15周年島根レポート(PDF)

帰松から 3 日たとうかというのに今だ興奮冷めやらぬ、といったところであろうか。
頭の中に、映像や言葉が良質の湧水のごとく溢れ続けて少々困惑している。
そんなエヒメデザイン協会15周年記念事業 ~古代の国島根 歴史と芸術の旅~ であった。
停滞する台風15号の動向をしり目に、一行を乗せたチャーターバスは肌寒ささえ感じる風雨の中を、ひたすら
北上を続ける。 大雨の影響で一部高速道路を迂回しながらも車中はタコ入道・上野氏やタコ入道・安岡氏、はた
また道路フェチの武智氏、そして我らがビンさんのおかげで楽しく、そして珍しいお話まで聞かせていただきながら、足
立美術館へと到着するのでありました。
この足立美術館の詳細はネット http://www.adachi-museum.or.jp/ja/index.html にお任せするといたしまして、
どうしてももう一度来たかった私にとりましては、この機会は願ってもないチャンスだったわけでもあります。
またあの絵に出会えるのか? あの庭はどうなっているのだろう? あの感動はまた味わえるのだろうか? そんな
思いが胸中には溢れていました。
杞憂でした。 橋本関雪の「唐犬図」の凛とした空気感は益々エッジの鋭さを増していたように感じられましたし、
横山大観の「紅葉」は今度は音まで聞こえてきそうでした。
それ以外の作品からも本物が生み出すエネルギーにより、浄化作用があるのではないかと思わせるほど気持ち
がいい状態が持続します。
また、この絵画の通り道沿いには世界に誇る庭園が角度を変えて楽しめる窓があるものですから、気分転換が
いいタイミングで図られるというのも、創設者である足立全康氏の計算通りだったのかもしれません。 おまけに
雨でぬれた石や木々が見せる顔の美しさといったら・・・
そして絵画のゾーンを経て、陶芸のゾーンへと移動していきます。 そこにはまた北大路魯山人や河井寛次郎の
部屋が用意されているのですが、正直申しまして芸術には程遠い世界で長年生きて参りました小生にとりまして
は、作品そのものの批評などおこがましくてできませぬ。 しかし、そこに表現されている作家たちの言葉には素
直に感動できます。
中でも魯山人の言葉で、「・・ 人をほめないのだから自分がほめられる道理がない、・・ とかく嫌われるが ・・・
優しくし好かれるよりも本当のことを言って一人でたたずんでいた方が心は安らかだ」 など慰められながら読ん
でいたし、 「・・ 真の美はいつも新しい ・・・ 万葉集などいつの時代に読まれてもその時々に新たな感動、感
覚を与え続ける、 古磁器もあたかも今窯の中から出てきたような輝きを放ち心を奪う・・ 」 という言葉も、流行
りものに傾倒しがちな人の心に待ったをかける勇気の言葉であると同時に、真理さえ匂い立たせています。
河井寛次郎に至っては 「驚いている自分に、 驚いている自分」 という具合に永遠なる自分の心を端的に表
現してしまう。
画家にせよ、陶芸作家にせよ、彼らたちの言葉の一つ一つをかみしめながら辿り着くのは、異口同音に聞こえし
世界である。
その世界とは、 「創るということは、それ以前に人物を作るということ、人間ができて初めて本物の世界の入り
口に立てる。 歌もわかる、詩もわかる、宗教も、宇宙も、哲学も・・ そうやって世界人になってはじめてその人
の作品が世界を包含する。 客観的事物を写実するのではなく、心の命ずるところに手が従ってこそ事物の形象
と霊性との渾然一如を表現できる。 平静の修養こそ大事・・ 」
概ねこのような概念の世界であろうか?
いずれにせよ私自身の立ち位置を垣間見るためのポジションとしてはとても貴重で、かつ必要な場所の一つで
あると言って差し支えあるまい。 その時が来ればまた自然に訪れることになるのだろう。
さて、あれほど降っていた雨もなんとなく止みかけたようである。 松江に向かう途中からうっすらと青空さえ見え
隠れし始めてきた。
松江では時間の関係上松江城のお堀の周りでしばしたたずんだだけであった。
バスはしばらく走り、大きな宿に着き、ひと風呂あびていざ夕食懇親会へ。 私はめったにしか協会の活動に参
加できてないので初めての方々も何人かいらっしゃったのだが、なにせエヒメデザイン協会である。 同じ穴のむ
じなよろしく、久しぶりに飲んでしまいました。 いやあ、テーマも移り変わり最後は教育関係のお話までさせてい
ただきましたが皆さんお騒がせいたしました。。 といってもその後のカラオケタイムの騒々しさよりはましか・・?
若者と一部のおいさんは
・・・す・ご・い !
翌朝5時20分に朝風呂に出かけ、 きっちり1時間かけてアルコールを抜いてから朝食をいただく。 さて、もう
一つの目的地、出雲大社へと。
いつものように感謝奉納させていただきその後世界遺産に登録された石見銀山へいざ出発するのですが、ここ
で知った事実は誠に残念なことにこの出雲さんの立派な参道は神官の取り決めで今や完全な車道となり、昔は
軒を連ねて活況を呈していたであろう数々の商店はいまや見る影もなく、絶える事のない車の列に飲み込まれ
ているのでした。 年間観光客数350万人とも言われる出雲さんに訪れた人々はただただこの前を車で通過し
ていくのでありました。 行政や地元との話し合いも無視し、単独でこの決断をしたというこの神官一族、 かなり
心を深く沈めてくれます。 あのお伊勢さんの参道との違いが・・・・・
。
さて気分を変えて石見銀山に到着です。 ビン会長の配慮でまずは世界遺産センターでレクチャーを受けながら
銀山の歴史を学ぶ。
この導入がなければその後の町並みの意味すらほとんど理解不能であろうと思われるほど、確かにすばらしい
センターであった。 なぜこんな山奥の片田舎が世界遺産なのか?
驚くような事実が世界の歴史と共にある。 各自勉強されたし。 (含笑)
まあちょっとだけ触れるとすれば、
「この銀山を制する者は世界を制する」
とに驚愕する。 だから世界遺産なのである。
冗談ではなく本当にそうだったこ
・・ はい、勉強勉強。。
その後いよいよ大森の町並みへと徒歩で入り込む。 ここは自転車か徒歩の世界である。
町並み全体が醸しだす「気」により、程良い過去空間を味わう。 「融合美」という言葉が浮かぶ。
そのまま昼食をとるために阿部家を訪問するのだが、なんとこの家、築260年の古民家である。 もちろん改築
改装はしているが、そのまま重要文化財になりそうな家屋である。現役でオーナー夫妻が暮らしている場所でも
ある。 みごとである。 見てみるしかあるまい。 説明不能。
そして料理、 腰が抜けた。 心が跳ねた。 おかわりが進んだ。 ごめん、これも説明不能。
いやあ、 いいなあ。
説明できない世界にいるということは 。
言葉で説明できるものなんて、所詮はしれているのかも・・
そんな場所と世界と人達に出会っている現実。 幸福感で満たされるひととき ・・・
そしていよいよこの小さな集落でとんでもない世界を作り続けて30年の松場登美さんの講演である。 この古民
家(阿部家)のオーナーでもあり、一流百貨店にも出店されている「郡言堂」のオーナーでもある彼女の講演はこ
の旅のハイライトに据えていた。
期待は裏切られなかった、 それどころか講演終了後の立ち話の中で不覚にも涙が出そうになり、慌てた。
どんな人なのか?
どんなお話だったのか?
説明不能である。
(笑)
というわけにもいかんでしょうから、乱文なれど挑戦してみます。
いきなりなんぞな? の世界ザンショ?
登美さんの話じゃないのかえ? でしょっ?
わかってまんがなー。
あたいこれでも苦労して聞きにいってまんのんやー。
そうそうやすーうに教えられしまへんがなー。
もったいつけまっせー。
まあゆるりと大森の町並みや武家屋敷の素晴らしさでもご覧ください。
話は 、 それからやー。
ほっほっほっ。
失礼。 ではそろそろ。
テーマは 「足元の宝を生かして 暮らしをデザインする」
“登美さんがご主人と共にこの大森に移り住んだのは約30年前、ご主人の里ではあるが自分にとっては知る由もない
場所、ひと、もの。
当時の大森の人口は411人、小学生の数は12人。 さびれゆく集落の典型であった。 築100年を超える家々は手
入れの予定もなく、朽ち果てるのをただ待っているしかない。 産業もなく、手放すか放置したままこの地を出ていく
人々。
何ができるのかなんて想像さえできない現実から始まった。
ただ、母からの教えの中に「授かり」という言葉があった。 授かった土地、授かった人情・・
お金ではない価値の
数々。 必要以上を望むのではなく、今あるもの、授かったものを大切に感謝をこめて使わせていただく。
この言葉と考え方のみであった。
最初の仕事は荒れ果てた土地に一本のあぜ道を作ることから始めた。
あぜ道を作るとその途中の小川に丸太で橋を作った。
そうして、そうしながらどんどん作っていった。 その延長線上で会社を作った。(郡言堂)
あるのは
まったく使い物にならないほど朽ち果てた古民家を改築しながら今日がある。 30年かけて7戸の古民家をそれぞれ
の形に再生してきた。
再生は単なるノスタルジアではなく、本来の姿にこだわった。 使えない柱があれば壊す古
民家から材をいただき、接いで使えるようにした。 新規の売っているものを使わず、今すでにあるものを流用させても
らう。 母の教えの通りにやる。
これすなわち、ものを残すということは、その作業にあたる職人による伝統文化を守り、人材を残すことになる。 また
このことはすなわち環境を残すことにさえつながる。 現代は工業という錯覚の世界の上に生きている。
登り窯で焼きものもする。 難しく失敗する。 しかしその失敗の繰り返しの中から工夫が生まれ、改善が形になり、そ
して何よりも感謝が生まれる。 失敗のない人生は失敗である。(笑)
「復古創新」 がテーマ
まだ職人が日本にはいる。 海外に持っていけば壊れる。
まちづくりは引き算をしていった。 あれもこれもとデコレーションしていくのではなく、花も一輪活けるほうが難しいが、
奥深い世界を作れる。
家と人との相関関係も、現代はとりあえずの家でとりあえずの暮らしをしているのが実態。 関係性が無いといっても
いい。 ここでは自然の庭造りといってそのままの状態の庭造りを楽しんでいる。 テーブルの上に土箱を置き、そこに
鳥が運んできたり、自然に根付いた植物を楽しむ。 たっぷりとした時間の中で小さな変化を少しずつ楽しめる。 いな
かは非効率が命。
これからは根のあるものが生きる時代。 この根は人間にとっては「考え方」という根であり、「生き方」という根である。
仕事としてはデザインを通して世の中にメッセージを送りたい。
文明に頼りすぎた生活から起こる文明災に遭遇している。
上質な文明の選択をすべき。
「地域は舞台」という構想
毎日のように突然何かが始まる。 子どもたちの楽器演奏会など客は庭に出て、子どもは座敷のステージに立つ。
人は集まり、楽しみ、会話し、笑う。 子どもたちは緊張もするが、自分自身も地域の一員であると感じ、愛情を感じ、
誇りを持ち、人を好きになる。
暮らしの再生が地域の再生となる。
他郷 ・・・ 自分の故郷ではないのにあたかも帰ってきたかのような感覚の家
お客様にそう言っていただけることが嬉しい。
ここまでこれたのは志に尽きる。
「志持たば食は付いてくる、 志持たずば道を失う」
ものは保存よりも活用に尽きる。 家といっても多様な使い方ができる。 結婚式から葬式、もちつきにコンサート、宿
泊施設にも居酒屋にも・・・
娘の結婚式をこの家で行えた。 一つの夢であったのでうれしい。 そのことを地
域のみんなで共有できることの喜びの深さ。
「こうありたい心」がエネルギー。 毎日こうありたいの連続でここまで来た。
家の中から火が消えた。 本来、火が家の中心にあった。 かまど文化、いろり文化など火から一日が始まる。 (ここ
では現役でかまどがフル活用されている)
縦糸の阿部家(1日2組までの宿泊可能、予約昼食可能な古民家、兼松場さんの自宅、イベント会場・・) と横糸のイ
ベントと考える。
それを紡いでいく、そしてそれぞ
れを次の世代につなげていくことを使命に思う。
若い社員がここで働きながら身につけていく。 明確な志を持って全国からここに働きに来てくれる若者が多い。 イン
ターン研修後一度は東京へもどった TOEIC690点の外大生もあまりの価値観の違いに愕然とし、改めてコミュニティ
ーに価値を見出して、今ではここのレストラン部門で活躍してくれている。 外国からのお客さんも多いので助かる。
女性が変われば世界が変わると思っている。 しかし、人を変えるのは難しい。 ところがこの30年の自分の学びを娘
も見ていたことを知った。 自分が変わったら娘も変わっていたという真実に真理あり。
石ころひとつでも美しいものは美しい。 アートとは本来そういうものなのでは? むやみに作り出すものではなく、「ある
がまま」という中にさえ立派な価値は溢れている。
毎年地域住民が集まり全体写真を撮ってカレンダーを作っている。 50年アルバム構想である。 このことに意味は
あるのか? 今は意味がなくとも未来にあるかもしれない。 それで十分。
孫を孫と認識できるのは人間だけ、孫たちの世代にプレゼントできる、残すものを作り、育てたい。
根を張ること、根さえ張ってしまえば生きていける。
アーティストも何かと長期滞在者として集まってきた。 住み込みながら表現と創造を繰り返し、中には家を購入し永住
を決めた人もいる。
これからも積極的に関わってくる人は増えていくだろうなと思っている。”
※注・メモ書きを元に私流の解釈も交えているので正確を欠く部分もあり
講演時間の関係上かなりの早口だったので乱雑なメモを取るのが精いっぱいだったけど、書き込みながら体も心もど
んどん幸せに満たされていくのが本当に心地よく、喜びに溺れそうにもなりました。
こんな感覚は久しぶりです。
波動が同調するというのでしょうか、あぁ、また出会うべき人に出会えたなぁ、というのでしょうか?
そしてまたそれは今の私が抱えている様々な悩みや問題は、未来にとって必要な土壌づくりに他ならないという示唆
をいただけたということなのでしょうか?
様々な思いが胸を交錯します。
私も会社を創立し、ボランティア団体を立ち上げ、諸々のことを通して何かお役に立てればと思いながら12年目。
この登美さんの30年からみれば、ほんの若造でしょう。 若造君がどうこう言うには、ちと早すぎるようです。
登美さんから見れば折り返してもいない地点でした。
しかし、実はそのことが分からなくなるのです。 一所懸命やっているのに・・
などと自分の地図の上で迷子になっ
たりするのです。
ここで大切なのは人生の先輩です。 しかも志を同じくできる先輩です。 その人の後ろ姿に同胞は勇気とエネルギー
をいただけるのです。
たっぷりと頂いてまいりました。
だから泣きそうになったのでした。。(笑)
ありがとうございました。
その後の和室での立ち話の中身とは・・
私からの質問 「ここに来る前から元々ずっとそういう志があったのですか?」
登美さん 「よくはわからないのだけれど、郡言堂から数えて7件の古民家の改装改築事業を行ってきました。 そして
実はその時々のプロセスの中でより鮮明に、明確に「志」というものを感じることができるようになったのだと感じてま
す」
登美さんの魂に刻まれたひとカケラが銀山の表層に現れた銀鉱石の一部であったと仮定するならば、そこから繰り返
す発掘作業の長い長い歴史の中から、地下にあるまだ知らぬ大きな鉱脈に行き着いたのではないのだろうか? 登美
さんの心の中の鉱脈である本当の自分に・・・
清々しい時間であったことを少しはご理解いただけましたでしょうか?
乱文お許しの程を・・
集まった人たちがそれぞれに発言し、その中で良い方向性が生まれるという意味を持つ「郡言堂」の登美さんと、その
郡言堂の意味を問いながら今回ここまで誘導してくれた会長のびんさん。
この二人のやわらかな揺らめきのようなコラボレーションによってたっぷりとした思索の機会をいただけましたこと、心
より感謝申し上げます。
以上
田中 啓文