Ⅱ.戦 中 ・戦 後 の頃 1. 入 学 試 験 1.1 受 験 の理 由 私 が東 京 高 等 師 範 学 校 へ進 学 の道 を選 んだのは次 の理 由 による。 第 1 は、中 学 上 級 学 年 において原 子 物 理 学 に興 味 をもったことや、分 光 化 学 講 習 会 を受 講 して原 子 構 造 とスペクトルの関 係 について理 解 できたことなどが進 路 を きめる動 機 となった。更 に決 定 的 なことは、その当 時 、藤 岡 由 夫 氏 *の随 筆 「物 理 学 ノート」を読 み、その中 に東 京 文 理 科 大 学 に設 置 されていた原 子 核 実 験 装 置 の 一 つの、コッククロフト・ ウォルトンの装 置 の話 と 写 真 が載 っ ており、是 非 この装 置 で 原 子 核 実 験 をしたいと思 った。この希 望 を達 成 する最 短 距 離 を調 べてみると、東 京 高 等 師 範 学 校 を経 て文 理 科 大 学 に進 学 することであることが判 明 した。 *東 京 文 理 科 大 学 教 授 、 理 化 学 研 究 所 員 で前 述 し た分 光 化 学 講 習 会 の講 師 の一 人 。 第 2 は、入 試 の科 目 別 配 点 が傾 斜 型 配 点 (物 理 ・化 学 を主 とする学 科 * 受 験 者 は物 理 ・化 学 の配 点 が他 の科 目 の 2 倍 )であり、私 にとっては大 きなメリットであっ た。 *本 校 は 4 科 に分 れてい る。( )内 は主 とする学 科 。 文 科 1 部 ( 修 身 、教 育 、 公 民 )、2 部 (国 語 )、3 部 (英 語 )、4 部 (歴 史 、地 理 )、5 部 (漢 文 、 中国語) 理 科 1 部 (数 学 )、2 部 (物 理 、化 学 )、3 部 (生 物 )、4 部 (農 学 ) 体 育 科 1 部 (体 操 )、2 部 (柔 道 )、3 部 (剣 道 ) 芸 能 科 (図 画 、工 作 )以 上 昭 和 19 年 入 学 時 。 第 3 には、当 時 父 親 が東 京 都 を停 年 退 職 (当 時 55 才 停 年 )し、年 金 生 活 であり、 親 にあまり経 済 的 負 担 が掛 けられないと考 えた。当 時 は、陸 ・海 軍 の学 校 と師 範 学 校 では授 業 料 が無 料 であった。更 に、入 学 すると給 費 制 度 (現 在 の育 英 会 奨 学 金 )があり、この制 度 が適 用 されると月 額 20 円 の給 費 があった。 第 4 は、当 時 の国 民 の男 子 は満 20 才 を過 ぎると兵 役 に服 する義 務 ‥‥‥国 民 の三 大 義 務 (納 税 、教 育 、兵 役 )の一 つがあり、満 20 才 前 に徴 兵 検 査 があり、これ に合 格 した者 (受 検 者 の大 部 分 )は満 20 才 を過 ぎると入 営 (陸 軍 または海 軍 に入 隊 )する令 状 (召 集 令 状 ‥俗 称 「赤 紙 」)が来 る。ところが、第 二 次 世 界 大 戦 は科 学 技 術 力 を駆 使 する戦 争 であるので、国 民 の科 学 ・技 術 教 育 は極 めて重 要 であり、 銃 後 ( 直 接 戦 闘 に 加 わら な い) 国 民 の 科 学 ・ 技 術 教 育 のた め 、高 等 師 範 学 校 ( 東 京 、広 島 、金 沢 、岡 崎 )の理 科 の学 生 のみ、20 才 を過 ぎても卒 業 まで入 営 延 期 と 20 いう特 例 が設 けられていた。 受 験 生 の中 には、特 に理 科 が好 きということでなく、この入 営 延 期 という利 点 を 志 望 理 由 の第 1 として受 験 (および合 格 )した者 も少 なくなかった。尚 、この結 果 、 我 々理 系 の者 は学 徒 出 陣 をした者 はなく、戦 死 者 を出 さずに済 んで幸 であった。 1.2 第 一 次 試 験 (学 科 試 験 ) 受 験 科 目 は3月 1日 は物 理 、化 学 。3月 2日 は英 語 、国 語 、歴 史 。 この中 で二 三 特 に記 憶 に残 っているものを記 しておく。 先 ず、日 本 史 では文 部 省 が出 版 した「国 史 概 説 」(皇 国 史 観 を中 心 とした日 本 歴 史 の 書 物 ) と「国 体 の 本 義 」が 絶 対 の参 考 書 であり 、 こ れ を熟 読 し て いれ ば 必 ず 解 答 できる出 題 であった。 物 理 、化 学 はほとんど計 算 問 題 であったが、化 学 の問 題 の中 に、ある化 学 反 応 を 用 いて鉛 (Pb)の原 子 量 を求 めさせるものがあった。当 時 私 は原 子 核 に興 味 があり、 放 射 性 物 質 の系 列 の最 後 はみな鉛 となるので、鉛 は特 別 な元 素 としてその原 子 番 号 (82)と原 子 量 (約 207)を記 憶 していたが、試 験 問 題 の計 算 結 果 が 207 と出 たの で大 変 嬉 しく、今 でもはっきりと印 象 に残 っている。 尚 、物 理 の試 験 監 督 の先 生 は時 間 中 余 り机 間 巡 視 をせず、大 部 分 の時 間 を私 の座 席 (最 後 尾 の席 ) 斜 め後 方 に着 席 されていて、常 に監 視 されているようで答 案 作 成 に相 当 抵 抗 を感 じた。入 学 後 判 明 したことであるが、この先 生 が成 績 について 最 も厳 しい力 学 の渥 美 先 生 であった。 3月 4日 午 後 6 時 一 次 試 験 合 格 発 表 1.3 第 二 次 試 験 (面 接 、体 力 ・身 体 検 査 )3月 5・6 日 当 時 の時 代 状 況 により、国 民 には常 に戦 えるだけの強 い体 力 を要 求 されていた。 し た が っ てい ろ い ろ な学 校 で 、 入 試 の 際 に 体 力 テ ス ト を行 う と こ ろ が あっ た 。 我 々 の 受 検 した内 容 は、徒 手 体 操 、鉄 棒 (けん垂 )、跳 び箱 、重 量 あげおよび校 外 でのマ ラソンなどであった。 なお、この試 験 (学 科 試 験 の翌 日 )の前 に東 京 では比 較 的 大 量 の雪 が降 り、当 日 屋 外 (路 上 )では残 雪 多 く、マラソンの実 施 は不 可 能 のためこれだけは中 止 され た。 21 1.4 面 接 寮 の舎 監 (佐 藤 卯 吉 主 事 )ともう 1 人 の先 生 の口 頭 試 問 を受 けた。このとき、「君 (私 )は住 居 が東 京 であるが、この学 校 では入 学 すると必 ず入 寮 しなければならな いことになっ ているが、それでもよい か」と質 問 さ れたので「よい」と答 えた 。この質 問 以 外 に は 何 を 聞 か れ た か 記 憶 は な い が 、 内 容 は 形 式 的 な も の で あっ た 。 こ の 質 問 により私 の入 寮 が予 定 されているのではないかと考 え、合 格 はほぼ確 実 であろうと 推 定 した。 なお、この他 に身 体 検 査 はあったが、これは通 常 中 学 校 で行 われていたものと同 じで、特 に記 憶 に残 るようなことはなかった。 1.5 合 格 発 表 (競 争 倍 率 4.3 倍 )3 月 16 日 合 格 発 表 は校 庭 に掲 示 され、これとは別 に官 報 (政 府 公 報 )に告 示 された。私 の 科 (理 科 二 部 )では 77 名 が合 格 した。 尚 、私 は第 二 志 望 として自 分 の趣 味 から気 象 技 術 官 養 成 所 (現 在 の気 象 大 学 校 )を志 望 し願 書 を提 出 して あり、ここの入 学 試 験 が高 等 師 範 の 合 格 発 表 当 日 であったが、高 等 師 範 の合 格 を信 じて、第 二 志 望 校 は受 験 を取 り止 めた。 2. 式 典 に関 する覚 え書 き 2.1 入 学 式 東 京 高 等 師 範 学 校 ・東 京 文 理 科 大 学 正 門 4月 10 日 9時 、保 護 者 同 伴 の下 、本 校 木 造 大 講 堂 において厳 粛 に行 われた。式 次 第 は記 憶 にないが、式 の最 後 に演 題 と内 容 は忘 れたが、諸 橋 轍 次 先 生 (漢 文 学 )の講 演 が行 われたことが思 い出 される。 式 終 了 後 構 内 参 観 として説 明 を聞 きながら構 内 を一 巡 した。この中 で鮮 明 に記 憶 に残 っ て いることが あ る。これ につ いては在 学 中 も卒 業 後 も友 人 の 誰 からも 話 題 とされたことは無 かったので是 非 ここに書 き残 しておきたい。 西 館 (これのみ当 時 鉄 筋 コンクリートの建 築 )のある所 (3 階 か 4 階 )に特 別 室 があ り、1 人 ずつ入 退 出 することになっていた。入 ってみると室 内 には赤 の絨 毯 (カーペ ット)が敷 か れ、中 央 の 台 にガラス の直 方 体 形 のケースが おかれ 、そ の中 に教 育 勅 22 語 の 実 物 ( 天 皇 署 名 、 天 皇 印 あり ) がお かれ 、 その 台 の 側 に椅 子 ( 玉 座 とい う表 示 板 が 掲 げ て ある ) が あ っ た 。 こ れ を よ く 拝 観 し 、 最 敬 礼 を す る こ と に な っ て い た 。 こ の 特 別 室 はその後 1 回 も見 る機 会 がなく、終 戦 後 どのようになったかは不 明 である。 2.2 四 大 節 拝 賀 式 1 年 間 の間 に次 の四 つの式 典 が大 講 堂 で挙 行 された。(勿 論 これは昭 和 20 年 8 月 15 日 の終 戦 までである) 四方拝 1月 1日 (元 旦 ) 紀元節 2 月 11 日 (現 在 の建 国 の日 ) 天長節 4 月 29 日 (現 在 のみどりの日 ) 明 治 節 11 月 3 日 (現 在 の文 化 の日 ) これ らの 式 典 は高 師 と 文 理 大 と合 同 で行 わ れ ることになっ ており 、全 員 出 席 が原 則 で あった 。し か し会 場 が 本 校 大 講 堂 では あるが 、両 者 の学 生 ・ 職 員 が 全 員 収 容 できる広 さではなかった。そこで次 のような方 法 がとられた。 式 場 入 口 に学 生 主 事 補 の先 生 ( 現 在 の高 等 学 校 では生 徒 指 導 部 のような立 場 の人 )が黒 い漆 塗 りの長 方 形 のお盆 を持 って立 っていて、欠 席 する人 はその中 に 自 分 の名 刺 (科 、部 、氏 名 記 入 のもの)を入 れれば出 席 扱 いとなる。 このような経 験 は初 めてなので、この学 校 に入 学 すると全 員 名 刺 を作 らなければ ならなかった。これまでは、名 刺 は社 会 人 となった人 が、職 業 上 の必 要 から持 つも のと信 じていたので、この事 態 は大 きな驚 きであった。便 利 な方 法 ではあるが、式 典 のみでは一 年 間 に数 枚 しか必 要 がなく、卒 業 するまで機 会 があれば用 いることがで きた。 2.3 卒 業 式 我 々の卒 業 式 は昭 和 23 年 3 月 15 日 に挙 行 された。当 日 は気 温 は低 いが、式 に ふさわしく晴 天 であった。卒 業 証 書 は各 人 に渡 すには時 間 がかかり過 ぎるので、文 科 、理 科 、体 育 科 、芸 能 科 各 科 の 1 部 の代 表 者 が校 長 杉 村 欣 次 郎 氏 (数 学 者 ) から授 与 された。式 次 第 は通 常 行 われている卒 業 式 と同 様 であったが、その中 で 珍 事 が生 じた。 こ の 式 典 に 来 賓 と し て 出 席 し た 文 部 次 官 が 祝 辞 を 述 べ た が 、 氏 は原 稿 な し で 祝 辞 を述 べた。これ自 体 も珍 しいことであり、多 くの場 合 は次 官 より下 の役 職 の人 が 原 稿 を作 成 し、当 日 は次 官 が読 み上 げるのが普 通 であるので、このようにすれば特 に問 題 はなかったものと思 う。ところが原 稿 の用 意 なく自 分 の考 えをその場 で述 べ 23 たことにより話 の流 れが妙 なことになってしまった。 卒 業 記 念 写 真 (茗 渓 会 館 屋 上 にて) こ の 祝 辞 の 中 で 「 先 生 と 言 わ れ る 程 の 馬 鹿 で な し 」 と いう 諺 を 引 用 し て 、 こ の 諺 は その国 の文 化 レベルが高 いことを示 すものであるといい、その理 由 を縷 々説 明 し、 先 生 は馬 鹿 ではないという結 論 になるような話 とするつもりで話 されたのであろうが、 原 稿 がないためにそのような話 の筋 が容 易 に作 れずに、先 生 は馬 鹿 であるというふ うに解 される結 論 となってしまった。次 官 自 身 も大 分 困 った様 子 で、妙 なこじつけで 話 を締 めくくって降 壇 した。これには教 職 員 、卒 業 生 一 同 唖 然 としたことが強 く印 象 に残 った。これならば、文 部 大 臣 の祝 辞 を代 読 した方 がよほど良 かったであろう。 なお、式 終 了 後 、茗 渓 会 館 屋 上 で記 念 写 真 を撮 影 した。 (付 記 )お別 れパーティー 当 時 の社 会 状 態 は食 料 その他 が極 めて不 十 分 であり、酒 類 などは販 売 されてい ないので、現 今 のようなパーティーとは程 遠 い質 素 なものになった。特 にアルコール については何 とか入 手 すべく、私 の親 しくしていた文 理 科 大 学 化 学 教 室 の助 手 (当 時 )山 本 大 二 郎 氏 にお願 いしたところ、快 く引 き受 けて下 され、エチルアルコー ルにコハク酸 その他 を調 合 して、大 変 美 味 なウイスキーを作 って下 さった。これを用 24 い、多 少 のつまみを用 意 して物 理 専 攻 の人 達 だけでささやかなパ←ティーを催 し た。 2.4 卒 業 以 後 の式 典 1)東 京 高 等 師 範 学 校 閉 校 式 (創 立 八 十 年 ) * 戦 後 の学 制 改 革 により新 制 大 学 ( 東 京 教 育 大 学 ) が発 足 したので、旧 制 度 の高 師 は閉 校 することになった。 *式 典 の詳 細 は、茗 渓 会 百 年 史 (p.467∼471)参 照 。 昭 和 27 年 3 月 31 目 に付 属 小 学 校 講 堂 に於 て、午 前 中 は式 典 、午 後 は記 念 パ ーティーが行 われた。 当 日 の出 席 者 全 員 に記 念 として、中 に校 章 (五 三 の桐 )を青 色 で入 れた瀬 戸 製 の 酒 盃 が渡 された。 2)東 京 教 育 大 学 開 学 記 念 式 典 東 京 教 育 大 学 の設 立 に際 しては、母 体 校 (東 京 高 師 、東 京 文 理 大 、農 業 教 育 専 門 学 校 、東 京 体 育 専 門 学 校 )の中 の東 京 高 師 と東 京 文 理 大 との間 に長 い複 雑 なトラブルがあったため、スムースに新 制 大 学 が発 足 したわけではない。法 律 的 に は昭 和 24 年 6 月 1 日 開 学 となっていて、第 1 回 の入 学 試 験 は 6 月 15 日 に実 施 された。私 はこの大 学 の名 称 「東 京 教 育 大 学 」の決 定 問 題 に係 っていたので、正 式 には新 大 学 の学 生 ではないので開 学 式 には出 席 しなかった。ただし、開 学 記 念 式 典 が行 われたか否 か定 かではない。 しかし、この年 のある日 に開 学 記 念 パーティーが、校 庭 に臨 時 に設 けられたテント の下 で行 われた。このパーティーの出 席 者 の大 部 分 は教 育 大 学 の教 授 、助 教 授 な どであった。生 ビールとつまみで全 員 和 やかに開 学 を祝 った。このパーティーでは、 ビールやつまみは各 自 がその会 場 で券 を買 って注 文 する形 式 であったが、どういう わけか藤 岡 (由 夫 )先 生 が私 のところに来 られ、私 にビール券 を 10 枚 も下 さったの で大 変 恐 縮 し驚 いた。これは一 人 では多 過 ぎるので近 くに居 られた教 授 などに分 けて上 げたことが記 憶 に残 っている。 なお、藤 岡 先 生 と私 とは特 別 の関 係 にあったので、このようなことが生 じたと考 え ているが、先 生 との関 係 については、「戦 時 中 の研 究 室 の思 い出 」の中 に記 す。 3)茗 渓 会 創 立 百 周 年 記 念 式 * 昭 和 57 年 10 月 30 日 午 前 11 時 から付 属 小 学 校 講 堂 に於 て盛 大 に行 われた。 午 後 1 時 からは懇 親 会 が茗 渓 会 館 大 ホールに於 て賑 やかに行 われ、先 輩 と後 輩 25 が互 いに親 睦 を深 めることができた。なお私 の同 級 生 は 2、3 名 しか出 席 しなかっ た。 式 典 の記 念 品 としては、参 列 者 全 員 が諸 橋 轍 次 先 生 の筆 による漢 詩 の書 かれ た扇 子 と木 製 の四 角 の酒 杯 を頂 き、茗 渓 会 百 年 史 は希 望 者 が購 入 した。 *現 在 の茗 渓 会 は、その母 体 校 (東 京 高 等 師 範 学 校 、第 一 臨 時 教 員 養 成 所 、東 京 文 理 科 大 学 、東 京 体 育 専 門 学 校 、東 京 教 育 大 学 、筑 波 大 学 の他 三 つの特 殊 な学 校 )の卒 業 生 の 同 窓 会 である 。創 立 百 周 年 記 念 式 のプロ グラムは資 料 参 照 。 3. 東 京 高 等 師 範 学 校 での授 業 昭 和 19 年 当 時 は、大 戦 は激 化 し戦 況 は日 本 にとって極 めて悪 い状 況 となり、正 規 のカリキュラム、時 間 割 があってもその通 りに授 業 が行 われたのは入 学 後 暫 くの 間 であり、それ以 後 は勤 労 動 員 により中 断 される日 も多 くなり、特 に学 園 全 体 が空 襲 によりその大 部 分 が焼 失 するにおよび授 業 不 可 能 となり、学 生 は日 光 へ勤 労 動 員 されて終 戦 を迎 えた。これ以 後 徐 々に授 業 は正 常 に復 した。したがって終 戦 の 前 後 で全 く 状 況 が異 る ので、この 二 つの時 期 に分 けて記 憶 にある範 囲 内 で記 し て おく。(学 校 の空 襲 火 災 により記 録 の大 部 分 は焼 失 してしまった) 3.1 授 業 内 容 正 規 授 業 としては、学 問 の基 礎 と なるものとして、英 、数 、 理 、社 、 体 の各 科 目 が あった。各 科 の科 目 と先 生 (教 授 、助 教 授 、講 師 )名 とを列 挙 してみる。なお、先 生 方 の印 象 については8.学 生 時 代 の恩 師 の思 い出 (p.36∼44)に記 した。 (敬 称 略 ) 英 語 独 語 左 右 田 実 ;青 木 常 雄 尾 住 (名 不 詳 ) 幾 何 学 と代 数 目 良 正 貫 微 分 ・積 分 森 田 紀 一 解 析 幾 何 ,関 数 論 小 林 善 一 力 学 光 学 渥美 正 永田 恒夫 電磁気学 渥美 正 理論化学 武谷 啄美 有機化学 武 原 熊 吉 (助 手 塩 原 ヤイ) 化学実験法 藤木 源吾 26 生物学 入来 重盛 論 理 学 ・哲 学 島 津 (名 不 詳 ) 倫理学 大彬 謹一 心理学 依田 新 地 質 鉱 物 河 田 喜 代 助 、牛 来 正 夫 柔 道 永頼 諭喜 教 練 陸軍将校 昭 和 20 年 8 月 16 日 から 8 月 31 日 までは例 年 通 りの夏 期 休 業 であり、9 月 1 日 より授 業 が始 まることになってはいたが、校 舎 は鉄 筋 コンクリートの建 物 (西 館 )の みを残 して全 焼 してしまった。全 校 一 斉 に授 業 を開 始 することが不 可 能 であったの で、9 月 1 日 から 21 年 3 月 まで(したがって第 2 学 年 終 了 まで)の中 、文 科 が 3 ケ 月 、理 科 が 3 ケ月 交 代 で授 業 が前 記 西 館 で行 われた。これで一 応 第 2 学 年 の課 程 を終 了 したことになった。 昭 和 21 年 4 月 からは正 常 授 業 となり、この年 度 から各 科 目 ともに専 門 的 なものに なった。 英 語 教育学 倫理学 心理学 哲 学 入 江 勇 起 夫 、桜 庭 信 之 、黒 田 巍 山田 栄 小牧 治 長 嶋 (名 不 詳 ) 藤川富士子 ○微 分 方 程 式 森 田 紀 一 ○光 学 、量 子 論 、量 子 力 学 永 田 恒 夫 ○無 線 工 学 池 本 義 夫 ○物 理 教 育 法 水 野 国 太 郎 天 文 学 秋 山 薫 (東 京 天 文 台 の小 惑 星 の専 門 家 ) 気 象 学 藤 本 (中 央 気 象 台 長 期 予 報 課 長 ) (注 )昭 和 22 年 4 月 (4 年 時 )理 科 二 部 が物 理 専 攻 (約 25 名 )と化 学 専 攻 (約 55 名 )に別 れ、上 記 科 目 中 ○印 は物 理 専 攻 の者 の講 座 で、他 は共 通 のものである。 なお、昭 和 22 年 (4年 時 )の途 中 で教 育 実 習 が実 施 されたが、これは別 項 に記 し た。 27 3.2 テストと成 績 昭 和 20 年 を除 いて正 規 授 業 が行 われている時 期 には、年 2 回 前 期 と後 期 にテ ストが行 われた。テストについては現 在 大 学 その他 で行 われているものと同 様 で特 に変 ったことはない。したがって余 り印 象 に残 るものは少 ない。その中 で 2 科 目 だけ 記 憶 に残 っているものを記 しておくことにする。 一 つは、1 年 時 の力 学 (渥 美 教 授 )のテストで、問 題 数 は 2 問 であるが平 易 ではな く、合 格 点 をとる人 は 50%くらいである。追 試 でやっと単 位 が取 得 できる状 態 であり、 全 科 目 中 で単 位 取 得 が最 も困 難 と言 われていた。 他 の一 つは、4 年 時 の量 子 力 学 と電 子 論 (永 田 教 授 )のテストで、問 題 はやはり 3 間 で、1 問 は wave packet の計 算 問 題 、1 問 は量 子 力 学 と古 典 力 学 での相 違 点 で主 なもの 2 つをあげよというもので、他 の 1 問 は一 様 な磁 界 中 での荷 電 粒 子 の運 動 を調 べよというものであった。 問 題 と し て は 普 通 な もの で あ る が 、 受 験 の 条 件 と し て 自 分 で 書 い た もの は 何 を 持 参 して見 て書 いてもよいということであった。自 分 で書 いたものなら市 販 されている 図 書 を写 したものでもよいという条 件 であった。私 は幸 いにして出 版 された書 物 を写 したものも含 めノートが十 数 冊 あり、この中 には 3 問 とも解 答 が出 ているものがあった ので、これを写 すのみで極 めて短 時 間 で答 案 が作 成 できた。 次 に、これらのテストの成 績 は取 扱 いが極 めて特 別 なのでここに記 しておきたい。 テストの結 果 については発 表 しないことが原 則 となっていて、単 位 取 得 ができなか った場 合 のみ本 人 に通 告 されるシステムであった。ただし、テスト終 了 後 のある一 定 の期 間 に教 務 課 に行 く と自 分 の成 績 を教 えて もらうことができる。したがって、自 分 の成 績 を知 ろうとしなければ卒 業 まで知 らないということになる。このようなシステムな ので個 人 の成 績 表 などは存 在 しないので、成 績 表 が必 要 な場 合 が生 じたときは、 特 別 に教 務 課 に願 い出 ると作 成 し てもらうこと ができる。このような方 法 のため成 績 の順 位 というものは存 在 しなかった。 3.3 研 究 科 高 師 卒 業 後 それまで自 分 で勉 強 をしていたこと(素 粒 子 論 )をもう少 し継 続 したい と考 え研 究 科 (1 年 間 )に進 んだ。この時 は主 任 教 授 (渥 美 先 生 )の面 接 のみで直 ちに許 可 になり研 究 科 生 となった。このときは同 級 生 が私 以 外 2 名 と臨 時 教 員 養 成 所 卒 業 生 2 名 の合 計 5 名 であった。 この科 では一 定 の必 修 講 座 があり、その他 に選 択 の講 座 があったが、単 位 数 は 私 については 23 単 位 であった。 28 私 以 外 の人 々は定 められた講 義 に出 席 し、テストを受 け一 定 の単 位 を取 得 して 終 了 した。私 は自 分 の勉 強 と、東 京 教 育 大 問 題 、教 授 の代 講 などのために多 忙 で、 研 究 科 の講 座 に全 く出 席 せず、テストも受 けず、止 むを得 ず卒 業 論 文 2編 を提 出 して同 科 修 了 としていただき 23 単 位 を取 得 できた。この件 については次 の項 目 で 触 れることになるが、単 位 授 与 については教 授 会 で問 題 となり、池 本 教 授 、松 田 教 授 などの努 力 により教 授 会 の承 認 が得 られた。 単 位 取 得 できた科 目 の中 現 在 記 憶 しているものは次 のようなものである。量 子 力 学 、相 対 性 理 論 、統 計 力 学 、電 気 力 学 、原 子 核 物 理 など。 なお、この 1 年 間 は池 本 先 生 の室 (教 官 研 究 室 )で、先 生 の机 の傍 に私 の席 を 置 かせて頂 き、常 時 この席 で勉 強 や仕 事 をしていた。先 生 不 在 時 の先 生 への来 客 なども、私 がお会 いして必 要 用 件 を済 ませることも多 かった。 4. 授 業 外 活 動 について 4.1 入 学 から終 戦 まで 入 学 して間 もなく構 内 中 心 の建 物 (西 館 )の一 階 を見 て廻 ると、この階 は高 師 と 文 理 大 の物 理 と化 学 の研 究 室 から成 り立 っていて、教 官 の研 究 室 には各 先 生 の 木 の名 札 (在 室 黒 文 字 、不 在 赤 文 字 )が掛 けてあり、その中 でたまたま藤 岡 由 夫 先 生 の名 札 が在 室 を示 されていた。藤 岡 先 生 については中 学 校 時 代 の分 光 化 学 の講 習 会 で講 義 も受 講 し、先 生 の著 書 (「物 理 学 ノート」と「現 代 の物 理 学 」)とを読 んでいたので、一 度 是 非 直 接 お目 にかかってお話 をしてみたいと思 い、突 然 ではあ ったがドアをノックしたところ、中 からどうぞという返 事 があったので入 室 した。 先 生 も初 めての学 生 なので多 分 驚 かれたこ とであろうと 推 察 したが、先 ず自 己 紹 介 をし、上 に述 べたような先 生 を知 るまでの状 況 をお話 しし、次 に物 理 と化 学 との 境 界 の有 無 などについて質 問 してみた。先 生 は極 めて親 切 に答 えて下 さった。更 に原 子 物 理 について種 々お話 ししたところ、私 に大 学 まで進 んで将 来 理 化 学 研 究 所 に入 るよ うにと 激 励 し て下 さった。 その 上 ご多 忙 の中 いく つかの 研 究 室 に案 内 し て私 を紹 介 して下 さり、自 分 の好 む研 究 室 で勉 強 するようにとご指 導 くださった。私 は入 学 前 より着 目 していた原 子 核 研 究 室 (コッククロフト・ウォルトンの装 置 をもつ研 究 室 )を希 望 し、そこの教 授 の小 島 昌 治 先 生 に紹 介 していただき、その後 この研 究 室 で大 学 院 生 (川 崎 栄 治 氏 、寺 本 竜 猛 氏 )と共 に種 々の実 験 を行 うことになった。 29 中 学 を卒 業 したばかりの未 だ 20 才 にもならない生 徒 に、社 会 (学 界 )で極 めて著 名 な先 生 が 直 接 に会 っ て下 さった だけでも 望 外 の 喜 びで あった が、 更 にこ の よう に ここまで親 切 にご鞭 撻 下 さったことは、私 にとっ ては夢 のような幸 せであり、一 生 忘 れることはで きない。 研 究 実 験 は平 日 放 課 後 及 び休 憩 時 間 が主 であり、昭 和 19 年 秋 からは夕 食 後 夜 間 まで行 う 日 もあった。 実 験 内 容 は初 めの中 はコッククロフト・ ウォルト ン加 速 器 による原 子 核 の人 工 変 換 であったが、 加 速 器 内 の 真 空 度 が 容 易 に 希 望 の 値 ( 10 − 6 mmHg 以 下 )にならず、真 空 を作 る努 力 が毎 日 繰 り返 され、実 際 に原 子 核 の変 換 の実 験 を行 う ことができなかった。一 方 、これとは同 時 に別 の 研 究 室 (第 四 研 究 室 )では GM 計 数 管 の製 作 藤 岡 由 夫 教 授 (物 理 ) と計 数 回 路 の研 究 などを行 っていた。 昭 和 19 年 も秋 頃 になると、軍 事 研 究 の色 彩 も濃 厚 となり、陸 軍 からも技 術 将 校 柴 田 氏 (文 理 大 卒 業 生 )などが研 究 室 に加 わり、陸 軍 技 術 研 究 所 からの委 託 研 究 も行 われ るよう になっ た。そ の 一 つはマ グネ ト ロン の研 究 で あり 、 他 の 一 つは 霧 の 中 の赤 外 線 吸 収 (ボロメーター使 用 )に関 する研 究 であった。 前 者 は大 学 院 の岡 崎 進 氏 、大 学 生 の山 本 信 雄 氏 と柴 田 氏 などと行 った。後 者 は田 中 善 雄 研 究 室 で大 学 院 の坂 柳 氏 が中 心 であった。自 分 ではマ グネトロンについては、大 阪 大 学 の 岡 部 氏 の論 文 を多 数 読 んで調 べ てみた。 なお、日 本 でのマグネトロンの研 究 は相 当 進 歩 しており、理 論 的 な 面 についても昭 和 19 年 当 時 は海 軍 島 田 研 究 所 で、朝 永 先 生 が極 超 短 波 磁 電 管 及 びそれの立 体 朝 永 ・藤 岡 ・小 島 ・三 輪 ・宮 嶋 教 授 回 路 の研 究 を戦 時 研 究 員 として (ニュートン祭 にて) 30 行 われた。その後 東 大 の小 谷 正 雄 教 授 と共 同 で磁 電 管 の発 振 機 構 の研 究 を行 い、 昭 和 23 年 に日 本 学 土 院 賞 を受 賞 されている.(岩 波 書 店 より同 書 名 として小 谷 ・ 朝 永 共 著 として刊 行 された) また、中 学 校 時 代 より学 会 に加 入 して、正 式 に研 究 発 表 などを聴 いてみたいと思 っ てい たもの が 実 現 した 。 高 師 入 学 間 も なく 、物 理 学 の 渥 美 正 教 授 と数 学 の 目 良 正 貫 教 授 の紹 介 により、日 本 数 学 物 理 学 会 に加 入 することができた。これで正 式 に学 会 の例 会 や年 会 に出 席 することができるようになった。 (注 )当 時 は学 生 会 員 制 度 ははなく、正 会 員 になるには正 会 員 2 名 の紹 介 が必 要 条 件 となっていた。また、この学 会 は昭 和 21 年 4 月 (1946 年 )に日 本 数 学 会 と日 本 物 理 学 会 に分 かれた。 (参 考 )高 師 と文 理 大 とは同 じ建 物 内 に存 在 したが学 制 は全 く異 り、前 者 は専 門 学 校 、後 者 は大 学 であり、教 育 内 容 も教 官 も大 部 分 は別 々に独 立 していた。高 師 の学 生 が文 理 大 の研 究 室 で実 験 したり、講 義 を受 けることなど制 度 上 はあり得 ない もので、私 以 外 には前 例 なく後 にも例 はなかった。 4.2 終 戦 から卒 業 まで 1)食 糧 難 と闘 う学 習 戦 後 数 年 問 は日 本 全 体 (特 に東 京 )は食 糧 不 足 が終 戦 前 の戦 時 中 より甚 だ悪 く なり、大 部 分 の人 々は闇 の食 料 の買 出 しに追 われてやっと生 活 が成 り立 つ状 態 で あった。現 在 高 等 学 校 などで行 われている研 修 日 も、元 来 はこの買 い出 しを行 うた めに設 け ら れた日 で あ ったが、食 糧 事 情 の好 転 に よって 次 第 に そ の 目 的 が 変 化 し て現 在 に至 ったものである。 このような状 況 下 にあ っては勉 強 する余 裕 など無 いというのが一 般 であった。しか し、我 々学 生 は戦 時 中 に十 分 な勉 強 ができなかったので、その不 足 分 を至 急 補 充 しなければ、将 来 の学 問 の進 歩 についていくことができなくなることは明 らかである。 そ こ で 私 は時 間 の 許 す限 り 学 校 での 授 業 とは別 に 、 将 来 必 要 に なると 思 わ れる 学 問 の基 礎 になるものとして、主 として数 学 、物 理 のいくつかの分 野 、英 語 などの学 習 を集 中 的 に行 った。 学 校 が空 襲 により焼 失 して授 業 が 3 ヶ月 間 交 代 で行 われたため、その中 の休 業 3 ケ月 間 を有 効 に利 用 し、朝 7 時 の起 床 から夜 10 時 の就 寝 までの間 、食 事 その 他 の僅 かな時 間 を除 き約 13 時 間 を勉 強 に当 て、これがどのくらい意 志 の力 で継 続 できるか試 してみた。当 時 の食 糧 状 態 からカロリー、栄 養 ともに極 めて不 足 している ので体 力 の消 耗 が激 しく、3 週 間 もたつと毎 日 食 欲 が減 退 していくことがはっきり実 31 感 された。ついに 1 ケ月 後 の昭 和 21 年 7 月 末 に病 床 に伏 すことになり、元 の状 態 に回 復 したのはこれから 1 ケ月 後 の 8 月 末 であった。幸 いなことにこの期 間 はちょう ど夏 休 みであったので、学 校 は 1 日 も欠 席 せずにすんだ。 2)実 験 から理 論 へ 敗 戦 に伴 い占 領 軍 の命 令 により日 本 での原 子 核 の研 究 が禁 止 され、理 化 学 研 究 所 の 2 台 のサイクロトロンの他 、各 大 学 の実 験 施 設 は分 解 廃 棄 され、したがって 文 理 大 のコッククロフト・ウォルトンの装 置 も廃 棄 されてしまい大 変 残 念 であった。 こうなっては実 験 での進 歩 は望 めず、理 論 に転 向 する他 ないと考 えた。ところが理 論 となると当 然 ながら高 度 の数 学 も要 求 されるので、この面 の勉 強 は自 力 でやる他 な い 。 (通 常 ど こ の 大 学 で も 、 そ れ ぞれ の 専 門 に 必 要 と な るす べ て の 講 座 が 用 意 さ れているわけではない) 更 に、この時 代 に大 学 院 の特 別 講 義 としての朝 永 先 生 の「量 子 力 学 」と三 輪 (光 雄 )先 生 の「原 子 核 」の 2 講 座 を受 講 させていただいた。 3)外 国 文 献 戦 前 の昭 和 15 年 (1940 年 )頃 までの外 国 の主 要 な文 献 (主 として雑 誌 )は文 理 大 物 理 教 室 内 の図 書 室 (管 理 責 任 者 田 地 隆 夫 氏 )に大 部 分 揃 っていたので大 いに 活 用 させていただいた。しかし、戦 時 中 か ら終 戦 後 のしばらくの間 (昭 和 25 年 頃 ま で)は外 国 の主 要 雑 誌 が図 書 室 に入 って こなかった。 私 が最 初 に読 むことのできた文 献 は、朱 色 の表 紙 の Reviews of Modern Physics であった。これは、高 師 の教 授 であった松 田 栄 先 生 と文 理 大 時 代 の同 級 生 であった、 朝永振一郎教授 当 時 東 京 女 高 師 教 授 の湯 浅 年 子 女 史 を、松 田 先 生 に紹 介 していただき、女 史 か ら上 記 の雑 誌 を借 用 させていただいた。このときの雑 誌 は Bethe(ベーテ)が戦 後 は じめて核 分 裂 (原 爆 に用 いた U の分 裂 と連 鎖 反 応 )についてまとめて解 説 したもの であり、多 くの人 々が注 目 した論 文 であった。湯 浅 先 生 は大 変 親 切 であり、私 は何 回 か雑 誌 を借 りに先 生 の研 究 室 に伺 った。 昭 和 21 年 には占 領 米 軍 の C.Ⅰ.E.(Civil Information&Education 民 間 情 報 32 教 育 局 )の図 書 舘 が、東 京 日 比 谷 の 1 つの建 物 (旧 日 東 紅 茶 の店 )に開 設 され、 入 場 無 料 で誰 でも利 用 できるようになった。私 は授 業 のないときにはいつもここを利 用 して戦 後 の新 しい論 文 を読 むことができた。ここで主 に利 用 した雑 誌 は次 の 5 種 であった。 Physical Review 、 Reviews of Modern Physics 、 Nature 、 Applied Physics 、 Review of Scientific Instrument これらの中 から目 ぼしい論 文 をさがして、それをペンでノートに筆 写 してきた。当 時 コピー機 はまだ存 在 せ ず、マイクロ フィルムによ る撮 影 もフィルムが入 手 困 難 であっ たので、止 むを得 ず筆 写 した。1 日 で論 文 3 編 くらいしか筆 写 できなかったが、これ で も 相 当 な ス ピ ー ド で あ り 、 単 語 の ス ペ ル な ども 多 数 正 確 に 記 憶 す る こ と も で き た 。 この C.Ⅰ.E.で読 んだ論 文 は、主 として中 間 子 論 、場 の量 子 論 、核 実 験 に関 するも のであった。 このなかで 1947 年 のフィジカルレビュー に Ramb Retherford(ラム、レザフォード米 国 )の 2 人 の水 素 スペクトルに関 する実 験 についての論 文 (いわゆるラムシフトの実 験 )が発 表 され、すぐ写 してきて、永 田 先 生 の研 究 室 で金 沢 捨 男 氏 (後 の後 藤 捨 男 氏 …東 京 学 芸 大 学 名 誉 教 授 )を中 心 と してコロキウムを行 い、東 京 ではここではじ めてこの論 文 が取 り上 げられた。このラムシ フトの説 明 に朝 永 先 生 の「くり込 み理 論 」 が正 しく適 合 することがわかって、皆 で大 喜 びした。 なお、1946 年 日 本 で初 めて英 文 の理 論 物 理 学 の 雑 誌 Progress of Theoretical Physics ( 略 称 プ ロ グ レ ス ) が 発 刊 さ れ 、 国 三輪光雄教授 内 での理 論 物 理 (当 時 は素 粒 子 論 中 心 ) の研 究 を海 外 に発 表 する唯 一 の代 表 的 論 文 集 となった。 (参 考 )この時 代 の研 究 の中 心 は、朝 永 先 生 とアメリカの Schwinger との電 磁 量 子 力 学 の理 論 (朝 永 −シュインガーの理 論 )であり、一 般 に「くり込 み理 論 」と言 われ ているものであり、朝 永 先 生 のノーベル賞 受 賞 の主 要 業 績 である。私 共 の勉 強 会 も ほとんどこれに関 するものであった。 33 また、1940 年 以 前 のものは、前 記 5 種 の他 に Philosophical Magazine(英 ) 、 Zeitschrift fuer Physik ( 独 ) な ど 、 化 学 関 係 の も の と し て は Chemical abstract (米 )を利 用 した。 4)研 究 会 創 設 昭 和 21 年 代 に物 理 研 究 会 と無 線 研 究 会 を創 設 した。 物 理 研 究 会 :私 を中 心 として、栗 山 氏 、三 浦 氏 など 5、6 人 が集 り一 つの勉 強 会 と し て 発 足 し た 。 活 動 とし て 、 研 究 発 表 会 を 開 き 、 ま た 手 書 き の 回 覧 雑 誌 「 物 理 評 論 」を 作 り 回 覧 した 。 しか し、 この 時 代 は まだ 世 の中 は 食 糧 不 足 、 住 宅 難 、 経 済 的 に不 況 であり、生 活 は安 定 していなかったので、このような会 も長 つづきせず、発 表 会 も雑 誌 も2回 で終 止 してしまった。 無 線 研 究 会 :ラジオ理 論 と技 術 の普 及 という目 的 で、私 を中 心 として鈴 木 (幸 夫 ) 氏 などに協 力 をしてもらい、更 に大 学 の小 島 教 授 などを顧 問 にお願 いして発 足 した。 ラジオ技 術 講 習 会 と NHK 技 術 研 究 所 見 学 会 などを行 ったが、これも長 続 きはしな かった。 4.3 教 育 実 習 教 員 養 成 を主 目 的 とする学 校 であるので、教 育 実 習 を行 うことが必 修 とされ、この ために付 属 の小 学 校 と中 学 ・高 等 学 校 が付 置 されている。 1)付 属 小 学 校 における実 習 (昭 和 22 年 5 月 13 日 ∼30 日 ) 5 年 生 の 1 つのクラスに割 り当 てられ、丸 本 教 諭 の指 導 の下 に 2 週 間 にわたって、 理 科 の授 業 を担 当 した。各 人 の専 攻 分 野 の内 容 について 50 分 ×2 回 の授 業 を担 当 し、他 の時 間 は他 人 の授 業 参 観 研 究 と反 省 検 討 会 とクラスのホームルームに参 加 した 。 私 の場 合 は 、「 光 の 進 み方 」とし て直 進 、平 面 鏡 に よる 反 射 、 針 穴 写 真 機 (ピンホールカメラ)を教 材 とした。 小 学 生 を教 えることは生 まれて初 めてのことであり、説 明 の方 法 、用 いる言 葉 ・漢 字 に十 分 留 意 する必 要 があり、ややもすると日 常 我 々が用 いている専 門 用 語 や漢 字 、大 人 の言 葉 を用 いてしまうことが生 じるので、この点 に相 当 な研 究 と努 力 が必 要 であり、この点 に大 分 苦 労 した。付 属 の児 童 は能 力 が高 いのでその点 では一 般 の小 学 校 にくらべれば楽 であり、楽 しく実 習 ができた。 34 教 育 実 習 (付 属 小 学 校 5 年 1 組 ) 2)付 属 中 学 ・高 等 学 校 における実 習 (昭 和 22 年 6 月 1 日 ∼25 日 ) 小 学 校 の実 習 が終 ると続 いて 2 週 間 付 属 中 学 校 での実 習 となった。私 に割 り当 てられたクラスは、中 学 2 年 生 で、戦 時 中 にできた科 学 の英 才 クラス * の継 続 であり、 生 徒 には有 名 な科 学 者 の子 弟 が沢 山 いた。 * 戦 時 中 、科 学 ・技 術 の重 要 性 が認 識 され、日 本 の将 来 を担 う若 い人 々の中 で、 特 に理 科 的 能 力 の優 れ た者 を集 めて理 科 の英 才 クラスを作 った。戦 後 もしばら くの間 この制 度 が継 続 していてこのようなクラスがあった。 このクラスでは米 山 勝 太 郎 教 諭 (理 科 第 1 分 野 )の指 導 で、「光 の速 さ」について 50 分 ×2 回 の授 業 を行 った。この中 で、光 の速 さの測 定 法 3 種 をとり上 げて、現 在 の高 等 学 校 でのレベルくらいの内 容 の説 明 を行 った。なお、この教 材 研 究 のために 第 Ⅰ編 に述 べた科 学 博 物 舘 の図 書 室 の図 書 を利 用 した。 付 属 中 学 の生 徒 は毎 年 教 育 実 習 の対 象 とされていて、いわゆる教 生 慣 れをして いるので教 生 に 種 々の いじわるな 質 問 などを して困 らせ ることが よく あり 、 教 材 研 究 が不 十 分 であったりするとうまく解 答 できず生 徒 の思 う壷 にはまってしまう。したがっ て完 璧 な研 究 をしておき、自 信 を持 って授 業 を展 開 しなければならない。私 の時 間 は完 全 に私 のペースで授 業 を進 行 でき安 心 した。 35 3)付 属 以 外 の学 校 における実 習 (昭 和 22 年 9 月 1 日 ∼30 日 ) 我 々の年 度 から教 育 実 習 に関 する制 度 が変 更 され、付 属 校 以 外 の学 校 (多 くは 自 分 の出 身 校 )において 4 週 間 の実 習 を行 うことになった。 私 も多 くの人 々と同 様 に自 分 の出 身 校 (現 都 立 上 野 高 等 学 校 )において行 うこと とした。たまたま私 が在 学 中 物 理 を教 えていただいた恩 師 川 名 佐 次 郎 先 生 (故 人 ) がおられて、指 導 教 官 としてご指 導 いただいた。 この 4 週 間 の間 は、川 名 先 生 が担 当 されていた全 授 業 時 間 (週 15 時 間 )を私 が 受 け持 つことになり、最 初 の 1 回 だけ先 生 が私 の授 業 をみた後 いろいろとご指 導 い ただいたが、2 回 目 以 後 は全 く私 に一 任 という形 で、一 度 も私 の授 業 をみにこられ ることはなかった。 このとき担 当 した生 徒 は 2 年 生 で、ここでもまた光 についての授 業 であった。具 体 的 内 容 はほとんど忘 れたが、光 の反 射 と吸 収 、および光 の三 原 色 と絵 の具 の三 原 色 との違 いなどについて取 り扱 ったことだけ記 憶 している。4 週 間 の授 業 を終 っても 川 名 先 生 からは特 にコメントはなかった。 なお、自 分 と全 く無 関 係 の学 校 で行 う実 習 と最 も異 る点 は、授 業 を受 ける生 徒 が 私 の後 輩 であり、教 生 と生 徒 という関 係 よりも、先 輩 ・後 輩 という関 係 の方 が生 徒 に とってはより好 ましい関 係 であったようだ。この意 味 でも授 業 態 度 は極 めて良 好 で、 熱 心 で活 発 でもあり楽 しい授 業 ができた。 4.4 研 究 科 時 代 1)理 論 物 理 の勉 強 前 に研 究 科 の授 業 の項 で述 べたように、私 は研 究 科 の定 められた授 業 に全 く出 席 せず、自 分 自 身 でそれ以 前 から続 けていた量 子 力 学 と場 の理 論 の勉 強 をしてい た。 この時 代 に Heitler の幅 射 の量 子 論 (Quantum Theory of Radiation)を途 中 の 省 略 された計 算 も含 めて完 訳 してみた。この他 は朝 永 先 生 の量 子 力 学 に関 する最 初 の著 作 「量 子 力 学 (Ⅰ)」(東 西 出 版 社 1948 年 5 月 刊 )を読 む。(次 項 の内 地 留 学 を参 照 ) これ 以 外 は前 か らの 継 続 と して 素 粒 子 論 ( 主 とし て朝 永 ・ シュイ ン ガーの 理 論 ) の 勉 強 をする。文 理 大 の光 学 研 究 所 (朝 永 研 究 室 )にもときどき出 かけた。 この期 間 は日 本 物 理 学 会 の例 会 (毎 月 )および年 会 (年 1 回 )の素 粒 子 分 科 会 に出 席 して新 しい研 究 成 果 についての知 識 をえた。 36 2)内 地 留 学 の人 々 昭 和 22、23 年 頃 現 職 教 員 の学 習 意 欲 の充 足 と資 質 の向 上 などを目 的 として、 内 地 の大 学 ・専 門 学 校 (後 に新 制 大 学 )に 1 年 間 留 学 させ、特 定 の分 野 の研 究 を させる制 度 ができた。 私 が研 究 科 に在 籍 している 1 年 間 に、都 立 高 等 学 校 の先 生 (私 の先 輩 )高 木 四 郎 氏 と藤 田 喜 一 氏 が池 本 教 授 のところに留 学 生 として入 ってこられた。いろいろ相 談 の結 果 、この 2 人 は永 田 教 授 の下 で量 子 力 学 の勉 強 をすることになった。ちょう どこの頃 朝 永 先 生 の「量 子 力 学 (Ⅰ)」が出 版 されたので、これを輪 講 形 式 で読 ん でいくことになった。 2 人 にとって内 容 も形 式 も初 めての経 験 なので、最 初 1、2 回 は私 が行 うようにとの 指 示 で、私 が初 めだけ受 け持 ち、後 は 2 人 の先 生 が交 代 で読 んでいった。私 も一 緒 に検 討 していったが、朝 永 先 生 の本 の内 容 は甚 だユニークで判 り易 くすばらしい、 さすがに朝 永 先 生 らしいと感 服 したが、初 版 のためと朝 永 先 生 のご多 忙 のことが原 因 で 、 誤 植 お よ び 計 算 の 誤 り が 多 数 発 見 さ れた 。 し か し、こ れ を 完 全 に 修 正 す るこ とにより、この本 の内 容 も完 全 に理 解 することができたという効 果 があった。 なお、この本 は現 在 はみすず書 房 から「量 子 力 学 (Ⅰ)」「量 子 力 学 (Ⅱ)」として刊 行 されており、誤 植 その他 の誤 りもほとんどなくなっている。 私 はこのとき以 来 この 2 人 の先 生 とは公 私 共 にお世 話 になってきた。 3)教 授 の代 講 戦 後 陸 軍 教 授 であった松 田 栄 先 生 (今 は故 人 )が軍 から東 京 高 師 教 授 として着 任 された。同 先 生 は種 々の仕 事 を持 っており、私 が研 究 生 であった昭 和 23 年 度 後 期 には 、先 生 の 担 当 講 座 の 一 部 で あった 理 科 一 部 ( 数 学 専 攻 ) 3 年 生 の 電 磁 気 学 (週 1 回 100 分 )の代 講 を依 頼 されたので、半 年 間 にわたりお引 き受 けした。この とき初 めて専 門 学 校 (現 大 学 )の授 業 を担 当 したが、小 学 校 および中 ・高 等 学 校 の 教 育 実 習 と異 り、相 手 が私 と学 力 、年 令 とも近 く、更 に数 学 科 でもあるということで、 数 式 は十 分 使 用 可 能 であるため大 変 教 授 し易 いものであった。 このときは教 授 の代 講 であるため、初 めて背 広 姿 で教 壇 に立 ったが、小 ・中 ・高 等 学 校 での教 育 実 習 の経 験 があるので、授 業 のやり方 などについては全 く心 配 なく 落 ち着 いて講 義 ができ、以 後 の人 生 にとっても大 変 良 い経 験 となった。 4)実 験 指 導 物 理 実 験 が必 修 とされていたことは当 然 であり、水 野 国 太 郎 教 授 が担 当 し、実 験 に関 する講 義 (データの処 理 など)と実 験 の指 導 を行 っていたが、私 の 1 年 後 輩 の クラスの実 験 指 導 の援 助 を依 頼 され、週 1 回 (100 分 )をお手 伝 いして指 導 した。 37 なお、私 までの実 験 は、昔 から伝 わる古 びた少 し変 色 したダイレクション(今 でいう マニュアル)であったが、すべてを新 しく書 き直 し、必 要 に応 じて方 法 の改 良 を加 え、 また新 しい実 験 も加 えた。 5)まとめ 研 究 科 時 代 (昭 和 23 年 4 月 から 24 年 3 月 )は、上 記 1)から 4)および次 項 5.5) の東 京 教 育 大 学 間 題 に係 わっていたので、余 りにも忙 しく、講 義 に出 る時 間 もなく、 テストなどを考 えている 暇 は全 くなく、日 曜 、 祭 日 以 外 は夏 冬 期 休 業 中 も登 校 し て 各 種 の仕 事 と勉 強 に熱 中 し、全 力 投 球 の充 実 した 1 年 であった。 このように多 岐 にわたり多 忙 な生 活 をしていたので、大 学 (文 理 大 )への入 試 準 備 などする余 裕 もなく、更 に大 学 で学 習 すべき専 門 課 程 の大 部 分 については既 に自 力 で学 習 してしまっていたので、大 学 進 学 は考 えなかった。しかし、大 学 を抜 きにし て大 学 院 にはいることもできず、研 究 者 になるためには資 格 、条 件 が 不 足 であった ので、ここで進 路 に教 育 という道 を選 ぶことになった。 後 輩 に学 問 や文 化 を継 承 していくことも教 育 の極 めて大 きな役 割 であり、学 問 研 究 に劣 らず重 要 な価 値 があると判 断 して将 来 の進 路 を決 定 したが、現 在 振 り返 っ てみてもこれで満 足 できたと思 っている。 4.5 東 京 教 育 大 学 の発 足 戦 後 日 本 の改 革 の中 でも教 育 改 戦 前 の複 線 型 教 育 システム 革 は、軍 国 主 義 日 本 から文 化 国 家 日 本 に変 革 するための根 本 をなすも A.義 務 教 育 コース のであり、最 も重 要 な改 革 の 1 つであ 小 学 校 (6年 )→高 等 小 学 校 (2年 ) った。 戦 後 の改 革 についての提 言 を作 る B.高 等 教 育 コース ために、アメリカより教 育 使 節 団 が来 日 し、種 々の視 察 と調 査 に基 いて報 小 学 校 (6年 )→中 等 学 校 (4∼5年 ) →(ここで次 の二 つに分 かれる) 告 書 を 作 り 、 G.H.Q ( 占 領 軍 総 司 令 B1:普 通 科 部 、司 令 官 ダグラス・マッカーサー元 高 等 学 校 (3年 )→大 学 (3年 ) 帥 )に提 出 され、これに基 いて各 種 の B2:職 業 科 教 育 制 度 の理 念 と内 容 が改 められた。 このとき改 革 された 制 度 がいわ ゆる新 制 *という形 の大 ・高 ・中 ・小 学 校 の 6・3・3・4 制 の形 で現 在 に至 っている。 38 *主 旨 、内 容 は当 時 とはある程 度 変 化 し ている。 このとき初 めて日 本 の教 育 はそれまでの複 線 型 教 育 システムから単 線 型 教 育 シ ステムに変 更 された。 1)学 制 改 革 委 員 会 我 々学 生 側 にも学 校 当 局 より高 師 側 10 名 大 学 側 10 名 の委 員 が任 命 され、この 委 員 会 で学 校 当 局 とは独 立 に、新 制 大 学 の理 念 、あるべき姿 、目 的 、学 部 学 科 制 度 などについて研 究 し、結 論 をまとめて学 長 に報 告 することが任 務 となった。これ らを考 えるに当 たっても、その基 礎 となったのが米 国 教 育 使 節 団 報 告 書 であり、こ れを十 分 熟 読 検 討 した。委 員 長 には大 学 側 からは野 間 氏 (倫 理 学 専 攻 )、副 委 員 長 には高 師 側 から私 となつた。 結 論 は、高 い学 問 的 教 養 と研 究 態 度 を身 につけた教 育 者 の養 成 と、研 究 者 の 養 成 とを二 大 目 標 とした大 学 を作 り、一 般 国 立 大 学 (例 えば東 京 大 学 )などとは異 り、今 迄 の伝 統 を活 かした大 学 とし、その名 称 にそれにふさわしく東 京 教 育 大 学 に するという結 論 になり、務 台 理 作 学 長 に報 告 した。私 はこのとき初 めて学 長 室 (当 時 茗 渓 会 館 内 )で学 長 と種 々話 し合 うことができた。 なお、大 学 の名 称 については、次 の項 2)に述 べるが、委 員 会 でも次 のような種 々 の名 称 が話 題 となった。 大 塚 大 学 、文 教 大 学 、関 東 大 学 、茗 渓 大 学 など。 2)大 学 名 問 題 教 授 会 での大 学 名 決 定 については非 常 に混 乱 があり容 易 に 1 つにまとまらなか った。高 師 側 はあくまでも「教 育 」という言 葉 を入 れることを強 く主 張 した。これに対 し て大 学 側 は 「教 育 」と い う言 葉 に 強 く反 発 して いた。反 発 の中 心 とし て強 硬 に主 張 していたのが藤 岡 由 夫 先 生 であった。 私 が推 察 するところ、藤 岡 先 生 に限 らず一 般 の大 学 の先 生 更 には社 会 の一 般 人 の間 でも、大 学 の先 生 の方 が高 等 学 校 以 下 の先 生 よ りもステイタスが上 であり、 優 秀 で ある と 考 え る 傾 向 が あ る 。 も っ と あ り て い に 言 え ば 、 高 校 以 下 の 先 生 は 大 学 の先 生 にくらべて勉 強 ができず、勉 強 もしていないと思 われているのが現 実 であると 考 えら れる。 例 えば 、社 会 で学 識 経 験 者 とい う 場 合 、 例 外 を除 けば高 校 以 下 の先 生 は含 めないのが通 常 である。 大 学 側 の教 授 会 ではやはりこのような考 え方 が背 景 にあり、教 授 会 の中 での藤 岡 先 生 の発 言 力 は極 めて大 であり、なかなか「教 育 大 学 」という名 称 は認 められなか つた。私 は藤 岡 先 生 と の個 人 的 関 係 により、 先 生 と個 人 的 にこの問 題 について交 渉 を考 えた。このとき私 は前 項 1)で述 べた学 制 改 革 委 員 であることは藤 岡 先 生 も 39 よく承 知 されていた。 時 機 を見 計 らって先 生 の室 を尋 ねてみると、大 分 ご多 忙 の様 子 ではあったが快 く 会 った下 さったので、校 名 問 題 について、いきなり本 音 のこと ― 前 記 大 学 教 授 の ステイタスのこと ― を申 し上 げ、教 育 の名 を冠 すると大 学 のイメージダウンになると 判 断 されているのではないかということを尋 ねた。更 に学 生 についても、教 師 になろ うとする人 々は不 勉 強 で、研 究 者 になろうとする大 学 生 はよく学 び学 力 が高 いという 見 方 が根 底 にあるのではないかと尋 ねてみた。このような質 問 は余 程 個 人 的 信 頼 関 係 がなければ言 いにくいことであり、誰 も直 接 藤 岡 先 生 に申 し上 げることのできる 教 授 がいなかったので、私 が不 利 を承 知 でお話 した。 こ れに 対 し 藤 岡 先 生 は 、高 師 にも あなた の よう な学 生 が い るので 、こ の よう な偏 見 は持 っていないと言 われた。この話 し合 いは約 30 分 行 われた。このことがあった後 の 大 学 の 教 授 会 で は 藤 岡 先 生 の 同 意 が 得 ら れ て こ こ に 「 東 京 教 育 大 学 」 と い う新 しい大 学 名 が選 定 された。 5. 寮 生 活 5.1 寮 の構 成 学 校 敷 地 内 最 北 端 の付 属 小 学 校 々舎 裏 (当 時 の氷 川 下 町 に隣 接 )に 3 棟 あり、 各 寮 は 2 階 木 造 の極 めて古 い建 築 で、多 くの棟 は上 下 6 室 あった。各 室 は板 の間 (学 習 室 )と一 段 高 い畳 部 屋 (寝 室 )とから成 り、学 習 室 には人 数 分 の木 製 学 習 机 (本 箱 付 )が配 置 されていた。各 室 には室 長 (3 年 生 )と副 室 長 (2 年 生 )各 1 名 と 1 年 生 10 名 前 後 であった。 各 棟 は屋 根 付 きコンクリートの廊 下 で結 ばれ、各 棟 の一 端 にはトイレが設 置 して あり、洗 面 所 は各 階 廊 下 窓 際 にあったと思 う。食 堂 、炊 事 場 、浴 場 は別 棟 にあった。 私 は 6 寮 10 室 に割 り当 てられた。そのときの構 成 人 員 は次 の通 りであった。 (敬 称 略 )(文 1 とは文 科 1 部 の略 。他 も同 様 ) 室 長 早 野 和 一 (理 2、3 年 生 ) 副 室 長 高 橋 政 利 (体 3、2 年 生 ) 1 年 生 高 橋 尭 昭 (文 1)、原 治 (文 2)、武 井 佳 朝 (文 2)、藤 井 円 秀 (理 2)、八 乙 女 盛 典 (理 2)、吉 田 正 一 (理 3)、渡 辺 浩 (理 3)、森 要 一 (体 1)、三 木 定 雄 (体 3)、 三 浦 博 (体 3) 40 5.2 入 寮 歓 迎 会 4月 9 日 、入 寮 した最 初 の日 には、入 寮 歓 迎 会 があり、食 堂 で会 食 が行 われ、当 日 は寮 の管 理 をする先 生 (主 事 、主 事 補 )の挨 拶 とか寮 長 などの祝 辞 があり、食 糧 難 の折 ではあったが、ご馳 走 も用 意 されて大 変 賑 々しく楽 しかった。この際 、西 山 松 之 助 主 事 補 * の歌 舞 伎 (勧 進 帳 の 台 詞 )披 露 があり喝 采 を博 した。 *教 育 大 名 誉 教 授 で江 戸 学 の日 本 の第 一 人 者 。 5.3 日 常 生 活 午 前 6 時 起 床 、点 呼 6 時 半 、7 時 朝 食 、登 校 、授 業 開 始 8 時 、授 業 (6 時 限 の場 合 )終 了 3 時 、下 校 、夕 食 5 時 半 、点 呼 9 時 、消 灯 10 時 。 我 々が寮 生 活 を過 したのは戦 争 の最 も 桐花寮正門 激 しい時 であり、軍 国 主 義 、全 体 主 義 の 最 も隆 盛 を極 めた時 期 であるので、寮 での生 活 は特 にその精 神 面 において極 めて 重 要 視 され、鍛 錬 の恰 好 の場 であった。 特 にこの点 呼 は厳 重 に行 われた。また、ストームといって、就 寝 後 (大 体 10 時 半 頃 )、上 級 生 (主 として各 寮 の副 室 長 をしていた 2 年 生 体 育 科 の生 徒 )2、3 名 が組 んで各 室 を廻 り、新 入 生 (1 年 生 )を起 こして寝 ていた布 団 の上 に正 座 させ、学 科 と 氏 名 を大 声 で言 わせて、発 声 が不 足 であったり、態 度 が良 くなければひどく叱 責 (どなりまたはなぐるなど)された。これが遠 くの部 屋 から次 第 に近 づくにつれて緊 張 が高 まっ て 目 が はっき りさ めて し ま う。こ れが 過 ぎると 、ち ょ うど 嵐 が 過 ぎたような 感 じ になり(これをストームといった)、ゆっくり翌 朝 まで安 眠 できた。 これは 4 月 から 5 月 頃 まで毎 晩 近 く行 われた。先 輩 の話 によれば、昔 は上 級 生 が 本 物 の刃 のついた日 本 刀 を持 ってストームを行 い、態 度 が悪 い場 合 には、その者 の枕 をこの刀 で切 ったという話 も言 い伝 えとして聞 いていたので、私 共 新 入 生 は大 変 恐 ろしく感 じていた。なお、このストームの際 は、室 長 と副 室 長 は起 きる必 要 がな いとされていた。私 はこれが余 りにも癪 にさわるので、あるときは体 育 科 二 部 (柔 道 ) の仲 の良 い先 輩 に同 行 して、ストームをして廻 ったこともあった。 41 5.4 寮 での学 習 夕 食 後 から消 灯 までは自 由 であったので、平 常 は 1 時 間 から 2 時 間 程 度 予 習 ・ 復 習 をしたように思 うが、テスト前 は全 員 揃 って夕 食 後 から消 灯 まで、更 に勉 強 した い人 は別 室 の学 習 室 でおそくまで学 習 することができた。 私 は前 にも記 したように、大 学 の 研 究 室 で実 験 などをやっていたので、放 課 後 お よび夕 食 後 は研 究 室 で実 験 を夜 9 時 まで行 うことが多 かった。したがって寮 で特 に 熱 心 に勉 強 した記 憶 はない。 5.5 寮 生 活 と体 質 変 化 小 学 校 以 来 冬 になると手 足 にひどく霜 焼 けができ、甚 だしいときは歩 行 困 難 にな り学 校 を欠 席 することも しばしばで あった。しかし種 々の方 法 を用 いて もこれを完 治 する方 法 はなかった。春 が来 て自 然 に治 ることを待 つほかなかった。 ところが、寮 では冬 でも靴 下 や足 袋 を履 くことは禁 止 され、どこでも素 足 で生 活 す る規 則 になっていた。老 朽 化 した廊 下 は窓 も破 損 している所 が多 く、雪 が降 ったり すると廊 下 にまで雪 が吹 き込 み、寮 と寮 をつなぐ渡 り廊 下 や食 堂 への廊 下 なども壁 はなく、コンクリートの通 路 の上 に屋 根 があるのみで、風 雨 が横 から吹 き込 み雪 も積 もるような状 況 であった。 そ の よ う な状 況 でも 、そ の 上 を 素 足 で 歩 い てい る と足 の感 覚 が 失 われ る 程 冷 たか ったが、不 思 議 なことにこの冬 中 霜 焼 けは少 しもできなかつた。子 供 の頃 あれ程 悩 んだ霜 焼 けもこの冬 以 降 現 在 までの 50 年 発 症 しなくなった。したがって寮 でのこの 厳 しい体 験 または訓 練 が私 の体 質 を変 化 させたものと考 えられる。私 にとってこれ が寮 生 活 最 大 のメリットであった。 5.6 昭 和 20 年 4 月 から焼 失 まで 学 校 の過 去 の原 則 では 1 年 生 全 員 が必 ず入 寮 し、2 年 以 降 は寮 外 から通 学 する ことになっていた。しかし、我 々の場 合 には次 の新 入 生 が 4 月 に入 学 してこないため に 4 月 から寮 が空 になってしまうので 2 年 生 になっても寮 に住 むことになった。ただ し、すでにこのとき(昭 和 20 年 4 月 )には理 科 のみ入 営 延 期 により在 学 していたた め、寮 の各 室 の区 分 は理 科 の学 科 により分 けられ、更 に各 室 はクラスの槻 ね出 席 番 号 順 に割 り当 てられた。したがって、授 業 も勤 労 動 員 も同 室 のものが集 って、よく 協 力 し助 け合 って生 活 することができ、1 年 生 のときとは全 く雰 囲 気 が異 った。 残 念 ながらこの寮 も 5 月 25 日 夜 の東 京 大 空 襲 により校 舎 と共 に全 焼 してしまい、 我 々は 7 月 より日 光 の古 河 電 工 の工 場 に勤 労 動 員 され、ここでは寮 ではなく社 宅 42 の生 活 となり、社 宅 は体 を休 め寝 るだけの場 所 となってしまった。 (参 考 1)昭 和 20 年 の新 入 生 の入 学 式 は動 員 先 の日 光 の会 社 に於 て行 われ、全 員 が終 戦 まで授 業 なく工 場 での労 働 に従 事 させられた。 (参 考 2)旧 制 の高 等 学 校 、専 門 学 校 、大 学 予 科 などで寮 をもっていた学 校 にはそ れぞれ寮 歌 が種 々あり 、 我 々の寮 に もいくつかの寮 歌 があり 、寮 では折 に触 れこれ らの歌 が歌 われた。最 も有 名 なものは「桐 の華 」、別 名 「七 寮 節 」であり、最 近 では 毎 年 10 月 に東 京 において寮 歌 祭 があり、我 々茗 渓 会 も昭 和 43 年 より毎 年 有 志 が 参 加 して寮 歌 を高 吟 している。私 は初 回 以 来 数 回 (昭 和 43 年 、44 年 、45 年 )連 続 して参 加 し、先 輩 ・後 輩 と共 に楽 しい時 を過 ごすことができた。 6. 戦 時 体 験 6.1 徴 兵 検 査 日 本 では明 治 時 代 から国 民 皆 兵 という考 え方 で徴 兵 制 度 が作 られ、明 治 6 年 1 月 の「徴 兵 令 」によって、満 20 才 となる男 子 の身 体 検 査 をし、程 度 により甲 種 、乙 種 、丙 種 、丁 種 に分 け、甲 、乙 、丙 が合 格 、丁 は不 合 格 となり、合 格 者 は兵 役 に服 す(軍 隊 に 入 隊 して 兵 隊 に なる) こ とが 国 民 の 義 務 とさ れ ていた 。こ れ を拒 否 する と 重 罪 とされた。 検 査 は満 20 才 となる年 の 1 月 に行 われた。晴 れた寒 い日 に我 々は小 石 川 区 役 所 ( 現 文 京 区 役 所 )の講 堂 に 集 めら れ 、 褌 だけ で 身 体 検 査 を 受 けた。 検 査 項 目 と 方 法 は大 部 分 通 常 の学 校 での身 体 検 査 と同 じであるが、講 堂 の中 の一 個 所 に屏 風 が立 ててあり、その中 では性 器 と肛 門 の検 査 を全 裸 になって受 けた。性 器 はペニ スを握 って主 として性 病 の有 無 と併 せて包 茎 ・短 小 も検 査 され、肛 門 は肉 眼 で見 て 痔 の有 無 を検 査 された。この検 査 は当 時 の男 子 にとっては生 まれて初 めての恥 し い検 査 でインパクトは大 きく、この検 査 を受 けた男 子 は徴 兵 検 査 というと必 ずこれを 思 い出 すほどである。 検 査 終 了 後 の結 果 は責 任 者 の軍 人 の前 で一 人 一 人 呼 名 されて言 い渡 され、私 は「第 一 乙 種 合 格 」と言 われ、その後 、今 の戦 争 は科 学 が重 要 なので、お前 達 は すぐ召 集 せず、入 営 を延 期 するから銃 後 の国 民 の科 学 教 育 に努 力 せよと言 われ た。 (注 1)性 器 の検 査 を学 生 問 では「M 検 」と称 していた が今 では余 り使 われない。M は me mber (penis と同 義 )の略 。この検 査 は昭 和 35 年 頃 までは、 東 大 をはじめ 多 くの国 立 大 学 入 学 試 験 の際 、身 体 検 査 で行 われていた。 (注 2)徴 兵 検 査 につい ては次 の 2 つが参 考 になる。 43 岩 波 新 書 『徴 兵 制 』(大 江 志 乃 夫 著 ) 岩 波 新 書 『戦 中 用 語 集 』(三 国 一 郎 著 ) 講 談 社 現 代 新 書 『死 後 』コレクション(水 原 明 人 著 ) 6.2 勤 労 動 員 1)農 村 へ 昭 和 19 年 になると戦 争 状 況 も極 めて厳 しくなり、世 の中 での一 番 働 き盛 りの青 年 の多 くは軍 隊 に召 集 され、特 に農 村 では老 人 、女 性 、子 供 が労 働 を支 えていた。 このような状 況 に少 しでも役 立 っようにということで我 々学 生 が農 村 へ勤 労 奉 仕 をす る た め に 動 員 さ れ 、 そ の 間 学 業 は 中 断 せ ざる を え な か っ た 。 こ れ は 必 ず し も 本 人 の 意 志 で行 ったわけではないので現 今 のボランティア活 動 とは異 るものである。 初 の動 員 は同 年 の 6 月 30 日 から 7 月 15 日 まで、山 梨 県 東 八 代 郡 のぶどう郷 で、 仕 事 はぶどう棚 の下 の除 草 であった。 初 めの 1 週 間 分 宿 した農 家 の労 働 は過 酷 で、朝 5 時 から夜 7 時 まで食 事 時 間 を 除 いてほとんど休 憩 がなく、夜 はノミの集 団 に悩 まされ睡 眠 不 足 の毎 日 で疲 労 が激 しく、他 の農 家 に変 更 してもらった。今 度 の農 家 は当 地 の農 業 組 合 の組 合 長 (渡 辺 福 平 氏 ―― 東 八 代 郡 一 宮 町 1209)で、ここの夫 妻 と私 と三 人 で農 作 業 を行 った。 前 の家 とは正 反 対 で、仕 事 は午 前 午 後 各 2 時 間 ずつで、休 憩 時 間 が長 く大 変 楽 であり、夕 食 前 に沸 かし立 ての風 呂 に入 り、自 家 用 のぶどう酒 を飲 んで夕 食 をす る毎 日 であった。この農 家 は東 京 の 普 通 の家 よ り立 派 で、 庭 は広 く、 灯 籠 が立 ち 、 池 には大 きな鯉 が沢 山 泳 いでおり、盆 栽 も沢 山 並 べられている。トイレには黒 と白 の玉 砂 利 が 敷 き 詰 め て あ り、 その 一 隅 には 焼 き 物 の 立 派 な 灰 皿 が置 か れて い る の には驚 いた。 この村 では最 終 日 の前 日 の夕 、近 所 の小 学 絞 の教 室 でお別 れパーティーを開 い て下 さり、沢 山 のご馳 走 と日 本 酒 が振 舞 われた。 次 の動 員 は昭 和 19 年 11 月 の中 の 2 週 間 、群 馬 県 新 田 郡 宝 泉 村 (現 太 田 市 ) の農 村 で、畠 の雑 草 除 去 などの農 作 業 をする。いくつかの農 家 に分 宿 したが、私 共 は 10 人 くらいで村 のお寺 に宿 泊 した。私 共 の部 屋 は本 堂 の隣 の部 屋 であった ので朝 早 くからお勤 めの音 が記 憶 に残 っている。 2)消 防 署 へ 昭 和 19 年 も終 りに近 づくと、東 京 への米 空 軍 の空 襲 も次 第 に回 数 、機 数 とも多 く なり、火 災 件 数 も増 加 し、消 防 署 員 は軍 隊 に召 集 されて人 手 不 足 となり、我 々(入 44 営 延 期 されていた理 科 の学 生 のみ)が近 くの大 塚 消 防 署 に動 員 された。ここでしば らく消 火 訓 練 などを受 け、次 に我 々は豊 島 消 防 署 (旧 巣 鴨 拘 置 所 の隣 、現 池 袋 サ ンシャインビルの付 近 )に配 属 された。ここで消 防 署 の仕 事 の受 付 、通 信 、望 楼 (い わゆる火 の見 )、出 動 を交 代 で担 当 させられ、1 日 8 時 間 3 交 代 制 であったと思 う。 元 来 高 所 恐 怖 症 であった私 が初 めて当 った仕 事 が望 楼 であり、しかもその時 間 が午 前 2 時 から 3 時 の冬 の真 夜 中 であった。1 回 目 だけは署 員 が先 導 してくれ、そ の後 に従 って恐 る恐 る相 当 高 い楼 を登 ることができ、ここから四 方 のいくつかの建 物 などを 教 えら れた。 当 時 は 空 襲 被 害 を 防 ぐ ために灯 火 管 制 が行 わ れていて 、 町 全 体 は非 常 に暗 く何 処 に何 があるのかほとんどわからない状 況 であった。 ここで初 めて実 感 したことがある。ある日 受 付 を担 当 していたら火 事 の電 話 が入 つ た。電 話 に出 てみると、相 手 は相 当 慌 てているらしく、ただ「火 事 だから来 て下 さい」 と言 うばかりで、こちらから場 所 を聞 こうとしたら電 話 が切 れてしまっていた。止 むを えず望 楼 で探 してもらってやっと発 見 して出 動 したことがある。やはり自 分 の家 が火 災 に会 うと多 くの人 はこのように慌 てるものだということが実 感 できた。 なお、次 項 に述 べる 東 京 大 空 襲 のときは、 ちょうど我 々 が消 防 署 に 動 員 されて い る期 間 であった。 昭 和 20 年 3 月 10 日 勤 務 日 (望 楼 、現 場 出 動 ) 昭 和 20 年 5 月 25 日 非 番 (罹 災 ) 6.3 東 京 大 空 襲 と学 園 焼 失 1)3 月 10 日 この日 は日 本 では祝 日 ではないが陸 軍 記 念 日 であり、陸 軍 にとっては祝 うべき日 であったので、米 軍 はこの日 を期 して日 本 の中 心 である帝 都 (東 京 )に大 空 襲 を敢 行 したと思 われる。 当 日 空 が晴 れて米 軍 B29 298 機 が一 晩 中 上 空 より焼 夷 弾 を広 範 囲 に落 下 させ、 東 京 の 2/3 くらいが火 の海 となり、焼 死 者 10 万 人 となった。私 はちょうど望 楼 でこ の火 災 を見 ていたが、署 の北 西 方 向 にあった富 士 フィルムの倉 庫 が燃 え、倉 庫 と 同 じ幅 の火 炎 が大 音 響 とともに立 ち上 ったのを見 た。それから交 代 して消 防 自 動 車 に乗 って火 災 現 場 に出 動 した。既 に至 る所 より火 災 が発 生 していた。 消 火 物 件 としては−般 住 宅 以 外 に大 きなものとしては、東 京 都 の食 糧 倉 庫 (非 常 食 糧 備 蓄 )、燃 料 倉 庫 (非 常 燃 料 備 蓄 )や小 学 校 などに出 動 したが、何 れも消 防 車 の 水 で 消 火 で き る程 度 の も の で な く 、 付 近 へ の 延 焼 防 止 が 第 一 で あっ た 。燃 料 倉 庫 などは石 炭 の数 メートルの山 全 体 が火 の山 となり、水 をかけると水 は石 炭 に 45 達 する前 に気 化 してしまい、この火 の山 は 3 日 3 晩 燃 え続 け自 然 鎮 火 を待 った。 食 糧 倉 庫 では沢 山 の米 俵 や缶 詰 が焼 失 し、少 し焼 け残 った米 で作 った握 り飯 が 活 動 の途 中 で配 給 され、手 を洗 う水 もなく泥 まみれの手 でこの焦 げ臭 いお握 りをい ただいた。 我 々の消 防 署 を含 む近 辺 の地 域 即 ち豊 島 区 、淀 橋 区 、小 石 川 区 などはほとんど 全 焼 し、焼 け残 った住 宅 などはほとんど見 当 らなかった。道 路 には何 台 かの消 防 自 動 車 が焼 け焦 げて放 置 されていた。朝 になって火 災 は一 応 おさまったが、我 々学 生 にも署 員 にも焼 死 者 や負 傷 者 がなかったことが唯 一 の幸 であった。また、我 々の 学 園 も被 害 を受 けなかった。 なお、消 防 の言 い伝 えとして、水 が流 れているホースから離 れなければ、その人 は 焼 死 することはないと言 われているので皆 これをよく守 った。このためか当 日 自 分 が 焼 死 するなどということは少 しも考 えなかった。 2)5 月 25 日 * この日 も夕 方 から米 軍 B29 が 470 機 飛 来 し、東 京 空 襲 としては最 大 規 模 のもの であり、3 月 10 日 および 4 月 13 日 * * に焼 失 を免 かれた部 分 が火 災 となり、東 京 は 完 全 に焼 け野 ケ原 となってしまった。 *5 月 27 日 は日 本 の海 軍 記 念 日 であるので、それ に近 い日 を選 んだのではないかと思 われ る。 **4 月 13 日 の東 京 大 空 襲 では B29 が 330 機 、焼 失 家 屋 約 17 万 、焼 死 者 約 2000 人 。3 月 10 日 より死 者 が少 い のは、3 月 10 日 の経 験 から逃 げ方 が上 手 になった結 果 と考 えられてい る。 当 日 私 は消 防 署 が非 番 (勤 務 を要 しない日 )であったので寮 にいると、夕 方 空 襲 警 報 が出 て、夕 方 多 数 の焼 夷 弾 が投 下 された。寮 には私 の居 た隣 室 が最 初 に被 弾 出 火 した模 様 で、それから各 所 から出 火 し、食 堂 付 近 をバケツの水 で消 火 して いたがとてもそれでは間 に合 わず、身 の危 険 を感 じ友 人 の山 崎 (祐 司 )君 と二 人 で 氷 川 下 へ出 て小 石 川 の東 大 付 属 の植 物 園 方 面 に逃 げた。 その途 中 、自 分 が歩 いている道 路 の向 こう の方 向 から 、火 災 によ り 発 生 した竜 巻 が迫 っ て来 たので、 道 の傍 の家 に 飛 び 込 んだ 。竜 巻 が通 過 する とき その 家 の屋 根 が持 ち上 げられ、天 井 も上 りその隙 間 から空 が見 えた。天 井 が上 下 動 を繰 り返 した ので屋 根 ごと飛 ばされるかと思 った。 それから二 人 で走 って植 物 園 にいったが、入 口 がわからず石 塀 をやっと登 って中 に入 った。昔 から「生 木 は火 で燃 えない」と言 われていたので、それを信 じて生 木 の 多 い植 物 園 に逃 げ込 んだが、普 通 の火 災 と異 り空 襲 火 災 では火 勢 が強 く、生 木 の 樹 木 も炎 を上 げて燃 え続 けた。しばらくして危 険 を感 じてその場 を逃 げ出 そうとして 46 ま わ りを 見 渡 す と 、ど こも 火 で 逃 げ道 が な くな り、 焼 死 を 覚 悟 し た 。本 当 に 死 ぬ と思 ったことは生 れて初 めてだが、何 の感 慨 も浮 かばず、ただ茫 然 としてしまって何 もわ からなくなった。 空 が明 るくなるに近 づき、空 襲 も終 り火 の勢 もおさまり脱 出 できる状 況 になり、やっ と我 にかえり 、5 時 半 頃 学 校 の校 庭 に帰 ることができた。ただし、私 共 二 人 は帰 校 するのがクラ スで一 番 お そく、 友 人 達 は焼 死 し たのではないかと思 っ て大 変 心 配 し てくれていた。他 の友 人 達 は今 までの空 襲 で焼 けた跡 地 に逃 げたため、既 に燃 え るものが何 もないので大 変 安 全 であったということであった。 こ の 後 全 員 は 「 罹 災 証 明 書 」 (区 役 所 発 行 ) を 受 け取 っ て 、 そ れ ぞ れ 自 分 の 帰 る べき所 (多 くは実 家 )へ帰 宅 した。私 は当 時 目 黒 区 の東 急 東 横 線 の都 立 大 学 駅 に 近 い所 に 自 宅 が あったが、空 襲 で 交 通 機 関 が すべて不 通 となっていたので、仕 方 なく大 塚 から鉄 道 のレールに沿 いまたはレールの枕 木 上 を歩 いて自 宅 につくと午 後 1 時 頃 になった。 この空 襲 火 災 で寮 の他 に学 校 の大 部 分 の木 造 建 築 は焼 失 し、授 業 は不 可 能 と なりしばらく自 宅 待 機 となった。 なお、この火 災 では何 物 も持 ち出 せず、大 切 な書 物 、記 録 ( ノート、写 真 類 ) そ の 他 衣 類 を含 め身 の廻 りすべての物 品 を焼 失 したので、この自 分 史 も大 部 分 は自 分 の記 憶 を頼 りに作 成 した。しかし、何 を失 っても、命 が助 かり負 傷 もしなかったことが 何 よりの幸 であった。この後 6 月 10 日 から 7 月 1 日 の間 、都 下 保 谷 の農 家 に分 宿 して農 作 業 あり。 6.4 再 度 勤 労 動 員 で日 光 へ 自 宅 で数 日 待 機 していると 7 月 1 日 に動 員 命 令 が出 て、7 月 2 日 に上 野 駅 から 出 発 し、栃 木 県 日 光 の大 きな軍 需 工 場 である古 河 電 工 株 式 会 社 日 光 製 銅 所 で 働 くことになった。 この工 場 は銅 の精 錬 とジュラルミン * の製 造 を行 う施 設 であった。ここでいろいろな 仕 事 (溶 鉱 炉 関 係 、資 材 関 係 など) を分 担 することになり、私 は資 材 運 搬 用 クレー ンの保 守 点 検 の仕 事 を命 ぜられた。 *アルミニウムに少 量 の銅 、 マグネシウム、 マンガ ンなど を混 ぜた合 金 で航 空 機 体 の材 料 。 工 場 は鉄 骨 で組 み立 てられた高 さ十 数 メートルの建 物 で、その一 番 上 部 に水 平 に移 動 する 枠 が あ り、ク レーンが こ れに 取 り 付 けら れてい る。鉛 直 の 鉄 骨 を 登 り 、次 に水 平 枠 を伝 わってクレーンのボルトなどをスパナーなどで点 検 することが仕 事 で、 これを午 前 ・午 後 各 1 回 行 った。 47 高 所 恐 怖 症 の私 ではあったが、この動 員 の前 に消 防 署 の望 楼 で高 い所 へ登 る 要 領 を体 得 していたので、今 度 の 場 合 は余 り 恐 怖 感 はなかった。しか し、この仕 事 中 に感 電 して落 下 し重 傷 を負 った工 員 もいたので、気 をゆるめることはできなかっ た。 次 にこの日 光 での生 活 について思 い出 すことを記 しておく。 住 居 は荒 沢 という所 にある会 社 の社 宅 (2 軒 長 屋 )で、玄 関 に和 室 6 畳 、4.5 畳 、 3 畳 の間 取 り。ここに 8 人 位 が入 った。ここから清 滝 という所 にある工 場 までは徒 歩 で約 1 時 間 かかり、晴 れでも雨 でも杉 の木 で作 った粗 末 な下 駄 をはいて通 勤 した。 社 宅 を午 前 8 時 に隊 伍 を組 んで出 発 し、帰 宅 は午 後 6 時 が普 通 であり、稀 には残 業 もあった。会 社 への往 復 は元 気 を出 す意 味 で軍 歌 を合 唱 した他 、当 時 流 行 して いた歌 (お山 の杉 の子 、勘 太 郎 月 夜 歌 など)も歌 って歩 いた。 食 事 はどこでも食 糧 難 で、ここでも主 食 は大 豆 が 50%くらい入 った御 飯 で、粗 末 な副 食 がついた。休 日 (日 曜 、祭 日 )は特 にすることもなく遊 ぶ所 も食 べるものもな い。社 宅 で休 息 する以 外 は、しばしば弁 当 (握 り飯 )を作 ってもらい友 人 M 君 と中 禅 寺 湖 へ行 き、ボートに乗 って遊 ぶことが唯 一 の楽 しみであった。 こ こで 一 度 恐 ろ しい こと が あった 。こ の 湖 の 中 心 に 近 い 一 部 分 に 渦 を巻 い た水 の 流 れがあり、この中 に入 いるといくら漕 いでもボートは回 転 して渦 の外 に仲 々出 られ ない。中 に悪 魔 がいて人 を吸 い込 むという噂 があった。こうして回 転 していたら警 戒 警 報 が発 令 され、青 くなって二 人 で力 を合 わせて漕 いで、やっと渦 から抜 け出 すこ とができ帰 宅 できた。 中 禅 寺 湖 畔 の床 屋 (残 念 ながらこの店 は現 在 ない)には 2 回 行 ったが、散 髪 中 鏡 には中 禅 寺 湖 の風 景 が目 前 の大 きな鏡 に写 りすばらしい眺 めであり、日 本 一 の床 屋 であると思 う。 また、私 はここで健 康 を害 した。 その第 一 は、勤 務 が始 まって間 もなくの頃 、社 宅 敷 地 内 の洗 面 所 の水 道 水 を呑 ん だ ら 下 痢 を 起 し 、 他 の 友 人 達 も同 じ よ う になっ た。 こ れ が治 る の にしば ら く 日 時 が かかった。流 しには普 通 の蛇 口 が並 んで取 り付 けられていたので、東 京 での感 覚 で 水 道 の水 のつもりで呑 んだが、後 で調 べてみると、この水 は中 禅 寺 湖 の水 で浄 化 し てないので、生 で呑 むのは危 険 であるということがわかった。これ以 後 は社 員 の社 宅 の人 に頼 んで、湯 を沸 してもらって湯 ざましを呑 むようにした。 第 二 は、7 月 半 ば頃 になって毎 日 発 熱 (37.3℃程 度 )し、いくら薬 を呑 んでも治 ら ず、会 社 を毎 日 欠 勤 して 3 畳 間 に寝 ていた。会 社 の診 療 所 で診 察 してもらうと、結 核 の可 能 性 があるので東 京 に帰 って治 療 するように指 示 され、8 月 6 日 に 1 人 で東 48 京 の自 宅 に帰 った。帰 京 する時 は東 武 日 光 駅 まで市 電 で出 て、日 光 から東 武 電 車 で東 武 浅 草 に来 て地 下 鉄 で渋 谷 に、 それ から 東 横 線 で 都 立 大 学 駅 に 帰 った。 その途 中 、警 戒 警 報 が 2 回 発 令 されたが、空 襲 には会 わずにすんだ。なお、この日 に広 島 に原 子 爆 弾 が投 下 された。 帰 宅 するとそれまでの疲 労 も加 わり体 温 は 38℃をこえたので、すぐ近 くの阿 部 先 生 という医 者 (元 海 軍 軍 医 総 監 、海 軍 中 将 )に診 察 治 療 を受 け、1 週 間 位 で平 熱 に復 し健 康 も回 後 した。その後 間 もなく 8 月 15 日 の終 戦 を自 宅 で迎 えた。日 光 の 友 人 達 も 8 月 16 日 に帰 京 することになった。 6.5 終 戦 の日 の思 い出 8 月 6 日 広 島 に新 型 爆 弾 (大 本 営 公 式 発 表 )が投 下 されたとき、私 の父 親 はこれ が直 ちに原 子 爆 弾 であると明 言 していた。この時 以 来 日 本 は敗 戦 することが明 らか と思 った。 昭 和 20 年 8 月 15 日 朝 の JOAK(NHK ラジオ第 1 放 送 )により、本 日 正 午 より重 大 放 送 があるので、すべての国 民 が聴 取 するようにというアナウンスがあった。これ で私 は日 本 がポツダム宣 言 (8 月 15 日 より前 に新 聞 紙 上 で知 られていた)を受 諾 し て戦 争 を終 結 するであろうと思 った。 正 午 になると、時 報 の次 に重 大 放 送 として「天 皇 陛 下 の玉 音 放 送 」(当 時 天 皇 の 声 を玉 音 と言 った)ありとのことであった。天 皇 の真 の声 はラジオを通 じて流 されたこ とは歴 史 的 に一 度 もなく初 めてのことであった。 多 数 の家 庭 ではラジオの雑 音 が多 くよく聞 き取 れなかったと言 う話 をよくきくが、私 の並 4 ラジオ * では雑 音 も少 なくよく聞 き取 れ、終 戦 ということがはっきり示 された。 *世 間 一 般 に最 も広 く普 及 していたラ ジオで「並 」と言 った。真 空 管 4 本 で 「並 4」と俗 称 し た。 真 空 管 は、検 波 管 1 本 、増 幅 管 2 本 、整 流 管 1 本 の合 計 4 本 。 これを聞 いて、本 当 の気 持 としては万 歳 を叫 びたくなる気 持 であった。これで世 の 中 は灯 火 管 制 もなくなり、物 理 的 にも精 神 的 にも明 るくなり、平 和 になることが無 上 に嬉 しかった。 もし日 本 が勝 利 したことを考 えると、空 恐 ろしいことに気 づかなかった日 本 人 が多 数 あったことは甚 だ不 思 議 であった。これも軍 国 主 義 という思 想 の、マインドコントロ ールによるものと考 えられる。 当 時 の日 本 国 民 の大 部 分 は、皇 国 史 観 と軍 国 主 義 により、国 民 は天 皇 の赤 子 (子 供 )であり、天 皇 のために死 ぬことが美 徳 とされた。軍 隊 は国 民 の命 を虫 や獣 と 同 列 に扱 い、馬 を用 意 するのは大 変 でも、人 間 は赤 紙 (召 集 令 状 という葉 書 1 枚 ) 49 でいくらでも集 められるとさえ言 われる程 、生 命 を軽 んじる状 況 であった。 軍 の命 令 に逆 らえば国 賊 として非 国 民 扱 いにされ、生 命 の危 機 に晒 されることも しばしば生 じていた。したがって、もし日 本 が勝 利 すればこの時 代 以 上 に軍 隊 は強 力 となり、国 民 はいつ命 を奪 われるかわからず、たがいに他 人 を監 視 したり気 に入 ら ぬ人 々を陥 し入 れることも、日 常 のこととなったであろうと想 像 される。軍 人 のみが神 の如 くにすべての権 力 をもち、国 民 の命 まで自 由 に支 配 されることになつたであろ う。 このような見 地 から、敗 戦 によって軍 隊 も消 滅 し、兵 隊 にとられず戦 地 に行 かずに すみ、殺 されることもなくなったことが最 も嬉 しかったということが率 直 な感 想 であっ た。 この日 まで神 国 日 本 と言 われ、神 の力 が日 本 を勝 利 に導 くと信 じられていたが、 これは全 くの虚 構 であることが証 明 されたので、私 は我 が家 の神 棚 を庭 で燃 焼 させ てしまった。我 が家 の庭 にはその当 時 食 糧 不 足 を補 うために代 用 食 として南 瓜 を 栽 培 し、大 きな実 がいくつも実 っていた。 とに角 こんな嬉 しい日 は今 までの人 生 で初 めてであった。いかに食 糧 が乏 しくても、 軍 隊 という集 団 がなくなったことは日 本 のみならず人 類 全 体 にとっても甚 だ喜 ばし いことであった。この日 以 後 世 の中 は軍 国 主 義 から民 主 主 義 に 180°転 換 し、いよ いよ私 の活 躍 する場 が作 られたと考 え、私 も社 会 で活 発 に活 動 を開 始 することにな った。 7. 学 生 時 代 の恩 師 の思 い出 7.1 一 般 教 科 左 右 田 (そうだ)実 先 生 (英 語 ) 当 時 の授 業 では多 くの場 合 授 業 の始 めに出 席 点 呼 をすることになっていた。この 場 合 、各 先 生 の多 くは姓 のみを呼 ぶのが普 通 であったが、左 右 田 先 生 は丁 寧 で 1 人 1 人 姓 の後 に「さん」をつけて呼 ばれた。先 生 のご出 身 地 はわからないが、○○さ んを○○しゃんと発 音 される特 徴 があった。先 生 は背 が少 し低 く小 ぶとりで、年 輩 の やさしい方 で授 業 もわかり易 かった。 なお、この時 間 には時 々代 返 ( 氏 名 点 呼 の際 、欠 席 者 の場 合 他 の者 が代 りに返 事 )す る 者 が あった が 、 気 づ か れる ことは な かっ た 。( も し か する と、 先 生 は 気 づ か れ ていてもとがめられなかったのかも知 れない)学 生 の信 頼 は大 きかったと思 う。 50 青 木 常 雄 先 生 (英 語 ) 先 生 はしばしば授 業 の始 めにその日 の身 辺 雑 事 を一 言 、独 り言 のように話 される のが印 象 的 であった。ある日 、ポケットから櫛 を取 り出 し、「電 車 が混 んで櫛 の歯 が 折 れた」と言 われ、更 にまた手 で歯 を折 って独 り言 を言 われ、その姿 態 が面 白 おか しく、私 には特 に印 象 に残 った。 7.2 教 職 関 係 教 科 山 田 栄 先 生 (教 育 学 ) 講 義 の項 目 は学 校 教 育 史 であり、講 義 形 式 はいわゆるノートの読 み上 げで、 我 々はこれをただ筆 記 するのみで 100 分 を過 すというものであり、極 めて退 屈 なもの であった。しかも、途 中 で少 しむずかしい漢 字 が出 てくるとその字 のみを板 書 される の で 他 に は 一 切 板 書 す る こ と は な か っ た 。 こ れ では 先 生 の ノ ー ト を プ リ ン ト し て 配 布 されれば講 義 が不 要 となってしまう。 こ れで も先 生 と 学 生 の 間 に 質 擬 応 答 でも あれ ば有 意 義 で ある が 、 我 々理 系 の学 生 にとってはそれも全 く無 いので全 く不 評 であった。現 代 ではこのような講 義 であれ ば学 生 が授 業 をボイコットするであろう。 藤 川 富 士 子 先 生 (哲 学 ) 先 生 は我 々が受 講 した中 での紅 一 点 ということ で注 目 を集 めた。小 柄 で若 く見 え(当 時 30 才 前 後 )ピンク色 のスーツ姿 が印 象 的 であった。 講 義 内 容 は カ ント の 純 粋 理 性 批 判 で あ っ た 。 こ の 授 業 で印 象 に残 っていることを 1 つ挙 げてみる。 ある時 間 に少 しいじわるな学 生 S 君 が質 問 して、 現 代 物 理 学 との相 違 ( 特 にカントの絶 対 時 間 と絶 対 空 間 の考 えと相 対 論 との違 い)を尋 ねて先 生 を 困 らせたが、先 生 は少 々むきになって、今 はカント の時 代 の説 明 をしているので現 代 とは自 ら異 るの は当 然 でしょうと返 答 されたが少 しお気 の毒 であった。 やはり物 理 科 で哲 学 の講 義 をされることは随 分 やり にくいであろうと推 察 した。 51 藤 川 講 師 (哲 学 ) 7.3 専 門 科 目 小 林 善 一 先 生 (数 学 ) 講 義 と し て は 関 数 論 と 解 析 幾 何 学 で あっ た 。 そ の 中 、 解 析 幾 何 学 に つ い て は 容 易 ならざるものがあって今 でも記 憶 に残 っていることがある。この講 義 は解 析 幾 何 学 (渡 辺 孫 一 郎 著 )を教 科 書 として週 1 回 100 分 で半 年 問 (実 際 は 15 回 程 度 )行 わ れた。そしてその学 期 のテストは教 科 書 一 冊 全 部 が範 囲 となり容 易 ではなかつた。 テストの問 題 は全 く記 憶 にないが、皆 出 来 が良 くなかったと記 憶 する。 渥 美 正 先 生 (力 学 ) 先 生 は物 理 の主 任 教 授 であり、この先 生 については講 義 、テストその他 について も種 々噂 の多 い先 生 なので、一 度 教 えを受 けた人 々には一 生 忘 れ難 い思 い出 の 多 い恩 師 であろう。 先 ず私 個 人 に 関 する こと から 述 べ ると、 東 京 高 師 の入 学 試 験 の折 、 物 理 の試 験 時 間 の監 督 者 で、時 間 中 私 の席 の斜 め後 方 に接 近 して椅 子 を置 き座 っておられ たことは前 に記 した。このときの印 象 がいつまでも頭 を離 れない。その時 拝 見 して以 来 亡 く な るま で 頭 髪 は短 く 丸 刈 りで あ り 、 極 めて 端 正 で 神 経 質 と い う印 象 が 強 か っ た。 卒 業 してからわかったことであるが、先 生 のお宅 は私 の家 の極 く近 くの静 かな住 宅 地 で 、 古 いが比 較 的 大 きな 立 派 な和 風 建 築 の家 で あっ た。また 、先 生 の お孫 さ んと私 の娘 が同 じ小 学 校 であったこともあり、個 人 的 には比 較 的 親 しくしていただい ていた。しかし、私 は先 生 のお宅 にお邪 魔 したことは一 度 もなかった。噂 によれば、 高 師 の先 生 で渥 美 先 生 のお宅 に上 ってお話 した方 は一 人 もなかったとのことであ った。多 分 先 生 の気 難 しい性 質 によりどうも対 人 関 係 が不 得 手 のようにお見 受 けし た。 授 業 については、入 学 直 後 より 1 年 間 古 典 力 学 、3 年 時 に 1 年 間 古 典 電 磁 気 学 の講 義 があったと記 憶 する。 まず第 1 に目 につく特 徴 は、先 生 は相 当 神 経 質 なのか、または呼 吸 器 が特 に弱 かったためか講 義 中 でもしばしば白 いガーゼのマスクをされていた。これはチョーク の粉 末 の吸 入 を防 ぐためとの理 由 であった。したがって、板 書 も極 めて少 く、100 分 の 講 義 の 中 で 方 程 式 など を 数 行 板 書 さ れ る のみ で あり 、 他 は 言 葉 お よび 手 ま ね で 説 明 されるので、ノートをとることが難 しく、従 って理 解 しにくく、これが皆 のテストが 成 績 不 振 の最 大 原 因 であった。 特 に教 科 書 はなかったが、参 考 書 としては先 生 の著 書 「力 学 」という書 物 があった。 52 内 容 を調 べてみたら、これよりもむしろ概 ね田 丸 卓 郎 (昔 の東 大 教 授 )の、ローマ字 教 科 書 にのっとった講 義 であることがわかったので、私 他 何 人 かの人 々はこれを神 田 古 書 店 街 で見 つけてきて勉 強 した。これは多 分 先 生 が東 大 時 代 に、田 丸 先 生 から力 学 の教 えを受 けた影 響 ではないかと思 われる。 (注 )噂 によれば、先 生 は東 大 物 理 学 科 を首 席 で卒 業 され、直 ちに東 京 高 等 師 範 の助 教 授 と なられた。また、日 本 にアインシュタインが来 られ相 対 論 の講 義 をされたとき、それを理 解 できた 人 は数 人 しか なく、その中 の 1 人 が先 生 であった( 他 の 1 人 は石 原 純 氏 )という話 をきいたことが ある。 授 業 ではある 1 テーマまたは 1 章 の講 義 が終 ると次 の時 間 は問 題 演 習 となつた。 この場 合 100 分 間 で問 題 は 2 問 しかなく、何 れも極 めて短 い問 題 であり、例 えば 1 つの 方 程 式 の証 明 など であった が 、 毎 回 平 易 な ものでな か った。我 々 は一 所 懸 命 考 えて用 紙 に書 いてみるが、先 生 は入 試 の時 とは異 りよくよく机 間 巡 視 をされ、 我 々の書 いたものを見 て誤 っていると、これが「誤 っている」と指 摘 されるなら別 に驚 かないが、「鉛 筆 が無 駄 、無 駄 」と言 われるのには閉 口 した。 「無 駄 」という言 葉 を必 ず繰 り返 し 2 回 言 われるので、また誤 ったことを書 くと「無 駄 無 駄 」と言 われると思 って余 程 の自 信 がなければ何 も書 けなくなってしまい、100 分 間 考 えているだけで何 も書 かずに白 紙 で提 出 してしまうことも多 かった。この 100 分 間 何 も書 かずにじっと考 え込 んでいる時 間 程 長 く感 じたことはなかった。したがって、 学 力 もつかず、成 績 も悪 く、単 位 欠 格 者 が半 数 近 く生 じる結 果 となつた。しかし、こ れらの人 々も追 試 によって最 終 的 には単 位 を取 得 できたと思 う。 な お 、 こ の 100 分 の 練 習 問 題 に つ い て は 、 後 に 正 解 を 知 る た め に 質 問 に い く と 「各 自 で研 究 しなさい」と言 われて、最 後 まで解 答 または解 説 されずに終 ってしまっ た。電 磁 気 の講 義 では 講 義 の 形 式 やテストの 形 式 は同 じ であったが、 100 分 の問 題 演 習 は行 われなかった。多 くの先 輩 に尋 ねると、昔 からこのような授 業 であったよ うで、良 い印 象 をもつた人 々は余 りなかったようであった。 年 賀 状 については戦 後 毎 年 いただいていたが、先 生 の几 帳 面 なご性 格 により、 必 ず自 筆 で極 めて達 筆 のものをいただいていた。卒 業 後 も我 々23 理 二 会 などにご 出 席 いただいたことがある。 先 生 は我 々が卒 業 後 ( 教 育 大 学 発 足 頃 ) 定 年 退 官 され 、昭 和 女 子 大 学 に勤 務 された。あの難 しい先 生 では女 子 大 生 にはとても不 向 きであろうと思 ったが、意 外 に も 先 生 は 若 い 女 性 相 手 で 結 構 楽 し ん で お ら れ た 。 や は り男 性 に は 厳 し く 女 性 に は 優 しいのであろうか。その先 生 も昭 和 53 年 7 月 22 日 に逝 去 され、夏 の暑 い晴 れた 日 に栗 山 君 と 2 人 で告 別 式 に参 列 した。 53 (参 考 )先 生 の戒 名 碩 学 院 正 智 道 融 居 士 池 本 義 夫 先 生 (分 光 学 ) 先 生 は和 歌 山 県 ご出 身 で、学 問 分 野 では理 化 学 研 究 所 の浅 田 先 生 の下 で有 機 物 質 の吸 収 スペクトルの研 究 を行 っておられたが、スポー ツにも強 く、水 泳 では古 式 水 泳 の名 手 であった。 我 々の印 象 では極 めて上 品 で温 厚 な立 派 な先 生 という印 象 であった。 我 々のクラスの担 任 は物 理 が渥 美 先 生 、化 学 が 武 谷 先 生 で あった 。 池 本 先 生 には 戦 後 物 理 科 の人 々のみ無 線 工 学 の講 義 を受 講 したの 池 本 教 授 (物 理 ) みで、それ以 外 余 り関 係 がない。ただし、戦 時 中 日 光 での勤 労 動 員 に指 導 教 官 と して同 行 されたことがあり、その折 には種 々生 活 面 でご指 導 いただいたことがあっ た。 私 は戦 後 特 に研 究 科 時 代 には特 別 に学 内 では異 例 のことではあるが、先 生 の教 官 室 (研 究 室 ではない)において先 生 の席 の隣 りに席 を設 定 していただき、学 内 の ことすべてにわたってお世 話 いただいた特 殊 な関 係 もあり、他 の学 生 諸 君 とは異 つ た 思 い 出 もあっ た 。 こ の一 部 分 に つい て は 4.4 の 研 究 科 時 代 に も 記 し た 通 りで あ る。 以 下 ここでは忘 れ残 りで思 い出 したことなどを記 しておくことにする。 毎 年 正 月 と 夏 に は 、西 武 線 桜 台 の 先 生 の お 宅 に 一 人 ま た は 先 輩 ( 高 木 四 郎 氏 、 藤 田 喜 一 氏 )と共 にお邪 魔 し、近 況 報 告 をした上 で種 々先 生 の貴 重 なお話 を伺 い、 御 酒 を大 分 沢 山 いただき楽 しい時 を過 した。当 時 先 生 の奥 様 がご病 気 であったの で大 変 ご 迷 惑 を かけ て いたの に 、 先 生 は少 し もご迷 惑 の 様 子 をさ れ ず我 々を 十 分 楽 しませて下 さり申 し訳 なく思 っている。ある時 はお酒 を飲 み過 ぎ具 合 が悪 くなって、 座 敷 に 布 団 を 敷 い て しば ら く 休 ま せ て い た だい た こ と も あり 、 先 生 に と っ て は ひど い 学 生 であったと思 う。 また、教 官 室 にご一 緒 させていただいた時 期 はまだ戦 後 の食 糧 難 が解 決 せず、 生 活 のすべての面 で耐 乏 生 活 を強 いられていた。 私 は朝 早 く(8 時 )に登 校 し、冬 などはしばらく用 務 員 室 のたき火 に当 って暖 をとっ た。そ れか ら 教 官 室 に入 り、 室 内 の 清 掃 などを して、 角 型 火 鉢 の 中 に 入 れたニク ロ ム線 の渦 巻 き形 電 熱 器 で、暖 をとると同 時 に湯 をわかしてお茶 を入 れ、先 生 が出 54 勤 されたときすぐお茶 が飲 める状 態 にしておき、それから自 分 の勉 強 その他 先 生 お よび教 室 の雑 用 などをして過 した。この雑 用 の中 には先 生 の留 守 中 の訪 問 客 接 待 なども含 まれていた。 私 が 卒 業 後 数 年 し て先 生 は 定 年 退 官 さ れ 、 そ の 後 渋 谷 に ある 実 践 女 子 大 学 に 勤 められ, 更 に実 践 女 子 学 園 の常 務 理 事 、女 子 高 校 の校 長 もかねら れ、亡 くなら れる前 (80 才 )まで勤 められていた。 私 の長 女 は公 立 中 学 校 卒 業 後 実 践 女 子 学 園 高 校 に入 学 し、先 生 のお世 話 に なり、更 に同 校 卒 業 後 同 大 学 英 文 科 を卒 業 した。なお、この時 代 にはこの学 園 の 高 校 には 葛 西 伴 周 君 ( 化 学 ) 、 大 学 には 小 林 邦 雄 君 ( 化 学 ) と 、 高 師 時 代 の 同 期 生 二 人 が在 職 していた。 この時 代 にも夏 と正 月 には先 生 のお宅 に伺 うことは従 前 通 り続 けていたが、今 度 は先 生 が私 を教 え子 としてではなく、自 分 の学 校 (実 践 女 子 学 園 )のご父 兄 と言 っ てあらたまって迎 えられ大 変 恐 縮 してしまった。 これ以 後 も亡 くなるまで親 しくご指 導 とお世 話 をいただいた。高 師 の中 で公 的 にも 私 的 にも最 もお世 話 になった恩 師 であった。先 生 は平 成 2 年 2 月 12 日 午 前 10 時 89 年 の生 涯 を閉 じられた。告 別 式 には糠 谷 君 、栗 山 君 と共 に参 列 した。 (参 考 )先 生 の戒 名 義 光 院 理 学 徳 寿 居 士 永 田 恒 夫 先 生 (理 論 物 理 学 ) 先 生 は我 々が教 えを受 けた物 理 、化 学 の先 生 の中 では若 い方 で、我 々との心 理 的 距 離 は近 いようであった。 先 生 はざっくばらんな性 格 で、何 事 もずばり歯 に衣 を着 せぬ言 い方 で、我 々は強 い圧 力 を感 じていた。「こんな面 倒 なことを言 っても君 たちにはどうせできねえから 云 々」という言 葉 をよく口 にされた。 我 々は光 学 (幾 何 光 学 、物 理 光 学 )、電 子 論 (ローレンツの電 子 論 )、量 子 力 学 の 講 義 を受 けた。先 生 はお茶 も煙 草 も口 にされないので、講 義 が 100 分 2 コマ連 続 (200 分 )の場 合 にも途 中 で休 憩 をとらずに講 義 を継 続 されるのでそのファイト、スタ ミナには我 々も驚 嘆 した。むしろ学 生 の方 が 200 分 の緊 張 が続 かないので、100 分 過 ぎるとトイレに行 くついでに室 外 で一 服 して休 憩 することが多 かった。 私 など予 備 校 教 師 は 100 分 の講 義 は普 通 であったが、100 分 が終 ると通 常 20 分 の休 憩 があり、この間 に質 問 でもなければ煙 草 を一 服 してゆっくりお茶 などを喫 することもできる。しかし質 問 でもあればこれらはやめる他 なく、休 みなく次 の 100 分 につながるが、これで丁 度 永 田 先 生 と同 じ状 態 になり先 生 と同 じ年 齢 になってはそ 55 の疲 労 は相 当 なものである。 先 生 の講 義 は 論 旨 鮮 明 で 明 解 で あった 。 そ の 原 因 は内 容 の大 部 分 を はっきりと 板 書 されるためである。したがって、100 分 間 の講 義 では黒 板 3 回 消 去 して4回 全 面 に方 程 式 や文 章 を書 かれる。したがって学 生 側 で もノートを書 くのが容 易 ではなく、B5 判 のノー トが 5−6 頁 となってしまう。 先 生 のテストについては〔3.2 テストと成 績 〕に 記 したのでここでは省 略 した。 先 生 は東 京 教 育 大 学 を定 年 退 官 され てか らはご自 宅 でご自 分 の研 究 (物 理 学 史 )をさ れていたが、ご病 気 のため昭 和 61 年 7 月 26 日 に逝 去 された。私 は先 生 の生 前 お宅 に伺 ったことは一 度 もなかったことが残 念 であっ た。 永 田 教 授 (物 理 ) 水 野 国 太 郎 先 生 (理 科 教 育 法 ) 先 生 は我 々が高 師 に入 学 する以 前 は付 属 中 学 校 (旧 制 )の物 理 の先 生 であり、 我 々 の 入 学 前 後 に 東 京 高 師 の 教 授 に な ら れ たよ う で あっ た。 我 々 は 4 年 時 ( あ る いは3年 時 )物 理 科 において、物 理 教 育 法 の 1 つである物 理 実 験 法 の講 義 を受 け たと思 う。かつて中 学 校 の先 生 であっただけに講 義 は極 めて懇 切 なものであった。 先 生 のご容 姿 については、写 真 がないので簡 単 な紹 介 をしておく。先 ず頭 髪 は 少 なく(中 学 生 は少 ない毛 髪 がお刺 身 のように並 んでいるので、「おさしみ」という綽 名 をつけていた)、お顔 は角 型 で、少 し肥 満 気 味 であり、姿 勢 よく服 の着 こなしも立 派 で、常 に悠 揚 せまらぬ様 子 で上 品 に振 舞 われ、見 るからに好 々爺 という感 じの先 生 であった。私 は何 の目 的 であったかは忘 れたが、大 塚 坂 下 町 (護 国 寺 の近 く、大 塚 仲 町 か ら 坂 を 下 っ た所 ) の 古 風 な 二 階 家 の お 宅 に お 邪 魔 し て 茶 菓 を ご ち そ う に なった。 先 生 は東 京 教 育 大 学 発 足 の折 に退 官 された後 昭 和 54 年 12 月 9 目 先 生 の郷 里 の名 古 屋 に於 て病 により逝 去 された。享 年 83 才 であった。 長 谷 川 士 郎 先 生 (物 理 教 室 助 手 ) 長 谷 川 さんは東 京 理 科 大 学 ご出 身 で戦 時 中 陸 軍 に召 集 され、終 戦 時 陸 軍 少 56 尉 として復 員 され、戦 後 高 師 の助 手 としてこられ、物 理 教 室 の種 々の仕 事 の他 、 我 々は主 として物 理 実 験 のお世 話 になった。平 常 は講 義 室 隣 の準 備 室 におられ たので、一 部 の学 生 は常 に準 備 室 にたむろして賑 やかであった。 我 々が 3 年 か 4 年 の頃 の、春 のある晴 れた陽 気 のよい日 に物 理 の学 生 が集 まり、 高 尾 山 から小 仏 峠 ヘハイキングをしたことがあった。当 時 まだ酒 類 は入 手 困 難 な時 代 であったが、長 谷 川 さんが日 本 酒 1 本 を持 参 され、小 仏 峠 頂 上 まで登 ったらそこ でちょうど昼 食 となるので、そこで一 杯 ご馳 走 して下 さるということになり、我 々はこれ を唯 一 の目 的 にして、高 尾 駅 から休 まず一 気 に峠 まで登 り切 って、360 度 に近 い展 望 を楽 しみながら一 杯 をいただいたことが思 い出 される。 帰 途 は峠 か ら高 尾 駅 ま で 僅 か 1 時 間 で駆 けおりてしまった。 長 谷 川 さんは東 京 教 育 大 学 発 足 と同 時 に助 教 授 として退 官 され、その後 物 理 と は無 関 係 な某 生 保 会 社 に入 られて定 年 をすぎ現 在 もお元 気 である。 以 下 化 学 の先 生 については、私 が物 理 専 攻 となったので、高 師 の 1、2 年 の間 に 受 講 した時 の記 憶 を中 心 として思 い出 を記 しておきたい。 武 谷 琢 美 先 生 (無 機 化 学 ) 入 学 後 初 めての講 義 の第 1 印 象 は、極 めて上 品 な先 生 で、さすがに中 学 校 の先 生 とはこれ程 異 るものかと感 心 したことである。説 明 の言 葉 の終 りが「ございます」調 であり、言 葉 遣 いが極 めて鄭 重 であったのに驚 いた。第 2 は、毎 回 の講 義 に必 ず沢 山 の資 料 を重 そうにかかえて登 壇 され、講 義 内 容 も常 に資 料 に裏 打 ちされた詳 し いものであった。 講 義 内 容 は大 部 分 忘 れたが、学 生 の質 問 には極 めて懇 切 に応 答 して下 さる。私 などもよく chemical abstract(ケミカルアブストラクト)などを化 学 図 書 室 で調 べて、 最 新 の レ ポー ト をも と に質 問 し て 先 生 を 困 ら せた こ とも あった 。 友 人 はこ れ を 悪 用 し て私 にわざわざ質 問 させると、先 生 との応 答 で講 義 の進 行 がストップして、その結 果 テスト範 囲 が縮 小 されるのを喜 ぶようなこともあった。 講 義 の 中 で 1 つ だけ 思 い 出 さ れ る の は 、 化 学 反 応 を 分 子 や イ オ ン 間 の 親 和 力 (Affinity)で説 明 されることが多 かったので、アフィニティーという言 葉 が記 憶 に残 っ ている。実 はこれがもとで、卒 業 後 化 学 専 攻 の人 の集 まりにアフィニティーという名 称 がある期 間 用 いられていた。現 在 は理 二 会 として統 一 されている。 戦 時 中 我 々は日 光 にある古 河 鉱 業 の製 銅 所 に勤 労 動 員 されていたが、ここの会 社 は 先 生 と 特 に 関 係 が 深 か っ た との こ と で 、 他 所 へ 行 く よ り は こ の 会 社 ( 工 場 ) の 57 方 が我 々を大 切 に扱 ってくれ、少 しでも待 遇 がよいとの判 断 があったものと推 察 さ れる。先 生 は我 々の指 導 教 官 として我 々を熱 心 にお世 話 下 さった。 我 々は、当 時 を偲 んで平 成 4 年 6 月 7 日 に日 光 において 26 名 の参 加 をえて理 二 会 を開 催 し、当 時 の工 場 な どを見 学 した。 なお、卒 業 後 のある日 、先 生 とその友 人 とお二 人 が、友 人 のご子 息 の進 学 について 夜 突 然 拙 宅 に来 られ、大 変 驚 いたことが今 でも忘 れられ ない。 先 生 は昭 和 53 年 1 月 5 日 病 のため逝 去 された。 渥 美 教 授 (物 理 )、武 谷 教 授 (化 学 )、渡 辺 教 授 (化 学 ) 享 年 81 才 である。 武 原 照 吉 先 生 (有 機 化 学 ) 教 授 の中 では最 年 長 と思 われ、みるからに学 者 (大 学 教 授 )にふさわしい人 柄 との第 1 印 象 であっ た 。 小 柄 で常 に 温 顔 で あ り 、 時 々 洒 落 や ユ ーモ ア を含 めたわかり易 く楽 しい雰 囲 気 の講 義 であった。 しかし私 にとっては有 機 化 学 は物 質 名 が多 く、分 子 式 、 構 造 式 も 複 雑 で私 の 記 憶 力 、 理 解 力 の外 にあるように感 じて、先 生 は好 きであったが化 学 は ついに興 味 をもつことはできなかった。 先 生 はドイツに留 学 されたこともあり、また日 本 化 学 会 の副 会 長 も務 められ、学 会 においても重 きをなさ 武 原 教 授 (化 学 ) れていたと承 っていた。 卒 業 後 、 私 が 都 立 小 山 台 高 校 に 勤 務 してい た折 、 化 学 の非 常 勤 講 師 探 しを依 頼 され、どこに相 談 したらよいか熱 慮 した未 、武 原 先 生 に相 談 するのが一 番 適 当 と 考 え、杉 並 の閑 静 な住 宅 街 にある先 生 のお宅 を訪 問 した。一 階 建 和 風 の広 い家 で前 庭 も手 入 れよく美 しかった。先 生 は在 宅 時 は和 服 のようで、着 物 に腰 から下 に 黒 のラシャ地 の前 掛 けをつけておられた。 58 庭 に 面 し た座 敷 でお 茶 をいた だ きなが らし ば らく 閑 談 し た後 、用 件 の講 師 の件 を お話 しすると、先 生 がご自 分 でお引 き受 け下 さると言 われ驚 くと同 時 に大 変 困 惑 し てしまった。これでは学 校 (小 山 台 高 校 )としても立 派 すぎて畏 れ多 く、一 所 懸 命 ご 辞 退 申 し上 げ、何 とか他 の先 生 をご紹 介 下 さるようお願 いしたところ、やっと東 京 学 芸 大 学 助 教 授 である三 橋 達 夫 氏 をご紹 介 下 さったので、その後 三 橋 氏 を尋 ねて 講 師 を 快 く 受 諾 し てい ただき、 授 業 が 満 足 に 行 うこ とがで き私 も責 任 を果 して 一 安 心 できた。 私 はその後 先 生 と直 接 接 することはなかった。この講 師 の件 は今 でも思 い出 に残 る一 件 であった。 渡 辺 慶 一 先 生 (理 論 化 学 ) 入 学 後 の 初 の講 義 での私 の第 一 印 象 は大 変 几 帳 面 な先 生 との印 象 を受 けた。 板 書 からもそれが感 じられた。 具 体 的 な講 義 内 容 は記 憶 していないが、他 の学 科 の場 合 と異 り、先 生 は授 業 中 に問 題 演 習 をよくさ れ、 出 席 名 簿 順 に指 名 さ れること が 多 く、 指 名 された者 は 前 に 出 て板 書 することになっていた。一 学 期 間 に1人 が2回 位 当 たることが普 通 であった が、どういう理 由 かは不 明 であったが私 はいつも飛 ばされ、指 名 されたことが 1 回 も なかったので、この演 習 のことはよく覚 えている。 日 光 への勤 労 動 員 へは先 生 も指 導 教 官 として付 いて来 られた。その間 のある日 、 先 生 と学 問 のことについて個 人 的 に種 々お話 をする機 会 があり、その折 に先 生 から 「学 問 に志 す人 は常 に夢 をもたなければいけない」 ということを言 われ、私 も大 変 共 感 したことを覚 えている。 戦 後 何 かの折 に先 生 のお宅 に伺 って種 々ゆっくりお話 しすることができた。お宅 は武 原 先 生 と同 じく杉 並 区 永 福 町 の閑 静 な住 宅 街 であり、先 生 は紺 の絣 の和 服 で洋 間 の部 屋 でお話 を伺 ったと思 う。 先 生 は定 年 退 官 されてからも頭 髪 は黒 々として薄 くならなかったが、噂 によれば 奥 様 が永 年 食 事 に黒 胡 麻 を欠 かさなかったことが秘 訣 であるといわれていた。 その先 生 も病 に克 てず昭 和 61 年 6 月 24 日 に 84 年 の生 涯 を終 えられた。梅 雨 の雨 がしとしとふる中 、お通 夜 に最 後 のお別 れに伺 った。 (参 考 )先 生 の戒 名 香 誓 院 釈 照 慶 居 士 59 藤 木 源 吾 先 生 (理 科 教 育 法 ) 藤 木 先 生 については高 師 に入 学 する以 前 に、 中 学 校 時 代 に先 生 の著 作 になる学 習 参 考 書 を用 いたことがあり、そこで既 に先 生 のお名 前 は 存 じ上 げていた。1 年 生 の授 業 で、高 校 におけ る理 科 教 育 (特 に化 学 の授 業 )における実 験 方 法 として、水 素 ・酸 素 の混 合 ガス(爆 鳴 ガス)を キップの装 置 などで発 生 させ空 気 中 で化 合 (点 火 爆 発 )させる実 験 での危 険 防 止 などについて の講 義 があり、デモンストレーションで爆 発 に伴 う大 音 響 に驚 き、このときの講 義 が印 象 に残 っ た。私 は戦 後 物 理 を専 攻 したので、その後 は先 生 に接 する機 会 はなくなった。 藤 木 教 授 (化 学 ) 塩 原 ヤイ 先 生 (化 学 教 室 助 手 ) 先 生 は学 内 の物 理 、 化 学 教 室 の 先 生 の中 で の紅 一 点 の 女 性 化 学 者 であった 。 先 生 は当 時 化 学 教 室 の助 手 であったので、主 として学 生 の実 験 の世 話 をされてい て、特 に武 原 先 生 の講 座 (有 機 化 学 )の世 話 を中 心 にされていた。化 学 を専 攻 し た人 々は卒 業 まで大 変 お世 話 になったようであった。 先 生 は毎 日 が大 変 お忙 しい様 子 であったが、その中 でも余 暇 をみつけてはご自 分 の有 機 化 学 の研 究 をされ、その熱 心 さは恰 もキュリー夫 人 の如 く、我 々一 同 敬 服 していた。私 などは間 接 的 にお世 話 になったのみであったが、何 かの折 に先 生 の お手 伝 いを頼 まれ、そ の後 先 生 か ら当 時 とし ては珍 しい美 味 しいお菓 子 をこ馳 走 になつた ことがなつかしく思 い出 される。 先 生 は我 々が卒 業 後 しばらくして理 学 博 士 の学 位 を取 得 され、東 京 教 育 大 学 助 教 授 と して退 官 され、今 でも群 馬 県 前 橋 においてお 妹 様 と塩 原 植 物 園 を開 設 され、四 季 美 しい 花 に囲 まれた晩 年 を送 られている。また、 我 々の理 二 会 にも何 回 かご出 席 いただき、 その折 参 会 者 全 員 にご自 分 の学 位 論 文 の 塩 原 助 教 授 (化 学 ) 60 別 刷 を下 さった。 なお、前 記 先 生 のお姉 様 塩 原 友 子 さんは画 家 で、先 生 からいただく年 賀 状 は毎 年 友 子 さんの絵 が画 かれている絵 手 紙 の形 で、誠 に楽 しいものである。 松 田 栄 先 生 (物 理 学 ) 我 々の学 年 には先 生 の講 座 はなかったので、直 接 講 義 でご指 導 を受 けたことは なかった。 終 戦 まで先 生 は陸 軍 の学 校 に出 講 されていて、私 が初 めて先 生 にお会 いしたの は、戦 後 私 が池 本 先 生 の教 官 室 にいるときであった。池 本 先 生 の教 官 室 は広 い部 屋 (1 教 室 分 くらい)の中 央 に大 きな戸 棚 があり、この中 には沢 山 の実 験 器 具 が入 れてあり、この戸 棚 を境 にして片 側 に池 本 先 生 、反 対 側 に松 田 先 生 の席 があり、 松 田 先 生 は日 常 この席 で仕 事 をされていた。講 義 以 外 の仕 事 の多 い先 生 で席 暖 まる暇 がない状 態 で驚 いていたところ、理 科 一 部 (数 学 科 )3 年 生 の電 磁 気 講 義 の 代 講 を依 頼 され、半 年 間 講 義 を担 当 したことは〔5.4 研 究 科 時 代 、3)教 授 の代 講 〕 に記 した通 りである。 なお、先 生 と面 識 を得 てから間 もなく、先 生 の著 書 (旧 制 中 学 校 用 物 理 参 考 書 ) について、これを戦 後 の新 制 高 校 の指 導 要 領 に従 うように全 面 改 訂 する必 要 が生 じ、その仕 事 を私 に依 頼 されたので、私 としては初 めて学 習 参 考 書 を著 述 する経 験 が得 られた。ところがこの参 考 書 (旧 制 中 学 用 )は、私 が中 学 生 のときに父 が私 に与 えられたものであったのには大 変 驚 いた。自 分 が受 験 のために勉 強 したものを、 今 度 は書 き直 す立 場 に(読 者 から著 者 に)転 換 するという稀 有 の機 会 に出 会 ったこ とは運 命 的 であり、先 生 と私 との目 に見 えないつながりを感 じていた。 私 が卒 業 後 も先 生 のいくつかのお仕 事 のお手 伝 いをしたが、1960 年 代 に病 で亡 くなられた。先 生 のお宅 は偶 然 にも、狭 い道 を挟 んで池 本 先 生 のお宅 の斜 め向 い であった。 61
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