音楽食堂 in 大山児童センター 『いまの歌・むかしの歌』サックス・ギターコンサート ギターの本村さん・サックスの田港さん 大山児童センターの元気なおともだち 9月 28 日の午後 4 時より、大山児童センター において市政施行 50 周年を記念して『今の歌・ 昔の歌』と題し、田港朝正さん・本村隆さんに よるサックス・ギターコンサートを開催しまし た。戦前・米軍統治下のジャズや、最近はやり の JPOP・KPOP・沖縄ポップスのヒットソン グの演奏が行われました。子供たちにはあまり なじみのないジャズ音楽ですが、サックスとギ ターのここちよい音色が会場に響き渡り、たの 田港朝正さん しく聴いてくれました。また音楽に合わせて戦 前・米軍統治下の多くの写真映写をしました。 田港さん・本村さんありがとうございました。みんなで記念撮影 本村隆さん 音楽写真館 ~ライブで演奏された音楽と写真映像(一部)・ざっくりすぎる音楽史~ 昭和13年ごろの普天満宮境内 昭和7年ごろの家族写真 鈴懸の径(昭和 17 年)“すずかけのみち”は佐伯孝夫・灰田晴彦両氏による昭和 17 年に日本で作曲さ れたジャズ音楽の草分け的な楽曲といわれる。マイナーコード進行であるが、軽快かつムーディーな旋律 であり、戦時下の音楽とは思えない。 *すべての写真資料は宜野湾市史別冊『写真集ぎのわん』より 野嵩収容所のこどもたち(昭和21年) 米企業の社員食堂で働く人々 戦後復興期の瓦葺家の建築(大山昭和 24 年) 米軍基地内での仕事 ベビーシッター A 列車で行こう(1941)take the“A”train デューク・エリントン楽団の演奏で知られるスウィング ジャズのスタンダードナンバー。いわゆるダンスミュージックで、戦中・戦後の米軍ダンスホールの定番。 米軍統治下の沖縄では、将校クラブなどでのビックバンドスタイルのジャズ演奏のため、多くのジャズミ ュージシャンが誕生した。今回ライブの田里さん・本村さんもキャンプ内で演奏していたそうです。 音楽写真館 当時のイケてる若者たち(1960 年 S35 年頃) みんなの憧れバーテンダー(1957 年 S32 年頃) テイクファイブ(1959) TAKE FIVE はデイブ・ブルーベックカルテトの作品で、今も多くのミ ュージシャンにより演奏されているモダンジャズの名作。“踊るジャズ”から“聴くジャズ”へ。 数十年前に、栄養ドリンクの CM“24時間戦えますか”でおなじみのスタンダードナンバー。 米軍客対象の商売が盛んであった(1969 年頃) ジミーズベーカリー(1965 年 S40 頃) 英字看板が連立する国道 58 号線 A サインバーの看板 ビタースイートサンバ(1965) bitter sweet samba はハーブ・アルバートによる作品。50 年代以 降、ジャズとラテン音楽との融合が試みられ、サンバ、マンボ、ボサノバアレンジのヒット曲が多く 生まれた。ビタースウィートサンバは深夜ラジオ「オールナイトニッポン」のテーマ曲としておなじみ。 音楽写真館 市民生活と背中合わせ 普天間市場 1969 年 キング牧師暗殺による追悼行進 1972 年 ヘイ・ジュード(1968) ビートルズ。50 年代以降の米ロックンロールの誕生から多くの音楽ジャン ルが発展する。UK ロック界からはビートルズが誕生する。以降、時代はジャズからロックへ移行する。 ベトナム戦争の激化により、音楽と反戦運動、ヒッピーカルチャーなど若者文化に影響を与える。 沖縄では米軍相手のハードロックの全盛期で沖縄ロックの伝説的なミュージシャンが多く誕生した。 基地内立ち入り禁止のパネル 民間地を行進する兵士(1955 年 S30年頃) 普天間飛行場ヘリコプター駐機 1975 年 S50 年 琉米親善のクリスマスが多く行われた 1967 年 オーシャンゼリゼ(1969) フレンチ・ポップの名曲だが、原曲は UK ロック。フランス語の歌詞をつ けたことで大ヒットした。フレンチポップは 60~70 年代にかけて世界的に流行した。メディアの進歩 と共に音楽の多様化が進み、音楽産業として発展していく。沖縄では沖縄的雰囲気の沖縄ポップスが多く 作られるようになり、全国的ヒット曲も生まれる。現在の沖縄ミュージックの先駆けである。
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