2013成城大学「コミュニケーション講義VII」:マスコミ理論史概論 担当 後

2013成城大学「コミュニケーション講義VII」:マスコミ理論史概論 担当 後
藤将之
第6章 他者意見の推測の及ぼす影響:「共志向 co-orientation 」「多元的無知
pluralistic ignorance」「沈黙の螺旋 spiral of silence 」等(補講で実施)
人間は社会的動物 social animal と呼ばれ、集団で行動する、あるいは集団から
の賞罰を無視しては行動しえない性質をもっている。このため、意見表明や投票行
動などの、個人的意思決定を前提にした主体的な個人行動と、「孤立を恐れる」
「他者意見を推測して振る舞う」などの同調行動を前提にした社会行動とが、しば
しば矛盾する。このような、「個人の主体性、能動性」と「社会的な同調性」との
矛盾関係について、いくつかの指摘がなされている。マスコミ、コミュニケーショ
ン研究の領域では、以下に挙げるような代表的な研究例がある。いずれも、「他者
意見、多数派意見の推測、見積り」「その正確、不正解」「それに依拠した後続す
るコミュニケーション行動、実行動」といった構成要素をもった概念化である。
1)ニューカムの共志向モデル(ABXモデル)
共志向 co-orientation モデルは、社会心理学者セオドア・ニューカムが1950年
代に提起したコミュニケーションモデルのひとつで、ABXモデルとも呼ばれた。
二人の個人(A、B)が、対象(X)についてコミュニケートする時、A、Bは、
それぞれ、相互の相手に加えて、話題Xについても志向 orient している(共志向し
ている)。この時、A、Bが、正しく相互およびXに対して志向していないと、コ
ミュニケーションにズレが生じ、円滑なコミュニケーションが行えない。
対人関係(A→B、B→A)と対象関係(A→X、B→X)がすべて正確である必
要がある。たとえば、(1)両名が同じもの(青い空など)を見ている、(2)両名が相
互に志向している、(3)両名が「空が青い」ことについて、相互の意見に合意する。
これら4つの志向性のいずれかに誤解があると、
AのB誤解 BのA理解 AのX理解 BのX理解
AのB理解 BのA誤解 AのX理解 BのX理解
AのB理解 BのA理解 AのX誤解 BのX理解
AのB理解 BのA理解 AのX理解 BのX誤解
順番に、「A、Bさんとも、何がXかは正しく理解しているが、AさんはBさんを
誤解し、BさんはAさんを理解している」などなどと場合分けが得られる。対象関
係(その場の話題とか、討論の対象とか)は正しく理解していても、そのようなA
またはBについて、相手が誤解している(対人関係が誤解されている)可能性があ
る。また、対人関係(相互の意見)は正しく理解していても、そのような意見の対
象Xについて、A and/or Bが誤解している(対象関係が誤解されている:AはX
1を想定し、BはX2を想定するなどの)可能性がある。対人関係と対象関係が正
しく理解された時(何について、相手がどう考えているかを、相互が、正しく理解
した時)にコミュニケーションが成り立つとした。
当然、4つのうち2つ、3つ、4つに誤解がある可能性ももちろある(さらに場合
分けが錯綜する)。このようにして、「ABX関係におけるディスコミュニケー
ションの実態」について、可能性が分類される。これらの対人関係、対象関係のバ
ランスが正しいことが必要、という議論だった。
共志向の議論は、ダイアド(2者関係)における対人関係と対象関係の正誤を分類
し、誤解の可能性を場合分けしたものともいえる。共志向関係は、1次、2次、∼
と拡大していくこともできる。「AはXについて好ましく思っている」とBは知っ
ている」とAは知っている」∼以下同様、の事態も想定できる。2次(「Aは、<
BがXを好ましいと思っている>と知っている」)以上の共志向関係は、いっそう
安定的な相互理解を意味しているという指摘もある。
*以上、コミュニケーション過程は、対人関係と対象関係の双方を含み、双方の適
切さを必要とする、ということ。
2)多元的無知 pluralistic ignorance
共志向関係を、2人以上の多数について拡大すると、「他者意見の見積もり」に
ついての問題になる。これを論じたのが多元的無知の議論である。
多元的無知は、多数者の無知、多数の無知などとも訳される、多数派の実態(意
見や行動)についての推測の誤りに関する概念化。社会心理学者のフロイド・H・
オールポート Floyd H. Allport が1920年代に発想し、ダニエル・カッツとオール
ポートが、1931年の論文でも使用した。80年代∼に、一定の関心のリバイバル
がみられた。
「多数派が、実際にはある規範に従っていないにもかかわらず、その規範に従って
いると相互に公言している(多数派が面従腹背である)時、ある個人にとって、そ
の規範は、広く遵守されているかのような印象を持たれる。その個人がその規範に
従う時、その人は、(現実には少数派であるにもかかわらず)、多数派であると自
己誤認する。また、その個人がその規範に従わない時、その人は、(現実には多数
派であるにもかかわらず)、少数派であると自己誤認する」。このような、実態と
主観的意識がズレている事態について、それを多元的無知状況にあると呼んだ。
他者の現実の行動は、全てをいつでも観察できるわけではないので、公言された
意見(「規範遵守している」)だけを盲信すると、実際には誰も信奉していない規
範が、過大に信奉されているかの誤認が生じる。誰もが相互に多元的無知状況にあ
る時、実際には誰も信奉せず、守ってもいない規範が、誰にとっても、自分以外に
は広く守られているかように誤解される状況が生まれる。この場合、誰もが少数派
意識をもちつつ、なお規範を侵犯するが、実際には、彼らこそが多数派である(に
もかかわらず、彼らはそのことを理解していない)。多数派についての無知が生じ
ている。
例:旅人がある村にやってきた。その村では、カード
博が禁止されていた。村民
みんなが、自分はカード 博をしていない、それは禁止されている、と答える。に
もかかわらず、実際には、誰もがカード 博をしていた。そして相互にその事実を
知らなかった。この時、旅人以外の全員が、相互に対して、多元的無知状況にある
ことになる。ただし、これらを部外者として観察している旅人だけは、その現実
(誰もが規範を侵犯している多数派だが、誰もが少数派の意識を持っている)を知
ることができる。旅人が、「みんなやってるじゃないか」とみんなに向けて暴露す
れば、多元的無知状況は解消される。ただし、とてもばつの悪い印象は残るだろ
う。それでも結果的に相互理解は促進される。
*当然ながら、上例とは逆の多元的無知状況も想定できる。「誰もがある規範を信
奉していながら、それを表面上は信奉していない、と公言している時に、ある個人
が、その公言を信用して、規範を信奉しない行動に出た場合、当該個人の意識内で
は、<現実の多数派に同調している>という多数派意識が抱かれるが、実際には、
当該個人は、信奉されている規範を守らないのだから、少数派の逸脱者、というこ
とになる。このようにして、現実のイメージを操作することで、同調性の高い者
を、その同調性ゆえに、逸脱者に仕立てることも可能である。
ここに、情報を提供するメディア、などの勢力を仮定すれば、以下の「沈黙の螺
旋」仮説とほとんど同じ事態を説明したものとなる。メディアは、現実を誇張して
再現することも多いので、それを信用して振る舞った場合、「過適応としての逸脱
(主観的意識は多数派な少数派)」という、やや滑稽または悲惨な事態が容易に発
生しうる。
多元的無知状況は、たとえば独裁政権の維持、などを結果的にもたらすと言われ
ている。反対を公言すると危険なので、誰もその体制を支持していないにもかかわ
らず、表面上は支持を公言する(そして、その支持とは矛盾した個人行動をとって
いる)。この状態では、見かけの支持は現実よりもはるかに大きくなるが、その現
実そのものが公開されることがないため、「誰も支持していない体制が、あたかも
誰もが支持しているかのごとく、持続しつづける(そして誰も、その虚構性を理解
していない)」という事態になる。ここから、民主主義において、多元的無知状況
の発生は、必ずしも望ましくないとされる。
このタイプの議論(多数派意見の推測と、それへの同調/反発)は、しばしば、
過大に見積もられた社会的支持についての考察につながっている。そのさらなる実
例として、世論の成立についての「沈黙の螺旋」仮説がある。
3)沈黙の螺旋−−世論の理論 エリザベス・ノエル=ノイマン
Elisabeth Noelle-Neumann, "The Spiral of Silence: A Theory of Public
Opinion," Journal of Communication, 1974.
当時西ドイツのアーレンスバッハ世論調査所の所長だったノエル=ノイマンが、
世論形成過程についての仮説として学術雑誌に発表した論文が最初となり、同題の
書物にまとめられた。邦訳あり。改訂あり。ただし、ここでは基本的な発想のみを
紹介しておく。
世論形成がどのようなメカニズムによって起こるかを検討したものである。世論
public opinion は、政治だけでなく、社会科学でもしばしば検討される重要な主題
の1つとなっている。
[先行研究]
世論過程に関するオルポートの実例:「家の前の歩道から、積もった雪を取り除
くように、近隣にかけられる圧力」。世論が、個人と、その社会環境との、相互作
用から生じるなら、そこには、ソロモン・アッシュやスタンレー・ミルグラムが実
験的に証明した、集団からの同調圧力の過程が作用している。
個人にとって、「自分を孤立させないこと」が、自分の判断よりも重要である。
この「自分を孤立させる恐怖」こそが、あらゆる世論過程の統合的な部分である。
これこそが、個人が脆弱になる地点であり、「世論」と「賞罰」の概念は結びつい
ている。
だが、いつ個人は、自分を孤立化させるのか? 個人はこれを「疑似統計的な器
官」によって知ろうとする。自分の社会環境を観察することで、自分の意見と同じ
意見/対立する意見の分布を評定し、ある提案や見地の、強度・切迫性・成功の確
率を評価する。
[理論の概要]
このことは、個人が立場の対立に巻き込まれ、どちらに立つかを考える環境で、
とりわけ重大である。立場の一方を選ばねばならない。優勢な(=勝っている方
の)意見に同意すれば、自信を高め、会話状況で孤立の危機にさらされることな
く、違う意見の者を切り捨てて、自分の意見を表現できよう。あるいは、自分の立
場が、弱まっているのを知るかもしれない。そうなれば、自分に自信が持てず、意
見を表明したくなくなる。これらは、個人が社会環境から受け取る「意見の分布に
ついての疑似統計的な像」に影響する。一方の意見には、より頻繁かつ確信的に直
面し、他方の意見は聞かれなくなる。個人がこうした傾向性をさらに知覚し、その
通りに自分の意見を採用するにつれ、一方の派はより支配的にみえ、他方の派はよ
り下り坂にみえてくる。
こうして、一方が大きな声で話し、他方が沈黙するという傾向が、一種の「螺旋
過程」を開始させ、それにより、一方の意見が次第に支配的なものとして確立され
る。
反対意見を述べたり、おおやけに反対に行為することは、孤立の危機につなが
る。世論とは、同意しない個人を孤立によって脅かし、また政治家を、大衆の支持
を失うと脅かすという意味で、「態度と行動における服従を強要する支配的な意
見」である。こうして、世論形成の過程を始動させる能動的な役割は、孤立に脅か
されるのを望まない人々の側にある。ドイツの社会学者フェルディナント・テンニ
エスは「世論は権威的たらんとし、同意を要求する。少なくとも沈黙を、反論する
ことへの自制を、強要する」という。イギリスの政治史家ジェームズ・ブライス
は、「負けていると感じるだけで沈黙する多数派」について述べた。
[5つの仮説]
仮説1)個人は、社会における意見分布像と、意見傾向の像を持つ。どの意見が力
を得て、どれが衰退するかを観察する。これが、世論の存在または発達の前提。環
境観察の強度は、問題への関心の程度や、その問題について、どこまで自分を公的
に晒さなければならないと個人が予想するかによって変化する。
仮説2)自分の意見を話したいという希望は、社会の中の意見の頻度分布とその将
来の傾向についての、予想評定によって変化する。自分の意見が支配的で、今後と
もそうだ考えられる、あるいは(いまは支配的でなくとも)より広まっていくと考
えられる場合、意見表明の希望度は大きくなる。逆も同様。
仮説3)以上から、さらに、もし「現在の意見分布の推測」と「実際の分布」とが
明かに異なっていた場合、それは、「強度を過大視された意見が、いっそう公的に
提示された」ことの結果と推定できる。
仮説4)「現在の推定」と「未来の予測」の間には正の相関がある。つまり、ある
意見が支配的なものと考えられるなら、それは、未来の意見であるとも考えられや
すい(その逆も同様)。この相関が弱いほど、世論は変動しやすい。
仮説5)ただし、もし、「ある意見の現在の強さ」と「今後の強さ」の推測につい
て分裂があるならば、個人が意見を表明する希望程度を決定するのは「将来の立場
の予想」の方である。意見の変化の傾向が、自分の方向だと確信するなら、孤立の
危険はより重要でない。
[データ]
1971年と72年に、アーレンスバッハ世論調査所が行なった1000人から
2000人への、構造化された面接を含む、人口の代表的なサンプルへの調査。こ
れは、4種類の質問からなる。
a)ある論争的な主題についての「回答者の意見」。
b)その主題について「多数派の人々がどう考えているか」に関する回答者の「推
測」。
c)その主題への意見の、未来の変化に関する回答者の「予測」。
d)「公的な状況で自分の意見を表明すること」への希望程度。これは、「列車の
長旅で、同乗者と対面するような場面」を想像してもらい、同乗者と論争的な主題
の会話に参加したいかどうか質問する(「電車内テスト」と呼ばれる)。
[電車内テストに使われた論争的な12の話題]
以下について、上の形式で質問した。
・堕胎法
・運転手の血中アルコール濃度
・資本制裁
・未婚カップルの同居
・子供の体罰
・外国人労働者
・業績志向社会
・モスクワ=ワルシャワ協定
・東ドイツの認知の可否
・共産党の破門
・フランツ・ヨゼフ・ストラウスにいっそうの政治的影響力を
・ブラントに首相でいてほしいか
これらのうち、2事例が、沈黙仮説を修正するものだった。残り10例では、沈
黙仮説が裏付けられた。2事例では、「負け派」(53∼61%の多数派に対する
17∼25%の少数派)が、多数派と同程度には、意見を表現したいと望んでいた
(モスクワ−ワルシャワ協定に反対する少数派、ストラウス支持の少数派)。この
原因として、長い間に少数派は、自分の意見を変えず沈黙もしない「ハードコア
派」に変わると考える。孤立にも慣れ、自分の意見に一致する人々やメディアだけ
を選択し、自分の意見を保持するようになる。
仮説3についての明確な確証を得るためには、さらなる研究が必要である。たと
えば、「実際の意見分布」と「想定された意見分布」の亀裂の調査が必要だ。また
「もっともしばしば公的な場で提示された意見の知覚」が、「回答者自身の意見」
や、「回答者による優勢な意見の推測」と相関しているかどうかを知ることが必要
だ。
周囲の変化を観察することが、自分の意見の変化に先行すると仮定したが、この
研究では、1972年選挙中に、公的な場でより強く提示された意見の方向へと、あ
とから投票意図が変化するのが発見された。このシフトは、政治的争点についてあ
まり確信のない女性の間でもっとも顕著だった。
[考えられるいくつかの予測]
・現在の多数派も、少数派だと思われると、将来的に衰退し、多数派と感じられる
現在の少数派は増大するだろう。
・多数派を維持できるという期待について一致しない現状の多数派は、衰退するだ
ろう。反対に、未来について好ましい期待を一致して抱いている場合、彼らが反対
意見を採用するには、長い時間がかかるだろう。
・支配的な意見、またはある意見の将来期待される強さ、が不確定になった場合、
このことは、支配的な意見が逆転することを示唆するものだろう。
・「自分たちの意見を公的な場で公開することの希望度」が、ふたつの派ではっき
り違っている場合、より大きな希望度を示した派が、将来優勢になる可能性が高
い。
これらから、「自分たちが将来は優勢になると確信し、自分たちの意見を表明す
ることを望んでいる少数派」が、「自分たちの意見が優勢になるかどうか疑ってお
り、公的な場で意見を提示することを望まない多数派」に直面した場合に、批判が
なされないので、優勢な意見となる可能性が高い、と結論される。それは「ひとつ
の派の意見」から「世論」へと変わる。この種の分析は、政治意見の予測や、フッ
ション・トレンドや、社会的な確信や慣習の発達にも応用できる。
[メディアとの関連]
マス・メディアは、個人が環境についての情報を得るために使用するシステムの
一部である。個人は、「公開された意見」の圧力に反応する。「意見の優勢度」
は、いかにメディア内部に発生し、どんな要因が、それを促進・阻害するのか。こ
の問題の調査も必要である。それは、ジャーナリストの信念などに根拠を持つの
か。あるいは、優勢な意見の唱導者が、数字の上では勝ってさえいる反対者の集団
をも、締め出せるような重要な位置にいるということなのか。
マス・メディアの世論への影響を研究する、世論生成の概念が「沈黙の螺旋」で
ある。ここで提起される問題は、「どんな話題が、マス・メディアによって、世論
として提示されるのか(議題設定機能)」、「重要なものとして提示されるのはど
れなのか」、「未来に優勢になるのは、どんな個人や議論なのか」などだ。メディ
アは「世論の鏡」か「造成者」か。「沈黙の螺旋」の社会心理学的メカニズムによ
れば、マス・メディアは世論を創造する。それは環境圧を与え、人々はそれに対し
て、敏感に、黙従や沈黙をもって対処するのだ。
*以上、ノエル=ノイマンの立論は、マスメディアによって過大に報道された「大
きくみえる意見」に対して、個人はきわめて無力で同調的に行動することを前提と
している(同調性の高い個人を想定した理論化である)。ノエル=ノイマンが、
1940年頃まで、ナチに親和的な活動をしてきたことが知られている。このことで
当人は90年代に批判された。真実は分からないが、このようなナチ体制下での従
属/反抗の経験が、上のような理論化の一因となったことは推察される。
*以上の立論は、「社会的現実の操作によって、結果を望ましい方向へもたらす」
という発想と類同であり、この社会的現実(一見してそうみえる演出された「現
実」)からの現実への影響、という視点において、シカゴ学派のリアリティの社会
的構成論とも結果的に関連しうるものとなっている。このような「社会的現実」の
影響を重視する「リアリティの社会的構成論」的な発想は、80年代以後におい
て、社会科学の各方面で、とりわけ大きく扱われるようになっている。
第7章 文化指標と培養分析:長期の大規模なテレビドラマの内容分析とテレビ視
聴の認知的効果など
1)ジョージ・ガーブナー&ラリー・グロス「テレビと生きるーー暴力プロファイ
ル Living with Television: The Violence Profile」, George Gerbner and
Larry Gross, Journal of Communication, 1976: Vol. 26: 172-194. など
多数
ジョージ・ガーブナー George Gerbner 1919-2005 は、ハンガリー生まれの
アメリカのマスコミ研究者。UCバークレー→USCで学位取得。「ガーブナーのコ
ミュニケーションの一般モデル」はしばしば引用された。のち、ペンシルヴァニア
大学アネンバーグ・スクールにて、1968年から、政府援助のもと、テレビ番組に
おける暴力を測定する「暴力指標」「暴力プロファイル」など一連の大規模な内容
分析を多年にわたって実施。ここから、「文化指標 cultural indicators」「培養分
析 cultivation analysis」などを提唱。とりわけ、大規模なテレビドラマの内容分
析によって、「テレビ的世界」の実態と影響を検証した。メディア教育財団MEFの
創設者の一人でもある。
以下は、1976年に発表された、大量にあるガーブナーのグループによる研究報
告のうち、最も初期の代表例を要約して紹介する。ガーブナーの研究は、コロンビ
ア調査が結果的に始動させたアメリカ式の行動科学的な社会調査だけに依拠するの
ではなく、ヨーロッパ的な社会批評、文明論的な問題関心を、利用可能な大規模社
会調査で裏付ける、という展開になっている。このため、その冒頭部分は、いわば
テレビをめぐる文明論的エッセイになっている(このことで評価もされ、批判もさ
れる)。やや長いが、以下に紹介する。
人間存在のもっとも明確な側面を支えるのはシンボル環境である。われわれは、
その環境から引きだされた意味にもとづいてものごとを知り、それを共有し、それ
に対して行為する。シンボル的な世界のうち、最初でしかももっとも長続きしてい
るものが宗教である。その神聖な視野の中には、文化のもっとも本質的な諸過程、
すなわち芸術、科学、技術、国政、そして誰にも分け持たれた物語などが見出され
る。
共通の儀礼と神話は、シンボルによる社会化と統制のエージェントである。それ
らは、社会の規範と価値とをドラマ化することで、社会がどのように動くのかを示
す。それらは、メッセージの一般体系の本質的な部分であり、このシステムが、優
勢な見解を教化(または涵養、培養 cultivate)する。そして社会関係を統制する。
このため、われわれはそれを文化 culture と呼ぶ。このメッセージ体系が、その物
語機能ともども、人々に、既存の社会秩序に適合するものごとを、現実で、正常
で、正しいものだとして知覚させるのである。
こうしたメッセージ体系を生み出す制度的な過程は、しだいに職業化、産業化、
集権化、また専門化されてきた。その主要な位置は、手工業から大量生産へ、伝統
的な宗教や公教育から、コミュニケーションのマス・メディア(とりわけテレビ)
へ、と移行した。現在は、そうしたシンボル環境が、多様な共同体を束ねているの
であり、そこには、かつていかなる大衆にも加わったことのない、幼年者や高齢者
や、孤立した人々などの大集団も含まれている。テレビはおそらく、史上もっとも
広く均質な大衆の共通意識を教化する、反復的で儀礼化された、シンボル体系の主
要な源泉として長く存在しつづけるにちがいない。
この研究は、暴力の原因と防止に関する全米委員会のための、1967∼196
8年の主要ネットワーク局テレビにみられる暴力の研究からはじまった。テレビと
社会行動に関するアメリカ公衆衛生局(NIH)医務長官の科学諮問委員会の提供のも
と、1972年まで続けられた。この研究は、当初から広範なものと想定され、これ
らの報告書では、テレビドラマの世界における暴力の役割とシンボル的な機能と
が、暴力の程度とともに示された。1972年春の、国立精神衛生局(NIMH)の会議
では、報告書のために作られた暴力指標 violence index を、社会関係や視聴者の
意識をも考慮したものへと、さらに拡張することが提言された。この提言を受け
て、暴力犠牲者比率と実際の視聴者の反応とを含む暴力プロファイル violence
profile を作成した(われわれの報告書の五番目)。当時の健康・教育福祉担当長
官であるカスパー・ワインバーガーは、1973年秋に、ジョン・O・ペイスト上
院議員に対して、われわれの研究が「NIMHの助言者によって求められ、ガーブ
ナー博士の新しい研究に編入されたように、いくつかの付加的な次元を包括するよ
うに拡張され、視聴者による暴力の知覚とその効果に結びつけられた」と報告し
た。
ワインバーガー長官が言及しているこの「新しい研究」が、われわれの現在のプ
ロジェクトである文化指標 cultural indicators のことである。NIMHからの基金
によって行なわれたこの研究は、テレビ番組の定期的な分析(内容分析)と、テレ
ビ視聴が子供と成人の視聴者に対して教化する、社会的現実認識の定期的な分析
(受け手の意識調査)からなる。暴力の分析はこの研究の持続的な側面であるが、
このプロジェクトはまた、社会科学と政策に対して意味を持つ、その他の主題や役
割や関係についての指標をも発展させてきている。
発見されつつある知見は、われわれの信念を裏付けている。すなわち、テレビは
本質的に他のメディアとは異なったものであり、テレビの研究は新しいアプローチ
を必要とするという信念である。この論文でわれわれは、他のメディアでの経験か
ら引き出された研究様式の批判を素描し、テレビの特殊な性格や特徴や機能にいっ
そう適切であると考えられる、ひとつのアプローチを提示する。
今世紀の変わり目に、自動車は、大部分の人々には、ひとつの新しい生活様式の
主要な運搬者としてではなく、単なる馬なしの馬車と見えただろう。同様に、テレ
ビ以前に成長した者は、それを、長いマス・コミュニケーションの技術改善のひと
つにすぎないとみなす傾向があった。その結果、他のメディアに根ざした思考と研
究の様式が、テレビにも適用されてきた。こうした初期の研究様式は、メディアが
選択的に利用されるということに基づき、態度や行動の変容に焦点を合せたもの
だった。このふたつの仮定は、テレビの効果を概念化して研究するという課題のた
めには、きわめて不適切なものである。→*事実上のコロンビア・パラダイムへの
挑戦といえるステートメント。
われわれは、「テレビとは、アメリカ社会において中心的な文化的権力 cultural
arm である」という仮定から出発する。それは確立された秩序の代弁者であり、慣
習的な認識や信念や行動を、変化させたりおびやかしたり弱めたりするというより
は、むしろ主としてそれを拡張し維持するようにはたらく。その主要な文化的機能
とは、社会的パターンを拡張し安定化させ、変化ではなく、それへの抵抗を教化す
ることである。テレビは大部分の人々にとって、標準化された役割と行為への社会
化のためのメディアである。その機能とは、一言でいえば、文化同化を行なうこと
である。
テレビによって教化される意識の実質は、特殊化した態度や意見というよりは、
むしろ、それに基づいて結論が下されるような、人生の真実や判断基準に関する、
いっそう基本的な前提である。文化指標プロジェクトの目的は、このような前提
と、それらが公衆の多様性を越えて教化する結論とを、特定化することである。
テレビを、個別の「娯楽」や「告知」の機能を果たすメディアとして、選択的に
利用されるものとしてではなく、文化同化の力として研究することを弁護する。第
一に、テレビとその他のメディアの本質的な相違は、その類似性よりもいっそう重
大なものだということを示唆する。第二に、なぜ伝統的な調査設計がテレビ効果の
研究にとっては不適切なのかを示し、いっそう適切な手法を示唆する。第三に、テ
レビの世界に「生きる」ことが、制度化された「現実」の教化だということを示す
証拠を素描する。
テレビは国土のすべての家庭に浸透している。有機的に結びつけられた事実と虚
構からなる(その全てが、ひとつの娯楽へ構成され、広告業者に売られる消費者と
いう公衆を生み出している)定期的で周期的で継続的なパターンもやはり、芸術、
科学、技術、国策術そして公衆的な(またほとんどの家庭での)物語の、本質的な
要素を包括している。情報的な貧者(子供と低学歴の成人)は同時にまた、新しい
電子的な聖職者たちに囚われた、娯楽の富者でもある。
もしあなたが、例えば1950年以降に生まれたのであれば、テレビはあなたの生
活に、たんなるもうひとつのメディアとして、形成期以後に入ってくる。もし今あ
なたが「中毒患者」であっても、あなたにとって、それがもたらした変容を理解す
ることは困難だろう。あなたは12歳のときに、1日平均で6時間を映画館ですごす
ことを予期しただろうか? われわれの子供サンプルでは、12歳のほぼ半数が、
少なくとも毎日6時間テレビを見ていた。
印刷物と違って、テレビはリテラシーを要求しない。映画と違って、テレビは
「無料」である(すべての商品に個人的に課された税金によって運営されている)
し、いつでも放送されている。ラジオと違って、テレビは見せてくれる。芝居やコ
ンサートや映画や、教会とさえも違って、テレビは移動する必要がない。それは家
庭に流入してくるし、直接個人に到達する。テレビは、その、事実上無限のゆりか
ごから墓場までの接近可能性によって、読書を越えているし、次第にそれと入れ替
わってさえいる。テレビは、人生の最初と最後の日々に(その間の日々はもちろ
ん)浸透した、最初の集権化された文化的影響力である。大多数の子供たちは、読
むことのずっと前にテレビに晒される。子供が学校に上がる頃には、テレビは大学
の教室で費やされるより長い時間を占有していることになるだろう。人生の別の端
では、テレビは、他のすべてが脱落してしまったあと、老人とともにありつづけ
る。
あらゆる社会は、それみずからに対して、またその子供たちに対して、「世界を
説明する方法」を進化させてきた。「社会的に構成された現実」が、何が存在し、
何が重要であり、何が何と関連し、何が正しいのかに関する一貫した像を提供す
る。こうした「現実」のたえざる教化こそが、主流派の儀礼と神話の使命なのだ。
それらはひとびとの行為を、社会に対して機能的で、慣習的に受け入れられる方向
へ、正当化する。現代の産業社会の、社会的・政治的・経済的な統合により、その
内部で独立的を維持できる共同体がごくわずかしかないシステムが生み出された。
われわれは一頭の巨大な怪物の部分なのであり、その神経系が電気通信なのだ。
「広い世界」に関して公衆に共有された知識こそが、この神経系が、われわれに伝
達してくるものである。テレビとは、異なる集団の間に、巨大で均質的な国家的共
同体を形成するための、主要な共通基盤なのである。いかなる国家的な達成も、祝
祭も服喪も、それがテレビによって確証され共有されないかぎりは、現実のものと
はみえないのである。
正常な成人の視聴者なら、テレビドラマの虚構性に無自覚ではいられない。テレ
ビ番組の中のある登場人物が撃たれたからといって、警察や救急車を呼ぶ者は誰も
いない。「宇宙戦争」型の恐怖は、もし起こるとしても稀である。仮にこのような
基本的な自覚が視聴者の側にあるとしても、どれほどしばしば、またどの程度ま
で、全視聴者が、自分たちのシンボル的世界への不信感を一時停止するかを考えて
みることはできる。
たしかにわれわれはみな、ロバート・ヤングが医師ではなく、テレビドラマの
「ドクター・マークス・ウェルビー」が、詩的許容によってのみ医師なのだ、とい
うことを知っている。それでも、フィラデルフィア・ブレティン紙(1974年7
月10日付)によれば、この番組が始まってからの5年間に、「ウェルビー医師」は
視聴者から25万通以上の手紙を受け取った。その多くは、医学的な助言を求める
ものだった。
医者ドラマの他にも、ある元ニューヨーク市の警察官は、陪審員が、裁判の手続
きについてテレビからイメージと期待と形成しており、そのことによって、しばし
ば現実の裁判に偏見が持ち込まれるとこぼしていた。ある法律家が語った法廷事件
では、弁護側が飛び上がって、「裁判長殿、検察側は目撃者を苛んでおります!」
と異議をとなえた。判事は、自分も「弁護士ペリー・メイスン」物の小説の中で、
その異議が申し立てられるのを見たことがあるが、不幸にも、その異議申立ては、
カリフォルニアの法律には含まれていないのだ、と答えたという。*フィクション
世界が現実の知覚と行動に影響する実例。
われわれは、どれほどしばしば、自分が「現実」ではないと知っている行為と、
背景的なたくさんの知識(それは結局のところ「現実的」である)とを明確に区別
するのだろうか? われわれは、テレビ世界の全人口では、男性が女性を4:1で
上回っていることを自覚しているのだろうか? あるいは、すべての暴力の中で、
現実世界での死傷の主要原因、つまり工業事故と交通事故が、ほとんど描かれない
ことを自覚しているのだろうか?
われわれのうちどれだけの者が、手術室・刑事法廷・警察・監獄・企業の重役会
議室あるいは映画の撮影スタジオに、入ったことがあるのか? われわれの現実世
界のどれほどが、虚構の世界から学ばれたものなのだろうか? テレビの世界は、われわれをなるほどと思わせ、明確さと解決とを与える。人生
と異なり、テレビは開かれた書物である。問題は決して宙吊りのままにはならない
し、賞罰が提出され、また説明される。ゲームのルールは知られており、滅多に変
わらない。テレビはわれわれに、通常は隠されている多くの重要で魅力的な制度の
はたらき、医療、警察、裁判、大企業、芸能界の魅力的な世界などを「見せてくれ
る」だけではない。われわれは、重要で興奮させる役割についている人々をも「目
にする」のである。われわれは、かれらの性別や年齢や人種や階層を見るし、ま
た、彼らのパーソナリティをも見る。テレビは、ものごとがどうなっているかに関
してだけではなく、いかにそれがはたらき、あるいははたらくべきであり、そして
それはなぜなのかに関する仮定の、もっとも広範な共通の背景を提供するのであ
る。
テレビドラマの世界は、真実と嘘の、正確さと歪曲との混合物である。それは真
実の世界ではないが、われわれが子供の頃から教えてこられた標準化されたイメー
ジの拡張である。テレビのメッセージが主として向けられている受け手とは、大多
数の中流国民からなるものである(ある番組が生き残るためにはおよそ2千万の視
聴者からなる受け手が必要だということを想起してほしい:この程度の視聴率が必
要、ということ)。つまり、その人々にとってアメリカが民主国家であり、経済が
自由であり、神が白人男性として存在するような、中流階級である。*これら
WASP的な価値が「主流派の価値意識」だ、ということ。
それらが示唆するのは、意見や行動の狭い変化ではなく、広範な教化という認識
にもとづいたモデルである。どんなコミュニケーション「変数」がどんな個人行動
の変化を普及させるのかを問うかわりに、われわれは、メッセージ・テステムの全
体が、どんなタイプの共通意識を教化するのかを知りたいと思う。こうした問題に
答えるためには、われわれは、調査戦略に関する慣習的な信条を検討し、改定しな
ければならない。
研究の第一の方法は、共同体の全体が接触するメッセージのシステムとしてのテ
レビからの出力の大規模で代表的な集合を(個々の要素ではなく)定期的に分析す
ることである。メッセージ・システム分析の目的は、シンボル的世界の構成と構造
とを明かにすることである。
研究の第二のステップは、視聴者がテレビの世界に住むことから吸収するものが
あるとすれば、それは何かを決定することである。われわれはこれを教化分析(培
養分析)と呼んでいるが、それは、テレビが、事実や規範や社会価値を教化すると
いう仮説を検証しようとする。それぞれの問題に対して、「テレビ的な回答」があ
る。すべての回答が、テレビ接触、その他のメディア習慣、デモグラフィック属性
に関連づけら、性別、年齢、学歴その他の属性を統制して、「軽度視聴者の回答」
と「重度視聴者の回答」を比較した。
暴力プロファイルの主要な知見例:
・テレビ提示の最大の分け前を取るものは、社会秩序を支配する類型である。すべ
ての主人公のうち、およそ3/4までが男性であり、アメリカ人であり、中上流階
層であり、人生の盛りの時期にいる。より充分に提示されることが少ないのは、国
内的・国際的な権力階層の中で、より低位に属する者である。
・女性が典型的に代表するのは、ロマンティックな、または家族的な関心、密接な
人間的接触、愛である。
・男性はほとんどあらゆる役割を演じられるが、セックスの少なくとも示唆を含ま
ないような女性の役割は稀である。
・男性の主人公3人のうち、結婚しようとしている、またはかつて結婚していたと
して示されるのはわずかに1人だけであるが、女性3人のうち2人までは、結婚し
ているか、物語の中で結婚することが期待される。テレビの中の女性の割合は、全
人口のおよそ1/4に制限されている。
・全女性のほとんど半分が、もっとも性的に適格な、若い成人人口に集中してい
る。そこに割り当てられる男性はわずかに1/5でしかない。女性はまた、非常な
若年と老人とで歪んで代表されている。子供、若者そして老人は、全体のドラマの
人口の15パーセント以下である。
・活動のタイプ(雇用と非雇用)はまた、ドラマ的社会的な目的をも反映してい
る。10人の登場人物のうち6人までが、はっきり識別できる職業上の活動にかか
わっており、3つのグループに分けられる。第一のグループは、合法的な私企業、
工業、農業、ビジネスなどなどの世界を代表している。第二のグループは、専門家
やアマチュアや患者や学生や依頼人として、芸術、科学、宗教、健康、教育、福祉
に関す活動に関わっている。第三のグループは、公的半公的な権威と、それに対抗
する犯罪者、アウトロー、スパイその他の一団からなる。主役4人のうち1人が、
国内外におけるなんらかの法の侵犯とその抑止というドラマの中で活躍している。
・こうした世界の中では、暴力が重要な役割を演ずる。それは、権力ゲームのルー
ルを誇示するのに利用できるもっとも単純で安価なドラマ的手法である。現実生活
で物理的な暴力にでくわすことは稀である。だが、シンボル的な世界では、外面的
な物理的行動が、現実世界では通常隠されているものごとを、ドラマとして、目に
見えるものにしてくれる。
・全登場人物の半数は、思うままに暴力に関わることができる。1/5は、法律の
侵犯者またはその擁護者として、暴力に「特別の能力を持って」いる。テレビの暴
力は、現実生活と違って、密接な個人的な関係から生じることは滅多にない。その
大部分は見知らぬ者同士の間でのものであり、社会的な類型の教訓を納得させるよ
うに設定されている。
培養分析の主要な知見例:
軽度視聴者に比較して、重度視聴者に対して、テレビ視聴が教化する傾向にある
社会的現実の認識に関する相違。この考えは、「テレビが教化する認識は、その他
の情報源から来る認識からは、測定可能なほど逸脱している」という仮定があると
きもっとも適切なものである。
軽度視聴者と重度視聴者とは、テレビよりも前から、しかもそれを別にして、異
なっているのだという反論が生じるのは明らかである。しかしテレビ視聴は、その
効果に対してもっとも「免疫がある」人々を含む、大部分の年齢、性別、学歴、そ
の他の集団においても、社会的現実の認識を「歪曲化すること」について独自の貢
献を行なっている。*基本的属性は関係ない、という指摘をしている:重要な部
分。
社会的現実の認識に対するテレビの貢献に関するわれわれの研究は、その他の属
性をコンスタントに保った上で、重度視聴者と軽度視聴者の反応を比較している。
重度視聴者(一日平均4時間以上視聴している者)は、つねに軽度視聴者(一日
平均2時間以下視聴している者)よりも、テレビ的回答をする傾向があった。「大
多数の人々は信用できるか?」という質問、「ある特定の一週間に、なんらかの暴
力に巻き込まれる機会はどの程度あるか?」という質問への結果が示される(10
回に1回(これが「テレビ的回答」)なのか、100回に1回なのか?)。
別の情報的・文化的な機会を提供する社会状況のよい指標として、学歴を取り上
げよう。われわれの回答者のうち、なんらかの大学での教育を受けていた者は、受
けていなかった者に比較して、いっそう「テレビ的回答」をすることが少なかっ
た。しかし、各集団の内部では、テレビ視聴は、認識を、それが提示する「事実」
の方向に「歪曲」させている。新聞の定期購読もまた、同様の相違を与えた。大学
教育と新聞の定期購読とは、ともに、「テレビ的回答」のパーセンテージを低減さ
せているようにみえる。だが、重度の視聴は、それを、各集団内部で高めている。
これが、それみずからの「現実」を教化するテレビの能力の一般的なパターンであ
る。
警察で働く者の実数に関する誇張された印象は、テレビ視聴のひとつの結果と思
われる。けれども、いっそう興味深いのは、同様に誇張された、警察の発動への要
求が教化されていることだろう。テレビ・ドラマの世界は何にも増して暴力的なも
のであり、その内部では、全登場人物の半数以上がなんらかの暴力に巻き込まれ、
少なくとも1/10がなんらかの殺人に巻き込まれ、プライム・タイムの時間の3
/4以上が、なんらかの暴力をふくむというものなのである。
恐怖は普遍的な感情であり、利用しやすいものだ。シンボル的な暴力は、恐怖を
効果的に教化するもっとも安価な手段だろう。これに比べれば生の暴力は危険で高
くつくので、シンボル的な手段が失敗した時に訴えられるものだ。あらゆる暴力の
儀礼化された誇示(量産されるドラマと同様、犯罪や災害のニュースなども)は、
世界にある脅威と危険の程度について誇張された仮定を教化し、保護欲求を生み出
すのである。
その全体の結果として、危険と不安への高められた感覚が、既存の権威への服従
と依存を増大させるだろう。そして既存の権威による権力の行使を正当化するだろ
う。
暴力についてと同様、社会的現実のその他の側面に関してもわれわれは研究して
いるが、テレビは、社会的に有効な神話と一致する仮定を、教化しているようにみ
える。文化同化と社会統制のための主要な道具がテレビなのであり、それは、過去
において教会が国家に関して述べていたのと同じように、支配について述べること
で、産業秩序の確立された宗教として機能しているようにみえる。
以上から、ガーブナーの立場:
・テレビメディアが与えるのは、効果ではなく培養である。
・培養は、変化ではなく、既存の価値観を持続させる。
・培養は、長期の認知効果によって、大衆の世界観に影響する。
・主流派が望ましいと考える「世界を説明する世界観」が教化される。
・テレビの重度接触者は、軽度接触者よりも、テレビ的な世界観を教化されている
(よく培養cultivateされている)。
・重度接触であれば、その他の基本属性(デモグラ属性)と無関係に、テレビ的な
世界観に影響されている。
全体として、テレビが培養する大衆意識は、世界観を、一定の方向へ維持し続け
るという認知効果を持ち、「ミーンワールド症候群」などを生み出している。ここ
で「ミーンワールド症候群 mean world syndrome」とは、テレビ的世界で
の、暴力発生率、犯罪率、警察官の数、他人が信用できるか、などについての偏向
した描写に影響されて、現実の社会を、真実よりもいっそう、危険で、意地悪で、
下劣な場所だと認識するようになる、大衆とりわけテレビ重度接触者の意識傾向の
ことである。
*以上は、「長期間のマクロなテレビ内容分析と、同じく全米サンプルへの定期的
な意識調査を組み合わせることで、テレビ重度接触者において、一定の世界観のバ
イアスが生じていること」を明示した、大規模な調査結果として重要な意味をもつ
結論である。この結果に依拠して、テレビ制作への統制が行われている、その意味
で具体的な影響力をもつ結論である。ただし、彼らはそれを主張しつづけている
が、「本当に基本属性などでの相違はないのか」「単なる外面上の相関関係が指摘
されたにすぎないのではないか」などの反論は、現状でもあり続けている。とはい
え、これだけ大規模に、テレビの影響(効果ではない培養)を、長期間にわたって
意識調査と対照した研究は他にないので、しばしば依拠される重要な大規模調査と
なっている。
*従来の効果研究が、短期の、ミクロな、態度・意識・行動の変容に対するテレビ
以外のメディアの「効果」を測定しようとしていたのに対して、培養分析では、長
期の、マクロな、基本的な世界観に対する、テレビによる認知的な「培養」を測定
しようとしている。その意味で、基本的な問題構成が異なっている。アプローチが
異なるので単純な比較はできないが、直感的に納得しやすい結論(世界観への影
響)を提出している。
2)日本における「情報流通センサス」「同インデックス」
ガーブナーのグループ(アネンバーグ学派)による大規模なテレビの内容分析
は、各国で参考にされている。日本でも各種の類似研究があるが、もっとも大規模
なものは、「情報流通センサス」「情報流通インデックス」(郵政省→総務省が継
続中)と呼ばれるものである。この継続中の調査では、
・情報流通とは、「人間によって消費されることを目的として、メディアを用いて
行われる情報の伝送や情報を記録した媒体の輸送」と定義する。
・情報流通量の新指標として、「流通情報量」と「消費情報量」を計量する。
という定義のもと、日本全土で流通する情報の供給量/消費量を計測する、という
大規模な量的調査が行われている。ただし、ここで計測されているのは、もっぱら
量的な流通量のみであるため、「どんな内容の、どんな意味を持った情報が、どの
程度、流通しているのか?」までは測定されていない。とはいえ、各種のメディア
別に、毎年の情報流通量を定期的に測定している試みとしては興味深いものといえ
る。
3)アン・ベッカー Anne E. Becker によるフィジーにおける摂食障害の発生に
関するフィールド調査 Anne E. Becker, "Television, Disordered Eating
and Young Women in Fiji," Culture, Media and Psychiatry, 28, 2004.
ハーバード・メディカル・スクールの社会医療の教授、社会人類学者のアン・
ベッカーが、1990年代に、南太平洋フィジー諸島で実施したインタビュー調査
によって、1995年に初めてテレビが導入された同地におけるテレビ番組の摂食障
害への影響が、3年後の1998年に、明瞭な形で検証されている。この調査結果
は、1)フィジーのような伝統的な文化であってすら、アメリカのテレビ文化に簡
単に影響されること、2)テレビメディアが、思春期女子の自己身体イメージに対
して、大きな影響力を行使していること、などを明らかにした印象深いものとなっ
ている。テレビの認知効果について、はっきりした裏付けを与えたものとみなされ
ている。
実査は、1998年7∼8月に、フィジー諸島ナドロガ地方の、2つの中等学校
の5∼7学年(平均年齢16.9歳)の人種的フィジー人 ethnic Fijian の思春期の
女子65人(調査対象集団)から、最大限の多様性を得るように作為的に抽出され
た30人に対して、オープンエンドの半構造化されたインタビューによって、行わ
れている。(オープンエンド質問:自由回答に近い。半構造化された:およその質
問構成だけを決めて実施される面接)。彼らはアメリカから輸入されたテレビ番組
に、すでに3年間、接触していた。フィジーでは、伝統的に、がっしりした体型が
支持されていた。彼らの身体イメージの変化と摂食障害への刺激としてのテレビの
影響が質問された。インタビューは録音され、転記(トランスクリプト)が作ら
れ、テレビ視聴によってアイデンティティと身体イメージがどのように形成される
かの実例が抽出されるように分析された。
過去20年間にフィジーに訪れている多くの社会変動と共鳴するようにして、テ
レビのイメージは、フィジーの女子の想像力を、多くのレベルで魅了している。
もっとも表面的な具体的レベルでは、テレビは、地元での身体の外見と提示につい
て、美的基準を再定義している。テレビ脚本はまた、提示されたライフスタイル要
素、なかでも職を得るのに最適と知覚された体型を獲得したい、という欲望を刺激
している。テレビ登場人物のロールモデルは、道徳的な美点、職業機会での成功、
外見を、ひとつにまとめあげている。より微妙だがはっきり分かるレベルでは、対
象者は、テレビの登場人物、その外見、テレビで提示される価値が、アイデンティ
ティにとっての停泊点と、激変しつつある社会での競争的な社会的位置とを、与え
ていると感じている。(登場人物の外見と価値を持っていれば、アイデンティティ
も安定し、競争でも有利と感じている、ということ)。何人かにとっては、新たに
導入された体型変更への圧力と雇用競争への圧力が、摂食障害の原因となっている
ようだった。
・身体理想の再定義と身体を涵養するエトスの誕生
細い身体がよい身体だ、という理想が発生し、それまでフィジーにはみられな
かった、身体を整える、というエトスが発生した。
・アイデンティティとロードマップ:未知の領土を旅すること
「テレビの中の人が何をしているかを見て、そのうちの一人になれるように詰め込
まないといけない」
全般的に、彼らは、テレビの人物を尊敬したり真似たりすることを歓迎している。
変化しつつある地元の世界の中で、グローバルな価値をテレビ登場人物から得るこ
とには利点がある、と答えている。テレビを用いて、雇用への途を切り出そうとし
ている。
・競争的な社会的位置にいるために
「太っていて背の低い人たちは仕事がない、体重のせいで、たくさん食べるせい
で」といったインタビューが引用される。実利的に、職業を得られる競争的な位置
にいるためにダイエットが必要、という考えが生まれている。競争と達成とは、伝
統的なフィジー文化ではなかったが、それが生まれ始めている。
・体重とエネルギーと生産性
「ここの農園で働いているが、もっと働いて父母を助けたいけれど、太っているの
で、なまけてしまう。もっと働くために、体重を落としたい」
「あまり食べないと、自分にとってよいが、食べ過ぎると、仕事ができない」
など、体重と、エネルギー、生産性とを結びつける発言もみられた。
・摂食障害との関連
「テレビはよくない、なぜなら、多くの女子はダイエットをして、体調を悪くする
から」
「テレビのために、フィジーの人は、自分の身体を恥じるようになったと思います
か?」
「とっても。ほとんどの我々は、たくさん食べて成長していましたが、それで太り
ます。このような大きな身体をもっていることは悪いことだと感じています。細い
スリムな身体を持たないとなりません」
フィジー社会は過去20年間に大変動をしており、テレビだけがその原因ではな
いが、そうではあっても、上のような変化は、テレビのイメージからの影響だろ
う、と論じている。
*1995年にはまったく存在しなかった摂食障害が、テレビがその年に導入され
て、アメリカのドラマ、CMが流れるようになると、フィジーの女子の間で多発す
るようになった。この3年間に、新たに導入されたのはテレビだけだった。ただ
し、他にも多くの変動が発生している時代なので、これだけから結論は出せない
が、しかし、これはテレビの認知効果によるものとある程度まで推測される、と言
われている。もっともドラマチックな形で、「テレビによる世界観の教化」が実証
された実例だと言われている。(このために、ガーブナー派の文献の中では、しば
しば参照される実例となっている)。
*これら「世界観」派の研究は、ラザースフェルト的なミクロまたはミドル規模で
の社会調査では明らかにできなかった、マクロなメディアの影響を指摘している点
で重要ではあるが、その主張を実証しようとすると、しばしば、例外的な実例も多
く、必ずしも常に確定した結果にならない場合もみられている。その意味では、マ
クロ分析と、ミクロ/ミドル規模の分析とは、そもそも一致した知見に至らない場
合が多く、大量の論争が行われてきた。ただし、一般的には、テレビメディアのマ
クロな長期的影響として、基本的な世界観や人生の「所与の taken for granted 」
前提など、認知枠組みへの影響がありうることは合意されてきている。とはいえ、
個別の実例において、それが当てはまらない場合も、まま見られる。上のフィジー
の実例は、「その期間に、他に新規導入されたものがなかった」という事実を重視
すれば、テレビメディアの影響が思春期女子の身体イメージや美意識に対して、甚
大な変化を与えたことの珍しい例証となる(ただし、その他の社会変動も生じてい
るので、そこからの影響もあり得る、その可能性は否定できないともいえる)。
第8章 認知枠組みへの影響:議題設定効果の発見ーーマクームスとショウ「マス
メディアの議題設定効果」
態度、意見、行動への影響、その「改変」という方向でのマスコミの影響の実証研
究は、ラザースフェルトのパラダイムが崩しきれず、それを支持する多くの知見が
得られたこともあって、なかなか進展しなかった。上のガーブナーらのマクロ研究
にしても、ラザースフェルト的なミクロ/ミドル規模での再検証を行うと、多くの
反証が出てきてしまう。
このような事態の中で、マクームスとショウが提起した「議題設定」機能につい
ての以下の論文は、ミクロ/ミドル規模での効果の「方向性」「性質」を、態度、
意見、行動に対するものではなく、「何が重要な話題か」についての認知枠組みへ
の影響とした点で、新たな活路を求めるものだった。80年代以後、この方向のア
プローチが盛んに検証された。
1)マス・メディアの議題設定機能 マックスウェル・E・マクームス&ドナル
ド・L・ショウ Maxwell E. McCombs and Donald Shaw, "The AgendaSetting Fuction of Mass Media," Public Opinion Quarterly,
36:176-187, 1972.
現代は、かつてのどの時代よりも、候補者が、マス・メディアを通して、人々の
前に現われる時代である。人々が知ることの大部分は、マス・メディアや他者から
の、「二次的」または「三次的」なものだ。人々は、マス・メディアへの注目度に
おいてはさまざまだが、大多数の人々はさしたる努力もせずに情報を獲得してい
る。
ベレルソンが述べたように、「どんな主題でも、多くの者は 漫然と聞いてい
る のであり、 意識的に聞いている 者はほとんどいない」。さらに、人々は、マ
ス・メディアが、争点に対して与えた強調の順番に、直接に従っているようにみえ
る。
メディアの議題設定機能について、ラングとラングは「マス・メディアは一定の
争点への注目を強いる」と指摘した。この仮定された「議題設定機能」は、コーエ
ンがもっとも簡潔に述べたものだ。つまり、新聞は「多くの場合、読者にどう考え
るべきかを教えるのには失敗しているが、何について考えるべきかを教えるのには
驚くほど成功している」。
マス・メディアは態度の方向や強度にはほとんど影響しないかもしれないが、次
のように仮定することはできる。すなわち、マス・メディアは、各政治キャンペー
ンの議題を設定し、それによって政治的な争点への態度の顕出性salience に影響
するのである。
*コロンビア調査の基本的な結論(=改変効果は少ない)は尊重しつつ、争点顕出
性の認知については影響している、という方向で議論を展開する。
[方法]
1968年の大統領選挙におけるマス・メディアの議題設定能力を検討する。ノー
スキャロライナ州チャペル・ヒルの投票者が、「選挙キャンペーンの主要な争点
だ」と言ったものと、キャンペーン期間中に彼らによって利用された「マス・メ
ディアの実際の内容」とを比較した。
1)回答者は、五つのチャペル・ヒルの行政区に登録した投票者リストから無作為
に抽出、この地域を経済的・社会的・人種的に代表していた。68年9月18日と
10月6日の間に、100回の面接を実施。サンプル選択には、フィルター質問が
用いられ、誰に投票するか未決定の(=キャンペーン情報に影響されやすい)人々
を選択。この、特定の候補者に投票を決めていない人々だけに、「自分が主要な争
点と思うもの」を、「その時点で候補者が何を言っているか」とは無関係に、質問
した。
2)投票者が利用するマス・メディアが集められ、内容分析が行なわれた。対象は
『ダラム・モーニング・ヘラルド』『ダラム・サン』『ラーレイ・ニューズ・アン
ド・オブザーバー』『ラーレイ・タイムス』(地元紙)、『ニューヨーク・タイム
ス』(全国的新聞)、『タイム』『ニューズウイーク』(全国的ニュース雑誌)、
そしてNBCとCBSのニュース(全国カバレッジ)である。*ローカルプレスと
全国プレスの内容分析を行っている。
3)「回答者がどれを重要な問題と考えるか」の回答と、サンプルになった「新
聞・雑誌・テレビニュースの、9月12日から10月6日までのニュースと論評」
は15カテゴリー(「主要な争点」と「その他の選挙キャンペーン関連のニュー
ス」を含む)に分類された。さらに、ニュースの内容は、各トピックの間で、マ
ス・メディアが与えた強調に違いがあるかどうかをみるため、「メジャーニュー
ス」と「マイナーニュース」に分類された。印刷メディアでは、メジャー/マイ
ナーの区別は、「占有スペース」と「位置」によって決められた。テレビでは、
「時間的な位置」と「割り当てられた時間」によって決められた。
[知見]
キャンペーン期間中の話題や候補者に対する、マス・メディアでの、メジャーな項
目への強調を、表1に示す。キャンペーン・ニュースの相当量は、「メジャーな政
治的争点」の検討ではなく、キャンペーンそのものの分析に充当されている。キャ
ンペーン・ニュースを「主として争点に関わるもの」と考えるのは問題がある。
ウォーレスについてのメジャーニュースの35%は、このような分析(「彼には当
選するチャンスがあるか?」など)。ハンフリーとニクソンについては、それぞれ
の数値は、30%と25%だった。同時に、この表は、お互いについて論じると
き、候補者が相対的に強調されることを示す。例:アグニューは明らかに、ニクソ
ンよりも、ハンフリーを攻撃するのに、多くの時間を使っている(アグニューにつ
いてのメジャーなニュースの22%、ニクソンについてのメジャーなニュース項目
の11%)。なお、マス・メディアのマイナーな項目での強調の全体像は、こうし
たメジャーな項目での政治的争点やトピックについての強調の全体像とよく似てい
た。
表1は、キャンペーン中のニュースが、争点よりもむしろ、キャンペーンそのもの
や対立候補についてであることが多いことを示している。
表2は、マス・メディアに反映された、各政党の争点への相対的な強調度を示し
たものである。この表からわかるように、ハンフリー/マスキーは、ニクソン/ア
グニューやウォーレス/リーメイよりもはるかに、「外交政策」を強調している。
とはいえ「法と秩序」の争点については、ウォーレス/リーメイのニュースの1/
2以上がこれに関するものであり、他方でハンフリー/マスキーのニュースではこ
の争点に関するものは1/4以下となっている。ニクソン/アグニューではほぼ1
/3であり、これは共和党の外交政策への強調よりもわずかに少ない。ハンフリー
は当然ながら、ヴェトナム戦争を正当化するために(あるいはそれについて論評す
るために)相当の時間を使い、ニクソンはこのことを選ばなかった(あるいはその
必要がなかった)。
表2は、メディア報道に現れた、各候補の各争点関連の報道量。共和、民主、アメ
リカンで、報道された争点への強調に違いがある。
メディアは、何をそのキャンペーンのメジャーな争点と考えるかについての投票
者の判断に対して、相当なインパクトを行使しているようにみえる。「メディアが
キャンペーンの主要な争点に対して与えたメジャー項目への強調」と、「何が重要
な争点であるかに関する投票者の独立した判断」との相関係数は、+0.967だっ
た。「キャンペーンの主要な争点へのマイナー項目での強調」と「投票者の判断」
との間では、相関係数は、+0.979だった。高い一致度が示されている。
要約すれば、データが示唆しているのは、さまざまなキャンペーンの争点に対し
てメディアが置いた強調(それは、ある程度まで、候補者による強調を反映してい
る)と、さまざまなキャンペーンの話題の顕出性と重要度に関する投票者の判断と
の、きわめて強い関連である。
*上のような高い一致度(相関係数)が、本研究を印象深いものとした。メディア
が与えた重要な議題(アジェンダ、政治日程、課題)は、投票者における「何が重
要な議題か」の意見ときわめて高く相関していたので、このことから、メディアの
強調→有権者の認知上の議題の重要度の設定、という因果関係が仮定された(のち
の時系列的な調査の結果、部分的に裏付けられた)。このようにして、「メディア
は受け手に対して、何を考えるべきかの議題を設定する」機能=agenda-setting
function を持っていることが発見された。個別の意思決定ではなく、むしろ受け手
の認知枠組みを設定していることが判明してきたことになる。How to think では
なく What to think about だ、ということ。
しかし、三人の大統領候補は異なった争点に対してきわめて異なった強調を置い
ているので、投票者の判断は、マス・メディアがカバーする範囲の合成図を反映し
ているだろう。われわれが見た表はすべての候補者の合成図なので、個人的な違い
が、すべての投票者を一緒にして分析することで失われていることがありうる。し
たがって、研究された九月から十月の期間中に、候補者のうちの一人に対して一定
の選好を(しかもコミットメントではなく)示した回答者(回答者の四五パーセン
ト。他は投票意図未決定)の回答を、それだけ別個に分析してみた。選択された四
つのメディアに関してこの分析を行なった結果を表3が示している。
この表が示しているのは、ハンフリーかニクソンかウォーレスを好む回答者が論
及した重要な争点の頻度と、(a)メディアが伝えるすべてのメジャーおよびマイ
ナーな争点との頻度との相関、および(b)四つのメディアの各々によって伝えら
れた各政党に関するメジャーおよびマイナーな争点(つまり、主たる言及対象とし
て特定の政党または候補者を持つニュース)の頻度との相関である。たとえば、民
主党支持者が重要だと考える争点と、『ニューヨーク・タイムズ』がそのメジャー
なニュース項目すべての中で争点に与えた強調との相関は、0.89である。民主
党支持者がその争点に対して置いた強調と、『ニューヨーク・タイムス』での民主
党候補に関する項目の強調との相関は、0.79だった。
*個別メディア、個別政党支持者に分割しても、メディアの強調が有権者の意識内
での議題優先順位と強く相関する傾向は不変だった、ということ。
もし投票者が、自分自身の支持政党に向けられたメジャーまたはマイナーな争点
に対していっそうの注目を払うものと期待されるのであれば−−つまり、選択的に
読んだり見たりすると期待されるのであれば−−投票者と、かれら自身の支持政党
に関するニュースや意見との間の相関はもっとも強くなるはずである。これは選択
的知覚の証拠となるだろう。もし反対に、どの候補者や政党が強調されているかと
無関係に、投票者があるていどよく、すべてのニュースに注目しているのであれ
ば、投票者と全体のメディア内容との間の相関がもっとも強くなるだろう。これは
議題設定機能の証拠であろう。
全体として、表3は、キャンペーンの初期にコミットしていなかった投票者が、
すべてのニュースによく注目していることを示している。メジャーなニュース項目
に関しては、相関は、何が重要な争点であるかの投票者の判断と、すべてのニュー
スにあらわれた(当然彼らの好みの候補者と政党に関するものをも含む)争点との
間でいっそう高くなっており、これは、彼らの候補者/政党にのみ関するニュース
にあらわれた争点についての投票者の判断よりも、高くなっている。マイナーな
ニュース項目に関しては、やはり投票者は、好まれた候補者に関するニュースに置
かれた強調よりも、すべてのニュースに置かれた強調とより高く相関していた。メ
ジャーなニュースとマイナーなニュースの双方を考えると、24の可能な比較のう
ち18までで、投票者は、自分自身の政党/候補者への選好にのみ関するニュース
よりも、すべてのニュースといっそう一致していることが示された。この知見は、
選択的知覚によってよりも、議題設定機能によってよりよく説明されるものであ
る。
[議論]
もちろん、マス・メディアの議題設定機能の存在が、ここに報告した相関によっ
て証明されたわけではないが、その証拠は、もしマス・メディアによる議題設定が
実際に起きているのであれば存在するべき条件と、一致するものである。この研究
では、集団としての単位を比較してきた。集団としてのチャペル・ヒルの投票者
が、いくつかのマス・メディアの全体としての報道結果と比較された。これは議題
設定仮説の最初の検証としては満足のいくものだが、後続する調査では、個人の態
度を、マス・メディアの個人的な利用と組み合わせる、社会心理的なレベルに移行
しなくてはならない。
この研究の知見をマス・メディアの影響を示すものと解釈することは、それ以外
の説明よりももっともらしいものにみえる。メディアの強調と投票者の強調の間の
相関はみせかけだという議論(つまり、それらは単に同じ事象に対応しているので
あって、なんらかの方法で相互に影響しているのではないという議論)は、投票者
が、政治的アリーナの日々の変動を観察する「別の手段」を持っているものと仮定
している。この仮定はもっともらしさに欠ける。選挙キャンペーンに直接に参加す
る者はほとんどいないし、大統領候補を直接目にする者はさらにいっそう少ない。
対人コミュニケーションの経路に流入してくる情報は、主としてマス・メディアの
ニュース・カバレージから伝達されるのであり、それに基づいたものなのだ。メ
ディアは国家的な政治的情報の、第一の主要な源泉なのである。大部分の人々に
とって、マス・メディアは、絶えず変動していく政治的な現実に関する最高の、そ
して唯一の、たやすく利用可能な近似を与えるのだ。
高い相関は、単にメディアがそのメッセージを、受け手の利害関心に合せるのに
成功したということを示しているだけだと議論することもできるだろう。だが、無
数の研究によって、職業的ジャーナリストの持つニュース価値とその受け手との間
にはっきりした亀裂が存在していることが示されているからには、この事例におけ
るようなほとんど完全な一致が見出されるのは驚くべきことであろう。メディアが
この主要なカバレージの領域で蔓延したのだと考えることの方がありそうなことで
ある。