高木兼寛小伝

高木兼寛小伝
東京慈恵会医科大学130年史
上巻
にある
小伝をさらに短くしたものです。ぜひ読んでくだ
さい。
1.幼少時代
下級武士の家に生まれて
東京慈恵会医科大学の創始者にして、脚気予防法の確立によりビタミン発見の道のり
を切り開いた『ビタミンの父』である高木兼寛は嘉永2年(1849)穆佐村白坂に生まれた。
この年、英国船マリーナ号が浦賀、下田を来訪。鎖国を続けていた日本に大きな衝撃を
与えた。英国は、その後高木が留学して強い影響を受けることになる国である。そのよう
な年に生を受けたのも何かの縁といえる。
さらに4年後の嘉永6年(1853)には、かの黒船が浦賀に現れ、開国への道が一気に進
むのである。旧来の体制が大きく変わろうとする時代背景は、日本の旧態依然たる医療現
場に風穴を開けんと孤軍奮闘した高木の生き様に少なからず影響を与えたのではないだろ
うか。
高木兼寛は幼名を藤四郎という。父は喜助、母は園。家は代々薩摩藩士であったが、身
分はあくまでも下級武士にすぎなかった。したがって主たる収入は、喜助の大工としての
稼ぎによるものであった。幼い藤四郎もその手伝いをして父を助けていた。
もしそのまま父のあとを継ぎ、一意の人として生涯を終えていたらどうなっていただろ
う。脚気による死者は増え続け、新政府に大きな痛手となっていたのは間違いない。後述
するが、脚気は民間人だけでなく、海軍・陸軍、なんと皇族にも蔓延していた。そのまま両
軍に脚気の被害が広がっていたら、富国強兵どころではない。日本の歴史は大きく変わっ
ていただろう。
示現流の精神が藤四郎の人生観にも大きな影響を与えた
さて藤四郎の将来を決定づけたのは、他ならぬ彼の両親であった。特に母は、生まれつ
き虚弱体質で湿疹が消えることのなかったわが子を案じ、「お前は身体が弱いから、家業を
継ぐのは難しい。学問で身を立てなさい。」と言い聞かせていたのである。薩摩の一般的な
風習と異なり、両親とも教育熱心だった。これは大英断である。今でこそ「身体が弱いか
ら勉強を」という発想はごく普通であるが、藤四郎の時代はそうではなかった。何しろ当
時薩摩藩は、伝統的に「武士たるものは学問など重視しなくともよい」という気風だった
のである。その中であえて学問の道を勧めたのだ。やはり親はわが子をよく見ている。
後年、高木が自ら創設したい学校の生徒に、親の大切さをこんこんと説いたのも、この
ような経験に起因しているのであろう。
幸い藤四郎自身も人一倍学問が好きであったため、両親の勧めは大歓迎である。そこで 7
歳になると、尊王の浪士であった中村敬助の塾に入り、「論語」「大学」「中庸」「孟子」な
ど『四書五経』を学び始めた。師にほめられるのが特にうれしくて、いくらでも勉強を進
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めた。やがて朝だけの勉強では飽き足らなくなり、夕方に開かれていた年長者のクラスに
も加わるようになった。回りもこの勉強好きな少年をかわいがってくれる。彼はますます
学問に励むようになった。弱かった身体のほうも、9歳のころから穆佐の年寄・阿万孫兵衛
について習った示現流のおかげで改善がみられ、ひ弱だったのが嘘のように丈夫になった。
これでますます学問にも心血を注ぐことができるようになった。ところで示現流との出会
いが藤四郎にもたらしたものは、身体の丈夫さだけではない。その後の彼の人生観にも大
きな影響を与えている。
薩摩藩のお家芸であった示現流は、初太刀による一撃必殺を旨としていた。新撰組組長
近藤勇が「薩摩藩と組むときは初太刀を外せ」と恐れたほど、強烈な攻撃であった。ただ
し、先制攻撃が激しすぎて体勢の立て直しが遅れ、二の太刀が出にくい。そのため万一初
太刀に失敗すると、敵に斬られる危険性の高い剣法であった。つまり示現流とは、リスク
を恐れず妙な細工もなしに初手から全力で斬り込んでいく剣法である。これは後にさまざ
まな苦難に屹然と立ち向かっていった彼の生き様に重なるものがある。
12歳にして医の道を志す
こうして心身ともに成長するなかで、藤四郎の胸にはある夢が育っていった。それは「医
者になる」ことであった。きっかけは、穆佐村の黒木了輔という医者に対する憧れであっ
た。「自分もああいう人になって、困った人を助けたい」そんな思いを抑えられなくなった
彼は、12歳のある日、師である中村敬助にその意思を伝えた。文久元年(1861)のことであ
る。中村に、もちろん異論があろうはずがない。早速地頭の毛利強兵衛とともに父喜助の
説得に赴いた。実はこの二人、かねてから学問に才能を見せる藤四郎を、寒村に埋もれさ
せておくのはかわいそうだと思っていたのである。
突然の提案に戸惑ったのは喜助の方だ。もとより学問を勧めたのは自分たちであるが、
それが医者などという形になろうとは想像だにしていなかった。もちろん反対ではないの
だが、雲をつかむような話で、いかんともしがたい。中村と毛利にしても無理強いもでき
ず、いたずらに時間だけが流れていく。藤四郎としてはもどかしい限りであった。
不安と戦いながら「医者になる」夢を磨き続けた
しばらく続いたこう着状態は、あっけなく終わりを迎えた。嘉助が藩主・島津忠義の父、
久光の命で京都守衛として上京しなければならなくなったのである。藤四郎の医者志望の
話は、父の帰宅まで持ち越しとなった。喜助は3年後に戻ってきた。ところが病を得てい
たため、生計を支えるために藤四郎は相変わらず働かなければならない。医者どころの話
ではなくなってしまったのである。それでも自分の夢を実現する日がいつか必ず来ると信
じ、ひたすら汗して働いた。
ようやく事態が好転したのは、慶応2年(1866)、藤四郎が17歳になったときである。中
村に旨のうちを告げてから5年の歳月が流れていた。時ここに至り、鹿児島の蘭方医であ
る石神良策について医学を学ぶことになった。「ありがとうございます。しっかり勉強し、
必ずや立派な医者になります」藤四郎は父に深々と頭を下げ、鹿児島へと向かった。その
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足取りは軽かったが、夢の端緒につくまでにずいぶん遠回りをしてしまった。待った時間
を取り戻せねばならない。そう考えると、焦りを隠すことはできなかった。しかし、そん
な焦燥の思いも石神と初めて出会ったときに吹き飛んだ。彼はそれまでに出合ったことの
ないオーラをもった人物であった。「この人は一生の師になる」理屈では説明できなかった
が、藤四郎は瞬時にそう悟った。そのときの感動を、彼は生涯忘れることはなかった。
医学の勉強を始めるのは先に延びてしまったが、そのおかげで終生の師と出会えたので
ある世の中は何が幸いするかわからない。まさに塞翁が馬である。また藤四郎は、医学と
同時に岩崎俊斎の下で蘭学を学び始めた。この蘭学・岩崎塾には、後の海軍軍医総監になる
河村豊洲や実業家となった有島武、横浜正金銀行頭取を務めた園田孝吉らがいた。有島武
は実業家としての名声もさることながら、作家の有島武郎・里見弴(とん)の父親、俳優の
森雅之の祖父としても知られている。彼らは生涯にわたる親友となり高木の支えとなった。
2.戊辰戦争
鳥羽伏見の戦いで見せた西洋医学の力
藤四郎こと、高木兼寛が鹿児島に出て医学を学び始めてから2年目の慶応4年(1868)1月、
薩長の討幕軍・会津桑名藩兵が京都南郊で衝突した。世に言う鳥羽伏見の戦いである。この
戦いが戊辰戦争の幕開けとなった。この戊辰戦争は高木にとっても大きな転機となった。
激烈を極めた鳥羽伏見の戦いでは、薩摩藩の兵士にも大量の負傷者が出たため、京都の相
国寺にある養源院に薩摩病院が設置された。石神は、薩摩藩医として上京し、同院に赴く
ことになった。
養源院には既に150名に上る負傷者が収容され、負傷者の中には、大山巌・西郷従道と
いった要人もいた。大山は軽かったが、西郷の傷は重く、しかも一向に癒える気配がない。
悔しいが、このまま薩摩藩の医者に任せていては弟の命が危ない。そう判断した隆盛は大
山を神戸の英国領事館に遣わし、英国人医師ウイリアム・ウィリスの派遣を懇願した。英国
公使は快諾し、ウィリスを薩摩藩の傭医として派遣することを決定する。ウィリスは通訳
であるアーネスト・サトウをともない、大山や護衛の兵士らと京都へ向かった。相国寺に着
くと、彼の到着を待ちかねていた薩摩藩主島津忠義と西郷隆盛が挨拶に現れた。これが西
郷とウィリスの初めての出会いであった。すぐに治療を始めたウィリスの腕前は、期待通
り、いやそれ以上であった。石神ら藩医を助手として、斬新にして熟練の技を駆使して、
次々と手術を成功させていく。上腕の切断から大腿の切断、銃弾の摘出、腐骨の除去、膿
瘍の切開など、さまざまな手術が行われた。しかも麻酔や消毒薬の使用により、患者の苦
痛は激減した。こうして西郷従道をはじめ、多くの負傷者の命が救われたのである。残念
なことに高木自身はその場に立ち会えなかったが、石神からウィリスの手術の見事さを十
分知ることができた。その一方で、彼はこの戊辰戦争で大きな屈辱を受けることになる。
「薩摩に医者はおらぬらしい」の恥辱
鳥羽伏見の戦いの後、新政府軍は優位に戦いを進めていたものの、東北地方における旧
幕府軍の抵抗には手を焼いていた。政府軍の兵力、軍医の不足は日毎に深刻化し、同年6
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月、高木は隊とともに東北征討軍に加わることとなった。このような状況のなか、三春(福
島県三春町)の野戦病院での出来事である。連日運ばれてくる負傷者の治療に、未熟なが
らも高木は奮闘していた。ところが、その手術の腕前を見ていた大村藩の医者は一言、「薩
摩に医者はおらぬらしい」と笑ったのである。大変な侮辱である。高木は怒りに震えた。
しかし、残念ながら大村藩の医者の言葉は核心をついていた。西洋医学の本場である英国
人のウィリスにかなわないのはまだしも諦めがつく。しかし、今度は他の藩の医者に頼ら
なければならない。この病院には薩摩の医者が10数名もいたが、重傷患者については大
村藩の医者に依頼せざるを得なかったのである。
薩摩医学の遅れに危機感を持つ
会津戦が終結した10月、高木は帰京し石神良策を訪ね、この戦争で薩摩藩医がいかに
恥ずかしい思いをしたかをとうとうと語った。高木の話を受け止める石神もそのことは十
分心得ていた。実はこの時すでに、石神には鹿児島に西洋医学の学校を作る計画があった。
藩の不名誉を憂える気持ちは彼とて同じである。指導的立場にあっただけに、その思いは
むしろ高木より強かった。今回の戦争における屈辱的な経験は、依然として藩に残る保守
的な思想を一掃し、新たな動きを起こす絶好の機会でもあった。石神は鹿児島に洋方医学
校を作る計画を話し、高木に新しい学校で医学を学び続けるように説いた。さらに、その
学校が採用するのはおそらくイギリス医学であり、いずれは本場である英国で学問を修め
ることになるだろうから、とにかく英語をしっかり勉強するよう指示した。もちろん高木
に異存はない。もとより西洋医学を修める必要性を痛感していたのである。そのために英
語も必要であることも理解していた。ただ、問題がないわけではない。勉強を続けるのは
いいが、学費を工面しなければならない。2年前に父喜助と約束した年限はとうに過ぎて
いた。これ以上病弱な父を頼るわけにはいかないという思いもあった。ひとまず郷里に帰
り、今後のことをじっくり両親と相談しなければならないと考えた高木は、鹿児島での再
会を約束し、石神の元を辞した。
3.鹿児島医学校
家族への思いと医学への意志とで葛藤する
明治元年11月、高木はひとまず帰郷した。うれしいことに両親は健在であった。父喜
助は多少体調を崩していたものの大工の仕事を続けていたし、母園は何よりもわが子と暮
らせるのを喜んでくれた。思えば両親との生活は久しぶりである。高木としても、家にと
どまってほしいという両親の思いがわからないわけではなかった。だが、心ここにあらず、
というのが正直なところである。京都で受けた感銘、三春で受けた屈辱は片時も忘れたこ
とはない。自分の力量不足は明らかである。1刻も早く西洋医学を学びたかった。医者を
志したのが12歳。ようやく勉強を始められたのは17歳になってからであった。あの5
年が、なんとも取り返しのつかない時間に思えてならない。
「もしかして手遅れではないの
か・・・」戦争からさらにさかのぼって自らを省みるうちに、そんな不安にもさいなまれ
た。このまま村に残ることを信じて疑わない母の顔を見るのが辛かった。だとしても、こ
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れ以上先延ばしにはできない。自分の心は決まっている。手遅れかどうかは、やってみな
ければわからないのだ。ひとつ言えるのは、ここで悩んでいるうちに確実に時間が過ぎ、
すでに西洋医学を修得している医者との差は開く一方であることだ。意を決した高木は、
父に自分の思いを告げた。懸念された学費は、戦役の行賞金13両2分と、藩主からの奨
学金でめどが立っていた。それを聞いた喜助は何も言わず首を縦に振った。そして再び彼
は鹿児島へ向かった。戊辰戦争での経験から、医学への思いはいっそう強くなっている。
もう20歳である。果たして手遅れかどうか・・・。とにかく人一倍勉強しなければならない。
それが2度目のわがままを許してくれた両親の気持ちに報いる最大の道である。そんな高
木に、また転機が訪れた。新生活にも慣れた7月のある日のこと、まだ東京に残っていた
石神から思いもよらぬ知らせが舞い込んだ。石神が新たに設立される鹿児島医学校に赴任
するかもしれないというのである。再び師の教えを乞うことができる。それは望外の喜び
であった。ところが、石神の話はそこで終わらない。なんとウィリスも一緒だというでは
ないか。京都で石神ら藩医を助手に従え、鮮やかな手つきで次々と外科手術をこなしてい
ったというあのウィリスから直接教えてもらう機会に恵まれることになったのである。に
わかには信じられない話であった。
政治的な背景からドイツ医学に倣うことをきめた明治政府
ウィリスが鹿児島医学校に赴任することになった背景には、医学界の政変ともいえるべ
き動きがあった。神田にあった東京医学校兼大病院の院長だったウィリスは、日本医学の
父になるべく粉骨砕身日々の激務をこなしていた。しかし、ウィリスの人事を決定した政
府そのものがイギリス医学に国の将来を託していいものかどうか、ぶれ始めたのである。
政府はこの件について、相良知安と岩佐純に調査させた。すると「今後わが国はオランダ医
学の原点であるドイツ医学によるべきである」という結論が出された。調査にあたった2人
は蘭方医である。当然の帰結である。医学校の医者たちもこぞってこの意見を支持した。
さらに政府内でも、副島種臣、大隅重信らがこぞって賛成した。彼らの賛成理由は、「英国
語であるアメリカごときは民主政体で、まったくわが国とは相いれない。したがって学術
も同じ君主政体であるドイツに倣うべきである」という、本質から逸脱したものであった。
かつてウィリスの診療を受け、その腕の確かさを体感している山内容堂は強く反対したも
のの聞き入れられなかった。ドイツ医学の採用は決定された。そしてこの決定こそが、そ
の後の日本の医学界を権威主義的ないし権力主義的なものへと導くことになった。ウィル
スは在任1年弱で東京大病院を去ることになった。在任期間が短かったが、東京医学校で
のウィリスの門下生たちはその後の日本医学界の中心人物として活躍し、高木の同志とな
って行動をともにしたものも多かった。大病院を去ったウィリスは西郷隆盛の推薦や石神
良策の奔走によって薩摩藩の鹿児島医学校の校長に明治2年12月に招聘された。
ウィリスを校長に迎えた医学校での勉強が始まる
鹿児島医学校は新たに建てられたものである。英国人の校長就任には藩内の漢方医から
の抵抗もあったが、石神の啓蒙活動によりそれほど大きなものにはならなかった。夢が現
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実となった高木の意欲は一段と高まった。ウィリスはここで、高木をはじめ150名に及
ぶ門下生を教育している。鹿児島医学校は、本科と別科の2つに分かれていたが、高木は
4年制の本科の第1期生として入学した。高木はそこでウィリスについて英語や医術を学
んだ。いずれも充実した内容で、彼はむさぼるようにウィリスの話を聞いた。別科は2年
制で、郷村の医者の子弟に診療の実施や調剤を練習させ、村に戻ればすぐ開業ができるよ
う訓練を行っていた。高木をはじめとした優秀な学生は、教員助手として別科での指導も
担当した。学生数は1学年50名程度であった。医学校と病院の体制も、かなり整備され
た大規模なものだった。カリキュラムは英会話、薬物学、解剖学などの基礎学科に英文法、
包帯法、臨床科目、実習からなっており、1日おきに講義と実習(附属病院で実際に診療す
る)を並行させていた。このことは、ウィリスの医学教育の特徴である。ちなみにウィリ
スの門下生の中からも、河村豊洲、加賀美光賢といった高木と行動を共にする人材が輩出
されていることは興味深い。ウィルスはその意味からも高木の生涯を形作った恩師といえ
る。
ウィリスの勧めで英国留学の話が動き出す
高木は学生でありながら、助手として働き、給料も出た。とはいえ学校の財政は豊かで
はない。とてもその働きに見合った額ではなかった。それでも高木は文句ひとつ言わず、
ひたすら勉強し、献身的にウィリスを助けた。そんな姿を日々目の当たりにしていたウィ
リスは、高木が薄給であることに絶えず憤っていた。時に直接待遇改善を当局にかけあっ
た記録も残っている。ウィリスがそのような行動に出たのは、もちろん高木の働きぶりに
よるものであるが、それとは別に高木の人柄そのものを好いてもいた。彼は男らしくあっ
さりしており、妙な隠し立てや駆け引きをしない。思ったことはストレートに口にし、行
動力もある。そんな男だから日本できゅうきゅうとするのではなく、外国にわたって見聞
を広め、世界に羽ばたく仕事をするべきであると考えた。それにはまず留学が一番である。
ウィリスはしきりに英国留学を勧めた。かつて石神の口から留学の話は聞いていたものの、
ウィリスからその話が出ると夢が一層現実に近づいた感じがした。不安がないと言えば嘘
になる。しかし、その日に備えて医学はもちろん英語の勉強にも努めてきたのだった。高
木に依存はなかった。
恩師もまた英国留学を後押し
この道を後押ししたのが、またも石神良策の存在である。実は高木が英国留学の件を真
剣に考えていた頃、石神は明治4年3月に鹿児島医学校を辞し、海軍軍医寮(後の海軍医務
局)の実力者になっていたのだ。しかも石神も高木を海軍から英国へ留学させようという考
えを抱いていた。機は少しずつ熟していたといえよう。高木がウィリスの下で学んだ期間
は決して長いとはいえない。しかし、人の数倍熱を入れて勉強しただけに、その時間をは
るかに凌駕するものをウィリスから得ていた。ウィリスの教えを受けずとも、高木は英国
留学を果たしていたかもしれない。しかし留学を通じて得たものはまったく変わってきた
であろう。ウィリスに師事した経験がなければ、帰国後に高木がなしえた偉業の数々はな
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かったかもしれないのである。期待を胸に高木が鹿児島を後にしたのは明治5年早春のこ
とである。この年福沢諭吉が「学問のすすめ」を著し、富岡製糸場が設置され、新橋横浜間
に初の鉄道が開通した。維新の混乱も落ち着き、わが国は近代国家への礎を着々と築き始
めていた。
4.英国留学
海軍軍医としての日々。そして結婚、父との永訣
明治5年4月15日、高木は海軍軍医としての日々が始まった。英国留学への第一歩が
始まったのである。石神良策は、海軍軍医療の人事、制度の両面から英国風にしたいと画
策しており、ウィリスの弟子に声をかけていた。さらに彼には海軍軍医を養成する学校を
作るという構想もあり、是非とも教官を英国から招聘したいところであった。これが後に
高木の活動に大きく影響することになる。この年には、高木にとってもう一つ忘れられな
いことがあった。結婚である。式は6月23日に行われた。媒酌人は石神良策。新婦富は、
石神の長崎遊学時代の友人、瀬脇寿人の長女で、当時18歳であった。瀬脇は本名手塚律
蔵といい蘭・英学者として知られた存在であった。また、開国論者としても知られ、桜田
門外で伊藤博文、井上馨、高杉晋作らに要撃され、郷に飛び込んで一命を取りとめたとい
う話もある。さらに福沢諭吉は幕府洋学校勤務時代の僚友であり、西周や神田孝平らは、
瀬脇の門下生だった。こういった瀬脇の人脈が後の高木の大きな助けとなる。
明治6年8月13日長女・幸、翌年11月10日には長男・喜寛と子宝に恵まれ、高木
は幸福な家庭生活に満足していた。一人っ子であった高木にとって、子どもは多いほうが
よかった。その一方で大きな悲しみにも襲われた。父・喜助の死である。危篤の一報を受
け、大急ぎ帰郷したのだが臨終には間に合わなかった。なくなったのは明治7年12月6
日。喜寛が誕生してからまだ1ヶ月も経っていなかった。父の出征、自らの鹿児島行き。
思えば長じてから喜助と過ごした時間は、決して長いものではなかった。貧しいながらも
息子の希望をかなえるために頑強ではない体に鞭打って働き、自分のわがままに文句一つ
言わなかった父を思うと胸が痛んだ。しかも喜助の死によって老いた母は一人きりになっ
てしまう。東京に戻る日、村外れまで見送りに来てくれた母の姿を、振り返って見ること
ができなかった。
「ライフワーク」となる脚気との出会い
さて、着任以来連日の診察に追われていた高木が直面したのが、脚気患者の多さである。
当時の海軍軍人1552人のうち、年間で延べ6348人の患者が出ていた。単純計算で
考えても、同じ人間が年に4回以上も罹患していたことになる。しかも、死亡率も異様に
高かった。それなのに治療法としては対処療法しかなく、効果はほとんど期待できなかっ
た。この空しさは、かつて三春の野戦病院で受けた屈辱をいや応なしに思い出させた。何
とかしてこの病のメカニズムを解明し、有効な治療法を確立したい。それこそが自分の使
命である。それができるのは自分しかいない。高木は高揚した気分になった。そのために
も、一日も早い留学が急がれた。石神も同じ思いで、話の具体化に東奔西走した。
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英国から招聘されたアンダーソンが留学を後押し
ここでまた一つの出会いが高木の運命を決定づける。明治6年8月軍医学校が新設され、
軍医並びに同校医学生の教育のために、英国からウイリアム・アンダーソンが招聘された。
高木の優秀さは彼の目にとまるところとなり、アンダーソンは高木の留学を強く後押しし
た。さらに留学先として、自らの母校であるセント・トーマス病院医学校を紹介、推薦し
てくれたのである。これでついに夢が実現する運びとなった。高木はアンダーソンに深く
感謝した。
明治6年は西郷隆盛が鹿児島に戻った年でもある。維新の英雄の一人西郷も、徴兵令に
同意したことで薩摩士族の反感を買い、征韓論にも敗れ、下野せざるを得なくなったので
ある。高木も薩摩藩士族の一人として戊辰戦争に参戦したことがあり、無関心ではいられ
なかった。しかし、ウィリスに師事し、アンダーソンに教えられていくうちに、高木の考
え方はすっかり変わっていた。自分は病人を治す医者になる。そのために英国に渡るのだ。
高木の眼は、今や遠く英国に向いていた。士族の問題はもうどうでもよくなっていたので
ある。
明治8年1月、高木は、同郷の実吉安純と相談し、戸籍を薩摩から東京に移しているが、
そこには依然旧習にとらわれている不平士族の行動に対する反感とも取れる彼らの気持ち
がうかがわれるのではないだろうか。
悲しみを乗り越え、決意も新たに英国へ
石神やアンダーソンの尽力のおかげで留学先も決定し、後は旅立ちを待つばかりとなっ
た。明治8年6月13日横浜を出港することになり、高木は準備に忙殺される日々を過ご
していた。そのようななか、悲劇が彼を襲う。出発を2ヵ月後に控えた4月1日、恩師の
石神良策が急死した。予想だにしなかった出来事に、さすがの高木も呆然自失、しばらく
何も手につかない状態であった。二人は単なる師弟関係ではなく、まるで親子とも言える
深い情愛で結ばれていた。つまり高木はたった半年の間に二人の父親をなくしたのである。
留学を目の前にしたこの巡り合わせに、さすがの彼も打ちのめされた。
だが、悲しんでばかりもいられない。こうなってしまった以上、英国では身命を賭けて
勉学に励み、西洋医学を極めねばならない。そして、帰国後は必ずや脚気を根絶してみせ
る。それこそが父や石神に対する何よりの弔いであろう。高木は首にかけた「高木家祖神の
霊」と書かれたお守りに強く誓った。このお守りは彼が始めて石神に師事したときに自分で
作った物で、それ以来、生涯離さなかった。傷心のなか、決意を新たにし、いよいよ出航
の日を迎えた。横浜港には海軍関係者をはじめ、多くの人が見送りに来てくれた。もちろ
ん妻と2歳の幸、6ヶ月の喜寛もそのなかにいた。必死に小さな手を振る幸の姿が何より
印象的で、高木の脳裏をいつまでも離れなかった。
ドイツ医学と好対照な、徹底した臨床教育
明治8年7月(1875)、ついに高木は英国本土の土を踏むことになった。希望と意欲に燃
えた留学であるが、やはり見知らぬ土地での不安や不便さはいかんともしがたい。まずは
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日常生活に慣れなければ、学問を修めるどころの話ではなかった。幸い、鹿児島の蘭学塾
以来の友人である園田孝吉が、外務省の官史としてロンドンに駐在していた。二人は折に
ふれ会い、本音を吐露し合ったであろう。高木は 10 月からセント・トーマス病院医学校に
通学を始めた。病院にはナイチンゲール病棟(1871)ができたばかりであった。同校の教
育は臨床教育が徹底され、実施的な「病院医学」が中心で、臨床に近い実際的なものが多か
った。この点は「研究室医学」が中心で、基礎医学的、生物学的な内容のドイツと対照的あ
った。また、高木が入学する少し前まで在籍していたサイモン博士の教科目は病理学であ
ったが、その内容は疫学・公衆衛生学に近いもので、健康問題を社会の集団要因や環境要
因から追及するものであった。帰国後の高木の脚気研究に大きな影響を与えた手法といえ
るだろう。
留学先で数々の賞に輝く
セント・トーマス病院医学校から受けた心の面の影響も無視できない。富めるものが貧
しいものを救う心、その象徴とも言えるナイチンゲールの精神を存分に吸収したことであ
ろう。
高木が在校したのは5年間であるが、4・5年次になると、セント・トーマス病院での
当直が急に増えている。これは現在の研修医にあたるもので、同院で高木の腕が認められ
るようになったということである。
高木の活躍ぶりは獅子奮迅というべきものであった。とにかく勉強に対する熱意は人の
比ではない。もちろん才能もあったのであるが、努力も凄まじかった。その結果が5年間
で13の優秀賞、名誉賞の受賞という驚くべき事実である。なかでも英国ロイヤルカレッ
ジ・オブ・サージアンズのフェローシップは、英国の医者としては最高の名誉とされてい
るもので、帰国後、日本で発表した英国の論文には、必ず略号である「F.R.C.S」を自分の
名前に冠している。もちろんチェセルデン銀賞、Good Student 賞(学術並び品行善良最優
秀賞)の受賞は言葉に尽くしがたい。
母の死、そして岳父の死と不幸が続く
このように充実した留学生活のなか、耐え難い悲しみのふちに突き落とされることもあ
った。わずか1年と少しの間に、3人の愛すべき人を失ったのである。
まずは母の園である。園は明治10年(1877)10月2日、故郷の穆佐で孤独のうちに息を
引き取った。父・喜助が死んでわずか3年後のことである。高木は村はずれでの別れを繰
り返し思い出した。あの日だけではない。自分は母に全く何もしてあげられなかったので
はないか。後年「園」という字を取って「穆園」と号したのも、自責の念の表れであった。そ
の悲しみも癒えぬ翌明治11年7月、あろうことか長女・幸の訃報が飛び込んできた。満
5歳になる直前の悲劇である。にわかには現実を受け入れられなかった。しかも、遠い地
であるがゆえ、細かな経緯がわからないのも高木を苦しめた。さらに明治11年11月今
度は岳父の瀬脇寿人が続く。かつては幕府の藩書調所の教授方に選ばれるほどの洋学者で
あった。帰国後教えを受けることも多々あろうと期待していたのだが、それもかなわぬ夢
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となった。
むろん人はいつか必ず死ぬものであるが、落とさなくていい命を落とすほど、残された
者を悲しませることはない。そういった悲劇を1つでもなくすため、いつまでも嘆いてば
かりはいられない。大切な人の死を無駄にしてはいけない。その思いが、帰国後の行動に
意欲を燃やすとともに、勉強ぶりにいっそうの拍車をかけた。
5.病院設立
外務卿・井上馨も高木に大きな期待を寄せる
高木が英国留学を終え、帰国したのは明治13年11月5日である。課題であった西洋
医学は修得でき、コンプレックスに悩むかつての薩摩藩医の姿はもうどこにもいない。そ
して、ただ技術を習得するだけでなく、医療行為の背景にある「心」についても存分に吸
収できた。すなわち「心」「技」が一体となり、何事にも動じない自信を持って帰国すること
ができたのである。高木に大きな期待を寄せていた一人に、時の外務卿・井上馨がいた。
かつて井上はロンドンに立ち寄った際、セント・トーマス病院医学校で高木が抜群の成績
を修めていたことを知り、大変感激していた。井上は各国公館に高木の帰国とその優秀さ
を伝え、「彼の診察を受けたければ便宜を図る」という文書を出している。高木に期待する
のは井上だけではない。高木はすぐに東京海軍病院長に任命された。同時に高木は、自分
自身のライフワークとして描いていた青写真の実行に早急に着手したいと考えていた。す
なわち日本医学界の改革と脚気の研究である。
「庶民を相手にしない」日本の医療現場に憤る
高木が留学中に常に痛感したのは、日本の貧しさであった。明治3年の平均寿命は、男
24歳、女28歳である。寿命が短い原因は急性伝染病(コレラ等)にあった。貧しさゆえに
ろくに食べられず、結果病気にかかりやすく、抵抗力がないためにすぐ死んでしまう。そ
んな悪循環に日本人は陥っていた。
開業医の時代が始まり、言われるままに医療費を払える富裕層はともかく一般庶民には
ますます医者は遠い存在となっていた。一方国費によって国民のために作られた官立の大
学病院(東大病院など)は、医者の特権意識が強く、研究の対象外だからといって診察を拒否
するケースや疲れたという理由で欠勤するなど珍しくない。施療患者入院心得書の第1条
に「その病症学術研究上須要と認むる者にかぎり入院を許す」と明記されていたほどである。
帰国したばかりの高木はこのような医療現場を見て呆れ果てると同時に、抑えがたい憤り
を感じた。医学の目的とは何か。病人を治すことである。医者の前には病気があるのでは
ない。「病気になった人間」がいるのだ。その「人間」をさしおいて、「病気」だけに目を向
けるとは何事か。
松山棟庵らとともに成医会を結成
高木の怒りは、「自分」に起因した、切実な痛みを伴った思いである。両親、岳父、恩師、
愛娘の死。すべてが「自分」の痛み、苦悩、悲哀であった。また、高木には留学中から、い
つか日本にもセント・トーマス病院医学校のような立派な病院や学校を作りたいという思
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いがあった。それは漠然とした希望であったのだが、かくも冷酷な事実を突きつけられて
は一刻も急がねばならない。こうしている間にも、連日大学病院で「大先生」の診療を断ら
れ、落とさなくてもよい命を落とす人が出ているのだ。しかし、熱い思いはあるものの、
具体的な方策はなかった。病院は一朝一夕に設立できるものではない。資金も場所も必要
だ。そんな矢先、英国派医師の松山棟庵が訪ねてきた。松山は、明治6年に福沢諭吉が開
校した慶応義塾医学所の教師であった。しかし、明治13年に廃校になり、岳・父の僚友
であった福沢諭吉から高木の優秀さを聞かされていたという縁で、松山は高木訪問を実現
させた。松山もまた、日本の医療現場の荒廃ぶりを憂慮していたのである。意気投合した
二人は語り合った。そして、強力な医学団体を作り、そのもとにさまざまな医療事業を展
開するのが最適であるという結論に達した。こうして民間医学団体・成医会が明治14年
1月に誕生する。成医会の会長には高木兼寛が就任し、会員は約60名を数えた。
医療に見捨てられていた人たちにもついに日の当たる時が来た
成医会の例会では、会員同士の医療行為の情報交換を基本としながら、時には患者を囲
んでの座談会も催された。患者不在になることは高木の望むところではないからである。
いよいよ本来の目的である医療事業に着手するときである。柱になるのは、「貧しい病人
のための施療病院の建設」と、「人間的医師を育てるための医学校の設立」であった。いずれ
も大事業である。高木はその両者を並行して進めた。あくまでもセント・トーマス病院医
学校が目標である。いかに苦労しようともこの基本理念だけは譲れなかった。成医会メン
バーは施療病院設立に向け協力を呼びかけた。幸いすぐ共感を得るところとなり、35名
の同志が手を上げてくれた。早速発起人会が開かれ、「有志共立東京病院」という名の病院
が、拠金も順調に集まり予約金2万円に達し、明治15年7月開院の運びとなった。高木
は副院長の職務と連日殺到する患者の診察に終われる毎日であった。明治16年9月、当
初予定していた府立病院が払い下げられ、引越しが実現した。「これで初期の目的が達成さ
れ、恩顧ますます多くの病人の力になれる」と、多忙を極めるなか高木は一段と身の引きし
まる思いであった。
伊藤博文の協力の下、支援組織が発足した
だが、病院の繁盛は皮肉にも彼に別の試練を与えることとなった。経営の圧迫である。
医療費が無料なので、患者が増えるほど資金繰りが苦しくなってしまうのだ。今後病院を
発展させていくにはどうしても安定した経営の基盤が必要である。義援金にたよるのも限
度があった。そこで、伊藤博文に相談することにした。伊藤は、高木に好感を抱いていた
上に、高木の理念に共感し、将来にわたる積極的な協力を約束してくれた。さらに、当座
の具体策として、「病院の総長に有栖川宮威仁親王を頂、盛大な開院式を挙行」「それを契機
にして華族婦人を中心とした後援組織を結成」の2点をあげた。高木はすぐに実現へ向けて
手を打った。ことは首尾よく進んだ。彼の熱意が伝わり、有栖川宮殿下の病院総長ご承引
を機に、明治17年病院開院式を盛大に挙行した。高木はすぐ次の行動を起こした。鹿鳴
館を舞台とする名流婦人の団体を組織したのである。この計画は伊藤博文婦人・梅子、井
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上馨夫人・武子らによって着々と進められ、東京中の話題となった。5月13日「婦人慈善
会」が結成された。婦人慈善会が最初に行ったのは、6月12日から3日間鹿鳴館でのバザ
ーで、入場者1万2千人、売り上げ8千円と好評であった。2度目には、皇后、皇太后両
陛下がおいでになり、婦人慈善会の活動に深い関心を示された。2度のバザーで得られた
1万5千円の収益金は、全額病院に寄付され、レンガ造りの建物を新築しそこに日本発の
看護婦養成所を設立した。それまで有志東京共立病院には、資金難ゆえ看護婦はいなかっ
た。「医師と看護師は両輪のごとし」という高木の持論をここに来てようやく実現したので
ある。
しかし、毎回バザー頼みでは無理がある。安定した経営と、継続的な発展のためには、
永続的な財源が必要であった。そこで、「皇后に慈善会の総裁になっていただき、御自ら事
業に参加していただく」というものだ。英国を始め、西洋では救済病院の総裁に皇后を迎え
るのは普通のことである。明治19年6月、皇后に上奏書を提出した。婦人慈善会もはじ
めは半信半疑であった。「皇后陛下が総裁になられることを御承知なされた」という沙汰が
あったのは4ヵ月後の10月であった。ついに問題が解決した。
ついに東京慈恵医院が開院
翌明治20年1月、婦人慈善会委員29名と井上馨は、皇后陛下の御前で、病院名を「東
京慈恵医院」と改称することをはじめ、病院の組織について親しく上奏申し上げた。その結
果、皇后から、院長に高木が、幹事長に有栖川宮親王妃殿下が特選された。東京慈恵医院
の開院式は5月に華々しく挙行され、皇后陛下の御臨席を仰いだ。皇后はその後、年1~
2回この病院に足を運び、施療患者を厚く見舞われることとなった。振り返ると病院が設
立され、明治40年に法人化され経営問題が手を離れるまでの25年間、資金問題は絶え
ず高木の悩みの種であった。しかも、ちょうどかの不毛な脚気論争とも重なっている。患
者と本音でぶつかり合い、資金繰りに東奔西走し、陸軍・東大グループとやり合う日々が
続く。しかし、へこたれることなく重戦車のごとく突き進んでいく姿は、まことに頼もし
い限りであった。
いかなる局面においても「心」を第一においた医療を行う
当時の東京慈恵医院の具体的様子で特徴的なのは病棟である。左右一列にベッドが並び、
中央にナースステーションが配されたつくりは「ナイチンゲール病棟」をモデルとしたもの
であった。ナイチンゲールの思想の根底にあるのは、「患者の心の安定」である。日常看護
の細かな技術も、すべて患者の心を落ち着かせるのが目的で、ただの冷淡なテクニックで
はない。要は、看護に当たるものの手際がよければ、患者が安定するということなのだ。
医療の対象は「悩める人体」ではなく「悩める人間」である。というのが彼女の基本理念であ
る。高木の創設した医学校の建学の精神「病気を診ずして病人を診よ」の根底にあるものは、
まさにナイチンゲールの精神の表れといえよう。
がん・肺炎と2度の生命の危機を高木に救われた実業家・渋沢栄一は、中耳炎と肺炎を
併発して生きることに対して弱気になっていた際に高木に励まされたという。「先生は断固
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としてこれを斥け、病気の必ず回復すべきを確信せられたり。このときも果たして快癒し
て、いまさらに先生の明晰を感謝したり」と語っている。この渋沢の回想からは、高木の腕
前もさることながら、温かい気遣いにより、いかに勇気づけられたかが読み取れ、医師高
木の実像が明確に浮かび上がってくる。
6.医学校設立
医者としての崇高な「心」までも育む
成医会を創立した高木が病院と並んで目指したのが、医学校の設立である。高木は明治
14年3月成医会例会において、医学校として成医会講習所の設立を提唱し、直ちに承認
された。ただ、病院設立が決定した直後である。2つの事業を同時に行うのは無謀とも思
えたが、彼にはどちらが欠けてもいけなかったのである。
高木が目指したのは、高い医療技術を持つのはもちろん、患者の心も理解できる懐の深
い医者の育成である。当時の医学会は研究至上主義が色濃く、患者はその対象物に過ぎな
いとされがちであった。いたがって、病気を抱えて苦しんでいる「人間」には目が向かない
医者が圧倒的多数であった。そのような医者を招いては結局自分の理想とする医学の実践
はできない。とはいうものの、課題が山ほどあるなかで、具体的にどこから手をつけてい
いのかわからずさすがの高木も頭を抱えていた。そこで大きな助けとなったのが、松山棟
庵である。彼には医学校を福沢と設立して、経営に失敗したという苦い経験があった。二
度と同じ轍を踏まないよう、二人は慎重に医学校設立計画を進めた。こうして、明治14
年5月「成医会講習所」が今の東京慈恵会医科大学の地に開講された。教員は高木、松山と
いうベテランのほか、新進気鋭の海軍軍医たちという布陣であった。もちろん海軍の教官
は、本務としての講義を聴講していたということで、給料もほとんど支払われずボランテ
ィアだった。
医学校の特徴は厳しい試験と女子学生
校長が目指すものの高さゆえ、講習所における教育は厳格そのものであった。最初は、
100人ほどいた講習生もカリキュラムが進むにつれて1人、また1人と減り、1年後に
は20人ほどになっていた。特に頻繁に行われる試験は厳格の極みで、順調に4年の過程
を経て卒業できる者はわずかであった。しかし、高木は「悩めるものに正面から向き合う心
を持つ医者は、これほどの試練に耐えて当然である」と考えていたので、容赦することは一
切なかった。
こうして成医会講習所は、明治18年にめでたく7名の第一回卒業生を世に送り出した。
成医会講習所の厳しい教育に負けず学問にはげんだ者は、ほとんど医術開業試験に合格で
きた。その比率は他の医学校と比べて群を抜いていた。また成医会講習所は、抜群の合格
実績以外に、女子学生の存在でも話題になった。女子の医師の資格を与えるべきか否かが
はっきりしていなかった時代に、2名の女子学生が在籍していた。そのうちの一人本多は、
女医の草分けとして大きな足跡を残した。
終始一貫して「心」を重んじる
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明治20年、有志東京共立病院は皇后を総裁にいただいたのを機に東京慈恵医院と改称
した。また、成医会講習所も東京慈恵医院学校と改称され、明治24年慈恵医院の隣の新
校舎へ移転した。成医会を結成してから10年目に、セント・トーマス病院医学校のよう
な病院と医学校が一つになった医療施設がようやく完成した。
しかし、高木には一抹の不安があった。組織が大きくなり、人が増えるにしたがって次
第に建学の精神が薄れるのではないか、という点であった。そうならないためには何より
まず、自分が徹底しなければならない。そこで高木は、学生たちに愚直なまでに同じこと
を求め続けた。それは、患者の痛みや苦しみがわかる「心」を持った医者たれ、ということ
である。そこで、入学試験には、「品性試験」が設けられている。また、入学に際しては、
異例の「保証人不要」という措置がとられた。これは、学生といえども、卑しくも医者を目
指すものは、修行段階から精神的な自立、つまり親離れを求めるためであった。ただし、
親へ感謝する心はきわめて重視され、自立は親の存在を忘れることではない。また、医師
は品位を保たねがならないということで、外観を整えさせるため、朝校門に立ち、学生の
服装が乱れていると自ら直した。校長が自分の服が汚れるのもかまわず、ひざまずいて乱
れを直す姿に、学生の誰もが感銘を受けた。
こうしていたるところで「心」を貫いた高木が、最終的にたどり着いたのが宗教である。
医者とは誰よりも多く人の生き死にに接するものである。いかに完璧な医療行為を施して
も、死を避けることはできない。患者をただの対象物として扱うのなら、ドライに割り切
ることもできようが、高木のように患者の心と対峙していく者は、一つ一つの死の意味を
重く受け止めざるを得なかった。その気持ちは経験をつむほど強まっていった。生死を巡
る深遠な問題は、とても一人では抱えきれるものではなかったのである。明治36年、学
校の教師や学生とともに、「明徳会」という倫理道徳の会を結成し、毎月1度、名僧高徳と
いわれる人を招き、仏教講話を拝聴するようになった。明治44年には禅的修養の会とし
て「同和会」も結成している。
7.脚気論争
セント・トーマス流の疫学的アプローチで脚気研究に取組む
明治13年、英国留学から戻った高木が日本の医学界の改革とともに取り組んだのが脚
気の根絶である。高木が直面したのは、海軍内における脚気患者の多さで、これはそのま
ま国力の低下を意味していた。当然有効性のある治療が期待されたが、効果の低い対症療
法を繰り返すのみである。政府の大久保利通も衛生局長に脚気病院の設立を指示したが、
4年後に廃止になった。その後、東大医学部に脚気病室として移され、原因・治療法の研
究が進められた。高木はセント・トーマス流の疫学的アプローチでこの問題に取り組んだ。
まず、海軍軍人について調査を開始した。衣類や生活空間の差異、気温との関連など切り
口を変えて試行錯誤を繰り返し、差異の強い事柄に着目して調査を行う中、「階級」にたど
り着いた。高木は、士官、下士官、水兵、囚人と各階級について脚気の発生率を調べた。
囚人に最も多く、次いで水兵、であった。士官にいたってはほとんど見られない。つまり
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階級の低いものほど脚気にかかる率が高いことがわかった。これは単なる偶然ではない。
調査を通して、脚気の原因が食事にあることを確信する
高木はデータの正確性を期するために、一般庶民にも同様の調査を行った。結果は同じ
であった。要は経済的に余裕があるかないかが、この病の鍵を握るように思われた。衣食
住のなかで、衣と住は海軍の調査で関連性がないことがわかっている。残るは食だ。食事
の内容、質に問題があるのではという結論に達したのは明治15年2月であった。
当時海軍の1日における食費は、士官40銭、水兵18銭、囚人9銭であった。水兵に
ついては、18銭のうち食費に当てられるのは10銭で、残りは仕送りのために貯蓄に回
されていた。つまり水兵の食事は囚人並みであった。これは高木の理論を裏付ける重要な
数字であった。彼は早速食事の実態を調査した。結果は彼の考えのとおりだった。高木は、
脚気の原因が炭水化物の過剰摂取とたんぱく質の不足にあると直感した。
そこで、たんぱく質と炭水化物の量比の計算を、窒素と炭素に置き換えて行った。これ
は二つの量比が比例するという性質を生かしたもので、セント・トーマス病院医学校で学
んだパークスの本に基づいていた。健康標準食では窒素対炭素で1対15、海軍士官は1
対20、水兵は1対28と炭素の割合が倍に近かった。さらに調べると、1対23以上に
なると脚気にかかることもわかった。海軍における脚気問題の解決法はたんぱく質の比率
を増やせばいい。しかし、洋食化するには1日33銭必要で、水兵の食事を倍にすること
は通る話ではなかった。
軍艦「龍驤」の事件が高木説の正しさを実証
そんななか、彼にとって転機となる事件が起きた。明治16年南米に272日の練習航
海中の軍艦「龍驤」が品川沖に帰還した。376名の乗組員のうち169名の重症脚気患
者をだし、25名が亡くなった。同艦から「病者多し航海できぬ金送れ」との悲痛な電報が
海軍省に届いていたほどである。高木は早速「龍驤号脚気予防調査委員会」を組織し、調
査に当たった。結果彼の考えの正しさは裏付けられた。しかし、海軍が動く気配はなかっ
た。こうなればさらに上へ直訴するしかなかった。海軍卿の上といえば伊藤博文か明治天
皇であった。幸か不幸か明治天皇も脚気で苦しんでいた。伊藤は高木の理論で脚気が根絶
できるのか気にしていたが、高木の「もちろん確信があります」という自信に満ちた言葉に
信頼できると確信した。そこで、「陛下も脚気については心を痛めていらっしゃる。自分が
まず話をするから、いずれ思うところを忌憚なく述べるがよい」ということになった。つい
に天皇謁見を実現させた。
参内日、海軍卿の同道の下、有栖川親王と伊藤博文が臨席するなか、高木は龍驤の悲劇
という事実を踏まえた自らの思うところを奏上した。効果はてきめんだった。
航海実験により自説の裏づけに成功
その天皇謁見日のうちに、食料の現物支給案は成功し、明治17年から全海軍で実施の
運びとなった。まずは胸をなで下ろしたが、まだ安心はしていられない。確信はあったが、
自らの説の裏付けはできていない。そんな時、軍艦「筑波」の練習航海の話が舞い込んでき
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た。好機到来である。伊藤博文への強い働きかけの結果、「筑波」のコースを「龍驤」と同じ
にすることができた。高木によって考案された食糧を満載にした「筑波」は、明治17年2
月品川を出港した。食事の内容は窒素と炭素の比率が1対15に抑えられている。ちなみ
に「龍驤」での比率は、大量に患者が発生するまでは、窒素1に対し炭素は水兵28、下士
官15、士官20であった。高木に自信はあったが、理論というのは実践に移すと思わぬ
結果となることもよくわきまえている。結果が出るまで正直なところ不安は隠せない。海
軍内にも「飯で脚気にならないのなら、こんなに楽なことはない」と批判的な声も少なくな
かった。それも無理はない。理屈だけでは人心は動かせない。動かぬ事実が必要なのであ
る。
「筑波」は約50日ほどでニュージーランドに着いた。患者は4人。次に60日ほどをか
け、チリに到着した。ここでは6名が罹患。いずれも「龍驤」とほぼ同数である。問題は
この先、「龍驤」で150名もの患者を出したハワイまでだ。まさに正念場である。さすが
の高木も、「筑波」からの報告に眠れぬ日々を過ごした。「筑波」からの連絡は9月19日に
届いた。「病者一人もなし安心あれ」というものであった。問題の区間で患者はただの一人
も出なかったのである。大成功だ。「筑波」は明治17年11月16日に練習航海を終えて
品川に帰港した。患者発生数は全乗組員333名中、実数14名、延べにして16名で死
者はなし。「龍驤」は367名中実数169名、延べ396名である。差は歴然である。「筑
波」の患者にしても原因は明らかであった。4名の練習生はコンデンスミルクを飲まず、1
0名の水夫中8名は肉食を拒否した者である。つまり高木の考えた食をとらなかった者が
脚気にかかったわけで、彼の理論を一段と裏付ける結果となった。
海軍の脚気患者はゼロに
兵食の改善が脚気予防に有効であることは証明された。だが、まだ問題はある。その効
果的な食事を拒むものが少なくなかったのだ。高木は、パンに代わる物を考えた。麦であ
る。麦はパンの原料でありたんぱく質も多い。そこで、明治18年3月からは、麦と米を
半分ずつ混ぜて供することにした。明治23年10月3回目の天皇拝謁の際に、高木は、
自分が行った兵食改善により、海軍から脚気が根絶されたことを報告した。
ちなみに、兵食改善が行われる前年までは、1000人当たり300人以上の患者が出
ていた。改善の年には127人、翌年は6人と激減する。その後「なし」という状態が60
年の長きにわたって続いた。この功績により、明治18年高木は海軍軍医総監に任ぜられ
た。また、明治21年にはわが国初めての医学博士の学位を受け、明治38年には男爵を
賜っている。
高木の論文発表から20年、人類はようやくビタミンを発見
脚気は食事の改善から予防できると確信した高木は、明治18年その説を成医会発行の
雑誌に英文論文として発表した。また、明治39年母校セント・トーマス病院医学校で行
った脚気撲滅の成功についての特別講演を3日間行った。この論文は欧米の医学者、栄養
学者に大きな衝撃を与えた。さらに、200日の行程でアメリカを始め8カ国を旅行し、
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フィラデルフィア・コロンビア・英国ダラムの各大学から名誉学位を授与された。これら
の結果、業績が大いに注目され、高木の名前を世界中に知らしめることになった。この後
ポーランドの生化学者フンクが、明治45年に「生命に必要なアミン、ビタミン」と命名
し、その学説を公表した。ビタミンが発見されると高木の先見性はいっそう高く評価され、
彼は「ビタミンの先駆者」「ビタミンの父」とまで称されるようになった。20年前の成医会
発行の英文論文を礎にして、ついに人類はビタミンへとたどりついたのである。
不毛な「脚気論争」が日本のビタミン発見を遅らせた
ではなぜ日本でビタミン発見が進まなかったのか。問題は、東京帝国大学を拠点とする
ドイツ医学という医学界の主流派の存在にあった。高木の説をよしとしない主流派により、
実に不毛な脚気論争が繰り広げられていったのである。
「筑波」の実績など高木の説を裏付ける事実が着々と明らかになるのとは裏腹に、脚気病
菌を発見したという報告を東大の医学部教授がした。また、明治18年10月には、ドイ
ツ留学中の一等軍医・森林太郎(文豪森鴎外)が「日本兵食論大意」という論文で、高木の推進
している麦食・洋食を手厳しく批判した。森は帰国後も麦食排除の姿勢を崩さなかった。
当時陸軍内でも麦食が進み、奏功していたのであるが、それすらも森は痛烈に批判した。
その言い分は、「麦食の跡に脚気患者が減ったとしても、それは偶然時期が一致しただけで、
麦食が直接の原因ではない」という誠に奇妙なものであった。世界ではビタミン発見に向け
学者が競い合っている。そんななか、陸軍・東大グループだけが旧態依然とした発想に拘
泥し続け、脚気栄養説を空しく攻撃していた。
8.晩年
宮崎神宮大造営
明治31年、25年ぶりに高木は穆佐を訪れた。これは、明治32年が神武天皇御降誕
2620年にあたり、記念大祭会を催すための発足式が行われたからである。この大祭会
は高木の提唱によって結成され、多くの賛同者が集まった。そして、神武天皇が御降誕の
地に建てられたという宮崎宮を大造営するための資金集めに取り組んだ。この年以降、高
木は毎年のように宮崎神宮を訪れている。
麦食の有用性を全国に説いて歩く
欧米旅行の帰国後、日本の国民の体力が低下していることに気づき、大正元年頃から全
国の学校を中心に保健衛生についての講演行脚を始めた。その数は1388回、聴衆は6
7万人に達した。活動は8年間続いた。講演の核を成すものは「麦食」であった。「自宅では
明治18年以来、どのような祝い事があっても、いかなる珍客が来ようとも麦飯を供して
いる」と、自ら麦食を徹底実践しているエピソードを交えた講演は、人間的な温かみと強い
説得力を持って全国の聴衆を魅了した。
禊にのめり込む
大正4年、あろうことか次女・寛子が子どもを残して世を去ったのである。かつて英国
留学時代の長女・幸に続く娘との別れに、さすがの高木も打ちひしがれた。念仏も座禅も
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その苦しみの前にはまったく無益であった。彼は新たな世界に出会った。「禊」である。指
導者は川面凡児であった。禊とは絶食に近い粗食をとり、冬は海水、夏は山間の冷水に身
を浸しながら激しい運動を繰り返す行であって、その中で心身を統一し、神我一体の境地
に達するという神道である。川面の話を聞くにつれ、高木はこれこそが今の自分に必要な
ものであることを直感した。
最晩年の高木の心境がうかがえるエピソードがある。彼は学生がタバコの吸殻や使い終
えた鼻紙を道や床に捨てるのを見ると、激怒したという。タバコも鼻紙も使った人のため
に尽くしてくれた物であり、しかるべきところへ捨てるのが報恩感謝の念を示す道である、
というのがその理由であった。常日頃から高木は周囲への感謝の思いを忘れなかったが、
その対象は物にまで至ったのである。
相次ぐ子どもの死、そして・・・
大正8年1月に、三男・舜三が36歳の若さで、ニューヨークで病死した。その年の5
月、今度は次男・兼二がチフスにかかり、38歳の若さでこの世を去った。6人の子宝に
恵まれながら、残ったのは長男の善寛一人という過酷な運命に、さすがの巨人も立ち向か
うことができなかった。完全に生きる力を失い、大正9年4月13日持病であった腎炎が
再発し、脳溢血病状を発し、息を引き取った。享年72歳であった。「ビタミンの父」とし
て世界にその名をとどろかせた高木兼寛は、青山墓地に静かに眠っている。
世界に知られる高木兼寛
高木が世を去って90年、国内での知名度は高くないが、世界的に見ると特に関係者の
間ではその名を知らぬものはいないほどの存在である。それを象徴するのが、南極大陸の、
南緯65度33分、西経64度14分、グレアムランド西岸のルルー湾の北東部に存在す
る「高木岬(Takaki Promontory)」である。英国の南極地名委員会によって昭和34年に命名
された。その説明には「日本帝国海軍軍医総監であり、1882 年食事の改善によって脚気の予
防にはじめて成功した人」とある。この岬一帯には、著名なビタミン学者5人の名が冠され
た地がある。
高木は晩年、穆園と号して漢詩や和歌を詠み、書を楽しんだ。穆園の“穆”は故郷の地
名由来のものであり、“園”は亡き母の名前である。ふるさとと亡き母を慕う気持ちがここ
に現れている。実際に、高木はお世話になったふるさとの人たちの子孫や母の実家の縁者
への援助を惜しまなかったという。宮崎神宮の大造営の幹事長という大役に力を注いだの
も、ふるさとへの恩返しの一環として捉えることもできる。
高木の最後の書といわれる「地霊人傑」がある。地霊人傑とは「優れた土地柄が、優れた
人を生む」という意味だ。幼い日に「四書五経」を学びながら、西洋医学の道に進んだ高木が、
晩年になって再び漢詩の世界に親しみ、若くして離れた故郷への想いを託したことに、人
生の深遠さが感じられる。
~本校校長室には、高木の書が 2 点掲げてあります。ぜひみてください。~
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