め、黒岩涙香により訳されているのにだ。本
書が挙げている「都会の怪異 七時〇三分」
「續・清水港」は、その稀有な例外といえよう。
「都会の怪異」原作、牧逸馬の「七時〇三分」は『時間ループ物語論』でも紹介しておい
た。参考のため、浅羽が確認している時間ものを一つ紹介しておこう。海野十三による「タ
イムマシンと生命の分裂」だ。日本 SF の父といわれる探偵作家海野の全集をあるいは通読
すれば時間ものもあるだろうか。しかしいま確認しているのは『新青年傑作選5 読物・復
刻・資料編』に収録されたこのショートショートのみだ。ここに描かれるタイムマシンは
我々が現代 SF で親しんでいるものとはちょっと違う。わかってない!と笑う方もいるかも
しれぬ。だが、時間と意識の関係を考えた時、これもまたありではなかろうか、むしろこ
れまでの SF が突っこんでこなかった側面をかすった小品なのではないかと思ったりもす
る。藤子 F の怪作「ドラえもんだらけ」にもちょっと似ている。時間旅行のいう発想をは
じめて抱いた作家が考えたいわば「初心」を知りたい向きは一読を。
『戦前日本SF映画創世記』とタイアップした企画がこの夏、阿佐ヶ谷ラピュタで行わ
れ、モーニングショーで「續・清水港」も「百年後の或る日」も上映された。浅羽も当然、
皆勤したが、
「續・清水港」は一部欠落のあるフィルムだった。昭和の演出家が意識だけタ
イムスリップした森の石松が、淀川を上る三十石船で、船客といつのまにか例の「酒のみ
ねえ、鮨食いねえ、江戸っ子だってね、神田の生まれよ」の問答を交わす場面がカットさ
れたものなのだ。代参の旅へと草鞋を履くとき、中身は現代人の石松は、許嫁おふみに講
談などで知られたその旅の始終を石松非業の死まで語ってみせる。おふみはむろん信じら
れない。しかし、三十石船で聞いた通りの問答が始まるのを聴き、遂に信じるのだ。正に
タイムスリップものの定石が踏まれているとわかるこの場面のカット、誠に残念だった。
(以前、千石の三百人劇場で上映したフィルムにはあったのだ。いやもしかしてあれは浅
羽の錯覚だったのだろうか)
5
○付録エッセイ:「GODZILLA 2014」は花田清輝テーゼを実証し
たか?
やはり、ハリウッドでも怪獣映画がしたい、らしい。洋ものゴジラ改訂版「GODZILLA ゴ
ジラ 2014」で登場するゴジラは、青い放射能熱線を吐くし人知を超えた生命力を見せて最
後まで死なない。1998 年、やはりあちらが制作した「GODZILLA」の造形、設定を観て、
海底でマグロを喰ってた大イグアナかと落胆し嘲笑した日本(だけではなかろうが)の怪
獣マニアも、今回はまずまずだと許す方向のようだ。ノー・放射能熱線、ノー・ゴジラと
いう関門を通過しただけでも評価しようというわけか。
もちろん、批判する声も複数ある。東京新聞の匿名文藝コラム「大波小波」は、アメリ
カ西海岸を襲う怪獣ムートーを倒すべく、アメリカ海軍とともに太平洋を東上してゆくゴ
ジラを、米軍を日本自衛隊が援護する集団的自衛権行使の絵解きかと穿ったツッコミを容
れていたし、1950 年代、米ソが行った水爆実験は、各地で出現したゴジラを倒すためだっ
たという設定が、無謀な水爆実験によって海底の恐竜がゴジラと化して甦ったとする日本
版(特に初代)
「ゴジラ」の精神を冒瀆する真逆なものだとする批判も多い。
だが、はたしてそうか。
それはもう様様な異国のモチーフをその背景などまるで無視してパクりまくってきた日
本人にそれをいう資格がそもあるのか。たとえば最近なら、周防正行監督の「舞妓はレデ
ィ」はどうだ。タイトルからして「マイ・フェア・レディ」のパロディであるのは明瞭。
「マ
イ・フェア・レディ」の原作はバーナード・ショーの『ピュグマリオン』である。最下層
の花売り娘イライザが、発音矯正教育一つで貴族と並ぶ令嬢と化す物語には、ショーの社
会主義と民主主義の根底をなす人間観がある。それは単なる平等思想ではなく、英国理想
主義流の礼節文化による平等化思想だ。それはまた、大衆を強制的に鋳型へはめる改造思
想でもあり(ショーは一時、スターリンとヒトラーへ共感を捧げた)
、敏感にもそれを感知
したハリウッドはタイトルを、
「マイ・フェア・レディ」というマザーグースを踏まえた怖
ろしい含意を持つものとしたのである。すなわちヒロインはロンドン橋の人柱であると。
まあ、そんなことはどうでもいい。
ゴジラへ話を戻す。私が秘かに思うに、
「GODZILLA ゴジラ 2014」の思想的意義とは、
花田清輝が 1955 年に提示したゴジラに関するテーゼが、ここに一つの実証的データを得た
ということではないか。
ことは日本版「ゴジラ」第一作が封切られた翌年、花田清輝が発表した短文レビュー「空
想科学映画」
(
「信濃毎日新聞」19550611)から始まる。花田清輝は当時、日本共産党員で
もあるマルクス主義文芸評論家だったが、当時の日本インテリのなかで極めて稀なサブカ
ルチャーを軽やかに語れる論客だった。しかも当時、ごくごくマイナーだった SF の分野に
6
までその博識と好奇心を確かに届かせていた。
「ゴジラ」についてそんな花田清輝は、アメリカ映画「原子怪獣現る」との比較論を語
る。東宝「ゴジラ」企画のヒントとなったこのハリーハウゼンのコマ撮り怪獣映画でにお
いては、襲われるアメリカ人たちはライフル銃等で果敢な抵抗を試みる。そして怪獣もそ
れを可能とする大きさにとどまっているのだ。翻って、本邦のゴジラは、五十メートルと
いう当時の都市景観から見たら圧倒的な巨大さ
(最大のビルとされた丸ビルが 31 メートル)
で出現し、放射能熱線を吐く超生物的存在として東京を焼き尽くす。
花田はここをこう書く。そんな、「『ゴジラ』に登場する日本人たちは、怪物が出現する
やいなや、いたずらに逃げ惑うのみであって、もはやいささかも抵抗する意志をもってい
ない。これに反して、アメリカ映画のほうでは、カービン銃なんかを構えながら、たった
一人で怪物に立ち向かい、あっさり怪物に食われてしまう警官などもいた」と。
この「ゴジラ」論は、同年発表された「原子時代の芸術」(三月刊行の『世界文化年鑑 1955』
に発表)、翌年の「現代の典型」でも繰り返されている。右のくだりは、「『原子怪獣現る』
というのになると、鉄砲を持ってむかってゆくものが出てきて、もちろん、それは喰われ
てしまうのですけれども、なにか非常にオプチミスティックなものが、アメリカ映画の中
には、まだまだ残っています。日本の映画では半鐘をならして、空襲のときと同じように、
全然諦めてしまって、ゴジラの蹂躙にまかせてしまっているようなところが出てきます。
それほどこの映画の中の日本人は無力であり、「怪物」に対して抵抗する意志を失っていま
す」
(
「現代の典型」
)
「
「この作品「ゴジラ」のなかに登場する日本人たちは無力であり、
「怪
物」にたいして抵抗する意志を完全にうしなっている。しかるに『原子怪獣現る』におけ
るアメリカ人のなかには、銃を片手に「怪物」に立ちむかってゆくものもあり、断じてみ
ずからの国土を「怪物」の蹂躙にゆだねようとは考えていないようにみえる」(「原始時代
の芸術」
)といった具合だ。
この比較にこだわった花田清輝は、日米怪獣映画のこの差異をこう分析する。「『原子怪
獣現る』と『ゴジラ』とを比較してみると、今度はほとんど同工異曲の作品であるため、
これらの作品に、原子力問題に対決するばあいの加害者の立場にたっているアメリカの映
画作家と、被害者の立場にたっている日本の映画作家との態度の相違が、歴然と表れてい
る」と。
こうした認識ゆえに花田は、小エッセイ「空想科学映画」のこんな結語へ辿りつく。
曰く、
「ハリウッド付近に一発水爆でも落とせば、アメリカでも、もっと優秀な『原子怪
獣現る』ができるかもしれない」
。
もっとも花田はここで怪獣の動作については、
「ゴジラ」よりも「原子怪獣現る」をさす
がに「迫真的」だとして軍配を挙げ、被害の描写において「ゴジラ」が上だとしている。
これはさすがの花田清輝も不明であったというべきかもしれない。その後の特撮モンスタ
ー映画史を思えば、リアルな爬虫類の動作をコマ撮りで再現したハリーハウゼンよりも、
低予算の着ぐるみ特撮で、生物模写を超えた神性を帯びた「怪獣」を造形した円谷英二特
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撮のほうが、原子力時代のイコンとなっていったからだ。花田は、被害の描写においては
などと謙遜せず、怪獣造形も被害の描写も、即ち SF 的な要点の全て(マッドサイエンティ
スト芹沢博士の設定をも当然含む)において、核戦争の被害者日本のほうがすぐれていた
というべきだったのだ。
そしてそのテーゼは、1998 年のハリウッド製「GODZILLA」でまず一つの実証を得た。
すなわち、20 世紀末へ到っても依然、被害者体験をもたない、のみならず冷戦の勝利者と
して自信過剰ですらあったアメリカは、ゴジラを制作すると称しつつもあのマグロ喰いの
大イグアナしか造形できなかった。そして、これまた依然として、怪獣を、あくまでも人
知によって滅ぼすことが可能な巨大生物にとどめているのだ。イグアナ・ゴジラは、熱線
も吐かず最後には殺される。
花田のいうアメリカ人の「原水爆の直接の加害者、その立案者・製作者・所有者の優越
感」
(
「現代の典型」
)
、
「科学や技術に対する過大評価から生まれる、はなはだ観念的なオプ
ティシズム」
(同)
、「「怪物」を借りて仮想敵をあらわし、荒唐無稽なトリックのかげにか
くれて好戦的な気分をあおる」
(同)姿勢は変わっていない。
さて、それでは今回の「GODZILLA2014」はどうか?
熱線を吐く巨大な不死の神的ゴジラを、ハリウッドは遂に造形したではないか。ここに
おいて、以上紹介してきた花田清輝テーゼはとうとう破産したのだろうか。
断じて否。わたしはそう答えたい。
「GODZILLA」旧作と「GODZILLA2014」とを撮っ
たのは同じアメリカ人ではない。花田のいう「加害者」でしかないアメリカは、旧作まで
なのだ。旧作の三年後、アメリカはようやくもって「被害者」となったからである。9・11
同時多発テロに見舞われたことによって、かの国もようやくゴジラらしきゴジラを産み出
す条件を得たのである。
こう断じると、それはあまりに早計であろうという異議を呈したい向きも多そうだ。ヒ
ロシマ、ナガサキ、東京大空襲ほかと比べて、9・11 は核攻撃でもないし都市を蹂躙する戦
略爆撃でもない。驚くべき規模とはいえやはり「テロ」でしかなく、花田がいう水爆一発
にはとても足りないのではないかと。
御説ごもっともである。当方もまた、
「GODZIZLLA2014」をもって、花田清輝を満足さ
せる出来だというつもりはないのだ。あらためてとくとご覧あれ。今回のゴジラは、頭部
が妙に小さくて灰色クマのごとくであり、ティラノサウルスを思わせる本家ゴジラと比べ
たら何とも寸詰まりな印象を免れない。また被害が最大なのがサンフランシスコの中華街
で、何やら日米共通の仮想敵を示唆しているあたりも苦笑のほかはない。
「GODZILLA2014」もやはりまだ途上なのだ。ハリウッドが、真にクール・ジャパンし
たいのならば、頭のおおきな日本製ゴジラへ追いつくまでには、やっぱり「水爆一発」を
待たねばならないのかもしれない。この一点において、ゴジラにおける花田清輝テーゼは
依然健在なのである。
(蛇足を一つ。冒頭、「ハリウッドでも怪獣映画がしたい」なる一行は、「中二病でも恋が
8
したい」
、「ノー・放射能熱線、ノー・ゴジラ」は「ノーゲーム、ノーライフ」とそれぞれ
萌えアニメの題名を踏まえた。ちなみに、両アニメの構成と脚本を担った花田十輝氏は花
田清輝のお孫さんである)
。
○新サービスのご案内
筆者からの宣伝、次はあなたが編集者です!:浅羽通明が語る「GODZILLA」論いかがで
したか?
こんなエッセイをもっと読みたいと思われましたか?
そうした方へ一報。あ
なたが編集者となって、浅羽通明へこうしたエッセイや論考を依頼しませんか?
テーマ
(この一篇のような映画や本や何やらのレビューでもよいし、時事問題や抽象的な思想的
哲学的問題でもよいです)を示し、おおかたの原稿料と締切と枚数を定めて、[email protected]
へメールしてください。なんらかの注文を加えるのもけっこう。浅羽の応答後、条件が一
致したら執筆にかからせていただきます。浅羽の原稿料は雑誌の場合、四百字につき最少
で千円弱、最大で一万円弱でした。この十分の一以下でもよろしいです。それでもエッセ
イや論考一本に千円以上はとんでもないと思われるでしょう。しかし、その原稿はあなた
のみへ提供されます。そして著作権は放棄しませんが、使用権はあなたへ委ねます。すな
わち、浅羽通明の署名入りでならば、あなたのブログや同人誌などで何時発表するのもご
自由です。誰にも見せないでいてもかまいません。いかがでしょうか?ご依頼お待ちして
おります。
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