先生 死ソデ下サイ 文学ノタメニ 私モ 死ニマス 大イナル戦争ノタメニ l 戸 石 泰 一 ︵三田循司・太宰治宛の手枕︶ 三田循司は、一九四三年五月、アッツ島に於て戦死した。 彼は、私の一級上、仙台の高等学校で知りあったので も、しかたなさそうに、ニヤヮとしていた。 も軽く﹂という歌を、くりかえし合唱した。■ 店の女の子の音頭で、三田の好きな﹁青い背広で、心 ある。あの頃、私達はよく ﹁純粋﹂ という言葉をロに し、それが凡てを律する規範であったのだが、私にとっ ﹁いいなあ、もう一度﹂ その皮に、三田は感にたえたような声をだした。 て、三田は、﹁純粋﹂の同義語のような男であった。 鉢のひらいたいがぐり顔、ややずり落ち気味の鉄ぶち 口々にそんなことを云い合いながら、上野駅の改札口 で別れた。 ﹁とにかく頑張ろうよ。また東京に集って飲むさ﹂ 眼鏡の底に光る彼の大きな眼にあうと、私はいつも自分 の軽薄さを思い知らされる気になった。 戦争が始まったのは、三田が大学三年乳十二月であ 見送り人は、そこから中に入れないことになってい 2 と、ポストソバックをふりまわしていた。 ﹁おーい﹂ 手をふつて応ずると、三田は、もうl度、 ﹁おーい、頑張れ﹂ と、のぶとい声をはりあげてよこした。 ﹁おーい、頑張れようツ﹂ ると た。プラットホームの中頃で、三田はこちらをふりかえ る。三田たちのクナスは修業年限が短縮され、その十二 月に繰り上げ卒業ということになっていたが、卒業と同 時に臨時徴兵検査があり、殆んど全員徴集されるだろう ということであった。 最後の口述試験が終って、私達は行きつけの、本郷通 り﹁藤村﹂の横を入ったところにある﹁シスター﹂とい う店で、三田の送別会をした。 ﹁賀茂頁淵って、どんな本書いたんだ?﹂ ﹁何だ、そいつを聞かれたのか、何て答えたんだい9・﹂ ﹁黙って七。そしたら、鹿会にお出になったらお困りに なりますよ。よく御勉強下さいッて云われた﹂ ﹁社会にお出になったら﹂という教授の感覚と、ムツツ アサユーシャソ作戦は、ミッドウェイ攻略の支作戦と ジおし黙った云わは﹁朴実純粋﹂な三田との対比の場面 が 、 む し ょ う に お か し く 、 ゲ ラ ゲ ラ 笑 い だ す と 、 三 田 して、一九四二年六月、海軍第五艦隊司令長官︵中将細 萱戌一郎︶据樺の下に行われた。 独立歩兵第三百一大隊を基幹とする陸軍北海支隊は、 六月七具殆んど何の抵抗をうけることもなく、アッ ツ、キスカの両島に上陸したが、しかし、大局的にみ て、この成功は成功と云い難かった。と云うのは、それ は、この方面に散艦隊を牽制誘致すると云う本来の作戦 任務に失政することたよって、かもえた成功だったから である。そのため、主作撃、ブドウエイ方面に於てほ、 三、四の丙日にわたる海戦の結果、みじめな敗北を興し て、作戦意図を中止せざるを得なかった。 元来、ミアドウェイ政略を決意させた意図というもの が、その年の四月、東京にうけた煤塵を、海軍の面子の 問題と感じ、﹁皇居の安寺﹂のためにも是が非でもとい う、凡そ非理性的な愚かなものに出発している以上、そ れもまた当然の結果であったかもしれない。 れた。 3 徴兵検査の結果、三田は第二乙種であったが、学生兵 は現役兵と同様の取扱いで、二月盲盛岡の歩兵第百五 神から、眼をそらすな︶ しかし 煉獄は信じなければならない 葦すぎるかも弱いのか、 ︵弱い葦だ ︵だがこの精神はよくない︶︶ ︵人間的感情は何物でもないのだ 言葉を失ってゆく︶ 言葉がほしい ︵言葉がほしい† 連隊虹入営させられていた。 兵営で睾いた三田の日記が遭っている。黒クロース鼓 の懐中手帳、一冊書終えると、彼は、それを面会に行っ た弟に、そつと手渡した。 だが、それにしても、ミッドウェイ敗北は、アウエー シャソ攻略の意義を過大にさせねはならなかった。大本 営は、﹁政略後、冬季以前エソノ守備ヲ撤去七シムル﹂ 予定であったのを、﹁全般ノ情勢上﹂急に変更し、北海 支隊を大本営直轄として、海軍と協同し、アッツ.キス カ要地の確保に当るよう、命じたのである。 アッツほ熱田島、キスカは鳴神島と、それぞれ改名き 三田は、当然、落第した。 ある。 とあるすぐ次に、︵うちひしがれた弱音をつぶやくでな 合格者は、即日進級して、襟に幹部候補生のしるし、 ︵走狗とは苦しい。むしろ木石でありたい︶ い。11汝断食する時悲しき面持すな︶と書いていると ろう。だが、気心を知るにつれ、一人ぐらいは庇護して くれる青年兵もできているものだ。息抜きの場所も自然 て、ひけめを感じさせまいがための親心というものであ 三田は、所属の中隊をかえられた。もとの中隊におい ころもある。 星の座金をつける。不合格者は、﹁落ち幹﹂と称し、軽 これを青いている時の三田の表情がわかるようだ。け 侮のまとになる。短期間に幹部となって、下士官に君臨 れども、ああいう云わはストイックでさえある三田の風 する幹候への反感が、連に﹁落ち幹﹂に集中されてくる のである。 貌正、軍隊でほうけいれられなかった管だ。何よりまず ﹁要領﹂ということをおぼえ、阿鉄の姿勢を身につけね ばならない。三田呼、当然、無能な劣等兵であったに違 いない。 三田はくりかえし﹁一兵となる﹂決意を書いている。 ることなど思いもよらなかった。却って、特別に召集 され教育される恩恵について訓示された。そのために、 るほど﹁中隊の団結﹂は筆国だということになって■い り、しきたりがまるで違うのである。排他的であれはあ 学生兵の幹部候補生受験は既定の事実であり、市香す 特に一時間の﹁延燈﹂が許可されて、消燈後学生兵は、 る。一期教育はすでに終了したのであるから、しきたり の一々をいまさら教えてはくれないし、知らぬというこ に見つかる。それを、今度は、はじめから、またやり直 さなければならない。各中隊にはそれぞれの個性があ 火の気のない中隊講堂で勉慈し.なければならなかっ た。 されると云う喝は、私達の時もあった。三田も、或いは て︵詩人佐藤惣之助死す︶と、大きな字で貢一はいに書 は、古参兵なのである。︵絆人萩原朔太郎死す︶に続い とは許されない。同じ初年兵でも、その隊に関する限り それを期待したのかもしれない。だが、何れにしても、 いてあるところもある。 幹部候補生試験に落第した学生兵の補充兵は召集解除 折角の親心を無にし、そんな馬鹿げた決意をしている三 田が、ますます無能な劣等兵とされたことだけは確かで 八月八日一四〇〇、7ッツ島は、戦艦航母巡洋艦駆逐 艦至からなる敢機動部隊の砲撃をうけたれアリ.ユーシ ャソ奪回の企図はようやく露骨であった。これもまた、 米軍にとつては、その領土内に上陸されたという面子の 問題であろうか。一にぎりほどの北海支隊をそのままに しておいても、北方作戦の全局には殆んど影響ない管で あった。 八月中旬、如何なる理由に基くものであったかわから ないが、軍は敢反攻の重点をキスカと判断し、7ッツ守 備部隊を撤収、キスカに移動させた。携行でき鱒資材、 楓株は焼却させたのである。 .しかし、九月三日、キスカ宿営地に対する敢綾の宜伝 ビラ撒布、十五日、B・劫、P・軍3 9各二緩転よる地 合した。 散はすでにアダック島、クルック島鱒航空基地を推進 し、西部アリューシャンはその制圧下に、海上輸送は困 難を極める状況にあった。これに対し、北海守備隊は、 その制空権奪回のために、築城防空冬営の諸施設を犠牲 にしても、﹁一意飛行湯を完成﹂.すべき任務を与えられ たのである。 北海守備隊に増加される兵力のうち、独立歩兵第三百 三大隊の臨時縮虎は、盛岡の歩兵第百五連隊長に命ぜら れた。縮成第一日が十月二十五日、完成日数は三日であ った。 5 ﹁玉砕要員﹂という言葉があった。 他隊への転属には、優秀な兵隊を出さないのが普通で あった。前線への転属、危険性が多け九は多いほどそう 上掃射をかわきりに、定期便のような空襲がはじまるに 及んで、大本営はまた、作戦方針を変更した。 であった。これにょって、何等かの意味での、もてあま 三田は、十月二十六日、北海守備隊に転属を命ぜら れ、三十日、あわただしく盛岡の駅を出発して行った。 し薯を一掃しょうとしているようであった。だから、 ﹁落ち幹﹂の多くは、﹁玉砕要具﹂になった。 十月二十日、大本営は、北部軍司令官をして緊急処置 として、北千島要塞歩兵隊の一部︵歩兵隊長の据津する 一ケ中隊半︶を第五艦隊司令長官の据揮下に入れしめ、 7グッ島の再確保を命じたのである。同二十二日には、 独立歩兵ニケ大隊半の増加による、北海守備隊の新設を 大空もなく 何もなく ︵何もなく 荒天であった。海一面、無数転たつ三角波の頂きが、白 年があけて、一九四三年。正月早々から、北千島は大 は同じところに止すニッ、まるで進んでいないようであっ た。 った。蘭をかぶって、うねりの頂上にでると、.〓瞬、あ えぎあえぎしている僚船の煙突が、チラと見えた。それ んで行くと、四民はもりもりとムクレ上る灰色の垂であ とはいえ、うねりはまだ高かった。うねりの庇につつこ 丸、君州九鱒分乗、幌幕を出港。時化はもう過ぎていた れ、アグッ島に向うことになった。一月二十三日、呼声 独立歩兵第三育三大隊は、セミチ攻略の任務をとか 一月六日、琴平丸は、アグッ島入港直前、敵潜水艦の 攻撃をうけ、その消息を絶った。 いしぶきをとはして、突風が吹きまくってくる。荒涼た る風景であった。 地上もなく 時間もなく−−︶ その手帳の最後の貢に、千島の略図が書いてあり、 ﹁極北﹂と、濃く太く何度もなすり書きしている。 6 三田の所長していた独立歩兵第三百三大隊は、十一月 三日、小再から帝海丸に乗船、昭浦丸と船団を組んで、 同七日、幌笹島柏原に着いた。 この部陣の任務泳、新たにセミチ島転上陸、同島を確 丸、八幡丸の輸送船は七、、、チ島に向つたのだが、天候が 鹿阿武隈、木曽及び駆逐艦二隻の護布で、キン斗リール の中はうそのように、静かであった。大破して掃坐して 切立った崖転かこまれた疎い入江に入って行った。入江 山が見えた。船は、その島のまわりをまわって、北から 基とも夜ともつかぬ何日かが過ぎて、右舷に白く光る 意外に良く﹁現地到着当日、空襲ヲサケ珊坐炎上セシメ いる船があった。十一月二十七日、爆撃されたチェリボ 保して飛行場を作ることにあった。十一月二十四日、.軍 テルル公井大﹂であるとの判断で、二十八日セミチ近海 ン丸だという。 アッツ島ホルツ帝入港、︼月三十一日。 から引かえさねはならなかった。幌箆に帰投したのほ十 二月二日である。 7 え る アッツ島は、いくつかの火山群と、砂地ツンドラ地帯 からなる東西約四十マイルの島である。最も高い山は、 。 三田たちは、・上陸すると直ぐ、自分の宿舎を作り、防 空壕をほらねはならなかった。 8 二月五日、北方軍の編成が下令され、北海守備隊は第 ホルツ帝の南岸にある三千7.ィートの北≠山であった。 その更に再には、熱田富士と名づけられた円錐形の山が 五艦隊司令長官の相棒を離れて、北方軍︵司令官中将樋 は、増強されて、キスカ島部隊は北海守備第一地区陳、 口季一郎︶の戦闘序列に入った。同時に、北海守備隊 ある。しかし、高地は、ごろごろした岩ばかりの山であ った。 十二月から二月にかけては、暴風期であった。時とし て、風速は四十米をこえ、その風は必ず雪、時には雨さ えも伴なうりである。 アッツ島部隊は、同第二地区隊と改編されることになっ た。 山方、敢兵力は、年末以来七十隻以上申船団をもって 太平洋諸港から続々アリユーシャソ方面に到着しつつあ った。 しかし、漕木しかないこの島では、旧北海支隊撤収の のお粗末な三角兵舎を作ったにすぎなかった。7リュー ほ、お互いの﹁面子﹂という問題から出発して、もはや 時務していつた旋木枕や、流木を利用して、僅かばかり ト人の民家や、天然の洞穴に居住できるものは、むしろ 結構な身分であった。大部分止天幕生活であったのであ ぬききしのならぬ段階まで来てしまっていた。 戦略上、さして重要だとは患われぬこの地点の情況 る。 艦四は、午前八時から六時間ホルツ湾岸及びチチャゴフ 二月十九日、アサツ島西浦沖に現われた巡拝艦二駆逐 波に流出したこともあった。 高地に約千発の砲撃を行った。守備隊は、戦死二、重傷 一、軽傷二の死傷者をだした。 勿論、諸資材は野槙のままであったから、時化の日、 その荒天の日にあつても、敵機は来襲した。最も攻撃 回数の少なかった一月でさえ、その延枚数は六十九を数
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