武惑クラブ創立30周年記念誌pdf

武惑クラブ
創立30周年記念誌
目次
Ⅰ.挨拶
創立30周年を顧みて
武惑クラブ会長
元山泰秀
Ⅱ.祝辞
創立30周年おめでとうございます
埼玉県ラグビーフットボール協会
理事長
同上
不惑倶楽部理事長
同上
熊谷不惑倶楽部会長
同上
神奈川不惑クラブ会長
同上
房惑クラブ会長
同上
群馬惑惑クラブ会長
同上
栃惑プレジデンツ会長
同上
常陸不惑クラブ会長
同上
新潟不惑ハーフブラックス会長
同上
川越不惑ファイターズ会長
同上
水産ラガー会長
同上
浦和ラグビースクール校長
Ⅲ.祝賀会写真集
Ⅳ.私とラグビー
Ⅴ.記録(戦績)
Ⅵ.これまでの記録写真集
Ⅶ.名簿
Ⅷ.部歌
Ⅰ.挨拶
創立30周年を顧みて
武惑クラブ会長 元山泰秀
武惑クラブ創立30周年を迎えるにあたり、ご挨拶申し上げます。
今年 6 月 21 日に行いました記念祝賀会には、
多数の皆様にご参加いただき、
又、
ご丁寧なお祝いを頂戴いたしまして有難うございました。心からお礼を申し上げま
す。
武惑クラブは 1978 年の秋、埼玉県 県南・県東地区の武里クラブ(現 春日部
クラブ)
、越谷クラブ、浦和不惑クラブ等の 40 才以上のメンバーが中心になり結
成されました。約 40 名余の部員でした。創立当時のメンバーも黄パンツになり、
現在 6 名が残っています。
最初の試合は、1979 年 3 月、船橋山一証券のグランドで不惑倶楽部との試合で
した。創部当時は不惑倶楽部、群馬惑惑倶楽部、熊谷不惑倶楽部等に大変お世話に
なりました。専用グランドがなく、戸田市グランド、熊谷荒川グランド、杉戸町の
ローデムグランド等を利用さして頂きました。
1985 年に高崎で行われた群馬惑惑倶楽部の創部 10 周年記念試合の折、参加
6 チームによって、関東甲信越不惑大会設立の話し合いがもたれ、翌 1986 年に浜
川グランドで第 1 回の大会が行われました。更に 1991 年に熊谷に埼玉県営ラグビ
ー場が完成した折、関東 10 都県の不惑チームが揃いました。関東各地の惑チーム
の交流が活性化したのもこの頃です。しかし武惑クラブはこの頃、若手メンバーの
出入りが激しくメンバー編成にも苦慮した時代です。
2003 年頃より白・紺組も充実し、赤・黄組と別メニューの時もあります。
更にこの頃から準備していた NPO 法人さいたま地域スポーツクラブ「遊」の
発足により、
「3才から80才まで」の呼びかけのメンバーとして、スクールの子
供達と活動しています。この大原グランドの隣にある埼玉県障害者交流センターの
行事のお手伝としてポランティア活動も行っています。
前述しました関東甲信越不惑大会も今年は第 23 回を迎え、当番県として熊惑、
川越不惑と共に埼玉不惑クラブとして熊谷県営ラグビー場に皆様をお迎えするこ
とになっております。 これらの交流も関東各県の惑チームのご協力の賜によるも
のと感謝いたしております。
武惑クラブはこの 30 周年の記念の年を契機として、更に充実したチームに邁進
してまいります。今後ともよろしくご指導の程お願い致します。
最後になりましたが、記念誌にご寄稿をお願い致しました処、快くお引受け頂き
感謝しています。尚、諸般の事情により、記念誌の発行が予定より遅れましたこと
お詫び申し上げます。
Ⅱ.祝辞
創立30周年
おめでとうございます
埼玉県ラグビーフットボール協会
理事長
坂下 辰夫
武惑クラブ、創部30周年、誠におめでとうございます。県内不惑チームの草分けとし
てスタートし、現在70余名のクラブ員を有する隆盛をみることになった影には、元山会
長をはじめ、関係各方々の多大なるご尽力があったと想像されます。深く敬意を表する次
第であります。
さて私こと、実は武惑クラブの会員として、大原グランド、キズーチグランドをはじめ
県外を含め多くのグランドで試合を経験させて頂きました。教員という仕事柄、ラグビー
の指導をする機会は多くありましたが、40歳を過ぎてまで、まさか自分がプレーをする
ことになるとは夢にも考えることはありませんでした。確かにラグビーは観戦することも
楽しいスポーツですが、やはり自分でプレーするのが一番楽しいスポーツです。そしてア
フターマッチファンクションでのビールのおいしさ。栃木の鮎も美味かった。このような
経験の中で多くの先輩方がBKからFWへとポジションを変化させていく姿を目の当たり
にしました。でもこれがやめられないんですよね。
平成20年には熊谷ラグビー場において関東甲信越不惑大会が開催されました。武惑ク
ラブにおかれましては、その際、熊惑クラブ、川越ファイターズとともに、企画・運営か
らプレーヤーとしての参加まで、多大なご協力を頂きました。県協会として、深く御礼申
し上げます。
最後になりましたが、貴クラブのますますのご発展を祈念致します。
武惑クラブ創立 30 周年
おめでとうございます
特定非営利法人 不惑倶楽部
理事長
平島正登
武惑クラブが創立 30 周年を迎えられたことを心からお祝い申し上げます。
また この度の「記念誌」の発行、および「記念祝賀会」の開催をお慶び申し上げます。
30 年前の惑チームは白、紺パンツが中心で赤パンツはちらほらという時代でしたが
現在は赤、黄パンツチームも隆盛に向かい、紫パンツもちらほらという時代になって参り
ました。
特に埼玉、千葉、神奈川、東京では黄パンツ以上の定期戦も企画する様になってきました。
高齢者ラグビーの発展に伴い様々なアクシデント(病傷害、怪我)への対応を考慮する
必要が生じております。
ラグビーはもともと自己責任に由来するスポーツとは言うものの、ルール上の問題改良を
含め、お互いに より安全なラグビーを目指して進みたいと思います。
武惑クラブの今後 益々のご発展と隆盛を祈念して お祝いの挨拶とさせていただきます。
創立30周年
おめでとうございます
熊谷不惑倶楽部
会長
吉田 嘉高
武惑クラブの皆様、この度はめでたく創立30周年の記念すべき年を迎えられましたこと
を心よりお慶び申し上げます。
我が熊谷不惑倶楽部とは、昭和54年5月熊谷荒川での最初の対戦以来交流を続けさせて
いただくとともに、春の不惑戦・赤パン大会・関甲信不惑大会では同じチームとして試合
させていただき、本年度より共同で鹿児島でのねんりんピックに出場することになってお
ります。
最近の武惑クラブの新人会員の勧誘体制の充実ぶりと黄・赤パンの皆様の纏りの良さには
感心させられているところであります。武惑・熊惑の対戦では創部時は熊惑の方が勝率は
良かったのですが、最近では武惑さんの連勝続きの状況です。熊惑の新人勧誘力の弱さを
痛感しているところで御座います。
今後も、不惑ラグビー・埼玉ラグビーの発展のためお互いに切磋琢磨して不惑ラグビーの
良い文化(ノーサイドの精神・試合後の懇親会等)を継承発展させていきたいと存じます。
武惑クラブの今後の充実・発展は勿論、メンバーの皆様が益々お元気でラグビーを楽しめ
ることをお祈り申し上げます。
武惑クラブ創部30周年を祝して
神奈川不惑クラブ
会長
伊藤 喜明
武惑クラブの皆様、
本年創部 30 周年を迎えられましたこと誠におめでとうございます。
埼玉県東南部の居住者の皆様により、白、紺、赤、黄のメンバーが 70 名を超えられ、我
が神惑クラブとの交流戦も毎年2回開催させていただいております。誠に感謝申し上げま
す。多くの惑のクラブがある中、3色のゲームができる数少ない交流チームとして大変あ
りがたく思っています。
学生時代と違い、40 歳からの仲間で毎年顔を合わせ、ゲーム・懇親会と親交をあたため
ると自然と家庭的な雰囲気が生まれ、一生の友人となる人も多くなってきました。今年も
元気にグランドにきているかなと気にするようになり、なんとも不思議な団体ではないで
しょうか。
ラグビーはケガがつきもののスポーツではありますが、誰も少々の筋肉痛、打撲以外の
入院するようなケガはしたくないはずです。
いかにケガをしないで、いつまでもプレーができますよう、日々の鍛錬と、無理をしな
いという気持ちをいかに持つかではないでしょうか。
昭和 61 年より群馬県高崎市で開催された第1回関東甲信越ラグビーフットボール不惑
大会も今年は 23 回となり埼玉県熊谷市で行われます。3巡目となり、運営には慣れてき
たとはいえ、大変なご苦労をされることと察しますが本年もよろしくお願いいたします。
武惑クラブ 30 周年の節目に一段と飛躍されますことと、会員皆様のご健康とご活躍
をご祈念しお祝いとさせていただきます。
創立30周年
おめでとうございます
房惑クラブ
会長
佐藤 公明
武惑クラブの皆様、創立 30 周年おめでとうございます。房惑クラブを代表いたしまし
て、心よりお祝い申し上げます。
武惑クラブの皆様とは、春の木津内、秋の松戸での定期戦、菅平の交流大会、草津の群
馬惑々クラブさんとの3チーム合同合宿、関東甲信越大会と、対戦の機会が多く、お互い
手の内を知り尽くしており、お互い負けたくない気持ちが強い、いわゆる好敵手だと思っ
ております。
最近は、新入会員の方々も増えておられるようで、特に白パンは強化されていると存じ
ております。私共も、武惑クラブさんにとって好敵手でいられるように、精進していく所
存でおります。
私共房惑クラブは今年 25 周年でした。
武惑クラブさんは、惑のクラブとして、私共の 5 年先輩であり、これまでも大変お世話
になってまいりました。
惑のクラブとして、お互いに日本のラグビー隆盛の一翼を担うとは言い過ぎかもしれま
せんが、一隅を照らす精神を以って、これからも体力・気力の続く限り、ラグビーを楽し
み、ラグビーを支えていこうではありませんか。
武惑クラブさんの、ますますの御隆盛と御発展を心よりお祈り申し上げますとともに、
次回の対戦を心待ちにしております。
武惑クラブ創立30周年を祝う
特定非営利活動法人 群馬惑惑倶楽部
理事長
山口 英雄
武惑クラブの皆様、創立30周年を迎えられ、心よりお慶び申し上げます。
貴クラブとは隣県同士として、
創立時より変わらぬ交流と親睦で共に歩んでまいりました。
今後、貴クラブが関東甲信越地区のリーダーチームとして益々のリーダーシップを期待し
ます。
私共が倶楽部を設立した時に何歳まで楽しむことが出来るか思いました、今や赤黄のパン
ツのプレーヤーが各チーム多数存在し、今昔の感がします。
ラグビーが生涯スポーツとして発展し、ラグビー人口減少の歯止めとして、普及活動を前
進させねばならぬと感じます。
ONE FOR ALL ALL FOR ONEの精神で青少年非行防止の旗印として
明るい社会作りに力を発揮することを熱望します。
貴クラブの益々のご発展を祈念し、お祝いの言葉といたします。
武惑クラブ創部30周年
を祝して
栃惑プレジデンツ RFC
会長
阿 部 貞 夫
武惑クラブ創部 30 周年誠におめでとうございます。栃惑プレジデンツ一同心からお祝い
申しあげます。創部当時は白パンツだった皆さんの多くが黄、赤パンツとなった現在もな
お元気はつらつとプレーされている姿を見るとき 30 年の時の流れを感じます。
毎年交流試合を通じてご厚誼を賜っております栃惑プレジデンツも今年創部 20 周年を迎
えることとなりました。今後とも先輩クラブとしてご指導くださるようお願い申しあげま
す。
武惑クラブがこれからも 40 年 50 年に向かって益々隆盛に発展されますとともにメンバー
の皆さんが紫パンツを目指して元気にプレーされることを祈念いたします。
祝
辞
常陸不惑クラブ
会長
尾又 篤
武惑クラブ創立30周年おめでとうございます。
また、このたび記念誌を発刊されたことに対しまして、心からお喜びとお祝いを申し上
げます。
武惑クラブ様と当クラブとの交流は、日立一高ラグビー部の後輩である原君から彼の一
年先輩の山本君にかかってきた一本の電話がきっかけでした。原君の所属している武惑ク
ラブ様と山本君の所属する当クラブとの交流ができないかという内容でした。お互いラグ
ビーが大好きな人間ばかりですので、話は急速に進み、当クラブが武惑クラブ様をお招き
するかたちで、第一回の交流がはじまりました。平成 13 年のことです。その後は、一年
ごとに招き招かれるかたちで交流を続け現在にいたっています。
4月に日立にお招きしたときは、街じゅうにあふれるひたちのさくらをお見せすること
ができましたし、12月のラグビーフェスティバルにお招きしたときには、当クラブだけ
でなく、ラグビー少年団をはじめたくさんのラグビー関係者と交流していただき、楽しい
時間をすごすことができました。
また、武惑クラブ様よりお招きいただいたときには、ゲームのあとにクラブハウスでの
パーティーに参加させていただき、和気藹々とした雰囲気でクラブ員同士が交流できるク
ラブハウスをお持ちであることを大変うらやましく思いました。
今後とも、武惑クラブ様の益々のご発展と当クラブとの実りある交流が続くことを祈念
いたしましてご挨拶にかえさせていただきます。
祝辞
新潟不惑ハーフブラックス
会長
牛膓 三樹三
武惑クラブ創立30周年記念、誠におめでたく心よりお祝い申し上げます。
貴クラブと私ども新潟不惑は、関東甲信越不惑大会でよく対戦して懇親を深めてまいり
ました。
貴クラブは、
元山会長さんを語ることで、
その歴史や姿が浮かび上がってくるようです。
元山会長さんは不惑にも在籍され、日本協会や関東協会に広い交流があり、あまりにも有
名な方であります。
三洋電機ワイルドナイツが、
“負けの美学”を超越して創部48年の悲願が叶い、遂に日
本一に輝きました。日本のラグビーもトップリーグや大学ラグビーの繁栄と発展でようや
く明るい光が見えてきた気がします。
日本ラグビーフットボール協会医科学委員会の丸山浩一氏がスポーツの価値と推進を端
的に次のように表しています。
「走るが良い、ボールを追いかけるのが良い、そして酒を酌
み交わしラグビーの話に興じるが良い。
」
お互い元ラガーマンであり、現ラガーマンである者達にとりましては、嬉しい言葉であ
ります。武惑クラブと新潟不惑とは、これからも不惑大会を通じて走り、ボールを追いか
け、酒を酌み交わしラグビー談義に花を咲かせましょう。
結びに当り、貴クラブにおかれましてはこれまでの歴史を踏まえつつ、この30周年を契
機として、関係する皆様が一致協力してラグビーフットボール活動に邁進されますことを
ご期待申し上げ、貴クラブが益々飛躍されますことをご祈念申し上げまして、武惑クラブ
創立30周年のお祝いとさせて頂きます。
創部30周年
おめでとうございます
川越不惑ファイターズ
会長
田辺 省一
創部30周年、おめでとうございます。
春日部クラブ・越谷クラブ・浦和クラブなどからの不惑メンバーが中心となって創部され
たとお聞きしています。
出身母体のクラブ時代から交流させていただき、月日の流れの速さに驚かされます。
ラグビーは、目標に向かって「 走る 」という動物の基本運動能力と、
「 戦う 」とい
う闘争本能を遺憾なく生かした、制約の少ない魅力的なスポーツです。
一旦試合が始まると、何もかも忘れて打ち込むことができるラグビーの魅力を理解・認識
している人達が、30周年の節目を迎えたことは、ともにラグビーを愛する仲間として、
誠に喜ばしいものであります。
生涯ラガーとしての活動を続けて行っていただきたいとの願いを込めて、お祝いの言葉と
させていただきます。
創部30周年、おめでとうございます。
♪♪創立 30 周年おめでとうございます♪♪
水産ラガー
会長
片山 俊彦
30 年前、1970 年代後半のラグビーを振り返ってみますと、そのころの日本では今と比
べてより身近なスポーツだった様な気がします。所謂アマチュアラグビーが全盛で、高校
を始め学生ラグビーも大いに盛り上がりラグビー人口ももっと多かったと思います。アマ
チュアクラブが生まれる良い環境だったのでしょう。その後 90 年代になってからだと思
いますが、世界的にプロ化の傾向が強まり、それに従ってルールの改正も行われ、ラグビ
ーというスポーツのイメージも徐々に変わってきました。益々格闘技の要素が強くなり、
確かに見るのは面白くなってきましたが気軽にできるスポーツという感じが薄らいでいま
す。少子化の傾向もあり最近ではサッカーを始めとする他の団体スポーツに比べてラグビ
ー人口の減少が言われ始めています。
このような状況にありまして地域社会に根差したアマチュアのラグビークラブの重要性
が再評価される時が来ているのではないでしょうか。ごく最近では赤や黄色パンツの爺さ
んが若い者たちと一緒に和気あいあいと楕円形のボールを追いかけている有様を見て、ラ
グビーというスポーツに親近感を抱く人が増えてくればラグビー人口の増加にも貢献する
ことになるでしょう。貴クラブの今後尚一層のご発展が期待される所為であります。
我が水産ラガークラブも負けずに同じ目的を持って頑張ってゆく所存ですので引き続き
よろしく御指導下さる様お願い致します。
祝辞
浦和ラグビースクール校長
飯塚 博明
この度は、武惑クラブ創立 30 周年誠に、おめでとうございます。心からお祝い申し上
げます。
私と武惑クラブのお付き合いは、25 年前浦和ラグビー連盟の創設時、当時の貴クラブメ
ンバーの皆様にご協力いただいたのが始まりです。また、埼玉大学グラウンドで練習をさ
れておられた関係から、同大学の小川先生を介し、交流がより親密になったと言えます。
そして今から5年前、NPO法人さいたま地域スポーツクラブ「 遊 」の発足メンバー
にも貴クラブの複数の皆さんに参画いただくことができ、今更ながら感謝しております。
「 遊 」の設立趣旨は、3 歳から 80 歳の地域の人々を対象として、ラグビーを通じた交
流や指導に関する事業を行い、地域スポーツの交流、振興に寄与することです。定期的に
行われる赤パン対ジュニアチーム( 中学1年生 )や白・紺パン対当スクール・コーチ
のゲームなど、世代を超えたラガーマンの交流を今後も継続すると同時に、生涯スポーツ
としてラグビーをもっと広く、多くの人々に知っていただけるよう、共に活動したいと思
っております。
現在、ミドルチームのメンバーも最高齢が 33 歳です。今後、不惑を迎えてラグビーを
続けることを希望する人の受け皿になっていただけると期待しております。3 歳でラグビ
ーを始めた人が、同じクラブで赤パン、黄パンまでプレーを続けられる。そして同じグラ
ウンドで孫が練習している光景を横目で見ながら自ら楕円球を追う姿を思い浮かべてくだ
さい。これこそが「 遊 」の目指すクラブの姿ではないでしょうか。
10 年後、武惑クラブの誕生と同時に生まれた子供が貴クラブに加わってプレーすること
になります。当スクールも本年 25 周年を迎えますが、同じ「 遊 」の構成クラブとし
て、今後も県南ラグビー普及のため、末永くスクラムを組んで行きましょう。
終わりに、
創立 30 周年を契機に武惑クラブのますますのご発展と会員皆様方のご活躍、
ご健勝を心から祈念いたしまして、お祝いの言葉といたします。
Ⅲ.祝賀会写真集
2008年6月21日(土)11:00
大宮パレスホテル
1.
武惑クラブ記念撮影
2.挨拶・祝辞
会長挨拶
開会の辞
県協会理事長祝辞
不惑倶楽部名誉会長祝辞
熊谷クラブ会長乾杯
閉会の辞
祝賀会スナップショット
Ⅳ.
私とラグビー
私とラグビー
会長
元山
泰秀
ラグビーとの出会い
昭和21年、中学3年の秋からです。終戦の翌年で戦争による帰郷者や外地
からの引揚者等のラグビー経験者の呼びかけがあり、又、かって鹿児島二中は、
海兵・陸士等軍人学校の合格者が多く、血気にはやる学生が多かった。なんと
なく有志が集まってラグビー部を創設しました。
最初はジャージー、パンツは勿論、スパイクも無く、各自工夫を凝らした手
作りの練習着を着て裸足の練習でした。
当時、九州ラグビーの名門であった門司鉄道局チーム
元監督の三宅良吉氏
(明大 OB)がコーチとなり、厳しい練習が始まりました。半年で鹿児島県で
優勝し南九州地区の代表にもなりました。この三宅氏は昭和23年11月に胸
の病で他界されましたが、この2年間に指導をうけたラグビー精神が、その後、
私の人生の指針となったと思います。
中学3年の創部当時は身体が小さかったので、プレイニングマネジャーとな
り、
「チームが勝つも負けるもマネジャー次第」と言われ、大学・社会人チーム
並のマネジャーの指導を受けました。高校時代にレフリーの資格も取り、県ラ
グビー協会の理事にも選任されました。
昭和24年に鹿児島二中は、甲南高校と名称を改めました。昭和23年から
3年間で鹿児島県公式大会
連続9回の優勝を果たしました。
鹿児島県から初の全国高校大会出場
昭和25年1月の第30回全国高校大会までは、参加チーム8校でしたが、
昭和26年の全国高校大会から出場枠が16校に増えたこともあり、念願の鹿
児島県初の出場を果たしました。私が1年浪人をしていたので、創部以来、共
に練習してきた1年後輩の連中のコーチとして参加しました。翌年も連続出場
しましたが、共に1回戦で敗れました。
昭和26年鹿児島大学に入学し、1年からマネジャー兼プレイヤーで主に
FW の三列目でした。4年生では主将でした。地区対抗の部で、なかなか南九
州代表になれませんでした。在学中から県協会の事務局を引き受け、昭和35
年
上京するまで協会理事、レフリーとして協力していました。
関東での再出発
昭和35年
上京後は専ら秩父宮での観戦が続きました。
49年頃、宮崎農専 OB の平岩隆二さんとお会いし、不惑倶楽部と武里クラ
ブ(現
春日部クラブ)に誘われました。取敢えず、武里クラブで練習を再開
しました。その時のボールの感触は今でも忘れません。
昭和51年、越谷市広報にラグビー同好者募集の記事があり、市役所で出会
ったのが森田守さんと谷中誠さん・信之さん兄弟でした。早速若い有志を募り、
越谷クラブを結成しました。初代のマネジャーを引き受けました。
この50年代は、埼玉県でも、又全国的にも高校、社会人、クラブのチーム
が増加した時期です。
53年秋から埼玉県の県南地区・県東地区の社会人、クラブチームと連絡を
とり、リーグ戦を計画しました。54年に県南・県東社会人ラグビー大会とし
て16チームで発足しました。多い年は26チームの時もありました。現在も
続いています。この大会の代表幹事として手伝っていました。
武惑クラブの誕生
53年秋から県南・県東地区の武里クラブ・越谷クラブ・浦和不惑クラブを
中心にオーバー40のチームを結成しようと相談して武惑クラブを創りました。
会長に青野廉さん、主将に森田守さん、主務に元山で発足しました。
武惑とは武州(武蔵野)の不惑チームのことです。ジャージーも浦和不惑の
黄色と武里のエンジ色の大柄の縞にしました。メンバーは35人位でした。
60年までは年間5∼6試合で、54年ジャージー購入時に入会金として2
千円を頂き、年会費として57年・58年が1千円宛、59年が2千円、60
年から5千円と厳しい予算で運営していました。
グランドも熊谷市、戸田市、杉戸のローデム等を使用していました。
61年から始まった関東甲信越不惑大会は、平成20年
第23回の大会を
熊谷ラグビー場で行います。関東各県の惑チームとも交流が盛んになりました。
平成11年から始まった菅平高原全国不惑交流試合も第10回を迎えました。
これらの惑の大会にも協力しています。
創部当時は不惑倶楽部に大変お世話になりました。47年から始まっていた
東日本不惑大会等の遠征の助っ人として誘われ、55年に不惑倶楽部に入りま
した。武惑クラブより30年も先輩の不惑倶楽部ではいろいろと勉強になりま
した。多くの先輩の指導も受け、交流も始まりました。ツアーマネジャーとし
てお手伝いもしました。東北、北海道、九州、四国等の国内遠征、数回のカナ
ダ遠征、62年からゴールデン・オールディスにも参加しました。
平成3年にオーストラリア西海岸のパースで開催されたとき、パースは郷里
鹿児島市と姉妹都市であり、鹿児島市長のメッセージを届けました。大会3日
目にパーティがフリーマントルの港であり、母校鹿児島大学水産学部の練習船
が寄港していて、昼はラグビーのゲーム、夜は練習船でホスト役を勤めた時は
感動しました。
62年度、63年度は不惑倶楽部の主務に選任され、規約の改正、会費の半
額積立等の財務の充実を図りました。
武惑クラブの主務と兼任したこの間、武惑に迷惑をかけたと思いますが、そ
れ以上に得たものがあったと思われます。
同じく55年頃から埼玉県ラグビー協会の理事に選任され、更に関東ラグビ
ー協会のクラブ委員・競技委員として各種大会や国立競技場・秩父宮ラグビー
場のお手伝いもしました。又、平成3年には3面のグランドを擁する埼玉県営
熊谷ラグビー場が竣工し、大学・社会人の有料試合が行われるようになりまし
た。それから約10年間
担当委員としてお手伝いをしました。この間、お付
き合い頂いたラグビー関係の先輩、後輩の方々にはお世話になりました。
平成3年頃、武惑クラブは若手部員の出入りが多く、活動が低迷していた頃
です。平成5年11月に創部15周年の記念行事を行い、スタッフの改選も行
いました。会長
元山泰秀、主将
川端弘行、主務
藤信夫です。
その後、クラブの運営も活性化し、技術面についても坂下コーチにお願いし
ました。
その後
平成10年に20周年、平成15年に25周年と節目の年に周年行
事を行い、より充実した武惑クラブへと努力してきました。主将も町田さん、
大石さんと若くなり、主務も鈴木さん、田中さんとなりました。組織的にも理
事会の設置など充実してきました。メンバーも80名余で、赤・黄パンで40
名で白・紺と別行動も出来るようです。現在の赤パンの主将は横山さんです。
こうして「私とラグビー
61年」と「武惑クラブの生い立ちと30年の歩
み」の一部に触れてみました。
私の人生の大半はラグビーです。この歳までラグビーに携わって来れたこと
に感謝したい。先ず
家族に感謝したい。更に、これまでいろいろとご指導、
ご理解、ご協力頂いたラグビー関係の先輩、友人、後輩に感謝したいと思いま
す。
有難う御座いました。
私とラグビー
大石 雅規
主将
フランカー
2007 年正月(正確には 1 月 3 日)、
「そろそろ 私とラグビー 書かないとなぁ」と思いな
がら高校ラグビー準々決勝を見ていた。大阪工大高 vs 仙台育英高。大阪にも仙台にも縁も
ゆかりもなく、どちらに思い入れがあるわけでもないのだが、なぜか大阪工大高を応援し
ていた。多分、仙台育英高はラグビー界では新参者で昔(自分が高校生の頃を指す。以下
同じ。
)は聞いたことなかったし、ジャージもトップリーグのような柄でどうも馴染めない
し、ニュージーランドからの外国人留学生がいるし(トンガ人ならまだしも)
..
.。
一方、大阪工大高は昔から出ていて馴染みがあるし、ジャージの柄も昔のまま(生地は変
わっているようだが)だし、外国人留学生はいないし、などなど、要は「昔のままの大阪
工大高の方がおじさんには親しみやすい」というだけのようである。
思えば、昔と比べてラグビー界も大きく変わったものである。昔はトライで 4 点(ゴール
で2点)だったのが、今はトライで5点(ゴールで2点)だし、ラインアウトでのリフテ
ィングなんかなかったし、ジャージは段柄か単色以外にはあり得なかったのが今では早稲
田(対京産大でのセカンドジャージ)までが馴染めない柄になってしまったし、昔は高校
でもスクラムトライはありだったし
(目黒なんかスクラムにバックスも入って 10 人くらい
でスクラムトライしてた。これはすぐに禁止になったようだが。)
、プロップは「スクラム
だけ組んでいればそれで OK」という時代だった。また、ラグパン(今はラグパンとも言わ
ないのかも)の下にスパッツなどはかず何もつけていなかったし(さすがに多感な高校生
の時には海パンをはいていたが)
、練習中はもちろん試合中もハーフタイム以外で水を入れ
るなんてことは考えられなかったし、メンバー交代もけが人以外は認められなかった..
.
(ちょっとくどくて済みません)
などと、とりとめもないことを徒然なるままに書いてお茶を濁そうかなと思っていたら、
ふと「私とラグビー」というテーマのうちの
私
の部分が全くないことに気づいてしま
った。という訳で、ここまでを前置きとして、以下本論を述べることとしたい。
私がラグビーと出会ったのは浦和高校に入学した高校1年のとき(昭和 53 年)であった。
中学時代、久喜の田舎で一応エースアタッカーだった私は、高校でもバレー部のエースと
して活躍し文武両道の充実した高校生活を夢見て入学式に臨んだのであった。ところが、
入学式が終わるやいなや、ラグビー部の2年生が休み時間のたびに勧誘に訪れ、曰く、
「高
校生になったら男のスポーツ、ラグビーを一緒にやろうよ。練習は2時間だけできつくな
いから勉強には支障ないし、監督も優しいし、女の子にももてるよ。君なら体も大きいか
らバックス間違いなしだよ。たくさんトライ取れて気持ちいいよ。
」。今の時代なら完全に
詐欺か虚偽表示か何かで摘発されかねないようなこんな言葉を鵜呑みにしてしまい、純粋
無垢だった 15 歳の私はラグビー部に入部することになったのである。ちなみに、先輩の言
葉のうち事実だったのは「男のスポーツ、ラグビー」だけであった。いや、正確に言うと、
入ったばかりの4月いっぱいは
お客さん扱い
されていたので、
「女の子にももてるよ」
以外は間違いではなかったのであるが、5月に入ると先輩も監督も練習内容もすべてが豹
変したのである。まず待っていた洗礼は
つば
によるボール磨きで、これはそれまでの
価値観がひっくり返るような衝撃を受けたものである。
「何でつばなんかでボールを磨かな
ければならないのか?」という思いと、
「人のつばで磨いたボールを触るの?」という思い
が交錯したが、不思議とすぐに慣れていった(そう言えば、つばによるボール磨きも遠い
昔になくなってしまった.
..
)。ポジションについても 4 月はバックスの物まね練習をやっ
ていたのが、いつの間にかスクラムを組まされ、
「君は背が高いから」とラインアウトをや
らされることになった。
「背が高いからバックスだったんじゃないの?」という疑問もすぐ
に消えていった。とまあ、こんな感じでラグビー人生がスタートし、その後は諸先輩方と
同様に厳しい練習・地獄の夏合宿・八幡山詣で(目黒高校などとの練習試合が一日中続く
楽しい日々のこと)などを経て、最終的には花園予選で熊谷工業に 6‐10 と惜敗して高校
のラグビー人生が終わった。ただ、そこでラグビーから開放されて明るい高校生活が待っ
ていたわけではなく、すぐに受験モードに切り替えなければならなかったので、結果とし
て「明るく楽しい高校生活」は無かったような気がする。
このような高校時代を総括すると、
「ラグビーをやっていたことに関して後悔はしていない
が、もっと楽しい高校生活があったのではないだろうか?」という一言に尽きるような気
がする。これは何も高校時代に限ったものではなく、大学・社会人を通して時折頭に浮か
んだ「ラグビーをやっていなかったら、もっと楽しい人生があったのかも?」という素朴
な疑問(あるいは惑いと呼んだ方が良いのかもしれない)に通じてくる。そこで、 四十に
して惑わない 不惑ラガーとして、また、
「私とラグビー」の執筆というこれまでのラグビ
ー人生を総括する絶好の機会に当たり、真剣に検証してみることにしよう。
まず、ラグビーをやっていたことによってどんなメリットというか、良いことがあったの
かを考えてみたい。一般論として、
「ラグビーをやっていて良かったこと」や「ラグビーを
やっていたからこそ得られたこと」にはどのようなものがあるかというと、例えば次のよ
うなものを挙げることができるであろう。
①「筋力や体力がつく」。
確かにラグビーをやっていて筋力は格段についたし、体格は良くなった。高校入学当時
179cm、63kg でひょろひょろだった私は、高校 3 年間ラグビーをやったおかげで卒業時に
は 182cm、
75kg にまでなった
(身長が伸びたのはラグビーと関係ないような気もするが..
.
)。
ただ、筋力や体力がついて何か良いことがあったかと言うと、運動をする上では(特にラ
グビーなどの格闘技系のスポーツをする上では)良かったのだろうとは思うが、それ以外
にはあまり思いつかない(それだけで女の子にもてたというわけではないし.
..
)。
②「精神力や忍耐力がつく」
。
確かにラグビーをやったおかげで、普通の感覚ではとてもできそうもない「ランパス 10
本」とか、
「スクラム 100 本」などに耐えられるだけの精神力や忍耐力がついた(もちろん
体力も)
。ただ、本当の意味で精神力や忍耐力がついたのかと言うときっとそうではなく、
ラグビーをやる上で必要な
という枕詞のついた「精神力・忍耐力がついた」と言うべ
きなのかもしれない。なぜなら、
「練習で疲れた体に鞭打って勉強をする精神力」や「退屈
な授業でも寝ずに最後まで聞く忍耐力」などがついたとはとても思えず、むしろラグビー
に関係ないものについては「疲れるからやめておこう」とか「面倒くさい」など、怠惰な
性格になってしまったような気さえするからである。
③「女の子にもてる」
。
確かに合コンなどで「自分はラグビーをやっている」と言うと、
「かっこいい!!」などと
いう反応を受けることが多かったのは事実である。ただ、なぜかその第一声が成果に結び
つかなかったのも事実である。多分、一般論として世の女の子には「ラガー = かっこい
い」というイメージがあって(多分この場合のラガーという言葉の中には前 5 人は含まれ
ていないと思われる)
、それで「かっこいい!!」という第一声につながっている(あるい
は単なる社交辞令かもしれない)
のであろうが、
ラガーというだけで成果に結びつくのは、
やはり一部の有名プレーヤーだけであって、大半の凡人ラガーはあまり恩恵を受けること
はないのであろう。これは、惑わないはずの 40 代になっても飲み会に女性がいるとはしゃ
ぎ回る
Tるい
氏や
Mつい
氏が、この年までこれといった成果をあげたとはとても
思えないところからも容易に想像がつくであろう。
他にも一般論として「ラグビーをやっていた良かった」ことはあるのであろうが、くどく
なるのでこのくらいにしておくとして、結論として、
「ラグビーをやっていて良かった」と
積極的に肯定できる材料があまりないということに気づいてしまった。既述の通り、自分
の人生において、少なくともラグビーをやってきたことに関して後悔しているわけではな
いし、むしろラグビーが楽しいからこそ今も武惑で続けているのであるが、なぜこのよう
な、どちらかというとネガティブな結論になってしまうのであろうか?
多分それは、学生時代、特に高校時代は、楽しむためにラグビーをしていたと言うよりは
(楽しむことが目的だったのではなく)
、勝つことが目的だったからなのではないだろうか。
自分たちに限らず、全国大会を目指す高校ラガーにとって、ラグビーの楽しみは勝つこと
であり、その最終目標として「花園出場」あるいは「全国制覇」というものがあったので
はないだろうか。そうであるとすると、
(花園での全国制覇に限らず、県大会優勝なども含
めて)
優勝したチーム以外の大多数の高校生は、
犠牲にしたものが大きければ大きいほど、
「オレの高校時代、これで良かったのかな?」などの疑問を感じてしまうのではないだろ
うか?もちろん、
高校時代にもチームメートとの友情など、
勝つこと以外にも楽しいこと、
良かったことはあったし、真剣に後悔しているわけではないのだが、高校時代に関してな
んとなくモヤっとした感じが残るのは、やはり「熊谷工業を倒して花園へ行く」という絶
対的な目標に向けて犠牲にしたものが大きく、かつ、それを実現できなかったからなので
あろうか。
では高校 3 年間のラグビー生活が無駄であったか、あるいは高校時代にラグビーを始めた
のが間違っていたのか、と言うと決してそうではない。確かに、3 年ほど前に武惑に入部
する前までは「ラグビーをやっていなかったら、もっと楽しい人生があったのかも?」と
いう疑問をなんとなく抱いていたし、また、武惑に入らなければこれからもずっとこの疑
問を抱いていたかもしれない。でも、武惑に入って
不惑ラグビー
を始めてみて、初め
て勝ち負けだけではないラグビーの楽しみというものを知ることができたような気がする。
もちろん勝てば楽しいし、勝つことを追求していかなければならないのだが、でも
不惑
ラグビー では、
「今日は試合には負けたけどいいプレーが出来て楽しかった」などと、勝
ち負けを離れたところでもラグビーを楽しめることがわかった(とは言っても、武惑白紺
では
今日は試合には負けたけど・・・
という前置きがつく試合が多いのがちょっと問
題なのだが.
.
.
)
。貴重な青春時代とはいえ、高校は 3 年間。この間多少苦労してもそれが
あったからこそ、武惑で 30 年も 40 年もラグビーを楽しめることができ、老後を有意義な
ものとすることができる。そう考えると、結論としては、
「まあ、若いうちの苦労は買って
でもしろということだったのかな」というところであろうか。
と言うわけで、私がかねてより抱いていた「ラグビーをやっていなかったら、もっと楽し
い人生があったのかも?」という疑問・惑いは、武惑に入部して不惑ラグビーと出会えた
ことにより、
「ラグビーをしていたおかげで、人生の後半を楽しく有意義に過ごすことがで
きるのだ!」と、ポジティブなものに変わったのである。これからは、
「昔の苦労を無駄に
しないように、1 年でも長く、1 試合でも多く、武惑でのラグビーを楽しみたいものであ
る..
.
.
.
.」と、武惑ラグビーを持ち上げ、うまくまとめたところで、私の「私とラグビー」
を締めくくらせていただきたい。
(追記)
でも、やっぱり、試合には勝ちましょう。勝たないと楽しくないですよね!?
私と武惑ラグビー
横山
二三男
赤黄主将
フランカー、№8
私が、長男の誕生で新宿のアパートが手狭になり、都落ちをして中古マンションを買っ
たのが浦和高校のグランドの見えるマンションでした。ちょうど20代最後の年で仕事も
忙しさ真っ盛りの頃でした。日曜日、家の窓から浦和高校のグランドを見ると、明らかに
高校生ではない、いい年をした大人がラグビーボールで遊んでいました。まさかラグビー
をやっているとは思えないぐらい、ゆっくりとした運動集団でした。ある日曜日、長男を
グランドで遊ばせようと、普段着のラグビージャージを着て浦和高校のグランドに入りま
すと、明らかに年寄りが(青野さん、栗原さん、藤さん)ランパスをしていました「ずい
ぶんゆっくり走っているなー。
」でもスパイク履いているし、ボールは楕円だし。そのうち
に、キック、ダッシュを始めました。もしかするとこれはラグビーの練習かもしれない。
青野さんにまず声をかけられました。「一緒にラグビーしませんか?」
こんなきっかけで、浦和クラブに参加し、ラグビー生活が始まりました。ゆっくり走っ
ていると思ったら結構速いんです。浦和高校の硬いグランドから追い出され、見沼の原っ
ぱや、西高のグランドの隅っこや、与野農高のグランドなどを渡り歩いた時期もありまし
た。青野さん、栗原さんの人脈のおかげで、埼玉大の小川先生の知故を得て埼玉大グラン
ド無許可、堂々使用という恵まれた状況にいたりました。
初めて武惑の試合に参加したのが房惑戦です。ちょうど怪我から復帰したばかりで、身
体慣らしのつもりで、試合に臨みました。速い、痛い、息が上がる。私も40過ぎていま
したが、相手も同年代のはずがその差が歴然。これではいけないと40代の再決意をしま
した。
ラグビーを通じて、多くの知りえない人と懇意になり、違う価値観にふれ、違う年代の
人たちとも知り合いになれたのは、私の人生に大きな楽しみを与えました。浦和クラブの
鈴木君には、家のリフォームを全面的にお願いしています。草津温泉は、我が家が、年4,
5回行くお気に入りの温泉です。クラブ遊の NPO 法人化に際してのボランティア活動は、
障害者スポーツ指導員、サウンドテーブルテニス審判員など資格取得の動機付けになり、
その結果、障害者との関わりをとうして、自然な気持ちで無理も気負いもなくボランティ
ア活動する機会を与えられました。
どちらかというと、会社という価値観が支配しがちだった自分の40代、50代にラグ
ビーは、体力維持だけでなく自分を取り巻く社会との関係性を客観的に判断する機会を与
えてくれました。会社の時間以外で、休日を社員とゴルフで過ごす生活の良し悪しは別に
して時間の使い方には、多くの選択肢が存在して良いと改めて思います。
ついに、あこがれの赤パン人生を前に、わたしの白、紺時代を振り返ってみました。
私とラグビー
田中忠史
主務
ハーフ
人は一生のうちに運命を変える人との出会いが三度あると聞いた事があります。人生の
折り返しを過ぎた今、それを考えるに「間違いなくそのお一人であろう」と思える人、そ
の方が武惑クラブの平田通文さんです。
高校を卒業して、新潟の田舎から右も左もわからないまま上京して、ひょんなことから
平田さんに出会い、当時平田さんが所属していらした「クローバー」というクラブチーム
に入れていただきました。地方に転勤するまでの約8年間、クローバーでお世話になった
わけですが、四谷にある上智大学のグランドで、平日の夜、共に練習していた「ぜんかい
ビアーズ」さんはじめ多数のチームと、ソフィアリーグが結成され、対戦を重ねており、
私自身も、熱い時代であったことを憶えています。
また、クローバーというチームは「同志社H&T」の関東在住のOBの方々が創られた
チームでしたが、よそ者の私を温かく迎え入れていただき、ラグビーエリートでない私に
とって、まさに「ラグビーは財産」でした。そして当時のメンバーとの交流続が今でも続
いている事が、また「かけがえのない財産」となっています。
その「財産」であるラグビーと私の最初の出会いは何だっけ?…「何だ??」
それはまったくの偶然。中学2年の時、盲腸で入院した時の事です。
入院した病院の隣に高校があり、夕暮れ時、ふとグランドが目に映りました。他の部活
の生徒が次々と帰宅する中で、黙々とスクラムマシーンを押すラグビー部員の姿。しばら
く見ていると、今度は2列にならんでタックル練習。響き渡るのは監督の声…。
私の魂の中に「何か」が刻まれたのでしょう。一年後、その高校の生徒となり、あの声
の主である監督のもとを訪ねたのですから。
入部してみて、監督、先輩方々、環境、私を裏切るものは何もありませんでした。
「ラグビースピリッツとは」から始まり、そのスポーツの根底にあるもの全てが、自分自
身をぐいぐい引き寄せます。でも技術的なもの、体力的なものが追いつかない。悔しくも
あり、不完全燃焼の3年間であったかもしれません。
さて、話を戻しまして…。
10年間の地方生活を終え、関東に戻ってきた時、再び平田さんからお声を掛けていた
だきました。
「忠治!お前もいい年やろ!武惑に来いよ!!」
そのときの私の感想は
「どんなチームか知らないけど、平田さんに誘っていただけるなら、お願いします。」
人生の節目、節目でお声を掛けていただき、本当に感謝、感謝、ただ感謝です。
(ちなみに「忠治」というのは平田さんに付けていただいた〝あだな〟です。)
さすがに10年のブランクは不安でしたが、何とか再デビューとなりました。武惑に入
って最初の感想は、
「何て組織のしっかりしたクラブだろう」ということです。会長はじめ
皆さんの姿勢、取り組みが作ってきた歴史に感心するばかりです。
そんな武惑クラブにお世話になって、かれこれ8年が過ぎ、新たにたくさんの友人と、
大先輩の方々とのご縁を頂くことが出来ました。
また、昔は対戦相手、今は同じ武惑の仲間ということで、一緒にプレーをさせていただ
いている方もいらっしゃいます。
武惑クラブというすばらしいチームの中で、現在主務を担当させて頂いている自分を振
り返ると、なんだか不思議な気がします。全ては平田さんとの出会いと、その後も気に掛
けていただいたおかげであり、これからの自分もまた、そうありたいと思っています。
私とラグビー
住本
哲朗
主務
フォワード
私にとってラグビーはプレーする事の楽しさに加え、沢山の人との「お付合い」を与えて
くれている。
武惑での「お付合い」の他にも大切にしている「お付合い」が幾つかある。
先ずは高校のラグビー部。
出身は熊本県ながら、毎年7月に地元熊本のライバル高 OB チームと定期戦をこちらで行
っており、この時は大学生から先輩まで全員集合、交流を図っている。
この延長で、歳の近い OB と毎年キャンプが恒例となっており、子供たちも参加して家族
ぐるみの「お付合い」に広がっている。
次に大学のラグビー部。
九州の地方大学ながら、毎年開かれる八大学の大会に参加するなど関東でも活動を続けて
いる。
若手が少なく幾つになっても下っ端扱いを抜け出せないのが辛いが、今でも学生時代の諸
先輩と親しく「お付合い」させていただいている。
又、この大学 OB の中で特別なのが4年間苦楽をともにした同級生6人の存在だ。
ラグビー以外の思い出も多く、酒、恋愛、喧嘩など正に青春真っただ中の時代を共に過ご
した。今でも連絡を取り合い、会えば時間の経過を忘れ当時と変わらぬ「お付合い」を続
けている。
他にも会社のチームやクラブチームに所属したこともあり、現在では疎遠になっているも
のの、当時は親しい「お付合い」をさせてもらった。
また、最近これまでとはちょっと変わった新しい「お付合い」ができてきた。
というのも息子2人がラグビーを始め、親子の会話、家族でのイベントにラグビーが関わ
ってくるケースが増えたからだ。
自分の試合やプレーの話をはじめ、トップリーグの選手の話などラグビーに関する会話が
どんどん出てくるようになり、親子のコミュニケーションの良い話題になっている。
息子のラグビーは、引越してすぐ、まだ生活になじめずにいた頃,少しでも友達ができれば
とラグビースクールに入ったのがきっかけだが、現在では沢山の友達もでき毎週元気に練
習や試合に出かけている。
息子にとってもとても良い「お付合い」になっている。
ラグビーはこれまでと同様に、これからも新しい出会いをもたらしてくれるに違いない。
諸先輩のように、私も赤パン・黄パンとラグビーを続け、今後もラグビーを通した「お付
合い」の輪がもっともっと広がって行く事を楽しみにしている。
私とラグビー
栗原
義正
スタンドオフ
私は、昭和18年に旧制浦和中学に入学しましたが、昭和20年の敗戦により新制浦和
高校と学制が変化する中で卒業までラグビーと係わりあうことになりました。現在の浦高
のラグビー部は、昭和21年長谷川哲司さんらの旧制浦中の先輩の支援を受け、旧制浦中
5年生の番場宏明さんを主将に、松村一雄君や私たち4年生を中心に設立されました。昭
和22年に浦和商業、熊谷中学、本庄中学などにラグビー部が誕生しましたが、我々のラ
グビー部が、埼玉県最初の戦後のラグビー部ということになります。
我々の時代は、野球、サッカーとは違いラグビーがどんなものかも知らず、松村君と部
員集めに奔走しましたが、すべての物資が不足する中、スポーツ用品など手に入るわけが
無く、旧制浦高の先輩からボールを頂戴したり苦労しました。一番困ったのがジャージー
で、どうしても手に入らず、各自思案の末、各自父親の古い下着、進駐軍のシャツなどを
持ち出し、私が家から持ってきた鉄の大釜で一番無難な紺色に染め上げ、家で白の襟と白
線2本に背番号を縫いつけてもらったものをジャ−ジーとしました。今日の浦高ラグビー
部のジャ−ジーが、紺色なのはそのためです。シューズは、手に入らないので裸足でやっ
たが、サッカー部の紹介で、専門の靴屋を見つけました。前に述べたようにラグビーのル
ールも練習方法も知らずに始めたが、神田の古本屋で香山蕃氏の大正時代の著書を発見し、
松村君達とまわし読みをし、トレーニング方法、基本練習、ポジション別の練習方法、練
習参加人数が少ないときの練習方法などなどを知り、部員各自の意見とも合わせて何とか
ラグビー部らしい活動ができるようになりました。現在も浦高 OB としてラグビー部に関
与していますが、創部50年を超えてラグビー部が健在であることは感無量です。
その後しばらくラグビーから離れていましたが、昭和51年に浦和クラブが、旧浦和高
校のメンバーを中心に発足し、参加することになりました。青野廉、長谷川哲司、番場宏
明、松村一雄、白塚重雄、土方輝彦、藤信夫、福田崇廣などの浦和勢のほか、熊惑にいた
伊藤さん、今井さんなどが参加していたと思います。グラウンドは、我々の母校浦和高校
を拝借して当時のラグビー部長の小畦東先生の支援もあって活気に満ちたクラブチームで
あったと思います。当時は既に、武里(春日部)クラブ、越谷クラブがあって、これらの
チームの不惑の方々によって武惑クラブに発展したのもラグビーの楽しさが生きていると
言えるのではないかと思います。なお、今、武惑クラブの部歌は、福田崇廣(故人)君が、
藤信夫君の依頼を受けて作詞をしてくれたもので、本来は浦和クラブの部歌でした。
武惑クラブは、NPO 法人さいたま市地域スポーツクラブ「遊」の主要構成部門であり、
3歳から80歳までの NPO 総合スポーツクラブとして今後ますます発展することと考え
ますが、
このような永続して活動できるスポーツクラブは、
ラグビー以外にはありません。
みなさんの今後の健闘を祈りたいと思います。
予は如何にして
ラガーマンになりしか
鹿島
斗鬼男
バックス
西暦1931年(昭和6年)4 月13日横浜市神奈川区斉藤分町に生まれる(市営住宅)。
桜が満開の頃であったそうだ。父は省線電車(国電・現JR)で東神奈川から都内に通う
官吏(国家公務員)で、当時は五才年上(大正 15 年生)の姉が居て両親と 4 人暮しであ
った。今もそうかもしれないが市営住宅(二軒長屋風で比較的広い庭があった)は若いサ
ラリーマン層が殆どといって良い環境であった。
物心付いた昭和 10 年頃は私の記憶では一番華やかな時代であったような気がする。海
外交通は船の時代でその代表の一つである港横浜伊勢崎町を父母に手を引かれて歩くと、
子供がついうっかりぶつかるのは外人の方が多い位だった。住宅内の道路は車が殆ど通ら
ず、緩い傾斜地にあり、比較的広い(子供心にそう感じた)道は子供等の格好の遊び場で
あった。当時の子供等の遊びは、会戦ゴッコ(じゃんけん&グーチョキパーで決める順番
に自分のとなえる呼称と同時に出させる)か、鉄製の下水の蓋(フラットであった)での
おはじきによる軒取りぐらいであった。私には、学校に上がる前であったが小学校の高学
年位の子供、時には中学生(旧制)まで男女構わず遊んでくれた。
二・二六事件の時(だったと思う)珍しく雪で、道路中央を対角線的に分かれて雪投げ
(?)をしていたのが思い出せる。しかし、世間的には不景気な面もあり、或る朝友人の
家を尋ねて行き、
「ミキヲチャーン」と呼び掛けたがガランドウであったことがあり、子供
心に非常にショックだった(夜逃げ)。又親子づれ(?)の空巣で親だけ逃げてしまい、私
と同年令位の子供がとり残され、近所のお母さん等と我家に入れ、暖かいものに添え何か
駄菓子を与え、かえしてやりもした。あの頃はもっとひどい「格差社会」だったのであろ
う。正月の凧揚げも未だ近所にあった広場で出来た。夏は蓮池で糯(もち)の付いた竹竿
で
ぎんやんま
おおどろ (黄色と黒の縞模様のとんぼ)等大型のとんぼをいくらでも
取ることが出来た。しかし、糯がついて傷んでしまっているので姉等の昆虫標本にはむか
なかったようだ。
スポーツらしいスポーツを見たのは、日曜日、父と散歩時に横浜専門学校(現神奈川大
学)のグラウンドで外人を交えてサッカーの練習を見たこと位であろうか。野球も見たこ
ともなく、中等野球も神奈川では浅野中学(現高校)の名前を聞く位であった。その時既
に未来の話としてテレビジョンの話が小学生雑誌にのっていて、野球場の全体の絵が画か
れていたのが野球というものを視覚的に見た最初であった。更に余計なことを加えると、
その電波(or信号)の搬送の説明として丸枠の中に数多の電線を張った電柱が描かれて
いた。今にして考えるとそれが今で云う走査線の数だけ必要であったということだったの
かもしれない。
昭和12年 7 月7日盧溝橋事件が起こり、 支那事変
が始まる。その 9 月に父が福井
へ転任になり、福井市乾下町へ移住。途中からではあったが初めて幼稚園に通う(場所柄
仏教系)
。今迄住んでいた所とは異なり、近所には機織工場、金箔職人、木工屋、提灯屋、
魚屋(この地では仕出しもやっていた)等が軒をつらね、我家は少し奥まった所にあった。
初めての二階家で、私も姉も物珍しさもあり喜んだように思う。これ迄の都会の子供達と
違っていわゆるガキ共が多く、狭い道で私もゴムボールでベースボールを始めたのがボー
ルゲームに触れた最初であった。本格的野球を見たのも福井商業学校のグラウンドで、各
中等学校が集まった何らかの大会であった。試合が終わった後富山商業の連中が泣いてい
るのを見て子供心に不思議に思った。田舎の都市ではあったが、近所の小学生は子供の自
転車(中古的)に乗っているのも珍しかった。都会では危険ということで子供達の自転車
は抑えていたフシがあった。福井市で乾井尋常小学校に入学、運動会も徒競走では一番だ
った(昭和13年)。前年には南京陥落もあったがやがて来る日本の泥沼化も知らず祝賀ム
ードであった。父は柔道の有段者(?)であったこともあり、小さい頃から畳の上の水練
ならざる相撲で鍛えられ、取組み合いも一応の強さを保っていた。
福井の本格的な冬は一度しか経験せず、昭和13年暮、父の新任地松本に移住。その最
初の家が狭かったので父と家探しに歩き、旧制松高近くの家に引越した。この家の前の住
人は松高ドイツ語の手塚富雄教授であると知る(後の東大教授)
。聞くところによると、手
塚さんは引越魔(?)であったとか。この時、手塚先生は比較的中心部に近い所に移られ
ておられた。私の家は小学校(源池)松本商業にも近く忽ちすっかり野球に魅入られて行
く。松商の練習も土手の席から終始観察。松本市営球場へも通い、近所の子供達と草野球
に興ずるようになった。ラヂオでは東京六大学リーグを中継していた。慶応には宇野、大
館の三遊間が有名で、明治には加藤兄弟、藤本投手(中上)らが記憶に残っている。学生
野球の時代でプロは未だあまり浸透していなかった。しかし、一つ誇れるのはそのプロの
試合を市営球場へ母から小遣いをもらって見に行くことが出来た事であろう。有料という
事で中等野球と違って観客もパラパラ、試合は阪急vs太陽であった(太陽が勝)
。戦前の
プロ野球を見たという人は今では珍しいのではなかろうか。
普段は草野球(勿論軟式)の他は、軟式テニスボールでサッカーの真似事も時々やった。
中等学校以上は時節柄国家的(?)に体力検定(短・長距離走、重量的運搬走、手榴弾投
げ、懸垂等)が始まっていた。合格者には八咫の鏡(中心が金・銀・銅色 3 段階分類)を
デザインしたバッジが与えられていた。中級までの人はまあまあ見かけたが上級の人は殆
ど見かけなかったように思う。テレビもない時代、学校で連れていってくれる以外学校で
認められたものだけが見られる許可制であった。時には母にくっついてインフォマルに見
に行くこともあったが。愛染かつらの看板を「アイゾメカツラ」等と読んでいた。その頃
見た映画で記憶に残っているのでは「麦と兵隊」
「馬」
「暁に祈る」
「見かえりの塔」等であ
った。
「麦と兵隊」は、子供心にも暗い映画だったという印象が強い。何故か「路傍の石」
(山本有三原作)
は、学校では見せには行かなかった(無言の圧力があったのであろうが)
。
支那事変も4年経ち、我々小国民にもやりきれなさがそこはかとなく感じられていた。
昭和16年12月8日日米開戦ですっきりしたという印象が残っている。小学校4年生で
あったが、日米交渉・ハルノート等当時のことは記憶にある。昭和17年東宝映画山本嘉
次郎演出「ハワイマレー沖海戦」を多くの国民が昂奮して見る。その中で土浦の海軍予備
練習生の訓練としてラグビーを見たのが私のラグビーへの初見参であった。たしかに彼等
はスパイクシューズを履いていたが、ルーズだったと思うが蟻が群がっているという印象
がした。モノクロだったせいもあろうし、ルールも良く知らなかったから。戦前は陸軍よ
り海軍の方がラグビーはさかんだったようで、これも英国の流れを汲む帝国海軍のせいで
あろう。この映画の中で薄暮の(又は荒天の)飛行機の航空母艦への着艦訓練のシーンで
バック音楽として流れたビゼーの「アルルの女」ファランドールが非常に美しく感動的で
あったのが未だ忘れられない。予科練のラグビーも戦局の悪化に伴い徒らに敢闘精神のみ
が強調され、ルールも荒っぽくなり、突貫のみの闘球になって行く、と戦争末期の某教官
の書にあった。日米開戦以降は、物資不足、敵性スポーツ禁止・抑圧であり、殆どの球技
が衰退して行くが、国内の一部では前記のような事情でラグビー(闘球)は、奨励されて
いる部分もあったようである。
昭和19年4月松本中学入学(月当授業料3円50銭であった由、最近友人らから聞く)。
体育の他に武道(柔道・剣道)をやる訳であるが、一応の基礎の後はどちらかを選ぶこと
になる。小生は柔道を選んだ。その柔道であるが、西川先生は、
「畳の上で組んずほぐれつ
やっていたのでは意味がない(もっとも武道館の畳も相当病んでいた)走ってきてそこで
初めて取組むようなもの格闘である」と云うことを云っておられた。私は、非常にラグビ
ー的に近いものであると思った。小学校の時には 5 年生から本格的に相撲でも鍛えられ、
6年生の時には県の半分(南信)の大会で松本市の代表校として5人の団体戦で優勝する
ことが出来た(小生は次鋒、田舎の地方紙にも載る)
。更に自慢話を云わせてもらえば、当
時市内小学校対抗の体育大会(百、四百、重量運搬、幅跳び等)と称して5、6年生の選
手が出る競技会があった。小生は、5年、6年共百米A組に出て2回共1着でテープを切
ることが出来た。5年生の時に、14秒8、6年生の時は、病み上がりで14秒9であっ
た。
当時、中学に入学すれば必ず何か運動部に入らなければならない規則になっていた。し
かし時節柄、球技はすべてなく、代りに射撃、銃剣、滑空等があった。私は近所に陸上競
技部の上級生が居たこともあり、さかんに勧誘された相撲部を断って陸上に入部した。当
時、修養会という恐ろしい会があった。1 学年全部を合同教室に集め、周囲を 5 年生が囲
み、1 人 1 人順番に立上り、名前を云い、面通しをする。それぞれに注意(実は罵声)を
浴びせ、特に良くないものは「後まわし」と云われ、前に出され、更にしぼられた。例え
ば、その時に文句をつける口実には、欠礼したとか、
「貴様は女学校の前を通って学校へ来
たではないか」等、今から考えると全く理由にならないものもあった。小生に対するケチ
は、坐って(床に)いる時の態度が悪いと難クセをつけられ、罵声の的になり、危く「後
まわし」になる所であった。しかし、そこは私のクラス担当の5年生が救ってくれた。後
まわしになったからと云って鉄拳制裁を加えられることは、
絶対といって良い程なかった。
当時も同中学は、自由・自治の名の下、その修養会というのは学校公認であった。結局、
私へのいやがらせは、入部しなかった相撲部5年生のたくらみと後でわかる。陸上競技部
の5年生より相撲部5年生の方が力があったからである。時節柄、我々下級生は、農村へ
勤労奉仕のみで工場に出ることはなかった。戦時下で工場疎開が始まっていたとは云え、
松本にはそれ程工場はなかったのである。農村に行けば、午前・午後には「おこひる」と
云われるお茶の時間があり、おにぎり等が出るのが嬉しかった。各農家により接待の仕方
が違うので「どこどこは待遇が良い」とか悪いとか、食いざかりの中学生の間で話題にな
った。学校に戻った時には、先生達から「そのようなことは話題にしないよう」と注意さ
れもした。昭和19年9月に父は、陸軍司政官として昭南島(現シンガポール)に、姉は
昭和18年から東京の学校へ行ってしまい、我が家には母と妹(昭和17 年生)の3人暮
らしとなった。広島に原子爆弾が投下された時は「熱線爆弾」と報じられ、原子爆弾との
認識はなかった。その頃たまたま学校に登校した校長から「一部では原子爆弾であると云
われている」と聞かされ、初めて原子爆弾という言葉を知った次第。クラスの中でもその
方面に興味のある者は原爆を知っていて「原子爆弾とは…」と驚いていた。直ぐその日か
ら、校長より「それらに備えて休校にする」旨云われ、家で待機し終戦へとつながる。
春頃から毎日のように近くの飛行場から単座の飛行機が飛び立っていった。特攻機であ
ったのであろう。編隊を組み、高台にある我が校舎の上を低空で飛び、別れを告げて行っ
た。私達は屋上にあがり、喚声をあげ、手を振り、送ったものである。当時我々は、年令
も若く、軍国少年として教育されていたせいか、悲壮感は全く感じていなかった。今から
彼等のことを考えると想像以上のものがあったであろう。涙を禁じ得ない。月並みな云い
方になるが、現在の我々の生活(生命)は彼等に負っているとつくづく感じる。幸い戦災
にも原爆にも会わず、家財疎開でガランとした家で8月15日の天皇の放送を聞く。聞き
にくかったが敗戦はすぐに判った。
「耐え難きを耐え、忍び難きを忍び」が、印象に残った
からである。敗戦と共に柔道、剣道は、廃止、運動部もそれらに関したものはなくなった
(相撲部は残ったように思う)
。陸上競技部は活動を開始する。しかし、食糧事情は戦中よ
り戦後の方がむしろ悪く、私は栄養失調症で練習でも50米位全力疾走すると足の各関節
が痛くなり、暫く休まなければならない状況であった。
昭和21年に父が復員し、姉も卒業し、父と姉は、父の赴任地柏崎へ、私は母妹と学校
の関係もあり、松本に残る二重生活に入った。昭和21年の地区の陸上の中等学校大会は
3年生であったこともあり、補欠の又補欠で競技に出場の機会はなかった。大会での農学
校の連中の栄養(給与)の良さには、時節柄普通中学の我々には指をくわえ、羨望の眼を
もって見たものである。松本中学(現深志高校)の陸上競技部のOB会の天馬会には途中
転校した私も招ばれた時に出席している。現会長は藤森昭一氏(元宮内庁長官)であるが、
我が旧制松高1年生の白線帽姿とすれ違いで中学に入った私達は、勤労奉仕に行った村井
駅近くでよく見かけ、敬礼したことも思い出す。
昭和22年頃春松本を引払って柏崎に一家まとまる。柏崎の官舎は、石油王と云われた
内藤久
翁のサマーハウスで陣屋にあった。大きいことは大きいが住みにくい家で、巨大
な松林の中にあり、環境だけは抜群であった。柏崎中学校4年に転入する。特に運動部に
は入らなかった(旧制高校受験も考えて)。運動会ではソコソコの成績だったと思う。よく
軟式テニスをラケットを借りて遊ばせてもらった。秋以降、季節が悪くなると室内のバス
ケットかピンポン位しかなかった。何となくこせこせした2つのスポーツは余り好きにな
れなかった。この頃、私の100米の記録は13秒そこそこ、学校の競技部で県代表で行
った者でも12秒台だったように記憶する。同中学での何といっても収穫は、図画の国領
経郎先生と工作の伊藤豊(後に私の義兄の鋳金家)に出会えた事であろう。後に2人共日
展会友・審査員になり、国領先生は芸術院会員にまでなられた(2人共故人)。国領先生に
は私の絵は都度批評の対象になったのは誇らしく思っている。
昭和22年末、父は、飯田へ転勤を命ぜられ、私も柏崎中学に2学期しか居らず、飯田
中学に転校する。大火のあとの飯田市で、未だ官舎もなく、温泉・料亭の部屋を借りて住
付く。柏崎は風雪の地であったが、飯田は雪も殆んどなく、凍てついたグラウンドで初め
て体育でラグビーを始めた訳である。戦後直ぐの事で田舎でラグビーをさせるのは珍しく、
その時の体育の先生に追う所が多かった。その温田先生は、ニューギニアの生還組で原住
民とみまがうような色黒の先生であった。中学4年の3学期で旧制高校最後の受験を控え
る訳であるが、不純な動機から女学校への混声合唱の練習に加わるようになる。転校早々
から。当然の帰結として旧制松本高等学校理科入試には失敗する。
新学期からは、旧制中学に残った我々は、新制高校2年生としての生活が始まる。私に
は可能性はなかったとは云え、飯田中学から唯一人松高に合格した者が居り、羨ましく又
ねたましいものであった。松本中学の友人からは、その友人を含め4年生から14人も入
ったと聞き、私もそのまま居たらと思ったりもした。旧制最後に入った彼等も1年で終わ
り、新制大学に移行する。新制高校としての生活といっても今迄と大して変わるわけはな
く、実験など殆んどなく、ペーパー講義ばかりであった。体育は春先は陸上でハイジャン
プ、棒高跳等をやった。その頃未だ珍しかったベリーロールを教わり、160cm迄はク
リヤー出来た。棒高跳の記録は失念。例の温田先生のやり方は、合理的で陸上が終わると
サッカーそしてハンドボールへと進めてゆく。ハンドボールでボールの奪い合いが激しく
なる夏の終り頃からラグビーに切替わってゆく。
ラグビーと云っても先生は専門家であった訳ではなかったので、今から考えるとプリミ
ティヴなものであった。タッチライン、5ヤードラインもなく、ゴールポスト代わりにサ
ッカーゴールを想定し、スクラムもあまり組まず、ラインアウトも知らない位であった。
ただ走り、タックルすると云ったものが多かった気がする。運動靴などなく、素足で上着
をぬいだだけのアンダーシャツ姿である。タックルは面倒なので襟元をよくつかまれ(後
から)シャツの肩の両側が同じように破れていった。グラウンドでは、日の当たっている
所は黒く融けた部分はグチャグチャ、日陰の凍結した部分は白くカチカチと素足にはきつ
かった。泥だらけになった衣服もそのままに次の授業に向かうと云う戦後教育そのもので
あった。幸い私は何時もエイス的存在で、私に皆タックルするのは嫌であったようで、今
でも老人同窓会でその話が出る。大学受験に備え、運動部は、比較的負担の軽い軟式テニ
ス部に所属。休日には、女学生の1ペア、当方も男子ペアで1日中試合を楽しんだことも
ある。不純な動機で始めた混声合唱も卒業する迄続けた。運動会は個人としての記憶はあ
まり残っていないが、クラス対抗の400mリレーのアンカーとして2年の時優勝してい
る。いわゆる目立ちたがりやであったことでもあり、スターターのピストルは殆んど確保
していた。陸上競技は臨時雇で県南大会へはよく行った。高校2年生のとき、100m予
選で、12秒1で1位(その組で)であったが、日頃練習していないので2次予選になる
程記録低下、敗退してしまった。決勝の1位は、11秒7∼8あたりだったと思う。20
0mも同じような経過だった。高校3年の時は、同級生で1人400mの強い男が音頭を
取り、私もその仲間に引き入れられ、未だ珍しかった1600mリレーに出場。3分40
秒台前半で見事優勝した。毎年県南大会は、伊那北高のグラウンドで行われ、松本深志の
連中と顔を合わせるのも楽しみの一つであった。
学校の運動会で今でも思い出すのは、高校2年生の雨中での棒倒しである。絶対殴打し
てはならないというルールで始まる。私は攻撃側に加わったと思う。守備側のメンバーか
ら先ず1発パンチはくらう。私を殴った男は我々より年寄りでかっての上級生であり、恐
い先輩であったらしい。皆何となく敬遠していたようであった。転校生である私にはその
ようなコンプレックスはなく、
「何を殴打禁止ではないか!」とつかまえて投げ飛ばした。
それを合図に私に次々とかかってくる。棒倒しではなく取組合戦であった。片端から投げ
飛ばし、逆に数人掛で私も倒されもした。しかし、そのメンバーのものはつかまえて1人
残らず倒してしまった。小学校のときの相撲の経験がプラスしたと思う。結局勝敗は憶え
ていないが、シャツからパンツ迄泥だらけになってしまった。しかし思わぬ効果が現れ、
「鹿島は…」とその方面で一目置かれることとなり、残りの高校生活をエンジョイするこ
とが出来た。決して暴れたわけではありません。
高校卒業、大学受験見事失敗。旧制高校と併せて2回目の挫折を味わうことになる。そし
て浪人生活が始まる。その年、朝鮮戦争が始まり、9月には既に先に行っていた父の赴任
地長野へ家族と移住する。浪人生活をしているといわゆる受験勉強への逆作用として学習
本より一般本がやけに読みたくなるものである。その時出会ったのが、岩波新書、池田潔
の「自由と規律」である。英国のパブリックスクールに於ける彼の生活体験に基づいて書
かれたものである。当時も大分多くの人に読まれたようである。戦後安売りされた「自由」
というものへの反省も含めてと思われる。最近に日経夕刊の中にも政党人の記憶に残る本
としてこの本が挙げられていた。私もこの本に大いに啓発され、人生の糧になったように
思う。
そして大学に入ったら必ずラグビーをやろうと決心する訳である。
古びた同新書は、
現在も私の手許にある。
私とラグビー
森田
守
スタンドオフ
ラグビーを始めたのは、戦後昭和21年の
3月頃と記憶しています。終戦は、保善中学
2年の夏、昭和20年8月15日でした。ラ
グビーが復活したのは年末にかけてでした。
闘球班(ラグビーのこと)集まれのビラが校
内にはられ、その時にラグビーの強豪、伝統校であることを知り、昭和21年明け、当時
教頭先生(後の高校ラグビーの父といわれた高崎米吉先生)から我が校が、戦前、戦中に
連続で関東代表に、しかも夜間部学生が中心となって伝統を築いたラグビー部であること
を知ったのです。伝統を継ぐもの集まれと勧誘を受け、戦後スポーツのない時代であった
ときに友人と入部しました。
野球のボール投げくらいに思っていたが、練習をしてみると激しくぶつかり合い、倒し、
傷ができ、打撲をする、走ると足が痛くなったものです。楽な気で入部したが、苦痛の連
続でありました。まだ若年の我々にOBがていねいに指導してくれたものです。初めは我
慢しろ、馴れれば痛みはなくなるといわれ、我慢しているうちにその通りになりました。
すべてのスポーツはそのようなことを経験していくのだろうと思いました。その後は、面
白味が加わり、楽しくなってきたのです。
中学の3年の秋にはゲームに出られる様になりました。夜間部と合同練習をするには、
休日か夜でありまして、授業が終わってから、ライトのないグラウンドで手探りで練習を
したものです。灯りは、校舎内のハダカ電球でした。
今から60年も前のことであり、10月末ー11月は寒くなり、霜柱がたつ位で、しか
も練習着はなく、シャツのまま、履くものはなく、良くて地下タビ、長グツ、あとはハダ
シ、しかもジャリの敷き詰めたグラウンドの上で走り、スクラムを組んだのです。ほとん
どの部員がそうであり、スパイクは全くなかったのです。そんな状況の中でめげずに練習
をし、チームワークを保ったのですよ。
伝統あるチームは、基はしっかりしているのでOBの絶大な尽力もあり、夏の合宿も出
来る様になり、関東地区でトップを行くチームに成長しました。物質的には恵まれない時
代によくこれまでになれたと思っています。それから10数年高校ラグビーの全国の覇者
として君臨したのです。
武惑チームが出来たのは30年前、初代青野会長のもとで結成されました。私は、40
代半ばで、まだ上の人が10数人おられたころでした。武惑クラブが関東一円の各クラブ
とゲームをしたり、試合後に酒をくみかわして交流を深めています。若いときからの知り
合いも数多くいます。タテ、ヨコを通じての密接な関係のある方々ばかり、これだけの友
人がいたのかとキズナの強さ、深さを知りました。
群惑には高校、大学の後輩がいて、その紹介で三洋チームとゲームをしたこともありま
した。高校の後輩の同期にあたる名手山口さん、大学の後輩の元全日本の天明さんがいま
す。ゲームをしたり、コンビを組んだり、有意義な時を過ごしています。
山梨には、高校時代の思い出があります。都内で選ばれたチームを作り、私もぶどうた
けなわの季節に甲府に遠征に行きました。キッカケは、私のOBが甲府市内に住んでいて、
高校の先生に話をしてくれて実現したのでした。ゲームは、一勝一負、相手は甲府高校、
甲府工業高校でした。他校で同行したのは、青山の平林さん、高橋さん、成城の松尾さん、
いずれも後に活躍された方々です。その時のキャプテンは、私でした。又、山梨農林高校
で、高校の春の合宿練習も行いました。房惑には、松戸自衛隊チームの創部の頃、大学の
後輩が何人かいて、松戸自衛隊強しの基礎を作りました。
又、越谷クラブが創立してまもなく、武里クラブと合同でゲームをしたことなど、今で
も当時のことを多くの方々と語り合って、交流を深めています。
茨城は、高校の時の思い出としては一番強いものがあります。当時関東の高校の中では、
最強といわれた水戸農業高校と東京国体予選の決勝で対決したときは、勝てる自信はなく、
予想としても水農有利でした。結果は、同点6:6でした。当時のルールとして、同点の
場合は、ペナルティの数の多少によって少ないほうが勝利と規定されていたので、優勝と
なり、国体関東代表となったのでした。
東京不惑には、多くの友人と後輩もいて、故人となられた先生の追悼試合をするなどの
交流があります。
神惑、東海不惑、新潟にも数多くの知人後輩がいて、全国不惑大会、関東甲信越大会、
定期戦などを行い、多数の方々と交流をしてラグビーを楽しんでいます。
ラグビーには、先輩、同期、後輩のタテ、ヨコの壁もなく、同じ立場でゲームをし、昔
を偲んで話ができるので、幸せと思いながらラグビーに通い続けております。
私とラグビー
谷中
誠
フッカー
私も一昨年から黄色のパンツをはい
て、ラグビーの練習や試合に仲間と一
緒にプレーをすることができ感慨深い
ものがあります。
学生時代にラグビーを仲間とプレー
をしたことがあったが、卒業してから
はなかなかプレーをする機会はなく、
後になり越谷クラブの人達とラグビー
を一緒に楽しむ仲間ができてから間もない頃、武里クラブが東京不惑クラブと対戦する話
を聞き応援に行ったら、年代別にパンツの色を変えてプレーをすることを聞き、ずいぶん
高年令の方々でも頑張ってプレーをされるのだなあと感激した記憶があるからです。
それが今日、私が白・紺・赤から黄色のパンツを穿いてラグビーを楽しむことが続けら
れる事に感慨深く感じるからです。
まことに良い仲間を得て、交流をすることができたからだと想います。
私がラグビーを始めたのは、多くの方々より遅く21才になってからです。
私が育った時代には太平洋戦争があり、敗戦後は教育制度の変換があって、私達の一学
年先輩の人達から中学進学が義務教育化され、中学は5年制から3年制に変わるなど社会
が大きく変わる時代でした。その上私が受けた医学教育課程も、大学教育の初めの2年間
の教育課程から後期4年の専門課程に進むには入学試験を受け直さなければならない制度
であったので、教養課程の時期に部活動を楽しむ余裕はなく専門課程に合格してから部活
動を始める状態でした。
私は中・高校生時代に運動部に入ったことはなかったが、大学の同級生のなかには高校
時代に運動部で活躍したことのある人達がおり、大学進学の3年目の専門課程ではすでに
先輩が作った部活動に加わる人がいる他、同級生のなかに新しくクラブの結成を企てる人
がおり、そのなかにラグビー部の結成を計画した同級生がいました。私も参加を誘われた
が私の学んだ高校にはラグビー部はなく、試合もみたこともなかったので、同級生のなか
で高校時代にラグビー部に入っていなかったが、ラグビーの試合・練習を見た事がある人
達と相談して、ラグビー部結成に加わったのが私のラグビー参加の一歩で、21才からの
スタートとなります。
当時医学部関係の対戦相手は関東医歯薬リーグがあり、医学部が4大学、薬学部が1大
学で構成されており、私達の順天堂大学が加わって6大学となりました。
当時私達の大学は医学部一学年の学生定数は40名で、教養課程は体育学部の所属なの
で医学部同士の対戦には、教養課程の学生は加われず、少ない医学部の学生だけでメンバ
ーを組む状態でした。
既存のクラブと掛け持ちでラグビー部に加わることになりました。
ラグビー部結成を企画した友人は指導力よろしく少ない部員をまとめ、ラグビー競技を
宜しく指導し、プレーができるようになると医歯薬リーグに加入して、その年には第3位
になることができた。
その後は新潟大学医学部チームとも定期戦を組むことにもなり、私は最終学年まで部活
動を続けたが、その頃に対戦相手となった人達と今でも交流が続き、プレーばかりでなく
医師としての職務上の協力もあります。
Over40のチームにもその頃対戦・交流したメンバーがおり、交流が続いています。
医師となってから私は大学で教員ともなり、学生に実習の指導をしたり、大学病院に勤
務をしていたので、後輩の医師や学生とも交流を続けていたが、ある時後輩の医師から某
医薬品メーカーの営業員が会社のラグビー部に所属しており、その会社のチームと順天堂
大学医学部 OB チームと秩父宮ラグビー場で対戦する話が纏ったので参加しないかと誘わ
れたので、秩父宮ラグビー場でプレーできるのならと思い試合に参加した。試合の結果は
覚えていないが、順天堂チームの最年長者としてプレーを楽しんだ。
いい気分で帰宅すると私の末弟の信之が、私がプレーしてきたと話すと「兄貴いいかげ
んにしろよ、いい歳して怪我でもしたらどうするんだ」と云いました。私は当時37、8
才、弟は20才台半ば位だったのでしょうか。弟は高校からラグビーを始め、大学は日本
大学ラグビーに入っていましたのでラグビーを十分に体験したことのない中年親爺が怪我
をしたらと考えるのは当然だと思いましたが、私は兄貴の見栄で「アマチュア・スポーツ
は生涯スポーツで楽しむのだ」と反論しました。弟は大学を卒業してからはラグビーから
離れており、当時は越谷市のスポーツ教室に通い、トランポリンなどをやっていたようで
す。
そこでラグビーの話になったらラグビーのプレーをしたくなったのでしょうか、市役所
に行き、市の公報にラグビー同好者の募集を依頼してきたそうです。そして間もなく公報
の係の人からラグビー同好者募集案内に問合せがあり「その問合せの人の声からすると年
配の方のようです」と連絡が入り、弟は年配の方となったら「兄貴、その人達と逢ってく
れ」と云うので、私がその人達と市役所のロビーでお目にかかったのが、森田、元山先輩
のお二人でした。
弟は若い人達を集めてラグビーを始めたいと思っていたのでしょうか、そこに先輩方が
現れたばかりでなく、その後若い人達が多く集まってきて越谷クラブの結成をすることが
できました。
その後前述のように武里クラブがあり、武里クラブと不惑クラブの対戦があると聞き応
援に行ったら、色違いのパンツの話を伺って感激した次第です。
その不惑クラブには大学で一緒にプレーした小野陽二君が加わっており、不惑クラブへ
加入を誘われました。
小野君はラグビーのプレーをするばかりでなく、関東ラグビー協会の試合中に受傷者の
手当てをするグラウンド・ドクターもしており、彼に誘われて私もグラウンド・ドクター
として関東協会や埼玉県協会の手伝もするようになりました。
そうこうしているうちに別の友人の薦めで日本協会のスポーツドクターの研修を受け
資格も得て、埼玉県体育協会でスポーツドクターとして行事に参加することになり、ボク
シングやサッカーなどの競技場へ伺ってドクターとして参加するばかりでなく、それぞれ
の競技のおもしろさや運動能力の相違など勉強させてもらいました。
その後シニアの世界大会であるゴールデンオールディズ・ラグビーフェスティバルにも
参加することができ、外国のラグビークラブのグラウンドや設備が充実していること、プ
レーばかりでなくメンバー同志・家族を含めての交流のすばらしさなど体験できたと思い
ます。
私が弟に云った「アマチュアスポーツは生涯スポーツだ」の実践を体験し、そこに係わ
る人達・社会を見学でき学んだと思います。
ラグビーを始めて50年、いい仲間にめぐまれて交流し、体験ができてすばらしい50
年間であったと思います。
まだ体調に気をつけてすばらしい仲間との交流を続けたいと思います。
私とラグビー
井上
久也
バックス
私が高校(京都府立嵯峨野高校)一年の九月
ころ友人の薦めでラグビー部に入部致しました。
嵯峨野高校は旧嵯峨野高女で女子高でした。確
か昭和二十四、五年に新制高校制度により男女
共学の高校になり、私は第五回生でしたが先輩
達の努力で京都の高校の中ではすでに上位にあ
りました。したがって毎日の練習も激しかったと記憶しています。特に三年生の春に当校
の体育の教師として赴任された先生が当時の教育大学、今の筑波大学でラグビーをされて
いた現役でしたので、今から思うと私達を指導するのが楽しくて仕方がなったのではと思
います。お陰で我々はその犠牲?になったようですが、そんな激しい練習が今では良い思
い出です。三年生の全国大会京都府予選決勝戦に望んで洛北高校に惜敗した時は本当に残
念で涙が出ました。卒業後は就職して二年目に東京へ転勤し、ラグビーとは全く縁が切れ
ました。その後息子が中学生のころラグビーに興味を持っていたところ、越谷にラグビー
のチームがあることを知り、息子を連れて行きました。そこでボールを持って走っておら
れたのが森田さんであり、元山さん、谷中さん兄弟でした。その姿を見ると三十年近く忘
れていたラグビーが私の心を動かしたのです。それ以来今日までいろんな方との出合い、
励ましで現在に至っています。その間武惑クラブにもお世話になりました。中でも今から
二十年位前越谷クラブで京都に遠征に行き、嵯峨高校のOBチームと試合した事、それに
楽しい想い出は嵐山で屋形船に乗り、その中で料理を前に飲んだお酒は今でも思い出され
ます。今武惑の方で森田、元山、谷中、村、茂手木、照井の方々も同行されていたと記憶
しています。
武惑クラブに於いてはいろんな所に遠征に行き、又群惑のお世話でアメリカ、
サンディエゴに行けたこともラグビーをしていた為と感謝しています。
ラグビーに縁があって、約半世紀余りいろんな方々と出合いがあり、私は今後の人生に
も大いにプラスになったことを感謝しています。今後も体の許すかぎり続けて行きたいと
思っています。
ラグビーとの出会い
茂手木健治
バックロー
ゲームが中断された。1 人の選手を囲んで味方の選手が衝立のように立ち並び、中の選
手は見えなくなった。しばらくすると輪の中から試合中に破かれたパンツが弧を描いて投
げ出され宙に舞った。スタンドからは笑い声と共も拍手が起こった。そしてゲームは再開
された。 その頃は現在のような化繊は無く木綿の生地のパンツだったので、よく見られる
ゲーム中のシーンであった。
そんな時代の高校2年生の春にラグビーと出会った。
在学した高校は、横浜市立商業高校(横浜では通称Y校と言う)の普通科が独立し、新設
の横浜市立南高校となった2年目の2回生の時であった。
新設校だからクラブ活動も野球、
柔道などのわずかな部が活動していただけで、当初は1年生の時たまたま担任が弓道部の
部長だったから弓道部に籍を置いていたが、運命の出会いは2年生の春に名門岩手県立黒
沢尻工業高校から元ラグビー部員の転校生がクラスメイトになった時からだ。
その彼がまずクラスメイトにラグビー部の創設を呼びかけ、他のクラスと1年生を仲間
に入れてスタートしたのであった。
学校自体は新設校と言っても新たな敷地から校舎が作られたのではなく、横浜中華街の
入り口(JR石川町駅側)に夜間専門校の港高校に昼間だけ間借りしていると言う状態で、
後発クラブの悲しさでグランドもなく、狭い校庭で野球部の外野のキックもランパスも出
来ないスペースで練習させてもらうような状況だった。なんとか広い場所を確保しようと
周囲を見回すと見渡す限りの空き地はたくさんあった。
昭和20年の戦災の廃墟がたくさん残っている昭和30年代の横浜の市街地は、廃墟が
まだ整備されておらず、土より石や砕かれたコンクリート片の方が多い空き地ばかりだ。
グランドとは程遠い空き地でその中でも比較的練習出来るところが、現在の横浜市役所
庁舎を含む一帯だった。だから最初のうちは練習開始前には石やコンクリート片を少しで
も除去することだった。あの頃のラグビーシューズは全て牛革製で、ポイント(現在はスタ
ッド)も裏底も皮製で、ポイントは底皮を3枚位重ねて釘で打ちつけ三角錐形に削ったもの
だったので、土より瓦礫の方が多いから1週間も持たず皮は直ぐに減ってしまう。釘だけ
が残った状態で踏まれると肉まで削り取られた。
しかしこんな環境で監督もコーチも居ない全くの手作りのラグビーだったが、チームが
組める人数は集まっていた。
こんな手作りラグビーから始まったラグビー人生だが、近畿大卒業後一時期中断はした
けれど 黄パン が穿ける今日まで続けられたのは、良き先輩、春日部クラブ(旧武里クラ
ブ)や武惑クラブの良きチームメイトに恵まれ、家族の理解があったからだと感謝していま
す。
ラクビーの思い出
茂木
勝彦
フォワード
私がラクビーを初めたのは中学 2 年の時、近所にラクビーやっている人に勧められはじめ
ました。はじめたと言っても当時ラクビー部のある中学校は浦和でも2校 原山中学校と
常盤中学校だけと聞いていました。入部はしたが部員は5∼6名で廃部寸前、練習らしい
練習は1度もなくただボールで遊んだだけと言っても良いと思います。1ヶ月後には、完
全になくなったと思います。
(記憶が定かでない)
高校1年
高校(市立浦和商業)に入り水泳部か柔道部に入るつもりでしたが近所に住んでいた先
輩のOさんに強く勧められラクビー部へ顔だしたらそのまま練習に参加させられ、否も応
もない、その年の新入生第1号となりました。当時週 5 日制で練習は放課後、遅くまでや
った記憶がありますが内容はランパス以外あまり覚えていません。5月に右足の肉離れ、
足首の捻挫で5∼8月までは練習を見学し夏合宿も不参加、9 月から練習に参加できるよ
うになりました。練習はランパス、スクラム、セービング、タックル等基本的なものばか
りでルールもなかなか覚えられず苦労しました。
秋には練習試合に何試合か出させてもらった記憶あります。どの学校かは覚えていませ
んが都内の学校でした。この年の浦商ラクビ−部の公式試合成績は熊谷工業高校に勝てず
2位、3位が多く大宮競輪場で決勝戦をやった記憶もあります。
正月を過ぎると新人戦があります。これは総当り戦で 3 位まで入ると関東大会に出場と
いう特典もありました。当時埼玉県は熊谷高校、熊谷工業、浦和高校、浦商、深谷商業、
本庄高校の6校しかありませんでした。
1年先輩のプロップが練習に出てこなくなり急遽、
私がかわりに「1番でスクラムだけがんばれればいい」と言われ全試合に出させてもらい
ました。印象に残っている試合は公式戦初試合
深谷商校戦で熊谷商業高校グランドでし
た。物凄く寒い日で砂利まじりの硬いグランドで倒れれば必ず傷が付く、グランドの中央
にマンホールもあった。ボールを持ったら前に走れ、相手がボールを持って走って来たら
当たれと言われたとおりに相手に当たったら相手が倒れ脳震盪を起こして救急車を呼ぶ騒
ぎになり自分は試合途中から何をやったか判らなくなった、他に負傷者も出て後半途中で
打ち切ったのが始めての公式試合でした。それから最終戦は浦和高校と浦商のグランド、
これに勝てば3位確定という試合をゴールキックの差で負け関東大会に行けませんでした。
関東大会の開催地は水戸だった思います。
新人戦が終わるころには同級生の部員も増え1年の終わりまでに10人以上の部員いたと
思います。
2年
学徒大会(春)
、国体予選の成績は覚えていないが全国大会埼玉県予選は決勝戦で熊谷
商業高校と浦和高校のグランドで行い最後に逆転トライされ惜敗。最後のトライは回りこ
む
際にデットボールラインを出ていた、出ていないで大モメしたが結局判定そのまま、悔し
い思いをした。
この悔しさをバネに新人戦は絶対に勝とうという合言葉で冬合宿を大宮公園の文化セン
ターで行い、走りこみでスタミナを養成し、新人戦は5戦全勝で優勝、関東大会へ出場し
ました。関東大会は甲府で東京の日本学園と対戦0対33で負け全国レベルの力をいやと
ゆうほど知らされた。日本学園のSOは明治大学の北島監督の息子さんで互角の勝負が出
来たのは前半10分ぐらいまで、後はいい様に走られました。また開会式に並んだ時、他
チームはみな大きく我々と同じぐらいの体格は群馬の高崎高校ぐらいでした。
3年
3 年になると部員が増え同学年だけでも多い時は20∼25名になりいろいろなチーム
と練習試合を組みました。三井精機(桶川)自衛隊(古河)高校では宇都宮農業高校
教高校,早稲田学院 法政一高
立
都国立高校、都大森工業高校等でした。 東京のチーム
は洗練されたチームが多く、試合の駆け引きがうまくルールを良く理解し、ラクビーを良
く知っていた。夏合宿は東松山で行い、ただ走るだけ、試合相手がいないため基本練習に
明け暮れていた。新人戦前の合宿も大宮公園の 2 年の夏合宿も同じ場所で行ったが練習試
合の相手はいなかった。若手OBが来て試合形式で練習した程度で今考えるとスタミナの
養成に重点にした合宿でした。普段の練習もランパス
スクラム等の基本練習が中心で秩
父宮ラクビー場へ試合を見に行きそれを参考にして自分たちなりに工夫していた。監督も
仕事が忙しく 1 週間に 1~2 度程度指導に来てくれました。
学徒大会(春)国体予選(秋)は熊谷商業に負けいずれも 2 位でした。全国大会は熊商に
勝ち埼玉県代表となり群馬県代表桐生工業と東京練馬の中央大学のグランドで行いました。
スパイクが潜るぐらい悪いグランドで後半スクラムをホイールされスクラムトライ、0 対
3 で負けました。正選手一人(ロック)が遅刻したため万全なスクラムが組めなかった(当
時は途中交代できなかった。
)ことと自分たちは熊商に勝ったことで自信過剰気味になり相
手をなめていた。桐生工業高校は花園でベスト8まで進出していた。
卒業後浦商OBクラブで 1 年ぐらいプレーしたが仕事の都合で参加できなくなった。
武惑クラブ
約 20 年の間ラクビーから離れて、新聞でラクビー記事を読むくらいであまり関心もな
かった。ある日、突然先輩が家に訪ねてきてラクビーをやらないか浦商OBクラブを立ち
上げる、いちばん暇そうだからお前が事務局をやれ、断り切れず引受けOBを召集した。
第 1 回は 30 名弱集まりチーム名も浦商ラガーと決め練習開始、第 2 回、3 回、4 回と回を
追う毎に人数が減り最後は数名だけ発起人の先輩も出て来なくなり自然消滅した.折角や
る気になったのに残念だと思い後輩で会社のチームでプレーをしている者が2∼3名居り、
その者連絡を取ると 40 歳以上のチームで武惑クラブと云うチームで私も入っているので
紹介する。土曜日に戸田で試合があるから見学に行こう。次の試合日はローデムパークに
行き入部した。試合は月 1 回。仕事の都合がつけば必ず試合にいった。最初は試合に行っ
てもメンバーが足りず他チームから助っ人を借りて試合をすることが多かった。武惑クラ
ブの試合のないときは埼玉大学のグランドで浦和クラブが練習をやっているから試合のな
い時はそこで練習すればよいと西さんに紹介され浦和クラブにも入会しました。浦和クラ
ブでは県南リーグや他のクラブチーム等の試合に出させてもらいました。武惑クラブでは
年間 10 試合、浦和クラブでも同じくらいの試合数出たと思います。その後自分の職場に
もラクビー部ができそれにも参加する。武惑クラブ
浦和クラブ 東京消防庁ラクビー部
の3チームに参加しました。この状態を定年まで続けました。定年後は武惑だけになり今
日に至っています。入ったころの武惑は弱いチームで年間 1 回も勝てないこと事もあった
が、しかし、この武惑クラブで大勢の人と知合い友達なり、また遠征先では違った職種の
方や経験豊富な人生を歩んできた先輩にその経験談や
できた道とまったく違った環境の人との知識
技術
ラクビー談義を聞き、自分が歩ん
経験を知り得たことは大変有意義で
あった。今までの人生にない豊富な経験をさせてもらった。このクラブでなければ行けな
い各地のグランドでプレーが出来、友人も、思い出もいっぱいの人生を送れ幸せです。
白から紺になるときもせめて赤いパンツをはいてプレーしたいけど無理だろうと思っ
ていたが、現実には体力が低下しているが赤をはいてプレー出来ました。あと1年で黄色
パンツになる
はじめたときから考えると夢のようだ。2006年3月に脳梗塞でチーム
に多大な迷惑をかけましたがこれからも以前に増して健康に留意して黄色パンツをはいて
プレー出来るよう努力したい。
私とラグビー
瀬田隆二
フォワード
40歳の時、会社の取引先の方に誘われて
越谷クラブに体験入部しました。私が最初に
感じたのは初練習の時、森田さん、元山さん、
谷中さん、井上さんたち大先輩と、20代、
30代の人たちが一緒にラグビーを楽しんで
いるという事でした。後で聞くところによる
と、白パン40代、紺パン50代、赤パンは
60代ということでした。40歳以上は武惑
倶楽部に登録されるということでした。50、60代ではラグビーという激しいスポーツ
の試合に出るのは無理ではと思いました。
私は、1∼3ヶ月位練習に参加できれば良いと思い参加してきました。1∼2年過ぎた
頃には目標は紺パンで試合に参加出来ればと夢のようなことを思うようになりました。
ある試合の時、左脚を大怪我してしまいました。歩けても走る事は出来ないのではない
か?という時がありました(これ以降走力は落ちました。
)
顧れば、今までラグビーをやってこれたのは武惑倶楽部に情熱を燃やしてきた会長をは
じめ、先輩たちと仲間に励まされ、助けられ、怪我をした時妻にも助けられたおかげだと
感謝しています。
ラグビー万歳!!
夢の夢である黄パンまで頑張るぞ!!!
私とラグビー
(素人軍団と監督さん)
入江
哲彦
バックス
私は昨年40余年の会社生活卒業を機に当クラブに入会させていただきました赤パン新人
です。私とラグビーの出会いは大学に入ってからですが今でも「あのチームで、あの仲間
達と、あの監督さんのもとで」ラグビーに明け暮れた4年間を過ごしたことは自分の人生
にとって大変幸せだったと思っています。
入学した大分大学経済学部は旧制高商系で実質単科大学(教育学部は離れた場所にあり授
業やクラブ活動等別運営)で全校生600名余。その内1/3の約200名余(ほぼ全員が
九州各県出身者)が大学敷地内にある学生寮の寮生というユニークな小さな大学でした。
全ての部活動も経済学部単独チームでしたので部員獲得は大変でした。
経済学部ラグビー部は九州で最初に出来た(大正11年)ラグビー部という伝統はありま
したが低迷の時期が続き私が入部した頃は4年前から新たな監督のもとに本格的部活動を
再開しその再興中でありました。ラグビー部は常時25名前後で1∼2名の地元通学生を
除き全員が寮生であり当時はチーム全員(4年生∼1年生)が大学入ってから初めてラグ
ビーを始めたという集団でした。
(寮に新入生が入った時に同じ高校や同じ郷土の一年生に
酒の飲ませながら体格の是非を問わずラグビー勧誘し本人が翌朝目が覚めたら枕元にジャ
ージが置いてあり仕方なく練習に顔を出したのが運の尽きという連中が殆ど)
。この状態は
私が卒業するまで変わらず。
従って我々ラグビー部はメンバー全員が初心者からスタートし4年間寝食・苦楽・
(勉学?)
を共にしながらラグビー一途の学生時代を過ごせた珍しいラグビー部かもしれません。
お陰で結束も固く今でも OB は兄弟のような付き合いが続き現在も3年毎の OB 全国大会
には90名前後が参加し旧友を暖めております。
このような素人軍団ではありましたが練習の成果もあり九州の他の大学とも伍していける
ようになり2年連続九州インカレ大会で準決勝戦に進みあと一歩で瑞穂の「全国地区対抗
大学ラグビー大会」でしたがいずれも鹿児島大学に惜敗し今でもその時の悔しさが思い出
されます。
こうした素人軍団をまともなラグビー部に育てていただいたのは武田さんという監督さん
を抜きには考えられません。大学・ラグビー部の大先輩でありますが別府で個人事業のか
たわら手弁当で我々にラグビーのイロハから理論まで情熱を持って指導いただきました。
夕方ようやく練習が終わる頃監督の車がグランドに現れるとゾッとしたものです。
それからもう一度月の明かりを頼りに徹底した練習のやり直しで鍛えられました。
上級生になるとよくご自宅に呼んでいただき夜遅くまで奥さんの美味しい料理と酒を飲み
ながらラグビーの精神や理論と人間としてのあり方等論じ合ったものです。
常に我々に言われていたことは「ラグビーは紳士のスポーツである。従ってラガーはラグ
ビーにおいても社会生活においても常にジェントルマンシップを持つこと」でした。
私自身社会人になっていろいろな局面で常にこの監督の言葉を思い出しながら自己反省ば
かりでした。現在ご自宅で病気療養中ですがいつまでもお元気で我々後輩をご指導いただ
きたいものだとご快癒を念じております。
その後大学は新たな場所に各学部を集約した為私達の学び舎とサッカー部・野球部と入り
混じって汗を流したグランドは今は無くなって一抹の寂しさもありますが今回武惑クラブ
に入らしてもらいましたのでもう一度青春時代に戻ったつもりで大いにラグビーを楽しみ
たいと思っています。
以上
ラグビー人生に悔いなし
吉村秀清
ハーフ赤パン 53 番
赤パン組、背番号 53 番、つまり、
「武惑の
53(ごみ)
」の吉村です。
さて、この記念すべき 30 周年の時期に、
準会員として仲間に入れていただきました。
よろしくお願いいたします。若干の自己紹介をさせていただきながら私のラグビーへの思
いを語らせてください。
私のラグビー人生のスタートは 16 歳ですので 44 年になります。ラグビーとの出会いは
高校生のときでした。高校は福岡高校(福岡県)です。授業で体験したのが最初でした。
高校時代はラグビー部には入ってはおりませんでしたので、本格的に始めたのは鹿児島大
学に入学してからになります。ここから既に運命的なものがありまして、武惑クラブの元
山会長は大先輩になります。当時の鹿児島大学は、全国地区対抗大会で優勝するなど目指
すは大学選手権出場でしたので結構厳しい練習でした。現役時代はスタミナがなく、毎日、
もう辞めようと思っていましたが、それがなぜか今日まで続ける人生を歩んできました。
大学卒業後は、大学の先輩にお世話いただき3つのチームに入れていただきプレーを続
けました。そのうちの1つが「水産ラガー」という全国の水産学部卒業生で構成している
チームでして、武惑クラブとの出会いはこのチームということになります。元山会長、矢
和田さん、西山さんもこのチームのメンバーですが、武惑クラブとの定期戦では敵になり
ますので、引き続きよろしくお願いします。
2 つ目のチームは、水産会社の極洋捕鯨(現、極洋)という会社のチームで 37 歳までプ
レーさせていただきました。
それから、39 歳のときから川崎市にある「麻生ラグビースクール」に長男を入校させた
ことからコーチとしても関わり、20 年余にわたってコーチや運営に務めました。途中で川
崎市から現在住んでいます茨城県守谷市に転居しましたが、当時のラグビースクールの校
長が運悪く私の大学の先輩であったこともあり、毎週、茨城県から神奈川県まで日曜日に
通う羽目になりました。その総走行距離は 20 年間でほぼ地球を 3.5 周した計算になりま
す。今から考えると、よくやったなと自分ながら感心しますが、やはりラグビーが大好き
だったということなんでしょうね。
ともあれラグビースクールでの経験は私の人生にも大きな宝にもなりました。子供たち
に教えているつもりが、逆に子供たちから教わることのほうが多く、また、感動を味合わ
せてくれた子供たちに感謝しています。卒業生が高校や大学、そして社会人へと進み、そ
うした子供たちの試合を見に行くことも私のラグビー人生での大きな楽しみになっていま
す。その子供たちと数年に 1 度、会合を持ちますが、みんな立派な青年に成長し、子供た
ちの顔を見るだけで私の涙腺は緩みっぱなしです。特に、当時、素行が悪く私を悩ませた
子供が、私の前に来て直立不動をすると、言葉もかけることができず、ただただ頷いたり、
手を握り締めたりするだけと、実にみっともない態度となります。歳をとってくると余計
にその傾向がひどくなり、恥ずかしい限りなのですが、ラグビーをやってきたからこそこ
うした素晴らしい体験を味わうことができ、ただただ感謝しています。そのほかにもラグ
ビースクールでは実に多くの経験をさせてもらいました。コーチングの方法等についても
夜中まで議論したこともありましたし、本当はあってはならないことですが間違った指導
をするコーチを首にすることもありました。たかがスクール活動なのですが、されどスク
ール活動でもあります。武惑クラブの皆さんも一味違ったラグビーを味わうことができる
スクール活動に関わられることをお勧めします。なお、私のラグビースクール活動の一端
をまとめた記録が、「ボランティアへの招待」(岩波書店)に掲載されています。ご希望の
方はコピーですが差し上げますので遠慮なくお申し出ください。
さて、昨年には還暦を迎え、ラグビースクール活動も一区切りつきましたので、少しは
自分のプレーを楽しみたいという思いで、この度、本クラブに参加させていただくことに
しました。もはや赤パンですから大したことはできないと思いますが、楽しいクラブに少
しでも尽力したいと思っております。
私は、よく 70 歳以上でプレーを続けておられる方々に以下のようなことをお尋ねする
ことがあります。
「ラグビー人生に満足していますか?」という質問です。これに対して、
実に多くの方が、
「これまでラグビーをやることができて本当に幸せだよ」というお答えが
返ってきます。普通の人からはなかなか「人生に満足」ということは返ってこないことを
考えると、こんな素晴らしいことはないですよね。高齢になるまでラグビーをやれること
ができる身体を授けてくれた親に感謝し、家庭を省みず家をあけることを許してくれた妻
に、そして多くの仲間に感謝することを忘れてはなりません。ともあれ、私も先輩方のよ
うに「わが人生に悔いなし」と胸を張って言えるように武惑クラブでのプレーを楽しみた
いと思います。皆様、よろしくお願いいたします。
邂逅のラグビー
斎藤
徹
バックス
おとこの寿命は百二十歳だという。その中間点
の六十二歳でラグビーとの邂逅があった。私は平
成15年に退職して、五ヶ月の失業給付を受けた
のち、自宅より十分程のところに立地する工業大
学へ、週六日の労働をするかたわら、旅行、趣味、山登り、介護のNPOに加入して、ヘ
ルパーとして老人ホームへ慰問などをする日々であった。
ある日、いつもみない市報をみていたら、武惑がラグビーの研修があるという記事をみ
て、痴呆にならないためには、新しいことをするのが一番ということなので参加を決意。
研修があったのは、忘れもしない八月の日曜日、その日は天高く快晴であった。
大原のグランドに足を踏み入れて驚いた。目つきの鋭い、筋肉もりもりの男の群れ。こ
んな戦闘員のようなお兄ちゃんと対等にラグビーができるのだろうかと弱気になった次第。
ラグビーについての知識は
ノッコン
という一つの単語しか知らず、私の年齢は六十二
歳、身長百六十二センチの短躯にすぎないが、未知の世界に挑んでこそ男の甲斐性と入会
を決心。
元々清冷な空気を好み、山あるきが好きで、屋外活動を好み、緑の芝生を自由奔放に走
れる魅力にひかれて入会を決めた。無一文の私も練習に参加させていただいて、諸先輩の
心暖まる人間的ふれあい、ゆきとどいたご指導をいただいたことを心底お礼申し上げます。
また当会は、魅力的、個性的な人材が豊富で、学生・社会人時代の有名選手を数多くよう
し、また出身地も南は桜島で知られた鹿児島から北方領土に近い釧路まで網羅する、まさ
に全日本を代表するラグビー集団である。武惑の感想を言えば、試合で負傷したプレーヤ
ーが治療をおえて不死鳥の如く復帰してグランドに立つその姿は感動的で身震いをする、
きっと楕円形のボールに自己の人生を投影しているのではないだろうか。また若くして他
界したプレーヤーの葬儀には全員が参列するという、まことに、人生的・生涯的絆で結ば
れているのであろうか。義理と人情にあこがれるわけではないが、人生には一宿一飯の恩
義がある。
私も、武惑については、登山の山中で偶然にも早世した旧友に会ったような邂逅を覚え
る。武惑には、三十年の永久不滅の伝統があり、更なる発展を期待したいとの念いがある。
トウシロウにすぎない私も会のため一石一木を投じたいとの念いである。蛇足が長くなっ
てしまったが、最後に私が敬愛する良寛和尚の名句をお知らせして終了する。その句、 焚
くほどに風が吹き寄す落葉かな
ラグビー魂に幸あれ!
酷暑の中で
西山與四郎
バックロー
あれは8月10日の日曜日だった。
その試合の内容はまったく覚えてい
ない。南国特有の濃緑色の厚めの葉
を茂らせた大きな木がグランドを取り囲み、下は少し長めの芝がきれいに生えそろい、その芝の下
の粘土質の泥は雨季の長雨でぐちゃぐちゃになっていたことは覚えている。それにしても暑く、蒸
し風呂のような気候は今までに経験したことがない息苦しさを感じさせ、頭がボーとなり何をして
いるのかわからなくなっていった。おまけにチームメイトはイギリス人の中にフランス人、アメリ
カ人、インド人が数人そして唯一の日本人と多民族の混成チーム。相手は BK でも腰周りが、私の
2 倍もあるようながっちりした体躯のインド人のチーム。後半が始まってすぐ吐き気を催し頻繁に
タッチラインに走っては、吐きながらの最悪の試合となった。少ないとはいえ、相手チームの応援
団が並ぶタッチラインでゲーゲーやるのはなんとも惨めなものだ。ノーサイドの笛がなったときに
は口も聞けぬほど体力が消耗し、ぐちゃぐちゃのグランドに座り込んでしまった。まるで病み上が
りのように頬がげっそりと凹んだのを鮮明に覚えている。
1975年8月2日、私が乗ったスカジナビア航空のジェット機は羽田を出発しフィリ
ピンからインドシナ半島を大回りしてカルカッタのダムダム空港に着陸した。カルカッ
タは、インドの東の端にある西ベンガル州の首都である。かっての東ベンガル州は東パキ
スタンになり、今はバングラデシュだ。カルカッタの中心部には重厚な総督府の建物がそ
のまま残っており、イギリス統治時代の面影を色濃く残す古い西欧風の街でもある。8月
のカルカッタは雨季の真っ盛り、新聞は毎日、天気予報の欄に湿度99%、98%等と細
かな数字を並べたて暑さに弱い私を絶望的な気分にさせていた。この猛烈な湿気は食器を
きれいに拭いておかぬと翌朝にはカビが生えるということになる。
ニューデリーに転勤になる前任者の住居をそのまま借り受けることにはしていたもののそ
の前任者がまだ引越しをしておらず、ひとまずホテルから事務所に通うという落ち着かぬ
生活が始まった。領事館や日本の会社の出先へのあいさつ回りなど、事務所の所長にいわ
れるまま動き回っていると別の商社の駐在員から電話がかかってきた。
「西山さん、今度の
10日の日曜日に試合があります。来てください。場所はCCFC、キックオフは午後2
時です。私は任期が終わり来週帰国しますので、あなたを私の後任者としてクラブのメン
バーに話してあります」。赴任前に会社のラグビー仲間から、多分誘いがあるはずと聞いて
はいたが着任早々西も東もわからぬまま試合に出ることになるとは思ってもいなかった。
それも蒸し風呂のような暑さの中で。
カルカッタにはイギリスの統治時代に彼らが作ったさまざまなクラブがある。広大な
競馬場、社交場であるカルカッタクラブ、セントアンドリュースの次にできたと言われて
いるゴルフ場のロイヤルカルカッタゴルフクラブ、人工の巨大な池を作りボートを漕ぐロ
ーイングクラブ等々。その中のひとつに我が Calcutta Cricket and Football Club(CCFC)
がある。CCFCはカルカッタの高級住宅街のひとつであるバリガンジーの深い森の中に
ある。100年はたつ古めかしい石造りのクラブハウスがあり、ロッカールームにはその
年毎のフィフティーンの写真が天井の高い壁一面に整然と飾られていた。それは途方もな
い時間の経過を感じさせる光景だった。
そしてクラブハウスの前にグランドがある。私は、
この由緒あるクラブのメンバーとしてプレーすることになった。カ
ルカッタのラグビー
チームはカルカッタポリス、LMOB(大学の OB)、アルメニアン(アルメニア人)とCC
FCの4チームがあり、シーズンを通しこの4チームが中心になり試合をする。そして雨
季の明ける10月に All India Championship といわれる文字通りの全国大会がありシー
ズンオフとなる。1975年のシーズンは途中で加わったこともあり、チームの中がどう
なっているのかよくわからず、チームメイトの名前すらほとんどおぼえぬままに終わって
しまった。
年が明けて1976年、2月初旬に道路のアスファルトが溶け出し、夏が始まった。猛烈
な暑さと湿気がピークになる5月になると街路樹のホウオウボクは炎に包まれたように真
っ赤な花で覆われ、人々は口をきくのもいやだといった風情で、朝から晩まで汗みどろに
なっていた。そして6月に入ると、まさしくある日突然という形容がぴったりの、それこ
そバケツをひっくりかえしたような雨が突然、天から落ちてきた。私は雨季の真っ盛りに
きて、カルカッタの雨季の暑さにさえ閉口したものだが 1 年経って夏を経験すると、雨季
はなんと快適なこと。そしてまちにまったラグビーのシーズンがはじまった。1976年
のキャプテンはフランス人のミシェルが指名された。彼は南フランス出身の35歳ぐらい
だろうか、かっしりした体躯で右のセンターをやっていた。そして昨シーズンも一緒に戦
ったイギリス人達、200センチはあろうかという大男のアメリカの銀行の支店長、カナ
ダの靴会社で働くインド人などいつものメンバーが集まった。8月に入る前だったかミシ
ェルに電話で呼び出されてグランドに行ってみると、カメラマンがカメラを用意し、クラ
ブのセクレタリーのジョンがベアラー(使用人)にクラブハウスの前に長い椅子を何台か
並べさせていた。私も76年のフィフティーンに選ばれたのだ。大男達に囲まれて古めか
しい写真機の前に並んだときの私の姿は多分誇らしげであったと思う。私はチームの一員
として認められたのがすごくうれしかった。8月から全国大会の予選に入った。カルカッ
タのポリス、LMOB,そしてアルメニアンを破り地区を勝ち抜いたあと準決勝に駒を進
め、地元CCFCでインドの西側にあるマハラシュトラ州のポリスチームと戦うことにな
った。暑さのせいか、いわゆる合同練習はしたことがなく、たまに試合前にボールをあわ
せる程度だったが、この日ばかりはなんとなくみんな早めに集まり練習までした。決勝は
ボンベイに場所を移すことになっており、皆でこの試合に勝って家族も連れてボンベイに
乗り込もうと気合を入れあった。タッチラインには地元の日刊紙 STATESMAN の記者と
カメラマンがならび、いつもと違う緊張のなかで試合が始まった。しかし残念ながら、後
半になるとみんなの足が止まりわずかにおよばず負けてしまった。
この年、私はCCFCのグランドで行われた7人制の全国大会にも出場する機会を得た。
しかし、暑さの中で 1 日に4試合を戦う7人制は体力的にきつかった。ボールはすぐ回っ
てくるし、走れども、走れどもゴールラインは遠く、私は完全に燃え尽きてしまった。そ
の時、私の体重は58kgまで落ちていた。
私は小学校の運動会の徒競走ではいつもダントツのビリだった。ともかく徒競走が苦痛に
なり6年生の運動会は仮病もつかわず、堂々とさぼってしまった。しかし、誰かに言われ
たことがあった、 君、スポーツは楽しむものだよ と。まさしく酷暑の中でのラグビーが
苦しいと思ったらまずグランドに足が向くはずもなく、楽しくなければとても試合などで
きるはずもない。どんな場所であろうと、どんな気候だろうと自分たちが楽しむために立
派なクラブを作り、それを維持してきたイギリス人に敬意を表したいと思う。そして彼ら
がどのような体勢になっていようと諦めず、這ってでもボールに近づこうとする姿勢は、
私にスポーツを、いやラグビーをどのように楽しむものか再認識させてくれた場所でもあ
った。
私にとってインドでの4年間は暑さとの戦いからはじまり、仕事にしても遊びにしても、
なんともいえぬ新鮮さと、驚きを感じさせるエキサイティングなものだった。今、街は
イ
ンド式のコルカタという名前になったが、もう一度あの暑さと、牛と車と人間があふれか
えった喧騒のカルカッタを訪ねてみたいと思っている。静寂の森の中にはクラブハウスが
あるはずで、
薄暗いロッカールームには歴史をもの語る数々の写真が飾られているだろう。
その中に間違いなくあるはずの1976年のフィフティーンの写真を見てみたいと思って
いる。
私とスポーツ
山中
昇
フォワード
八幡製鉄か近鉄が優勝候補だった頃の
全国社会人大会は、東京一、二区代表とし
て警視庁とリコーの二チームが常連の昭
和40年代だった。
警視庁に所属していた私は、大阪府警チームが戦後駐留米軍のアメリカンフットボール
の練習相手として創部され、その後ラグビーに転じたのと比べ、警視庁は大阪府警に追い
つけ追い越せを合言葉に創部は昭和37年だった。
当時は自衛隊もラグビーが盛んで全国大会常連に松戸部隊を筆頭に3チーム位が出場し
ていた。全国大会が16チームの代表の中に、警察2、自衛隊2チームが出場し、京都や
秋田市役所等の顔ぶれもあり、それを引き継いでいったトップリーグの中にこれらの姿が
ないのは寂しい思いでいっぱいである。当時、明大北島忠治先生が、警視庁チームの顧問
をされており、
「前へ」という北島イズムを体感していた頃、学園紛争、第2安保時代、
「ス
ポーツと私」という題で、朝日新聞に掲載された記事を紹介します。
ー昭和45年9月25日朝日新聞「スポーツと私」から要約ー
警視庁第3機動隊第1中隊第3小隊。高野秋男小隊長以下33人。小隊全部が警視庁ラ
グビーチームである。 泣く子もだまる機動隊 のはずなのに、この面々、ユニホームに着
がえると、そこらのパパやお兄ちゃんとちっとも変わらない。年令21歳から28歳まで。
主将が山中昇巡査長(26)である。二ヶ月前に結婚したばかり、柔道二段、剣道二級の
腕前だ。
ラグビーはじめた動機は?
巡査長は背筋をのばして答えた。「ハッ、高校でラグビーをやってた友人に誘われて」。
鹿児島県立国分高校卒、37年警視庁警察学校に、青雲の志を抱いて入学した翌年日野
署で交番勤務をしていたら、
発足したばかりの警視庁ラグビー部が、
部員を募集中だった。
高校で柔道はやったが、
「警官としての生活に重要な集団活動のために、チームプレーを経
験したくて入部」
、8年目を迎えたというわけ。
「最初は、あまりにきつくて、どうなることかと思った。六カ月目で試合をやったところ、
敵陣に突っ込んでいく男らしさがおもしろくて。性があうんでしょうね」
。西郷どんに似た
大きな目をギョロリ。太いマユがピクリ。薩摩隼人の面目躍如といった様子だ。
第一線の機動隊員だから、いったん緩急あれば、警備や交通監視隊として出動、ろくに
睡眠時間もない勤務をしなければならない。ラグビー部といえども、機動隊員としての職
責から免れるわけにはいかないのだ。そんな時「ボールをペンキで白く塗り、公園で街灯
をたよりに、夜間練習もやった」そうだ。それほど好きな者の集団。だから「練習より仕
事のほうが楽なくらいで、これまで練習でへたばったことがない。重い装備をつけていて
も、いざとなれば、ほかの隊に負けず、先頭に立って走れる」とご自慢である。デモ隊に
とって時と場合によっては、なによりも恐ろしい人たちだ。
山中さんがラグビーに求めるものは「鍛錬と自己犠牲による精神修養」
。どんなに疲れて
いても
「仕事のあと練習で汗を流すとさっぱりします。それに胸のモヤモヤを吹飛ばすと、
警官にたいせつな
我慢強さ
が増すような効果もある」
。
その結果、グラウンドで知りあった学生や会社員に、デモで会ったらどうする、とたず
ねると、
「たがいに顔を見合わせ、笑っちゃうでしょうね。
」あるデモの混乱で知り合いの
学生とあったことがあるそうだ。
「大変ですね。
」
「そうだよ。君の仲間がやってるんだぞ。
」
「がんばってください。」山中さんはあとで考えたらなにをがんばるのか、わかったようで
わからないやりとりだったと、苦笑する。その経験から、ラグビー仲間とは、どんな場所
でも笑顔で相対せるという喜びを感じたそうだ。そこに民衆に愛されたいと願う一警官の
姿勢がうかがわれた。
私とラグビー
篠
邦夫
バックロー
ハーフ
私がラグビーを始めた切っ掛けは、不謹慎では
ありますが家事の手伝いや、畑・田んぼの農作業
をしなくて済むと云う理由でした。
福井工業高校に入学し初めてのスポーツとして、
レギュラーに成れるからとラグビー部に自分から進んで入部しました。
当初は貧しく運道具を買ってもらえる訳もなく、先輩達のジャージを継ぎはぎし、譲り受
けたスパイクを靴屋で修理して大切に大切に使用していました。
練習には指導者はいなく、先輩から後輩への見よう見真似の練習で、辛くなると近くの山
の中にある、唯一の芝生の場所(警察学校の射撃場)に行き、セービングやタックルの日々
でした。
また、ラグビー後進県である福井県は当時2高校(若狭高校)しかなく、大会は常に決勝
戦で誇れることは有りませんでした。
卒業後、上京して大正製薬に入社しました。当時(昭和38年頃)は、社内でのスポー
ツ(野球、ソフトボール、バレーボール、卓球等)が盛んに行われていましたが、会社に
ラグビー部は在りませんでしたので、ラグビーボールを購入して昼休みに廻し始めると、
元自衛隊・高校での経験者や、他の部から又エネルギーがあり余った人達が多く集まって
きました。
近くの公園や、空き地を利用してのラグビー愛好会からの出発と成りました。
初めの頃は、熊谷工業高校(森先生)
・与野農業工業高校(金子先生)にお願いして、先生
のご理解とご協力の下で、高校生との練習や試合をさせて頂き、やっと大会に参加できる
ようになりました。
まず勝ち負けよりも、試合のできる喜びと感激に浸っていましたが、
「次にタックルを決め
よう」
、
「一つトライを取るぞ」との合言葉で、練習試合に毎回熊谷に出掛けて行き、負け
て帰る辛く悔しい日々の連続でした。
その内一回勝てば二回勝ちたい、二回勝てば三回勝ちたいと目標も高く大きくなり、チー
ム内にもまとまりと向上心が芽生えてきました。
練習内容も熱く激しく成ってきましたが、予算の無い事から、毛布を丸めてのタックルバ
ック、廃材を利用してのスクラムマシン、発電機での夜間練習、また怪我防止の為のバー
ベルを利用しての肉体強化等、考え付く事は何でも実施しましたが、なかなか強力なチー
ムは出来なかった様に思います。
その後、工業高校・大学からのラグビー経験者が多く入部する様になり、部活動の運営も
軌道にのり始めました。
また、当時(昭和54年頃)は県北地域のチーム(埼玉教員・三井精機・入間自衛隊・
熊谷自衛隊・熊谷クラブ)との実力の差はなんとも難しく、試行錯誤を繰り返していまし
た。
県南・県東地域でグラウンドの確保出来るチームの有志が中心となって、近隣のグラウン
ドでの試合数が多くなる事で、チーム強化とレフリーの養成を兼ね備えられると、県南・
県東地域でのリーグ戦方式での大会が開催されるようになりました。
現在県南・県東リーグ戦として今年30周年を経過しようとしています。
東日本都道県大会の埼玉県代表選抜チームのスタッフとして、協会の社会人・クラブで
の選手の強化、育成に携わるようになり、協会運営のお手伝いで多くのチームや沢山の人
達の理解と協力を頂き、役員を務めることが出来ました。
会社内にもラグビーの理解者が多く出来て、工場長・研究所長・組合の力添えを頂き、
上尾総合運動所内の再整備で、夢であったシャワー付き体育館と全面芝のラグビーグラウ
ンドが出来上がりました。自然環境の中で県内の試合に大いに利用させて貰いました。
また、地域住民との交流と底辺のラグビー人口拡大を図るため、勝利至上主義から交流
会での子供達の育成と普及に賛同して、Ageoラグビースクールを開校し多くの父母の
協力者を得て現在に至っています。
武惑クラブには古くから参加させて頂きましたが、自分のチーム事情、協会役員のお手
伝い、Ageoラグビースクールの指導等で年2、3回の参加でしかありませんでした。
諸般の事情による大正製薬の休部、定年退職より役員を退き、スクールの次期指導者にバ
トンタッチして、晴れて武惑クラブの行事に参加出来る様になりました。
体力の衰えは如何ともし難いが、黄色パンツ(70歳以上)の諸先輩達の楽しく元気な
姿を拝見するにつれて、血騒ぎ肉踊り体の続く限りプレーしたいものである。
私とラグビー
大西
和彦
バックス
私がラグビーと出会ったのは、高校に入学の15才である。中学まではバスケットボー
ルを3年間部活でしていたが何か物足りなさを感じていた中での出会いであった。
クラスの中に何人かのラグビー部員がいたこともあって、2年の新学期より楕円のボー
ルを追って練習を始め、高校時代はプロップを組んでいたが、北海道の釧根地区はチーム
数が少なくこの頃はまだ規制が無かったので社会人チームとも練習マッチを組んでいたが
中標津・北見北斗が全盛の頃で我々弱小高校の出番の有り様もなく、野球部他の部とのグ
ランドを分け合っての練習であった。卒業と同時に当時社会人チームを持っていた北海製
罐(株)に入社して、小樽工場のチームとの春秋の定期戦をメインに地区の数少ない高校お
よび社会人の本州製紙チームとのゲームをしていたが、昼休みにはキックの練習、終業後
はゲームスキルの練習と毎日楕円のボールと戯れているうちに、パス・キックが上手くな
ってのバックスへの転向であった。
好きで始めたラグビーであり、これに対する取組みは、小樽に転勤になってからが一つ
の転機となった。広い北海道の中で道協会の後志支部の役員となって、年間スケジュール
を組み、レフリーを割り当てる中で自分のチームでゲームをしながら、他のゲームのレフ
リーをするという日曜日はラグビーどっぷりの生活と、自チームも初心者が多く基礎から
教えることによる自身のスキル・アップとルールの解説とレフリングの為の精通によって
益々好きになってはまりこんでいったのである。
会社のチームも何とかゲームをこなす何年かであったが、徐々に体裁も整い北海道大会
に出場し始めてからチーム内は変わったが、何日か職場を抜けること、怪我をして休むこ
と等会社からのプレッシャもあった中での活動を行っていた。小樽商大の藤江先生との知
己を得たのもこの時期であり、ニュージーランドよりの軍艦が入港し乗組員との親善ゲー
ムを行い船上パーティーに出席させてもらったが、ゲームの方は船に乗っていての体力・
走力・スピードに只関心するのみであった。
78年に岩槻工場転勤に伴い、先に転勤していた仲間と東都成型㈱で活躍し戻って来
た連中が作り、埼玉協会で活躍していたチームに合流してゲームを組んでいたが、この頃
には会社も忙しくなり練習も週一とチーム運営も難しくなっていった。協会だけのスケジ
ュゥールだと年間に春秋の数ゲームと少なかった所で、現会長の元山氏、大正製薬
篠氏
らの呼びかけによる県南リーグが発足し、これと同時にグランド保有チームとして参加し
活動をしている中、越谷・春日部の現在の武惑の皆様とのゲームでの知己を得て惑のゲー
ムに参加するようになりましたが、まだ
白パンになったばかりで、会社のチームでの練
習、県南のゲームがあればゲームに出てレフリーをしてから、武惑の試合に出るという日
曜日を過ごしていた。そんな中
92年に滋賀に転勤になったがその年は新潟での関東大
会があり、土曜日の夜行で到着しチームに合流してのゲームで、肋軟骨を折るという怪我
を負うが、長いラグビー経験の中で足首捻挫は何度もやっていたが初めて経験であった。
約5年間の単身ブランクで、武惑に戻ってみると人数も増え、陣容も整っていいチーム
になっていたが、自身は最初のゲームでアキレス腱を切って更に半年のブランクになって
しまった。
子供の頃の遊びで培った体力と40歳過ぎまで若い連中と行っていた練習での貯金で
赤パンを履くまで何とかゲームを楽しんでこられたが、先輩の黄パン・紫パンを見ている
とこれから自分もその歳までのプレーを楽しむための体力作りをやらなばければと考える
最近であるが、まだ仕事をしている身では思うようにいかず、あせる此の頃である。
どうして楽苦備(ラグビー)はじめたのかなぁ
塚林
功
フッカー、フルバック
私がラグビーを始めたのは,大学に入ってか
らでした。団塊世代の走り昭和 21 年生まれで,
高校は石川県の七尾高校,理系コースでの成績
は学年を追うごとに下がり卒業時はビリ近く。
3 歳上の兄が授業料が安い大学とのことで父親を説得して入った大学は東京理科大学物理
学科。どうせ私大の物理学科で大して勉強しなくてもと,チビの体型でもレギュラーに成
れそうなサッカー部を探していた。なんと東京飯田橋の狭い理科大校舎を 2∼3 日探した
がサッカー部は存在しなかった。高校時代に存在感を示せたのが体育の時間のサッカーと
ラグビーで,高校の担任(数学)は体育の教師にでもなったらと盛んに勧めていた。狭い
校舎の裏にラグビー部の部室があり,汚い部室に恐る恐る入ったら数人に 何だオマエハ
というきつい目付きで睨まれた。後で判ったが部室に居たのは,一人は 2 年生の先輩で他
は新入生。その 2 年生,これからロードワーク(ジョギング)に行くから,その辺にある
トレパンとシャツと運動靴に着替えろ!
長いトレパンと汚いぶかぶかのシャツを着て走
り始めたのが千代田区側の法政大学裏近辺。このジョギングコースは女子大めぐりコース
といい,2 年生の先輩は数校の女子大名とその特徴を解説しながら伴走してくれた。
ラグビー部の勧誘がうまかったのか強引だったのか,新入生勧誘で入部氏名を書いたの
は計 36 人,練習に参加したのは 18 人,夏合宿まで残ったのが 8 人。当時 4 年生で未経験
者ばかりの 1 年生に毎日ラグビーを教えてくれたのは蓮沼蕃先輩で,お前等に悪いが小柄
な奴ばかり残ったなァと嘆いていた。余にランパスが多くきついから,体の大きい奴等皆
落伍したんだと小柄な 1 年生。怯えていたラグビーの試合も 2 年生までで,3 年春からフ
ッカーで密かにウイングとトライ数を競っていた。当時理科大は関東理工系リーグに所属
し,3 年次までは 5∼6 位で,4 年次に東海大学が加盟し東海大学に敗れ 3 位,その 2 年後
には理工系リーグで優勝している。当時の監督は東京教育大(現在の筑波大)出身の谷村
辰巳先生で,卒業する時には理学部卒ではなくラグビー部卒と名乗れ!,ラグビーは楽苦
備と云うもんだ!と教えられた。現在理科大学の神楽坂は野田の理工学部と合体しリーグ
戦の 4 部∼5 部で戦っていると聞いている。
大学卒業後数年して,理科大学ラグビー部
OB で神楽坂クラブを結成して,東京のクラブチームに加盟し数年間ラグビーを楽しんだ。
その後 30 歳後半から住居のある越谷クラブに参加し 10 年近く埼玉県南リーグでゲームと
練習に参加させてもらった。
40 歳後半には,いつのまにか武惑クラブでバックスのフルバックとしてゲームに出させ
てもらえるようになり,気が付いたら赤パンをはいていた。密かに集計したこれまでの通
算トライ数 100 超.
しかもその 6 割以上は武惑クラブでした。
職業は大学の教員で,
大学ラグビー部の顧問と称し,時折ラグビー部の練習に参加するも,
私にはキツ過ぎたり間延び過ぎたりで,中学生時代の陸上のインターバル練習(400mトラ
ック,縦 100mダッシュ,コーナ 100mジョギング,縦 100mダッシュ,コーナ 100mジョ
ギング)を一人で 40 年近く続けていました。今でもゲーム 1 ヶ月よりトライを夢見て走っ
ていますが,そのインターバル練習の縦 100mダッシュもここ数年息切れで走りきれず,
チビ故見出したラグビー,名誉ある不惑ラガーの先輩諸兄には,毎度御悪見苦しいラグ
ビーを披露して,眉をしかめられて居られることと思います。とても世界不惑大会には
後編は40周年にて
私とラグビ−
井上
修
フランカー
ラグビ−ボ−ルに触れて約 20 年、今の自分があるのがとても不思議。
大きな目標も無く単、にラグビ−でもやってみたいと思ったのは中三の時。
当時の遊び仲間との約束で、高校の試合で会おうと約束をしたのがきっかけ。
しかし高校、大学ではラグビ−が出来る環境が無かった為、いつしか忘れていた。
でもどこかにラグビ−に対する気持ちが残っていたらしく、41 歳の時に当時住んでいた
岩槻市の市報でクラブチ−ムの部員募集の記事を見た瞬間に、ラグビ−に対する思いが沸
いてきて即座に申し込みをした。
最初にボ−ルに触れるチャンスを与えてくれた岩槻クラブに感謝している。
当時は野球、ゴルフをやっていたが、何しろ素人がゆえに毎週の練習で突き指をするので
即、野球とゴルフを止めてラグビ−に絞ることにした。
2 年ほど過ぎたころ、同じく岩槻市在住の谷中さんの紹介で武惑クラブにも席を置くこと
となり、現在に至っている。
ラグビ−を始めて辛いと思ったことは、怪我をした後は暫く練習も出来ず、ボ−ルにも
触れない事。練習でも、ゲ−ムでもグランドに入れることが非常に楽しい。
ゲ−ム中の緊張感とすべてを忘れてボ−ルに向かっていける集中心が心地よい。
只、ラグビーを楽しんでいるだけで、勝負に対する追求が足りない面があるので、今後の
自分に対する課題と考えている。
お年より,真直ぐ走って,捕まるだけ,ヨタヨタ走法,これならヌケル?
私とラグビー
五十嵐
昇
バックス
ラグビーを知り得て早40有余年、中学校卒業後海上自衛隊生徒として広島県江田島にて
青春時代を送りました。当時身近な球技と云えば野球、バレーボール、バスケットボール
くらいしかなかったところですが、部活見学で掛け声と共に組んでいるスクラムを見てカ
ルチャーショックを受け即入部したことを覚えています。生徒間(陸・海・空)の交流戦は、
ラグビーしか無く毎年12月の秩父宮目指して頑張ったものです。又地元では広島県社会
人リーグで大人相手の優勝も経験しました。その後故あって退役し10年間位のブランク
が有りなんとなくもやもや過ごしていたら、越谷でのクラブ立ち上げの市報を目にし勇ん
で参加しました。ここからが埼玉県での30年間の始まりになりましたこの年齢まで現役
でいられる恵まれた環境に感謝・感謝です。まだまだ体力の続く限り頑張りたいと思って
おりますので今後共宜しくお願い致します。
私とラグビー
三宅博行
バックス
レフリー
2008年5月4日逝去
注)執筆に際し、私の出身である BYBOB 通信に投稿した文=KCRF の思いで
から
引用させて頂きました。
(KCRF(関東学生クラブラグビー連盟)とは東京六大学の七クラブチーム即ち
慶應=BYB,JSKS 早稲田=GW 明治=MRC 立教=RFRC 法政=FRC 東大=LBRC で構成
する学生クラブラグビー連盟です。毎年秋にリーグ線を開催していました。これは私が
四年生の時、秋のリーグ戦が終わってから、この六大学七チームでコンバインドチームを
編成し秩父宮にて地区対抗関東代表の学習院とゲームをした時の思い出を BYBOB 通信に
投稿したものです。当時はクラブチームが秩父宮でゲームができるとは思ってもいません
でした。また KCRF のコンバインドチーム編成も初めての事でした。(武惑メンバー西田
君も MRC 代表として参加)これは私の青春時代の大切な思いでであると共に、ラグビー
協会、各チーム OB、現役等ラグビーに携わる人々の熱き思いと友情の記録でもあります。
)
【本文=BYBOB 通信より】
KCRF の思いで
『それは、1972年の新春、1月16日午前11時30分でした。日本選手権で、
早稲田が 2 連覇した翌日の秩父宮ラグビー場。アップの途中ふと、芝生の中に伏見稲荷の
お守りを見付けました。早稲田ラガーの思いが見上げた青空の中に浮かんできました。
KCRF のコンバインドチーム VS 地区対抗関東代表学習院との記念すべき親善試合
のキックオフです。KCRF は協会から貸して頂いた紺の統一ジャージーに
自チームの
ストッキングを履きゲームに臨みました。
その前年の晩秋、JSKS に勝ち優勝を決めていた BYB は最終戦の MRC とのゲームに
臨みました。熱闘の後私の胸にこみ上げてきた物、最初は、4 年間が終わった堪らない
淋しさでした。そしてその次に優勝を祝福する OB,試合に出なかったメンバーそして
ゲームメンバーそれぞれの笑顔が目に入りました。
その直後でした。シーズンの好敵手だった KCRF の各メンバーの姿が次々に浮かんで
きました。この素晴らしい 4 年間、ラグビーをする喜びを彼等がいたから感じる事が
出来た。だが考えて見たらあまり話しをしたことがない。酒を飲んだ事も無い。いや、
肝心のラグビーでさえ一緒に練習した事が無かった。この素晴らしい連中とこのまま
別れたくない。そんな思いが胸一杯にこみ上げてきました。
そうだ、コンバインドチームを編成しゲームをやろう、そう思い JSKS 佐山くんを
はじめ手探りで KCRF のメンバーに連絡しました。思いは皆同じでした。
そしてやはりラグビーです。関東協会も当時の理事
成蹊大学
畠山さんが、二つ
返事で秩父宮の使用を許可してくれました。協会の事務局の方々にもお世話になりました。
龍野さん(現関東協会会長)
、西山さん(東海大学元監督)
。のバックアップ、レフェリー
は,松尾さんにお願いしました。対戦相手の学習院も、全国大会が終わった直後にも拘らず、
快く即座に対戦を承諾してくれました。
今でも浮かんでくるキックオフの瞬間そしてもっとも短く感じられたゲームを終え
ファンクションの後 皆と別れたその夜、胸の中にこみ上げてくる淋しさと、反対に
広がってくる充実感と思い出で涙が止まらなかったことを覚えています。
総て手作りで設営した秋の KCRF リーグ戦、立教志木での芝刈りも良い思いでです。
学生の学生による学生の為のゲーム設営、これが KCRF の精神です。
感動する心を持つことそして決して諦めない事の大切さを教えてくれました。
今その爽やかな精神が地上の星のように私の足元を鮮やかに照らしてくれています。
そしてこの思い出を共有したフィフテイーン、バックアップして頂いた関係者の方
OB 諸氏,手伝ってもらった後輩達総て KCRF の存在があったからだと今も感謝していま
す。あの思いをもう一度現役諸君に語り継いで行きたい。今心から思っています。
慶應義塾大学 BYB ラグビー部 OB
関東協会クラブ委員 三宅
博行』
それから35年、未だラグビーを続けています。ラグビー人生それは素晴らしい人との
出会いの人生でした。そしてその人々に教えて頂いた事それは、【感動する心を持つ事、
決して諦めない事、そして思いは叶う】と言う事です。昨年の伏見工業の高校日本一
を目の当りにした時、溢れてくる涙、それは感動とか郷愁とかとおり一遍の言葉では
表せない素晴らしい物を見た後の充実感という心の奥底の泉から溢れ出てくる純粋で
清清しい思いだった気がします。
今また武惑チームの一員として新たなる感動を覚えています。それはともすると過去を
振り返りがちな私を【まだまだ百年早い】とリードしてくださる赤パン、黄パン、
黄金パンの永遠の若者達と紺パン、白パンの仲間達です。まだまだ終われない。そして
ちょっとはお役に立ちたいな。そんな気持ちが自然と涌き出てくる喜びが有る
この武惑クラブ
【有難う
拙文の最後は
武惑クラブ
そして永遠に】
以上
私と楕円ボール
副会長
鈴木
富雄
フォワード
「すさぶ寒風しぶく汗・・・・」武惑クラブの部歌ではありません、昭和39年の晩秋
上州名物のからかっ風が前橋の高校のグランドを吹き付ける中で、初めて楕円のボールを
手にしました。
楕円のボールを抱えて校庭を駆け巡って 43 年。現在は武惑クラブの仲間と埼玉のグラン
ド
を中心に、その当時の気持ちのまま青春をしております。
高校在学中は陸上部に所属しており、ラクビー部が15名のメンバーが集らない時、臨
時のラグビー部員に借り出されておりました。先輩から「ボールを持ったらコーナーフラッ
グを目指して走れ!」とこの一言だけでした。もちろん、ポジションは 14 番・・・・・・
私の高校は冬になると体育の授業はラグビーが中心でした。それゆえ、卒業時には誰でも
ラグビーの楽しさを知っており、ラグビー部員でなくても、それなりにプレーが出来まし
た、当時の同級生が房惑クラブでプレーをしていて、めぐり合えたのにはビックリしまし
た。そのT君もラグビー部には所属しておりませんでした。
又、楕円ボールの楽しさを教えてくれた方は最近まで群惑で活躍していた、「エッサッ
サ!」の斉藤実先生でした。まさか、渋川グランドや草津温泉で一緒に試合するとは思い
ませんでした。懐かしさより再会させてくれた、ラグビーに感謝しました、翌年の同窓会
では斉藤先生と話が盛り上がったのを記憶しております。
その後、仕事の関係で大宮に住居を構え、息子が中学生になると同時に再びラグビーを
再開し、息子やその友達以上に私のほうが、楕円のボールを楽しむようになりました。
縁があって浦和ラグビークラブにお世話になり、浦和クラブの仲間から武惑クラブに誘わ
れ青春を再び楽しむことになり、ラグビーと云う「スポーツ」に大変感謝しております。
武惑クラブでは多くの共通の楽しみを持つ仲間とめぐり合い、人生の後半の楽しみが確
立したような気がします。19年度はパンツの色が「赤」に変わりますが、16歳の時楕円
のボールに初めて触れた時の気持ちを忘れずに、1番から15番まで出来るユーティリィ
ティーなプレーヤーをめざし精進したいと昨今考えています。
サラリーマン人生の後半はラグビーと共にあり、仕事にも張り合いが持て、ライフサイク
ルに組み入れ、仕事のストレス解消することが出き、さらに、家族とも共通の話題がもて、
感謝しております。
人生まだまだ先がありますが、ラグビーを楽しみ、家族と健康に感謝し、有意義に過ご
そうと考えております。いつまでも、青春の気持ちを忘れずに・・・・・。
「ラグビー万歳・・・・・」
私とラグビー
長谷川
功
フォワード
〔デビュー〕
昭和35年、満29才に残り3週間程の9月でした。生まれて初めてラ
グビーボールに手を触れたのは・・・・。衝撃のデビューと記したいところですが。実感
が湧いて来たのは次の日の朝でした。第一は頭皮から指先まで全ての筋肉が悲鳴をあげて
いました。そして練習の2時間、仕事を全て忘れる事が出来たという事でした。衝撃でし
た。本当に大衝撃でした。東京都多摩市の広報の呼びかけで春に結成された多摩ラグビー
クラブの練習に初めて参加した時の印象です。その頃の自分は仕事がうまくいかず、責任
感にさいなまれ、現実から逃避したい気持が大きくありました。そんな時、社宅の同僚に
「ラグビーの練習に入ってみないか。」という誘いでした。一も二もなくO.K.の返事を
しました。多摩川右岸の河川敷のグラウンドでした。ボールの握り方、走り方、パスの仕
方、ルール、そして恐れ多くもトライの練習まで・・・・。大げさにいえば体を、命を掛
けた2時間でした。だから仕事を忘れる事が出来たと思います。数回の練習の後の秋合宿
という事で神奈川県の山中湖畔の某証券会社の保養所に出かけました。その途中でたまた
ま見た闘犬が、
軟弱に育った自分に闘いの原点を教えてくれました。
小さく弱そうな犬が、
大きく強そうな犬に必死で挑み、噛み付かれ、それでもギブアップの声をあげないという
事でした・・・・。多摩ラグビークラブは発足間もない時であり、メンバーも少なく、自
分はフォワードとして育てられました。本当に育てられた感がします。29才の体力、技
術、意識など、ないないづくしの自分を本当に我慢して教育し、使ってもらいました。日
曜日ごとの練習が待ち遠しく、人生にこんなに気分転換出来る事があるのかなぁと思いま
した。自信消失した仕事もそれなりに進み、ラグビー中心の生活スタイルになりました。
当然チームメートにも恵れ、東芝府中の専用グラウンドで練習や試合も出来ました。日本
の一流のプレーヤーを間近で見る事が出来た事も大変良かったと思っています。
〔赤面〕
自分の仕事は建築の施工担当でした。地方へ出張も時々ありました。長野県
志賀高原のホテル建築工事が終了し、次は東京四谷の長善寺(笹寺)の建替工事でした。
そのお寺の副住職との出合いが、さらにラグビーに邁進させました。副住職(現在は住職)
の名前は武村秀夫(旧姓鈴木)さんでした。住職は法大ラグビー部OBで、学生NO1に
なった時のメンバーでした。そしてお父さんは法大で永い間監督を努められた鈴木秀丸さ
んでした。仕事の合間に色々なラグビーの話をしていただき、パスの練習までさせてもら
ったり・・・・。草ラグビーを若干経験した事しかない自分がはずかしかった思い出があ
ります。そんなある日、住職から、父の秀丸さんの秩父宮競技場の入場券が有り、父も自
分も所用の為行けないので「長谷川さん行って来てください。
」という事になり、良く情況
をわきまえもせず、喜んで出かけました。カナダ対日本の国際試合でした。試合開始ぎり
ぎりに到着、娘(4才)をつれて、自分の席を人ごみのなか必死に捜し着席しました。ガア
―ン!??・
・・
・?。廻りを見ると日本のラグビー界の重鎮や有名OB選手がぞろぞろ・・
・・。
娘を連れた素人は一人だけだったのです。赤面、赤面、穴があったら・・・・。後で聞い
てみたら住職のお父さんは日本代表で、40年前にカナダと対戦した時のメンバーだった
そうな!
昭和55年頃の思い出です。その後住職も法大の監督となり、学生NO1になり
ました。
〔故郷〕
当時建築施工の現場は、なかなか日曜日に休めませんでした。しかしラグビ
ーの為、
日曜全休の段取りを組み、地方出張時は地元のラグビーのクラブに参加しました。
その一つ山形県に出張した時で約1年半過ごしました。私は当時ラグビー不毛の地といわ
れていた山形県鶴岡市の出身です。自分が高校生の時、県内の高校にはラグビー部は一校
もありませんでした。雑誌で鶴岡にもラグビーチームがあるという事を知りたずねてみま
した。鶴岡のラグビーのクラブは自分の出身工高に以前あったラグビー部のOBや、他の
地域や大学でラグビーをやって来た人達で、県内に4チーム程のクラブチームがあり、全
国的に名前の知られた方もいました。交流試合もありました。青森県大ワニ市で行われた
東北ミニ国体にも参加しました。県より交通費宿泊費が出て、公費でラグビーをした最初
で最後です。新日鉄釜石のメンバーと同宿となり、全国七連覇のメンバーと一緒に風呂に
入る栄にも恵まれました。そのラグビー不毛の地のわが母校にもラグビークラブが出来て
おり、生徒達とも一緒に練習し先輩面をして来る事が出来ました。昭和57、58年頃の
思い出です。
〔武惑クラブとの出合い〕
昭和56年多摩市から蓮田市に転居しました。当初は多摩
ラグビークラブに日曜日ごとに通いました。その年の秋、蓮田広報に「ラグビーを一緒に
楽しみませんか?」というお知らせが載り申し込みました。それが春日部ラグビークラブ
でした。新しい仲間との出合いで、またラグビーに熱が入りました。練習後の反省会の酒
がうまかったこと。レフリーの勉強もしました。疑問や不明朗あるいは間違った笛を吹い
た時のプレーヤーの目、声。それでも笛に応じ、プレーを続行するプレーヤーとレフリ
ー・・・・。強い意志を鍛えられました。平成5年頃チームの茂手木さんの誘いで武惑ク
ラブに入れてもらいました。生涯ラグビーの考え方、生かし方の素晴しさに感銘を受け、
またまたラグビーにのめり込みました。トップやコーチ陣の充実、チーム全員の人柄やラ
グビーに取り組む姿勢、そして連絡報告体制の充実。今後も継続するよう自分も律してい
きたいと思います。
〔まとめ〕
六年前から軽井沢町に住んで、なかなか参加する機会が少なくなって来ま
した。幸い大きなけがもなく過して来ました。遅いスタートのラグビー人生ですが、30
年経過し、平成19年2月3日は「赤パン」を拝領出来ます。30年の経験は永かったと
思う反面、スタートが遅かった事もあり、まだまだ初心者の気持です。体力、技術は劣っ
ても、
ラグビースピリットは生涯激しくもって行きたいと思っています。
チーム内に目標、
ライバルをさがし、激しく、強くそして柔軟に生涯ラグビーを謳歌したいと思います。
千葉大医学部ラグビー部の創設
得丸幸夫
バックス
私の母校である千葉大学医学部に、ラグビー部が創設されてから 30 年以上の年月が過
ぎました。実は、私は創設チームの一人であり初代キャプテンなのです。今回の武惑クラ
ブ 30 周年記念委員会代表の村精治氏が千葉大学の先輩であるということもあり、千葉大
学医学部ラグビー部創設当時の話を書きたいと思います。
(1)そもそもの始め
私は浦和高校時代にもラグビーをやっていましたが、肋間神経痛を患い一時退部したり
して不完全燃焼でしたので、医学部ではぜひラグビーをしたいと考えていました。ところ
が千葉大学に入学すると医学部にはラグビー部はないと聞き、とりあえず西千葉の全学の
ラグビー部に入部しました。そこで聞くと、二年先輩にも医学部の学生がいるが、学部の
授業が始まると猪鼻キャンパスに行ってしまうため練習に参加できなくなるということで
した。一年間は全学のラグビー部の練習に参加し、試合にも出させてもらいましたが、二
年生になり医学部(一駅先の千葉市内)での授業が始まると、自然と遠のいていきました。
当時、同級生の間ではスポーツをやりたい人たちが多く、一時廃部されていたバトミント
ン部やヨット部などを再開したりしていました。そこで、友人たちに声をかけるとラグビ
ーもやってみようということになり、1年生の秋頃から西千葉キャンパスで少しずつ練習
を開始しました。
ボールを2つ購入し、
私しかラグビーを知っている人はいなかったので、
私が指導して5∼6人でのボール遊びが始まりました。
(2)ラグビー部誕生
せっかくだからラグビー部を創ろうということになりました。同級生の部員の父親が皮
膚科の教授と同級ということで部長をお願いしたところ、快く引き受けて下さいました。
サッカー部のキャプテンにグランドの共同使用を無理にお願いし、同級生の女子にマネー
ジャーを頼んで部の申請をしました。
「すぐつぶれそうだから、まず同好会でやれば」とか
「人数を 15 人集めると、他の部の部員がその分減ることになるので困る」と反対の声も多
かったのですが、他部の同級生達の応援もあって何とか認められ、どうせ続かないだろう
という声を背に受けながら活動を開始しました。
(3)いきなりの公式戦
ちょうどラグビー部ができた時期に、たまたま運動部に特別な補助金が出ることになっ
たらしく、顧問の教授から勧められてラグビーポール(ゴールポスト)の設置を申請した
ところすぐ承認され、あっという間に医学部グランドにポールが立ってしまいました。こ
れでは簡単にやめるわけにはいかないと、他の運動部に所属している同級生もかき集めて
練習をしました。無理にお願いし、マネージャー役を引き受けてくれた同級生の女子も練
習の度にジュースや手作りの食べ物を差し入れてくれました。練習ばかりでは励みになら
ないと、2年の秋に医歯薬リーグに参加する手続きを取ったところ、練習試合もしないう
ちに試合の日が来てしまいました。おまけに前日に大雨が降り、
「明日は雨だから試合はな
いだろう。」と安心して朝まで酒盛をした者が何人かいて集合時間に集まらず、酔いも醒め
ない連中をたたき起こして連れていきました。相手は東邦医大でしたが、スクラムの中は
酒臭く、グランドの外に出て吐いている者もいて、びっくりしたと思います。何点入れら
れたか忘れましたが、我々はワンチャンスをものにして記念の1トライを挙げました。本
来野球部のロックが蹴ったボールを私が追いかけ、拾い上げてトライしました。このトラ
イは今でも語り草で、試合は負けたのにみんなで乾杯しました。ラグビー部がいまでも続
いているのは、このトライがあった賜物と思っております。
(4)初めての合宿
久しぶりにアルバムを取り出してみると、1974 年 8 月医学部ラグビー部初合宿、於:
山中寮という写真が出てきました。しかし、私の記憶では、その前に伊豆で合宿らしきも
のをした思い出があります。正式にラグビー部として認められる以前かもしれません。
多分 1974 年の 5 月の連休中だったと思います。暇だからラグビーをしに行こう、とい
う話になり2∼3 台の車に分乗して出かけることにしました。写真が残っていないので何
人でいったかも覚えていませんが、ボールだけ持って、宿もグランドも決めずに出発しま
した。まだ寒いので暖かいところがいいと、とりあえず伊豆半島を目指しました。
伊豆半島の西側で、沼津港の対岸に大瀬崎というところがあります。海に突き出た小さ
な岬で、パンフレットには晴れていれば富士山が正面に見られると書いてあり、適当な広
さの浜辺がありました。景色もいいし、どうせグランドを借りることは無理だろうから浜
辺でやろうと、ここに決め浜の中央にある民宿に宿をとりました。
ちゃんと練習計画も立て、早朝練習、午前、午後と三回やることにしました。まず朝お
きたら、体操し岬の先までランニングです。岬の先に小さな池があり、その周りを走りま
した。ボールを使っての練習もしましたが、キックするとどうしても海に入ってしまうた
め、パスとスクラムとタックル練習くらいしかできませんでした。浜辺なのでスクラムも
砂に足を取られるため、後ろに立った人に足を押さえてもらってやりました。余った時間
は相撲などをして過ごしましたので、あんたたちは本当にラグビー部か、と宿のおばさん
に疑われてしまいました。でも、我々は遊びにきたのではないから、と結構まじめにやり
ました。
朝おきるとおばさんに、「浜辺に海老が上がっているからとっておいで。」とバケツを渡
されました。浜辺に行って探しましたが何もいません。宿に帰って言うと、浜につれもど
され「足元をよく見なさい。」と指差されました。するとそこには、透明で、桜海老ほどの
大きさのものがピチピチ跳ねていました。よく見ると、波打ち際は海老でいっぱいでした。
バケツにとってきて、水で洗い、そのまま醤油を少したらして食べました。ほんのり甘味
があって、何度も採りにいってはおかわりをしました。
宿には、三人の娘さんがいておばさんを手伝っていました。おばさんに全く似ない美人
ぞろいで、それぞれ何とかいう女優に似ているなどとうわさし、用もないのに呼んでは話
をして交際を申し出る者もいましたが、期待したことは何も起こりませんでした(起こっ
たのかもしれませんが、私は知りません)。
何日滞在したのかも覚えていません。晴れると目の前に富士山が見えるということで、
毎日期待して海に出ては眺めましたが、曇りの日ばかりで結局一度も富士山は見ないで帰
りました。
(5)新人勧誘の話
ラグビー部ができて一年目の春、新人勧誘をしようということになりました。入学式の
後に、各クラブの説明会があり参加しました。「玉が二つしかないラグビー部です。」とい
うと大うけでした。説明会が終了してから外で勧誘するように、どのクラブもビラなどを
持って待っていました。まだ時間があるからと、我々は喫茶店で待つことにして、みんな
で行きました。あらかじめ新入生の高校時代の運動部経歴が渡されていましたので、コー
ヒーを飲みながら、誰に声をかけようかなどと話しているうちに時間を忘れ、あわてて駆
けつけたときには、説明会はとっくに終わっていて新入生は誰もいませんでした。
翌日から、西千葉キャンパスに通っては勧誘をしましたが、手ごたえはまったくありま
せんでした。あきらめかけたところに、
「年取ってはいるが、ラグビー経験者がラグビーを
やってもいいと言っている。
」という情報が入りました。手分けして探しましたが、なかな
か会うことができませんでした。やっと会えたと思ったら、
「入ることは入るが、今は忙し
いので少し待って欲しい。
」と言う始末です。見るからにロートルだし生意気なので、頼ま
れたって入れてなんかやるものか、と憤慨しながら練習していると、ふらっと現われ、い
つの間にか入部していました。
三年生しかいないラグビー部で新入部員は一人しかいないのに、まったく臆することな
く練習に参加してきました。もともと年は私より上で、ラグビーの経験もあるためどっち
が先輩かわからない状態でしたが、最初の印象とは異なり、先輩風を吹かせるわけでもな
く、淡々としていました。さすがに長くは走れないということで、ポジションとしては経
験と勘を必要とするスタンドオフを長く務め、二代目の主将になりました。
この後、もう一人若い新入生が入部してくれました。彼らの入部がなければ、ラグビー
部は早々に廃部になったに違いありません。
(6)順調に動き出した!
翌年に、一人の新入生が入部してくれました。体は細身で、身長もたいしたことはなく、
ラグビーの経験もなく、最初はとてもものにはならないとみんなに思われていました。し
かし根性はりっぱなもので、タックルの仕方も十分知らないうちから試合に出ては、自分
より大きい相手に果敢に突っ込んでいって見事につぶされていました。性格も明るく人懐
っこいことも幸いしたのか、クラスの仲間を次々と引っ張ってきてくれて、いつの間にか
まともに試合のできるチームができ、我々が卒業する時には医歯薬リーグで四部から三部
に昇格しました(当時は四部までしかありませんでした)
。
彼は、我々が卒業した後主将になりましたが、人数が急に減ってしまい大変だったと思
います。案の定、翌年にはすぐ四部に落ちてしまいました。しかし、その後は順調にユニ
ークな連中が入部してくれて、本格的な体育会系ラグビー部に育っていき、気が付いたら
いつの間にか一部に昇格していてびっくりさせられました。
今でも医歯薬リーグでは、一部ではないにしても上位のクラスでがんばってくれていま
すが、部の雰囲気としては創設期のように、和気藹々としたものであってほしいと思って
います。
私とラグビー
中谷
正
フォワード
ラグビーとの付き合いは高校時代から始まる。高校に入ったら兄のようにラグビーをや
るんだと進学した逗子開成高校にはラグビー同好会しかなかった。グランドは狭く、野球
部や陸上部が練習を始めると同好会は入る余地が無かった。仕方がないので百メートルほ
ど離れた海岸の砂浜でランパスやダッシュ、石原都知事が当時住んでいた邸宅前の慎太郎
坂と呼ばれる急坂で良くトレーニングをやっていた。既に大作家だった氏からはうるさい
と学校に苦情が来ていたようだ。ただ、当時の例に漏れず先輩からのシゴキや締め付けは
猛烈で、すぐに新入生全員が辞めると言い出した。自分だけは怖い兄から当時、非常に高
価なオーダースパイクを買って貰ったものだから、辞めるに辞められず一人残る結果とな
ってしまった。その後この混乱は収束し、部員は戻ってきたが、この事が自分の人生で一
つの転機だったのだと考えるのはかなり後のことだった。一人残った私は貴重な存在とし
てすぐにレギュラー入りし、後には同好会の運営すら託される事となった。元々、部員数
が少なかったので3年生が卒業すると少ない2年生と1年生だけでは人数がギリギリとな
り、一時休部状態となった。後輩を勧誘し、渋る同級生を戻らせて何とか形を整えていっ
た。2年生の秋になると自分が主将ということになってしまった。サボりたがる同級生や
生意気な後輩を統率するのはなかなか難しいもので、何事も自分から率先して入って行か
ないと他人は付いてこないと気づいた。実家が新聞屋だったため、小さい頃からの新聞配
達で足腰は鍛えられていた。怪我にも強く、練習や試合では先頭で突っ込んでいった。そ
うやって部員を率い、フォローし、バックアップした。そういう姿勢がその後の仕事や活
動の中で生きてきたのだという事に最近気づいた。学生としてプレーしたのは高校だけだ
ったが、この3年間は色々な意味で自分のその後の人生を決めた時間だったような気がす
る。大学ではボールに触れる機会も無く、アルバイトに明け暮れる学生生活を送った。卒
業してある会社に就職し、親会社のクラブチームに参加した。この時も早大OBの主力プ
レーヤー達の転勤により休部のやむなきに到った。しかし再開後のキャプテンを任せられ、
若いこともあり楽しくも懸命にプレーした。それが評価されたのか、先輩の引きもあり、
今の会社への転進となった。高校時代のラグビーとの出会いが無ければ現在の生活は有り
得なかったと思う、あるいは新入生退部騒動が無ければ自分は違う道を歩んでいたかもし
れない。人生とはちょっとしたきっかけで全く違う様相を呈すると思う。先人が言ったよ
うにラグビーボールの転がりと同じかもしれない。これからも楕円ボールに翻弄されなが
ら様々な人々や事象に遭遇していくのだろう考えると楽しい。しかし最近悲しいのは懸命
なプレーとは無縁、ボールはますます見えなくなってきた事である。
人生パートナー
子田丈夫
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表面がガチガチに凍った残雪をわりながら走る。
足首が赤くすり切れ、指の感覚も無くなる。
冬の間、太陽の恩恵を受けない新潟も3月になれ
ば、照り返しで真っ黒に雪焼けするほどだ。ただ夕
方になると凍る。
4月になり、新1年生を勧誘するが、その異様な
クロさにより気持ち悪さ、過酷さを感じ取る優秀な新潟工業高校新入生は他のまっとうな、
文化クラブ体育クラブに入部する。
勧誘にのるのは、元々入学前からラグビー部、入部を決心して入学してきた、体力・気
力・走力及び向上心充分な生徒と、つい出来心組と好奇心組だ。
つい出来心でラグビー部に入った。
その前段として新潟工業高校土木科に入った。
中学2年の時、学校で映画の上映会があった。石原裕次郎主演の「黒部の太陽」だ。真
っ黒になって水と泥と岩と戦いながら、トンネルを掘り進む男のロマンにあこがれた。
加山裕三やスパイダースに狂っていたが、この映画はそれを充分にしのぐインパクトが
あった。
現在の仕事はトンネル掘り・・・と言っても、横穴を掘り細いパイプを水平に布設する
こと。
小学生から中学1年生までは痩せてチビだった。でかいやつを見ると、つい対抗意識を
燃やした。中学では剣道部に入り、2年生で初段となり3年生になって二段を受けさせて
ほしいと先生に頼んだが「まだ早い」といわれ断念。
卒業時の身長は170センチになっていたが依然、痩せていた。
高校の入学式で母と校門をくぐるとラグビー部員が数人前を横切った。
母は「うわー汚い」と言った。
私はあんな体格になれたらと思った。当時の3年生が優秀で、1年生から花園出場組が
3人。2年生のときは準決勝で目黒高校に敗退するところまで行った。
私が入った年は長崎国体少年男子で諫早農業高校と決勝戦を戦い、同点両者優勝という
成績だった。
私は、ずーっと補欠だった。試合に出られないのに練習は過酷で、いつやめようかと悩
みっぱなしだった。
しかし、花園に行き、長崎国体や岩手国体にも鉄製のスパイク釘打台運搬要員として連
れて行ってもらった。新潟と関西では、熱気が違うと思った。
暮に1回戦が始まり、花園で年を越えることができるかどうかがポイントだ。新年を迎
えたグランドは、晴れ着姿のお姉さんが彼氏に付き添われて、スタンドにやってくる。
グランド面にいる我々には関係のない世界だが、華やかさを感じる。
多分このお姉さん方が生んだ子供達がラグビーブームを作ったのではないかと思う。
日本ラグビーを強くするには、次世代を担う少年を強くすること。その少年を作るには、
ラグビーオタクの母親を作ることだと思う。
年を越えられない場合は、旅館代がもったいないので即、大阪駅から夜行列車に乗り新
潟へ帰る。景色も暗く、気持ちも暗い。
祖父は海軍に入る前に相撲部屋からスカウトを受けたほど体格がよく、海へ行くと私や
兄を抱っこしながら泳ぐくらいフィットネスに恵まれていた。
父も兄も体格に恵まれていた。遅れをとっていた私も、高校生の間に、頑丈な体になっ
ていた。これだけでも一定の成果かなと思う。
社会人になって時々ラグビーの練習やゲームに出る機会があったが腰痛や頚椎の痛み
で、もうラグビーはできないと思っていた。
メタボリックぎみだった44歳の時に意を決して、埼玉県ラグビー協会に「クラブを紹
介して下さい」とメールを送った。
浦和クラブを紹介され、村さんに「入れてもらえますか」と電話をいれた。
「私は56歳でやってますから大丈夫ですよ」という返事だった。
鈴木富雄さんに誘われて、横山さんと草津合宿に参加した。とりあえず健康のために浦
和クラブに入って3ヶ月だった。
ゲームに出していただいた。惑のゲームでも体にきつかった。タックルが腹に入り、呼
吸もできなかった。タックルに行ったら、顎を踵で跳ね上げられた。ゲーム感が無いので、
ボールを持つと、パスもできずに真っすぐ当たってダウンボールするのが精一杯だった。
「俺は、高校時代、地獄の練習に耐えてきたんだ。それから比べれば、レジャーみたい
なものじゃないか。すぐ慣れてもっと楽しもう。」と思った。
私は、武惑では出席率が良い方だ。年齢と立場でゲームに合わせて、仕事を調整できる
からかもしれない。遠方の出張以外で仕事都合では欠席しない。ことにしている。武惑出
席率を、人生バランスのバロメーターとして。
平成 16 年 6 月に勤めていた会社が倒産し、ハローワークのお世話になった。ラグビー
という足場があったから、難なく乗り越えられたのだろうと思う。
平成 18 年11月に嫁の圭ちゃんが台所の流しから転落し第一腰椎を骨折した。52歳
骨粗鬆症で骨がもろくなっているそうだ。一生懸命面倒を見ているつもりなのだが、不満
らしく、実家のお母さんに「丈夫君なんか全然役に立たない」と電話で愚痴っていた。
ラグビーや工事現場で怪我をしないとも限らない、圭ちゃんが報復行為に出ないよう安全
第一で行きます。
私とラグビー
丹澤直樹
フォワード
ラグビーとの出会いは、小学校の 4∼5 年生だったと思う。11 歳上の兄が大学からラグ
ビーを始め、人を巻き込む性格からよく付き合わされた。自分の試合に連れていったり、
秩父宮の大学のゲームを見によく連れていかれた。覚えているのは、早稲田対法政戦で、
法政が何連覇かしたゲーム。内容は覚えていないがスタンドオフで桂口と言う名前を覚え
ています。ウィングには、今時々日本協会で名前が出ている水谷がいた。夜は、よく兄の
ランニングに付き合わされてショートダッシュだダンボール・ヒルアウトなんて訳分から
ずやらされていた。
初めてのゲームは
本格的に始めたのは、埼玉大に入ってからですが、初めてゲームらしきものにでたのは
やはり兄が作った会社のチームが高校生と練習試合をやったときに借り出された。
高校 2 年の時で、その頃はクラブ活動はバレーボールをやっていた。よくラクビーは見に
行っていたのでルールは何となく分かっていた。ロックをやらされたが、まだ姿勢も分か
らずスクラムを何度か練習したら首の筋肉など使ったことがなかったので、二三日首がグ
ラグラして困った。
自分にとってラグビーとは、
いまでは生活の一部のようなものだ。好きとか嫌いとかは考えるまでも無いことのように
感じる。昔から体を動かして汗をかくことが好きで、いまでは皆さんもそうでしょうが、
汗をかいた後のビールは格別だ。多分体が動かせなくなったとき、ラクビーをやりたいと
心底思うんじゃないだろうか。昨年末埼玉大の後輩が亡くなって、奥さんに話を聞いた時
「早く治して絶対ラグビーをやるんだ」と口癖で言っていたと聞いた時、その気持ちが痛
いほど分かった。
自分にとって今の武惑のラグビーは
まず怪我をしたくない、でも怪我を恐れていてはラグビーしゃない、その兼ね合いが難し
いと感じる。やはりプライド(チームに迷惑をかけるようなプレーはしたくない)また仕事
を離れた人間関係の気楽さを感じている。楽しいラグビーだけど同じケームをするんだっ
たら勝ちたいといつも思っている。
私とラグビー
バックス
矢田部
鉄
始めるきっかけ
私がラグビーを始めて、今年でちょうど30年になる。今、53才だから、23の時に
ラグビーに出会ったわけだ。きっかけは、勤務していた春日部東高校の生徒たちが、ラグ
ビー部を作りたいから、顧問になってくれませんかとやってきたことだ。ラグビーのこと
は何も知らなかったが、引き受けることにした。今、振り返ると、多分、生徒たちの熱意
にほだされたのだろう。また、自分も若くて、何か一生懸命汗を流すことがやってみたい
という気持ちもあったのだろうと思う。ラグビー部の設立は、応援してくる人もいて、2
年間ほど奮闘したが、校長や教頭、その取り巻き連、グランドや有能な部員を取られるか
もしれないと危惧した体育科教師達の同意が得られず、結局、認められなかった。生徒達
も私自身も大いにがっかりしたが、ラグビーというスポーツと出会えたことは、とても良
かった。
ラグビー部の顧問になる以上は、ラグビーを知らなくてはということで近くでやってい
るところはないかと探したところ、春日部高校で当時ラグビーの指導をやっていた人に行
き当たった。八木崎駅前の書店「愚公堂?」のご主人だった。高校時代は、選手として国
体にも参加したとのことであったと思う。そのご主人の案内で、とある日曜日、練習に参
加しようと見に行ったのが、武里団地内にある大場小学校。ふだんは、武里クラブ(春日
部クラブの前身)が練習しているのだが、この日はどういうわけか、ラグビーをしている
人はいなかった。そこで、その足で、次に見に行ったのが、せんげん台の順天堂大病院の
グランド。ここで練習していたのが、越谷クラブ。たしか、武里クラブも練習していたと
思う。その次の日曜日から、毎週ここに通うことになり、自然に越谷クラブに入ることに
なった。こうして、私は、だんだん、ラグビーになじむようになっていった。生徒達の方
にも学校でできないのは残念だが、部活動もやっていないのだから、社会人クラブでやっ
てみないかと誘ってみたが、来なかった。その後、20年以上も経ってから、かっての生
徒達に同窓会の場で会って、実は、自分たちだけで時々ラグビーをやっていたんだと聞い
た。当時知っていれば、一緒にプレーする機会も作れたのではないかと思う。
初めての試合
初めての試合は、練習を始めてから、半年ぐらいたった秋の日のことだ。場所は、蓮田
市の北海製罐のグランド。相手は、北海製罐だったかどうかは記憶にないが、見事なまで
に一方的に攻めまくられ通しで、5,60点は取られたかと思う。防御ラインをズタズタ
にされたのだろう。何度も背後から相手にタックルに行って相手を倒したのをよく覚えて
いる。試合は大負けだったが、ラグビーの試合を初めてできたということで気持ちがわく
わくしていたのだろうか。
「楽しかった、おもしろかった」と記憶している。その日は、試
合が終わってから、一日にこにこしていたと思う。チームの仲間達に、
「なんだ、こいつ試
合に負けたのに、にこにこと嬉しそうにして」と変な顔をされたかもしれない。
ファインプレー集
タックル
ラグビーを始めて何年にもなったころ、センターをやっていた時か。セット
プレーのスクラムから出たボールを相手チームが回す。トイ面を止めてやろうと気合を入
れてタックル。相手の腹に肩から入った。
「グウウー」というようなうめきが聞こえた。そ
れを見ていた森田さんが、思わず、
「矢田部を見ろ!」いいプレーだと、反射的に声を出し
て認めてくれた森田さん。ありがとうございます!
キック
ラグビーを始めて数年の頃か、越谷クラブでいつも練習に使っていた市のグ
ランドで試合をした時のこと。センターをしていて相手方陣地内のかなり左側から、オー
プン側に大きくパントキックを試みた。蹴られたボールは、反対側のタッチラインをバウ
ンドして超えて行った。大きく陣地を取った。右側がとても良く振り上がった記憶がある。
ボールを蹴ったときのあの感触も忘れない。あの心地よさ!自分でも、なんであんなに遠
くまで蹴ることができたのかわからない。あれは、まさにまぐれの一発だった。その後今
まで、練習の時も含めて、ただの一度も、あんなに遠くまでボールを蹴れたことはない。
自分は、キックは得意でない。あれは、自分のラグビー人生で、最初で最後の美しき心地
よきキックだったのだろう。
ランニング
20代の頃。相手チームは、三郷クラブ。江戸川の河川敷のグランドだった。
ハーフライン、左側タッチラインあたりから、専修大学出身のスクラムハーフからのパス
を受けた。こちらの腰に絡もうとするトイ面の腕を勢いで払いのけ、進路をはばもうとす
る相手方選手を4人、5人かわし、敵陣ポールの間に飛び込んだ。チームメイトの和賀さ
んが駆け寄って来て、トライをたたえてくれた。
チェンジ・オブ・ペース
やはり、20代の頃か。国際基督教大学のグランドで東京のが
まクラブが相手。相手陣地内の左側。味方からパスを受ける。敵は、フルバックのみ。右
斜め後方から走ってくる。勢いがある。このまま走っていては捕まってしまう。そこで出
たのが、チェンジ・オブ・ペース。フルバックの選手は、前につんのめり、こちらの視界
は開け、
「行ける!」とその時、相手の片手がこちらの右足をつかもうと必死で伸びてくる。
足はつかまれなかったが、体のバランスを崩し、グランドに倒れてしまった。このあと、
ボールは生かされず、プレーは、中断。そこへチーム仲間の和知君(東北学院大学)が、
駆けつけ、
「先生!」と感激した面持ち。こちらも、その面持ちに感激。あまり国内で見る
ことはない(?)と思うが、そのチェンジ・オブ・ペースを、チームメートが見せてくれ
たということに、和知君は素直に感じてくれたのだろう。しかし、当の本人にとってもこ
のプレーは、不思議だった。チェンジ・オブ・ペースは、テレビで見たことこそあれ、練
習したこともなかったからだ。まして、自分ができるなんて思ってやしない。それが、と
っさに、試合の必要な場面で、それらしきものをやっちゃったのだから。でも、考えてみ
ると、こういうことはあるのだろう。テレビで見たチェンジ・オブ・ペースのプレーが、
印象的だったのだ。それが、頭の中にずうっと残っていて、きっと何度も何度もその場面
を反芻していたのだろう。イメージトレーニングになっていたのだろう。意識してやって
いたわけではないが、結果としてイメージトレーニングになっていたのだ。ちなみに、こ
のチェンジ・オブ・ペースも、生涯に一度きりだ。しかし、このプレーは、キックと違っ
て、足腰がしっかりし、体調が万全ならば、らしきものはまだ再現しそうな気がしないで
もない。
私とラグビー
鳴海金吾
フォワード
高校に入学しラグビーを始めたとき、そし
て武惑への入部、私は、これまでに2度ラ
グビーと出会う機会があった。それぞれに
ついて振り返ってみたい。
高校。私が初めてラグビーをプレーした時
期だ。私は、中学時代に水泳をやっていたこともあり、チームでプレーするスポーツをや
ってみたいという思いを持っていた。大会で泳ぐ前の緊張、チームプレーだったらそんな
緊張も少しは和らぐのではないかと考えていた。
そんな中、通学路にある高校のグランドで行われているラグビーの練習が楽しそうに見え
た。横に並んでボールをパスしながら走っているのは格好よく、モール、ラックで押し合
っている練習などは実に楽しそうであった。雨の日でも大きな声を出してボールに目がけ
て走っている、むしろ雨の日のほうが楽しそうであった。
このような思いから、高校に入学し、部活動の紹介、勧誘の時、躊躇なくラグビー部に入
部した。こうして私の1回目のラグビー人生が始まったのである。
30 代半ばになりラグビーについて行く体力がなくなったと感じたこと、友人から誘われて
走ったマラソンが面白かったこと、などから、このころから、走ることが中心になってい
った。フルマラソンを完走したい、ベストタイムを更新したいとの思いから、休みの日は
一人で黙々と走り続けていた。
しかし、最近、ランニングに出かける前、シューズの紐を結んでいるときに、いつまで走
れば終わりが来るのであろう、趣味を通して友人がいないなあ、などと、ふと思うように
なっていた。
昨年、学生時代のラグビー部の OB 会があったときのことである。OB 各自が近況を報告
しているとき、何人もの OB が老体に鞭打って地元のラグビークラブに所属しラグビーを
続けていると報告していた。それを聞いているうちに、アルコールが入り私もハイになっ
ていたせいもあり、やっぱりラグビーかなあ、ラグビーをもう一度やらねば、という思い
が、だんだん大きくなっていった。そして、2回目のラグビー人生始まりを決意したので
あった。
私とラグビーとの出会いとは、チームでプレーするスポーツへの想いである。試合の後、
毎回と言っていいほど着いてくる身体の痛みにもめげずラグビーを続けられているのは、
いっしょにプレーする仲間がいるからである。そして、ラグビーをしていると、楽しかっ
た若いころにもう一度戻れるのではないかという思いである。ボールを持ってインゴール
に飛び込みトライした瞬間、学生時代にタイムスリップできるかもしれない。
私とラグビー
フォワード
原
信幸
武惑クラブの創立 30 周年を迎えるにあたり、幾多の先輩方が築いてこられた伝統に敬意
を表すと共に、その末席に自分の名を連ねさせていただくことを光栄に思う次第です。
自分がラグビーを始めたのは高校 1 年の時ですが、その動機は、中学 3 年のときの国体
において地元で開催された社会人ラグビーを目の当たりにした(当時は新日鉄釜石が全盛
期に差し掛かる時期であり、小さな体でありながら日本代表にも何度も選出された森選手
が俊敏に動き回っていたことを思い出します。)こともありますが、団体競技としては最も
選手の数が多い(1 チーム 15 名、両チーム合わせて 30 名)ことから、レギュラーになり
やすいかも知れない、といった若干不純な動機も含まれていました。
高校では、1 年生の新人戦の県大会で優勝、2 年生の 5 月の関東大会出場と、順調に戦績
を築き上げてきましたが、関東大会終了後多くの 3 年生(自分の 1 年先輩)が進学準備の
ため引退したこともあり、その年の花園出場は果たせませんでした。
しかし、奇しくも自分の世代がラグビー部創立 30 年目で、先輩たちからも強力なご指
導やご支援をいただけるようになり、3 年生引退後の新チームにおいて自分が 30 代目の主
将を仰せつかったことも加えて、勉強は二の次(まぁ、単に成績が良くなかったことの言
い訳にしかなりませんが)で、とにかく花園目指して精進していました。
残念ながら、高校 3 年の全国大会県予選(11 月)の決勝で敗れ、創部 30 年目の花園出
場の夢は潰えてしまいましたが、翌年 1 年後輩の頑張りにより初の花園出場を果たしてく
れ、OB として、また直ぐ上の先輩として誇りに思えたものです。
お約束どおり 1 年浪人の後に進学した大学では、1 年の正月に全国教育系大学全国大会
に推薦出場する機会に恵まれ、初めて正月に公式試合をそれも名古屋の瑞穂ラグビー場で
行えたことが、今でも鮮明に覚えています。その後、正月にテレビでラグビーの試合を見
ることはあっても、自分が試合に出ることはありませんでしたから、このことはこれまで
のラグビー人生の中で最大のイベントであったのかも知れません。
その後、社会人となってからも会社の同好会で続けていましたが、仕事が忙しくなるに
つれて、ラグビーの試合、練習から次第と足が遠のくようになり、都内の本社に転勤とな
ってからは、完全にラグビーとは縁のない生活となってしまいました。やがて筋力が衰え
始め、遂には慢性的な腰痛(第五腰椎分離症+椎間板ヘルニア)に悩まされ、コルセット
が外せない日々が 10 年程続き、医師に相談したところ、
「あなたの場合、手術をするほど
の重症でもない。社会人になってスポーツをしなくなったことで、腹筋や背筋が衰えたた
め、腰椎を支えることが困難になっているのです。通勤時にはよく歩くように心がけ、徐々
に運動をして腹筋や背筋を鍛えるようにしてください。」との診断が下されました。
タイミングのいいことに、丁度そのころ、同じマンションに住む鈴木さんからいっしょ
に不惑でラグビーをやらないか、とのお誘いをいただき、
「武惑クラブ」の門をたたくこと
になり、今日に至っています。
ラグビーを始めて 30 年(若干サバ読み)が経ちましたが、試合中はともかく、ノーサ
イドの笛が吹かれアフターファンクションでは相手チームとも和気藹々とコミュニケーシ
ョンの輪を広げられることが、今の生活の中で最も充実した時間であり、今後もこの時間
を大切にしていきたいと願っております。
こうして振り返ってみると、
「30」と言う数字が、一つの節目を示す数字であるととも
に、自分にとってのラッキーナンバーであるような気がしてなりません。ラグビーが両チ
ーム合わせて 30 人で行うゲームでなければラグビーを始めていなかったかもしれません
し、高校で 30 代目の主将でなければ、恐らく 3 年の 6 月でラグビー部を引退していたで
しょうし、そうなるとその後の進路も、そして人生も変わっていたかも知れません。残り
の人生においても、「30」と言う数字を自分の Valuable Number として、大切にしていき
たいと思います。
IT 業界で働くため転職が多く(.
..?)
、転職の度に仕事に拘束される時間が増え、試
合や練習にドタキャンする回数が増えており、チームの皆さんには多大なるご迷惑をおか
けしている今日この頃ですが、楕円のボールを通しての交流拡大と自分自身の健康増進の
ため、可能な限りラグビーを続けて行きたいと思います。
私とラグビー
日向野正行
バックス
中学生の私は、ありきたりの毎日に物足りなさを感じながらも、クラブ活動中の校庭を横
目に帰宅をしていた。高校に入学し、
「何か燃えられることをしたい」と思い、その当時活
動を始めたばかりのラグビー部に入った。それまでろくに運動もしていなかった私は、当
然何もできなかった。走れば足を挫き、パスを受ければ突き指をした。夏の暑い日は水も
飲まないで走った。冬はシャーベット状の雪の残るグランドで何度もセービングをした。
それでもチームの中では本当に下手で、使えない自分であった。情けない自分だけれど、
誰かに誘われてはじめたのではなく、自分から入部したのだから、厳しく辛く、辞めたい
けれど、辞められなかった。両親や、担任の先生からも「辞めればいいじゃないの・・・」
と何度も言われた。
「・・・」は「活躍できないのだから」と自分には聞こえた。そんな言葉を言われれば言
われるほど「辞めるもんか!」ここで辞めたら情けなさ過ぎると強く思っていた。
「根性」
「根性」と言い聞かせてボロボロに、フラフラになりながら通学路を帰った。そんな時中
学時代の運動神経抜群の友人も柔道ではあるが、私と同じ厳しく、辛い練習でくじけてい
ることを聞いてなんだか元気が湧いてきた。
辛いのは自分だけではなかったのだ。
そんな高校時代の経験が、自分の血となり肉となり、自我を形成してくれたのだとつくづ
く思う。だからこそ、受験でも、大学のチームで最後までレギュラーになれなくても、仕
事が辛くても踏ん張れた。ラグビーをしていなければこんな今の自分にはなれていなかっ
たと心底思う。ラグビーに出会えて本当に良かった。
20代の頃の会社のチームでは、そんな大学までの下積みがあった為、比較的上手プレー
ヤーとしてチームを引っ張っていく役割ができた。
30代は、段々チームの長老になりつつも、ラグビーで走っている自分の姿をまだ小さい
息子、娘に見せたいと思いながらラグビーを続けた。息子には是非ラグビーをさせたいと
思っていたが、何度も骨折する親父を見て、残念ながらサッカーに行ってしまった。
40代前半にはラグビースパイクを買う度に、
「このスパイクが最後かな・・」と思ってい
たが、昨年埼玉に越して来て武惑の仲間に入れていただき、引退なんてまだ先で自分はま
だまだ若手であることを痛感した。
ある作家は『よしんば肉体は生きていても精神はとっくに死んでいる、健全な肉体にしか
健全な精神は宿らない』と言っている。
又、大学のクラブの先生は『
「スポーツはフィクション」であるから負けられることが出来
る。負けることのできないリアルな世界である人生に負けないための教訓を学べばよいの
である』とおっしゃっていた。
少しでも健全な精神状態を保てるように、又会社の憂さを晴らせるようにとラグビーを続
けたい。
今まで色々なチームでプレーができたお陰で、たくさんの仲間とも知り合うことができた。
頻繁に連絡を取り合ったり、会えたりはできないが、チームメイトの笑顔、試合の場面の
一瞬一瞬が自分の脳裏に刻まれている。この仲間と数々の思い出は自分のすばらしい財産
であると思う。
武惑クラブでまだまだ財産を増やしていきたい。
私とラグビー
ジャーマンスープレックスホールド
内藤
稔
フォワード
23 歳でラグビーボールを初めて触った時、革の匂いと、ダークブラウンの色
円球には無い美しい形状が印象的でした。
しかし、その時にはラグビープレイヤーになるとは想像もしていない自分がいたことを
覚えております。万が一怪我でもしたらデザインの仕事ができなくなる。(当時は全てが手
作業、目も、指先も一番大切な道具)
しかし、23 歳を迎える正月 3 日埼玉県草加市にクラブチーム「鉄人アトム」はささいな
きっかけで誕生します。
正月 3 日、春日部高校ラグビー部 OB 松丸(鉄人アトム初代キャプテン)と中学生以来
の友人である私は、他の仲間達と行きつけの店で昼間より酒宴を開いておりました、アン
トニオ猪木絶頂期の時代どの技が一番ダメージを与えるか友人達と話が盛り上がているそ
の時。
「内藤、ラグビーをやるとジャーマンスープレクッスホールドが、できる様な体になるん
だぞ」と松丸。
「いや、女にモテル」と慶応大学卒の春日校 OB。
酔っている私は、その時、陸上競技と一流デザイナーの夢を忘れ。
「本当か、その話は、真実ならやる」といきなりラグビーを始める事に。
翌、1 月 4 日より近くの小学校で初練習、秋の埼玉県南リーグ戦に参加すべく、熊谷工
業森監督に電話、いつの間にか主務に、若気の至りで、たまり場のスナックでは、来る女
性客、女性客全てに声を掛けマネージャーを勧誘。翌年の春より、県南リーグの C に「鉄
人アトム」は参戦をはたしました。
しかし、29 歳で現在の職場に移った私はしばらくラグビーと離れた日々を。
40 歳で、武惑の平田さんに会い、武惑に入部。ラクビーと再開をします。
紺パンを間じかに控えた現在、
「ジャーマン・スープレックスホールド」
は諦めましたが、
黄パン。赤パン・紺パンの諸先輩を目の当たりにして、定年後の「サイド・
〔再度〕スープ
レックス」への挑戦が始まると思っております。
※余談ですが、
「鉄人アトム」の名前は私たちの少年時代に一番強いヒーローの名前をフォ
ワード、バックスの合体をイメージして銘々。しかし酔っていた私たちが最初に付けたク
ラブチーム名は、
「おろし明太子」でした。
ラグビーとの出会いをと合う迄はラグビー観戦でりとめも無い話で時間を潰していた時、
プロレスの話でを時間近くも飲んでいたときクラブチーム鉄人アトムを創部して、プレイ
ヤーの仲間に入った時のことは今でも鮮明に覚えています
私とラグビー
武井
泰則
フォワード
高校に入って始めてラグビーに触れた。何故か毎年クラスに数名ラグビー部の奴等がい
て、「
(試合の時)密集の中で修猷の奴等をボコボコに蹴ってやったら、本気で怒りよった
けんねー」等と自慢げに話していた。弱小チーム。学校で試合のあった時、脳震盪で気を
失った後、正気づいてから大いに取り乱していた奴もいた。練習し過ぎて(?)ヘルニア
で入院した級友の部員を見舞いに行ったこともあった。
「とんでもない奴等のやるとんでも
ないスポーツ」だと思っていた。おまけに現国の教科書所収の『詩と反逆と死』の著者大
宅歩(評論家・大宅壮一の長男)は中学時代のラグビーの怪我が遠因で早世してしまった
という話。「まだ死んではかなわん」と、ますます自分とは異世界のスポーツとなった。
それが大分変わったのは大学に入って早明戦を見に行くようになってから。勿論サーク
ルの懇親活動の一環でしかなかったのだが、あの寒く晴れ渡った大競技場で味わう決戦の
緊張感に、知らず知らずと我が魂は魅了されていった。平成初頭の黄金時代を迎えるまだ
少し前の当時の我が母校は、強いのだか弱いのだかよく分からなかった。でも同期(他学
部だが)にその後代表キャップまでもらった快速国定精豪君がいたりして、なんとなく親
しみは深かった。文系サークルなのに、ラグビーには一家言ある先輩・同期らに囲まれて、
「好きなスポーツと言えばラグビー」と、なっていった。卒業してからも大学戦だけは見
続けた。雪の中の激闘、同点でトライ差に泣いた決勝。それらの時を経て、当時米国の大
学にいた私に届いたのは平成二年度大学選手権決勝のビデオ。我が母校ラグビー部はギリ
ギリまで鍛え上げた肉体と精神の精華を余すところ無く発揮。ライン際を駆け上がってい
った日本の翼・吉田義人選手の雄姿は、異郷で図書館と教室の往復に明け暮れていた男の
心を鷲掴みにした。「男だったらいつかはラグビー!」
埼玉県は浦和市に移り住んだのが平成八年四月。浦和ラグビークラブにご縁を得て、高
校の授業以外では初めての競技ラグビーを始めたのが平成十年の三月。齢三十五にして憧
れのスポーツを始めることが出来たのは、時代の移り変わり、歳を重ねたこと、様々な要
因に因るのだとは思う。しかし、今年平成十九年でついに十年目を迎え、未だに挫けずに
続けられているのは、ひとえに埼玉県南部でクラブラグビーを続けてこられた先達のお陰
によるとしか言いようがない。練習できる環境が身近にあり、集う仲間がいて、組織が機
能しているから、試合もできる。県内他所や他の都県にも同じような集団があり、勿論そ
のお陰で惑の交流もできるのだが、自分にとってはこの埼玉県さいたま市に住んでいるこ
とが、ラグビー人生成立に不可欠であったし、これからもそうであろう。この地域でいつ
までも、ラグビーの火が赤々と燃え続けるように、微力ながら参加し続けていきたい。
私とラグビー
副島
英雄
バックス
武惑クラブ設立30周年、誠におめでとうございます。
私は、昨年に不惑の年齢の仲間入りとなり、数えでの年齢より武惑クラブに参加させて
いただいております。クラブに所属してから2年ほどが経過しますが、この喜ばしい年に
クラブの所属メンバーであることに対して、大変光栄に感じております。
さて、記念行事の一環としての執筆の依頼に合わせ、私とラグビーの関係をあらためて
振り返ってみたいと思います。
私が、そもそもラグビーと出会ったのは、今から30年以上前、新日鐵釜石の黄金時代
のころであったと記憶しています。新年早々に、家族で秩父宮ラグビー場に赴き、全日本
選手権の新日鐵釜石VS早稲田大学の試合を観戦したことを記憶しています。当時は、釜
石全盛の時代で、バックスの松尾、森が活躍し、食い下がる学生に対し、危なげなく勝利
を納めていました。まだ、小学校に上がるか上がらないかの時分の私にとって、ラグビー
は全く未知のスポーツでありましたが、その時に感じたグランドでの観衆の熱気を今でも
覚えています。ラグビーとは無縁の父ではありましたが、スポーツを観戦することを趣味
とする父は、幼い兄と私を連れて、よく秩父宮ラグビー場に赴いてくれたものです。
その後、その頃の影響もあってか、兄は高校、大学とラグビー部で活躍し、私は大学か
らラグビー部を始め、勉学そっちのけでラグビーに勤しむ学生生活を送ることとなったの
です。
大学でのラグビー部での生活は、ラグビー三昧であったにもかかわらず(三昧であった
からなのか。
。
。
)
、かなり不幸なクラブ活動でした。と、いうのは、一生懸命練習している
にも関わらず、公式戦において全く勝てなかったからです。大学のラグビー部(一橋大学)
は伝統があるにも関わらず、人材不足もあってか、対抗戦グループに所属しておりました
が、在学期間中(5年間)、公式戦で3勝しか上げることが出来ませんでした。
。。
シーズンが深まる程に悲壮感のみが漂い、本当に辛い日々でした。結果が出せないとい
うことが本当に辛く、ラグビーシーズンが終わるとなぜかほっとしたことを今でも覚えて
います。
そんな中でも、嬉しかった記憶の中で、最も思い出に残っているのが5年目に唯一勝利
した東大戦です。私は、ラグビーに傾倒していたため?か5年目も学生としてラグビー部
に所属していました。新入部員から4年間はバックスとして活躍しておりましたが、5年
目は、チーム事情により当時の主将にお願いされフォワードに転向し、かなり私としては
無理目のロックとしてチームに所属していたのです。
東大戦は、公式戦と二軍戦の試合があり、二軍の試合が公式戦に先行して行われました。
私は、二軍のロックとして試合に出場し、試合を終えたところでした。レギュラーによる
公式戦の試合がはじまり、間もなく途中でロックの負傷により、二軍戦を終えた私が出場
することとなりました。それまでの4年間で一度も勝てなかった相手でしたが、その年は
チームとして弱体化していることもあり、その年の唯一の勝利を上げることが出来たので
す。私は、ほぼまる2試合行った疲労感と勝利への感激で呆然自失となっていました。
その後は、会社のラグビー部に所属し、ご縁があって、現在、武惑クラブに所属させて
頂いております。こうして改めて考えると、ラグビーとの出会いから35年もの年月が流
れ、プレーを始めてから20年余の年が流れますが、ラグビーに対する愛着は深まるばか
りです。それは、ラグビーは、私に素晴らしい出会いと友情をもたらしてくれるからだと
思います。ラグビーは、既に、私の人生と切り離せないものとして存在しています。今後
も、力の続く限り諸先輩方のように、ラグビーにはチャレンジして行きたいと思います。
若輩ものではありますが、今後とも宜しくお願い致します。
私とラグビー
須田
淳
フォワード
私とラグビーの出会いは、高校に入学した15歳の春でした。中学校では文化部(写真
部)に所属し、運動といえば体育の時間や仲間との遊び程度しかやっていなかったのです
が、高校に入ったら運動部に入ろうと決めていました。何か得意な競技はないかと考えた
挙句、バスケットボール部に入ろうと決意し、周囲に宣言していました。
しかし、同じクラスになった友人がラグビー部の見学(体験入部)に行こうと言うので、
ラグビーなど見たこともないのに付き合いで参加したのが運の尽きでした。
初めて触った楕円形のボール、真っ直ぐ投げようとしても上手く投げれず、落とすと何
処に行くか判らないし、やっぱり俺には合わないなと思ったのですが、貫禄のある?当時
の恩師に「明日までに入部届を提出しなさい」と言われて、当事まだウブだった為に嫌と
も言えず、翌日から練習に出ることになってしまったのです。
毎日練習に出てボールを投げたり蹴ったりしていましたが、ルールが良くわからず、先
生曰く「本屋にラグビーの本が売ってるから勉強しておけ」みたいな感じで、仕方なく本
屋でルールブックを買って読みましたが、中学校時代に文化部だった私にはオフサイドす
らよく理解できませんでした。
私の通っていた高校は私の代で2期生でしたので、1、2年生しか居なく、1年生の新
人でも直ぐに試合に出ることができました。初めての試合の時には非常に緊張し、また、
よくわからない内に試合が終了してしまいましたが、大敗したことだけは覚えています。
高校時代に、日々練習や試合、合宿等に出る度に徐々にラグビーの魅力に引かれ、度々
試合にも勝つようになりました。そして、3年間ラグビー部に所属(就職活動の為に休部
していたので2年半かな)し、有り余る体力を活用できる?埼玉県警に就職しました。
就職後、4年目にして県警機動隊へと異動となり、そこで埼玉県社会人リーグに参加し
ていたラグビー部に入部し再びラグビーを始めたのです。高校時代は大した成績も残せな
かったのですが、機動隊ラグビー部は未経験者が大半にも係らず、私が入部してからの試
合で負けたことが1度も無く、県内社会人チームの中でも強豪チームとして名が通ってい
たのですが、怪我人が多く仕事に支障が出るという事で、私が入部して半年も経たずに廃
部となってしまったのです。
それからというもの、ラグビーとの縁が遠くなってしまい、年に1回高校時代の仲間が
集まって昔のラグビー談義をするくらいで、また、仕事の関係で少し武道をやる他は身体
を動かす機会も減っていきました。35歳を超えた時には、運動不足と栄養過多に陥りま
したが、それでも新たにスポーツをやるといっても思いつくものが無く、ズルズルと40
歳を超えてしまったのです。
そんな時に、年1回の高校時代のラグビー部の定例会(飲み会)に出席した際、某友人
が、
「40歳を超えた社会人のクラブに加入してラグビーをやっている。良かったら参加し
ないか。
」という話を持ち掛けられたのです。私は、40歳過ぎの人達がラグビーをやって
いる事など全くを知りませんでしたので、
「40歳を超えた人たちのラグビーだったら、体
力的に付いていけるだろう。ラグビーならやっていたから大丈夫だ。」という安易な気持ち
で、同じ様な安易な考えの先輩と一緒に埼大グランドに出向いたのです。
しかし、そこで待ち受けていたのは、日頃の運動不足を露呈する惨めな自分でした。失
礼ながら、見た目で私より遥かに年代が上であろう人達が、難なくこなしている練習に付
いていけず、そんな自分に嫌気さえ感じてしまったのです。と同時に、40歳を遥かに過
ぎた人達のパワーに驚き感動しました。
仕事が交替制の為に、毎週参加は出来なかったのですが、次回の練習までには何とか皆
に付いて行くだけの体力をつけなければという思いから、毎日とはいかなかったものです
が、走り込みを始め、ようやく3ヶ月目くらいで練習に付いていける様になり、正式に武
惑クラブに参加する(できる)こととなったのです。
昨年の9月に参加した草津合宿で、試合開始早々に怪我をしてしまい、現在は練習にも
出席していませんが、また、武惑の皆さんと一緒にラグビーをやりたいという思いから、
仕事の合間に走り込み(リハビリ)をして早期復帰を目指しています。
あらためてラグビーと、また、武惑クラブに参加させて頂き、様々な職種や経歴の方々
と(県内、県外の方達との交流も)ラグビーが出来ることに感謝すると共に、末永く武惑
クラブに参加し、生涯ラグビーが出来るようにしたいと思いますので、皆様これからもご
指導をお願い致します。
私とラグビー
山本
俊嗣(S39.9.29)
バックス
ラグビーとの出会い
福岡県西部にある田舎の小学校にラグビース
クールが創設されました。
不思議な楕円型のボールを小脇に抱え、
ユニフォームの白い襟を立て、革のスパイクで
ザックザックと運動場の土を踏みしめて颯爽と走るコーチの姿に小学校5年生の私は
憧れました。そこから私のラグビー人生がスタートしました。
最初のポジションは、ハンドリングとキックの練習が好きでスタンドオフになりました。
少しでも上達したくて年末年始のテレビで試合を観戦し歴代の名スタンドオフに憧れ
『いつの日か・・・・』と一人グランドでキック練習を行う、夢見る少年でした。
そして、地元の県立糸島高校に進学し更に厳しいラグビー生活が始まりました。
練習時間は福岡県でNO1を自負できるほどの練習量で毎日4時間半、鍛えられました。
熱心な先生とOBの指導で、バックスとしての基本技術を身につけ、自分に負けない強い
心を学びました。チームメイトと花園の全国大会を目指し走り続けました。
勝ちたい!負けたくない!でも結果が出ない・・・。ラグビーを楽しめない時期がありま
した。そんな中途半端な気持ちで試合をして大ケガ、2ヶ月の入院生活となりました。
チームをそしてラグビーを離れて初めて大切な事がみえました。
『やらされていてはダメな
のだ!自分自身がやらなきゃ変われないのだ!一人じゃダメなのだ!みんなの力が必要な
のだ!』それから、今まで以上の気合で練習に取り組みました。しかし、福岡大会で勝ち
抜くことはできず、花園の芝生を踏むことはありませんでした。
ラグビーの楽しみ
その後、福岡大学ラグビー部に入部し、幸いにもキック力をかわれ2年生からスタンド
オフとして3年間公式戦に出場できました。4年生頃には、体格も体力も充実し練習環境
に優れ、積極的な姿勢で挑んだ結果、技術やラグビー戦略をたくさん身に付けることが
でき、初めて心からラグビーを楽しめた時期でした。
また、地域代表や選抜チームに選出され外国チームと対戦し、世界のラグビーを体感し、
もっとラグビーという競技を突き詰めてみたいという熱い気持ちが湧いてきました。
しかし挫折もあり、九州でのライバル校に2年連続で、私のキック失敗で惜敗し悔しさ
を味わいました。4年生の時、その悔しさをバネにチーム一丸となって見事にライバル校
に雪辱し4年ぶりの大学選手権を勝ち取ることができ、勝ことの本当の喜びを知りました。
ラグビースキル習得の楽しみ、チームメンバーとして成長する楽しみ、世界のラグビーを
知る楽しみ。ラグビーからたくさんの楽しみをこの時期に学びました。
ラグビー
マッチ
『東京でラグビーをしてみたい!外国チームと試合をしてみたい!』小学校の時、
テレビを見て夢を見た舞台に立ちたいという気持ちで福岡から上京、現在在職する
サントリーに入社しました。
入社時のサントリーは、SH小西・SO本城・CTB吉野・WTB大貫・FL葛西・
NO8土田 (敬称略)まさにラグビーマガジンの世界、超有名人ばかりのチームでした。
このチームのフィフティーンに入り生き残るため、入社直後よりフルバックとしての
猛特訓が始まりました。練習前にはキックノックの嵐、そして練習後にはボロボロに
なるまでの生タックル。春と夏の合宿は、ダボスの丘を倒れるまで壮絶なタイムトライア
ル走。今までに味わったことの無い厳しい練習でした。
しかし、この激しい練習のおかげで社会人リーグを、そして海外の選手と戦える体力と
自信が出来上がりました。自分との戦い、チーム内での戦い、相手チームとの戦い
本当に厳しい時期でしたが、戦いの中にいる充実感や緊張感を楽しめた時期でした。
勝った試合の記憶はあまり無いのですが、唯一、(故)宿沢監督が采配を振るった
スコットランド戦は今でも一瞬一瞬が走馬灯のように浮かんできます。
当初、私はリザーブメンバーでフルバックは神戸製鋼の細川選手が務める予定でした。
しかし、前日のチーム練習で彼が太腿に痛みを感じて、宿沢監督と植山コーチが不安げに
「山本頼むぞ!」急遽メンバーを変更しての出場でした。試合では相当失敗しているので
すが、チームメイトのお陰で歴史的な勝利を勝ち取り、私の一生の思い出深い試合です。
今更ながら、みなさん、ありがとうございました。
ラグビーと武惑の仲間
サントリーラグビー部を引退した後は家族との時間と仕事に専念するはずでしたが
長年この手で抱えてきたボールが恋しくなり、気が付くと武惑の仲間とグランドに立って
いました。武惑の仲間は、心からラグビー人生を愛し、楽しみ、尊敬し合うメンバーです。
これこそが、永遠のラグビースピリッツ!
NO
SIDE
SPIRITs!
私はこれからも武惑でラグビーを楽しみ続けます。なぜなら惑の仲間のグランドには、
私が小学生5年生の時に見た、不思議な楕円型のボールを小脇に抱え、ユニフォームの
白い襟を立て、革のスパイクでザックザックとグランドの土を踏みしめて颯爽と走る
憧れの白髪ラガーマン達に会えるからです。そして『いつの日か・・・・。
』
終
私とラグビー
岡田
洋
「えっつ!!、ラグビーにワールドカップって、あるんですかー∼∼∼???」
ついこないだ、若い女子社員が、言ってた言葉が、耳から離れない。寂しい限りである。
「いまだに、国立競技場の最高入場者競技は、ラグビーなんだよ♪」
、と、
説明する気も、なくなった・・・。
私がラグビーを本格的に始めたのは、中学生のころから。兄の影響である。
大学まで続けた。OB会、試合等も、20歳台のころは、結構参加していた。
しかし、30歳台は、仕事、結婚、いろいろあり、「ラグビー」から遠ざかった。
厄年である。42歳の時、ふとしたきっかけから、OB会主催の「OBフェステバル」の
お手伝いをすることになった。丁度、2年前である。
その歳、
「現役高校生と、同期で、試合をしよう!!」、ということとなり、自分達の代上
下に声を掛けた。先輩方、後輩達が「みな笑顔」で、結構集まってくれた。
20数年ぶりに会う先輩、後輩も・・・。しかし、皆、「あの時のまま」
そのために、スパイクを買った。各メーカー、カラフルで、
「びっくり」。
迷わず選んだスパイク、スズキ「BLUE
SOULE」
。
試合、3本1本で、負けた。
結果は関係ない。かけがえのない、「1時間」。
10数年ぶりの、
「ラグビー」との、出合い、無駄にしたくない。
私が、思うこと、
「ラグビー」と言うスポーツは、人と人を繋げるスポーツ!」
「身内だけでなく、全然知らない所へ、飛び込んでみよう」
「元気の、源」
「好きです、ラグビー」
私とラグビー
副会長
村
精治
バックス
「真っ黒に日焼けして健康そうだが、
何かスポーツをやっているのか」
、と質問されると「ハイ、ラグビーを」
、と応じはするが
内心忸怩(じくじ)たるものがあります。その理由をここに述べます。
昭和34年4月、1年浪人してやっと入学した千葉大学の稲毛校舎の教室でぼんやりし
ていると、同級生の溝尾達が突然「ラグビー部を作るから参加しろ」と言い出しました。
溝尾は、浦和高校のラグビー部出身で千葉大にはラグビー部がないので創設するというの
です。私は、世田谷区にある都立千歳高校でサッカー部でしたので、そちらの部に入ろう
としていたのですが、溝尾の熱意に負けて創設メンバーになってしまいました。
必要な人数を強引に集め、文理学部教育学課体育科の下平教授に部長になっていただき、
47年前に千葉大学ラグビー部が出来上がったのです。ですから、私は、創立者の一人と
いうわけです。当時のメンバーは、すべて1年生で、私の所属する工学部写真印刷工学科
から6人、同部建築工学科、同部機械工学科、文理学部教育学課、薬学部などから数人ず
つというように顔ぶれは多彩ですが、急造運動部の悲しさで高校時代の経験者は、わずか
4人というものでした。ですから私のラグビー暦は、新設の大学ラグビー以降ということ
になります。
千葉大学は、国立大学ですが、医学部、薬学部および園芸学部を除いてキャンパスはす
べて旧日本軍の敷地・兵舎跡でした。しかも教養課程のある文理学部(社会科学系および
自然科学系)は、総武線の稲毛町、医学部と薬学部は、千葉市、工学部および園芸学部は、
常磐線の松戸市というように1、2年生は、すべて稲毛へ、3、4年生はそれぞれの学部
へと分散するために体育会系運動部活動は、人集めと練習場所の決定に苦労したのです。
従って、どうしても部員は我々工学部中心にならざるを得ませんでした。しかしながら、
グランドは広いし沢山ありましたので練習場には事欠きませんでした。合宿も、稲毛校舎、
安房勝山の大学研修所、山中湖の大学研修所、安房鴨川の安房農高、常陸太田市の茨城大
学など練習のきつさを除けば貧乏学生にとって大変楽しいものでした。
当時の千葉県には、千葉工業大学と東邦医大のみがラグビー部のある大学であり、全日
本選手権にはこの2校に勝てば東京代表と秩父宮で戦えるという素晴らしい条件下にあっ
たのです。とはいうものの、千葉工業大学のラグビー部は我々素人集団とは異なり、東京
の日本学園や、埼玉の熊谷商工の卒業生が主力メンバーであって素晴らしいフォワードを
擁し、当方3トライ以下で、相手が5トライ以上の点差でどうしても勝てませんでした。
熊谷有惑クラブの隈部さんも在籍しておられました。当時は、どこからのダイレクトタッ
チキックでも認められていましたので、1年から4年までスタンドオフを務めさせてもら
い一生懸命キックしましたが、バックスよりもフォワード劣勢の悲しさで私はいつも千葉
工業大のバックロー陣のタックルの餌食となっておりました。
初めての試合は、錦糸町にある対両国高校戦でしたが惨敗しました。その後の試合相手
は、東京の大学の体育会系ではなくクラブチームとの試合がほとんどでした。明治大学工
学部、慶応大学工学部、法政大学、理科大学、武蔵工大、東海大学工学部、一橋大学(こ
こだけは体育会系)などでした。早稲田大学や慶応大学のクラブチームとは試合をしても
らえませんでした。国立大学関東甲信越体育大会への参加も楽しい思い出です。宇都宮、
甲府、埼玉などを会場として関東甲信越の国公立大学が参加しました。我が、矢和田さん、
西山さんの出身校である水産大学が、圧倒的に強かったのを覚えています。千葉大の強さ
(?)が想像できますね。
昭和38年3月の卒業式の日の帰途、我が千葉大学ラグビー部創設の最大の功労者であ
り、4年間主将を務めてくれた溝尾達(さとし)が列車から転落して亡くなってしまった
のが、最大の痛恨事です。三菱製紙に就職も決まっており、もし生きていれば浦和高校の
卒業生ですから、浦和高校OBとして浦和クラブ、武惑クラブなどに関わってくれたので
はないでしょうか。当クラブの根岸さんと川端さんの間の卒業年度になります。昭和38
年に埼玉県大宮市(さいたま市)にある富士写真光機(現在のフジノン)株式会社に就職
したのも、溝尾の紹介でした。彼の兄である溝尾久さん(やはり浦和高校ラグビー部)が
カメラ部設計課に在籍していたためです(後に富士ゼロックス常務)
。
富士写真光機に就職後は、東武野田線豊春駅から同大宮公園駅までの電車通勤で企業人
としてラグビーとはまったく無縁の毎日を送っておりました。昭和40年代の終わりごろ
でしょうか、電車の中で私の隣で2人のたくましい青年紳士が、大変楽しげにラグビーの
試合の反省をしていました。
その後何度もこの方々に電車でお目にかかっていたのですが、
その内の1人に思い切って名乗りを上げてどこの会社の方か恐る恐る聞いてみました。こ
れが、私とラグビーの再会となりました。なんとその方が、現在武惑クラブ、当時大正製
薬の篠邦夫さんでした。篠さんは、大宮公園駅の付近で会社の送迎バスに乗っていたのだ
そうです。
次のラグビーとの出会いは、浦和クラブです。読売新聞の埼玉版に土方さんが浦和クラ
ブのメンバーとして紹介されており、その縁で浦和クラブへ入れていただいたのです。浦
和クラブには、青野(武惑初代会長、故人)、長谷川(故人)、番場、栗原、松村、藤、古
木(房惑)、伊藤(故人)
、横本(元武惑)などの皆さんがお元気で、ほとんどの方々が現
在の武惑年齢でした。その後、小学生から20才台の若者が集まりだし、チームとしてわ
が元山会長の創設された県南リーグに、個人として武惑クラブに参加することになりまし
た。浦和クラブは、当初は、浦和高校で、次いで埼玉大学に練習グランドを移しました。
埼玉大学では、現在まで小川瑞穂教授に今日に至るまで大変お世話になっています。小
川教授は、埼玉大学の卒業生で、同大学で理学博士として生物学の教鞭をとりつつ学生部
長も務められ、退官されるまでラグビー部の部長としてまた県協会の理事として活躍され
ました。従って、小川先生には、浦和クラブだけでなく、コスモスもさくら草も世田谷女
子ラグビーも練習場を提供して戴いたというご恩があります。今も、武惑クラブがお世話
になっています。
浦和クラブには、当時キャプテンとして速水国基さんが活躍してくれていましたが、い
つも二人の息子を連れてきておりました。長男は、埼玉栄高校のラグビー部で活躍しまし
たが、弟のほうは、熊谷のちびっ子ラグビーから農大二高へ進み、花園でのプレー振りを
が話題になりました。その後早稲田大学から東京ガスで現在も選手としてがんばっていま
す。浦和クラブは、残念ながら、若手メンバーを補充できずに県協会から脱会せざるを得
なくなりました。しかしながら、その当時の主力メンバーが、武惑クラブで活躍している
のは皆さんご承知の通りです。栗原、根岸、茂木、鈴木(富雄)、横山さんなどです。
武惑クラブへの参加は、昭和51∼52年ごろではなかったかと思います。今で言う未
惑の年齢でしたが、試合に15人集まれば良い方でしたので、常時出場させてもらいまし
た。グラウンドは、ローデムパークで、グランドには芝生部分もあって素晴らしい環境で
した。
2003年の5月に元山会長のお薦めもあって、群馬惑々クラブのゴールデンオールデ
イズ(世界不惑大会)第14回大会(オーストラリア・ブリズベーン)参加にお供させて
戴いたのも武惑クラブメンバーであったことの大きな経験でした。
不惑クラブの創立35年記念誌によれば、この世界不惑大会は、昭和45年の全カナダ
チームの日本遠征時に日本の不惑チームの存在を見聞した(三惑対抗戦)ことから始まっ
たのだそうです。その後、あっという間にカナダから英国をはじめとして世界の英国系諸
国であるオーストラリア、ニュージーランド、その付近の諸島、南アなどから世界のラグ
ビー愛好国へ伝染し、昨年は、第15回をアメリカのサンディエゴで、今年は、ニュージ
ーランドのウエリントンで第16回を開催するのだそうです。
日本が起爆剤になったのに、面白いことに、この大会が、35歳以上の不惑メンバーが
妻同伴でラグビー大会を楽しむツアーに変化していることです。開催地にもよりますが、
オーストラリアのブリズベーン開催のときは、この広い豪州大陸の各地からラガー達が、
友人達(もちろん妻達同伴)と共に車を連ねてホテルおよび野宿を重ねてやってきたと聞
きました。また、米国からのチームは、ブリズベーン駅にあるシェラトンホテルに我々と
同宿でしたが、ホテルの一人数千円の朝飯バイキングを8日間の滞在中きちんと夫婦でと
ったそうです。我々は、駅近くのビジネスマン向けのサンドイッチ屋で千円以下の朝食を
とりました。そんなことを米国人の夫が行ったら、多分離婚訴訟にまでいたるのではない
でしょうか。
人生を太く短く楽しもうというのが彼ら欧米人の生き方のように見えました。
実際、2005年に米国サンディエゴ対戦したイタリーチームの平均年齢が、43歳でし
たし、群惑の皆さんの平均年齢が62歳でした。近頃の日本人の健康維持と長生きがはや
っていますが、どちらの生き方が楽しい生き方なのか考えさせられます。などとほざける
のもラグビーをやっていて世界不惑大会に参加して各国のラガーの実態を見聞きしている
ためでしょうか。
また、武惑クラブは、クラブ遊(NPO)の有力メンバーであり、埼玉県福祉事業団の
障害者交流センター(大宮)のスポーツボランティアとして繁宮さんを中心に横山さん、
井上修さんが、活躍しています。また、今年は、センター祭に繁宮さんの企画である紙飛
行機作りで参加し、浦和ラグビースクールと協力して多数のちびっ子を楽しませたことも
印象に残っています。
その後、色々ありましたが、元山会長のご尽力と共に現在クラブ在籍の皆さんの協働作
業で、理事会が発足して全員参加のクラブ運営が緒についたことは、今後のクラブ発展が
良い方向に向かっていることであると考えております。
私とラグビー
西
耕三郎
スクラムハーフ
①
ラグビーとの出合い
昭和21年4月、保善中学に入学、その7月から焼夷弾の突き刺さる校庭でラグビーの
練習が再開、先輩達の凄い迫力をみた。それがラグビーとの出合いである。
保善のラグビーは昭和7年からと聞く。後に私の2年先輩の森田
守さん(現、武惑ク
ラブ)が例の華麗なステップで走っていた。
②
高校でのラグビー
昭和24年3月中学卒業の後、昼は染色の修行、夜は蕨市の画塾に通った。2年後保善
高校の夜間部に入学、ラグビー部に入った。夜9時から11時までの練習、500W1
ヶの暗い砂利の校庭、素足やボロのクツを履きよくやったものだ。私は保善夜間部最后
のラグビー部員である。殆ど補欠。マネージャーとして、全国大会に参加した昭和29
年は準優勝であった。
③
武惑クラブまでのラグビー人生
高校卒業後は染色を続けながら作品を制作、伝統工芸、全国染色展、埼玉県展などに出
品していてラグビーから離れていた。昭和50年頃だったか保善の後輩の山崎与四三君
(ヤマザキスポーツ会長)の紹介で浦和クラブに入会した。
青野さん、長谷川さん、栗原さん、古木さん、村さん、藤さん等、大変お世話になりま
した。酒もよく飲んだ。昭和55年、武惑クラブに入会した。そこで先輩の森田さんに
出合った。嬉しかった。思ってもみなかった事でハーフ、スタンドのコンビを組ませて
いただきました。試合で度々ご迷惑をおかけしました。優しい先輩です。元山会長にも
公私共お世話になりました。ラグビーを通して多くの知己を得た事は大変ありがたく思
っています。栗原さんは小学校の先輩でよくご指導して下さいました。お礼。
④
ラグビーといま
平成7年、川口市に再びラグビー場ができた。以後、協会が発足しスクールも出来た。
いま、武惑と川口と二股をかけることになった私は平成17年半ば頃から武惑に殆ど出
席していない。大変申し訳なく思っています。スクールの子供達やお父さん、お母さん
達と川沿いのグランドで走れることは73才の私にはありがたい事です。ラグビーのお
かげで健康で、しかも小さな友達がたくさんできた事を感謝している。
80、90才まで続けたいと思う。ラグビー万才。
武惑との出会い
川端
弘行
バックス
大学を卒業して就職してから5∼6年は母校(高校・大学)で現役と一緒に走っていまし
たが、仕事に没頭した訳でもないのにいつの間にかだんだん疎遠になって20年という歳
月が流れていました。
その間ラグビーとは全く縁のない生活だったのです。
大学のOB会では不明会員にすらなっていました。
そして復活の新たな展開がありました。
某銀行の支店に口座を設けたところ、たまたま支店長が高校・大学ラグビー部の後輩で私
の書類を見て、もしかして先輩の川端さんではないかと気付いてくれたのです。
後日、その支店に書類を取りにいったところ、行員に私が来たら知らせるよう指示が出て
いて20数年ぶりの再会となったのです。
余談になりますが、浦高はもう何十年も正月3日はOBディと決まっています、そのOB
ディに来てくださいとの誘いがあり翌年本当に久し振りに顔を出しました。
そこには懐かしい連中がいました。
我々の前後は浦高第1期黄金時代(全国にも出たし)だったので、大学で活躍した者も結
構いて(出世頭は早稲田の矢部=現早稲田OB会長・清宮をサントリーから呼んできた張
本人)OB会でも発言力を持っていました。
私が久し振りに顔をだしたその日が、浦高創部50周年記念事業発足の日になったのです。
3年後平成8年に校庭にモニュメント・県営熊谷Aグラウンドでの対都立青山記念試合・
浦和コルソに於ける式典(スペシャルゲストはあの宮井さん=北見北斗・明治・八幡製鉄)
の記念事業に参画することができました。
また、大学OB会にも復帰していよいよ現在の私がみえてきます。
そこで本題にもどって、どうしても登場してもらわなければならない人物がいます。
浦高の先輩矢和田さんです。
矢和田さんとは面識がなかったのですが、50周年事業の発起人である早稲田OBの某氏
(大学は同期)と記念試合委員長要請のため上尾の矢和田宅を訪問して初めて挨拶をしま
した。
その後、浦高のグラウンドで再会、今日これから荒川グラウンド(熊谷)で不惑の試合が
あるから来ないかと誘われついて行きました。
そのころ訳あってすでにGYM通いをやっていてある程度走れる状態にありました。
いきなり矢和田さんからお前もゲームをやれと言われて、仕度一式借りて何十年ぶりのゲ
ームをやるはめになったのです。
その頃、不惑というオーバー40のチームが存在することすら知らない位ラグビーとは疎
遠でした。
しかし、一度身体で覚えたことは忘れていないものです。
そのゲームでそこそこの活躍が出来、それがある程度やれそうな自信となって武惑入部へ
と連がって行きます。
平成5年の春、岩槻のグラウンドに始めて参加しました。
矢和田さんの他は以前に紹介された元山さん・浦高の藤さん・上野ぐらいしか知り合いは
いませんでした。
その日ゲームの後に近くのサウナでミーティングがあるというので、藤さんに同行して行
った所で谷中さん桜井さんと知り合いましたが、他の皆さんは来なかったので変だなと感
じました。
その場で正式に入部の手続きをしたのです、すでに52歳でした。
その秋、宇都宮であった関東甲信越大会に一人で出かけ、公園の入口で案内版を見ながら
話しかけたのが五十嵐さんでした。
偶然にも武惑のメンバーだったのです。
帰りは大宮ということで、宮本さん・田口さん・三橋さんが私の車に乗り合わせてきまし
た。
そんなことの繰り返しでだんだん知り合いが増えていったのです。
翌年、やはり岩槻のグラウンドでゲームの予定がありましたが、前日が雨でグラウンド保
護のため使用できず急遽総会ということになりました。
前会長の青野さんが引退され空白の会長選があり元山さんが全会一致で選任されました。
おそらくキャプテンは元山さんだったのでしょう(そのことすら知りません)、その後キャ
プテン人事に移りました。
その頃、藤マネージャーからお前がキャプテンやれと言われていましたが、入部間もない
私にそんな大役務まる訳が無いので断り続けていました。
突然、藤さんから指名されて、この期に及んでぐずぐず言うのもみっともないと思い引き
受けてしまった様な次第です。
誰か反対してくれれば良かったのに、武惑の皆さんは本当に素直な方ばかりです。
その時の挨拶をはっきり記憶しています。
「新参者ですが、皆様のお役に立つよう一生懸命やります」
キャプテンになる前、埼大の練習が終わって駐車場までの帰り道、横本さん・茂木さん・
藤さん・私と 4 人で歩きながら雑談をしていましたが、横本さんが藤さんに「もっとゲー
ムを組んでくれよ、欲求不満になっちゃうぜ」と言っていました。
藤さんはもっとゲームを組みたいがメンバーが集まらないのでつい消極的になる悪循環の
辛い立場だったのです。
武惑の活性化は横本さんのあの言葉がヒントになりました。
ゲームを増やす、そのためには部員を増やす、リクルート・キャンペーンの開始です。
私は浦高(繁宮・小谷野・徳丸・坂下等)青学の後輩(高瀬→金井・池津→山本)の勧誘
が出来、県南リーグから塩鶴・丹沢・向江・増田・須田等生きのいいのが入ってきました。
特に増田はチームのムードをよく盛り上げてくれました。
帰属意識を高める目的もあって、平成 7 年から草津合宿も始めました。
戦力もやっと整ってきた、第12回関東甲信越長野大会(平成9年菅平)はセカンドジャ
ージー筆下ろしのゲームで茨城魅惑に圧勝、大いに気勢が上がったのを忘れることは出来
ません。
それから、目標であった打倒熊惑、打倒房惑も果たすことができ現在の基礎が出来上がっ
たといっていいでしょう。
ここでもう一つ忘れてはならない事実があります。
翌年の夏だったと思います、熊谷Cグラウンドでの熊惑とのナイトゲームにあの鉄人太田
と現キャプテン町田がひょっこり来たのです。
勢いとは不思議なもので、軌道に乗りかけたチームに大きな戦力となったのです。
増田に代わってムードメーカーになった子田が入ってきたのもこの頃です。
キャプテン在任6年間、先輩に対して生意気を言いましたし、後輩にはきついことも言い
ましたがいつも支えてくれた元山会長、部員の皆様には心から感謝しております。
特に、クラブワークをしっかりやってくれた鈴木マネージャー、魅力ある催事を演出して
くれた宮本さんありがとうございました。
武惑って本当にいい奴ばかりです。
一部敬称を略させて戴きましたことをお許しください。
私とラグビー
平田
通文
バックロー
私が、あの楕円のボールに始めて出会ったのは、高校一年生の春でした。
奈良県の中学でハンドボール部で鳴らした私(同級生はたいしたこと無かったと言いま
す)は、都会に憧れ、親の反対を押し切り、大阪の同志社香里高校に入学しました。ショ
ックだったのはハンドボール部が無かったのです。体育の先生にハンドボール部を認めて
欲しい、造ってくださいと御願いしたら、何考えて入学したんや!と叱られました。が、
そこは諦めの悪い私、学則を読んで、部にする方法を発見、生徒会に御願いしたら、取り
敢えず最低5人に集めて申請、友好クラブとして活動後、一年後に対外試合できる形にな
れば認められるという事で活動を始めました。
取り敢えず、どんなスポーツでも、グランド、コートなど練習活動するスペースと、着
替えするクラブ部屋が必要ですということで、運動部の部屋をと各部に頼みに行ったら、
けんもほろろ、そうですよね、新入の一年生に約40年前の運動部の上級生が優しいはず
ないです。関西弁のきつい「あほ」「なに、ゆうとんね」
「ねぼけな」スクールウォーズの
世界!当時、お坊ちゃまな私は、御願いするたびに心が・・・・・という事無く、日々、
優しそうな先輩を探してました。
ある日、昼休み校庭で一人、ハンドボールの壁打ちしてたら、「おい、グランド広いか
ら端の方で練習してもええで」と言ってくれた人がいました。
それが、ラグビーの先輩と言えばかっこいいお話ですが、違います。その人はなんと水
泳部のマネージャーで気まぐれに気安く声をかけただけでした。私は、許可を得たと勘違
い、其の放課後、出来た友達と友達とサー練習と着替えて行くと、そこにラグビー部の連
中が、もそもそといて体操しておりました。
私達の姿を見たとたん「何やっとんね!」怒声にちぢみました。
「練習です!」と負け
ずに言ったら「誰がええゆうたん」と、
「昼間先輩がええゆいました」・・・・・短いが怖
い、長く感じる問答の後、当時のキャプテンが「シャーない、邪魔セントコで遊んどけ」
と言ってくれなかったら、恐怖で気絶してました。それほど昔のラグビーの先輩は大きく・
怖かった(後で、入部したらたいした事無く、大きいのは数人でしたが、当時ちびだった
わたしには・・・・・)。
そのようにして始めた、ハンドボール部の練習でしたが、コートもゴールも無い練習で
は、集めた部員にはつまらなかったのでしょう、半月後には集まらなくなり、一人でグラ
ンドで遊んでるある日に、私の足元にあの楕円球が転がってきました。ラグビー部員が「オ
ーイボールホッテクレ(投げてくれ)」と、今でも思い出すのですが、あの楕円球を投げて
くれと言われて投げる形してません。其の時、何気なく向こうで呼んだ人まで返すにはと、
自然に蹴ったのです。
其のキックは正にビギナーズラック30m位飛んで、部員の腕にナイスキャッチ!
其の日は、帰宅、あくる日昼休み、クラスのラグビー部員が今日、放課後部室へ「来て
くれ、キャプテンが話しある」と言われました。
「なんやろ?あの連中とは話した無いけど・・・etc」複雑な気持ちですがグランド
貸してくれてるしと、思いつつ、放課後部室へ、入れば
怖い人たちが4−5人ニコニコ
と。
「お前、名前なんや?」
・
「ハイ、平田です」・
「昨日ボール蹴ったやろ!」
えー蹴ったらあかんかった?どうしよう/なにされんのやろ/どう言い訳しよう・・な
どぐるぐる頭の中・・・・・と、突然、
「お前、妙な運動やめてラグビー部入れ」
、げ!「な
にゆうてんね・このおっさん」と気持動転
「それなんや?」だまって固まってたら
追いかけるように「入ったらフルバックや」
、
ダメ押し「明日から、○○時に部室に来いよ、
ジャージとスパイク用意しとくよって、ホンで教えるのは、バックスの村口と高野や」
何・ほんまに、入るの?
などなど、ありまして秋には、無事試合に出る事になりました、この出会いが私の大学・
社会人クラブ・シニア武惑チーム、キズーチへつながる第一歩です。
高校では、凄いスタンドプレーヤ達とのプレー(村口先輩は、日本代表に)ワンマンチ
ームの怖さを、もろさを知りました。
大学では、一年生の折、あの坂田さんの凄いスワーブ、小笠原さん、原さんのブチかま
し、山口さんのゴールキックを体験して、夏合宿、ランパス、高校とは違うレベルでめげ
た日々
その後、怪我して諦めたスターへの道(本人談)3年で同好会掛け持ち、楽しいラグビ
ーを知る、卒業後、勤務地は東京、気分は東京・花の東京・・・でも其の内身体がむずむ
ず
上智で見かけたラグビーの夜練習に誘われ、今流行の「クローバークラブ」へ
仕事のはけ口を営業サボりラグビープレー2回ほど怪我して松葉杖、不思議と首になら
ず
ラッキー!
そうして嫁も子供も勢いでもらい、現役引退(これは体力低下を認めない本人の見栄)
そうこうしていると、ローデムGでの、故関川さんのささやき「平田君、最高の芝のグ
ランド作らない?後輩に残す義務あるよ」、其の時は魅惑の天使のささやきに聞こえた。
そして、見事なグランドオープン、其の翌週「土手を登ると、そこは土色の濁流」
関川さんが生前朝日新聞に言った言葉「流れたら又、造ればいいんだ」
悪魔のささやきでした。しかし、其のグランドで知り、入れてもらった「武惑クラブ」
楽しく規律ある、シニアーチーム
ここで本当の生涯ラグビーを感じさせていただき、あ
のプレーがあのタックルがと、今までの勝つラグビーと又違う真のチームプレーを覚えさ
せてもらいました。見ず知らずの人も、行きずりの人も受け入れ、グランドで精一杯持て
る力をのびのびとするこのチームが今後もいろんな仲間を受け入れ、大きくとか、強いと
かでなくあってよかったという、
ラグビーチームで存在し続けて欲しいと関西単身赴任で、
心のそこから願い
この周年記念に心からお喜びを述べさせていただき、関東に戻ったら又、御願いします。
武惑、ヒィビップ、フレー!フレー!フレー!
私とラグビー 西田幸夫 バックス
振り返ってみますと武惑での年月も平成14年末から初め19年になりますから
足掛け5年が立ちます。高校時代の一年、大学での4年にすでに時間だけは
同じになります。
がいます。
高校同期には今も一緒にプレ−している小谷野君、徳丸君
高校は一年で退部してしまいましたが時々夏合宿に参加したりして
交流をしております。
います。
大学の仲間とも年に一回位のペ−スで定期的に会って
MRCという同好会ですが、結構強かったチ−ムでした。
BYB出身の三宅さんがその頃の好敵手です。
卒業後はラグビ−とは無縁で又プレ−するとはよもや思いませんでしたが、成人病予防
で始めたランニングをしている中に又ポ−ルプレ−がしたくなり参加致しました。
最初の試合で右脇腹ヒビ、翌年右足首ヒビと怪我続きで満足なプレ−も出来ず大変迷惑を
かけてしまい申し訳なく思っています。
又足首のリハビリ中に右の脳梗塞に罹り今でも
若干左側に軽いマヒがあり思い切ったプレ−が出来ずはがゆい思いしております。
医師でもある徳丸君より「ラグビ−は程々に」と言われております。3年経過しています
が
油断は禁物ですので摂生した生活を送っています。
今後は練習を主体に体調と相談しな
がら
ラグビ−と関わって行きたいと念じております。
特に60代∼70代の皆様の素晴らし
い
エネルギ−にいつも元気をもらっています。
そういうふうになりたいといつも思ってお
ります。
今後ともよろしくご指導ご鞭撻のほどお願い致します。
Ⅴ.記録(戦績)
:
1979年(昭和54年)記録
日 付
対戦相手・行 事
場 所
1月14日
発起人会
浦和高校グランド
2月9日
群馬惑惑
前橋敷島グランド
3月18日
不惑
船橋山一証券グランド
5月27日
熊惑
熊谷グランド
11月18日
熊惑
熊谷グランド
1980年(昭和55年)記録
日 付
対戦相手・行 事
場 所
3月16日
不惑
東京水産大グランド
9月7日
不惑
戸田日鉱グランド
9月21日
群馬惑惑
熊谷グランド
11月9日
熊惑
熊谷グランド
12月14日
熊惑及紅白
熊谷グランド
1981年(昭和56年)記録
日 付
対戦相手・行 事
場 所
1月18日
不惑
戸田日鉱グランド
3月15日
不惑
大井グランド
9月20日
不惑
芝浦工大グランド
10月10日
仙台TGOB
仙台東北学院
10月11日
仙台ゆうわく
仙台東北学院
11月1日
戸田 G 開き・不惑
戸田グランド
11月15日
群馬惑惑
太田グランド
1982年(昭和57年)記録
日 付
対戦相手・行 事
場 所
1月24日
不惑
戸田グランド
2月7日
不惑
戸田グランド
2月11日
不惑
戸田グランド
2月28日
不惑
戸田グランド
9月19日
不惑
与野農工グランド
10月10日
京都嵯峨野OB
嵯峨野高グランド
10月11日
京都レッドクラブ
同上
11月7日
群馬惑惑
太田グランド
1983年(昭和58年)記録
日 付
対戦相手・行 事
場 所
2月2日
不惑
戸田グランド
3月6日
不惑
戸田グランド
3月13日
不惑
世田谷グランド
9月15日
不惑
世田谷グランド
10月9日
仙台ゆうわく
越谷グランド
11月6日
不惑
戸田グランド
11月13日
熊惑
熊谷荒川グランド
1984年(昭和59年)記録
日 付
対戦相手・行 事
場 所
2月19日
熊惑
熊谷市営グランド
5月27日
群馬惑惑
高崎浜川グランド
9月23日
新潟 FSOB
新潟ハーフ・ブラックス
新潟島原野グランド
9月28日
新潟
新潟ビッグスワン
11月3日
不惑
杉戸ローデムパーク
11月11日
熊惑
熊谷荒川グランド
1985年(昭和60年)記録
日 付
対戦相手・行 事
場 所
1月20日
東京 JC
杉戸ローデムパーク
2月17日
不惑
ローデムパーク
3月17日
不惑
ローデムパーク
3月31日
寿クラブ(県南リーグ)
越谷グランド
4月14日
大宮国鉄(県南)
三郷グランド
4月21日
大宮クラブ(県南)
与野農工グランド
6月9日
山城精機(県南)
大正製薬グランド
6月23日
紺黄ラガー(県南)
与野農工グランド
9月29日
熊惑
ローデムパーク
10月10日
不惑・房惑
ローデムパーク
10月27日
群馬惑惑10周年記念
不惑・群惑・神惑・新潟
高崎市浜川競技場
11月3日
東芝メデ゙ィカル(県南)
三郷グランド
11月17日
熊惑
熊谷荒川グランド
11月24日
日産ディゼル(県南)
ローデムパーク
1986年(昭和61年)記録
日 付
対戦相手・行 事
場 所
1月26日
不惑
杉戸ローデムパーク
6月29日
東京 JC
ローデムパーク
7月20日
チーム遊(県南)
ローデムパーク
9月15日
熊惑
熊谷荒川グランド
10月5日
関東甲信越不惑大会
不惑・神惑・群惑・新潟
房惑
高崎市浜川競技場
10月26日
東京 JC
ローデムパーク
11月3日
熊惑10周年記念
群惑・神惑・熊惑
熊谷荒川グランド
11月24日
不惑・熊惑
熊谷荒川グランド
12月21日
不惑
ローデムパーク
1987年(昭和62年)記録
日 付
対戦相手・行 事
場 所
1月25日
不惑
杉戸ローデムパーク
2月15日
不惑・どんぐり
ローデムパーク
3月15日
不惑・白石建設
ローデムパーク
3月22日
キリン(県南)
ローデムパーク
4月5日
ローデム・ラグビー祭
ローデムパーク
4月19日
東芝メディカル(県南)
ローデムパーク
5月24日
群馬ラグビー祭
群惑
太田市営ラグビー場
6月7日
紺黄ラガー(県南)
ローデムパーク
6月28日
西高 OB(県南)
ローデムパーク
9月19・20日
関東甲信越不惑大会
群惑・不惑・房惑他
高崎市浜川競技場
11月3日
不惑・熊惑・台湾
熊谷荒川ラグビー場
11月15日
大宮クラブ(県南)
ローデムパーク
11月29日
ワイルド・リバー
(県南)
ローデムパーク
12月20日
不惑・アルゴ
ローデムパーク
1988年(昭和63年)記録
日 付
対戦相手・行 事
場 所
1月24日
不惑・栃木不惑
杉戸ローデムパーク
2月21日
不惑・熊惑
ローデムパーク
3月13日
不惑・どろんこ・浦和
ローデムパーク
3月27日
東京 JC
ローデムパーク
4月29日
ローデムラグビー祭
ベイビーズ
ローデムパーク
5月29日
越谷セブンズ
越谷市グランド
6月26日
日本信託銀行
ローデムパーク
7月24日
不惑
ローデムパーク
10月1日・2日
関東甲信越不惑大会
栃木・神奈川他
熊谷荒川ラグビー場
11月3日
不惑・台湾巨人軍
熊谷荒川グランド
11月20日
不惑
三郷グランド
12月18日
不惑・越谷
ローデムパーク
1989年(平成元年)記録
日 付
対戦相手・行 事
場 所
1月22日
不惑・アルゴ
杉戸ローデムパーク
2月19日
不惑・エンドレス
ローデムパーク
3月12日
不惑・NOS
ローデムパーク
9月10日
不惑
ローデムパーク
9月15日
群馬惑惑
前橋市敷島グランド
10月7・8日
関東甲信越不惑大会
保土ヶ谷公園グランド
11月3日
不惑・フェニクス他
ローデムパーク
1990年(平成2年)記録
日 付
対戦相手・行 事
場 所
2月11日
不惑・グリーントータス
杉戸ローデムパーク
3月11日
不惑
ローデムパーク
関東甲信越不惑大会
習志野自衛隊グランド
9月30日
不惑
ローデムパーク
11月3日
オーバー35
ローデムラグビー祭
ローデムパーク
9月23・24日
1991年(平成3年)記録
日 付
対戦相手・行 事
場 所
2月1日
不惑・ダウンタウン
杉戸ローデムパーク
2月10日
不惑
ローデムパーク
2月24日
不惑・エンドレス
ローデムパーク
3月17日
不惑
ローデムパーク
9月21・22日
関東甲信越不惑大会
熊谷県営ラグビー場 A/C
9月29日
不惑
ローデムパーク
11月4日
不惑・どろんこ
ローデムパーク
1992年(平成4年)記録
日 付
対戦相手・行 事
場 所
3月15日
不惑
杉戸ローデムパーク
9月6日
9月19・20日
さよなら
ローデムラグビー祭
どろんこエンドレス
関東甲信越不惑大会
房惑・神惑・新潟
ローデムパーク
新潟厚生年金スポーツセンター
10月25日
不惑・岩槻クラブ
岩槻ラグビー協会発足記念
岩槻市営グランド
12月20日
不惑
熊谷荒川グランド
1993年(平成5年)記録
日 付
対戦相手・行 事
場 所
2月14日
不惑
岩槻市営グランド
3月7日
不惑・熊惑
熊谷県営ラグビー場 B
6月20日
キズーチプレオープン
キズーチ
9月11・12日
関東甲信越不惑大会
栃木県総合運動公園(宇都宮市)
10月11日
キズーチ・ラグビー祭
キズーチ
10月17日
不惑
岩槻市 槻の森公園(雨中止)
11月13日
オーバー35 大会
キズーチ
11月20日
武惑創立15周年
記念祝賀会
大宮パレスホテル
1994年(平成6年)記録
日 付
行 事
場 所
4月3日
不惑・アルゴ
キズーチ
5月29日
ファイターズ・シニア
秋ヶ瀬グランド
6月19日
キズーチオープン
記念セレモニー
キズーチ
8月27・28日
夏合宿(群惑)
草津(根岸ペンション)
9月11・12日
関東甲信越不惑大会
水戸市 堀原運動公園
10月23日
不惑・BOB
入間自衛隊グランド
11月3日
オーバー35大会
キズーチ
11月20日
不惑・
キズーチ
12月18日
不惑・ファイターズ
キズーチ
1995年(平成7年)記録
日 付
対戦相手・行 事
場 所
1月22日
不惑
キズーチ
2月19日
不惑・熊惑
熊谷荒川グランド
6月10・11日
関東甲信越不惑大会
群惑・神惑・山梨
草津 本白根グランド
7月9日
キズーチ・フェスタ
キズーチ
8月26・27日
夏合宿
阪東橋グランド(渋川伊香保ヒュッテ)
10月22日
不惑
キズーチ
11月3日
オーバー35
不惑・どろんこ他
キズーチ
11月19日
キズーチ・フェスタ
キズーチ
12月3日
ファイターズ・シニア
東京国際大学グランド
12月17日
不惑
キズーチ
1996年(平成8年)記録
日 付
対戦相手・行 事
場 所
2月11日
不惑・熊惑
熊谷県営ラグビー場 B
2月25日
不惑・NOS/・どろんこ
キズーチ
3月17日
ファイターズ・シニア
キズーチ
4月20・21日
新潟ハーフブラックス
新潟商高グランド
5月26日
栃惑プレジデント
森山・花水木公園
6月16日
8月24・25日
キズーチフェスタ
エンドレス
夏合宿
群惑・房惑他
キズーチ
草津(ニューつたや)
9月8日
熊惑
熊谷荒川グランド
9月21・22日
関東甲信越不惑大会
茨城(台風で繰上げ)
山梨 御勅使南公園ラグビー場
10月13日
房惑
松戸自衛隊グランド
10月27日
浦和 RS スタッフ
キズーチ
11月4日
不惑・エンドレス
キズーチ
11月10日
熊惑・川越
熊谷県営ラグビー場..B
11月23日
エンドレス
キズーチ
12月15日
不惑
キズーチ
1997年(平成9年)記録
日 付
対戦相手・行 事
場 所
1月26日
不惑・熊惑
熊谷県営ラグビー場 B
2月23日
不惑・エンドレス
キズーチ(総会)
3月9日
不惑
キズーチ
3月23日
どろんこエンドレス
キズーチ
4月13日
房惑
松戸自衛隊グランド
4月27日
ファイターズ・シニア
東京国際大学グランド
5月11日
熊惑
熊谷荒川グランド
5月24・25日
関東甲信越不惑大会
信濃・茨城・山梨
菅平 グリーンフィルド他
熊惑(ナイター)
熊谷県営ラグビー場 C
8月23・24日
夏合宿(群惑・房惑他)
草津 (十二屋旅館)
9月14日
熊惑(ナイター)
熊谷県営ラグビー場 C
9月21日
房惑
松戸自衛隊グランド
10月5日
どろんこエンドレス
キズーチ
10月19日
房惑
キズーチ
11月3日
オーバー35
フェスバル
キズーチ
11月16日
不惑
大正製薬上尾グランド
6月21日
1998年(平成10年)記録
日 付
対戦相手・行 事
場 所
2月8日
不惑・熊惑
熊谷県営ラグビー場 B
2月22日
紅白(総会)
キズーチ
3月8日
どろんこエンドレス
キズーチ
3月22日
栃惑
キズーチ
4月5日
房惑
松戸自衛隊グランド
6月6日
武惑創立20周年
記念祝賀会
大宮パレスホテル
6月14日
越谷セブンズ
越谷市営グランド
6月28日
熊谷ラグビー祭
熊惑
熊谷県営ラグビー場 C
8月22・23日
夏合宿(群惑・房惑)
草津 (十二屋旅館)
9月6日
9月19・20日
熊谷工業創部50周年
記念試合(熊惑)
関東甲信越不惑大会
群惑・不惑・新潟山梨
熊谷県営ラグビー場 A
熊谷県営ラグビー場 B/C
10月4日
どろんこエンドレス
キズーチ
10月18日
房惑
キズーチ
11月1日
栃惑
森山 花水木公園
11月22日
群惑
キズーチ
12月13日
上尾スクールコーチ
大正製薬上尾グランド
1999年(平成11度)記録
日 付
対戦相手・行 事
場 所
2月28日
不惑・熊惑
熊谷県営ラグビー場 C
3月28日
ドロンコエンドレス
キズーチ
4月11日
房惑
松戸自衛隊グランド
4月25日
群惑
渋川市営グランド
5月9日
ファイターズ・シニア
大正製薬上尾グランド
5月22・23日
全国不惑交流試合
魚津不惑・岐阜不惑
サニアパーク菅平
6月13日
熊惑
キズーチ
8月21・22日
夏合宿(群惑・房惑)
草津
9月4日
群惑
熊谷県営ラグビー場 C
9月18・19日
関東甲信越不惑大会
茨城、不惑・信濃房惑
松戸自衛隊グランド
10月10日
房惑
松戸自衛隊グランド
10月24日
ドロンコエンドレス
キズーチ
11月7日
栃惑
森山 花水木公園
11月21日
群惑
キズーチ
12月12日
東京ドクター・浦和 RS
大正製薬上尾グランド
2000年(平成12年)記録
日 付
対戦相手・行 事
場 所
3月5日
熊惑、不惑
熊谷県営B
3月26日
ドロンコエンドレス
キズーチ
4月9日
房惑
キズーチ
4月23日
栃惑
栃木森山グラウンド
5月14日
群惑
渋川グラウンド
5月28日
熊惑
キズーチ
6月4日
朝日新聞シニア
朝日新聞三郷グラウンド
7月1・2日
全国不惑交流試合
花井/房惑
サニアパーク菅平
8月19日
群惑/房惑/TV朝日
草津合宿
8月20日
群惑/房惑
草津合宿
9月23・24日
関東甲信越不惑大会
神惑/栃惑/房惑
横浜保土ヶ谷グラウンド
10月8日
房惑
松戸自衛隊
10月15日
不惑
大宮健保グラウンド
10月22日
朝日新聞シニア
朝日新聞三郷グラウンド
11月12日
栃惑
栃木森山グラウンド
11月26日
群惑
キズーチ
12月10日
浦和ラグビースクール
水産ラガー
大正製薬上尾
2001年(平成13年)記録
日 付
対戦相手・行 事
場 所
2月25日
熊惑/不惑
熊谷荒川グラウンド
3月11日
川越
熊谷県営グラウンド
3月20日
神惑/熊惑
三井浜田山グラウンド
3月25日
どろんこ/朝日新聞
キズーチ
4月8日
群惑
渋川グラウンド
4月22日
房惑
松戸自衛隊
5月20日
BOB
入間基地
5月27日
熊惑
不明
6月10日
ぜんかい/どろんこ
キズーチ
7月7・8日
全国不惑交流試合
金惑/混成
サニアパーク菅平
8月25日
群惑/房惑
草津合宿
8月26日
群惑/房惑
草津合宿
9月22日
関東甲信越不惑大会
栃惑/不惑
サニアパーク菅平
9月23日
関東甲信越不惑大会
茨城/新潟/信濃
サニアパーク菅平
10月7日
常陸不惑
水戸
10月21日
房惑
江戸川グラウンド
11月11日
栃惑/神惑
栃木森山総合グラウンド
11月25日
群惑
キズーチ
12月9日
水産ラガー
大正製薬上尾
2002年(平成14年)記録
日 付
対戦相手・行 事
場 所
2月10日
川口スクール父兄
川口荒川運動公園
2月24日
熊惑/不惑
熊谷県営グランド
3月9日
神惑
三井浜田山グランド
3月24日
常陸不惑
キズーチ
4月14日
群惑
渋川
4月28日
房惑
キズーチ
5月12日
水産ラガー
海洋大品川
5月26日
熊惑
熊谷市営荒川グランド
6月9日
ドロンコエンドレス
キズーチ
7月6・7日
全国不惑交流試合
DAIBUⅡ/富惑
サニアパーク菅平
8月24日
群惑/房惑
草津合宿
8月25日
群惑/房惑
草津合宿
9月28・29日
関東甲信越不惑大会
新潟/神惑/栃惑
茨城ツインフィールド
10月13日
群惑
熊谷市営荒川グランド
10月27日
房惑
松戸自衛隊
11月10日
栃惑
栃木森山総合グランド
12月6日
水産ラガー
大正製薬上尾
2003年(平成15年)記録
日 付
対戦相手・行 事
場 所
2月23日
熊惑/不惑
熊谷市営荒川グランド
3月23日
常陸不惑
日立
4月13日
群惑
渋川
4月27日
房惑
キズーチ
5月18日
熊惑/川越
熊谷県営グランド
6月8日
ドロンコエンドレス
キズーチ
6月29日
武惑創立25周年式典
大宮パレスホテル
7月5・6日
全国不惑交流試合
金惑/魚津/東惑
サニアパーク菅平
8月23日
群惑/房惑
草津合宿
8月24日
群惑/房惑
草津合宿
9 月14日
浦和ラグビースクール
大原グランド
9月27・28日
関東甲信越不惑大会
群惑/神惑/新潟
新潟ビッグスワン
10月19日
群惑
しらこばと運動公園
10月26日
房惑
松戸自衛隊
11月9日
栃惑/神惑
栃木森山総合グランド
12月14日
熊惑/水産ラガー
大正製薬上尾
2004年(平成16年)記録
日 付
対戦相手・行 事
場 所
3月7日
熊惑/不惑
大正製薬上尾
3月21日
常陸不惑
大原グランド
4月11日
群惑
桐生錦桜グランド
4月25日
房惑
キズーチ
4月18日
浦和ラグビースクール
大原グランド
5月9日
水産ラガー
海洋大品川
6月13日
エリス・クローバー
キズーチ
7月3・4日
全国不惑交流試合
信濃/花井/不惑
サニアパーク菅平
8月21日
群惑/房惑
草津合宿
8月22日
群惑/房惑
草津合宿
9月5日
浦和ラグビースクール
大原グランド
9月18・19日
関東甲信越不惑大会
栃惑/房惑
栃木県総合運動公園(宇都宮市)
10月10日
群惑
キズーチ
10月24日
房惑
松戸自衛隊
11月7日
エリス/不惑
しらこばと運動公園
11月14日
栃惑/神惑
栃木森山総合グランド
11月28日
上尾スクールパパス
大正製薬上尾
12月12日
熊惑
熊谷市営荒川グランド
12月19日
水産ラガー
大正製薬上尾
2005年(平成17年)記録
日 付
対戦相手・行 事
場 所
3月20日
熊惑/不惑
大正製薬上尾
3月27日
群惑
渋川
4月10日
常陸不惑
日立市諏訪スポーツ広場
4月24日
房惑
キズーチ
5 月8日
水産
海洋大越中島
5月15日
熊惑
熊谷県営グランド
6月12日
どろんこエンドレス
キズーチ
6月12日
浦和ラグビースクール
大原
7月2・3日
全国不惑交流試合
DAIBUⅡ/混成
菅平サニアパーク
9月3日
群惑/房惑
草津合宿
9月4日
群惑/房惑
草津合宿
9月11日
浦和ラグビースクール
大原グランド
9月24・25日
関東甲信越不惑大会
栃惑/長野/新潟
群馬県営ラグビー場(前橋市)
10月16日
群惑
館林関東学園グランド
10月23日
房惑
松戸自衛隊
11月5日
不惑
三鷹横河電機グランド
11月13日
栃惑/神惑
栃木森山総合グランド
11月27日
エリス/水産ラガー
大正製薬上尾
12月11日
熊惑
熊谷市営荒川グランド
2006年(平成18年)記録
日 付
対戦相手・行 事
場 所
2月26日
不惑
熊谷市営荒川グランド
3月5日
川口ダーリンズ
キズーチ
3月19日
上尾ラグビースクール
上尾大正製薬
3月26日
群惑
渋川
4月9日
常陸
キズーチ
4月23日
浦和ラグビースクール
大原グランド
4月30日
房惑
キズーチ
5月14日
熊惑
熊谷県営グラウンド
5月28日
ドロンコ/クローバ
キズーチ
6月4日
神惑
横浜保土ヶ谷グランド
6月18日
水産ラガー/ドロンコ
海洋大越中島グランド
7月1・2日
全国不惑交流試合
郡山/信濃/混成
サニアパーク菅平
9月2日
群惑/房惑
草津合宿
9月3日
群惑/房惑
草津合宿
9月10日
Jパワー
市原市ちはら台
9月23日
9月24日
関東甲信越不惑大会
新潟/混成
関東甲信越不惑大会
山梨/群惑/房惑
山梨県南アルプス市御勅使南グランド
山梨県南アルプス市御勅使南グランド
10月1日
浦和ラグビースクール
大原グランド
10月15日
群惑
館林関東学園グウンド
10月22日
房惑
松戸自衛隊
10月29日
熊惑
熊谷市営荒川グランド
11月12日
水産ラガー/ドロンコ
海洋大越中島グランド
11月19日
常陸不惑
日立陸上競技場
12月3日
栃惑/紫峰
栃木森山総合グランド
12月9日
神惑/不惑
辰巳
12月10日
エリス
キズーチ
2007年(平成19年)記録
日 付
対戦相手・行 事
場 所
2月25日
熊惑/不惑
熊谷市営荒川グランド
3月11日
房惑
キズーチ
4月8日
群惑
渋川
4月15日
紫峰/魅惑
茨城県西総合公園
4月22日
浦和ラグビースクール
大原
4月30日
神惑/不惑
辰巳
5月13日
熊惑/川越
熊谷県営グランド
5月27日
神惑
キズーチ
6月24日
水産ラガー/ドロンコ
海洋大越中島
6月30日・7月
1日
全国不惑交流試合
東惑/不惑/房惑
サニアパーク菅平
9月1日
群惑/房惑
草津合宿
9月2日
群惑/房惑
草津合宿
9月15・16日
関東甲信越不惑大会
房惑/山梨/不惑/神惑
サニアパーク菅平
9月30日
不惑
辰巳
10月7日
浦和ラグビースクール
大原
10月14日
群惑
館林関東学園グランド
10月28日
房惑
松戸自衛隊
11月4日
熊惑/川越
熊谷市営荒川グランド
11月11日
栃惑
栃木森山総合グランド
11月25日
水産/ドロンコ
海洋大越中島
12月26日
常陸不惑
日立諏訪町グランド
2008年(平成20年)記録
日 付
対戦相手・行 事
場 所
2月24日
熊惑/不惑
熊谷市営荒川グランド
3月9日
紫峰クラブ
キズーチ
3月23日
房惑
キズーチ
3月30日
神惑/魅惑
横浜保土ヶ谷グランド
4月6日
群惑
渋川
4月20日
川越不惑
キズーチ
4月27日
浦和ラグビースクール
大原
5月3日
熊惑/川越
熊谷市営荒川グランド
5月3日
一橋大OB
一橋大グランド
5月18日
熊惑
立正大グランド
5月18日
稲城ナッシング
矢野口多摩川緑地
6月1日
水産/ドロンコ
海洋大越中島
6月21日
武惑創立30周年記念パーティ
大宮パレスホテル
7月5・6日
全国不惑交流試合
郡山/KIU/群惑
サニアパーク菅平
9月6日
群惑/房惑
草津合宿
9月7日
群惑/房惑
草津合宿
9月27日
9月28日
関東甲信越不惑大会
混成/房惑
関東甲信越不惑大会
混成/房惑/山梨
熊谷県営グランドB
熊谷県営グランドA/B/C
10月5日
浦和ラグビースクール
大原
10月12日
群惑
館林関東学園グランド
10月25日
ねんりんピック鹿児島
宮之城惑/迷惑
鹿児島さつま町かぐや姫グランド
10月26日
房惑
松戸自衛隊
11月2日
熊惑/川越
熊谷市営荒川グランド
11月9日
栃惑
栃木森山総合グランド
11月23日
水産/ドロンコ
海洋大越中島
11月30日
常陸不惑
キズーチ
Ⅵ.
これまでの記録写真集
1982年10月10日
京都嵯峨野高校OB
1985年10月11日
宮城県仙台ゆうわく
1985年10月26日
群馬惑惑倶楽部創立10周年記念
浜川グラウンド
1995年6月11日
群馬惑惑草津合宿
1996年41月21日
新潟ハーフブラックス
1996年6月16日
キズーチ
1997年8月24日群馬惑惑草津合宿
1997年9月14日熊谷熊惑Cグラウンドナイター
1997年9月21日房惑松戸
1998年6月6日創立20周年記念祝賀会
1998年9月20日関東甲信越不惑大会熊谷
1998年11月1日栃惑プレジデンツ
2000年4月23日栃惑プレジデンツ
2000年9月24日関甲信不惑大会
2002年武惑クラブ総会
横浜保土ヶ谷グラウンド
2003年2月23日
2006年9月2~3日
県営熊谷
武惑、熊惑対不惑
群馬惑惑草津合宿
初代会長
青野
廉さん(2006.10.17逝去)
2006年10月8日
障害者センター祭
センター研修室で紙ヒコーキの作成指導
クラブ遊
2007年1月7日
浦和ラグビースクールびらき
日本体育協会の要請を受けて特別に開催
3歳から80歳までのスポーツクラブ遊を紹介
2007年4月30日
3県赤パン交流大会
2007年5月14日
埼玉県ラグビー祭
赤黄のラインアップ
数字は年令?
辰巳グラウンド
熊谷県営Aグラウンド
7は、茂手木さん
12は三宅さん
2007年10月7日
さいたま市ラグビー祭
大原グラウンド
幼稚園児から黄色パンツまでのメンバー構成
2007年11月4日
熊谷市営グラウンド
埼玉県ラグビー祭
武惑、熊惑、川越
2007年11月11日
栃惑プレジデンツ
栃木花水木総合グラウンド
元山会長挨拶
試合には勝ったが一気飲み大会では?
栃惑阿部会長挨拶
2008年1月26日
2008年4月6日渋川
総会
大宮パレスホテル
群馬惑惑戦
2008年4月27日
さいたま市ラグビースクール
大原
中学1年生:赤黄(顔は怖いがプレーはそれほどではないオジサンたち)
2008年5月2日
首都圏赤パン交流大会
熊谷市営グラウンド
2008年5月23日立正大学グラウンド開き
武惑クラブ:熊惑クラブ
21:15
Ⅶ.名簿
役員名簿(1979~2008)
年
代
1979~1980
1981~1982
1983~1984
1985~1986
1987~1988
会
長
青野 廉
青野 廉
青野 廉
青野 廉
青野 廉
森田 守
森田 守
森田 守
森田 守
森田 守
元山泰秀
元山泰秀
元山泰秀
元山泰秀
元山泰秀
副会長
主
将
副
将
主
務
副
務
平岩隆二
谷中 誠
谷中 誠
藤 信夫
藤 信夫
杉浦邦之助
梶原碩之
年
代
1989~1990
1991~1992
1993~1994
1995~1996
1997~1998
会
長
青野 廉
青野 廉
元山泰秀
元山泰秀
元山泰秀
副会長
矢和田淳
藤 信夫
谷中 誠
主
将
副
将
主
務
副
務
(理事)
監
事
森田 守
森田 守
川端弘行
川端弘行
川端弘行
丹澤直樹
元山泰秀
元山泰秀
藤 信夫
中
藤 信夫
田口
中
鈴木富雄
宮本卓美
藤 信夫
田口
谷中 誠
谷中 誠
谷中 誠
上野和男
杉浦邦之助
杉浦邦之助
増田伸二
根岸和宏
根岸和宏
井上
茂手木健治
茂手木健治
太田久行
宮本卓美
宮本卓美
閑林享平
修
肥後裕二
子田丈夫
上野和男
繁宮啓二
村
精治
年
代
1999~2000
2001~2002
2003~2004
2005~2006
2007~2008
会
長
元山泰秀
元山泰秀
元山泰秀
元山泰秀
元山泰秀
副会長
矢和田淳
矢和田淳
矢和田淳
村
村
藤
藤
藤
信夫
川端弘行
誠
宮本卓美
谷中
信夫
誠
谷中
信夫
誠
谷中
精治
精治
鈴木富雄
川端弘行
村
コーチ
川端弘行
精治
坂下辰夫
坂下辰夫
主
将
川端弘行
町田良和
町田良和
○町田良和
○大石雅規
副
将
丹澤直樹
柳田和幸
丹澤直樹
丹澤直樹
○丹澤直樹
木沢克司
主
務
鈴木富雄
鈴木富雄
鈴木富雄
○田中忠史
○田中忠史
川端弘行
川端弘行
○横山二三男
赤副将
○茂手木健治
○茂手木健治
赤主務
○大西和彦
大西和彦
赤主将
副
務
宮本卓美
宮本卓美
宮本卓美
○鈴木富雄
○住本哲朗
上野和男
増田伸二
田中忠史
○子田丈夫
○子田丈夫
増田伸二
丹澤直樹
増田伸二
繁宮啓二
繁宮啓二
井上
井上
修
子田丈夫
○原
子田丈夫
繁宮啓二
○内田亮一
武井泰則
子田丈夫
○武井泰則
○町田良和
繁宮啓二
○横山二三男
修
太田久行
副務補佐
監事
閑林享平
村
精治
信幸
閑林享平
閑林享平
内田亮一
内田亮一
2006 年
田中忠史
葉山良一
赤主将代行
山口徳美
山口徳美
茂手木健治
村
井上
精治
修
原
信幸
○印は理事の方です
井上
修
井上
修
平成20年会員名簿
人数
氏 名
満年齢
栗原 義正
1
78
鹿島斗鬼男
2
77
森田 守
3
77
元山 泰秀
4
76
矢和田 淳
5
75
田口
中
6
72
谷中 誠
7
72
井上 久也
8
71
根岸 和宏
9
70
茂手木健治
10
69
茂木 勝彦
11
69
村 精治
12
68
瀬田 隆二
13
67
中野 雄三
14
66
入江
哲彦
15
66
山本 勇二
16
66
斉藤 徹
17
66
池津 雄三
18
65
高瀬 勝成
19
65
金井 義勝
20
65
西山与四郎
21
65
山中 昇
22
64
篠 邦夫
23
64
宮本
卓美
24
63
大西 和彦
25
62
繁宮 啓二
26
62
塚林 功
27
62
井上 修
28
61
山田隆太郎
29
61
五十嵐 昇
30
61
吉村 秀清
31
61
横山二三男
32
60
鈴木 富雄
33
60
長谷川 功
34
60
山中 勝世
35
60
太田 久行
36
59
塩鶴 雄二
37
58
得丸 幸夫
38
58
小谷野文雄
39
57
清水 春生
40
56
坂下 辰夫
41
56
出 身
埼玉
長野
東京
鹿児島
埼玉
埼玉
京都
京都
東京
神奈川
埼玉
東京
東京
東京
宮崎
東京
北海道
東京
東京
東京
東京
鹿児島
福井
兵庫
北海道
埼玉
石川
東京
埼玉
広島
福岡
長野
群馬
山形
東京
兵庫
埼玉
埼玉
埼玉
神奈川
埼玉
人数
42
43
44
45
46
47
48
49
50
51
52
53
54
55
56
57
58
59
60
61
62
63
64
65
66
67
68
69
70
71
72
73
74
75
76
77
78
79
80
81
82
氏 名
中谷 正
子田 丈夫
丹澤 直樹
井上 正彦
八田部 鉄
町田 良和
中野 信幸
増田 伸二
佐々木 満
葉山 良一
内藤 稔
本山 宏
鳴海 金吾
須田 正樹
原 信幸
北川 智士
木沢 克司
内田 亮一
田中 忠史
住本 哲朗
松井 文雄
渡部 徹
日向野正行
内藤 誠二
大石 雅規
小塩 隆
武井 泰則
宮腰 昇
白井 冬樹
岡田 洋
須田 淳
山本 俊嗣
平山 隆志
福地 義洋
副島 英雄
佐藤 唯史
飯田 浩一
田中 規之
谷 康弘
有馬 宏
水島 稔彦
満年齢
55
54
54
53
53
52
51
51
51
51
50
50
50
49
49
49
48
48
48
47
47
47
47
46
46
46
45
45
44
44
44
44
44
43
42
41
40
40
40
39
39
出 身
神奈川
新潟
東京
神奈川
東京
埼玉
東京
埼玉
京都
長崎
埼玉
群馬
青森
東京
茨城
栃木
東京
埼玉
新潟
熊本
埼玉
秋田
東京
埼玉
埼玉
福岡
福岡
埼玉
埼玉
東京
埼玉
福岡
埼玉
東京
東京
埼玉
愛知
東京
鹿児島
埼玉
埼玉
物故者芳名簿
ご
芳
名
死
亡
年
月
享
年
1
今井 肇
昭和57年
7月
52 歳
2
寺坂健一郎
昭和60年
7月
44 歳
3
平岩隆二
平成
2年11月
64 歳
4
福田崇廣
平成
3年12月
56 歳
5
伊藤隆二
平成 6年
6
長谷川哲司
平成
7
小林勝弘
平成14年
65 歳
8
加藤光男
平成15年
62 歳
9
長坂安治
平成18年
74 歳
10
青野 廉
平成18年10月
85 歳
11
星
平成19年
8月
70 歳
12
太田 洋
平成19年11月
75 歳
13
細川 一
平成20年
1月
75 歳
14
三宅博行
平成20年
5月
60 歳
15
大野利夫
平成20年
9月
78 歳
16
照井千尋
平成20年12月
43 歳
寿
8年
62 歳
1月
68 歳
武惑クラブ会員でありました上記の方々が、お亡くなりに
なりました。謹んでご冥福をお祈り致します。
Ⅷ.
部
歌
武
1.
惑
ク
荒ぶ寒風
ラ
田
崇
廣
曲:信
国
康
博
スクラムに
ネバーギブアップ
上げよ勝鬨
喜びの
武惑クラブ
弾むボールに
青春の
見果てぬ夢は
蘇る
ダッシュBK
ゲット・ア・トライ
男のロマン
ああ我等
永遠に
武惑クラブ
ゲーム終わって
男の酒は
酌み交わす
ノーサイド
ナイス・ファイトと
4.
詞:福
ガッツFW
ああ我等
3.
歌*
部
しぶく汗
ファイト燃せ
2.
ブ
絆深める
友情の
ああ我等
武惑クラブ
肩を組み
尽きぬなごりの
ファンクション
早や暮れなずむ
グラウンドの
白いボールが
目にしみる
さらば(相手チーム名)我がマーク
ああ我等
*
武惑クラブ
この部歌は、浦和クラブのために作成されたものですが、同クラブの許可を得て文言を一部変更して
使っているものです