6月19日レポート

第 3 回 深見陶治
2015 年 6 月 19 日
講師:森 孝一
はじめに
「ぼくの場合、泥漿(でいしょう)圧力鋳込みという
方法で作品を作ります。その原型は土を使って作り
ます。土がもっている必然的な形があると思うから
です。ですから素材は土じゃないと困るんです。ほ
んとうは原型は石膏原型でも、ほかの素材を使った
ものでも、発泡スチロールでも、なんでもいいんで
す。でも、私もやってはみたんですが、やはり私の
陶芸作品としての想いの形には到達しないんです。
だから、私は土原型にこだわらなければならないと思っているんです」とは、繊細な造形感覚と泥漿
圧力鋳込みという技術によって、陶芸の世界にまったく新しいフォルムをもちこんだ陶芸家・深見陶
治氏の言葉です。
そのシャープで、澄明(ちょうめい)な光沢を放つ青白磁の作品は、国内のみならず海外でも高く評
価されています。とりわけ日本の現代陶芸が、今日海外で高く評価されている理由のひとつに、深見
氏の作品が果たした功績は大きいといえるのではないでしょうか。
純粋造形作品としての陶芸
「ぼくの作っているものは、あくまで焼きものです。しかし、焼きものでありながら、どれだけ『焼
きもの』から距離をおけるかということも考えています。つまり、一般通念としての『焼きもの』と
は、距離をおきたいということです。
」
深見氏の陶芸は「純粋造形作品」と呼ばれていますが、それは、これまで日本のやきものの特徴と
いわれてきた土味、焼味、手跡、ロクロ目といったもろもろの要素にたよるのではなく、むしろ、そ
れらを消し去ることによって、純粋な造形としての作品を創造しようという試みであります。泥漿(磁
土と水に珪酸(けいさん)ソーダを混ぜたもの)による圧力鋳込みという方法も、そのために彼が選択した手
法です。泥漿鋳込み(石膏型の吸水性を利用して泥漿を流しこんで成形する方法)については、また後ほど詳
しく触れるとして、そうした手法による「純粋造形作品」に対して、それはもはや、やきものではな
く彫刻ではないかという声も多くあります。
普段、私たちは日常的に使われるやきものを、見たり触れたりすることでやきものとして捉えてい
ますが、では、なにが「やきもの」で、なにが「彫刻」なのかと問われると、その定義はなかなか難
しいと思います。しかし、現代陶芸では、粘土-成形-焼成という三つの基本要素にのっとり、陶土
-成形-乾燥-削り-施釉-焼成-完成という、やきもののプロセスのなかで構築され、かつ土(陶
土・磁土)という素材でなければ表現できないものを「やきもの」と定義しているようです。それに対
して「彫刻」とは、同じプロセスで構築されたとしても、とくに土という素材にこだわらず、ほかの
素材でも代用出来るのであれば、それは「彫刻」ということも可能だと思います。
とくに欧米の作家たちにとっては、まず表現したいイメージが優先しますので、たまたま素材のひ
とつとして土が選ばれることはあっても、土そのものにこだわることはありません。私も、この質問
1
を欧米の陶芸家と出会うごとに投げかけてみましたが、いずれも土そのものにはこだわらないとのこ
とでした。むしろ、そういうこだわりは、表現の自由を束縛するものとして嫌われるようです。深見
氏の造形作品が、欧米では彫刻(セラミック スカルプチャー)として捉えられている理由がそこにあり
ます。
しかし、深見氏は、
「私の作っているものはやきもので、彫刻ではない」とはっきり断言していま
す。なぜならば、磁土という素材と青白磁釉を使い、それを焼くという行為を通して、作品を表現し
たいと考えているからであり、また、土原型に「半磁土(磁土と陶土の両方の性質を兼ねる粘土)」を使う
ことにこだわるのも、素材として欠かせないものだからです。この土原型は、まず半磁土の手びねり
によって作られます。そして、出来上がった軟らかい表面を鉋(かんな)や鉄ベラなどで削り、なめら
かに整えます。その時の微妙な反りや張り、ねじれや稜線(りょうせん)が、深見氏の作品の命といっ
てもいいでしよう。
やんちゃと負けん気
国内外を問わず、いまや陶芸界の第一線で活躍する深見氏ですが、
「若い頃は碌なことはなかった」
と彼は苦笑します。
深見氏は 1947 年、京都の泉涌寺(にゅうせんじ)の窯元に生まれました。父親の芳一氏は元々轆轤師
(ろくろし)で、のちに共同の登り窯で「陵泉(りょうせん)陶苑」という窯屋業を営み、ちょうど独立し
た時に深見氏が 6 人兄弟の末っ子として生まれたので、
「陶を治める」という意味から、名前を「陶
治(すえはる)」と名付けました。その頃、泉涌寺界隈には百軒ほどのやきもの屋が軒を並べ、地方から
優秀な職人たちが集まっていました。絵付けがうまいのは石川県出身で、轆轤がうまいのが瀬戸出身
といわれ、芳一氏は瀬戸の隣の品野の出身で、腕のいい轆轤師でした。
深見氏は、「子供の頃は陶芸家になろうとは思わなかった」といいます。その頃、京都は薪(まき)
による登り窯(共同窯)だったので、その焼き上がりの成功率も決して安定したものではなく、その大
きな損失から悲惨な生活になる窯屋の厳しさを身に染みて知っていたからです。しかし、深見氏は京
都市工芸指導所に入り、さらに専科に進みます。当時の深見少年を知る教官夫人から、彼のわんぱく
ぶりを聞いたことがありますが、やんちゃなだけに、人一倍負けん気も強かったようです。
鬱屈(うっくつ)した 20 代
深見氏は、20 歳の時に友人の勧めではじめて公募展に応募します。磁土を使い轆轤で成形した鉢
を日展に初出品し、日展工芸美術部門における最年少入選という栄誉を得ました。しかし、次には 2
年連続で落選し、「安易な気持ちではだめだ。本気でやらなくては」と、気持ちを入れ直します。当
時の深見氏の作品からは、いまの凜とした作品を想像することは出来ません。1970 年、半磁器の手
びねり作品で日展に再入選し、以後 17 回の入選を果たします。再入選は磁土でしたが、磁土は陶土
に比べて技術的に制約が多いので、まもなく陶土の手びねりに
変えます。しかし、子どもの頃から磁土に慣れ親しんできたの
で、次第に陶土に対して違和感を抱くようになります。
1972 年作の<夢の絵本>では、陶土による開いた本から風船
のような白磁の球体が飛び出し、その球体には染付で銅版画の
ような絵がほどこされています。
1974 年の<若き日の倫理>(写真1)では、箱型の屋根の部
分が大きく波打って、後の青白磁作品のフォルムを創造させま
すが、このかたちは旗がなびく様子を表現したものとのことで
す。
さらに、伊羅保釉が掛かった胴部を見ると、そこには人の顔ら
写真1 <若き日の倫理> 1974 年
しきものが浮かんでいます。この作品のなかに隠されているの
2
は旗の元にいる人びとの姿だそうです。
「旗とは国家・組織・集団の象徴であり、その下でもがき、
うごめき、苦しむ人びとの姿や一種の社会矛盾を、その時代の若き私自身に投影し、象徴的に表わそ
うとしたものです。いま思えば少し恥しいが、そんなことを考えて制作していた」とのことです。こ
うした若い頃の作品を見ていますと、試行錯誤を繰り返す深見氏の苦悩する姿が浮かんできます。
1974 年、大阪で開催されたイタリアの陶芸家、カルロ・ザウリ(1926-2002)の巡回展を見て、同
時代の日本の陶磁器作品からは見出すことの出来ない啓示を受けます。伊羅保釉の作品<展>は、滑
らかな面と鋭い線で構成された力強い作品ですが、この頃から、土という素材に違和感を感じるよう
になったようです。
1975 年の半磁土を使った<初めての航海>(写真 2)という作品は、上部の波打つようなフォルム
は型に半磁土を押し付けて作り、下の台となる部分は手びねりで成形されています。
これは、単に素材が陶土から半磁土に変ったとい
うよりも、表現の上で大きな意識の転換が見られま
す。上の表面はまさしく「波」のように大きくうね
っていますが、これは四方へ無限に広がっていく波
の「連続性」で、そこには無限に連続していく「漣
(さざなみ)」がイメージされています。そして、この
「無限」や「連続性」という意識は、ある意味で深
見氏を「オブジェ」という観念から解き放っていく
ことにもなります。
「土という素材感とどうしても一体になれなかっ
たんですね。土をひねって作っていくのはいいんで
写真 2 <初めての航海> 1975 年
すが、手ばかり洗いにいく自分がいるのがわかるん
ですね。磁器屋の習性ですね、これは。幼いころか
ら外で遊んだ汚(きたな)い手で家の白い磁土をさわったりしたらひどく怒られていましたから。絶え
ず手を洗うんです。土の仕事のときでもザクッという仕事はできない。きれいに仕上げていくという
仕方になるわけです」
陶芸家には、磁器に向くタイプと陶器に向くタイプとがあるように思います。陶器の場合は、窯か
ら出した時に多少の傷があっても、それを偶然の面白さとして受け入れる懐の深さがありますが、磁
器の場合は、ホクロほどのほこりがついても受け入れることは出来ない。そういう違いが、仕事にも
性格にも端的に現われるようです。
深見氏は、20 代の時は大きな賞には恵まれることはありませんでしたが、1978 年 31 歳の時に、
京都工芸美術展で大賞を受賞し、ようやく転機が訪れます。これまで、磁器、半磁器、手びねり、轆
轤と試行錯誤を繰り返すなかで、自分の方向性を磁土、磁器というものに求めるようになります。そ
して、どんなに技術的に手間が掛かろうと、自分は磁器で勝負していこうと決心を固めます。そうし
た磁土と青白磁釉を組み合わせた作品について、「私の中で青白磁の美しさは、簡単にいうと、カタ
チがいいとか悪いとかそういうことを超えて美しい」と、深見氏は述べています。
華々しき 30 代
深見氏が泥漿圧力鋳込みによる青白磁のオブジェを試みたのは 33 歳、1980 年の朝日画廊(京都)
での個展の時です。この画廊では、陶芸では最年少の個展だったとのことです。実家の窯を継いだ兄
から、大量生産に用いる圧力鋳込みという技法を教えられ、その技法を大きさの限界を超えて自分の
作品制作に応用することによって、それまで問題であった「手跡」を取り去ることが可能になったと
いいます。
3
写真 4 <海景> 1980 年
写真 3 <今日の断面> 1972 年
1972 年作の<今日の断面>(写真 3)という作品は、実家の圧力鋳込みを使って製作した「箸置」
の集合作品です。そして、1980 年作の<海景>(写真 4)は、圧力鋳込みを使っての焼成に成功した
最初の作品です。
1981 年には京都市芸術新人賞、1982 年には「中日国際陶芸展」大賞<翠>、1983 年には「中日
国際陶芸展」愛知県知事賞<盤「洋」>、1984 年には「中日国際陶芸展」準大賞<清キノ想イⅡ>
(写真 5)、
「日展」特選<清晨>(写真 6)を受賞します。1985 年には第 43 回「ファエンツァ国際陶
芸展」でグランプリを受賞します。とくに、イタリアのファエンツァに出品した<遥カノ海景Ⅰ>と
題する造形作品は、一躍海外に深見陶治の名を知らしめることになった作品です。また、同じ 1985
年作の<盤>(写真 7)・<盤「清澄」>(写真 8)・<盤「澄」>(写真 9)に見る稜線は、深見氏の作
品の特徴ともいうべき空気感を創り出しています。鋭利(えいり)に研ぎ澄まされエッジ、流れるよう
にスムーズな稜線、絶妙に組み合わされた線と面、その繊細な造形作品は一見鋭く厳しい印象を見る
ものに与えますが、じっくり見ると、作家がいかにナイーブで優しい心の持ち主かということを教え
てくれます。さらに、射し込む光線の微妙なバランスによって、鋭さと優しさ、線と面、光と影が複
雑に絡み合い、反響(はんきょう)しあいながら、その作品の周囲の空気をも緊張感で包み込んでいく
様子が分ります。
写真 5
<清キの想イⅡ> 1984 年
写真 6 <清晨> 1984 年
4
写真 7 <盤> 1985 年
写真 8 <盤「清澄」> 1985 年
写真 9 <盤「澄」> 1985 年
泥漿圧力鋳込みの工程
圧力泥漿鋳込みのプロセスを説明すると、次のようになります。
(1)デッサンから半磁土により原
型を作ります。先ほどもいいましたが、この原型は土じゃないと困るとのことです。
(2)原型に割線
を入れ、外側に土を盛り、ベニヤ板で囲って石膏を流して石膏型(外型)を作ります。
(3)大作では
三つに分かれた石膏型を組み合わせ、樫(かし)の木枠(きわく)とボルトで固定します。
(4)石膏型に
あけた小さな穴から泥漿を注入し、約 3 時間圧力をかけ続けます。その後、泥漿を排出します。(5)
3 時間後に石膏型を外すと、
石膏が泥漿の水を吸収し、厚さ 14 ミリぐらいの磁土の面が出来ます。
(6)
約 2 週間かけて自然乾燥させ、その後乾燥炉で乾燥させます。(7)タンガロイ(超硬合金)の鉋(かん
な)とサンドペーパーを使って形を出します。その後、素焼きします。
(8)表面をコンプレッサーを
使い、スプレーガンで青白磁釉をかけ、乾燥させます。釉薬の厚みにより色の濃淡が変ります。焼成
で歪(ゆが)んだり、冷め割れしないように、穴から内側にも釉薬をかけます。(9)約 9 時間かけて、
還元焼成します。
以上の工程を通して、作品が完成します。じつに気の遠くなるような手間と、徹底した手仕事の繰
り返しによって、深見氏は自らの手跡を消していきます。それは、自身が納得するフォルムをどこま
でも追求したいという、深見氏の執念なのかも知れません。しかし、「手跡」を消したその「純粋造
形作品」は、深見氏の作品の命ともいうべき、微妙な反りや張り、ねじれや稜線を、自身の身体をも
って削り、なめらかに整えたものであり、まさに深見氏の感性によって生み出されたものといっても
いいでしよう。
おわりに
1988 年、深見氏は「日展」への作品の出品をやめます。そして、この年、家族と一緒にイタリア
に出掛けます。ローマの北東の山の上にある小さな町トーディに家族 3 人だけのアパートを借りて生
活し、生まれてはじめてなんの束縛もない自由な時間を味わいます。そこで感じたことは、これから
は「自分の歩幅で歩いていこう」ということでした。
1998 年、この頃、ようやく深見氏の求める水準に技術が追いつき、
<海景『渡』>は圧力鋳込み技法で彼の要求する水準に達した作品だということです。しかし、2002
年に開催された「現代の工芸・伝統と革新:京都の六人」
(三重県立美術館)への出品を最後に、これ以
後、大会場での個展と呼べるものは海外でしか開催されなくなります。
2003 年、カリフォルニアにあるクラーク・センターで「天才の創生-深見陶治の初期陶芸」と題
された展覧会が開催されました。今回の映像は、同センターで開催された 2011 年の「深見陶治:研
ぎ澄まされたかたち」の図録から取ったものです。
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2005 年、第 54 回「ファエンツァ国際陶芸展」審査員、ファエンツァ
国際陶芸美術館における、その 20 年間の深見氏の歩みに注目した個展
(ファエンツァ国際陶芸美術館、イタリア)が開催されます。この年、縦型の最大
作品<立>(兵庫陶芸美術館所蔵)(写真 10)が完成します。
深見氏は、いまの若い陶芸家のように大学で陶芸を学んだ作家ではありま
せん。陶芸家としてどんな勉強をしたかというと、
「美術書に限らずあらゆる
本を読むこと、人の話を聞くこと、展覧会を見ること」だったといいます。
ここでいう展覧会とは、現代美術や彫刻展などのことですが、古い時代の美
術を観ることも大切だと思います。
深見氏が、ある意味で「脱オブジェ」の方向に向かうのは、1980 年からで
す。泥漿圧力鋳込み技法と青白磁釉により「純粋造形作品」が自立したこと
と大きく関係します。それは、作品の形だけではなく、形から生み出される
空気が大切だということです。深見氏は一つの型からの制作は 8 点に限度し
ているそうです。しかし、実際にはそれほど作られてはいないと思い
写真 10 <立> 2005 年
ます。制作途中で失敗することが多く、型で成形しても 1 点 1 点違った作品
になるからです。
深見氏はイタリアに何度も行きながら、言葉はさほど勉強しなかったといいます。それは、言葉で
はなく、作品を五感で感じとるためです。私は、「絵画は余白に、立体は空気に、文章は行間に本質
が存在する」と思っています。そういう意味では、深見氏の「純粋造形作品」は彼の空気(本質)を
表現したものであり、ゆえにそこに思想があるのだと、私は思っています。
おわり
森 孝一(美術評論家・日本陶磁協会理事)
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