2015年4月(イースター礼拝説教)

(2015 年 4 月 5 日
イースター礼拝説教)
石は転がされていた
イザヤ書 55:8-11
マルコによる福音書 16:1-8
藤井 和弘 牧師
しばらくの受難節の時を経て、この朝はイースターを迎えました。十字架
に架かられた主イエスが死者の中からよみがえられた!―そのことをお祝
いするために、私たちはここに集まっています。イースターは、教会が祝う
祭りの中で一番古い、そして一番大切なものです。
けれども私たちは、主イエスが復活なさったその時のことをよく知りませ
ん。主イエスが復活なさったとき、そこには誰もいなかったからです。主イ
エスがこの世にお生まれになったクリスマスは違いました。私たちが知って
いますように、そこには、ベツレヘムの羊飼いたちが集まっていました。遠
い東の方からやって来た占星術の学者たちもいました。そして、何よりそこ
には、ヨセフとマリアがいましたし、生まれたばかりの幼子の主イエスがお
られました。けれども、世界の歴史の中でおそらく一番大事な出来事が起こ
った時、そこには誰も居合わせてはおりませんでした。
ある人々はこう尋ねます。「イエスはどのように復活なさったのです
か?」「よみがえったイエスはどんな姿をしていたのですか?」。「分かりま
せん」、残念ながら、私たちはそう答えるしかありません。ただ、ひと言つ
け加えるとすれば、イエスはもはや墓の中におられないということ、復活し
てこの時ガリラヤという場所に向かっておられたということ―それが私た
ちに知らされていることです。
この知らせを最初に聞いたのは三人の女性たちであったと、マルコによる
福音書は記しています。彼女たちは、主イエスに従い、そして、遠くからで
はありましたけれども、十字架につけられた主イエスの死を見守った人々で
した。この三人の女性たちは、「週の初めの日」、まだ暗いうちから起き出し
て、辺りが明るくなる日の出の時を待っていました。日の出は、自然が与え
てくれる希望を示すしるしです。しかし、このときの三人の女性たちにとっ
て、それは希望を抱かせるものではありませんでした。朝ごく早く、日が出
るとすぐに彼女たちが向かったのは墓地であったからです。そこに葬られた
主イエスの亡骸に油を塗るためでした。それは、主イエスの死を悲しむもの
でありましたし、やがて朽ちていく亡骸から異臭がたつのを少しでも引き延
ばすためのものでした。
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「だれが墓の入り口からあの石を転がしてくれるでしょうか」。
墓に向かう女性たちの姿を、聖書は彼女たち自身の発した言葉によって私
たちにイメージさせようとします。主イエスの亡骸を納めた墓は、当時のパ
レスチナの習慣に従って岩を掘った穴の中にありました。入り口には非常に
大きな石が置いてあり、中に入るためにはその石を転がす必要があったので
す。「だれが墓の入り口からあの石を転がしてくれるでしょうか」。それは、
三人の女性たちの誰もが口にすることのできた問いでした。しかし、そこに
いた彼女たちのだれ一人、答えることのできなかった問いでした。
ここに集まっている私たちも、たぶんこれと同じような問いを抱えながら
生きています。自分の健康のこと、仕事のこと、老後のこと、家族の介護や
看病のこと、子どもたちの成長のことなど、気がかりは止むことがありませ
ん。傷ついてしまった人間関係やこの国が進もうとしている将来に対する不
安が私たちに圧しかかり、それが消えることなく目の前に置かれたままの状
態です。もはや後戻りすることなどできませんし、閉ざされたように見える
先のことをどんなに思い巡らしたとしても、霧が晴れることはないのです。
「だれがそれを取り除いてくれるでしょうか」。それは、ここにいる私たち
の誰もが口にすることのできる問いです。けれども、私たちのだれ一人答え
ることのできないでいる問いなのです。
けれども、そこに驚くべきことが起こります。墓の入り口に辿り着いた三
人の女性たちが目を上げて見ると、入り口をふさいでいるはずの大きな石は
わきへと転がされていました。ある人は、それを“偶然の出来事”と呼ぶの
かも知れません。別のある人は、「これは神の摂理だ」と言うのかも知れま
せん。しかし、いずれにせよ、思いもよらなかったことが彼女たちの上に起
こったのです。そして、石がすでに転がされていたということは、彼女たち
が問題なく墓の中に入ることができたということをもたらしただけはあり
ませんでした。そうではなく、彼女たちが前もって考えもしなかった、まっ
たく思いがけない別の道へと彼女たちを歩ませることになったのです。
「さあ、行って、弟子たちとペトロに告げなさい」。
主イエスは復活なさった! そのことをあなたがたは告げなさい。それが、
このとき彼女たちの目の前に突然と開かれることになった別の道でした。そ
して、このとき彼女たちが急いでたどって行くべき道でした。今からおよそ
2000 年前の、私たちが迎えている今日と同じ日の朝に起こった出来事を、
教会は大切にしてきました。私たちがイースターでおぼえるのは、かつて一
度だけ起こった科学では説明できない歴史の出来事だけではありません。そ
のような出来事を通して、神は必ず私たちを顧みてくださるということに信
頼するよう私たちは召されているということです。
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聖書の物語は、ご自身を信頼する民を神が救い出された、その力強いみわ
ざの数々に満ちています。そして、それらはすべて、ここにいる私たちと同
じように神を信じる人々の生きた経験の中で示されたことなのです。よくク
リスチャンは人生や社会の問題にぶつかると、すぐに神に助けを求めて現実
から逃避するという誤解があります。しかし、聖書が繰り返し教えています
のは、どのようにして解決が与えられるのか、私たちがまったく見ることが
できないそのところで、神は救いのみ旨をお示しくださるということです。
そこで行動なさるのは、私たちの側ではなく神ご自身だということです。
墓の入り口をふさいでいた石がすでに転がされていたように、本当に神は
働いてくださったのか、もしそうだとすればどのように神は働かれたのか、
そのことを証拠だてることは私たちにはできません。たとえこの世の多くの
人がそのことについて知りたいと思っているとしてもそれはできないので
す。むしろ、人の目にはまったく閉ざされて見える道を前にして、それでも
一歩ずつ、一歩ずつ従って歩もうとする者に神は道を開いてくださる、自分
たちには予想もつかず、前もって見ることのできなかった道が確かに神によ
って備えられたとの証言が、聖書には満ち満ちているのです。
このことは、私たちの目に映る以外の道が人生にはつねにあり得るのだと
いうことを教えてくれます。そして、それは神が招いてくださる道、私たち
の思いとは違う神ご自身の御旨に基づくところの道です。聖書においてご自
身を現わされる神は、「わたしの思いは、あなたたちの思いとは異なり、わ
たしの道はあなたたちの道と異なる」(イザヤ 55:8)とおっしゃるお方です。
そのようなご自身の道を、神はまたここにいる私たちにも備えられるという
可能性を、私たちは自分たちの中から取り除いてしまうことはできません。
それは、神の備えてくださる道が私たちの目に筋道立っているとか、正しく
映るからではありません。また、神が備えてくださるその道を、私たちが確
信しているからでもありません。そうではなく、神が死者の中から復活させ
られた主イエスこそ、私たちの主であり、私たちのすべてをお任せすること
のできる方だからです。そのことを、神は主イエスの復活をとおして告げて
くださったのです。
「だれが墓の入り口からあの石を転がしてくれるでしょうか」。
イースターの朝早く、そこで死んでいたのは、主イエスご自身ではありま
せんでした。死んでいたのは、「イエスこそ私たちの主である」という、こ
の信仰でした。ここにいる私たちも、さまざまな問題を抱えながら日々生き
ています。みずから答えを出すことのできない、「だれがそれを取り除いて
くれるのか」、そう問わざるをえない状況に囲まれるようにして生きていま
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す。しかし、神は、「イエスこそ主である」との信仰を、死の力に囚われて
いる者たちのうちにもう一度新しく創造してくださるのです。死んだイエス
の亡骸に油を塗ることで奉仕するのではなく、生ける主イエスに仕える道を、
神は開いてくださるのです。
そのことを思いめぐらし冷静に見つめるための時間が、三人の女性たちに
は必要でした。「婦人たちは墓を出て逃げ去った。震え上がり、正気を失っ
ていた。そして、だれにも何も言わなかった。恐ろしかったからである。」
マルコによる福音書の 16 章につきましては、元々は 8 節で終わっていた
と考えられています。私たちの聖書で「結び」となっている 9 節以下の部分
は、後の時代に書き加えられたものだと言われています。今から推測してみ
ますと、そうせざるを得ないほど、8 節の部分が当時の人々にとってもあま
りに唐突な終わり方であり、そして、何よりも仮に 8 節までで終わっていた
とすれば、復活の主イエスが弟子たちに御自身を現わされる場面が出て来な
いことに人々は困惑したのではないでしょうか。それほどに、マルコによる
福音書の終わりの部分は議論されてきた中の一つなのです。
確かに、8 節で終わりだとしますと、唐突な印象は避けられませんし、復
活なさった主イエスがガリラヤに行かれ、そこで弟子たちとペトロに出会わ
れると告げられた約束は、まさに約束のままでとどまることになってしまい
ます。しかし、それはそれでマルコによる福音書の伝えようとしたメッセー
ジがそこに浮かび上がってくるのではないかと思います。つまり、震え上が
り、正気を失い、すっかり沈黙した女性たちの姿というのは、不信仰な者の
姿などではないのです。むしろ、それほどに主イエスの復活の知らせという
ものが人の思いをはるかに超えるものであり、人に恐れを生じさせる神の驚
くべき御業であったことを、今一度気づかせるものになっているのではない
かということです。
私たちがイースターを喜び祝うということの中心は、私たちが復活なさっ
た主イエスに出会うということです。過去の主イエスでも、まして死んだイ
エスでもなく、今も生きてはたらいておられるよみがえりの主に私たちが出
会うということです。でも、それはどこで起こるのでしょうか。どこに行け
ば復活の主に出会うことができるのでしょうか。「あの方は、あなたがたよ
り先にガリラヤへ行かれる。かねて言われていたとおり、そこでお目にかか
れる」と、御使いは告げたとあります。それは、私たちが直ちにここを旅立
ってガリラヤの地に向かえということなのでしょうか。いいえ、そうではな
く、私たちはもう一度、この福音書の初めに戻るのです。主イエスがご自身
の活動を始められた出発点に帰るのです。そのところで、「わたしについて
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来なさい」と呼びかけ、ガリラヤから宣教の業をお始めになられた主イエス
に出会うのです。そこで私たちが出会うのは、「十字架につけられたナザレ
のイエス」ではありません。神が死者の中から復活させられた主イエスに、
私たちは出会うのです。
マルコだけではありません。福音書が書き留めているのは、復活された主
イエスであって、かつて地上に存在した方ではないのです。福音書において
私たちが出会う主イエスは復活の光のもとで書かれた方、すなわち、十字架
の死からよみがえられた主イエスにほかなりません。この方に出会うそのと
ころで、私たちとこの世界は大きく変えられています。もはやそこで「だれ
があの石を転がしてくれるでしょうか」と問う必要はありません。主イエス
の復活のもとで、私たちの行く手を阻む大きな石が転がされ、すべての終わ
りだと思われていた死そのものに終わりがもたらされているからです。ただ
神のみを恐れる者にされているがゆえに、それ以外のものを私たちはもはや
恐れる必要はありません。むしろ、自分たちのすべてをゆだねるに価するお
方に、私たちはすべてをささげて仕えることができるのです。そのような道
が、主イエスの復活によって開かれました。それは、死をも貫くまことのい
のちと希望の道にほかなりません。どうか、その道を歩んで行ってください。
(祈り)
主なる神さま、私たちの内に、そして、この世界の歴史のただ中に、あな
たは驚くべき御業を行ってくださいました。
罪と死の力に、容易にからめ取られてしまう私たちです。御言葉によって
あなたが告げてくださる喜びよりも、自分の思いや自分の目に見えること
にとらわれる私たちです。
私たちから覆いを取り払ってください。あなたの恵みを深く悟ることので
きる信仰を与えてください。
死者の中から御子を復活させられたあなたの大いなる御力で私たちをも
満たしてくださり、あなたのものとされた喜びと平安に生きる者とならせ
てください。
あなたは、今日イエス・キリストを主と仰ぐひとりの者を起こし、私たちの
群れに加えてくださいました。その慈しみに満ちた驚くべきあなたの御業を、
私たちがほめたたえ、いよいよあなたとキリストの体なる教会に仕えること
ができますよう導いてください。
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