21.文豪モラエスの徳島における足跡を辿る (3)地蔵橋 著者: 林 久治 (1)前書き 最近、私(著者の林)はイエス・キリストとポルトガル人・モラエスを少々研究 している。なぜなら、この二人は謎の多い人物であるからである。イエスに関して は、本感想文の第1-5回と第 15-18 回で取り上げた。 モラエス(1854.5.30-1929.7.1)に関しては、次のような感想文を書いた。 第8回:新田・藤原著の「孤愁」(以後、本Ⅰと書く) 第9回:佃實夫著の「わがモラエス伝」(以後、本Ⅱと書く) 第 10 回:岡村多希子著の「モラエスの旅:ポルトガル文人外交官の生涯」 (以後、本Ⅲと書く) 第 11 回:モラエス著の「徳島の盆踊り」(以後、本Ⅳと書く) 第 12 回:林著の「神戸時代のモラエス」(以後、記事Ⅴと書く) 第 13-14 回:モラエス著の「おヨネとコハル」(以後、本Ⅵと書く) 第 19 回:モラエス著の「モラエスの絵葉書書簡」(以後、本Ⅶと書く) 今回、モラエスに関する新しい本「モラエス:サウダーデの旅人」(以後、本Ⅷ と書く)を、図1に紹介する。 図1.本の紹介。 本「モラエス:サウダーデの旅人」 著者:岡本多希子(東京外大・名誉 教授) 発行:モラエス会、2008 年発行、 953 円 本書は、手軽に読めて、簡潔にまとめ られたモラエスの伝記が欲しいとの多 くの方々の要望に応えるために、モラ エス会が岡村教授に執筆を依頼したも のである。なお、本書は、徳島・眉山 山頂の「モラエス館」で購入すること ができます。 第 19 回から、「文豪モラエスの徳島における足跡を辿る」の掲載を始めた。第 19 回は「小松島」を取り上げ、第 20 回は「二軒屋」を取り上げた。今回は、「地 蔵橋」を取り上げる。図2に、戦後の徳島の鉄道路線を示す。この中でモラエスの 足跡と関係するのは、「徳島」「二軒屋」「地蔵橋」「小松島」「鳴門」「石井」 「阿波池田」の各駅である。読者の方々に、これらの駅の位置を知っていただく目 的で、図2を掲載する。 1 図2. 戦後の徳島の鉄道路線(交通公社の時刻表より)。 (2)モラエスの徳島時代(1913.7.1-1929.7.1) モラエスが徳島に隠棲した経緯は、第 19 回に簡単に説明したので、今回は省略す る。第 19 回の記事は、次のサイトをご覧下さい。 「林久治のHP」内の記事:http://www015.upp.so-net.ne.jp/h-hayashi/D-19.pdf 私は 1942 年に徳島市で生まれ(モラエスが亡くなった 13 年後)、1960 年まで徳 島で育った。私の少年時代の日本や徳島は、現在よりモラエスの徳島時代によく似 ていた。彼の著作で、彼の徳島探訪の様子を読むと、私の少年時代の徳島が懐かし く追想される。「文豪モラエスの徳島における足跡を辿る」のシリーズを始めた理 由は、モラエスが暮らした徳島と、私が育った徳島とを比較検討するためである。 今回は、「地蔵橋」を取り上げる。図3に、 21 世紀における「地蔵橋駅」付近 の地図を示す。第 19 回に書いたように、小松島線(徳島-小松島港間)は 1913 年 4月 20 日に開通した。これは、モラエスが徳島に移住した約2ケ月前である。「地 蔵橋駅」(図3の①)は小松島線の開通と同時に開業した。当時の地蔵橋駅は徳島 県勝浦郡勝占村にあった。勝占村は 1951 年 4 月 1 日に徳島市へ編入され、現在は徳 島市勝占地区となっている。 (3)モラエスの「地蔵橋」 モラエスは、用事で徳島から神戸に行く時も、気晴らしに小松島に行く時も、小 松島線を利用した。しかし、彼は「地蔵橋駅」で降りたことはないだろう。私も少 年時代から小松島線をよく利用したが、「地蔵橋駅」で降りたことはない。しかし、 モラエスは地蔵院東海寺(図3の➃)とは因縁が深い。今回は、彼と地蔵院東海寺 との因縁を紹介する。 2 ➅ ➄ ➃ ① ➂ ② ➆ 図3. 21 世紀における、「地蔵橋駅」付近の地図。①地蔵橋駅、②勝占神社、➂ 弁天山(海抜 6.1m)、➃地蔵院東海寺、➄あづり越(「あづり峠」とも「あずり 峠」とも言われている)、 ➅大谷町、⑦熊山城址。モラエスが徳島に隠棲していた 当時、この図の地蔵橋駅一帯は徳島県勝浦郡勝占村に属していた。勝占村は 1951 年 4 月 1 日に徳島市へ編入され、現在は徳島市勝占地区となっている。 本Ⅷ(p.184)において、岡村教授は次のように書いている。(『 なお、林の説明を青文字で記載する。) 』内の部分。 『(斉藤家の人々以外に)モラエスが親しくしていたほとんど唯一の人物は、徳 島市(の彼の家)から5キロほど南(勝占村大谷、図3の➅)にある小寺、慈雲 庵・庵主、紫雲知賢尼である。彼が徳島に移住して間もなくのある日、彼の家に托 鉢に訪れたのを契機に、同庵の前庵主恵定尼がヨネの祥月命日である 20 日に読経に 招かれるようになり、恵定尼が没してからは知賢尼があとを引き継いでいた。 コハル没後は「これからはふたりいっしょにお拝み下さい」と言われたという。 立派な仏壇には本尊として大日如来像が安置され、ヨネとコハルの写真が飾ってあ った。米と野菜だけの粗末な食事に満足し、朝から夕まで托鉢のため徳島の町を軽 やかに歩きまわる知賢尼の貧しく潔い生き方に、彼は深い共感を覚えたものと思わ れる。 3 慈雲庵のあるあたりは梅の木が多く、招かれて彼は 1919 年春、梅の花見にこの慈 雲庵を訪れた。丘の中腹に位置し深い木立におおわれた破れ寺のたたずまいをいた く気に入った彼は、このとき、自分の死んだのちは同庵で仏壇をあずかり、回向し てほしいと頼んだ。 「ここ静かでよろしい。仏壇ここに祀ってもらいます」とにわかに言い出した彼 に驚いた知賢尼が「コハルさんのお身内に」と答えると、彼は「いや私のものです。 私の勝手です」と言ったという。仏壇を知賢尼にあずけ、その代償として五百円 (現在で 300 万円ほど)を同尼に遺贈する旨を書き記した正式の遺言書を彼がした ためたのは、このような会話があった数ヶ月後のことである。』 本Ⅵにおける「無臭」の章で(p.114-121)、モラエスは次のように書いている。 (『 』内の部分。なお、林の説明を青文字で記載する。) 『私の家で、祈祷のあと、尼僧はお茶をのみ、私が出す菓子をつまみながら、さ まざまなことについて私と話す。私たちは友だちといってよい。さて、尼僧が自分 に直接かかわるある事実を語って私に深い感銘を与えたのは、ある日おしゃべりを しているときであった。尼僧には嗅覚がないというのだ。生まれながらの盲人、生 まれながらの唖、生まれながらの耳なえがいるように、尼僧には生まれつき嗅覚が ない。どんなに強くとも、よいにおいであれいやなにおいであれ、においが彼女の 感覚を刺激したことは一度もない。彼女が生き、私たちみなが生きているこの世界 は、彼女にとっては香りのない無臭の世界なのだ。 ひとりになって、私はこの奇妙な問題についてじっと考えはじめる。(ここから、 モラエスは西洋人に特有な理屈っぽい考察を長々と展開するが、記載を省略す る。) 嗅覚がないということは、人間としての条件を部分的に欠く、とある意味ではい える。そして、完全な人間ではない者は、できるかぎり俗世から遠ざかり、できる かぎり神なるものに近づき、仏陀につかえ、聖人たちにつかえ、自分自身のため、 すべての人のため、死者たちに恩寵とゆるしを乞いねがう方がよい…そして、それ こそまさに、故郷の村ちかくの尼寺で修業しはじめた十歳のとき以来、彼女が、尼 僧が行ってきていることである。』 本Ⅰで(p.645)、藤原はつぎのように書いている。(『 の説明を青文字で記載する。) 』内の部分。なお、林 『モラエスが遺書を書いてしばらくして、知賢尼が地蔵院東海寺当主の十五歳に なる息子を伴ってモラエスを訪れた。 「モラエスさん、先日の仏壇の件ですが、正式に慈雲庵が供養をお引き受けいたし ます」 「ありがとう、ありがとう」 「私が死亡し、その時に慈雲庵を継ぐ者がいない場合は、慈雲庵の本山にあたる地 蔵院東海寺でその仏壇を供養してもらえることになりました」 「ありがとう、ありがとう」 モラエスは感に堪えないかのような表情で繰り返しお辞儀した。 「この小坊は、地蔵院を継ぐことになっておりますから、いずれその仏壇をお祀り することになります」(この小坊は、後の東海寺の鷲野宥恵前住職) 4 知賢尼がそう言うと小坊はモラエスに向けて手を合わせた。 「小坊さん、親切、ありがとう、ありがとう」 モラエスは今度は小坊の手を握り、またも頭を下げた。 知賢尼が微笑みながら、 「地蔵院東海寺は、慈雲庵から十分もかからない所にある、林の中の風情あるお寺 ですから、一度遊びに来られたらいかがですか。アジサイの季節はとてもきれいで すから」(なお、地蔵院東海寺の位置を図3の➃で示す。慈雲庵は大谷町にあった が、林はその正確な位置を知らない。) 「ぜひ、行きます。小坊さんにも、日の出楼の赤練羊羹、持って行きます」 知賢尼からモラエスのワンパターンを聞いていた小坊は、知賢尼と顔を見合わせて 笑った。モラエスもよく意味が分からないままつられて笑った。』 本Ⅱ(p.14-17)で佃實夫は「1945 年に私は郷里の村の青年学校の教師になった。 あるとき私は、徳島県立光慶図書館を会場として開催された読書指導講習会を受講 した。そこには、モラエスの遺品を展示したモラエス文庫があった。説明文を読み ながら私は、モラエスの全蔵書 1816 冊と、遺品数千点を丹念に見てゆくうちに、一 種不思議な感動に捉えれるのを覚えた。(中略)1945 年7月4日未明、前夜から始 まった米空軍の焼夷弾攻撃で、徳島市は完全に焼きはらわれた。光慶図書館もむろ ん全焼した。かつてモラエスが住んだ伊賀町の長屋も、図書館に保管されていたモ ラエス文庫も、すべてが永遠に失われた」と書いている。 本Ⅱ(p.333)で佃實夫は「慈雲庵で 1952 年、半ば朽ちたモラエスの仏壇から、 三十点近い彼の遺品が発見された」と書いている。現在それらは、徳島市眉山・山 頂にある「モラエス館」に展示されている。 「阿波と安房」というHPの「あずり越え」と題する記事に「地蔵院東海寺の外 陣に沢山仏壇や位牌が祀られてており、その中にモラエス家の仏壇もあった。中央 にモラエス左右にオヨネとコハルの位牌が置かれていた、離れたところに慈雲庵の 庵主智賢尼の位牌も置かれていた」と記載されている。 (4)私の「地蔵橋」考 私は「地蔵橋駅」に降りたことがないが、インターネットで「地蔵橋駅」周辺を 検索すると、色々と興味深いことを発見した。以下に、それらの幾つかを紹介する。 先ずは図3で、「地蔵橋駅」(図3の①)から「地蔵院東海寺」(図3の➃)へ行 く道を検討しよう。この道は、「徳島の野山を歩く道」として愛好家が多く、HP も沢山ある。(「弁天山」や「あずり越え」で検索すると、サイトが多い。) 読者諸君は、地蔵橋界隈に「世界遺産・富士山」に匹敵する有名な名勝があるこ とをご存知だろうか?解答は、「天然の山では日本一低い山・弁天山」である。 (写真4を参照)弁天山の位置は図3の➂で、標高は 6.1mである。弁天山は全国 的に有名であるが、残念ながら私は行ったことがない。 5 写真4. 左:「日本一低い弁天山」の看板。右:「弁天山」の全景。 「弁天山公式サイト(http://bentenyama.com/)」より。 弁天山では、新年初登り、桜祭り、夏の山開き、山上結婚式などの行事も多いの で、興味のある方は登山してみてはいかがでしょうか。登山道はよく整備されてい るので、遭難の心配はありません。なお、山開きの動画は、次のサイトで見えます。 https://www.youtube.com/watch?v=oFYeI_ODbL4 「弁天山」(図3の➂)から「あづり越」(図3の➄)に行く山道を行くと、途 中に「地蔵院東海寺」(図3の➃)がある。前々回に記載したように、1185 年に源 義経の軍勢約 150 は、屋島の平家を討つ目的で、暴風雨をついて大阪を出発して、 阿波の勝浦に着いた。小松島の伝説によれば、義経勢が上陸したのは金磯弁財天付 近の勢合で、それから義経は旛山の山頂(海抜 20m)に源氏の白旗を掲げた。詳し くは、次のサイトをご覧下さい。 義経進軍地の地図(1)と義経進軍地の写真(2) 義経勢は旛山から軍を進め、桜間介良遠が 300 の兵で守る熊山城(図3の⑦)を 攻撃して攻め落とした。桜間介良遠は平家方の阿波民部大夫田口成良の弟(伯父と いう説もある)である。熊山城を落とした義経は勝占神社(図3の②)に参拝して、 神社の裏山から軍勢を閲兵した。それ故、勝占神社の裏山(現在の中山)は「勢見 山」と呼ばれるようになった。それから、義経軍は地蔵院東海寺に来て、ここで義 経は食事を取った。義経が食べた料理のメニューが残っている。詳細は次のサイト をご覧下さい。http://satoyama3.yu-yake.com/benten.htm 写真5には、地蔵院東海寺の本堂と「あづり峠・東海寺」への道標を示す。古代 においては、平地は川が入り混んで通行に不便だったので、街道は山中を利用して いた。従って、ここは古代の南海道で、弘法大師も義経も通った道である。義経は 地蔵院東海寺で食事をした後「あづり峠」を越えて(所謂、「あづり越え」)、 「石井」の方向に向かった。「石井」に関しては、次回に紹介する予定である。 (本文は、8ページに続く。) 6 写真5. 上左:「あづり峠・東海寺」への道標:ここは古代の南海道で、弘法大 師も義経も通った。なお、「あづり峠」は国土地理院の正式な呼び名で、地元では 「あずり峠」とも書かれることがある。上右:地蔵院東海寺の道標。下:地蔵院東 海寺の本堂。あづり越えの動画は次のサイトにあります。 https://www.youtube.com/watch?v=jEzLxNKNkFM 7 本回の最後に、「勝占神社」(図3の②)を取り上げる。今回、私が「地蔵橋」 を研究するまで、地蔵橋駅のそばに「勝占神社」という由緒正しい神社があること さえ、私は知らなかった。「勝占神社」に関しては、①「長国の酋長を祀った:勝 占神社」というサイトと②「勝占神社(徳島市)」というサイトが素晴らしい。 ① http://doragon-project.cocolog-nifty.com/nagaawa/2013/01/post-44a9.html このサイトによれば、徳島には大化の改新以前には、眉山から南は阿波国ではな く長の国(ながのくに)という別の国であったといわれている。その国の中心だっ たのが、この勝占神社であった。古墳時代の古墳に代わるものが神社だとすると、 徳島最大級の古墳である渋野古墳は、この勝占神社のある山の北側の谷にあるので、 この地が、長の国の中心だったとしてもおかしくない。 ② http://www.genbu.net/data/awa2/katura_title.htm このサイトによれば、「勝占神社」はJR地蔵橋駅の南1Kmの徳島市勝占町に ある中山(65m)の中腹に鎮座している(写真6を参照)。当社は古い社で今を去 る千余年前 (西歴 927 年)の延喜式神明帳にも載っている阿波国五十社の一つであ る。古代この附近一帯は海であって出雲系海人の 豪族が支配していた。彼らは大祖 神の大己貴命(大国主命) を海に突き出た中山の東端、展望のよい景勝地の当地に 祀った。これが勝占神社の 発祥であると思われる。なお、勝占神社の動画は次のサ イト(https://www.youtube.com/watch?v=FzIFN7p9gNU)にあります。 私(筆者の林)は「大化の改新以前には、徳島県の北部に粟の国(あわのくに) が、南部には長の国(ながのくに)があった」ことは知っていた。私は①のサイト より、「長の国の中心が勝占神社らしい」ことを知り、大変興味を感じた。写真7 (左)より、「勝占神社の祭り」はいかにも格式があるように見える。 私が少年時代の 1950 年台に、小松島市の南に、那賀郡富岡町という町があった。 私の父は富岡の出身である。那賀郡という名前は、「長の国」に通じる。私の母は 徳島県北部の板野郡撫養町(現・鳴門市)の出身である。少年時代の私は「撫養の 人々と那賀の人々とは、言葉も顔つきも随分違う」ことに気付いた。徳島県北部 (粟の国)の人々は大陸系で、顔つきは「シナ人」に似ていた。徳島県南部(長の 国)の人々は海洋系で、顔つきは「ポリネシア人」に似ていた。 1958 年5月に、那賀郡富岡町は隣の橘町と合併して「阿南市」が発足した。「阿 南市」の由来は「阿波の南部にある都市」であろうが、私は「阿南市」の名前に大 変な違和感を持った。なぜなら、ここは「粟の国」ではなく「長の国」だったから である。本来なら、「那賀市とか那賀川市と命名すべきであった」と私は思ってい る。(次のページに、写真6と写真7を掲載しました。) (記載:2014 年5月 12 日) 8 写真6. 上左:中山の山麓にある 勝占神社の鳥居。 上右:鳥居の額。 下:中山の中腹にある勝 占神社の社殿。 写真7.左:勝占神社の祭り。右:社殿の彫刻に卍印がある。ここの卍印は、千年 以上前から使われているので、ナチスの「ハーケン・クロイツ」と同一視すべきで はない。「ハーケン・クロイツの歌」の動画を次に示します。名唱です。 https://www.youtube.com/watch?v=8ZujnLe7zdA 9
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