も のづくりの 心 解体によって胎内に刻まれた自身の名前が明らかとなる 「そ の時」である。 それゆえに決して「死に恥をさらすような仕事を 村田 岱觀 してはいけない。」それが佛師として最も大事な姿勢であると 〜随想「天職の道を歩んで」〜 岱觀は語る。 村田岱觀の眼には「求道者」 としての柔軟にして堅固な意 修復はもとより、新たな御佛をお迎えする事も佛師の使命 思が宿る。佛師、 それは一般の彫刻家とは大きく異なり、人々 であるが、寺院や一部の強信者が必要とする礼拝の対象とし の信仰の対象や心の拠り所となるものを具現化する事が天 ての佛像制作にばかり従事しているわけではない。むしろ誰 命。 それ故に当然の事なのであろう。 しもが必ず抱えている感情「祈り」 「願い」 「救われたい」 「癒 佛像を制作する上での心得として「無心になって」 というよ されたい」 そうした個々の思いに寄り添い、 その御姿を余すと うな事がよく言われるが、岱觀は彫り始める前に、 ありとあらゆ ころなく作品で顕したいと切願している。 る事を考え込み、一切の不要なものを削ぎ落として木に向か 磨き抜かれた深い表現技術と、築き上げられた独特の感 う。 そして静かに心の眼を開き御佛の姿が鮮やかに見えてく 性によって創り出される岱觀の作品は、躍動感と繊細美を兼 る その一刹那に持てる力の全てを傾注し、制作を開始する。 ね備え、拝する人々を魅了して止まない。 まさしく 「佛に導かれるが如く」である。岱觀の中には何時から か、 これが「天職」であるとの確信が生まれた。 しかし長い歴史の中で佛像彫刻に携わってきた多くの先人 がそうであるように、 その存命中に自身の作品を評価され、世 間に名を馳せる事は実に稀な事である。佛師が、 その才能や 技量の真価を問われるのは、何百年・何千年という時を経て、 様々な要因で風化・劣化を伴った御佛が修復の時期を迎え、 強調する祝祭空間を創出した。 お祭り広場では各国のナショ 大和田 昌 ナルデー・スペシャルデーなど国際性豊かで多彩な催しが連日 繰り広げられた。 「大阪万博跡地・千里丘陵」 日本中を熱狂させた大阪万博は多くの人々に未来への夢 戦後アジアでかつ日本ではじめて開催された国際博覧会、 を繋ぎながら幕を閉じたが、 この博覧会が日本社会や今日の 大阪万博(正式名称 日本万国博覧会・EXPO70)は1970年 私たちの生活に及ぼした影響はじつに大きい。万博終了後、 3月14日〜9月13日の183日間、大阪千里丘陵で開催された。 会場跡地は公園として再整備され、1972年に万博記念公園 テーマ“人類の進歩と調和”の基に79カ国が参加し、会期中 として開園、第一期にエキスポランド・自然文化園・日本庭園・ 6420万人を超える万国博史上最高の入場者数を記録した。 大阪日本民族館が公開され、 その後、 自然文化園が三期に分 会場となったのは大阪市内から約15㎞北方の大阪府吹田 けて整備されて国立民族 市の千里丘陵、赤土と竹藪で覆われた330万㎡の広大な敷 博物館が開設された。現 地を整地し、 そこに最先端技術を駆使した博覧会諸施設やパ 在、万博公園では緑豊か ビリオンの建設が行われた。会場の総合設計は建築家の丹 な森の再生への取り組み 下健三氏が行い、他に日本の若手建築家・都市計画家グルー がなされている。博覧会の プの黒川紀章氏・菊竹清訓氏などが加わり博覧会の会期中 開催で剥ぎ取られた森の だけの未来都市空間を出現させた。 跡地に盛土を行い、大規 万博のテーマ展示は総合プロデューサーで芸術家の岡本 模な自然林の復元を目的 太郎氏が指揮を取り、会場中央のお祭り広場に高さ70メート とした自立した森づくりが ルの“太陽の塔” を設置して、博覧会が祭りの場であることを 行われている。 -11-
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