歴史的なすまいとその環境―メガ都市空間の過去→現在 Mumbai Cairo 1534年 漁村の散在する島々がグジャラートの領主からポルトガルへ移譲される。 ポルトガル式タウンハウスの形成 1661年 ポルトガルからイギリスに島々が移譲され、ボンベイと呼ばれるようになる。 1668年 ボンベイはイギリス東インド会社(EIC)へ貸与される。 1687年 ボンベイはインド亜大陸西海岸におけるEICの拠点として、ボンベイ管区を 管轄する管区都市となった。綿製品取引の世界的中心であった北方のスーラト、カ ンベイ湾からの在地商人の移住があった。 1707年 ムガル朝第6代皇帝アウラングゼーブ没 亜大陸各地で地方小王国が台頭し、ムガル朝は縮小再編へ向かう。 1708年 デカン高原でマラーター同盟が結成され、ムガル朝との戦争の時代がはじ まる。 1715年 内陸部での政情の不安定化に対応して、市街を城壁で囲んだ城塞が形成 される。 1765年 プラッシー、ブクサールの戦いの後、EICはムガル朝からベンガル、オリッサ 、ビハールの租税徴収権を得てインドの地方領主となる。 1769年 城塞の北側にジョージ要塞が建設されEIC軍の拠点となる。 1772年 城塞の周囲にエスプラネード(砲撃用空地)が整備される。 1777-1783年 第一次マラーター戦争 1783年-1845年 ボンベイの7つの島を一体とする大規模埋立て工事がおこなわれる 。市街の北への拡張がはじまる。 1787年 建設委員会設立 1803年 大火により城塞内の市街が焼失する。 市街再建、イギリス式タウンハウスの形成 1806年 埋立地に街路が引かれ、非ヨーロッパ系の新市街(ネイティブタウン)が造 成される。 非ヨーロッパ系居住者の店舗複合住居チョールの形成、郊外にバンガローの建設 1817-1818年 第三次マラーター戦争 マラーター同盟の解体、デカン高原がボンベイ管区に編入される。インド 亜大陸の大部分はEICの支配地域、影響の及ぶ範囲となった。デカン高原からの商 人の移住とともに、ボンベイは海域、陸域の貿易ネットワークを結ぶ結節点となる。 1837年 ボンベイ―スエズ間の定期蒸気船航路の開設 1853年 ボンベイ―プネー間の鉄道が敷設される。亜大陸を覆う鉄道網整備のはじ まり。郊外での綿紡績工場の建設と、その周辺への工場労働者用のチョールの形成 1855年 城塞の城壁の解体がはじまる。 跡地にボンベイ市、ボンベイ管区の官庁施設や公共施設、事務所の集中する新たな 都市核が形成される。ゴシック様式、インドサラセン様式など様式建築の導入 1861-1865年 アメリカ南北戦争 アメリカに代わり、ボンベイがイギリスへの綿花の主要輸出元となる。 1869年 スエズ運河開通 1898年 ボンベイ・インプルーブメント・トラスト設立。労働者住居改善をうたった改良 チョールの建設 1913年 NGO、ボンベイコーポラティブ住宅協会設立。コーポラティブ住宅の建設 1915年 イギリスからの都市計画法の導入 1929年 バックベイの一部埋立て完了。埋立地への1930年代をつうじた鉄筋コンクリ ート造(RC造)の中層ビル・アパートの建設 1947年 インド共和国誕生 1947年- インドの経済中心都市ボンベイへの人々の移入 ゾーパットパッティ(ZP)の形成、市街周辺の村々の高密化、低層公共住宅の 建設、高層ビル・アパートの建設、バンガローおよび工場跡地の建替え 1969年 インドコーポラティブ住宅連合設立 コーポラティブ住宅建設の活性化 1991年 経済自由化。高層および超高層のビル・アパートの建設が盛んとなる。 ZPの建替えによる、高層、超高層のビル・アパート、中層コーポラティブ住宅 の抱きあわせでの建設 1798年ナポレオンのエジプト遠征、イスベキーヤ湖近くに司令部 1800年20万人Cairo 1801年フランス軍退却 1805年ムハンマド・アリーがエジプト総督、通年式灌漑へ 1854年―63年サイードパシャ、スエズ運河開発、近代欧化政策 1863年―79年イスマーイール・パシャ、英領下で副王に 低層中密/新市街/アパルトマン 低層低密/マーディ/ヴィッラ 中層中密/中層集合住宅/ヘルワン 1900年60万人Cairo 1920年87万5000人Cairo 1930年115万人Cairo 中層中密/新市街/アパルトマン 1905年ヘリオポリスプロジェクト 中層中密/新市街/アパルトマン 低層低密/マーディ/ヴィッラ 1920年代 al-'Abbasiyaの砂漠住宅都市開発、ヘルワン開発 1945年Imbaraの1100戸の低所得者住宅建設 低層高密/労働者住宅 1940年152万5000人Cairo 1947年301万3000人1950年235万人Cairo 1940年代 ブーラーク周辺にスラムの形成 1952年ナーセルのクーデター、農地改革、アラブ社会主義、借地規制法 1956年カイロマスタープラン作成Medinat Nasr(北東部への伸長) 1958年借地規制法 1950年代~60年代前半 公共住宅建設、Nasr City等 中層公共住宅/ナスル・シティ 低層公共住宅/低所得者層 1960年カイロマスタープラン作成El-Mohamedesin;ギザの西 1960年491万人、478万4000人Cairo 1961年、62年借地規制法 1960年代;カイロ、ナイル川下流の耕地のインフォーマルセクターによる開発 中層高密アパート/旧農地/IS 中層高密アパート/旧村/IS 1965年Nasr City建設、砂漠の開発=砂漠のインフォーマルセクター 1966年622万1000人 1967~73年戦争のため、公共住宅建設下火 中層高密アパート/旧市街老朽化/IS 中層高密アパート/砂漠/IS 1970年サーダート、経済自由化 1974年自由貿易政策。耕地の不法開発の激化 私企業による高利益をあげる高級住宅開発。中流住宅開発に参入する企業は僅か 中層ビル/高級住宅 低層個人住宅 さまざまなタイプを含む新砂漠開発 中層高密アパート/砂漠/IS 1976年809万人、677万6000人Cairo 1978年耕地の不法開発禁止令 1979年新共同体法;新都市開発、エジプト内に39の新都市開発へ 1981年ムバーラク、私企業の開発を政府が援助、カイロ周辺の国営地の安価での 売却 カイロ周辺にGated Communityの登場 1986年1086万人、951万4000人Cairo 中層~高層ビル/中流住宅 1990年代低所得者層公共住宅開発(1950年代からの継続) 1982-2005年126万戸、年平均54.700戸 1996年1314万4000人 超高層ビル/高級住宅 Villa、Gated Community/高級住宅 2005年ムバラクが6年に500000戸建設を公約、しかし実行されず。 2012年ムバラクの失脚、ムスリム同胞団からムルシ大統領 2013年ムルシ大統領の失脚、混沌の時代へ 低層・高密 低層・低密 低層・超高密 中層・中密 インド亜大陸西岸に位置するインドの経済中心ムンバイは、アラ ビア海に面する漁村の散在する島々であった。島々は地方領主 からポルトガルへ、次いでイギリスに移譲された。17世紀後半に、 海路での貿易と在地支配者からの干渉の回避に適した島に港町 が建設され、18世紀末からイギリスがインド亜大陸の統治をはじ めると、島々の間を埋立てながら陸地の方向である北へ市街は 拡張した。 都市拡大の経緯を反映し、ムンバイは5つの大きな居住環境か らなる。市街中心部は18世紀末以降に形成された切妻屋根のイ ギリス式タウンハウス、チョールと呼ばれるインド系商人の店舗複 合住居を中心とする①低層高密の居住地が位置する。 その北は19世紀中頃から形成された工場の跡地や労働者用の 改良チョールが混在し、②低層低密の居住地が斑に拡がる。20世 紀にはムンバイはインド最大の商工業都市であり、富裕層向けに 1930年代から鉄筋コンクリート造の中層ビル・アパートが建設され た(④中層中密の居住地)。 1947年の国民国家インドの発足後、各地から多数の人々が移 入して市街地は急速に拡大し、1つにはゾーパットパッティ(ZP)と 呼ばれる③超高密低層の居住地が形成された。既存の村や市街 地の際に形成され南北の細長い帯をなす。面積的には狭いZPに 全都市人口の約半数が住む。 北方と対岸に拡がった新市街には、経済的活況と土地の希少 性から引続き中層のビル・アパートが形成され、市街地面積の大 部分を占めるに至った。 市街中心部に近い海岸沿いは富裕層の⑤高層・超高層ビル・ア パートが集中する。1990年代からの急速な経済成長以降、バンガ ロー、ZP、工場跡地からこの居住環境への建替えが勢いを増して いる。①低層高密の居住環境は、中層化の進んでいない市街北 東部でも見られる。 低層・低密-高密 中低層・中密 (伝統的住居) 中高層・中低密 ナイルの河岸段丘上の砂漠には現代技術導入によって富裕層 の住宅開発が進む。一方、ナイル流域の扇状地には田畑の敷地 割りをそのままにインフォーマルな開発によって都市が広がり、農 村からの移民を受け入れる。両者の格差を象徴するかのような大 カイロは、古代エジプト都市ギザをも飲み込み、長大な歴史の積 層が集約する。 カイロはフォーマル・シティーとインフォーマル・シティーに区分さ れる。フォーマル・シティーは、1950年以前に都市化が進んだ土地 と、その後に公的に開発された地域である。一方、インフォーマル ・シティーは1960年代以後、カイロの急激な人口増加を受け止め るために、農地や砂漠へのがけ地などに造られていった低所得者 層の住宅地である。インフォーマル・シティーには、ほとんど緑地 や空地のない高密な立地の集合住宅が建てられる。多くは敷地 面積100㎡程度と集合住宅としては小さく、各戸の床面積は20か ら50㎡で、5層以上の高さを持つ。加えて、コンクリートの梁柱の間 に煉瓦を詰めた廉価な方式で、上階へと増築が進んでいく。 フォーマル・シティーでは、所得階層ごとに様々な仕様をもつ中 高層の集合住宅が主流である。限られた富裕者層用には、低層 の独立住居が人気である。 歴史的にみれば、1300有余年の歴史を持つカイロには、富裕者 層から中間層の住む中層中庭式住居、中間層用の中層集合住 宅(ラブア)、貧民層の墓地内の低層住居などの形式が存在した。 そこに19世紀にフランスやイギリスから新しい住まい方としてのア パルトマンやヴィッラが導入される。20世紀になるとイギリス指導 のもと、砂漠への開発路線が敷かれる。1950年以後、ナーセル、 サーダート、ムバラクのもとで、インフォーマルな開発が進むと同 時に、メガシティとなったカイロを支えるため、インフォーマル・シテ ィーが必須な存在となっていく。 黒:中低層・中密 (伝統的住居) 緑:低層・低密-高密 中高層・中低密 赤:高層・高密 高層・高密 高層-超高層・中密
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