基調講演「インターカルチュラリズム」とは何か ─ケベック、そしてグローバルな観点から ジェラール・ブシャール 本シンポジウムに招へいいただき、皆様方に御礼申し上げます。 本日は、私の提唱するインターカルチュラリズムのモデルについて、できるだけわかり やすくお話したいと思います。これは、過去何十年もの間、ケベックで発展してきた概念 です。まず、ケベックでの経験をもとにインターカルチュラリズムについて概説し、その 後で、より広いグローバルな観点から、このモデルの他国への適用可能性について考えて みたいと思います。ヨーロッパや、そして、日本にも言及するつもりです。 さて、多元主義という、私たちの民主主義社会のガバナンスにおける哲学、考え方から 話を始めたいと思います。この多元主義という考え方は、第二次大戦時を機に生まれたも のです。当時、西洋は20世紀の数十年間にいかに残虐な行為があったかということを自覚 し、西洋の重要な理念である人道主義や権利の尊重といった教訓に立ち戻る必要性を意識 しました。そうした中で、西洋諸国の政府は自らの政策を見直し、差異の尊重に関心を向 けるようになり、やがて、それがさまざまな運動につながっていきます。今ではよく知ら れているように、先住民族の権利や、宗教や言語の差異、あるいは男女の差異などが承認 され、道理にかなった民主主義的な形で民族文化的な多様性に対応するためのモデルが求 められるようになります。 多元主義の考え方を体現し、根付かせるモデル、つまり方法はいくつかあります。マル チカルチュラリズム、つまり多文化主義はよく知られている一つの方法であり、また、イ ンターカルチュラリズムは、それとはまた少し違う方法です。 インターカルチュラリズムについての議論に入る前に、その前提として、私が称すると ころの大きなパラダイムについてお話したいと思います。多様性に対応するために発展し た、現在知られているモデルのほとんどは、こうしたパラダイムに根ざしています。 したがって、それらのパラダイムを確認することは、それぞれのモデルが根ざしている 状況を位置づけるとともに、各モデルがどのような目的とロジックに基づいているのかに ジェラール・ブシャール、ケベック大学シクチミ校教授 (本稿は、 2012年12月9日に開催された国際シンポジウム「多文化社会の課題と挑戦─イン ターカルチュラリズムの可能性」 (青山学院大学国際交流共同センター主催)における基調 講演(仏語)を、編集部の文責にて翻訳・編集したものである。) 3 ついて理解する上で意味があります。 多元主義をめぐる5つのパラダイム 現状からみると、5つのパラダイムを挙げることができると思います。第一は、多様性 のパラダイム、というものです。これは、一つのネイションが、法律や憲章で保護される 平等の権利を有した個人の集合体として定義され、その枠組みの中で個々人が自らの差異 を表現することができるというものです。 これからお話する他のパラダイムに比べた時に、この多様性のパラダイムの重要な特徴 として挙げておきたいのは、マジョリティの文化もしくは公式の文化の存在を認めること はまったく論外であるということです。つまり、文化的差異とは、それぞれの個人が私生 活の中で体験し、生みだしている、きわめて個人的なレベルのものに過ぎないわけです。 第二のパラダイムは、均質性のパラダイム、というもので、多様性のパラダイムとは正 反対なものといえるかもしれません。これは、ネイションを単一の文化によって定義する もので、ネイションは同じ伝統、同じ言語、同じシンボルという均質性に基づくべきだと されます。多くの国々でそういった状況が見られます。今は変わりつつあるかもしれませ んが、イタリアや韓国がそうです。ギリシャも、また日本もその例に入ります。日本につ いては後述します。それから、フランスなどの共和制も、実際には、少なくとも部分的に はこの均質性のパラダイムに属しています。というのも、現在のフランスが、民族文化的 な多様性の表現を公共の場でそれほど奨励していないからです。 第三のパラダイムは、二極性あるは多極性のパラダイム、と私が呼んでいるものです。 ここに入る国々では、例えば2つ、3つ、もしくは4つ以上でもよいのですが、昔から形 成されている文化的集団が存在し、それぞれの存在が憲法や憲章で認知されることによっ て、その存続や未来が保障され、他の文化集団による同化圧力の懸念がありません。例え ば、ベルギーやスイスは、かなりの程度忠実に、この多極性のモデルを具体化している国 だと思います。 第四は、混合性のパラダイム、と呼べるもので、特にアメリカ大陸で見受けられるもの です。当初存在していた多様性が、長期にわたるきわめて密度の高い文化接触や、混血な どにまかせて徐々に融合し、新しい文化を生み出していく。さまざまな文化が融合し、い ずれの文化とも異なる新たな文化が生まれるという、ラテンアメリカの国々でよく見られ るパターンです。特にメキシコがそうですし、アメリカ合衆国のよく知られているメル ティングポットも、まさしく混合性のパラダイムのモデルといえます。 そして、最後のモデルが二元性のパラダイムです。これはインターカルチュラリズムと 関わるので重要です。この二元性のパラダイムが形成されるのは、一つのネイションの中 に、民族文化的にマジョリティと複数のマイノリティという関係が存在している場合で 4 す。二元性のパラダイムは、多様性のパラダイムとは全く異なります。もちろん個人の権 利は保障されているのですが、これらのネイションでは、社会に深く根差したマジョリ ティの文化があり、そのまわりに複数の文化的マイノリティが存在しているという認識が 明確にあります。 ケベックとインターカルチュラリズム インターカルチュラリズムは、ケベックでは70年代から発展してきた考え方で、このモ デルは明らかに二元性のパラダイムに根ざしたものです。ケベックでは、文化的マジョリ ティの存在が強く認識されています。それはもちろん仏語系のマジョリティであり、以前 はフランス系カナダ人と呼ばれた人々のことです。ケベックにおいて文化的マジョリティ として目立ち、強固な存在になればなるほど、カナダ全体、そして北米大陸の枠組の中で はマイノリティとして、より強く意識されることになります。 こうした現実は、ケベックないしはケベック・ネイションがマジョリティとマイノリ ティという関係によって成り立っているという認識を、より強化します。マイノリティに は、周知のように先住民族やユダヤ系、ギリシャ系、イタリア系、中国系といった人々が 含まれます。 そして、インターカルチュラリズムの目的は、マジョリティとマイノリティとの二元的 な関係に、できる限り道理にかなった形で、また多元主義の目標に沿うやり方で、つまり 個人の権利と多様性を尊重すると同時に、マイノリティとマジョリティの集団としての権 利をも尊重しつつ対応することなのです。それがインターカルチュラリズムの基礎を成す 重要な特徴です。 インターカルチュラリズムの目的はまた、二元性の関係を和らげるということにもあり ます。二元性ということは、つまり「かれら」と「われわれ」という対立軸があるという ことです。そうした関係からどういうことが起こるのか、つまり、マイノリティを犠牲に したマジョリティの支配という関係が容易に招来されてしまうことを、わたしたちはよく 承知しています。 したがって、そういうことが起こらないように、そして、一人一人の権利がマイノリティ の権利も含めてきちんと擁護されるように見守ること、それも同様にインターカルチュラ リズムの目的となります。 ところで、この「かれら」と「われわれ」という二元性の関係をなくしていくこともイ ンターカルチュラリズムの目的ではないか、というように考える人もいるかもしれませ ん。しかし、これはさきほど申し上げたように、多元性という観点からみても、複雑な問 題です。なぜかというのは後ほどご説明したいと思います。 ここで留意すべき重要なことは、インターカルチュラリズムは二元性を生むわけではな 5 いし、また、二元性を奨励するわけでもない、しかし、二元性の関係が存在するところに 介入するということです。 二元性への認識は、社会やネイションでどのように現れてくるのでしょうか。それは、 一般的に、受け入れ社会あるいはマジョリティの不安感や危機感となって現れます。マイ ノリティ、あるいは移民に対してマジョリティが感じる不安感や危機感です。特にそのマ ジョリティ自身が広い社会の中で磐石な基盤を築いていない場合に、こうした危機感が生 まれやすいと言えます。このような文脈が二元性のパラダイムであり、インターカルチュ ラリズムに適した場となるわけです。 マジョリティの危機感は、さまざまなことから生じます。時には根拠がある場合もある でしょう。大量な移民の流入や、民族文化的マイノリティの存在感の高まりや、多様性の 増大といったことに、マジョリティが脅威を感じるということもあります。しかし、こう した不安や危機感は、しばしば現実には根拠がなかったりします。あるいは、マジョリティ 側が単に多元性を拒否する言い訳として、イデオロギー的な言説をあおっている場合もあ ります。 したがって、こうした二元性の状況を判断する際には、きわめて慎重になる必要があり ます。危機感には確かに根拠がある場合もあれば、つくられたもの、イデオロギー的な操 作によるものもあるからです。インターカルチュラリズムと二元性のパラダイムについて 論じる際には、こういった慎重さが何より大切なのです。 一般にマジョリティの不安感は、社会の価値観や言語、伝統の保護という名目で表現さ れます。多様性が増すことによって社会の均質性が損なわれるという言い方がなされます が、これは明らかに支配的な社会が保持したい独占や権力関係や特権が危うくなることへ の言外の抵抗である場合もあります。 重要なのは、多元主義が統治の方向性ないしは哲学として考慮されなければならないと いうことです。それを具体化する方法としてはいろいろな形があり得ます。繰り返しにな りますが、多文化主義もその一つですし、インターカルチュラリズムや、あるいは共和制 というものもあります。それらに関してさまざまな議論があり得るのは、ご存じのとおり です。 ケベックに話を戻しましょう。インターカルチュラリズムは、何より、多元主義がベー スになっています。インターカルチュラリズムの主なビジョンは、何より多元主義の理想 を体現するための試みです。それは、市民の平等の権利の尊重、多様性の尊重、何人をも 疎外しない、市民全体に開かれたネイションの定義、チャールズ・テイラーの表現による 「承認」の実践、移民に開かれた社会を意味します。また、マイノリティの文化が永続して いくための支援を、たとえば出身言語の教育やアコモデーション(調整)の実践を通じて 行うことを意味します。 このアコモデーションという言葉は、もしかしたらご存じない方もいらっしゃるかもし 6 れませんが、アメリカで60年代に生まれた権利です。カナダでも80年代に権利として広ま り、ケベックやカナダでもアメリカやヨーロッパと同様に、きわめて重要な概念となって います。ただ、国によってその位置づけや意味、法制化という点では同じというわけでは ありません。 これは、支配的集団の利益を考慮して制定された法律が、何らかの差異を有する個人に 差別をもたらすことによってマイノリティを疎外することがないように配慮し、合理的な 調整を図るというものです。したがって、アコモデーションの実践は多元主義の政策を構 成する要素です。それは、差別に対する戦いであり、社会保障サービス、さらには全ての 公的サービスへのアクセスや、アイデンティティの多様性を保障するものです。これらは 移民の統合への配慮としてケベックが試みてきたあらゆる施策の一部をなすものです。 マジョリティ自身がマイノリティでもあるケベックではとりわけ、社会の分裂やゲッ トー化への怖れがあります。そのため、分裂を回避するために社会の統合が必要となり、 また、ある種の共通の目標や、共通の価値観といったものが必要になります。やや混乱を 招くことになるかもしれませんが、それでも、インターカルチュラリズムでは、社会計画 を正当化する上で共有される価値というものを維持していくことが必要です。社会が機能 し、その永続性が保証され、共通の目的に向かって力を合わせ、改革を行っていくために は、共通のシンボルとなる基盤が必要になるわけです。そうでなければ、インターカルチュ ラリズムは機能しません。何か共通の目的を持って皆が力を合わせて行動する、そういっ たことが必要になってくるわけです。 共通の価値というのは重要であり、それは社会によって違いますが、ケベックの場合は たとえば男女平等という価値が重視されています。ケベックでは長い間、女性差別があっ たからです。あらゆる形の平等の概念も大変に尊重されており、これらは、すでに植民地 体制を克服し、平等や民主主義、個人の自由に向けて発展してきたケベックの現代史に根 ざした価値です。 多文化主義との違い 次に、インターカルチュラリズムが多文化主義とどのように違うのかについて、見てい きたいと思います。主な違いは、やはりこの二つのモデルが異なるパラダイムに依拠して いるということです。たとえば、カナダの多文化主義は、マジョリティの文化といったも のを認めていません。このことは英系カナダの現実を反映しています。そこでは、人口学 的にマジョリティを構成する文化が存在しないのです。英系カナダの社会をつくったイギ リス系の子孫は、現在の人口の30%でしかなく、かれら自身もマイノリティとなってし まっています。 多元性のパラダイムに該当するオーストラリアでも同様でしょうか。比較すべき数字を 7 持っておりませんが、アメリカ合衆国はどうでしょうか。 こういったことから、1971年にカナダが多文化主義の政策を導入したときに、ケベック はそこから距離を置きました。このモデルはケベックの現実に合わないし、自分たちによ りふさわしいモデルを推進すべきだと考えたからです。 その他にも、多文化主義とインターカルチュラリズムには多くの差異があります。例え ば統合に関して、英系カナダはケベックほどその緊要性や重要性を意識していません。ま た、英系カナダには言語に関する懸念もありません。必然的に移民は遅かれ早かれ英語を 習得するでしょう。かれらはアメリカ大陸にいるのですから。しかし、ケベックのフラン ス語の場合はまったく違います。アメリカ大陸では、フランス語は非常にマイナーな言語 だからです。 文化間の相互作用や共同のイニシアチブ、交流についても、ケベックではとても重要視 されていますが、英系カナダではそれほどでもありません。とはいえ、最近は英系カナダ でも新たな懸念が生まれており、連邦政府は異なる文化集団間の対話や交流を奨励するこ とを狙ったインターアクションというプログラムを計画しています。 ケベックでは、今まで述べたような状況が、インターカルチュラリズムという、マジョ リティとマイノリティの関係に対処する考え方を形成していったわけです。英系カナダが ケベックと違うのは、その民族文化的な現実が異なるからです。 共通の価値や統合という言葉は、さまざまな内容を含んでおり、ときには批判や論争を 呼ぶ概念でもあります。なぜなら、統合が同化と同一視されることがあるからです。しか し、ケベックでは必ずしもそうではありません。統合というのは、ある意味での共有のこ とです。それは経済的に移民やマイノリティを組み込み、雇用に参入させ、社会的ネット ワークにアクセスさせ、新たな社会で他の人々と同等に生活を営むことを可能にし、市民 として政治や公共論争への参加を可能にするという、つまるところ、社会にとっての義務 なのです。したがって、統合という考え方は、やはり確固とした正当性に依拠していると 私は思います。 これまで申し上げたことを要約いたしますと、インターカルチュラリズムとは、ある意 味で、バランス、均衡を追求することであると言えます。もちろんほかのモデルも総じて 同じことが言えるでしょう。民族文化的な多様性の管理とは常に、競合する要求や規範、 時には権利の間で仲裁を試みることだからです。例えば教会と国家の分離、つまり政教分 離は、社会に根強く定着している規範です。しかし同時に、自らの宗教を実践、表明する 権利もまた同様に基本的権利として認められており、これら二つの考え方が対峙すること もあり得るわけです。そこで、何らかの仲裁が必要となってきます。 その意味では、どのモデルでも基本はバランス、均衡を追求しているわけですが、イン ターカルチュラリズムの場合は、それがマジョリティ、マイノリティ関係の二元性のパラ ダイムに立脚していますので、とりわけ非常に微妙な仲裁、調定が求められることになり 8 ます。例えば権利の尊重と同時に社会統合への懸念をどう仲裁するのか、また、多様性の 尊重と同時に、社会の分裂を避けるための共通の文化に対する強い希求をどう仲裁するの か、といったこともあります。そして、憲章に明記された最も基本的な価値を損なうこと なく、アコモデーションを実践しなくてはなりません。さらに、文化的マイノリティの保 護および承認と同時に、マジョリティの保護も必要となってきます。例えばケベックの場 合は、マジョリティ自身がカナダ全体の中ではマイノリティでもあるからです。社会学的 な理由からも、やはり社会は継続しているという感覚が必要です。それは歴史に根差すも のであり、社会をつくってきたマジョリティの文化に負うものです。ただし、現在、そし て将来の究極的目的に関しては、当然ながらマジョリティだけでなく、全ての市民が平等 の立場から参加、発言する権利を持っています。 それから、ライシテ(脱宗教化、政教分離)の制度的概念に関しても、同じようなこと が言えると思います。インターカルチュラリズムの精神に即したライシテのあり方がある と思いますが、これは非常に複雑かつ論争的なテーマですので、ここでは立ち入らないこ とにいたします。しかし、大ざっぱに言ってしまうならば、インターカルチュラリズムは、 少なくともこの領域においても、競合する原則を、最重要なものを守るようなやり方で、 うまく調停していくのではないかと思います。 では、先ほど申し上げたことにもう一度戻りたいと思います。インターカルチュラリズ ムの最終的な目的というのは、そもそも「かれら」と「われわれ」という関係をなくし、 二元性から多様性のパラダイムに変えていくべきではないのか、という指摘についてで す。問題をややこしくしているのは、一見、多元主義はそういう状況に導くようでありな がら、他方で、同じ多元主義がそれを阻止しようとするからです。それは、マイノリティ のなかに、自らの人格やアイデンティティ、世界観、価値体系を保持するために、自らの 出自文化との絆を維持する必要性から、マイノリティとして生き続けることを選択する 人々がいるからです。こうした選択と自由は、多元主義の名のもとに尊重されるべきであ りますが、それを尊重するということは、文化的マイノリティが社会やネイションの中で 存在し続ける権利を持つということを意味します。 これはマジョリティについても、同じことが言えると思います。かれらも、自らの古い ルーツをナショナルな文化や社会を構成する文化といった、より広い定義と結び付けて自 己定義をすることができます。このように、多元主義が2つの相対立する目的に導いてい くものであることがおわかりになったと思います。私は先ほど述べたような理由で、民族 文化的なマイノリティを保護すべきだと考えています。 一方、多文化主義に目を転じてみると、興味深いことに、そこに共通する考え方という のは、各エスニック集団を保護するシステムであり、多くの人々が多文化主義について最 初に思いつくのは、エスニック集団です。多文化主義を採択した社会では、その社会自体 がエスニック集団のモザイクとなっているわけです。 9 ところが、カナダ多文化主義の理論家であるチャールズ・テイラーやジェイムス・タ リーやウィル・キムリッカなどによると、全くそういう考えではないのです。何より重要 なのは、リベラルな個人主義であるとされます。多文化主義というのは個人の権利を基盤 にしています。そして、個々人が、自らの出自の文化や伝統、仲間に依拠しながら自己を 維持する必要を感じているのであれば、その権利を尊重すべきだという考え方です。多文 化主義がエスニック集団を保護するのは、そういう理由です。出発点となる考え方は、リ ベラルな個人主義なのです。これは逆説的ではないか、矛盾するのではないか、と思う方 もいらっしゃるかもしれません。 インターカルチュラリズムとヨーロッパ さて、ケベックを越えてグローバルな視点からみると、インターカルチュラリズムには どのような可能性があるのでしょうか。 まず、ヨーロッパについてですが、現在、大きな変化の途上にあると言えます。ヨーロッ パ諸国のなかには、多文化主義を実際に試みてみたけれども、目指すべきものとは違うか もしれないと気づき始めている国があります。また、多文化主義を試みたことがなく、何 らかの形で移民が入ってくるという事態に直面して、社会の一部の空間が硬直化している ところもあります。そういった社会では、移民の人たちが社会に溶け込めずに、マジョリ ティ対マイノリティという二元的な状況になってきています。 とりわけ、ムスリムの存在によって、ヨーロッパのいくつかの国々は、私が二元性のパ ラダイムと呼んでいる方向に向かいつつあります。「かれら」と「われわれ」関係の構図が 顕在化し、マジョリティ対マイノリティの対立軸がますます顕著となってきています。 そのような状況では、すでに私が挙げたような理由で、多文化主義は明らかに適さず、 インターカルチュラリズムがうまく機能する可能性が高いでしょう。気をつけなければな らないのは、あたかも多文化主義を試みたけれども、期待した成果を得られなかったかの ように、多文化主義を放棄しようとしている国があることです。しかも、それを口実とし て、多元主義そのものを放棄しようとしているのです。フランスのサルコジ大統領は、あ たかもずっと多文化主義をやってきたにもかかわらず、うまくいかなかったかのような結 論を出しましたが、あまり信用できません。ドイツのメルケル首相にしても、同様に、ま るでドイツがこれまで多文化主義にしっかり取り組んできたかのように、多文化主義の失 敗宣言をしましたが、私にはそうとは思えません。 いずれにしましても、ヨーロッパ諸国ではマジョリティ対マイノリティという関係性の 構図が認識されるようなっています。この関係を仲裁し、また、マジョリティによるマイ ノリティ支配によって、民族主義や経済・社会的支配、疎外が生じるような状況を避ける ためにこそ、まさしくインターカルチュラリズムが有効なのです。 10 ヨーロッパでは欧州評議会のイニシアチブのもとに2007年と2008年に、47のメンバー諸 国に対して大々的な調査が行われました。それは、欧州評議会としてどのようなモデルが 理想的であり、どのような哲学のもとで、どういうモデルを推進すべきか、という調査で した。そして、驚いたことに、1年後、47カ国が全会一致で合意書に署名をしました。 その合意というのは3点あり、いろいろな意味で興味深いのですが、まず、多文化主義 は社会の分裂を招く危険が大き過ぎるので、これを放棄するということ、次に、共和国モ デルも、こちらは同化の危険が大きすぎるので放棄する、というものです。そして、中間 的な方法がよいということになりました。そのようなバランスのとれた概念としての中間 的なモデルこそが、インターカルチュラリズムなのです。 加えて、多様性に配慮した多文化主義における大事な要素は取り入れるということにな りました。また、権利に敏感な共和主義からも取り入れるべき要素はあるということにな りました。このように、それぞれのよいところは取り入れつつ、しかし、新たな方法とし てインターカルチュラリズムを全面的に尊重すべきだということになったわけです。この ことは、インターカルチュラリズムがヨーロッパの枠組みにおいて公式化されたことを示 していると思います。 日本の選択とは 最後に日本について言及したいと思います。それは、今日の日本があらゆる意味で、き わめて興味深い社会だからです。日本の専門家の方たちがいらっしゃる前ではあります が、私見を述べさせていただきます。 日本はこれから30年、40年間の間に人口が30%減少すると言われています。つまり人口 の3分の1が減るということです。その原因は、きわめて低い出生率と婚姻率によるもの です。結婚しても子供を産まないというだけではなくて、結婚そのものが減っているので す。 そのような中で、日本はどういう道に進むべきでしょうか。人口が3分の1も減ってし まうというのは、社会的、経済的に悲劇的な状況であり、前例もなく、社会は成すすべの ない混乱状況にあるといえます。 では、どういう対策が必要なのでしょうか。第一の可能性は、人口減少への対策を諦め て、経済的にも政治的にも弱い国になるということを、甘んじて受け入れるというもので す。第二は、女性がもっと子供を産むように策を講じる、というものです。しかし、これ はあまり望みはなさそうだし、実現性も乏しいと言われています。そこで、最後に残され た可能性が、移民に頼るというものです。しかし、日本が移民に門戸を広く開放すると、 そこに別の問題が生じます。伝統的に、日本のアイデンティティは、均質性に基づいて形 成されてきました。その均質性には、集団としての価値や美徳、純粋性、例外主義などが 11 結び付いています。均質性ゆえに、日本は、アジアでも世界全体においても特殊な社会で あるとみなされています。 したがって、均質なアイデンティティを放棄することには、大きな抵抗があるでしょう。 増大する多様性に対応するために、均質性を犠牲にし、これまでとは異なるやり方でネイ ションを再定義するといったことへの抵抗です。 私は個人的に、国家の神話の危機について研究をしておりますので、この問題には大変 関心を持っております。何らかの挑戦によって危機に直面した国家は、みずからの国家的 神話の一部を放棄し、あらゆる抵抗や緊張のなかで、神話の再定義を迫られることになり ます。日本でもそうなるでしょう。 さて、日本について、どのような予測ができるでしょうか。おそらく、あらゆる国がそ うであるように、日本には選択の余地はないと思います。日本は、人手不足を補うために 期間を限定して、徐々に移民労働力に対して門戸を広げていくべきでしょう。しかし、門 戸はますます開かれ、期限は延び、一時滞在の労働者が定住していくことは避けられませ ん。そのときに、移民労働者のステータスを十全たる市民に変えていかなければならない という、挑戦を突き付けられるわけです。 もちろんそれは先の話かもしれませんが、それほど長い猶予期間があるわけではないで しょう。ただ、私としてもこれから日本がどのような選択をしていくのか、興味深く見守っ ていきたいと思っております。 果たして、日本は多文化主義に向かうのでしょうか。私はそうは思いません。現在の日 本の状況を考えますと、やはり多様性のパラダイムにはならないでしょう。マジョリティ の文化やアイデンティティのルーツを考慮に入れない多様性のパラダイムは、日本では難 しいでしょう。そして、完全に個人だけをベースとした社会の運営というのも、向かない でしょう。個人主義に基づく共和主義モデルもありますが、これはまた別のシナリオだと 思います。 いずれにしろ、日本がこのような文脈のなかで、また、比較的短期間の猶予のなかで、 どのような選択をしていくのか、大変関心を持っております。 最後に結論として、次のことを強調させていただきたいと思います。 インターカルチュラリズムの定義に当たり、これはバランスを求めるシステムだと申し 上げました。また、マジョリティとマイノリティの関係の上に依拠したシステムだとも申 し上げました。 それから、インターカルチュラリズムというのは、相対立するさまざまな条件、例えば 権利や多元主義、同時に社会学的な条件を仲裁、調停する機能があることを示しました。 社会が存続し、発展していくためには、然るべき条件が必要です。たとえば、継続性の要 素や、動員力などです。社会が大きなトラウマや危機に打ちのめされた際には、それに断 12 固として立ち向かう能力が求められます。 まさに日本は、そうした教訓を示してくれたと思います。津波被害の後、結束やアイデ ンティティ、連帯感といった、日本の歴史に由来するさまざまな要素に訴えかけることに よって、みごとな連帯力を発揮しました。そういった力が社会には求められます。同時に、 今後、ますます多様性が増していくなかで、その力を、社会が多元主義的な方向性に向か うのを押しとどめるために使うべきではないでしょう。 今日申し上げたさまざまな概念は、多元主義とは異なる目的のために使うこともできま す。社会統合という概念によって、全く別のことを目論むこともできるのです。社会統合 といったときには、社会が機能していくための最小限のきずなを構築することを意味する のですが、それを強化することによって、多元主義とはまったく反対の方向に持っていく こともあり得るのです。繰り返しになりますが、バランス、均衡の追求という考え方の重 要性をあらためて強調することによって、結びとしたいと思います。 ご清聴ありがとうございました。 13
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