タイ国における日本研究の現状と課題と今後の展望

公開シンポジウム
公開シンポジウム
―タイ国における日本研究の現状と課題と今後の展望―
チョムナード・シティサン
(チュラーロンコーン大学)
1.はじめに
プミポン国王陛下80歳の年、チュラーロンコーン大学創立90周年、日タイ
修好120周年、さらにはチュラーロンコーン大学日本語講座創立40周年とい
う慶事が重なる本年に「タイ国日本研究国際シンポジウム」が開催できたのは大
変喜ばしいことである。本シンポジウムは「国際シンポジウム」という名前にも
あ る よ う に 、タ イ 国 以 外 の 国 々 の 日 本 研 究 者 に 対 し て 交 流 の 場 を 提 供 す る こ と と 、
タイ国の日本研究を国際的水準に引き上げることに主な狙いがあり、日本語での
開催となった。範囲としては日本語・日本文学・日本文化という3つの分野を中
心とした内容になっている。
今回の公開シンポジウムのテーマについては、いろいろ議論した結果、第一回
に ふ さ わ し い「 タ イ 国 に お け る 日 本 研 究 の 現 状 と 課 題 と 今 後 の 展 望 」が 選 ば れ た 。
この問題を多角的に分析するため、パネリストにはタイ国と海外の日本語教育・
日本研究事情に詳しい方々にご出席をいただいた。まずはカンラヤニー・シータ
スワン助教授に「チュラーロンコーン大学における日本文学教育」でタイ国にお
ける日本語教育の歩みから専門教育である文学教育が定着するまでの過程を振り
返っていただき、続いて吉田一彦准教授に「日本研究のための日本語教育」で高
等教育機関による専門教育としての日本語教育の役割について論じていただいた。
日本研究の現状については高阪薫教授に「タイ国の日本学の現状」を通して、特
にアジアの国々との比較で分析していただき、最後は伊井春樹館長に「海外との
日本文化・日本文学の交流史展望」というテーマで世界の日本研究の動きを総括
していただいた。シンポジウムを通じて将来タイ人の日本研究者が進むべき道が
少しでも明確になることを願うものである。
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2.チュラーロンコーン大学における日本文学教育
(カンラヤニー・シタスワン)
タイで日本語教育が始まったのは1937年である。日本外務省情報部の資料
には、当時ボピットミムック学校(国立短大兼高校)に日本語コースがあったと
記されている。1965年の日本政府の講座寄贈により、タマサート大学が全国
の大学に先駆けて日本語教育を導入した。その1年後、すなわち1966年にチ
ュラーロンコーン大学でも日本語が教えられるようになり、そして1974年に
同大学の日本語講座が全国ではじめて専攻コースに昇格して今日に至っている。
チュラーロンコーン大学日本語講座の特徴は、日本語以外に日本文学史も必修
であるということだった。特に日本政府より派遣された玉井ケンスケ教授は日本
文化と文学に力を入れ、チュラーロンコーン大学の日本文学教育の土台作りに貢
献した。日本から専門家が派遣されなくなってからは、サオワラック先生をはじ
め、タイ人教員が文学史コースを担当するようになった。そして1993年にそ
のスタッフの一人であったガンジャナー先生が、適当なテキストがないことを理
由 に タ イ 語 版 日 本 文 学 史 の テ キ ス ト を 出 版 す る こ と に な っ た 。 Toshiba
International Foundation の 援 助 で 出 版 さ れ た こ の テ キ ス ト は お そ ら く タ イ で 初
めて出された日本文学史のテキストだろうと思われる。
この文学史テキストには、当時の学生の日本語力に合わせて、現代語訳された
文学作品の引用の他、文学理解に必要な日本史、日本文化もタイ語で簡単にまと
められている。教員は同テキストとともに英語訳の文学作品なども参考しつつ指
導に当たっていた。しかし、学生の日本語力がかなり向上した現在では、このテ
キ ス ト も た だ の 参 考 書 に な り 、代 わ り に『 国 語 便 覧 』
『 精 選 日 本 文 学 史 』な ど の 日
本語のテキストがメインの教科書に採用され、また作品そのものも原文を読ませ
る こ と に な っ た 。こ の い わ ば「 エ リ ー ト 教 育 」の お か げ で 多 く の 学 生 が 文 部 省( 現
在の文部科学省)の奨学金で日本に留学する機会を得、そのうちの何人かは現在
のスタッフになっている。また文学史以外に、現代文学や短編小説などのような
科目も教えられるようになった。
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学部カリキュラムに加え、1999年にチュラーロンコーン大学に日本語・日
本 文 学 修 士 課 程 が 開 設 さ れ た 。文 学 コ ー ス で は 日 本 名 作 文 学 鑑 賞 、日 本 古 典 文 法 、
奈良・平安文学、江戸文学、日本近代文学、能と狂言など開設授業も多岐にわた
っている。タイ人の文学専門のスタッフは現在5人と全国でもっとも多く、国際
交流基金からも毎年一人の日本人の専門家が派遣されて充実した文学教育が行わ
れている。
3.日本研究のための日本語教育(吉田一彦)
カンラヤニー先生が日本語教育開始からチュラーロンコーン大学に修士課程が
開設された時まで話して下さったので、私は90年代後半から現在に至るまでの
タイにおける日本語教育をまとめたい。タイでの日本研究を豊かなものにしてい
くためには、高等教育機関による研究者の育成は欠かせない。その人材育成に専
門教育としての日本語教育は重要な役割を果たし得ると思われる。このことにつ
いて状況論的教育観から意義付けを行いたい。
90年代後半の顕著な動きとして、中等教育における日本語教師育成と日本語
教育の普及・充実があげられる。国際交流基金の日本語センターが日本語教師育
成プログラムに力を入れたことで、中等教育の日本語教育がレベルアップした。
このことが大学教育を受ける学生の準備につながったと評価できる。一方、高等
教育機関では90年代後半にタマサート大学、チュラーロンコーン大学などで日
本研究分野の修士課程が次々と開設され、スタッフの増員も行われた。学士課程
では学部在学中の日本留学者が急増し、チュラーロンコーン大学の場合一学年の
半数が留学するようなこともよくある。これは文部省以外に各大学が奨学金を与
えるようになった結果である。
1998年に国際交流基金がこれまで派遣していたチュラーロンコーン大学、
カセサート大学、商工会議所大学の専門家を打ち切り、日本語教育の現地化、す
なわち現地スタッフによる教育を依頼することを図り始めた。同年に日本語が大
学入学試験科目となり、大学における日本語教育は専門化に移行しはじめた。ま
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たその専門学習をきっかけに研究への関心を抱く学生も増加した。
学部における日本語既習者の限定的な受け入れは結果的に卒業時の到達レベル
を向上させるだけでなく、日本語学習にある程度余力が出た分、専門分野の知識
の増幅に時間を割くことができるようになった。また専門分野も日本語学や日本
文学に加え、社会や文化といった日本学も学生の関心の対象となってきた。先述
のように90年代後半に日本研究の修士課程が開設されるようになったため、そ
うした専門知識をもった卒業生の一部は国内の大学院に進学することもできるよ
うになった。こうしてタイ国内での研究者育成体制が徐々に確立するに至ったの
だが、今後は研究会など、研究者を目指す学生同士の交流の場がさらにもとめら
れるだろう。
日本に留学しているタイ人留学生は2007年5月現在で1、734人と各国
の中で7番目に多い。だがそのほとんどは文部科学省や各団体・大学の奨学金を
受 け て の 留 学 で あ る 。や は り 現 時 点 で は 奨 学 金 受 給 な く し て は 困 難 な よ う で あ る 。
奨学金については学部生レベルでは、文部科学省の日本語・日本文化研修生、短
期留学推進制度、各大学独自の交換留学プログラムなどがある。それに対して卒
業生には文部科学省の研究留学生や、タイ政府派遣の日本留学生などがある。大
学院進学時の大きな問題の一つに、学部日本語主専攻が大学院で選べる専門分野
非常に限定されていたということであるが、この問題も先述のように日本語教育
の専門化によって解消されつつあるといえる。もう一つの問題は、大学院のカリ
キュラムをもったタイの大学に学生がそれほど興味を示さず、優秀な人材を確保
するのが難しい点が指摘される。
次は研究者養成機関としての日本の大学の特徴をフランスの大学との比較にお
いて述べたい。フランスの大学の創立は12~13世紀にさかのぼり、長い国際
交流史をもっている。学生たちはラテン語もしくはギリシャ語、現在ではフラン
ス語さえ十分できれば分け隔てなく一応平等に教育が受けられるのが特徴になっ
て い る 。そ れ に 対 し て 日 本 の 大 学 は 日 本 人 子 弟 の 教 育 機 関 と し て 設 立 さ れ た た め 、
留学生への配慮に欠けた面が見られたりする上、国籍による区別もよく起こる。
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また大学院で必要な日本語、俗にいう「アカデミックジャパニーズ」を要求する
こともしばしばで、そうした教育をきちんと受けて来なかった多くの留学生を困
惑させてしまう。しかし、果たしてそれは本当に不可欠なのだろうか。優れた表
現法やプレゼン能力を備えた留学生も非常に多いので、そうした長所を伸ばすよ
うな雰囲気の造成こそ大事ではないだろうか。また留学生に対して一方的に知識
を付与する教育を行うだけなく、留学生が自分たちの社会を研究室に持ち込める
ような国際的な研究者コミュニティを提供することも日本の大学にもとめたいと
ころである。
日本研究のための日本語教育の課題として、タイの大学の場合は研究との出会
いがある専門教育、実質的な専門教育の充実化が図られるべきであり、それに対
して日本の大学の場合は、留学生受け入れを前提とした国際的な研究者コミュニ
ティ、双方的研究基盤の確立につとめることが求められる。同時に日本も研究に
値する国・社会・文化であり続けることが重要である。
4.タイ国の日本学の現状:アジア各国との比較において(高阪薫)
私は26年ぐらい前にチュラーロンコーン大学ではじめて教える機会を得た。
当時は日本語コースが新設されたばかりで、もっぱら実用教育が中心であった。
その中で文学の授業をしたが、ほとんどの学生は興味を示さず、私の日本語を理
解してもらえたどうかもわからなかった。しかし中には優秀な学生もいて、今研
究者になっている者が3人ほどいる。日本語教育は今日でも現実に対応した実用
日本語が中心であることに変わりはないが、1990年代からタイのいくつかの
大学で大学院コースが開設されたことを契機に、今後は研究の方向にも発展して
いくだろうと思われる。その流れの中で、東南アジアあるいはアジアの方々が日
本研究――特に私の立場からいえば日本文学――をどのように捉えればいいかに
ついて考えてみたいと思う。
私の知っている限りでは、日本以外に世界で日本研究が一番進んでいるのは韓
国であろう。本日のような国際日本学のシンポジウムはこれまで5~6回開催さ
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れ 、1 5 0 0 人 も の 研 究 者 が 集 ま っ た こ と も あ る 。分 科 会 も 日 本 語・教 育・文 化 ・
文学と多彩である。中国でもそれぞれの地域で日本研究が行われているが、韓国
ほど大規模な全国大会はない。またオーストラリアの場合では、以前に赴任した
ことがあるシドニー大学のような拠点大学が研究を引っぱっていく状況である。
タイも今回のようなシンポジウムが開催できたのはタイ国トヨタ自動車株式会
社や国際交流基金の支援のおかげだと聞いている。しかし、このような学会は1
回限りでは意味がないので、今後も継続したバックアップを切に願いたいもので
ある。ただできることなら、大学のようなもう少し学会にふさわしい会場を選ん
で開催してほしい。また主催者であるチュラーロンコーン大学に今回は大変な負
担があったとのことなので、タマサート大学などが持ち回りで主催して行けたら
いいと思う。
25年前にチュラーロンコーン大学で教えていた時、日本語教師の採用試験を
手 伝 わ せ て も ら っ た こ と が あ る 。た く さ ん の タ イ 在 住 の 方 々 に 来 て い た だ い た が 、
現在と違って日本語教師の資格もなく、ただネイティブであればいいという状況
だった。そのようなところから出発して、今や制度的にもスタッフ的にもかなり
充実するようになった。チュラーロンコーン大学のタイ人スタッフ約10人のう
ち、博士号をもった者が7、8人もいるほどである。時代の変化とともに日本の
大学もずいぶんと寛容になり、博士の学位を出すようになったと思う。こうした
状況を踏まえて進んできたタイの日本語教育・日本研究だが、今後の課題として
提案したいことが一つある。それは日本研究に対する姿勢である。日本人の研究
方法を踏襲して日本で通用する論文を書くことももちろん大いに結構だが、外国
人ならば独自の観点で日本を見つめることがあっていいのではないか。例えば文
学のことを例にあげるなら、韓国やオーストラリアの人たちは日本文学の味わい
方にお国柄、自国の立場を強く出している。自国の立場に立脚した、日本人とは
違った観点で文学を読んでいる。そういうところが非常にすばらしい。だからタ
イ人の日本研究者にもぜひ自分の立場で研究して、成果を日本に向けてどんどん
発信してほしいと思う。
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5.海外との日本文化・日本文学交流史展望(伊井春樹)
他の御三方がタイと日本語教育についてお話になったので、私は視野を広げて
海外における日本文学・日本文化という観点から、すなわち海外と日本文学・日
本文化の交流をどう進めるべきかについて考えていきたいと思う。
日本の文化交流の近代化は1543年ポルトガル人が種子島に漂着し、鉄砲が
伝来されたところに始まったといってよい。1593年には来日したキリシタン
の宣教師たちの日本語の教科書『天草本伊曽保物語』がローマ字で出された。同
時期にやはり宣教師用のテキストとして『天草本平家物語』が作られ、彼らが日
本の古典を勉強しながら日本語を覚えていく姿をここに見ることができる。16
00年にはイギリスの東インド会社が設立され、ジャワ島、タイのアユタヤ、日
本の平戸などに商館が置かれ、イギリスの文化がもたらされた。17世紀初頭に
徳川家康が将軍となって江戸幕府を開いた後、1639年に鎖国令が出された。
日本人の海外渡航と外国との貿易は禁止になったものの、長崎港内の出島にオラ
ンダ商館を移され、西欧との交流は維持され続けた。1783~1792年にか
け て 有 名 な 大 黒 光 太 夫 が ロ シ ア に 滞 在 し 、カ テ リ ー ナ 女 帝 に ま で 謁 見 し た と い う 。
その様子を井上靖が小説『おろしや国酔夢譚』の中で描いている。また1815
年に杉田玄白が『蘭学事始』という蘭方医学などについての本を出している。そ
して1823~1828年すなわち幕末には、シーボルトが来日して医学の知識
を日本に持ち込み、日本で植物採集も行った。これらを見る限り、海外文化が一
方的に日本に入ってきたように思われるが、1841~1851年にアメリカに
滞在していたジョン万次郎などアメリカ文学に影響を与えた日本人もいる。ハー
マ ン・メ ル ヴ ィ ル の 長 編 小 説『 白 鯨 』
( Moby-Dick )が で き た の も ジ ョ ン 万 次 郎 の
漂流があったといわれている。
そうした中で日本人をもっとも驚かせた出来事が1853年のペリーの浦賀来
航である。新しくやってくる西洋文明に対してアジア各国はそれぞれ対処を行っ
ていったが、日本がとった方法は明治維新を進めることであった。その時に日本
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は 大 挙 し て ア メ リ カ や ヨ ー ロ ッ パ に 留 学 さ せ た 。同 時 に い わ ゆ る「 お 雇 い 外 国 人 」
も欧米から招き、彼らからさまざまな文化を学んだ。明治22年までにその数は
2,200~2,300人いたという。1862~1900年に外交官として日
本に滞在していたアーネスト・サトウは『一外交官の見た明治維新』など外国人
の目から見た日本を報告書にまとめている。また日本との文明接触によって文学
も 生 ま れ て い る 。例 え ば バ ジ ル・ホ ー ル・チ ェ ン バ レ ン の『 英 訳 古 事 記 』
(188
2 年 )『 日 本 事 物 誌 』( 1 8 9 0 年 )、 ウ ィ リ ア ム ・ ア ス ト ン の 『 土 佐 日 記 』( 1 8
75年)などがある。また、ウィーンとパリ万国博覧会に日本から出品された浮
世絵がフランスの画壇に大きな影響を与えたことで、ジャポニスムブームが起こ
り、モネーをはじめ、ルノワールやセザンヌのような印象派の画家たちが挙って
浮世絵を模倣した作品を作り上げるようになっていった。
西洋に追いつき追い越せを国策としてきた日本だが、結果的に日清・日露戦争
を生じさせた不幸な面もあった。その時日本は疲弊してしまったが、同時に西洋
に自分たちの事情を知ってもらいたい気持ちも沸き起こり、日本発のさまざまな
本 を 世 界 に 向 け て 出 版 し 出 し た 。明 治 初 年 頃 よ り 日 本 は 昔 話 を 英 語 、フ ラ ン ス 語 、
スペイン語、オランダ語、ポルトガル語などに翻訳する作業を行い、チリメン本
といわれる小さな本に挿絵入りの形で出版して海外に売り込んだ。その後、日本
人そのもののさまざまな風俗習慣を本にして世界に流すようなこともあった。そ
うして日本の存在は海外に知られるようになり、同時に日本の文学作品も興味の
対象となっていった。一番早く海外に紹介されたのが1882年にロンドンで出
版された末松兼澄訳の『源氏物語』である。またアーサー・ウェイリーが192
5年から3年間かけて翻訳を手がけた『源氏物語』はヨーロッパ・アメリカで大
変有名である。さらには中国語、チェコ語などに日本の文学品が翻訳されている
例もある。
現在は文学品というより日本漫画が海外で大変な人気を博しているが、それは
それでけっこうなことであると思う。もっとも今では海外のさまざまな情報はイ
ンターネットや映画などで簡単に知ることができるようなったが、やはり交流の
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基本はフェース・トゥー・フェース、人と人が向かい合って話をすることが大事
である。古典もそのような意味で時代ごとにさまざまな人々の交流が背景にあっ
て千年も生き続けてきた。その意味でこのような集会で一つあるいはいくつかの
作品を取り上げ、話をするということは非常に貴重だと思っている。
6.おわりに
シンポジウムを通じてタイ国における日本研究の歩みと現在置かれている状況
が断片的ではあるがわかってきたように思われる。今後の課題としては、高等教
育による研究者の育成体制を充実させること、独自の研究姿勢と立場を打ち出す
ことなどが指摘された。さらには欧米やアジアの国々に見習って日本の古典をタ
イ語に訳す作業も勧められた。研究基盤の構築にかかわるような意見が多く出さ
れたことをしっかり受け止め、一研究者として次の段階につなげるよう努力して
いきたい。
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