「インターカルチュラリズム」とは何か −ケベック、そしてグローバルな観点

基調講演
「インターカルチュラリズム」とは何か
−ケベック、そしてグローバルな観点から
ジェラール・ブシャール
ケベック大学シクチミ校教授
本シンポジウムに招へいいただき、皆様方に御礼申し
上げます。
本日は、私の提唱するインターカルチュラリズムのモ
デルについて、できるだけわかりやすくお話したいと思
います。これは、過去何十年もの間、ケベックで発展し
てきた概念です。まず、ケベックでの経験をもとにイン
ターカルチュラリズムについて概説し、その後で、より
広いグローバルな観点から、このモデルの他国への適用
可能性について考えてみたいと思います。ヨーロッパや、
そして、日本にも言及するつもりです。
さて、多元主義という、私たちの民主主義社会のガバ
こうしたパラダイムに根ざしています。
ナンスにおける哲学、考え方から話を始めたいと思いま
したがって、それらのパラダイムを確認することは、
す。この多元主義という考え方は、第二次大戦時を機に
それぞれのモデルが根ざしている状況を位置づけるとと
生まれたものです。当時、西洋は 20 世紀の数十年間に
もに、各モデルがどのような目的とロジックに基づいて
いかに残虐な行為があったかということを自覚し、西洋
いるのかについて理解する上で意味があります。
の重要な理念である人道主義や権利の尊重といった教訓
に立ち戻る必要性を意識しました。そうした中で、西洋
多元主義をめぐる5つのパラダイム
諸国の政府は自らの政策を見直し、差異の尊重に関心を
現状からみると、5つのパラダイムを挙げることがで
向けるようになり、やがて、それがさまざまな運動につ
きると思います。第一は、多様性のパラダイム、という
ながっていきます。今ではよく知られているように、先
ものです。これは、一つのネイションが、法律や憲章で
住民の権利や、宗教や言語の差異、あるいは男女の差異
保護される平等の権利を有した個人の集合体として定義
などが承認され、道理にかなった民主主義的な形で民族
され、その枠組みの中で個々人が自らの差異を表現する
文化的な多様性に対応するためのモデルが求められるよ
ことができるというものです。
うになります。
これからお話する他のパラダイムに比べた時に、この
多元主義の考え方を体現し、根付かせるモデル、つま
多様性のパラダイムの重要な特徴として挙げておきたい
り方法はいくつかあります。
マルチカルチュラリズム(多
のは、マジョリティの文化もしくは公式の文化の存在を
文化主義)はよく知られている一つの方法であり、
また、
認めることはまったく論外であるということです。つま
インターカルチュラリズムは、それとはまた少し違う方
り、文化的差異とは、それぞれの個人が私生活の中で体
法です。
験し、生みだしている、きわめて個人的なレベルのもの
インターカルチュラリズムについての議論に入る前
に過ぎないわけです。
に、その前提として、私が称するところの大きなパラダ
第二のパラダイムは、均質性のパラダイム、というも
イムについてお話したいと思います。多様性に対応する
ので、多様性のパラダイムとは正反対なものといえるか
ために発展した、
現在知られているモデルのほとんどは、
もしれません。これは、ネイションを単一の文化によっ
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て定義するもので、ネイションは同じ伝統、同じ言語、
から発展してきた考え方で、このモデルは明らかに二元
同じシンボルという均質性に基づくべきだとされます。
性のパラダイムに根ざしたものです。ケベックでは、文
多くの国々でそういった状況が見られます。今は変わり
化的マジョリティの存在が強く認識されています。それ
つつあるかもしれませんが、
イタリアや韓国がそうです。
はもちろん仏語系のマジョリティであり、以前はフラン
ギリシャも、また日本もその例に入ります。日本につい
ス系カナダ人と呼ばれた人々のことです。ケベックにお
ては後述します。それから、フランスなどの共和制も、
いて文化的マジョリティとして目立ち、強固な存在にな
実際には、少なくとも部分的にはこの均質性のパラダイ
ればなるほど、カナダ全体、そして北米大陸の枠組の中
ムに属しています。というのも、現在のフランスが、民
ではマイノリティとしてより強く意識されることになり
族文化的な多様性の表現を公共の場でそれほど奨励して
ます。
いないからです。
こうした現実は、ケベックないしはケベック・ネイ
第三のパラダイムは、二極性あるは多極性のパラダイ
ションがマジョリティとマイノリティという関係によっ
ム、と私が呼んでいるものです。ここに入る国々では、
て成り立っているという認識を、より強化します。マイ
例えば2つ、3つ、もしくは4つ以上でもよいのですが、
ノリティには、
周知のように先住民やユダヤ系、
ギリシャ
かなりの昔から形成されている文化的集団が存在し、そ
系、イタリア系、中国系といった人々が含まれます。
れぞれの存在が憲法や憲章で認知されることによって、
そして、インターカルチュラリズムの目的は、マジョ
その存続や未来が保障され、他の文化集団による同化圧
リティとマイノリティとの二元的な関係に、できる限り
力の懸念がありません。例えば、ベルギーやスイスは、
道理にかなった形で、また多元主義の目標に沿うやり方
かなりの程度忠実に、この多極性のモデルを具体化して
で、つまり個人の権利と多様性と、同時に、マイノリティ
いる国だと思います。
とマジョリティの集団としての権利をも尊重しつつ、対
第四は、混合性のパラダイム、と呼べるもので、特に
応することなのです。それがインターカルチュラリズム
アメリカ大陸で見受けられるものです。当初存在してい
の基礎を成す重要な特徴です。
た多様性が、長期にわたるきわめて密度の高い文化接触
インターカルチュラリズムの目的はまた、二元性の関
や、混血などにまかせて徐々に融合し、新しい文化を生
係を和らげるということにもあります。二元性というこ
み出していく。さまざまな文化が融合し、いずれの文
とは、つまり「かれら」と「われわれ」という対立軸が
化とも異なる新たな文化が生まれるという、ラテンアメ
あるということです。そうした関係からどういうことが
リカの国々でよく見られるパターンです。特にメキシコ
起こるのか、つまり、マイノリティを犠牲にしたマジョ
がそうですし、アメリカ合衆国のよく知られているメル
リティの支配という関係が容易に招来されてしまうこと
ティングポットも、まさしく混合性のパラダイムのモデ
を、わたしたちはよく承知しています。
ルといえます。
したがって、そういうことが起こらないように、そし
そして、最後のモデルが二元性のパラダイムです。こ
て、一人一人の権利がマイノリティの権利も含めてきち
れはインターカルチュラリズムと関わるので重要です。
んと擁護されるように見守ること、それも同様にイン
この二元性のパラダイムが形成されるのは、一つのネイ
ターカルチュラリズムの目的となります。
ションの中に、民族文化的にマジョリティと複数のマイ
ところで、この「かれら」と「われわれ」という二元
ノリティという関係が存在している場合です。二元性の
性の関係をなくしていくこともインターカルチュラリズ
パラダイムは、
多様性のパラダイムとは全く異なります。
ムの目的ではないか、というように考える人もいるかも
もちろん個人の権利は保障されているのですが、これら
しれません。しかし、
これはさきほど申し上げたように、
のネイションでは、社会に深く根差したマジョリティの
多元性という観点からみても、複雑な問題です。なぜか
文化があり、そのまわりに複数の文化的マイノリティが
というのは後ほどご説明したいと思います。
存在しているという認識が明確にあります。
ここで留意すべき重要なことは、インターカルチュラ
リズムは二元性を生むわけではないし、また、二元性を
ケベックとインターカルチュラリズム
奨励するわけでもない。しかし、二元性の関係が存在す
インターカルチュラリズムは、ケベックでは 70 年代
るところに介入するということです。 二元性への認識
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は、社会やネイションでどのように現れてくるのでしょ
市民全体に開かれたネイションの定義、チャールズ・テ
うか。それは、一般的に、受け入れ社会あるいはマジョ
イラーの表現による「承認」の実践、移民に開かれた社
リティの不安感や危機感となって現れます。マイノリ
会を意味します。また、マイノリティの文化が永続して
ティ、あるいは移民に対してマジョリティが感じる不安
いくための支援を、たとえば出身言語の教育やアコモ
感や危機感です。特にそのマジョリティ自身が広い社会
デーション(調整)の実践を通じて行うことを意味しま
の中で磐石な基盤を築いていない場合に、こうした危機
す。
感が生まれやすいと言えます。このような文脈が二元性
このアコモデーションという言葉は、もしかしたらご
のパラダイムであり、インターカルチュラリズムに適し
存じない方もいらっしゃるかもしれませんが、アメリカ
た場となるわけです。
で 60 年代に生まれた権利です。カナダでも 80 年代に権
マジョリティの危機感は、さまざまなことから生じま
利として広まり、ケベックやカナダでもアメリカやヨー
す。時には根拠がある場合もあるでしょう。大量な移民
ロッパと同様に、きわめて重要な概念となっています。
の流入や、
民族文化的マイノリティの存在感の高まりや、
ただ、国によってその位置づけや意味、法制化という点
多様性の増大といったことに、マジョリティが脅威を感
では同じというわけではありません。
じるということもあります。しかし、こうした不安や危
これは、支配的集団の利益を考慮して制定された法律
機感は、しばしば現実には根拠がなかったりします。あ
が、何らかの差異を有する個人に差別をもたらすことに
るいは、マジョリティ側が単に多元性を拒否する言い訳
よってマイノリティを疎外することがないように配慮
として、イデオロギー的な言説をあおっている場合もあ
し、合理的な調整を図るというものです。したがって、
ります。
アコモデーションの実践は多元主義の政策を構成する要
したがって、
こうした二元性の状況を判断する際には、
素です。それは、
差別に対する戦いであり、
社会保障サー
きわめて慎重になる必要があります。危機感には確かに
ビス、さらには全ての公的サービスへのアクセスや、ア
根拠がある場合もあれば、
つくられたもの、
イデオロギー
イデンティティの多様性を保障するものです。これらは
的な操作によるものもあるからです。インターカルチュ
移民の統合への配慮としてケベックが試みてきたあらゆ
ラリズムと二元性のパラダイムについて論じる際には、
る施策の一部をなすものです。
こういった慎重さが何より大切なのです。 マジョリティ自身がマイノリティでもあるケベックで
一般にマジョリティの不安感は、
社会の価値観や言語、
はとりわけ、社会の分裂やゲットー化への怖れがありま
伝統の保護という名目で表現されます。多様性が増すこ
す。そのため、分裂を回避するために社会の統合が必要
とによって社会の均質性が損なわれるという言い方がな
となり、また、ある種の共通の目標や、共通の価値観と
されますが、これは明らかに支配的な社会が保持したい
いったものが必要になります。やや混乱を招くことにな
独占や権力関係や特権が危うくなることへの言外の抵抗
るかもしれませんが、それでも、インターカルチュラ
である場合もあります。
リズムでは、社会計画を正当化する上で共有される価値
重要なのは、多元主義が統治の方向性ないしは哲学と
というものを維持していくことが必要です。社会が機能
して考慮されなければならないということです。それを
し、その永続性が保証され、共通の目的に向かって力を
具体化する方法としてはいろいろな形があり得ます。繰
合わせ、改革を行っていくためには、共通のシンボルと
り返しになりますが、多文化主義もその一つですし、イ
なる基盤が必要になるわけです。そうでなければ、イン
ンターカルチュラリズムや、あるいは共和制というもの
ターカルチュラリズムは機能しません。何か共通の目的
もあります。それらに関してさまざまな議論があり得る
を持って皆が力を合わせて行動する、そういったことが
のは、ご存じのとおりです。
必要になってくるわけです。
ケベックに話を戻しましょう。インターカルチュラリ
共通の価値というのは重要であり、それは社会によっ
ズムは、何より、多元主義がベースになっています。イ
て違いますが、ケベックの場合はたとえば男女平等とい
ンターカルチュラリズムの主なビジョンは、何より多元
う価値が重視されています。ケベックでは長い間、女性
主義の理想を体現するための試みです。それは、市民の
差別があったからです。あらゆる形の平等の概念も大変
平等の権利の尊重、多様性の尊重、何人をも疎外しない、
に尊重されており、これらは、すでに植民地体制を克服
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し、平等や民主主義、個人の自由に向けて発展してきた
が異なるからです。 ケベックの現代史に根ざした価値です。
共通の価値や統合という言葉は、さまざまな内容を含
んでおり、
ときには批判や論争を呼ぶ概念でもあります。
多文化主義との違い
なぜなら、統合が同化と同一視されることがあるからで
次に、インターカルチュラリズムが多文化主義とどの
す。しかし、
ケベックでは必ずしもそうではありません。
ように違うのかについて、見ていきたいと思います。主
統合というのは、ある意味での共有のことです。それは
な違いは、やはりこの二つのモデルが異なるパラダイム
経済的に移民やマイノリティを組み込み、雇用に参入さ
に依拠しているということです。たとえば、カナダの多
せ、社会的ネットワークにアクセスさせ、新たな社会で
文化主義は、マジョリティの文化といったものを認めて
他の人々と同等に生活を営むことを可能にし、市民とし
いません。このことは英系カナダの現実を反映していま
て政治や公共論争への参加を可能にするという、つまる
す。そこでは、人口学的にマジョリティを構成する文化
ところ、社会にとっての義務なのです。したがって、統
が存在しないのです。英系カナダの社会をつくったイギ
合という考え方は、やはり確固とした正当性に依拠して
リス系の子孫は、現在の人口の 30%でしかなく、かれ
いると私は思います。
ら自身もマイノリティとなってしまっています。 多元
これまで申し上げたことを要約いたしますと、イン
性のパラダイムに該当するオーストラリアでも同様で
ターカルチュラリズムとは、ある意味で、バランス、均
しょうか。比較すべき数字を持っておりませんが、アメ
衡を追求することであると言えます。もちろんほかのモ
リカ合衆国はどうでしょうか。
デルも総じて同じことが言えるでしょう。民族文化的な
こういったことから、1971 年にカナダが多文化主義
多様性の管理とは常に、競合する要求や規範、時には権
の政策を導入したときに、ケベックはそこから距離を置
利の間で仲裁を試みることだからです。例えば教会と国
きました。このモデルはケベックの現実に合わないし、
家の分離、つまり政教分離は、社会に根強く定着してい
自分たちによりふさわしいモデルを推進すべきだと考え
る規範です。しかし同時に、自らの宗教を実践、表明す
たからです。
る権利もまた同様に基本的権利として認められており、
その他にも、多文化主義とインターカルチュラリズム
これら二つの考え方が対峙することもあり得るわけで
には多くの差異があります。例えば統合に関して、英系
す。そこで、何らかの仲裁が必要となってきます。
カナダはケベックほどその緊要性や重要性を意識してい
その意味では、どのモデルでも基本はバランス、均衡
ません。また、英系カナダには言語に関する懸念もあり
を追求しているわけですが、インターカルチュラリズム
ません。必然的に移民は遅かれ早かれ英語を習得するで
の場合は、それがマジョリティ、マイノリティ関係の二
しょう。かれらはアメリカ大陸にいるのですから。しか
元性のパラダイムに立脚していますので、とりわけ非常
し、ケベックのフランス語の場合はまったく違います。
に微妙な仲裁、調定が求められることになります。例え
アメリカ大陸では、フランス語は非常にマイナーな言語
ば権利の尊重と同時に社会統合への懸念をどう仲裁する
だからです。
のか、また、多様性の尊重と同時に、社会の分裂を避け
文化間の相互作用や共同のイニシアチブ、交流につい
るための共通の文化に対する強い希求をどう仲裁するの
ても、ケベックではとても重要視されていますが、英系
か、といったこともあります。そして、憲章に明記され
カナダではそれほどでもありません。とはいえ、最近は
た最も基本的な価値を損なうことなく、アコモデーショ
英系カナダでも新たな懸念が生まれており、連邦政府は
ンを実践しなくてはなりません。さらに、文化的マイノ
異なる文化集団間の対話や交流を奨励することを狙っ
リティの保護および承認と同時に、マジョリティの保護
たインターアクションというプログラムを計画していま
も必要となってきます。
例えばケベックの場合は、
マジョ
す。
リティ自身がカナダ全体の中ではマイノリティでもある
ケベックでは、今まで述べたような状況が、インター
からです。社会学的な理由からも、やはり社会は継続し
カルチュラリズムという、マジョリティとマイノリティ
ているという感覚が必要です。それは歴史に根差すもの
の関係を管理する考え方を形成していったわけです。英
であり、社会をつくってきたマジョリティの文化に負う
系カナダがケベックと違うのは、その民族文化的な現実
ものです。ただし、現在、そして将来の究極的目的に関
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しては、当然ながらマジョリティだけでなく、全ての市
ズ・テイラーやジェイムス・タリーやウィル・キムリッ
民が平等の立場から参加、
発言する権利を持っています。
カなどによると、全くそういう考えではないのです。何
それから、ライシテ(脱宗教化、政教分離)の制度的
より重要なのは、リベラルな個人主義であるとされま
概念に関しても、同じようなことが言えると思います。
す。多文化主義というのは個人の権利を基盤にしていま
インターカルチュラリズムの精神に即したライシテのあ
す。そして、個々人が、自らの出自の文化や伝統、仲間
り方があると思いますが、これは非常に複雑かつ論争的
に依拠しながら自己を維持する必要を感じているのであ
なテーマですので、ここでは立ち入らないことにいたし
れば、その権利を尊重すべきだという考え方です。多文
ます。しかし、
大ざっぱに言ってしまうならば、インター
化主義がエスニック集団を保護するのは、そういう理由
カルチュラリズムは、少なくともこの領域においても、
です。出発点となる考え方は、リベラルな個人主義なの
競合する原則を、最重要なものを守るようなやり方で、
です。これは逆説的ではないか、
矛盾するのではないか、
うまく調停していくのではないかと思います。
と思う方もいらっしゃるかもしれません。
では、先ほど申し上げたことにもう一度戻りたいと思
います。インターカルチュラリズムの最終的な目的とい
インターカルチュラリズムとヨーロッパ
うのは、そもそも「かれら」と「われわれ」という関係
さて、ケベックを越えてグローバルな視点からみると、
をなくし、二元性から多様性のパラダイムに変えていく
インターカルチュラリズムにはどのような可能性がある
べきではないのか、という指摘についてです。問題をや
のでしょうか。
やこしくしているのは、一見、多元主義はそういう状況
まず、ヨーロッパについてですが、現在そこは大きな
に導くようでありながら、他方で、同じ多元主義がそれ
変化の途上にあると言えます。ヨーロッパ諸国のなかに
を阻止しようとするからです。それは、マイノリティの
は、多文化主義を実際に試みてみたけれども、目指すべ
なかに、自らの人格やアイデンティティ、世界観、価値
きものとは違うかもしれないと気づき始めている国があ
体系を保持するために、自らの出自文化との絆を維持す
ります。また、多文化主義を試みたことがなく、何ら
る必要性から、マイノリティとして生き続けることを選
かの形で移民が入ってくるという事態に直面して、社会
択する人々がいるからです。こうした選択と自由は、多
の一部の空間が硬直化しているところもあります。そう
元主義の名のもとに尊重されるべきでありますが、それ
いった社会では、移民の人たちが社会に溶け込めずに、
を尊重するということは、文化的マイノリティが社会や
マジョリティ対マイノリティという二元的な状況になっ
ネイションの中で存在し続ける権利を持つということを
てきています。
意味します。
とりわけ、ムスリムの存在によって、ヨーロッパのい
これはマジョリティについても、同じことが言えると
くつかの国々は、私が二元性のパラダイムと呼んでいる
思います。かれらも、自らの古いルーツをナショナルな
方向に向かいつつあります。
「かれら」と「われわれ」
文化や社会を構成する文化といった、より広い定義と結
関係の構図が顕在化し、マジョリティ対マイノリティの
び付けて自己定義をすることができます。このように、
対立軸がますます顕著となってきています。
多元主義が2つの相対立する目的に導いていくものであ
そのような状況では、すでに私が挙げたような理由で、
ることがおわかりになったと思います。私は先ほど述べ
多文化主義は明らかに適さず、インターカルチュラリズ
たような理由で、民族文化的なマイノリティを保護すべ
ムがうまく機能する可能性が高いでしょう。気をつけな
きだと考えています。
ければならないのは、あたかも多文化主義を試みたけれ
一方、多文化主義に目を転じてみると、興味深いこと
ども、期待した成果を得られなかったかのように、多文
に、そこに共通する考え方というのは、各エスニック集
化主義を放棄しようとしている国があることです。しか
団を保護するシステムであり、多くの人々が多文化主義
も、それを口実として、多元主義そのものを放棄しよう
について最初に思いつくのは、エスニック集団です。多
としているのです。フランスのサルコジ大統領は、あた
文化主義を採択した社会では、その社会自体がエスニッ
かもずっと多文化主義をやってきたにもかかわらず、う
ク集団のモザイクとなっているわけです。
まくいかなかったかのような結論を出しましたが、あま
ところが、カナダ多文化主義の理論家であるチャール
り信用できません。ドイツのメルケル首相にしても、同
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様に、まるでドイツがこれまで多文化主義にしっかり取
率によるものです。結婚しても子供を産まないというだ
り組んできたかのように、多文化主義の失敗宣言をしま
けではなくて、結婚そのものが減っているのです。
したが、私にはそうとは思えません。
そのような中で、日本はどういう道に進むべきでしょ
いずれにしましても、ヨーロッパ諸国ではマジョリ
うか。人口が3分の1も減ってしまうというのは、社会
ティ対マイノリティという関係性の構図が認識されるよ
的、経済的に悲劇的な状況であり、前例もなく、社会は
うなっています。この関係を仲裁し、
また、
マジョリティ
成すすべのない混乱状況にあるといえます。
によるマイノリティ支配によって、民族主義や経済・社
では、どういう対策が必要なのでしょうか。第一の可
会的支配、
疎外が生じるような状況を避けるためにこそ、
能性は、人口減少への対策を諦めて、経済的にも政治的
まさしくインターカルチュラリズムが有効なのです。
にも弱い国になるということを、甘んじて受け入れると
ヨーロッパでは欧州評議会のイニシアチブのもとに
いうものです。第二は、女性がもっと子供を産むように
2007 年と 2008 年に、47 のメンバー諸国に対して大々的
策を講じる、というものです。しかし、これはあまり望
な調査が行われました。それは、欧州評議会としてどの
みはなさそうだし、実現性も乏しいと言われています。
ようなモデルが理想的であり、
どのような哲学のもとで、
そこで、最後に残された可能性が、移民に頼るというも
どういうモデルを推進すべきか、という調査でした。そ
のです。しかし、日本が移民に門戸を広く開放すると、
して、驚いたことに、1 年後、47 カ国が全会一致で合意
そこに別の問題が生じます。伝統的に、日本のアイデン
書に署名をしました。
ティティは、均質性に基づいて形成されてきました。そ
その合意というのは3点あり、いろいろな意味で興味
の均質性には、集団としての価値や美徳、純粋性、例外
深いのですが、まず、多文化主義は社会の分裂を招く危
主義などが結び付いています。均質性ゆえに、日本は、
険が大き過ぎるので、これを放棄するということ、次
アジアでも世界全体においても特殊な社会であるとみな
に、共和国モデルも、こちらは同化の危険が大きすぎる
されています。
ので放棄する、というものです。そして、中間的な方法
したがって、均質なアイデンティティを放棄すること
がよいということになりました。そのようなバランスの
には、大きな抵抗があるでしょう。増大する多様性に対
とれた概念としての中間的なモデルこそが、インターカ
応するために、均質性を犠牲にし、これまでとは異なる
ルチュラリズムなのです。
やり方でネイションを再定義するといったことへの抵抗
加えて、多様性に配慮した多文化主義における大事な
です。
要素は取り入れるということになりました。また、権利
私は個人的に、国家の神話の危機について研究をして
に敏感な共和主義からも取り入れるべき要素はあるとい
おりますので、
この問題には大変関心を持っております。
うことになりました。このように、それぞれのよいとこ
何らかの挑戦によって危機に直面した国家は、みずから
ろは取り入れつつ、しかし、新たな方法としてインター
の国家的神話の一部を放棄し、あらゆる抵抗や緊張のな
カルチュラリズムを全面的に尊重すべきだということに
かで、神話の再定義を迫られることになります。日本で
なったわけです。このことは、インターカルチュラリズ
もそうなるでしょう。
ムがヨーロッパの枠組みにおいて公式化されたことを示
さて、日本について、どのような予測ができるでしょ
していると思います。
うか。おそらく、あらゆる国がそうであるように、日本
には選択の余地はないと思います。日本は、人手不足を
日本の選択とは
補うために期間を限定して、徐々に移民労働力に対して
最後に日本について言及したいと思います。それは、
門戸を広げていくべきでしょう。しかし、門戸はますま
今日の日本があらゆる意味で、きわめて興味深い社会だ
す開かれ、期限は延び、一時滞在の労働者が定住してい
からです。日本の専門家の方たちがいらっしゃる前では
くことは避けられません。そのときに、移民労働者のス
ありますが、私見を述べさせていただきます。
テータスを十全たる市民に変えていかなければならない
日本はこれから 30 年、40 年間の間に人口が 30%減少
という、挑戦を突き付けられるわけです。
すると言われています。つまり人口の3分の1が減ると
もちろんそれは先の話かもしれませんが、それほど長
いうことです。その原因は、きわめて低い出生率と婚姻
い猶予期間があるわけではないでしょう。ただ、私とし
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てもこれから日本がどのような選択をしていくのか、興
力などです。社会が大きなトラウマや危機に打ちのめさ
味深く見守っていきたいと思っております。
れた際には、それに断固として立ち向かう能力が求めら
果たして、日本は多文化主義に向かうのでしょうか。
れます。
私はそうは思いません。
現在の日本の状況を考えますと、
まさに日本は、そうした教訓を示してくれたと思いま
やはり多様性のパラダイムにはならないでしょう。マ
す。津波被害の後、結束やアイデンティティ、連帯感と
ジョリティの文化やアイデンティティのルーツを考慮に
いった、日本の歴史に由来するさまざまな要素に訴えか
入れない多様性のパラダイムは、日本では難しいでしょ
けることによって、みごとな連帯力を発揮しました。そ
う。そして、完全に個人だけをベースとした社会の管理
ういった力が社会には求められます。同時に、今後、ま
というのも、向かないでしょう。個人主義に基づく共和
すます多様性が増していくなかで、その力を、社会が多
主義モデルもありますが、これはまた別のシナリオだと
元主義的な方向性に向かうのを押しとどめるために使う
思います。
べきではないでしょう。
いずれにしろ、日本がこのような文脈のなかで、また、
今日申し上げたさまざまな概念は、多元主義とは異な
比較的短期間の猶予のなかで、どのような選択をしてい
る目的のために使うこともできます。社会統合という概
くのか、大変関心を持っております。
念によって、
全く別のことを目論むこともできるのです。
社会統合といったときには、社会が機能していくための
最後に結論として、次のことを強調させていただきた
最小限のきずなを構築することを意味するのですが、そ
いと思います。
れを強化することによって、多元主義とはまったく反対
インターカルチュラリズムの定義に当たり、これはバ
の方向に持っていくこともあり得るのです。繰り返しに
ランスを求めるシステムだと申し上げました。また、マ
なりますが、バランス、均衡の追求という考え方の重要
ジョリティとマイノリティの関係の上に依拠したシステ
性をあらためて強調することによって、結びとしたいと
ムだとも申し上げました。
思います。
それから、インターカルチュラリズムというのは、相
ご清聴ありがとうございました。
対立するさまざまな条件、例えば権利や多元主義、同時
に社会学的な条件を仲裁、調停する機能があることを示
しました。社会が存続し、発展していくためには、然る
べき条件が必要です。たとえば、継続性の要素や、動員
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(本稿は、青山学院大学国際交流共同研究センターの文
責のもとに編集されたものです)