年間第 6 主日(Lectio Divina B 年) 2 月 15 日 年間第 6 主日 清くなれ マルコによる福音書 1 章 40 〜 45 節 40 さて、重い皮膚病を患っている人が、イエスのところに来てひざまずいて願い、「御心ならば、 わたしを清くすることがおできになります」と言った。41 イエスが深く憐れんで、手を差し伸べてそ の人に触れ、「よろしい。清くなれ」と言われると、42 たちまち重い皮膚病は去り、その人は清くな った。43 イエスはすぐにその人を立ち去らせようとし、厳しく注意して、44 言われた。「だれにも、 何も話さないように気をつけなさい。ただ、行って祭司に体を見せ、モーセが定めたものを清めのた めに献げて、人々に証明しなさい。」45 しかし、彼はそこを立ち去ると、大いにこの出来事を人々に 告げ、言い広め始めた。それで、イエスはもはや公然と町に入ることができず、町の外の人のいない 所におられた。それでも、人々は四方からイエスのところに集まって来た。 他の朗読:レビ記 13:1, 2, 44 〜 46 詩編 32:1, 2, 5, 11 Ⅰコリント 10:31 〜 11:1 Lectio …読む 重い皮膚病は今日では治癒できるものかもしれませんが、イエスの時代には薬も治療法もないとさ れ、重い皮膚病を患うことは、終身刑を受けることに等しいものでした。 体に重い皮膚病の兆候が現れると、伝染を恐れられ、家族からも友人からも、家や仕事からも追放 されました。彼らは隔離された場所に住まわされ、この社会的疎外は患者やその家族を深く苦しませ たのです。 重い皮膚病になった人たちは、律法の上で汚れたものとされ、もはや神殿や会堂での宗教儀式に参 加することもできませんでした。家族や社会にとってはもはや死んだも同然だったのです。唯一、 「病 気が去った」という祭司の宣言だけが共同体に戻ることを可能にするのです。 イエスが、意図的にこの男に近づいたかどうか、私たちには分かりません。彼らは出会ったとき、 二人きりだったようです。患者は感動的な嘆願によって信仰を表しました。「御心ならば、わたしを 清くすることがおできになります」と。 イエスはためらいませんでした。彼に触れながら「清くなれ」と言ったのです。たちまち男は癒さ れました。ユダヤ教の信仰に従い、モーセの律法に定めてある通り(レビ 14 章 2 〜 32 節)、祭司に 体を見せるように男に言いました。そして、この癒しのことは誰にも言わないように忠告します。 しかし、この男は自分を抑えることができず、イエスの忠告を無視して、自分の癒しの出来事を皆 に話してしまいました。その結果、イエスを探して群衆が押し寄せてきたので、イエスはもはや公然 と町に入れず、郊外に留まらなければならなくなってしまいました。 Meditatio …黙想する この男は信仰があり、奇跡的な癒しを受けましたが、イエスの言いつけを守れませんでした。何故 だと思いますか。 この中で、イエスはこの重い皮膚病の男にも、私たちにも伝えたいメッセージを持っています。そ れは何であると思いますか。 重い皮膚病についての記述はすべて、患者は追放者となることを表しています。他の人が近づけば 「汚れている」と叫ばなければならないほど、社会ののけ者にされていました。私たちの教会や町に いる「のけ者」にされた人々の叫びや必要に、あなたはどのように応えますか。 年間第 6 主日(Lectio Divina B 年) Oratio …祈る 重い皮膚病の男は不可能と思われることでも願うことを恐れませんでした。信仰が彼をイエスに向 かわせたのです。ルカ 1 章 37 節には「神にできないことは何一つない」と書かれています。この言 葉を何度か繰り返してみましょう。あなたの信仰を増してくださるように神に願いましょう。 イエスは深い憐れみに動かされて御業を行いました。困っている人々にどう応えるべきか示してく ださるよう、神に願いましょう。 Contemplatio …観想する 第一朗読は皮膚病についての規定がつづられています(レビ記 13 章 1、2、44 〜 46 節)。 「重い皮膚病」 を患った人々の行く末はとても厳しいものです。素朴な祈りと行いの伴った信仰が、この男をイエス に導きました。あなたの信仰を行いにのせるためにはどうしたらいいでしょうか。 第二朗読(Ⅰコリント 10 章 31 節〜 11 章 1 節)の中で、パウロは私たちがキリストに倣う者とな るように勧めています。それは、異なる信仰を持っている人々がイエスに出会うことが出来るように、 その人々のことを心にかけるということです。
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