9J 〈公募論文〉 l || 、 、 自 われわれは現に責任を負 同時に主張しなくてよいと答えるだろう。両立論者は 、自由 意 の幻想主義とその補完 自由意志の 非認知 主義 的解釈の可能性 ーーースミランスキ 、 この世山介に自由意志は存在せ 、 、 われわれは われわれは実際に立任概念から AP を完全に排除している 行為を選択し、自分のものにできると両立論者は論じる。しか 端的に τ うな のだろうか。たとえば「仕方がなかった」という古い釈はしば 、 トに必(一=的 己Ed 】担ヨ)だと終える。幻恕主義とは しば立任を減免する。しかし、この事態はな.せ生じるのだろう。 、 えるかもしれない。しかし 用を減じるからと穴い な.せそのよう なことは効川を減じるのか。その両立論者には「実際にそうだ 、 そのような状況で行為者を非難することは効 らば 小作花しない郁物を存花するかのように灯じることで 、白 白 山意志問問叫に凶する現代の削立論阜市は V顕の 三つの事柄を ある。 山意志間.地にまつわる史践ト一の訪問題を解消するという試みあ でる両立論者は 、 卜いよの ニ・ つの市制を同時に主抜することは可能であろうか。ス 条件としてもはや見なしていない。それでもなお ) し くは兵に行為を選択し、それに対して責任を負うとじじている l [ ミフンスキーは可能であると考え 、それを可能にするのが幻恕 、 付随する別行為可能性(以下 AP )を行為の責任に対する必要 それには自由意志は必要ないと答える。両立論者は うが 志が幻想であることを受け入れつつ スミランスキーによれば ・ 拓 由意志論者が伝統的に論じてきた自由意士山概念および、それに 、 木 もまた彼は抱いている。しかしながら 現実にはわれわれの多 、 一方で、その’U山意志がなければ、われわれは行為を真に「選 ず ゆえにわれわれが日山・意志をもつことは幻想である。その s 々 択」したり、それに対して責任を負ったりできないという信念 。 佐 、 スミランスキーも l 用 語法を共有している に Zoと答えるのがハ 穴 き巾 l ド ・デ CQ に Zoと答えるがゆえに ミニズム( ωop 己mFRE Z5 5)と呼ばれ 、 、 - (MgN )に従ってこの分類を行う。ケインによれば、自由意士山 ハ2) から」という以外に答えがない。しかし、われわれはもっと皐 本稿では (DQ ) 一「普遍的決定 論( CZ S 「帥白一円 g一 q は両立するか」 、 にペ冊目と答え かつ ハヱ回丘骨丹市コ=Eg G である。 DQ に J Rgと終え デタ ・ か つ CQ にも J pmと答える立御が両立論 R05EZMEm v、 gも タ l ミニズム CQ ω 両立論 削題 (CQ ) 一「普遍的決定論と自由および賀任 HHか」 ヨ 52 ヨ〉 は+ 川決定論問題 直に、道徳 的 に非難に値する行為には A Pが必要だからとわれ A Pがない行為に立任を約すのは不当だという信念を十分 こ 一OEF3 ) であ P DQ をめぐる裂論は次の 二 つの問いによって適切に分類される。 、 われがれじているからだ、と考えるのではなかろうか。両立論 者は コ号ヨ 2g スミランスキーはこの点に両立論者の難点を見いだす。そ に説明できない。 で彼が提案するのが原理二元論 (2 、 A り、それを可能にする幻想主義である 。彼 はこの こつの考えを m いて、 AP を排除する衿遍 的 決定論を受け入れつつも に根ざした「究極的責任概念」を保持しようと試みる。しかし に基づいて立任観念を椛築するのは しくはソフト P 自らが存在を否定する る立場である。これらに対して 、 まず、 DQ ・デタ l デタ ・ l への回答は自由続念 C Q に否定的に答える自由意志論 ミニストは、 AP を条件としてもつ自由概 、 するのが主流となっている。次いで、 者とハiド CQ 意志論は何らかの形で拙u泌的決定を免れるような因果性を想定 、ニズムは将遍的 決定論を交け入れる点で共通している。自由 すなわち、この間いに行定的に答える両立論とハ l ド への回答は普遍的決定論へのコミットメントを示す。 。 に Zoと答える立場が自 由 ・芯士山p 論gm「g ュggg ) と呼 DQ 、 凶擁護 ばれる。 の滋論を解明し はらむように見えがちなスミランスキ の立場を正慨に理解するためには、現在行わ 二つの川いへの回答は各 立場の 災同を知るのに有謎である することにある。また、矛盾の源泉と考えられる幻想主義につ る。 いて、メタ倫理学からの説明を与えることで彼の議論を補完す ! 現代自由立志論争における立場の分類 スミランスキ 自 由意志論争に れている自由 芯 ・ 志論争の中に彼の議論を位置づける必要がある。 の異同を示す。したがって 、 おける誕本的な立場の名称を確定しておくのが好ましいだろう。 念を共有している。本稿では、AP を条件として合む白山およ また以下の議論での混乱を少なくするために 4 V < l ある種の矛盾ではないだろうか。本筋の目的は 矛盾や混乱を A 3 V < 9 4 公募総文 ,.,, , ,窓芯の手|認知主義的解釈の可能性 95 、こ の意味での自由 びその関連概念を「究極的」と修飾するが を備えた意志行為によって実現されると L FW へのコミッ ト ミニス メソ ト は瞥遍 的 ト から DQ に W は普遍的 決定論が支配す る世 界には 他の二者に比して 、 、 、 両立論者は自由と責任との関連を霊視しな い った、 A 両立論者の言 う しな 事実を い)責任のみ う Pを含 悲 ・ しない能力の観 (AP を合意 AP が現実には存在 し ない と い と い。両立論者が重視するのは適切な迎由に基づいて行為できる しかし 認識しながら わ れ われは 能力としての理由反応 性 AP LF 、 される。そのような意志行為を本論では自由意志論 的自由意志 な行為は しばしば を備えた 念 だ と言える。 、 AP l ・ デタ ー ド 由意 た究極 的 な責任観念を共有してい と 自 、 後者 と、ニストは考えるが、前者がLFW の 、 W 、 そ し てそれらに基づ とする点である。 ミ ラ ー ンス キ ! の幻想主義 と 原 理 二元論 の前提||核心的 精 想と自由意志論否定 、 の。コ円同三一 。己と呼ぶ道徳的直観である。それは、 ト 一 ξ ヨ一 雪 印 、 ロ ー oo us。われ わ れは -- ・N 由意志論者であれば 、 、 こ AP AP 抽出を見いだ よ って適切な制 て行為すると いう理由反応性に代表される 反省に ルを条件とした究極 的立任を考え 対応した責任を受 け 入れている。自 の核心的構想を基 に、様々な種類のコントロール概念とそれに あるという考えであるお われわれ の責任板念の根底には「コント ロー ル」という婆紫が 構想」 (の05 スミランスキーの山発点は二点ある。 一つは 彼が「核心的 スミランスキ ス ミランス キ ーの議論を確認する。 、 理論の mm 結に従うことを問題祝する。次設ではこのス 、 彼はわれわれの基本 的な道徳的直観を然て を受 け 入れることができるのだろうか。スミランスキーは否、 ! LF 、 、 そのような自 由 や責任が道 てまで と答える。むしろ Pを基礎 とし デタ ・ ミニストと異なるのは ( 由 との関係にも及んで 対して石定的に答える。逆にハ l > いる。両者は A l ド る。行為に究極 的 な責 任 を生み 出すのはLFW である 志論者とハ し ないと考えるため 究極的責任 〈およびそこ 存在に基づいて究極的責任の存在を主張するのに対して はLFW が存花 、 究極 的 自由や から生じる全ての以なる賀任) の存在を否定する。 両立論者もまた デタ ・ く究極的責任が存在 しないと考える。 し か し、 両立論者がハー ド 、 A P を含めな い形で自巾を 徳 的 に重要な自由や責任のすべてではない そこで現代の両立論者が採るのは 由 の条件として A P を認め た上で自由と立任と を実現する究極的コン 自 しそれに従っ 定義し直す 、 7 るのである。この両者の態度は責任と自 決定論へのコミットメントから、究極的な自由 の存在を否定す 存従しえないがゆえに 者は 〈LFWと時)、もしくは伝統的 な自由意志と 呼 ぶ。自由意志論 、 るであろう し、 両立論者は > は買任の条件からA P と いう要素を消去することになる。結果 を切り燥すといっ た手法である。いずれの手法であれ両立論者 5 ( 6 V ( 、 ン トロー 。 いず ル Ro ヨ ℃白 ZE-- 以下 2 の 02F 「O一- した両立論的立任を締恕するだろう われわれは歓心的構恕に基づいて様々な穴任概念を と時〉 を条件と を含まな い両立論 的コ CC れにせよ は 、 ー それに恭づいて史践している。これが第 一の前徒である。 第 二 の 出 発点は 白山 意志論の谷定である。スミランスキ ト もち ス と し てG ・ 、 しな い と それは 道徳 的立 任 に必援 。 上に述べた LFW の存在を京判定する その恐 山 、 W はそもそも観念 的 に矛盾をはらんでおり存夜 道徳 的 な行為 ル下 に さ ないが 、 、 、 LF えに 、 、 二 デタ ・ l CQ に また 二 つ 、 ミニズムと 両 立論というこつの越礎 理 つの原理のうち一方だけが正し いとする考え 〈以 理 一元論〉を 有定 し、 ハード り、 論(以型)の両方が在しいとする忠則切である。れ こは 、 の理論が支持する立任続念は共に重要であるという考えでも 関 する 回答は貨任概念によって変化するべきであ Egg - %刻一一元論はどちらの立場 品 8UN以 一MOO 3 ・2 -N 「其の立任」を自らの理論の徒一示するものに限定する 、 原理一元論の問題点を 見 て いく。まずは両立論で 日常的 に人々に抱かれている責任観念をとら え狽なって 、 ある白豆 、 にせよ 点で 、 ヨ ニき 妥明 、 A P を条件 とし を条 件 たもの と し た立任 続念 的 にそのような立任をイメ AP MOO )、こ の道 徳 的直観を 両 立論は 3 ・8 ’N叶 -D われの多くが考える道徳的立任は一般に だがお 、 そうでなくとも 無視している。われわれの多くは突際に 概念をもち 、 ー ル不能な 、 われわれの直観と十分に合致 、 、 われわれの行為は 、 い。第二の欠 究極 的 にはコン り、 環境と 性約から雌・に流れ 山 るだけの前動 とし て捉え 正義を容認しなければならな い お EZ 、 。 この不 OON Z ご一M -℃・色ω) ような性 絡 や行為に対して責任を認めることになるが 迎の産物である。両立論は究極的 にはわれわれが変史できない られる。われわれの性絡は 「与えられた」ものであ トロ しな は淡海に見え ジできる以上 それと対比された両立論的責任 る で あろうし ー W による 点と し て両立論は究極的な不正義を合意する。附立論は普遍 的 白 山立志 的なコントロールが不可能な以上 責任ある 自 己 犯は倒 、 、 C Q に関して は以恕 二元論 を展開 ー 本稿の一で提示した スミランスキ 存夜し仰ない 〈ωコtES E -一MOO-N 由円一 決定論を受け入れる以上 ? 』 自 己形成には無限背進がともなう。ゆ の形成は無限背進に陥ってしまう。このように 究極 的 な 論は γ 才師を抱えており NC印 C噌 。。 匂-N印) 原理 二元 輸 、 以上の 前 提に法づいて 一二元論とは する。ぽ mH 両立論の第 一の欠点は責任概念の渋滞さである。われ いる。以下 。 ロ ー 成 われわれの性絡は事前の性絡と環境から形 、 いうものである。この議論は以下の通りである 、 ト い。自らの性絡を自 由 意志論的に責任あ る仕 自らの性絡形成を究極 的 に自らのコン こ とはできな り し あるが LF ( は行為者の現にある性絡から生じなければ道徳 的 とみなされ な ロ|ソソの議論が示されているが s v 方で形成するには、事前に責任ある自己が存在しなければなら おく れてお ない。し か 9 V { 96 公 fj a 文 n111Xtr.t.;のill'必知I主筏的解釈の uf 能性. 97 これら 二つの難点には、両立論の中にある 二つの視点が関係 いうよりは 適切な状況で適切な行為を実行できる CC がある 、 両立論もハ 1 ド・ デタ 1 ミニズムもそれだけでは不十 かが問題となる。これらの文脈では、われわれは普遍的決定論を 、 受け入れた後でも、両立論的な責任の中で生 きることができる。 結局 している。 一つは、浅務ではあれ、 CC に基づいた両立論的な ルが及ばず、ゆえに誰もそれ ー 立任に満足する「両立論的視点」と、もう一つは、われわれの 行為や性格に究極的なコントロ 分であり 責任に関する実践を十分に説明していない。われわ に究極的な責任を負わないという「究極的視点」である れは阪迎 二元論をとることで、 二つの税点だけでなく、ニ つの 、 S EE -百ご- NOO S3 。両 立論者の難点は、 両立論的視点か -N ℃- 立任概念をも手にすることができる 以理 一元論に固執してこ デタ|ミニズムへと転化して 。 、 し ま ミニズムが妥当かと いうとそうでは 為できるが 、 のみ 究極的視点に立つことで正 、 その迎由は生い立ちによって邪悪なものに盗めら 当化できる。不幸な環境で育った少年は自らの理由に従って行 し い少年犯罪に関する筒状酌祉を では説明できないような道徳的突践、たとえば環境的影棚引けが彩 CC 一方を放楽するのは賢明ではない 。 一方で、 AP を含む究極 らさ しあたって自他の行為を評価する 的資任概念を消去しきれない点にある。われわれに根付いてい れらの重要な直観の l 。 る究極的責任慨念は、門前に両立論的視点を脅かし、究極的視点お 三一きmz…NOO-N刀-怠3 さらに、原型二元論では、 ・デタ ・ へと向かわせる。そしてひとたび究極 的 視点に立つなら、決定 論を認める 両立論はハード l ド C・ N2) う〈 ωヨニ白コ回 …NC印 ζ一 3・ ならば、ハ CC が存在する場合でさえ 行為に 、 E Sご一NOO -N ℃ これは究経的観点に立ってこそ 可能で あり 、両 立論には S3 対する責任は滅じられることが 可能である GE 幻想主 義 説明不可能な突践なのである。 。 A によらずとも、飲まない 適 ル中毒者と健常者のア に基づいて行為を静側できる多くの日常的場簡をわれ 、 の不在を認識することで れているかもしれない。性絡形成に関する究極的コントロール CC AP ー に基づいた究筏的な立任が成立しないところでさ ない。というのも、われわれは責任観念を捨て去り われわれ 、 P が全般的に無責任であることを受け入れる訳にはいかないから え である。 ルコール摂取に対する責任は、 われは知っている。たとえば、アルコ 切な理由があるときにその理由によってアルコールを控えるこ しての両立論は両立論的観点に引きこもって悶立論 的責任に責任概念を限定するか 、究極的視点にとらわれて立任 一元論と スポーツ選手の年俸など、パフオ |マ ティブな能力を評価する の一切を否定するかのいずれかの立場しかとれない。しか し、 とが可能だという CC の観点からでも区別が可能である。また 場合にはある状況で能力を発銀するのに AP が必要かを問うと 98 公 募 自白 文 、 二元論を採用しても同様のこ 両立論を部分的に 肯 定する以上 白 山・意志が存在する」という偽なる日念を日だとみなしつつ、 830 したがって、幻想主滋に従えば、われわれは「伝統的 ℃・ そして決裁の深 個別の事例における貨 、 われわれはただ理由もなく自らを欺いているのではない。 A P に基づく究極的な立任および LF 、 Wが存在すると いう幻想 そ し て悔恨や良心の阿 の不在を言い訳にした責任逃れのも 無事の人間 一人を大勢の人のために犠牲にする灼結主義 、 AP 、 によって 十全に説明される GEEE ご-NOO SV 犯排 3 ・S ∞’ -N 武に対してもつ重要性の認織は つ不当感、努力や献身に見いだす価値 的発想への鉱抗感や、 えば それに関連する正義の概念等を直接支持することにある。たと 幻想のもつ直接的な役割は、 以理二元論を維持することは幻恕のもつ 間接的な役別である。 のような直観を維持することの重要な部分なのである。 、 維持することにある。そして 以理 二元論を維持することはそ 幻却を仰く迎山と動後はわれわれのもつ般本的な道徳 的 砲飢を し かっそれが偽であることに気付かないでいることになる。しか とが生じるのではなかろうか。このことはスミラソスキーも自 、 - 党しており「これら 二つの観点の衝突は、われわれの悩人の生 活および十分に尊重された側値、続念、反応 刻な崩岐に 間違いなく加給する」と述べているお豆一回Sε L FWは存在しない。ここでス Lは NOD FWが実在するならば阻止される -D℃5 ・ 50 この山川剛棋 、 原型 二 W の実在に代わって「幻想」がその役削を る。「 L LF はずのものであるが、実際には じ ミランスキーは 来たすと論 F Wが実在する」という幻想は 、 ミニズムへの転化を妨げることで、両立論的な賀任 l 元論において二つの視点の行き来を可能にする。幻想は、ハー ・デタ AP 両立論的視点からの責任突践をも ド を普遍 的 無責任から保護し 、 確保する。また 基本的には 、 が存在するとわれわれに信じ させることで、普遍的無能力ではなく ミニズムに陥るのに対して、原理 二元論 任の減免が来たされることになる。両立論が究極的視点を自覚 l 、 と感じ を犯した人は自らの究極的な賀任でそれを行ったのであるから デタ ・ 、 すればハード A Pがないのだから究任がない」という 古楽は不当だ 例せられるのは正当だ 強制なく行為した人が 哲 う「災際には て 、 幻想は 、 AP を級拠とする多くの道徳 的 直観を妥当だとわ られるのは「幻想」から生まれる直制縦である。幻想主磁におい れわれに信じさせることを通じて、究極的観点において、われ 、 この・芯味で「自 由意志問題においては幻想がしばしば、多大 は究極的視点の下でさえ幻想主義のために 二一 元論に憎まる。 なかっ都極的な役割を来たす」という立場が幻想主磁である われが自分を究極的に責任ある存在だと信じるようにしむける。 830幻想は 「 偽なる信念でありながら 白豆一白日ごN いOO-Nu・ 其と主加減されること」を主要な要紫としながら、それに加えて zmーミ一 MOO G三 一 言問ご一NCO -O 同省- -N この幻想による究極的視点での武任の確保が、普遍的無立任を 、 幻想をむじる動機づけ、永続性、必然性 自覚の欠如などが袈 裟としてあげられている flrli 意志のJI'認匁l主炎的解釈の”I能性 99 CC のである。 退け、 、 幻 に基づく両立論的立任を機能させる余地を作り出す 本節の故後に注記しておくべきことが一点ある。それは 、 ハ l ド デタ ・ l ミニズムの見 地からの貨任の し に成立させるというのがスミランス 減免 、これ ら三つの基本 的直観のいずれをも何らかの到 -論の 紛 づいた能力武任 結として排除することな これらの直観がわれわれの道徳実 である 、 、 、 、 二 自己欺陥に陥る、 三、真理に対して不滋 突 NOg Mg181 幻想主義に基づくなら -毛・ 、 われわれは L FWが 問、われわれは究極的に不正滋を免れない G2zz ご一 生きていない は少なくとも以下の問つの 川紹が ある。 一 われわれは現実を しかし、幻想主畿に問題があるのも事実である。幻想主義に 、 キーの目的である。そして 、 践において滋能していることから 説明原理としての幻想を紛 、 ーは注意深く 幻想主畿は幻想を無理に作り出したり、偽だと 想主義は規範的理論ではないということである。スミランスキ 。 るには幻想主義と以政 二元論が必一決となる 結する。放に、われわれが現在行っている突践を十分に説明す L FWが存 わかっている信念をもって ( 錯誤的に)生きることを薦めたり われわれの多くは A P を条件とした道徳的直観を抱い ろ幻恕主義とは説明理 論 である 、 出 され ている。この矛盾を説明するのが幻想主義であり、幻想主義を 在しないにもかかわらず 。 。むし するものではないと断っている 35E コ与可N -OO -N℃・3 さ 、 のであり、真実を軽視している。また 、究極的視点から見れば 存在しないという現尖から目を背け、自分を欺いて生きている る。「人間性は幸運にも自由意志についてはあざむかれており とるべき動機付けはむしろ道徳的取似の盛要性から引き る」と言われるように 3 3EE ご-NOO-N℃g -s、幻想とは原理 両立論的なコソトロールに法 。こ れらの問題に対して、スミランスキーは凶つの問題が の 一部の人間しか問題に気付かな 32EE 宗明 NCO O印 ・ N 〔 〕 は水串れによる補 -M℃・ う道徳的実践に加われないために人生において大きな困難を抱 足)。そして、矛盾に気付く人は少数であり、かつ多数者が行 いと答えている 完全には気付かれず」 、世界 もつ帰結が媛昧であるために「 〔二つの観 点の 〕正反対の本性が 困難を 呈することを認めつつも、究極的視点と両立論的視点の くる けでなく、共に決定論を受け入れている似型 二元論にも効いて 酬 Mという不正義は両立沿だ A への賀任mm それが成熟した道徳と個人の価値の条件であるように思われ 。 一元論ではもち得ない道徳的自観を盤合させるための理論的説 立任を問われえない人 明装位なのである 、 白山・意志問題においてわれわれが 非認知主義的自由意志解釈 幻 想主 義 の問題 点 スミランスキーの議論は 、 抱く基本的な道徳的自観がいかに重要かを再確認させてくれる。 n巾意志諭における究極的立任 われは「コントロール」の存花するところでは賀任の帰以に動 、 zg ご一MOO u・どS。われわれの大半が絞 -D 後づけられ、不在の場合には立任の灼 M 酬を仙抑制止するよう励俄づ えることになるお豆 幻想 このように考えるならば、 「白山 (窓芯 〉 」という特 心的構想に越づいた道徳的実践にコミットし続ける以上 けられる 。 主義 の抱える問題は視点の持 つ合意の峻昧さに隠されて 気付か 、 円ω) 、 別の視点から理解する道が聞かれる 。それは 、側他に関する非 、 性は 立任約以に関してわれわれの行為を左れする側他的特性 れない。紡梨 だと言える。自由を価値の観点から眺める時 LFW の幻想を われわれが該心的精造を持ち続ける限り、幻想 が消えることもない。 スミランスキ!の川終にどの混度の説得力があるかはここで 認知主義という見方である。本一制の残りで 自 由 を非認知主義 、 は問わない。むしろ 本稿では彼が難点の存従を受け入れて い 的側値と凡なすことで、幻怨 主義がどのよう に支援されるか 、 る点に注目する。われわれはそれに気付かないかもしれないが、 ことにしよう。 また自由意志問題の扱い方がどのように変化するかを見て行く 、 のような人生像には大きな違和感と反感をもっ人が多いのでは 〈 幻念 〉という問いによって認知主義と非 、 、 事実として欺附的で、不誠実で、不正義な生を生きている。こ ないか。本稿はこの違和感をメタ倫理学の見地から解消するこ としての命題の地位をもつか つある。すなわち、道徳的 官 切が其製他をもつかどうか (日〉 現夜においては次のような大枠が教科宮的理解と し て定着しつ 道徳的価値に関する非 認知主 義 とに 取 り組む。私の見るところ、この違和感は自由意志問題を Wが存在するのかどうかという メタ倫理学 における立場の分 類には多くの 災総があるものの LF 事実および信念の問題と考えていることに起因している。確か 、 、 FW 現代の議 われ そして非認知 主 認知主義が区別され、さらに前者において道徳的特性は自然的 責任やその 他の道徳 的 民践と 、 、 、 の事史的 存花 / 非存花ではなく 認 知 主範 的内然 主 畿 特性であるかどうかを巡って向然主毅と非自然主義とに分類さ 、 の関わりにおいての白山であることがわかる。そのような文脈 L FW 、 義である。このうち 本稿では非認知主畿に凶する.フラッグパ 認知主義的非 a H然 主義 れる。この区別に基づいて 三 つの大枠が作られる。すなわち では趨郁史的な / ないことがわれ 的であるがゆえに、責任のい町民等史 の践には 関与し得ない 自由である となると 、白 山意志の問題は 「 て提え直されるべきである 。核 心的構想に基づくならば ブラックパ l われの立任仰印刷にどのような彫轡を与えるか」という問姐とし lンの畑中央花論を取り上げよ。う u v 。 は仮に存在したとしても、それが却組事尖 論の潮流を眺めるならば、われわれにとって重姿なのは L 問いに凶わる形而上学の 問題である 。しか しながら に、自由意志問題は本来 2 ンの考えを一 言 でまとめるならば次のように言 < g 。。 公五~~文 自由意志のJI'認知l主J量的解釈の 11f能性 IOI える。道徳 的特性は世界の側に存花せず 、 、道 徳 それゆえ道徳判断は れ らの感受性を世芥の H ’ 然的特性に投影した紛結であり セッ トに 含まれている場合に誌と決定される。ここで 〈日) 的 号け切の兵偽は表 出 される感受性が想定 上松 も数合的になった 感受 性の 、 われわれ 、 注 目したいの は投影説という考えで あ る。投影説とは 特や正 といった道徳的価値 は世界 に実在する特 性 ではなく 矛町した判断を河 川 終 、 しないという点では不合恕でもない。 ッ 1 ンの非認知 主義の考えを 幻想 、 「LFWが存在する」とい 。 を確認した い 幻 想主義を非認 ト 非初跡知主 義 的自 由意志概念の可能性 リ 本節のれ以後では ブラックパ 主義に適用することのメ 知 主畿 的に 解釈するということは う古切を感受性の表 山 と考えることを指す。非認 知 主義 的解釈 ー LFW を感受 性 の投影物とみなすことで、’U 山意志の 問題 の内部の態度や感受性の投影物だと いう考えである。マッキ ンによる道徳判 この感受性には り、 、 「責 『任灼凶 をの災に関する 問題からわれわれの感受性の験合性の問題へと 、 は 、 客観的かつ定行 的 に指令的な泊徳的 特性 、 の「枇村 ブて 火山 性に誌づく議論」から川町紡する帥出前理論を受け ラ ックパ|ンもまた 、 の誌礎には 変換する。「 LFW は存犯するか」という問いは l 、 て 、 り、 、 本節 l で挙げた違 「LFWが存在する」というのは悩 、 同じカテ ゴ 事実としての認知 的 言 明と価値としての非認知的言明との リーに属する、認知的命題同士のもつ矛前から生じるのであ っ 同時に 主張するこ とに対して抱く違和感や反感は 似 および感受性に 凶 する許切である。われわれが こ つの打 切 を 郁尖に閲する π 切であ 和感や反感は軽減される。「LFW が存在しな い」 というのは 上のように事実と 価値 を区別することで ト するのか」と いう価値 の問 いへとスライドするのである。 A Pが存夜する」と いう感受性にわれわれ例々人が いて語り、それに法づいて行動している。このギャップの説明 、 それでもそれが実在するかのようにわれわれが振る舞 、 向らの感受性や態度を投修している結集なのである。 と対照されることでなされるが ト コミッ の巾火花を芥定する。それでもなおわれわれは道徳的価航につ 、 理論として滋入されるのが投影説である。道徳 的側値 は申火花し ないが え るのは 、 ブラックパ 投彬説による説明は 身勝手で恋意的な道徳判断を消却くと考 えられるかもしれない。しかし 断の以偽 判 定の方法を 比 るとこれが誤解であるとわかる。郡山火 受性のセッ 花論においては、道徳判断の其偽判定は判定者の内而にある感 すなわちある感受性をもつことに対する是認/ ーと 、 は別の正当 スミラγスキーのように ラソスキ こ のことが認識されるならば、 幻想主義 、 史践的なコミ ットメン トか ら囚幾そのものを受け入れるのでは 化ができるはずである。すなわち 。 衝突からは生じな い 、 二階 の感受性 の抱える凹つの困般に倒しても、スミ H 性が保たれる限 その勧 RA は、気ままに変更可能できな し、 ト 否認が含ま れ る。このような附間的 感受性をも合意した上で整 合性が担保された感受性のセッ い点で恋意性を 一定程度免れる なく、正而からその脅威を削減できると考えられる。たとえば、 てみなすことで大幅に減じられるように思われる。加えて、自 由意志の非認知主義的解釈に支援された原理 二元論と幻想主義 、 は伝統的自由意志観念を資任論 のフィールドへと述れ出す倒き 自己欺附および不正 義 に関しては「内側から見 、 る」ことによって説明が可能である 。 われわれが価値に闘する LFWはその超越的特性から帰結する認識不可能性のために 非現実的生 「責任にはA Pが必要だ」という感 ももっている。従来、責任の灼凪の条件と し て考えられてきた 、 判断を行う時、われわれはめいめい自分の感受性を過して其偽 を判定する。したがって また 、 、 。 スミランスキーも幻想が「心 一同m コξ 一NOO CM8 3 E -印 -N 。 そのような行為はその感受性放に、 ま さに自らにと う。 さらには、 真 理に対する不誠突さの問題にも LFW概念に価値的役割を付与するこ って -本稿では、スミランスキ!の原開 二元論と幻怨主義がわれわ とが可能になる われわれは自由意志論という理論の抱える欠点にとらわれるこ 仰属を動機づける役割を付与することができる。これによ きる。また、「 LFW が存花する」という価値 的 古 川山には責任 存在しない」という事実言明を責任の減免の 論拠として利川で 非認知主義的に解釈されたスミランスキーの迎論では「AP が 。 受性を通して白任焔ロ仰を行っている限り、それはわれわれ自身 立任史践の額回収で現実的に利則されることがなかったしかし、 。 の価値 に基づく行為であって 欲蹴でもなく、 っての現実である 究極的な不正畿を感じさせない の現突性」を創造すると指摘する 35 しかし、誤った信念は立なる信念の認識によって容易に修正さ 、 と なく 。 のである。 感受性は真実を認識しても、 れるが、感受性はそうではない 、 多くの場合、ゆっくりとしか変化しないものである。幻想の保 説得的であろ 持はこのような感受性の変化しにくさによ って説明される方が 回特できる。非認知主義は認知的 守口切の其偽判定とは別の仕方 。 ゆえに 非認知的な体系に 、 、 れの基礎的な道徳的直観の保持のために要扮される迎論である 感受性もまた 「しFW が 存在する」とい こと、そしてそれが LFW の非認知主銭的解釈によってより説 。 山した 従来の自由・怠志論争の餓点 如何力が強化されることを確閉 、 主滋は感受性を法礎とした新たな体系によって其理の価値を確 くは究極的な A P を価値的特性とし 。 しかし、本稿で扱った非認知主 義 に限らず、側値に関するメタ倫理尚子的洞祭を訴人することで、 定していたように思われる は形而上学的事実に当てられていたため、議論を狭い領域に m 限 もし 認知 的要紫同士の対立から生じる幻想 主義の 、 いかがわしさは LFW 以上のように 保することができる。 う び 溢づいて其偽がつけられる 。非認知主義的解釈によって 幻想 ではあるが、非認知的な 宮 切の真偽を判定可能である 結 102 公務 諭 文 自 ll:! 窓it.のJI'.&知_t義的解釈の nf能t't 10) 、 , このような展開が必姿になるものと忠われる。 、 、 を別行為可能性に限 。 ァ l トの 二階の欲求浬論、 s ミ~ 〉 町民 一 ウル ・ 勺”・ 口口 E {一一一 一一円O『 Z 白 刊の g d円『 由 d リ 釦一OC白一百 戸山 口己寸一 -『 ロコ出 己ヨ巾 2F 戸、 戸 一一 一 (刀OU白『戸 O 手 向 。矢口ミミミミ Fqqb\ 色。ぇ. ・コ~ =d -OON 一 ωEE-N 二国コ ・和 ∞的 コ 帥 J 向〕〉 包門司勺去叩川 - 『 01。 『--己C2一 〈凸 三点 の の文献を中心にスミランスキーの主強 〈7) 本・和では以下 Esz ・ CD-3 吋司モミミミミ を続説する。ωヨニ白コ 目r山 、 ・ω2 7NO 両立 ( 6) いわゆるフラングファ lト型事例やフィッシャl のm である。 的淡 論 、 p ・ス トローソンの反応的心情論が代 フの双山の恕諭(『25 コ 5 2 ミ)などが本げられる。 外的である M山意志 問題へのアプローチは今後大きく発泌するだろう。わ ’ (5) たとえば、フランF7 れわれの道徳的直観と実践を十全に説明で きる理論を生み出す キふ l-F」h 三 、 、 A P には 別 行為 吋能 性 と別怒志川能性 (l) 正確に述べるなら、 し 別意志可能性 は別行為可能性を実 が含まれている。しか スる ミラ スキーが 現するために似口比される淡院であ たンめ 、 別意志可能性を独立に考える 別行為可能性を放楽する以上 、- ジ数等を記す。 ー 、 され 5 「p-2 ・こ 白 Ng℃o- ・0 。 ・ しも か しれない た行為こそが道徳的な行為だと反論するか から生み 山 なF くW、 ハ 9) 山H山意志論者は性抽怖からではL 印EN ← 崎 ph~ Vv PRミ 切さえ九 u 2・吋… ℃山 ℃・ ~ σEQ -- ・ ロM』 h - 戸 由の 由国 』4 ・D .EE-5 。 ・ 巾コ コ一 〈8) ω片岡・出=目『 ペ にの 本論小で 論を進める。スミラソスキーへの宵 及み 筒、所 、 本が 同制では紙制の関係主 上裂が 間するのが紋浪けではある こOO 二年の論文の筋を追って議 コンパクトにまとめられた は000年の主草引を品世 ソスキ lの議治を適切に理解するにこ C印 ω32 ∞・ 吋’ 白コm- 刃 品印 必裂はない。したがって本筋では AP 而明白 ・向】 〈巾 『帥ζ - 勺「 ・ ハ出 y ou「 一 h O『己Cコ一 コ巾何色 J 別に E p 『O「℃ 問「問。コ目 4 ミr ニ一 乱刀 mumn 司 作 白 コ - 定 して議論を進める。別行為可能性と別意志可能性の区r M C C ・ 巾 口 己 一 印 ・ 自 ω 〕 出 下 OO 例年、 一 - λ ・: 7 WM 』∞BMm P ついては成川和的「任 災と れ山 』(動作’ 旬、bh ~ nMU 匂 ミ弘、 口S 九E --xx一)デ℃ -M℃ ミ町民2 ~64 五広真 〉 を診問問。 口。。 コ戸OC「mO 『 c d 02 →一 ---一。 コ己 同n 『Z 円『 いNOON 担・ コ刃O一 )巾 ( 2) 一ハロ ミむと え- P E- 52a 吉一言問。巴きミ ・ 勺「口白老 可 エ 門 広三260『竺 問 いに 3・ 8 勺 〉・OKFEC三〈常的-3 ミミ (刃・一〈コ 出口市戸 門 ・ リ司 - p \ 『ミ -bFb 、 。 身の論文で三つの ・も自 一一スミランスキ! 日 ・身 毛・ωs よるれ任の分別を行っている本 が稿では簡便さと 一般 性 を 優先してケイソのものを利川たし 〈3)本総では 、普遍 的決定論の意味とし ては「世界に生じるあ 附むを 的 に生じさせる以因 ハ らゆる事象は 、当該事象を必然 、 。 )で命駁され F C・52 ( もっ」と いう緩い鋭定 にとどめる。 し、この考えは ω2 コ- ・ぎm 〈O 匂℃8 ・1M (4) チザムや γ ・オコナ lの行為新閃剛山説がその典型である。 ている N身 は 白山 意志論を自認 しているが 本筋注 3 で示し ケイ γ- う裁を「なんであれ人hを特定の行動 ハ問〉 トホ舗では価値とい行 たような広い意味での普通的決定論を受け入れている点で例 ぎ (ご) (~ ) (竺) ピ -\Jliil童話。 :t- t{l-6'QJ-\)ム r、-#' (I ベ)-#'国ム斜tまや言司法+-々 。 : ¥ l i l l er ,A l e x a n d e r :2 0 0 3 , AN I NTRODUC TION TO CONTEMPORARl.METAETH/ C S ,Pol i l yPr e s s .B l a c k キ B l a c k b u r n ,S i m o n :1 9 8 4 ,S p r e a d i n gt h e II匂rid, Oxford w e l lB u b l i s h i n gL t d . 2 0 0 3( p p .5 2 - 必 v • i美韓三4く卦) 1 ' ,II\ ぶ h ・~ - λQ 符縄とl <、 :, \-'~ ’ i\ lill er: U n i v e r s i t yPrぉs. 9 4)-#'ぬlii-"' !j...).;_!。 (祇J 机)~ 司忽山〔崎刈哨 M
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