わたしに力が尽きても 旧約単篇 詩篇の福音 わたしに力が尽きても 詩篇 71:5-12 申命記の最後の頁に、神の人モーセの死と葬りの記事があります。その中 で、「モーセは死んだとき百二十歳であったが、目はかすまず、活力もうせ てはいなかった」と書かれています(申 34:7)。映画「十戒」を見た後の 私のイメージは、チャールトン・ヘストンのモーセのように力強く、堂々と した百二十歳でしたが、その後テレビで何度も金さんと銀さんを見た後では、 「目はかすまず、活力もうせてはいなかった」というのは、あの程度の元気 さを言ったものか、とも思います。 事実 8 頁前の 31 章は、モーセ自身の言葉として、「わたしは今日、既に百 二十歳であり、もはや自分の務めを果たすことはできない」(31:2)とも記 しています。モーセもやはり、人間としての力の限界を知っていたのだと思 います。ちなみに、東海大学の石井直明教授によると、今の人間の命には大 体百二十年で崩壊するプログラムが組み込まれていると言います。とすれば、 モアブの地で没したモーセには、シナイ山で十戒を受けた時や、葦の海に向 かって手を差し伸べた時の活力は、もう無かったのではないか……これは私 の推測です。「神の人」と言われた預言者でさえそうだったとすれば、私た ち凡人はなお更です。 詩篇 71 はそういう、老年に至って自分の弱さを謙遜に知らされた人の、切 実な願いと信仰の告白を含んでいます。しかもそれは、悠悠自適の余生から 静かに語られるのでなく、周りから彼の信仰を笑う人たちの悪意を全身で感 じながら、それに負けないで信頼を全うできますようにお支えくださいと、 魂を注ぎ出すようにして祈りながら語っているのが冒頭の 10 行からすでに 感じ取れます。 -1- Copyright えりにか社 2008 All Rights Reserved. わたしに力が尽きても 1.主よ、御もとに身を寄せます。とこしえに恥に落とすことなく、 2.恵み の御業によって助け、逃れさせてください。あなたの耳をわたしに傾け、お 救いください。 3.常に身を避けるための住まい、岩となり、わたしを救おう と定めてください。あなたはわたしの大岩、わたしの砦。 4.わたしの神よ、 あなたに逆らう者の手から、悪事を働く者、不法を働く者の手から、わたし を逃れさせてください。 次の 13 行で詩人は、物心ついた時からの主なる神への信頼の半生を確認し ます。5 節から 6 節にまたがる「若いときから……母の胎にあるときから」 は、自分が思い出せる限りの幼い時からという意味で、それは生まれる前か ら始まっていたと言ってもいい……という文学的誇張(修辞)と見て宜しい でしょう。7 節の「多くの人はわたしに驚きます」は、どんな意味で「驚く」 のか、日本語で読む私たちには読み取りにくいですが、イザヤ書(52:15) の用例などから判断して、多分、外から見た姿の不幸や不運に不信の人が驚 いて、不可解と見る意味かと思います。「神を信じて幸福であるはずの人が、 何たる体たらくか!」と、周囲の人は批評する。本人も、自分の老いと無力 が始まっているのを感じて、悲しみに襲われるのです。 5.主よ、あなたはわたしの希望。主よ、わたしは若いときからあなたに依 り頼み、 6.母の胎にあるときから、あなたに依りすがって来ました。あなた は母の腹から、わたしを取り上げてくださいました。わたしは常にあなたを 賛美します。7.多くの人はわたしに驚きます。あなたはわたしの避けどころ、 わたしの砦。 8.わたしの口は賛美に満ち、絶えることなくあなたの輝きをた たえます。 9.老いの日にも見放さず、わたしに力が尽きても捨て去らないで ください。 キドナーDerek Kidner の注解書には“A Psalm for Old Age”という表題 がついています。「老年のための詩篇」です。9 節の「老いの日にも見放さ ず、わたしの力が尽きても捨て去らないでください」の中に詩人の悲しみと -2- Copyright えりにか社 2008 All Rights Reserved. わたしに力が尽きても 訴えを見たからでしょう。でも、これは老人だけへの慰めではありません。 若い方も一緒に終りまで読んでみてください。 神に「見放される」恐れは、信仰に立つかぎりあり得ないのですが、もし 自分の精進の度合いとか、成績で「受け入れられ」たり、「見放され」たり するように思い込めば、不安はたちまち人を虜にしていまいます。詩篇の作 者は信仰の足場に立つのですが、周りがそれを許さないのです。お前のよう な落第点の信者は「捨てられる」に決まっていると。 10.敵がわたしのことを話し合い、わたしの命をうかがう者が共に謀り、11. 言っています。「神が彼を捨て去ったら、追い詰めて捕えよう。彼を助ける 者はもういない」と。 12.神よ、わたしを遠く離れないでください。わたし の神よ、今すぐわたしをお助けください。 18 節の「わたしが老いて白髪になっても」は、この作者がまだ「白髪にな って」いないようにも聞こえますが、ヘブライ語の原文は「老年と白髪まで」 で、「白髪の老人となった今も」の意味だと思います。詩人はその現実をし っかり見つめながら、それでも、最終的にはその「白髪」や「老年」の悲哀 に目を奪われずに、命を与える主に信頼を置いて、信仰の基調でこの詩篇を 閉じます。 18.わたしが老いて白髪になっても、神よ、どうか捨て去らないでください。 御腕の業を、力強い御業を、来るべき世代に語り伝えさせてください。 19. 神よ、恵みの御業は高い天に広がっています。あなたはすぐれた御業を行わ れました。神よ、誰があなたに並びえましょう。 20.あなたは多くの災いと 苦しみを、わたしに思い知らせられましたが、再び命を得させてくださるで しょう。地の深い淵から、再び引き上げてくださるでしょう。 21.ひるがえ って、わたしを力づけ、すぐれて大いなるものとしてくださるでしょう。 22. わたしもまた、わたしの神よ、琴に合わせてあなたのまことに感謝をささげ -3- Copyright えりにか社 2008 All Rights Reserved. わたしに力が尽きても ます。イスラエルの聖なる方よ、わたしは竪琴に合わせてほめ歌をうたいま す。23.わたしの唇は喜びの声をあげ、あなたが贖ってくださったこの魂は、 あなたにほめ歌をうたいます。 24.わたしの舌は絶えることなく、恵みの御 業を歌います。 「老人力」という言葉が最近使われます。年齢による物忘れまで含めて、 それは「老人力」と考えよ。少しも恥じる必要はない。老人には老人の存在 価値も効用もあると考えよう。まだまだ役に立つことが残っているのだと。 これは積極的思考で、大いに結構なことです。でも、もう一つ積極的なのは、 その弱さを正直にみとめた上で、その役に立たない自分の姿の中に、かえっ て、神様の恵みが働く場を発見することです。 ここに「人生の秋」という題の詩があります。この詩を日本に紹介した人 は、ドイツ人でカトリックの修道士、ヘルマン・ホイヴェルスという人。日 本で 40 年働いて上智大学でも教鞭を取られた方です。鹿屋の友人吉井秀夫さ んから送っていただいたものですが、この詩が、まるで詩篇 71 の続きか、そ の現代版のようによく似ているのに驚きました。 人生の秋 ヘルマン・ホイヴェルス この世の最上のわざは何? 楽しい心で年をとり、働きたいけれども休み、 しゃべりたいけれども黙り、失望しそうなときに希望し、 従順に、平静に、おのれの十字架をになう。 若者が元気一杯で神の道を歩むのを見ても、ねたまず、 人のために働くよりも、謙虚に人の世話になり、 弱って、もはや人のために役だたずとも、 親切で、柔和であること。 -4- Copyright えりにか社 2008 All Rights Reserved. わたしに力が尽きても 今朝のスピーチの題は「怠惰のすすめ」としようか、と言いましたら家内 が、「そんなん誤解されるデ。止めとき」と言ってくれました。勤勉と能率 主義が持て囃される世界です。そんな中で、いつの間にか自分もその流れに 引き込まれて、「十分に役立たない自分」に苛立つことがあります。「若者 が元気一杯で神の道を歩む」のと同じだけ能率を上げたいと自分に鞭打って、 「良い仕事してますねェ」と言われるだけの結果を残したくても、体も精神 も言うことを聞かない悲哀です。詩篇の言葉で言うなら、 「老いの日が来て、 私の力が尽きた今」です。 その時が来ているのに、以前と同じように「元気一杯」の目標を目指し、 自分で納得の行く「力いっぱい」の成果が出るまでは不満で不幸であるとす れば、それは主の憐れみの時間表を無視する罪を犯していることになります。 行き詰まりは、桂枝雀さんの例にとどまりません。私たちの周りには同じよ うな教訓が数え切れないほどあります。 ホイヴェルスの詩の続きを読みます。 老いの重荷は神の賜物、 古びた心に、これで最後のみがきをかける。 まことのふるさとへ行くために。 おのれをこの世につなぐくさりを少しずつはずしていくのは、 真にえらい仕事。 こうして何もできなくなれば、それを謙虚に承諾するのだ。 詩篇とホイヴェルスに託して、年齢と老いの話のように語りました。しか し、「私に力がつきて」聖なる目標に達しない悲しみは、単に年老いた人の 悲哀に留まりません。人それぞれの病気や、体力、精神力の限界もあります。 昔から教会という所は、熱心主義が重んじられ、「信仰を持てば不可能は無 -5- Copyright えりにか社 2008 All Rights Reserved. わたしに力が尽きても い。やればできるのだ!」というハッパかけが主流になりました。それにつ いて行けない人や、振り落とされた人は、自分が不信仰であるかのように、 卑下したり、自分を責めたりしたものです。そんな中で私たちには、このホ イヴェルスの詩や、詩篇 71 の言葉が、失われていた何かを思い起こさせる、 貴重なヒントになります。 「働きたいけれども、働けなくて休む」ことの価値。「弱って、人のため に役立たない」ときも、「何もできなくなった」悲哀をも、そのまま謙虚に 承諾できるしたたかさ。これは、全部一度に身につけるのは難しいですが、 それを“なし崩しに”少しずつ学んで行くための機会は、あなたが目を開い ていれば、次々に回って来るものです。 ホイヴェルスの詩の残り 8 行を読んでしまいます。 神は最後にいちばんよい仕事を残してくださる。 それは祈りだ。 手は何もできない。けれども最後まで合掌できる。 愛するすべての人のうえに、神の恵みを求めるために。 すべてをなし終えたら、臨終の床に神の声をきくだろう。 「来よ。わが友よ、われなんじを見捨てじ」と。 (「年をとるすべ」より) 詩を私たちに紹介なさったホイヴェルスさんは、詩篇 71 を書いた人と同じ ように、「老いの日にも見捨てない神」を見出し、「自分の力が尽きた最低 の時に」彼を支えておられる神を見出したのです。 「わたしの力が尽きた今」という時点は、わたしたちが自分の実績から神 に目を上げるための、恵みの機会だと思います。第2コリント書の中でキリ ストの使徒パウロは、自分を打ちのめす弱さを「一つのとげ」(12:7)にた -6- Copyright えりにか社 2008 All Rights Reserved. わたしに力が尽きても とえました。また「サタンから送られた使者」だとも言いました。パウロは それが辛くて、これを取り除いてくださいと、三度まで主に祈ったといいま す。それが、パウロの持つ何らかの欠陥であったのか、具体的な病気であっ たのかは分かりません。 「老い」というにはまだ早かった、と人は言うでしょうが、一度ユダヤ人 から処刑されて死亡を確認されたという彼の体は、恐らくボロボロで、パウ ロはそんな障害だらけの体を引きずって歩いていたのです。そのパウロが「こ のとげを取り除いてください」と三度まで祈った時の主のお答えが、第2コ リント書に残されています。(12:8-10) 8.この使いについて、離れ去らせてくださるように、わたしは三度主に願 いました。 9.すると主は、「わたしの恵みはあなたに十分である。力は弱さ の中でこそ十分に発揮されるのだ」と言われました。だから、キリストの力 がわたしの内に宿るように、むしろ大いに喜んで自分の弱さを誇りましょう。 10.それゆえ、わたしは弱さ、侮辱、窮乏、迫害、そして行き詰まりの状態に あっても、キリストのために満足しています。なぜなら、わたしは弱いとき にこそ強いからです。 「弱いときにこそ強い」というのは、その弱さの悲しみが、本当の力の源 に目を上げるための、恵みの機会になるからです。人間は自分が強い間は自 分の腕と力を誇りにしているので、神様の命を頂く謙遜な姿勢にはなかなか なれません。弱さに打ちのめされて初めて人は、神から受ける謙遜さを学ぶ のです。旧約の詩人も「わたしの力が尽きた」という“どん底”の経験から、 「恵みの御業」を思い起こさせていただいたのでした。ホイヴェルスさんの 言葉で言うなら、「何もできなくなった」その時に、神の恵みを求める祈り ができたのでした。 「わたしに力が尽きても」という主題でした。ある人は年老いて力尽き、 -7- Copyright えりにか社 2008 All Rights Reserved. わたしに力が尽きても ある人は病の悲しみの中で力尽き、ある人は誇れる自分が崩壊する中で力尽 きます。そして初めて「命を与える主」に目を上げます。 イエス・キリストの復活を、西の教会が祝うのが来週の 4 月 4 日、東の教 会が祝うのが再来週の 4 月 11 日です。どちらを取るかは単に文化の問題に過 ぎません。イタリアとフランスとドイツの教会は 4 日の日曜日に、セルビア とロシアの教会は 11 日の日曜日に、復活の歌を歌います。私たちは今日 28 日にも、また 4 月の 25 日にも同じように、キリストの復活を感謝し、「力が 尽きた人に命を与える方」を仰ぎたいものです。キリストはそんな人のため に復活なさったからです。 (1999/03/28) 《研究者のための注》 1.前置きで紹介した石井直明教授の言葉は、1990 年 10 月に山王原教会のメンバーであ られた同教授 (当時助教授) の研究室を、西山均牧師に同行して訪れたときに伺っ たものです。石井氏は創世記 6:3 の「百二十年」との一致に興味を示しておられまし た。 2.最後に触れた「二つのイースター」の日付については、コソボをめぐって戦う二つの キリスト教文化を思いながら、悲しい風刺もこめてあります。ちなみにギリシャは NATO に属しますが、宗教文化的には東方キリスト教です。 3.引用した詩「人生の秋」は、ホイヴェルス氏の作としてよく引用されるものですが、 実は、ホイヴェルス氏自身が、「南ドイツでひとりの友人からこんな詩をもらったの です」と前置きして、引用しておられることが、後から吉井秀夫氏からのお手紙と、 ホイヴェルス氏自身の証言で分かりました。春秋社 1996 年発行「人生の秋に」―ホ イヴェルス随想選集を御参照ください。 -8- Copyright えりにか社 2008 All Rights Reserved. わたしに力が尽きても 付録 老後の“初心” ―「風姿花伝」の心に寄せて― 詩 71:9 私の言う「初心」は、現代語の成句に言う「初心忘るべからず」の初心で はなく、「風姿花伝」の著者世阿弥が、この言葉に込めた意味の初心です。 つまり、決心した時の純粋な気持ちを指すのでなくて、演者はどんな芸境に 達している時でも、自分が「初心」=「未熟で醜悪」である現実を意識する、 という意味での「初心」を指しています。以下は主に世阿弥が言う「老後の 初心」に寄せての感想です。[↓詩 71:9 から] 老いの日にも見放さず、私に力が尽きても捨て去らないでください。 世界的オペラ歌手で、ソプラノのフレーニとバスのギヤウロフというカッ プルがいます。息子のヴラディーミルは、両親を敬愛しながらも、「親父と お袋にはとても太刀打ちできない」から、歌手ではなく、指揮者として立ち ました。人見記念講堂で、息子の指揮する東フィルの伴奏で、フレーニさん とギヤウロフさんが歌うのをテレビで聞きながら、「ああ、西洋にも親孝行 はあるのだ」と感動しました。 ギヤウロフさんの声は、全盛時の迫力を欠いているように思えました。「お 手をどうぞ」と誘う歌からは、ドンフアンの艶は消え、「ファウスト」の幕 切れでも、22 年前に私たちを身震いさせたメフィストの魔力は感じられませ んでした。老成の至芸は十分楽しめたのですが。 落語で小さんの「枯れた名人芸」を楽しみたい人もあれば、むしろ円楽の 「中村仲蔵」(1994)を聞くほうが、言葉の滑らかさと歯切れの良さを楽し めるという、私のような勝手な落語ファンもいます。 -9- Copyright えりにか社 2008 All Rights Reserved. わたしに力が尽きても 滑らかさと艶は無くとも、名人の芸には、新人や中堅にはない内容と感動 があると言います。しかし神技に達した芸も、所詮、老境の衰えは隠すべく もなく、聞き苦しいのも事実です。「夕鶴」の与ひょうを演じた晩年の宇野 重吉に、私は美しさを感じませんでしたし、片岡仁左衛門(先代)の「船乗 り込み」も「無くもが」と思いました。 能楽には全く興味のなかった私が、世阿弥の「風姿花伝」の言葉に引かれ たのは、たまたま二十年前の困窮時に、英語の講師をさせていただいた大阪 産大で、上司であった教授から「世阿弥の著作を英訳したので織田さんの知 り合いの、ギリシャ国立劇団の俳優さんに、送って下さいませんか」と依頼 を受けたことが始まりでした。私は日本の演劇理論の名作を、なんと英語で (!)初めて読んだのです。 世阿弥は演者の芸術的に完成された美しさを「花」と呼び、逆になお未熟 で“不細工”な芸の自己評価を「初心」という言葉で表現しました。若者に は若者にしかない若年の「花」があり、老人には老人の「花」があると言い ます。しかし、彼はまた「時々の初心」を指摘します。至芸と思われる円熟 の役者にも「その時の初心」があることを、忘れてはなりませんし、老いた 名人にも、彼の「老後の初心」は付きまとうのです。 伝道者が語る福音は「芸」ではありません。しかし、罪と死を持つ魂に果 たして的確に届くかという点から見れば、そこには伝道者自身の「時々の初 心」があります。特に「老後の初心」は悲しい現実です。 《注》「初心」―「日本の名著」10 解題の山崎正和氏と観世寿夫氏の文を参照。 - 10 - Copyright えりにか社 2008 All Rights Reserved.
© Copyright 2024 Paperzz