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5 歴史の狭間を貫く生 - 中国帰国者支援交流センター

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5
歴史の狭間を貫く生
−伊藤孝のライフヒストリー−
聞き書き:資料収集調査員 坂部 晶子
孝近影(自宅にて)
伊藤孝(いとう こう)の略歴
てんどう
大正 13(1924)年
山形県天童市に生まれる
昭和 20(1945)年2月
結婚を機に渡満
昭和 48(1973)年
1度目の一時帰国[用語集→]
平成9(1997)年
永住帰国[用語集→](京都市内在住)
1.生い立ちから渡満まで
義勇軍の3つの字にはっと惚れて
昭和 20 年頃はまだ 22 歳ですもんね、何にもわかりませんよ。そのときただね、ああ外国に行っ
てって。あの時代の満洲っていったら、ちょっとすばらしかったんですもんね。わたしは2月8日
に着いたんです。第1次のね、義勇軍開拓団[当時の記録によれば、
「満蒙開拓青少年義勇軍とし
い
ら
は
ての訓練を内地で終えた後に渡満し、現地での訓練を経て義勇隊開拓団に移行。伊拉哈開拓団は、
こっ か
第1次義勇隊開拓団」と記されている]と呼んでましたね。場所は黒河省です、あの時代は。今の
のんこう
黒竜江省の嫩江県(嫩江県は、昭和 18 年1月1日に北安省から黒河省に編合されている)
。伊拉
哈義勇軍。義勇軍の3つの字にはっと惚れちゃったんです。別に、別の考えはなかったんです。
111
伊拉哈開拓団(第1次義勇隊開拓団)
伊拉哈訓練所(後に、
「嫩江訓練所」と改称)を巣立った義勇隊員(正式名称は、
「満洲開拓青
年義勇隊員」という)は、その周辺地域に定着して約 30 の開拓団[用語集→]を形成したため、嫩江県は、
あたかも義勇隊開拓団集結地の観を呈した。
昭和 20 年8月 22 日のソ連軍の嫩江への進攻後、これらの義勇隊開拓団員、訓練生などは、東
大栄収容所(旧関東軍 143 部隊兵舎)に収容された。その後、これらの者はソ連軍から軍属視さ
れ、抑留のためブラゴヴェスチェンスクまで送られたが、その大部分は身分が判明し、逆送され
ている。
(満洲開拓史刊行会編集発行「満洲開拓史」
(昭 41.4.17 発行)より要約)
<筆者:お1人で行かれたんですか?>あの、前の、まあ一番先の主人ですわね。その時あの人は
15 歳で少年の開拓団ではいったんです。それからそこで 21 歳になったら兵隊にいくんです。そこ
で、伍長になって帰ってきたんです。伍長っていえば、偉いほうだったんです。まあ小さいときか
らお会いしたこともなければ、聞いたこともなかったんですけど。ただただこの人のおばさんがね、
学校の先生で、わたしの先生だったんです。
しんじょう
わたしは新 庄 の街(山形県)で育ったんです。新庄には伯父、父親の兄がいて、鉄道員で、そこ
で育ったんです。やっぱりわたしもとがちょっとこう・・・わたしは顔よくなかったんです。ほん
と、3人の兄貴がおって、わたしが女の子で、妹が女の子だったんですけど、妹のほうがまるまる
太ってかわいかったです。そればかりじゃなくて、わたしはよく泣いていたらしい。それで伯母が
連れていって、わたしを 10 歳まで育ててくれたんです。そんときはよかったですよ。幸せだった
んですよ。で、10 歳になったらね、父親が無理矢理にわたしをひっぱり返したんです。父親は警
察官なの。それはよかったんですよ。天童ですから、むこうよりは、やっぱりほんとの父親の(家
の)ほうが街ですから。
ですけども、2歳か3歳頃にはなれて 10 歳に帰ってきたら、それほどじゃないですわ。兄弟とい
っても兄弟らしくない。あんまり大きくはなかったけど、まだ 10 歳から 18 歳まで兄弟がいて、
112
なんとなしにわたしはただ恥ずかしい。そうしているうちに翌年、父親が急に病気で倒れちゃった
の。胃潰瘍で。父親に亡くなられたら、それこそ、ほんとに惨めな子どもでした。あの時代の警察
官とか学校の先生っていったら、いちおう上のほうでしたからね。お母さんはやっぱりたいへんで
しょうけど、恩恵があるわけでしょ。今考えてみるとね、んーお父さんが生きてるときより(生き
てるときと)
、あまり差がなくって、子どもを育てることができるんです。恩恵で。だけどそれほ
ど、わたしは子どものころから、甘えることが出来ない人間に生まれてきたから。
そのとき3番目の兄貴は 14 歳でしたから、うちにおってまだ高等小学校[用語集→]でした。わたしが
4年生で、高等小学校くらいはいけると思ってたんですよ。んーでもそれは無理でした。母親は返
事してくれませんでした。先生が何回もうちに、母親に頼みにいったんですけど。それで先生にお
断りして、
「わたしは大丈夫、また新庄に帰る」
。伯父のとこに帰ったら、3ヶ月、4ヶ月遅れたっ
て、わたしは一生懸命頑張れば、みんなについていかれるんだから。伯父はきっと学校にくらい入
れてくれる(と思って)
。
(でも)それは夢でした。
そこのうちで子守でした。子守。あんなほんとに情けないもんでしたわ。でも我慢して我慢して一
夏、伯母さんのお手伝いしておったら、ちょうど8月、従兄弟がね、神奈川のほうにおった従兄弟
が山形に帰ってきた。それで「孝ちゃんをここへおいたら可哀相だから、僕が連れてく」って。そ
れで連れてってもらったところで、やっぱり女中でしょう。すくなくっても身分は女中。ねえ、ま
してわたしが 13 歳のときなんか背は低いし、子どもだったから、女中さんにもなれなくって、た
だ子どもと遊ぶだけ。でもいいおかみさんと旦那さんで大事にされまして。ただね、お金を決めて
なかったから、ただ春夏秋、着物を作って、作ってくれるんじゃない。着物を布をもってきて、わ
たしが(に)縫わせるんです。ちっちゃい手でねえ。一生懸命つくって。自分で着て。そこに始め
はおったんです。でも大事にしていただいて、着物もたくさん貯めて。8年間は、んー幸せでした。
それで 21 歳のときに、国のほうもなかなかきつくなって。あの神奈川県には火薬庫があるんです
よ、ちょうどうちの近くに大きな海軍省の火薬庫があったんです。こんどはねえ、女でも募集で行
かなきゃならない。それに行くのがいやでね。で、山形が恋しくなって、山形に帰ったんです。そ
うしたら 21 歳ですから、同級生も全部だんだんだんだん兵隊に行く時期で、そしてある日小さい
ときの同級生をうちまでお送りするでしょ。そうしたら先生にお会いしたんです。
113
ちょうど前の人(初めの夫、先生の甥)が、うちへ帰ってきていて、お嫁さんもらいに帰ってたら
しいの。たったの2ヶ月の休暇でお嫁さんをもらいにきたらしいの。ですからわたしが見合いして
結婚式までには2週間しかなかったんです。わたしのような馬鹿者がね、話を聞いただけで、写真
も見てないんですよ。聞いただけで、
「ん、じゃ明日行ってくるわ」っていうんで、自分で出かけ
て(笑)
、伯母のうちに着いたんです。そしたらみんな待ってました。
(それで)ただ後姿みただけ
で気にいっちゃったんです。そいでえ、えー2週間目には、結婚式を挙げて。まずは近所とお会い
して。みんなとお別れして。2週間とちょっと。
<筆者:じゃあご主人さんはもう長いこと満洲にいて、そのとき帰ってきて?>うーんとね、あの
人は 15 歳か 16 歳で行ったんじゃないですか。開拓団で。それから兵隊にいって、5年。それで
わたしと2人で渡満して、5ヶ月。新婚生活は5ヶ月。だからいいことも知らないし、悪いことも
覚えがないです。ほんっと不思議なもんですわ。ええ。でもねえ。やっぱり小さいときから我慢を
して、我慢をしつけられた子どもは、我慢が出来ます。兵隊に行かれても、ああ寂しいとか、辛い
とか思ったことありません。ぜんぜん。それで開拓団のかたが何をやっても、
(わたしも)何でも
できるんです。あのほら井戸がね、戦前満洲のほうの井戸っていったら、20 尺(1メートル=3.
3尺)以上。深いんですよ。それをこうやって水汲みもできれば、馬をね、引っ張って畑に行って。
あれでも、なんでもできるんです。ねえ、神奈川で育った子が、なんでもできるんですよ。そうし
てるうちに5ヶ月でまた(夫が)召集されたんです。召集されて、ですから、ですからほんとに早
かったですね、あの時代は。ほんーとに月日のたつのが今よりもっと早かったんですよ。ちょうど
ねえ7月の4日に出征したんですわ。そしたらね8月の9日にね、日本の日の丸がなくなっちゃっ
たんですよ。
戦争さえなかったらね。ほんとに。わたしら開拓だって、一生懸命働きましたよ。ええ。満洲人の
ためだって、日本人のためだって、役には立ったと思うんです。
(でも)戦争のおかげで。苦労は
日本人だけじゃないですよ。中国人もほんとに苦労してましたよ。わたしらよりもっと苦労してる
んですよ。
2.開拓団の壊滅
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だって死ぬのはいやでしょ
<筆者:8月の何日ぐらいにソ連軍が入ってきたんですか?>あのね、うちのほうはね、ソ連に近
いですけど、ちょうど国境に近いでしょ。でもうちのほう(嫩江県のなか)にソ連軍が入ってきた
ときは、8月の 18 日頃でした。でも、ただうちの伊拉哈のほうは(まだ入ってきてなくて)
、そ
れほどまでにも(詳しくは)知らなかったんです。けど、
(自決するための)準備をしました。準
備をしましたけれども、その準備っていうのが、それほどねえ。そんな目にあったこともない。だ
から気持ち(気)にもしないで、ただ平気な顔で冬仕度。草を刈ったり、やってたんですよ。そう
してるうちに8月の 22 日です。嫩江県(街)からうちの伊拉哈までは3時間かかるんですよ、汽
車で。そこから人が入ってきたんですよ。そしたら、嫩江にそのソ連軍が入ってきて、
「病院のお
医者さんなんか自殺した。腹を切って亡くなった人やら、薬を飲んで亡くなった人もおる」って、
話に聞いたのがちょうど 22 日でした。そしたらこんど団長が、団長さんも兵隊に行っちゃって、
仮の団長です。わたしは5部落の婦人会長をやってて、やっぱり何事があったときには相談するで
しょ。そのときにこういう連絡があったからって(言われて)
。それじゃあっていってそろそろ準
備をしましょうよって、それが8月の 23 日ですか。
そのときには、10 キロか 20 キロくらい日本のお米をもって来てる人もいるんです。それからほら
しょうきち
は
せ
かいうん
お酒、
「 正 吉」
[静岡県の銘酒「波瀬正吉」
(
「開運」の大吟醸)のことで、杜氏の名前が酒名とな
っている]の。そりゃ1年置いたって2年置いたって壊れないんですから。わたしも持っていきま
したけど、大事に大事にしてね。食べ(たり、飲んだりし)てなかったんですけど。8月の 23 日
にみなさんにあったら、
「みんな出しあって、お米も出しあって、みんなで一緒に食べましょう。
ろ
食べ終わってから、死ぬんだったら、わたしらみんなできれいに死んでいきましょう」ってね。露
すけ
助[ロシア人をあざけっていう語。ここでは、ソ連兵のことをいう]にいたずらされたら困る、そ
の考えだけで、23 日のお昼過ぎから準備したんですよ。みんなのお米を集めて、大きな支那釜(平
釜で特製の木蓋のあるもの)でご飯を炊いて。あのときはね、子どもと大人とで 140 名くらいで
いした。5部落で。みんなほら飯盒があるでしょ。そんなかにご飯をつめてやって、あのお魚を切
ったのを一切れぐらいずつわけてやって。
115
初めのうちはそう(生き残るつもり)じゃなかったんですよ。死ぬ覚悟だったんです。まだロスケ
が入ってくる前に、
みんなで死ぬ覚悟だったんです。
ところがね、
死ぬのはほんとにいやでしたよ。
夕飯はふつうに食べたんですけど、なんてっても、わたし、死ぬのがいやだったんです。
たく し こん
それで晩9時ごろですね、あそこには「拓士魂」
[亡くなった開拓団員の慰霊碑]があるんですよ。
伊拉哈には。みんながそこに集まって、ならんで、鉄砲で撃ちあう(ということになっていた)
。
(でも)そんなことができますか。鉄砲なんか持ったこともないんですよ。それをあんた、一緒に
こう、ねえ、できるはずがないんですよ。そういう命令があったって、わたしらにはできるはずは
ないんですよ。ああそう、じゃあっていうんで、その言うことを聞いて、みんなで集まりましたけ
ど、誰ひとり先にその、実験する人がなかったんです。
寒かったですよ、あの年は。わたしが思うに寒かったです。ほんと待てば待つほど、なんたって、
自然に鉄砲で撃ちあうことはないでしょ。なんてたって合図があるはず、号令があるはず(でしょ
う)
。ねえ。誰ひとり口を開く人がないんですよ。
(そのときに)わたしが大声で叫んだんです。
「死
ぬのはいやです。死ぬのはやめましょう」って。わたしが叫んだんですよ。そうしたらね、どうし
てどう宿舎へ帰ったのかわからない。いまでも覚えがない。自然に(みんな)戻ったんです。それ
が8月の 23 日の9時頃ですわ。戻ったあとで、まだロスケも入ってこないし、で、仮の団長さん
にわたしが叱られた。あとでわたしはたしなめられた。
「ああは言ったけど、これからお前どうす
んだ」って、山形言葉でね、ずうずうずうずう言われてね。
だって死ぬのはいやでしょ。ね。死ねって命令を、
「はいっ」て(そのままいうとおりにすること)
ないでしょ。だから「どっか日本に近いほうに、下がり
ましょう!」こういったんです。わたしらは、こう日本
ネェ ホ
に近いほうっていったら今の訥河県です。そこへ下りた
んです。朝まだ暗かったんですわ、わたしらが出発の時
は。夜中に井戸端に行ってお米をといで、魚を焼いて、
ご飯を炊いて、次の日の朝3時か4時頃出発したんです
ね。
116
ついた途中(途端に)ソ連軍が入ってきました。タンクで。こんどこっち来たんです。ええ、あれ
でおしまい。あすこが避難地でした。何千人もおったんですよ。あんときなんか家なんかありませ
んよ。倉庫も、米を入れる倉庫も、馬屋も、もうみんなとりあげられて。馬屋はコンクリートでし
ょ。そこに草でもひいて、そこに寝たんですよ。
<筆者:140 人の人みんな一緒に?>140 人はわたしらの、伊拉哈の開拓団の人で、まわりからも。
たっくさんあったんですわ、訥河県には開拓団が。義勇軍はわたしらのほうですけど、あの訥河県
には移民とか、ただの開拓団とか、一家中であそこへいって開拓やった人たちとかだったんですわ。
大勢。
おじいちゃんもおったし、
おばあちゃんもおったし、
それこそ何千人くらい集まったんです。
それからがたいへんでした。建物なんかほんとになかったんです。でもねえ、よく生き残ったもん
ですよねえ。
<筆者:たくさん亡くなったんですか、そこで?>それこそ何千人も亡くなってますよ。だいたい
が栄養不良でしょう。ほんとにね、生きててね、それから 29 年経ってわたしが里帰り[用語集→]して、
伊拉哈の開拓団の方が全部で会議を作ってくれたときに、わたしも参加しましたら、全部で生き残
った人が 27 人。わたしら中国に残ったのが 3 人。この 3 人は、残ったのは 3 人ですけど、まだ生
きてますよ。3 人残ってるんです。
こうして帰った人がいるでしょ、それでまた夫婦と一緒に、対面できた人もいるし。ね。わたしら
なんかここに残ってるでしょ。ですから、喜んでもらえませんでした。でも仕方がないです。でも
ね、生き残って帰って、もう 22、3 歳で亡くなる(亡くなっているはずの)人が、80(歳)まで
も生きてこられたんですから、ねえ。わたしはほんとに満足してますけど。
3.中国の家庭へ
わたしは 1,500 円で売られた女なんです
戦争が終わってからですよ、負けてからですよ、ここの県の山の奥の方へ逃げたんですわ。避難し
たんです。それで街までは、そうねえ百里近くだから、バスで1時間くらいかかるんですけど、こ
117
ういう山の奥へ避難したんです。ずっとそこで6ヵ月ほどおって、こんどロスケもね、引き上げた
んですわ。翌年 1946 年の2月頃です。それでこっから引き上げて、
「お父さん、お母さんのとこ
に帰りなさい」って、ロシア軍は、優しい言葉でみんなを出したんですわ。出すっていって(も)
、
何千人もいるでしょ。
それこそこっちの街の人やら、
こっからも向こうからも、
ほんとにもう七千、
一万近くくらいは、一時は集まったんです。だけど、そのなかでも頭のいい人は、真っ先に先立っ
て、旦那さんをもったり、いなかったら(もしまだいなかったら)
。わたしらみたいのはね、まあ
まあどうしてももう、共同だったら、国へ帰るにも共同で帰る。そんな気持ちで、ここにおったん
です。ところがそんな機会もなくて、1946 年のね、2月の半ば頃に、あんときはもうだいたいは
病気で、もう人々がみんな亡くなっちゃって。わたしもそんなかで、だけどよく生き残ってきたも
んです。それでこの街へ出てきたんです。
出てきて、宿屋に泊まってね、宿屋に泊まらしてもらって、もう食べものなんかないんです。で、
もう、まあ若い男の人だったり、一人身の女の人なんかは、ときどきビスケットとか、ある人なん
かはお金なんかもっててね、で、この残留婦人[用語集→中国残留婦人]の女の人に食わせるんです。でも食わ
せるどこじゃないでしょ、大勢だから。えー4日くらい経ったかなあ、そしたら1人の男がでてき
て。わたしら 22(歳)で、あの人 50(歳)ちかくでしたわ。そいで(その人には)女の子が2人
おったんです、この人は。それで「僕のうち行きましょう」って。ほんとは山口県の人だって、自
分は名乗ってるんですけど、山口県の人じゃないです。わたしは、この街に 50 年ほど暮らしたん
です。もう 40 年以上になると、ああ、県の方の人でも、誰でも、だんだんこう話しかけるように
なったら、この街には山形の開拓団があったそうです。ほんとういえば山形県の人らしいんです。
「わたしは山口県の人間です。あの、僕には、妻もいるし子どももいる。みんなお互いに助け合い
ましょう。
」
(って言われて。
)そのときは3人でした。わたしと行ったんですわ、そこのうちに。
避難にいったら、そしたらやっぱり、満洲について何年かたってるらしいんで、粟の飯、ご飯くら
いは食べてたんでしょ。粟のお粥、一食に1杯ずつくらい分けあって、食べたんです。それが何日
間、10 日くらいです。そこのうちでお世話になって。10 日くらいたったらね、こんどはわたしら
を追い出したんです。わたしが自分で、あのー中国人と一緒になったんじゃないんです。売られた
女なんです。でもわたしの(夫になった人)も、なんてっても歳がちょうどいい歳で、わたしより
1つ上で。この人(娘を指して)のお父さん。あそこに写真がある。あんときは床屋、散髪屋さん
118
やってたから、それほども汚くもないし。みっともないとこもないし、と思って。まずは(初めは)
売られる、売ったっていうことは口には出さないんですよ。ねえ。
ところがね、その日に、いまさら銭湯屋さん連れていってくれて、わたしを。ちゃんとお風呂に入
って、まあ、半年ぶりにお風呂にも入ったから。そうしてるうちに男(夫になった人)が来て、
(そ
の人は)24 歳、そのときわたしが 23 歳。ちょうどあの、車を、馬車に乗ってそこのうちに行った
んですよ。そしたら、すこしお百姓さんもおったし、ご馳走をつくってねえ。あんときは卵焼きや
らお魚やらで、おいしかったですわね。そうしてるうちに書くんです、やっぱり。誓約書?を。と
ころがわたしにはそうじゃない(そう言わない)
。
「あの(人は)仮のお母さんように、お前を可愛
がってくれる人だから、お世話になって、もしもここから帰るときは連れて帰るから」って。
こうやってわたしに(の)指をおさえて、ほいじゃあって、また1枚書くんですわ。そうして1枚
書く(書いた)のは、向こうのほうに書いとくんです。わたしを買ったのはね、1,500 円で買った
んです。
(わたしは)売られた女なんです。それからあとはもっと高かったんです。わたしは初売
りだから。で、わたしからあとの人は、4,000 円で買った人もいれば、5,000 円で買った人も。み
んなね、そうやってお金がたまったら、もって逃げちゃったんですよ、あの人。
4.中国での生活
一生のうちには、いいこともあれば悪いこともあるね
<筆者:初めの旦那さんは、戦争前に動員で兵隊にいかれて、亡くなったんですか?>いや、生き
ているんです。今はどうだか、まったくここ(京都)へ着いてからっていうものは、そんなことを
考えずに(考えなくなりましたけど)
。ここに来る前はやっぱり恋しかったんです。
(前の夫のことは)1日も忘れたことないんです。
(2番目の夫と)2人でまあ、1つの部屋で一
つの屋根の下で寝ていながらも、全然あの人とは思わないで、前の主人の名前を呼びながら、心ん
なかでね。こうやって、まあ 48 年も暮らしてきたんですけど、ほんとにいえば(2番目の夫とは)
一つの心にはなれなかったんです。
119
こんなふうにしていながらも、
(2番目の夫は)一緒に暮らしてから 48 年で亡くなったんです。
あの人が亡くなった日から、ですよ。ぱあっと、ああ、48 年も一緒に暮らして、そんなにいい暮
らしはできなかったけど、なんていったって、命をねえ、こうしてくれた人だから。この人はわた
しの主人。で、亡くなったその日から、すっかり忘れちゃった。ほんとですよ。不思議なもんです。
ああ亡くなったんだって。それからはあまり考えないです。
子どもも6人ありますし、男の子が1人で、女の子が5人。6人なんです。でまあ、こうやってほ
んとに、貧乏で貧乏で、1人で働いて。ですから、それほど楽なことはできませんでしたけど。え
え。わたしに手伝って(手伝わせて)自分で空き地があったら、畑を作って。それでも暇な(暇が
ある)ときは針仕事をよその人につくってやったり。それでもダメだったらこんどは土方までやっ
て。なんてっても、子どもにだけは学問をさせたかった。中国人はほんとに、子どもが学校にはい
れることって少なかったんですよ。ですから、だいたいは中学校まで入れて。だけどね文化・・・。
<筆者:文革[用語集→文化大革命]?>あのときは、このお父さんがおしゃべりなんですよ。なんていって
も自分が日本人の妻をもったから、ちょっと自慢なんです。あんまり自慢いったり。ほんとにそう
いうことで捕まれて、
(わたしは)牢屋に入ってるんです。それで刑期がね、12 年まで決められた
んです。わたしがあのときちょうど 46 歳で、これはどうしようと思ったんですけど。10 年でなく
ってね、翌年、1年とちょっと、2年足らずで帰してくれたんです。
帰してもらったらね、こんどはまたあんまりおしゃべりしないで、一生懸命働けばいいのにね、2
年くらいで帰ってるでしょ。また自慢ができる。ほんとに帰ってきてからも、なんていっても仕事
を休ませられたりしたら、生活に困る。ね。そして何年かたってるうちに、
・・・。わたしは田舎ま
でもいってるんです。田舎に3年ほど。
<筆者:労改(ラオガイ)とか?>
ええ、そういうこと。だけど3年の間は月給ももらえない。あの人(夫)の日給ももらえない。で、
あのときは長女は結婚して街に残ったんですけど、次女と三女は 18 歳と 20 歳で。18 歳、20 歳と
16 歳。この 16 歳のは学校で、18 歳と 20 歳は、20 歳の(娘)は女学校、中学校を卒業して田舎
にいったんです。それでこの2人の女の子が働いて、お米をもらえるし、少しはお小遣いももらえ
120
たんですけど、お父さんには1銭もくれないんです。こうしてね3年ほど。
<筆者:ご一緒に行かれたんですか?>一緒に行きました。
「わたしは行かない」とはがんばった
んですけど、それには(そういうわけには)いきません。で、あのときはおばあちゃんがおって、
だからおばあちゃんも元気だし、
(わたしが行かないといってもおばあちゃんは)
「あそこ(田舎)
で働いて、お前たちが辛くなったら、町へ帰ってきたらお前たちを食わしてやるから」ぐらいで(と
いうくらいで、行かないことを)承知しないんです。もしも町に残したら、わたしが間男[夫のあ
る女が他の男と密通すること。その男のこと。ここでは、夫と一緒に行かないと、他に男ができた
ら困るという意味]を持ってたらって。これほどの、じゃあそんなんだったら、そんな考えだった
ら、何をしたってわたしはできるんだから(と思って)
。そうやって(田舎に)行ったんですけど、
た なかかくえい
そうしてるうちに、ほら田中角榮[新潟県出身の政治家。第 64、65 代の内閣総理大臣]さんが(日
中国交正常化[用語集→日中国交回復]のために、中国に)行かれたでしょ。
(そうしたら)まったくひっくり
返し。そうしてこんどはあの、町へ帰してもらったんです。えーほんとに田中角榮さんはありがた
く思ってます。そのおかげで(田舎にいた)3年間の日給もいただいて。ですから何千円、あのと
きにいただいたのは 2,000(円)となんぼか。ほんとにいいこともあれば悪いこともあるね。ねえ、
一生のうちにはね。と思いますけど。
<筆者:農村にいたときは、農作業されてたんですか?>そうですよ。いい家なんか借りることで
きない。どこへ行ったってね、あんまりいい目で見てくれないんですよ。ほんとに田舎に行ったと
きなんか、お父さん、散髪屋さんだから、タダでみんなにね。ちょっとの暇でも暇をもらえない。
(夫は)頭を切って、わたしは針仕事。ミシンをもってたんですよ。村中、あそこの村は 200 軒
くらいしかないねえ。そんなかでミシンがある家はわたしだけだったんです。それこそパンツから
シャツから縫ってやるんですよ。
で、元通りになって、町に出てきて。こんど3年間のお金で、一緒にいただきましたから、そのお
金で家を買って。お店を出すにもいいお家で、そこで何年か暮らしてるうちに、こんど貸し金が高
い(くなった)んですよ。だけど賑やかなところに住んだら、わたしが引っ越すのがいやで、2年
ばかりがんばったんですよ。怒られてねえ。貸してやればお金になるでしょ。また安く小さな家を
借りればいいでしょ。よく怒られてるうちに、それもそうだわね、だいたいは貸して、貸家にして
121
るんですよ。それなのに、ほんとに考えれば馬鹿なんですけど。頑固。頑固だったんです。
<筆者:伊藤さんが中国に残られたときに、周りに他にも日本の人はたくさんいらっしゃったんで
すか?>いましたよ。うちの街にもいましたよ。だけど、すこしお金の多い人とか、男の人が特別
の仕事ができたり、家庭の人数が少なかったら、どこへだっていけるでしょ。ところがこの人(夫)
は、妹が2人で弟が1人でしょ、父親と母親がおって、わたしと2人、7人暮し。どこへも動けな
かったんです。お兄さんがおって弟がいるんですよね(夫には兄も弟もいるにもかかわらず)
。ど
こへもいけなかったんですわ。おじいちゃん、おばあちゃんはずっとわたしのそばで。どこへもわ
たしらは動けなかったんです。
つらい目にもあいましたけど、でもおばあちゃんと 43 年間一緒で、どこへもいかないんですわ。
行ったところで3日くらいで帰ってくるでしょ。
「また帰ってきたよ」って。
「ここが俺のうちだか
らな」って、また皮肉を言いながら、ええ。
「哎呀(アイヤー)
、やっぱりわたしのほうがいいのか
なあ」ってこう思えばね、いくら皮肉を言われてもしょうがないですわ。親ですもの。
(おばあさ
んは)84 歳で亡くなられたんです。
5.日本への帰国前後
鼻の下に口がありますから、聞けばどこだっていけます
(日本へ)里帰りできてもね、あんまり楽しいことなかった。何(十)年かご無沙汰しておってで
しょ。隠れて、隠して、手紙のやり取りもなしに暮らしてたんですよ、わたしは。そしたらお兄さ
んがね、一番大きい兄さん、今 89 歳。ちょうどあの時代はわたしが何歳くらい、48 歳頃か。兄が
探してくれてね。それで手紙まで、戸籍謄本までついてるんですよ、中国に。ついてるんですけど、
子供が(日本への帰国を)承知しないですよ。あのときは大きい子で 16(歳)で、16 から下だか
ら。16(歳の子と)と2番目が4つ離れてるんですよ。それからずっとですけれど、その長女と
次女がね、もうもう、お母さんに手紙が来てる。こういうものが来てるんだから、お母さんはもし
かしたら連れてかれるかもしれない。
(そういって)ご飯も食べないんですよ。
122
いくら話してもほんとに。ほんとに何日もご飯食べないんですよ。それじゃあもうほんと(仕方が
ないと思って)
。戸籍謄本を取っておけばよかったんです。それをね、かまどに炊いちゃったんで
すよ。それから何年か、それから何年目でしょ、田中(角榮)さんが(中国に)行ったの。そうな
んですよ。だからあのときの戸籍謄本を残しておけば、ほんとに大したもんでしたよ。
<筆者:その 1970 何年かに日本に一時帰国される前は、日本に帰れるっていう話はずっと、全然
なかったんですか?>あるにはあったんです。やっぱり子供に引っぱられて。引っぱるわけじゃな
いんですけどね、なんていっても子供たちは頭がいいんですよ。ちょっとお巡りさんが来て調べる
でしょう。するとこう分かるんですね。それで一次はね、子供が7歳のとき。
(長女と次女が)7
歳と3歳でした。
(まだ)2人っきりでした。まだ3番目は生まれてなかったから、2人っきりだ
けど、かわいかったですよ。ねえ。やっぱり子供っていうものは。
この子を残していったら、かわいそうだなあと思って。それでわたし「10 年(間は)帰らない」
って約束したんですよ。10 年帰らないことにね。
(日本人残留者)みんながそうじゃないんですよ。
わたしはそれが全然できなかった。でわたしが 10 年帰らなかったら、こどもが 15(歳)にもなる
でしょ。15(歳)になって 13(歳)にもなったら(少しは大丈夫だろうと思って)
。こうやってそ
したら、そんなことじゃないですわ。ずらずらずらっと子供が(生まれて)きちゃったんですわ。
それこそ1年おきくらい。
そうしてるうちにだんだんやっぱりお金をもうけなきゃ。出稼ぎに行けば、なんの暇もなくなるで
しょう。夜帰ってきてからも子供に(いろいろ)作ってやったり。働いて働いて暇なし。10 年の
あいだに、何人です、3番、4番、5番、6番とできて。ああじゃあこれでも、と思って我慢して
おったんです。
それでやっぱりね、一番先に国へ帰ったときは、母親も生きておったんですけど、それほどでもな
かったんです。妹が4人いるんです。やっぱりねえ妹のほうがお母さんのそばで、母親のそばで手
伝ってくれた。わたしはなんにも役に立ってないっていうわけなんですよ。あんまりでもなかった
んです。兄弟としてもなんとなし、わたし若いころ「ちゃんころ」
[中国人を指す差別的な呼び方]
っていったもんですよ、ねえ。それと一緒になったもんだから。それこそ下に見られて、あまり楽
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しくなかったんです。それでまあ6ヶ月で(中国に)帰って。
2度目に帰ったときは、帰る前に母親が亡くなったんです。えーとあのあいだ(一次帰国と二次の
あいだ)が7年。7年ですから、この7年のあいだお金を貯めるっていったら、大変なもんですよ、
子供はみんな学校でしょ。母親は8月の 25 日に亡くなったんです。お金が少し足りないから、
「お
兄さん、お金送ってください」っていったんです。うんともすんともなくって、えーと8月の 25
日に亡くなられて、待ちに待っておったうちに、9月の半ばごろ返事があったんです。そしたら「母
は亡くなった」って。
「葬式は立派にしてやった。葬式が終わってから」
、終わってからですよ、
「み
んなに相談したけど、お前の帰りはみんな不賛成だ」こういわれたんです。
それからはほんと、返事もださずにがんばりましたわ。それでお金がようやくたまって、お土産も
てんしん
たまったから、天津まで(行って)
。ね、中国の天津から船に乗って、天津まで(は兄弟に)手紙
もあげずに、天津に着いてから兄に手紙だしたんです。
「孝は今天津です。天津で船を待ってます。
飛行機では帰りません。こんどは船で帰ります。またよろしくお願いします。
」天津から手紙出し
たんですよ。それほどじゃなくて、船に乗る前にはちゃんと申告するでしょ。だから何時の何分に
(到着するって)ちゃんとうちには手紙ついてるんですよ。
(そのときは他の残留婦人と)3人で
帰ったんですけど、わたしだけ迎えの人がなかったんです。神戸で。それで神戸のね、船長さん幹
部さんたちが、
「伊藤さん、伊藤さんからお返事がないんですけど、どうしますか。またお電話し
ますか。
」
(といわれて)
「ああもう結構です。あの、鼻の下に口がありますから、もしわからない
こう べ
ところがあったら、聞けば、どこだっていけますから。
」
(って答えたんです。
)それで神戸から山
形まで出かけたんです。大変でした。大変でね、鼻の下に口があって、目があるけど、目が見えた
らね、東京の駅からね、まずは福島行きに乗っちゃったんです。
福島じゃ(山形まで)まだまだでしょ。そいで福島でストップでしょ。これはどうしましょ。降り
て、こんど山形行きを待って、山形行きにのったらまだ駄目なんですよ。天童行くにはね、なんと
もりおか
いっても青森行きとか盛岡行きとかに乗らなきゃ、ねえ。ところがね、あの車(山形行き)に乗っ
ちゃったんです。したらこんどは山形についたらまたストップでしょ。全部降りちゃって、こんど
こそはどうしようかなあっと。1日何にも食べてないし、お腹はへとへとだし、もう夜の8時ごろ
になっちゃってるし。あのときだけは、
「ああ、くそう」と思って、
「なんてったって、母親の家な
124
んだから、なんてったって俺たちは兄弟だろ」という気持ち。かあっとなってきてね、電話かけた
んです。天童の兄のところへ。そうしたらね、
「待ってろ」って(笑)
。
「待ってろ」って言われた
んです。お兄さんから。それで山形駅で待ってたんです。待ってしばらくしたらね、車でやってき
ました。それに乗ってね、それこそ天童まで無口でうちにつきました。
<筆者:日本に帰られる前、
一番初めに帰国される前は、
誰に一番会いたいなあとおもわれました?
>いやあ誰って、やっぱり前の主人です。母親とか兄弟とかはそれほどでもないんですけど。やっ
ぱりね母親たちの承諾がなかったら、帰るのができないでしょ。それなのにそう考えたことないで
すよ。あの人のことばっかり考えていたんですけど、手紙もやったことないですよ。でもあの人の
ことばっかり考えていたんです。そしてちょうどあの時代は飛行機で帰ったのは、わたしが一番先。
みんなは船で帰ってきたんですわ。うちのおじさん、おばさんがね、あの人(前の夫)に連絡して
くれたんです。
「孝が帰ってくる」って。向こうももうとっくに結婚して子供もあったんですけど、
やっぱりねえ、けんかして分かれたわけじゃないし。やっぱりねえ 29 年ぶりにお会いしたんです
けど、忘れてはいませんよねえ。
ちょうどこうやって駅に着いたら、近所の人やら兄弟が、兄弟も全部じゃなくって、4人の妹のう
ち2、3人の妹、それからひとりの兄貴が待っててくれたんです。でそうしたら後ろからわたしの
かばんを引っぱる人がいるんですよ。
中国人ならかばんを引っぱられたら困る
(たいへん)
でしょ。
ちょっと後ろを(振り返って)見たらあの人だったんです。それからっていうものね、身体中がね
もう寒くって寒くって、泣くどころじゃないです。泣きませんでした。泣きませんでしたけど、そ
の泣かなかったのが辛いですよ。
それでわたしがこっち(中国)へ帰るときは、ちょうど駅まで送ってくれて。そのときは何にもい
えなかった。ただ「身体さえ丈夫でいればね」って。
「いつでも会えるんだから、だから身体を大
事にな」っていわれるだけ。それでなかったら、まずはめそめそ泣くんですわ。ね。泣かれたとき
には困りました。ほんと(笑)
。自分が泣くよりもまた困りました。そうねえ、もう 53 歳でした
よ。会ったときは。だけど不思議なもんですねえ。
<筆者:中国のご主人は日本には来られなくて、亡くなったんですか?>あの人来たがったけどね。
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言葉は通じないしでしょ。それでねえ、何でもかんでもしゃべる人だし、わたし連れたくなかった
んです。連れてきたくないんですよ、わたしは。
だけどね日本人が行かれた(中国の町に来られた)なんていったら、それこそ大走りでうちからホ
テルまで1日何回も歩き出して、お会いするんです。喜んで、喜んでね。そういう日本の親戚とか
兄弟とか(であれば)
、それこそほんとに大喜びで。ああいう人だったけど、ただただ口がうまく
ないんです。それで来たくってしょうがなかったんですわ。でも連れてこないで。亡くなってから
こそ、思い出したんです。だからねえ、やっぱり心は複雑ですよ。おじいちゃん、おばあちゃんは
天津まで(お骨を)納めてきたけど、この人(のお骨)はまだこの町(訥河)のお骨場(にあるん
です)
。とっても立派なおうちを建ててね、あの街では。だけど1年にいくらかなあ、わたし 10
年(分)しか(管理費を)収めてないんです。だいたいの人は3年、2年くらいですけど。わたし
は来るとき 10 年収めてきたんです。10 年、来年で 10 年です。だからこれがまだ心配です。
◇◆◇◆◇◆◇
聞き書きを終えて
伊藤孝さんには、2004 年冬に京都の団地にあるご自宅になんどかお邪魔して、話を聞かせていただい
た。京都で「残留孤児」たちの支援をしている世話人の方の紹介で、突然お伺いしたにもかかわらず、
話しなれた口ぶりで、変転にとんだ一生の物語を聞かせていただいたのだった。
話しなれた口調というのは、ご自身の生涯の物語について、日本へ帰国される前後におそらくなんど
も説明を求められたことからくるものではないかと思う。開拓団員の妻として渡満した経緯、開拓団が
壊滅した前後の状況、また中国の家庭にはいって暮らしてきたときの様子などからは、
「満洲国」という
日本の植民地侵略とその破綻というマクロな歴史のプロセスに翻弄された個人の人生の道筋が、訴えか
ける力をもったエピソードをとおしてうかがわれる。
現在は身体の悪い娘さんと2人で、団地の一室で生活されている。ここ数年身体を壊してからは出歩
くことも少なくなったということだが、以前は毎年のように中国に出かけたり、会合があれば参加した
りされていたという。そこにうかがわれる行動力と同じように、これらの生涯の苦労譚のなかで、とく
に印象に残るのは、自分自身の感情にとても正直に力強く行動される彼女の姿である。伊藤さん自身は
「甘えることが出来ない人間」
「馬鹿者」
「頑固」といった言葉でご自身を形容しているが、その生涯の
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苦境をつづる言葉は淡々として力強いものであった。そこには、歴史の流れと国の狭間におかれた境遇
のなかで、生の道筋をきりひらいてきた彼女の流儀につうじるものがあるように思われた。
本稿は伊藤さんからの聞き取りをもとに、坂部が再構成したものである。伊藤さんご自身は日本語も
中国語もともに自然に話されるが、日本語は中国滞在時には数十年使っておらず、また日常的にも中国
語の会話のほうが多いということで、日本語での聞き書きのなかで、若干言葉をおぎなった部分もある。
本稿の内容は聞き取り時のテープ録音にもとづくが、その文責は坂部にある。
(さかべ しょうこ)
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