資 料 編 1. 八 乙 女 の由 来 八 乙 女 (や お と め) の地 名 ( 宮 城 県 泉 村 七 北 田 ) 陸 奥 街 道 に 沿 って 七 北 田 横 の 東 南 部 の部 落 を八 乙 女 と呼 んでいる。八 乙 女 の地 名 は国 分 氏 の支 流 で、さきに根 白 石 村 の実 沢 の八 乙 女 城 主 であった八 乙 女 淡 路 が、現 在 の七 北 田 にある八 乙 女 の地 に移 り、この地 に居 住 したので、この地 名 が生 まれたものとみられる。 八 乙 女 とは神 楽 の舞 姫 、すなわち 神 々に奉 仕 して神 楽 舞 などをした八 人 の少 女 、ま たはその一 人 をいったのであ るから、こ の 神 楽 に関 係 のあった氏 族 で あったと思 われる。 後 世 、仙 台 藩 主 重 村 の小 姓 ならびに 嗣 子 斉 村 の近 習 として仕 えた八 乙 女 盛 草 はその子 孫 である。また、その子 孫 に 八 乙 女 盛 次 というこの地 出 身 の官 吏 が ある。宮 城 郡 などの各 郡 長 を歴 任 し、晩 年 伊 達 伯 爵 家 の家 令 として同 家 の家 八 乙 女 駅 ホーム 政 整 理 に当 った。 (昭 和 31 年 11 月 4 日 、毎 日 新 聞 、 宮 城 版 掲 載 ) 地下鉄車両 仙台市営地下鉄八乙女駅 (参 考 ) 昭 和 62 年 、仙 台 市 営 地 下 鉄 、仙 台 ・八 乙 女 間 開 通 。料 金 大 人 160 円 時 間 16 分 138 現 在 は泉 中 央 から八 乙 女 、仙 台 を経 て富 沢 まで 17 駅 開 通 。 2. 履 歴 1925 年 (大 正 14 年 )12 月 31 日 品 川 区 大 井 山 中 町 にて出 生 1932 年 (昭 和 7 年 )4 月 品川区立山中尋常小学校入学 1938 年 (昭 和 13 年 )4 月 第 二 東 京 市 立 中 学 校 入 学 (途 中 病 気 で 1 年 休 学 ) 1944 年 (昭 和 19 年 )4 月 東京高等師範学校理科二部入学 1948 年 (昭 和 23 年 )4 月 同 校 研 究 科 (物 理 )入 学 1949 年 (昭 和 24 年 )3 月 同 科 修 了 1949 年 (昭 和 24 年 )5 月 東京都立第八新制高等学校就任 (後 、都 立 小 山 台 高 等 学 校 と改 称 ) 1967 年 (昭 和 42 年 )4 月 東京都立明正高等学校就任 1976 年 (昭 和 51 年 )4 月 東京都立青山高等学校就任 1983 年 (昭 和 58 年 )3 月 同校退職 1983 年 (昭 和 58 年 )4 月 学校法人一橋学院就任 1996 年 (平 成 8 年 )3 月 同校退職 3. 住 所 歴 大 正 14 年 12 月 31 日 以 前 品 川 区 大 井 森 下 町 4090 昭 和 2 年 ∼昭 和 19 年 3 月 30 日 品 川 区 大 井 森 下 町 4094 139 (3 月 31 日 強 制 疎 開 で家 屋 撤 去 ) 昭 和 19 年 3 月 31 日 ∼昭 和 26 年 Y 月 目 黒 区 中 根 町 2079 昭 和 26 年 Y 月 ∼昭 和 28 年 Z 月 目 黒 区 自 由 が丘 昭 和 28 年 Z 月 ∼昭 和 30 年 2 月 川崎市東涯田 3 丁目 (K.K.中 野 組 社 宅 、父 死 去 ) 昭 和 30 年 2 月 ∼昭 和 30 年 9 月 目 黒 区 自 由 が丘 昭 和 30 年 10 月 ∼昭 和 32 年 6 月 世田谷区奥沢 昭 和 32 年 7 月 ∼昭 和 50 年 3 月 世 田 谷 区 弦 巻 町 3 丁 目 629(弦 巻 住 宅 115) (昭 和 33 年 1 月 15 日 結 婚 ) 昭 和 50 年 4 月 ∼昭 和 52 年 8 月 狛 江 市 和 泉 3436 (多 摩 川 住 宅 ニ、10−507) 昭 和 52 年 8 月 ∼現 在 世 田 谷 区 給 田 2−12−1−413 4. 小 ・中 学 校 恩 師 (敬 称 略 ) (*印 は平 成 8年 の時 点 で故 人 、右 記 は転 任 先 ) 小 学 校 (品 川 区 立 山 中 尋 常 小 学 校 ) 各 学 年 の担 任 1年 小杉* 2年 小杉* 3年 赤松 4年 石井 5年 金杉哲司* 6年 金杉哲司* 140 中 学 校 (第 2東 京 市 立 中 学 校 ) 学 校 長 高 藤 太 一 郎 * (修 身 )、清 水 岬 公民 松崎貞之 徳島大学教授 上野幸治郎* 渡辺茂* 国語 間 宮 靖 * (古 文 ) 任 生 勤 * (現 代 文 ) 武 井 勇 * (兼 書 道 )(2 年 時 担 任 ) 岡 部 鎗 三 郎 * (漢 文 ) 退 職 、村 長 福 原 富 三 郎 * (文 法 ) 数学 関文夫 福地喜雄 岩間昌稔* 松井巧* 竹内喜巳人 英語 日高不二雄 目黒郵便局長 長谷部晃 白戸一 江副善夫 理科 物理 川名佐二郎* 林武晴 鈴木英雄 浅田登 化学 阿部篤三* 東京市視学 藤村与市 柳 実 生 物 米 山 芳 成 * (4 年 時 担 任 ) 関野武夫* 社会 国史 鎌田重雄 西洋史 荒井亮* 戦死 地理 浅香幸雄 教育大教授 141 図工 図画 真木宣武 水船三洋* 工作 原稲生 東京学芸大学 (「日 曜 大 工 」という言 葉 の発 案 者 ) 音楽 柏木俊夫* 東京学芸大学名誉教授 (途 中 休 職 中 村 田 護 郎 藤 原 歌 劇 団 ) 体育 森 下 孝 三 郎 * (1 年 担 任 中 病 死 ) 佐 々木 久 吉 中村基 国立競技場体育指導員 剣道 小沢丘 柔道 成瀬諭喜* 東京高師教授 真鍋修 教 練 (配 属 将 校 ) 家 所 政 信 大 佐 (後 に東 部 軍 管 区 司 令 官 ・少 将 ) 島田清吉少尉 荒木庄一少尉 栗山秀澄少尉 他 に配 属 将 校 2 名 142 5. 茗 渓 会 創 立 百 周 年 記 念 式 ‥‥‥本 会 百 年 の歩 み‥‥‥ 本 会 は明 治 15 年 4 月 29 日 、神 田 明 神 の境 内 雪 月 楼 に、当 時 の東 京 師 範 学 校 同 窓 生 19 名 が会 合 し、「同 窓 ノ卒 誼 ヲ継 続 シ共 ニ教 育 ノ進 歩 ヲ謀 ル」目 的 をもっ て創 立 され、ともに茗 渓 のほとりに蛍 雪 の功 を積 んだのにちなんで茗 渓 会 と名 づけ た。今 年 より 100 年 以 前 のことである。同 年 12 月 の会 員 わずかに 123 名 、客 員 22 名 であった。 明 治 33 年 5 月 、法 人 組 織 とし、社 団 法 人 茗 渓 会 と称 した。同 36 年 6 月 、女 子 高 等 師 範 学 校 の創 設 に伴 い、女 子 会 員 551 名 は本 会 より分 離 して桜 蔭 会 を組 織 し、男 子 会 員 のみとなった。 母 校 の変 遷 に伴 い、会 員 は東 京 師 範 学 校 、高 等 師 範 学 校 (女 子 卒 業 生 を除 く)、 東 京 高 等 師 範 学 校 、第 一 臨 時 教 員 養 成 所 、東 京 文 理 科 大 学 、東 京 教 育 大 学 、 筑 波 大 学 の卒 業 生 が会 員 となり、その総 数 は 3 万 600 名 に達 する。 昭 和 34 年 、東 京 教 育 大 学 の母 体 となった東 京 文 理 科 大 学 、東 京 高 等 師 範 学 校 、東 京 農 業 教 育 専 門 学 校 、東 京 体 育 専 門 学 校 の卒 業 生 をもって組 織 せる茗 渓 会 、駒 場 会 、翔 陽 会 の3同 窓 会 が統 合 して東 京 教 育 大 学 の卒 業 生 を含 めた新 たな同 窓 会 を設 立 し、茗 渓 会 と名 乗 ることになった。 昭 和 48 年 10 月 、母 校 が筑 波 大 学 として発 足 したのに伴 い、本 会 も筑 波 大 学 の 同 窓 会 となり、昭 和 51 年 3 月 、筑 波 大 学 の卒 業 生 を初 めて会 員 に迎 えた。それ以 後 、毎 年 、卒 業 生 を会 員 に迎 え、今 日 に至 っている。 本 会 の目 的 は母 校 の変 遷 に伴 い、若 干 の変 化 はあったが、教 育 の研 究 と会 員 の 親 睦 は一 貫 して変 わらざる基 調 であった。 明 治 44 年 10 月 30 日 、母 校 創 立 40 周 年 記 念 式 には、明 治 天 皇 の御 名 代 とし て皇 太 子 嘉 仁 親 王 の台 臨 を仰 ぎ、昭 和 6 年 10 月 30 日 、母 校 創 立 60 周 年 記 念 式 には今 上 陛 下 の行 幸 を仰 ぎ、「 健 全 ナル国 民 ノ養 成 ハーニ師 表 タルモノノ徳 化 ニ竣 ツ 事 ニ教 育 ニ従 フモノ 其 レ奮 励 努 力 セヨ」との優 渥 なる勅 語 を賜 ったことは 本 会 の最 も光 栄 とするところである。 昭 和 8 年 11 月 、会 員 の努 力 によって東 京 市 小 石 川 区 大 塚 町 56(現 在 文 京 区 大 塚 1−5−22)に地 下 1 階 、地 上 4 階 、の茗 渓 会 館 を建 設 した。この会 館 は本 会 の活 動 の本 拠 となるとともに地 方 会 員 が上 京 した際 の宿 泊 施 設 として広 く利 用 され てきた。 昭 和 46 年 には、筑 波 大 学 の設 立 に先 立 ち、その後 援 を目 的 とする筑 波 学 都 資 金 財 団 を設 立 し、筑 波 地 区 に筑 波 研 修 センターを建 設 した。ついで、昭 和 54 年 に は本 会 百 周 年 記 念 事 業 として筑 波 地 区 に中 学 部 、高 校 部 を持 つ学 校 法 人 茗 渓 143 学 園 を創 立 した。 以 上 の歩 みを経 て、今 日 、本 会 百 周 年 記 念 式 典 を挙 行 するに至 ったのである。 式 典 の部 ‥‥‥‥‥‥‥‥司 会 理 事 葭 内 善 三 郎 理 事 堀 内 昭 三 11 時 開 式 (入 場 完 了 10:50) 式次第 序 曲 (ラッシュモアー)茗 渓 学 園 吹 奏 楽 部 開 式 の言 葉 式辞 理事 芳賀幸四郎 理事長代行 長浜 恵 11:00 11:02 来賓祝辞 文部大臣 小川平二殿 11:15 筑波大学学長 福田信之殿 祝電披露 11:30 功 労 者 氏 名 発 表 及 び感 謝 状 記 念 品 贈 呈 顧問 功労者謝辞 池岡直孝 11:31 元理事 小松直行 事務局永年勤続者表彰 11:36 11:38 校 歌 並 びに学 生 歌 筑 波 大 学 男 声 合 唱 団 11:40 閉 式 の言 葉 理事 土肥輝雄 11:58 茗 渓 学 園 吹 奏 楽 部 による祝 賀 行 進 曲 吹 奏 茗渓会功労者 顧 問 ・理 事 故柴田周吉 故小川英男 池岡直孝 池本義夫 大内脩二郎 小林善一 高橋 与平 高畑浅次郎 長浜恵 平田政雄 松本英三 諸橋轍次 山本佳男 支 部 長 ・代 議 員 大森久吉 楠原信一 義邦 雄 桑原嵯峨雄 幸野岩雄 小松直行 佐藤周吉 芝村 鈴木美雄 田村泰次郎 戸倉廣愛 花房寿美太 早勢弥一郎 福山富 目良湛一郎 事務局永年勤続者 高柳弥生 井上登志子 144 6. 人 々に記 憶 された私 教 師 を長 年 続 けると、多 くの生 徒 達 に記 憶 されることになる。私 の肉 体 がこの世 か ら消 えてもその人 々の記 憶 に残 ると思 うと、これはまことに有 難 いことである。以 下 皆 さんが私 について書 いてくださった文 を感 謝 の念 を込 めて紹 介 したい。 6.1 合 格 者 の言 葉 一 橋 学 院 OMNIBUS1985∼1990 より抜 粋 1985 年 筑 波 大 学 (第 1) 小 平 西 佐藤 克利 この一 年 間 、本 当 にありがとうございました。なんとか無 事 に筑 波 大 学 に合 格 でき、 うれしいかぎりです。でも、共 通 1 次 が悪 かったのによく合 格 できたと不 思 議 です。 学 院 では英 語 の久 能 先 生 、数 学 の宮 崎 先 生 ・岡 本 先 生 、物 理 の八 乙 女 先 生 の 授 業 がたいへんためになりました。大 学 でもこの 1 年 間 の努 力 を忘 れずに有 意 義 に 過 ごしたいと思 っています。 東 京 都 立 大 学 (工 ) 北 園 伊藤 哲也 共 通 1 次 の点 は良 かったが(829)、2 次 で失 敗 したので、絶 対 落 ちていると思 って いただけに、自 分 の受 験 番 号 を見 つけた時 は非 常 にうれしかった。物 理 の苦 手 な 人 へ:物 理 の成 績 を上 げるのに、八 乙 女 先 生 のゼミで学 ぶか否 かが大 きなカギに なると思 う。とにかく物 理 は八 乙 女 先 生 のゼミにもぐってでも受 講 し、かつ予 復 習 を 欠 かさないこと。夏 休 み、及 び受 験 前 にテキストを総 後 習 して完 璧 にしておけば、 大 きな力 になると思 う。 青 山 学 院 大 学 (理 工 ) 川 口 北 田 代 敏 雄 青 学 にも 合 格 し まし たが、 日 大 に入 学 する ことに しま し た。以 前 か ら希 望 して いた 航 空 工 学 科 に進 めて安 心 しています。学 院 で印 象 に残 っているのは物 理 の八 乙 女 先 生 の授 業 です。高 校 の時 は全 然 おもしろく思 えなかった物 理 が楽 しく思 えるよ うになりました。 青 山 学 院 大 学 (理 工 ) (県 )富 士 川 口 達 也 予 備 校 の 合 格 判 定 を 全 く 無 視 し た受 験 で あったが 、 判 定 と は異 な った結 果 が 出 て幸 いであった。ほとんど最 後 の追 い込 みによる成 果 であったと思 うが、予 備 校 で 1 年 間 学 んだ下 地 があったからこそだと思 う。私 から物 理 に対 する抵 抗 感 を取 り除 い 145 てくれた八 乙 女 先 生 、本 当 にどうも有 り難 うございました。 成 蹊 大 学 (工 ) 蒲 田 加藤 範能 1 年 間 、学 習 に適 した環 境 で過 ごせ感 謝 しております。物 理 の八 乙 女 先 生 、数 学 の江 沢 先 生 には受 験 に対 する自 信 までもつけさせていただきました。短 い間 でし たがお世 話 になりました。 東 京 理 科 大 学 (理 ) 麻 溝 台 岡 田 誠 一 生 懸 命 勉 強 したというより、一 生 懸 命 学 院 へ通 った 1 年 でした。第 1 志 望 に合 格 できて、本 当 に嬉 しいです。1 年 間 どうもありがとうございました。最 後 に僕 が受 け た授 業 のうち、最 も印 象 深 かったものを挙 げておきます。武 市 先 生 の春 期 講 習 会 、 八 乙 女 先 生 の夏 期 講 習 、江 沢 ・桑 田 両 先 生 の直 前 ゼミ、以 上 。 日 本 大 学 (生 産 工 ) 武 蔵 工 大 附 原 憲雄 私 は、毎 日 、毎 日 学 院 に通 い続 けました。とても分 かりやすい授 業 を聞 くために、 雨 の日 も、風 の日 も、台 風 の日 も、病 気 の日 も通 い続 けました。特 に物 理 の八 乙 女 先 生 の 講 義 はためになりました。チ ユーター制 度 も非 常 に 役 立 ったと 思 います 。 接 着 剤 も思 わず驚 いてしまいそうな粘 り強 い精 神 力 と持 続 力 が、合 格 という結 果 にな つたと思 います。 1986 年 東 京 理 科 大 学 (理 工 ) 上 野 澤田 正克 学 院 に入 ってから一 段 と英 語 が伸 びた。とくに N 先 生 の英 作 文 はすばらしかった。 何 たって『英 作 文 』という講 座 だが、英 作 文 だけではなく、英 語 全 般 にわたっての講 義 を受 けているようだった。次 に物 理 、Y 先 生 の物 理 は、 テキストにこ だわらず、 物 理 の知 識 、解 法 のテクニックを教 えてくださり、お陰 で何 とか合 格 できました。学 院 中 心 の勉 強 をすれば必 ず合 格 できると感 じました。 群 馬 大 学 (工 ) 館林 渡辺 実 強 気 の一 発 勝 負 !見 事 に成 功 しました。この 1 年 間 の物 理 の伸 びは驚 異 的 でし た。最 初 の週 間 テストでの偏 差 値 43 が、私 大 模 試 等 で上 位 者 に名 前 が載 るほどま でに‥‥。 八 乙 女 先 生 、江 川 先 生 ありがとうございました。興 味 深 い授 業 をしてく れた 英 語 の 久 能 先 生 、 数 学 の 江 沢 先 生 、 予 備 校 教 師 には とても 見 えな い桑 田 先 146 生 、ありがとうございました。これから数 学 の小 島 先 生 と学 院 の仲 間 と打 ち上 げで す。 東 京 理 科 大 学 (工 ) 朝 霞 山口 真澄 (前 略 ) 岡 本 先 生 、各 問 のポイントをつき、わかりやすい授 業 。難 問 も易 しく理 解 することができました。松 本 先 生 、直 前 ゼミでは、ものすごい迫 力 、もうそれだけで英 語 は完 璧 だと感 じさせてくれました。八 乙 女 先 生 、何 はともあれ物 理 の楽 しさを教 え られました。例 えば、電 気 のときでは、ステレオのアンプは某 メーカーのものが非 常 に優 れているとか、新 宿 の露 天 で、永 久 独 楽 を売 っている兄 さんに、その仕 組 みを 教 えたりとか、体 験 をまじえて物 理 を理 解 させてくれました。(後 略 ) 青 山 学 院 大 学 (理 工 ) 秀 明 山賀 晋 いつも、リラックスした状 態 で勉 強 できたと思 う。特 に、物 理 の八 乙 女 先 生 の授 業 は最 高 でした。一 橋 学 院 には、各 科 目 に素 晴 らしい先 生 が最 低 でも 1 人 ずついら つしやる。先 生 にはめぐまれた予 備 校 だと思 う。 中 央 大 学 (理 工 ) 熊 谷 金子 佳之 浪 人 生 活 からやっと開 放 されて、ただただうれしくてたまりません。学 院 のおかげで 自 分 の納 得 のいく実 力 がついて本 当 に感 謝 しています。特 に桑 田 ・八 乙 女 両 先 生 どうもありがとうございました。本 当 に八 乙 女 先 生 は神 様 です。 東 京 慈 恵 会 医 大 学 (医 ) 久 留 米 大 附 設 吉田 一仁 東 京 慈 恵 会 医 大 、日 本 医 大 、慶 応 大 ( 理 工 ) 、上 智 大 ( 理 工 ) に合 格 しました が、 ひそかな本 命 であった慶 応 (医 ) に振 られて、うれしさ半 分 、悲 しさ半 分 といったとこ ろです。 参 考 にな ればと思 い 、各 教 科 の 勉 強 法 を書 いてみます と、数 学 ‥ ‥‥学 院 の 教 材 をすべて予 習 をして出 席 する。特 に宮 崎 先 生 ・江 沢 先 生 の授 業 には必 ず出 席 すること。化 学 ……好 野 先 生 の授 業 で完 璧 。物 理 ‥‥‥江 川 先 生 ・八 乙 女 先 生 の授 業 は最 高 。英 語 ‥‥‥学 院 の星 、武 市 先 生 ・久 能 先 生 。これで合 格 まちがい なし。 1987 年 埼 玉 大 学 (工 ) 都 立 大 附 戸 谷 恒 一 郎 147 この 1 年 間 を有 意 義 に過 ごせたのは幸 せでした。国 語 から社 会 から全 部 とって、 これで落 ちたらバカみたいだなどと思 っていましたが、やっていてよかったです。それ から、成 績 はそれほど上 がったわけではありませんが、八 乙 女 先 生 の物 理 は実 にた めになりました。これからも、ポリシーのある授 業 を続 けて下 さい。 東 北 大 学 (工 ) 豊 岡 相沢 則夫 (前 略 ) 共 通 1 次 点 でも東 北 大 に合 格 できたのは、1 年 間 勉 強 してきた意 地 と、先 生 方 のおかげです。特 に学 問 の奥 深 さを教 えてくれた中 内 先 生 や八 乙 女 先 生 、 数 学 を得 意 科 目 にしてくれた福 田 ・桑 田 ・江 沢 ・永 野 先 生 、そして一 橋 学 院 の皆 さ ん、ありがとうございました。 山 梨 大 学 (工 ) 永 山 石井 啓介 とにもかくにも、物 理 は八 乙 女 先 生 についてやるだけです。これが必 要 十 分 条 件 の 1 番 。次 に予 習 ・復 習 をきちんとやる、これが 2 番 目 の条 件 。最 後 に、目 標 を早 く から決 め傾 向 を知 る。これで決 まりです。 東 京 理 科 大 学 (工 ) (県 )富 士 川口 博司 物 理 の出 来 が合 格 をもたらした最 も大 きな勝 因 です。八 乙 女 先 生 の 授 業 に出 て、 はじめて物 理 という科 目 の面 白 さを知 りました。先 生 の影 響 って大 きいですね。教 え てもらった先 生 によって勉 強 したいという気 持 ちになれるんですからね。試 験 中 も八 乙 女 先 生 の顔 がうかんできて、自 信 をもって、受 けられました。 1988 年 横 浜 国 立 大 学 (工 ) 山 崎 樋口 昭範 今 回 の結 果 は 5 勝 1 敗 と、自 分 でも信 じられないくらいで、特 に第 1 志 望 の横 国 大 は共 通 1 次 の失 敗 でかなりきついかと思 ったが、2 次 で楽 々逆 転 できた感 じだっ た 。 今 思 え ば 、 予 習 ・ 復 習 を 毎 日 欠 か さ な か っ た こ と が 唯 一 の 勝 因 で あっ た と 思 い ます。一 橋 学 院 の授 業 は素 晴 らしいもので、特 に英 語 の中 内 先 生 、物 理 の八 乙 女 先 生 、数 学 の桑 田 ・ 横 田 ・ 小 島 先 生 の授 業 はとてもためになりました。一 橋 学 院 は とても雰 囲 気 が良 くて、友 達 もたくさんでき、本 当 にこの予 備 校 を選 んで良 かったと 思 っています。 東 京 農 工 大 学 (工 ) 豊 岡 山元 俊幸 夏 休 みまでが勝 負 だったと思 います。それは、初 めは大 学 に落 ちたショックからの 148 緊 張 感 があったが、夏 休 みを過 ぎたらそれが続 かなかったからです。しかし、八 乙 女 先 生 の授 業 を受 けて物 理 が得 意 になり、それで 1 年 間 続 けることができました。1 次 は非 常 に 悪 かったけ れど 、 あき ら めずに やっ たのが 良 か ったです 。 何 事 も最 後 ま で望 みを持 ってやるのが大 切 であるということがわかりました。(おわり) 東 京 学 芸 大 学 (教 育 ) 北 多 摩 赤司 俊一 共 通 1 次 の思 いもよらない高 得 点 で、直 前 学 期 のテキストの質 の高 さに感 動 しま した。このテキストをやっていなかったら、これだけの成 績 は残 せなかったと思 います。 (数 学 )福 田 先 生 のお陰 でとっつきにくい微 分 積 分 がよく分 かるようになった。(物 理 )八 乙 女 先 生 のお陰 で物 理 の考 え方 がしっかり身 について、ひねった問 題 も大 まかな筋 道 をつかめるようになった。( 英 語 ) 八 木 先 生 の添 削 のお陰 で英 文 に対 す る違 和 感 がなくなり、長 文 アレルギーもなくなった。長 文 の内 容 判 断 の時 に大 いに 助 かったし 、 その 分 、 他 の科 目 に対 する 負 担 が 少 なく なっ て、 落 ち つ いて受 験 で き た。(後 略 ) 早 稲 田 大 学 (教 育 ) 足柄 剣持 峰宏 (前 略 )そして横 田 師 匠 にはお守 りを書 いていただき試 験 場 では大 へん落 ち着 きま した。師 匠 の授 業 はあの“べらんめえ”調 でとてもユニークでした。その他 数 学 の講 師 は 一 流 の人 ば か り だし 、 理 科 は物 理 の 八 乙 女 先 生 、 化 学 の 鳴 瀬 先 生 の 授 業 も たいへんすばらしく、英 語 は直 前 しか出 られませんでしたが、筒 井 先 生 の授 業 に感 動 し、自 分 の価 値 観 が変 わったような気 がします。本 当 にありがとうございました。 東 京 理 科 大 学 (理 ) 井 草 長坂 暁 この 1 年 間 は学 力 が伸 びただけではなく、友 人 もたくさんできた大 変 有 意 義 な年 であったと思 う。これから一 橋 学 院 で学 ぶ後 輩 諸 君 には、共 に学 ぶ友 人 を作 ること をぜひ勧 めたい。それから、化 学 の鳴 頼 先 生 、数 学 の横 田 先 生 、小 島 先 生 の授 業 は面 白 くてとてもためになりました。また、宮 崎 先 生 、八 乙 女 先 生 、大 東 先 生 にも大 変 お世 話 になりました。素 晴 らしい講 座 の中 からしいて No.1 をあげるなら冬 期 単 科 「数 学 答 案 作 成 演 習 」です。これは最 高 でした! 武 蔵 工 業 大 学 (工 ) 武蔵工大附 島田 大 (前 略 ) た だ、予 習 だ けはしっか り やった気 が する。 それ から 、物 理 の八 乙 女 先 生 には、わかるまで何 回 も質 問 した。そして 1 月 に校 内 模 試 とテキストの総 復 習 をした。 これが功 を奏 したのだろう。でも、こんな私 でも大 学 に受 からせてしまうのだから、 一 149 橋 学 院 を選 んで本 当 に良 かった。物 理 の八 乙 女 先 生 と英 語 の東 谷 先 生 は、日 本 でトップクラスの先 生 だ! 武 蔵 工 業 大 学 (工 ) 武 蔵 工 大 附 長山 泰久 まず初 めに感 じたことは、テキストの内 容 が良 いということです。特 に物 理 のテキス トは素 晴 らしく、入 試 では 3∼4 題 も似 た問 題 が出 て驚 きました。又 、物 理 の八 乙 女 先 生 にはとても感 謝 しています。とてもわかりやすい授 業 で、特 に電 気 のところでは キルヒホッフの法 則 を使 わず、高 校 の時 は全 くといっていいほどやらなかった電 位 の 図 を書 いて解 くということを教 えてもらい、本 当 に役 立 ちました。最 後 に後 輩 のみな さん、一 橋 学 院 のテキストをやっていれば必 ず受 かります。 ガンバッ! 武 蔵 工 業 大 学 (工 ) 小 松 川 小山 次郎 八 乙 女 先 生 の物 理 の授 業 のおかげで、物 理 に興 味 をもつことができるようになり、 偏 差 値 も 50 から 60 にまでなりました。それから、直 前 ゼミで阿 久 津 先 生 の授 業 に 出 るために、2 時 間 も前 に一 橋 学 院 に行 ったことが印 象 に残 っています。 芝 浦 工 業 大 学 (工 ) (私 )城 北 加藤 晃宏 八 乙 女 先 生 、鳴 瀬 先 生 、なんとか合 格 することができました。冬 期 ・直 前 と毎 日 の ように八 乙 女 先 生 に質 問 に行 ったおかげで、物 理 の偏 差 値 が 56 から 73 まで伸 び ました。八 乙 女 先 生 は本 当 に救 世 主 でした。一 生 感 謝 致 します。また、鳴 瀬 先 生 には精 神 面 で支 えてもらいました。何 度 も励 ましていただいたおかげで、挫 折 せず に頑 張 ることができました。それから、最 後 まで苦 労 した数 学 は、小 島 ・永 野 両 先 生 に大 変 お世 話 になりました。(後 略 ) 東 京 電 機 大 学 (理 工 ) 府中西 工藤 敬太 八 乙 女 先 生 に言 われた通 り、試 験 中 あきらめずに 1 点 でも多 く得 点 するようにした のが 良 かっ たと思 いま す。 電 機 大 は去 年 か す りもし な かっ た所 な ので 、大 変 満 足 し ています。1 年 間 、ありがとうございました。 1989 年 東 京 農 工 大 学 (工 ) 昭 和 藤森 大輔 1 年 間 本 当 にありがとうございました。物 理 で八 乙 女 先 生 に会 えてとても幸 運 だっ 150 た。共 通 1 次 2 ケ月 くらい前 から始 めた倫 理 政 経 も、短 期 集 中 追 い込 み授 業 でな んとかなったし、合 格 を祝 ってちょーだい。それではさよならさん。乱 筆 乱 文 失 礼 。 大 輔 でした。 中 央 大 学 (理 工 ) 北 多 摩 大谷 仁美 去 年 は 1 つも合 格 できなかったのに、一 橋 学 院 で 1 年 間 学 んだことによって、今 年 は 4 つも合 格 できたのでとてもうれしいです。第 1 志 望 には落 ちてしまったけれど、 自 分 なりに精 一 杯 やってきたので、悔 いはありません。浪 人 をして、いろいろな事 が 学 べたので、本 当 に良 かったと思 っています。八 王 子 校 は校 舎 がとてもきれいで、と ても勉 強 のしやすい所 でした。先 生 の講 義 もわかりやすく、特 に物 理 の八 乙 女 先 生 には感 謝 しています。 1990 年 日 本 大 学 (理 工 ) 明治学院 鈴木 元 (前 略 ) 私 は物 理 の八 乙 女 先 生 のおかげでずいぶん励 まされました。物 理 という のは本 を読 んでいるだけではなかなかイメージできなくて、理 解 しかねるところが 多 々 あ り ま すね 。 こう い うも のを プラ イベ ー トレ ッ ス ンに 持 っ て行 くと 八 乙 女 先 生 は そ の質 問 の全 体 の基 礎 をわかり易 く説 明 してくれて、とても良 かったです。それに先 生 と仲 良 くなるとヤル気 は出 てくるものなのです。(後 略 ) 6.2 「物 理 に魅 せられた私 の半 世 紀 」 (横 浜 市 立 大 学 大 学 院 総 合 理 学 研 究 科 )小 川 恵 一 横 浜 市 立 大 学 小 川 学 長 (小 山 台 高 校 7 回 生 )最 終 講 義 より抜 粋 §1 はじめに 私 は 1952 年 に東 京 都 立 小 山 台 高 等 学 校 に入 学 し、そこで初 めて物 理 という学 問 に触 れました。それからちょうど半 世 紀 が経 ったことになります。私 事 になりますが、 §2 から§4 までは年 代 順 に「私 の半 世 紀 」を語 ってみたいと思 います。「反 省 記 」の 思 いもこめてです。これは最 終 講 義 という性 格 上 お許 しいただけるものと思 います。 私 の半 世 紀 は私 の性 にあった学 問 である物 理 学 、優 れた恩 師 、いい職 場 と同 僚 、 それに 素 質 のある学 生 に恵 まれ 、 私 の人 生 を 豊 かにして くれました。 天 に深 く感 謝 したい気 持 ちで−杯 です。 §4 では私 の講 義 の一 端 をご紹 介 し、§5 では最 終 講 義 に参 加 してくれた若 い人 に向 け、日 頃 感 じていることをひとこと(正 確 には三 こと)述 べたく思 います。 151 §2 1952−1965 いい先 生 といい本 との出 会 い こ の 期 間 は 私 が 高 校 、 大 学 、 大 学 院 、 ポ ス ト ド ク ト ラ ル とひ た す ら 勉 強 を し た 修 行 時 代 です。そのうち大 学 院 の博 士 課 程 は米 国 のペンシルバニア大 学 で、ポストドク トラルは英 国 のケンブリッジ大 学 で過 ごしました。 私 が小 山 台 高 等 学 校 へ入 学 すると東 京 教 育 大 学 から赴 任 された若 い八 乙 女 盛 典 先 生 に出 会 いました。当 時 、八 乙 女 先 生 は朝 永 振 一 郎 教 授 のお弟 子 さんという 噂 でした。先 生 とは約 半 世 紀 振 りに同 窓 会 でお会 いしました。そのときの先 生 のお 話 によると小 山 台 高 校 の歴 史 上 後 にも先 にも、ただ私 達 の入 学 年 度 だけ高 1 の学 生 に物 理 学 を教 えたとのことでした。私 はその高 1 のときたまたま物 理 学 を選 択 しま した。 八 乙 女 先 生 は力 学 の授 業 のとき、力 を直 角 座 標 のx成 分 、y 成 分 、z成 分 にひた すら分 解 して運 動 方 程 式 をたてれば全 ての問 題 は解 けると言 い切 っておられました。 先 生 の教 えにしたがって練 習 問 題 を解 いてみると面 白 いように解 けました。暗 記 の 苦 手 な私 は一 挙 に力 学 の虜 になりました。そして、物 理 学 の魅 力 に取 りつかれるよ うにな つた次 第 です。 (後 略 ) 152 付 録 1. 物 理 いろはかるた 重 要 なことを記 憶 するには、各 人 が自 分 なりに都 合 のよい方 法 を考 案 するのが普 通 であるが、万 人 向 き で古 来 より 広 く用 いられている方 法 は諺 や標 語 の類 であろう。 これらは日 本 語 の特 徴 としての七 五 調 で事 柄 を表 現 したものが多 く、この七 五 調 は 日 本 人 に最 も適 した文 節 である。これが俳 句 (発 句 )、和 歌 の基 本 ともなっているこ とはよく知 られている通 りである。 これらを記 憶 として一 層 強 く定 着 させるにはかるたというものがある。その代 表 が 「いろはかるた」であろう。現 在 では「いろは順 」は流 行 らないので、「あいうえかるた」 というほうがよいのかも知 れないが。しかもこれらは現 在 の小 学 生 でもこの中 のいくつ かは知 っている程 記 憶 され易 いものである。 昭 和 10 年 頃 には、ある子 供 の学 習 雑 誌 の付 録 として「学 習 かるた」がついていた。 私 の兄 弟 は冬 休 みの夜 などには炬 燵 に入 ってこのかるたで遊 んだものであった。今 でもその中 のいくつかはなつかしく思 い出 される。 この かるた は、社 会 、 理 科 、国 語 に関 す る重 要 な事 柄 を 諺 の 形 式 ( 主 とし て七 五 調 )にして表 した読 み札 と、それにふさわしい子 供 向 きの絵 を描 いた取 り札 でできて いた。 今 でも覚 えているものをいくつかあげてみる。 〔ぬ〕ぬれ手 で電 灯 、さわるは危 険 〔ひ〕人 の平 熱 37 度 〔ふ〕仏 教 伝 来 1212(いっちに、いっちに)、 (紀 元 1212 年 ) 〔の〕のみのすくねは角 力 の元 祖 また、私 は子 供 の頃 より標 語 などを作 ることが好 きであった。例 えば小 学 校 6 年 生 の時 、衆 議 院 議 員 選 挙 で違 反 、棄 権 防 止 のための標 語 募 集 が行 われ、私 の作 っ た「清 く正 しく明 るい選 挙 」が入 賞 し、朝 会 で校 長 を通 して選 挙 管 理 委 員 会 から賞 状 と銀 メダルが授 与 された。 このような 趣 向 で、物 理 で扱 う重 要 な自 然 現 象 や法 則 な どを記 憶 させる方 法 と し て「物 理 いろはかるた」を作 成 して、冬 休 みなどの遊 びとして行 わせることは学 習 効 果 を上 げる上 で有 効 ではないかと考 え、次 のようなものを作 ってみた。 153 一 つの語 にいくつかの句 をあげたものがある。普 通 のかるたでは一 語 一 句 となって いるが、一 語 一 句 ということは全 体 の数 として 48 句 に限 定 されてしまう。物 理 の全 範 囲 を 48 句 でカバーすることは不 可 能 であり、下 記 にあげたものでも分 野 により偏 りが大 きい。高 校 レベルのかるたとしては、一 語 に二 句 以 上 あるのもよいのではない かと考 えた。 一 語 に二 句 以 上 あるものについては、物 理 の内 容 を知 っていれば取 り札 の絵 に よって区 別 して取 ることができるので、かえって一 語 一 句 のものよりも学 習 としての意 味 が大 きい のではない かと 考 えら れる。こ の よ うな意 味 で 一 語 に 二 句 以 上 並 べた も のも沢 山 ある。 また、ここに記 したものが必 ずしも適 切 とは限 らず、適 当 なものが作 れずに無 理 に 作 ったものもあるので、読 まれた方 でもっとよい句 ができれば是 非 ご教 示 いただきた い。 (注 )同 一 内 容 の句 は先 に挙 げた方 が優 先 候 補 。( )内 は条 件 また は内 容 を示 す。 〔あ〕雨 の粒 は等 速 落 下 (空 中 で 1∼10m/s) アースしたなら電 位 は 0 温 まり易 いものは冷 め易 い(水 の比 熱 ) 〔い〕いそがば曲 れ(フェルマーの定 理 ) 〔う〕うなりの数 はヘルツの差 動 く向 きと力 の向 きは同 じと限 らず 運 動 量 、外 力 0 なら保 存 する 〔え〕円 運 動 に向 心 力 エネルギーは仕 事 のできる能 力 示 す 〔お〕音 は縦 波 光 は横 波 音 の高 さは振 動 数 (大 きさと高 さの区 別 ) 〔か〕加 速 度 あれば力 あり 〔き〕気 体 の比 熱 は 2 通 り(定 積 と定 圧 ) 近 視 の目 がねは凹 レンズ 〔く〕屈 折 すれば速 さは変 わる(屈 折 の法 則 ) クーロン力 距 離 の 2 乗 に反 比 例 (電 気 ・磁 気 共 ) 〔け〕原 子 の世 界 は不 連 続 〔こ〕コイルの磁 界 は右 ねじの規 則 コンデンサー交 流 通 すが直 流 通 さず 154 抗 力 あれば面 から離 れず 〔さ〕作 用 あれば反 作 用 あり 〔し〕磁 界 変 れば電 界 生 ず 仕 事 は力 と変 位 のスカラー積 磁 束 を切 ると電 気 がおきる 〔す〕すき間 で波 は回 折 す 水 銀 の重 さは水 の 13.8 倍 図 による思 考 が問 題 解 決 の第 一 歩 〔せ〕全 反 射 密 から疎 のとき起 りうる 絶 対 0 度 はせっ氏 で−273 度 〔そ〕速 度 変 れば加 速 度 あり 〔た〕太 陽 の熱 の源 核 融 合 〔ち〕力 と加 速 度 比 例 する 力 働 き加 速 度 生 ず 地 球 の半 径 6370 キロ 〔つ〕月 の重 力 地 球 の 6 分 の 1 〔て〕天 びんは 重 さでなくて質 量 測 る 天 びんは物 の質 量 はかるもの 電 流 あれば磁 界 あり 〔と〕所 変 れば重 さも変 る とがったところに電 気 は集 る(静 電 気 ) 〔な〕波 の特 性 干 渉 ・回 折 〔に〕虹 の七 色 光 の分 散 ニュートンは古 典 力 学 のパイオニア ニュートンあらわすプリンキピア ニュートンリングは光 の干 渉 ニュートンは力 の MKS 絶 対 単 位 〔ぬ〕ぬれ手 で電 気 さわると危 険 〔ね〕熱 がからむと不 可 逆 変 化 (力 学 的 エネルギー非 保 存 ) 音 色 をきめる倍 音 の種 類 熱 とは内 部 エネルギーとみつけたり 155 熱 の伝 わり 3 種 類 (伝 導 ・対 流 ・放 射 ) 〔の〕ノーベルはダイナマイトの発 明 者 〔は〕波 源 動 けば波 長 が変 る(ドップラー効 果 ) 速 く動 くと質 量 増 加 (相 対 性 理 論 ) 〔ひ〕光 の秒 速 3 億 メートル 光 の速 さは一 番 速 い(真 空 中 ) 〔ふ〕浮 力 によって気 球 は昇 る 振 り子 の周 期 は長 さで決 まる(単 振 り子 ) 〔へ〕偏 光 で知 る 光 は横 波 べ−ター線 は電 子 の流 れ 偏 光 使 って立 体 映 画 〔ほ〕ホイへンス 反 射 ・屈 折 うまく説 く ホドグラフ 速 度 変 化 を見 るに便 放 射 線 に 3 種 あり(α、β、γ) 〔ま〕マグナス効 果 でボールは曲 る 摩 擦 がなければ歩 けない 〔み〕水 は方 円 の器 に従 う ミリカンみつける電 気 素 量 〔む〕虫 めがね f小 さいと大 きく見 える 〔め〕明 視 の距 離 は 25 センチ めがねの度 数 は焦 点 距 離 (インチ数 ) 〔も〕モーター動 かす電 磁 力 モーメント 腕 の長 さと力 の積 〔や〕ヤングの実 験 光 の回 折 〔ゆ〕夕 焼 け朝 焼 け 光 の回 折 〔よ〕横 波 山 谷 (やまたに) 縦 波 疎 密 〔ら〕ラウエ見 付 ける結 晶 構 造 ライマン系 列 水 素 の光 ラマン効 果 光 の散 乱 〔り〕流 体 は ずれの弾 性 生 じない 理 論 と実 験 車 の両 輪 〔る〕ルクスは 面 の照 度 の単 位 〔れ〕レンツ見 つけた電 磁 誘 導 156 レントゲン X 線 の発 見 者 〔ろ〕論 より証 拠 (〔り〕と対 ) ローレンツ力 は evB 〔わ〕惑 星 の運 動 表 す3法 則 (ケプラーの法 則 ) 157 2. 思 い出 の歌 2.1 東 京 市 歌 高 田 耕 甫 作 歌 山 田 耕 筰 作 曲 (一) 紫 にほいし武 蔵 の野 邊 に 日 本 の文 化 の華 さきみだれ 月 影 いるべき山 の端 もなき むかしの廣 野 のおもかげいずこ (二 ) 高 樓 はるかにつらなりそびえ 都 のどよみはうづまきひびく 御 座 のもとなる大 東 京 の のびゆく力 の強 きを見 よや (三 ) 大 東 京 こそわがすむところ 千 代 田 の宮 居 はわれらがほこり ちからをあわせていざわが友 よ われらの都 にかがやきそへむ (注 )この歌 は毎 年 、東 京 市 制 記 念 日 (現 在 の都 民 の日 )に小 学 校 での挙 式 の際 歌 い、紅 白 の菓 子 が配 布 された。 2.2 山 中 尋 常 小 学 校 校 歌 (星 の光 ) (一) 星 の影 輝 けリ 強 く長 へに 栄 えある千 代 田 の 宮 居 を仰 ぎて 勉 めやはげめや吾 學 び舎 の友 光 に至 誠 の魂 を宿 して (二 ) 芙 蓉 の雪 清 く わが窓 を照 じ 鹿 島 の宮 柱 萬 世 に守 れり 讃 へよ歌 へよ吾 學 び舎 の名 を み空 のはてまで轟 くほどに 2.3 第 二 東 京 市 立 中 学 校 校 歌 藤村作作詞 田村虎蔵作曲 (一) 過 ぎし時 代 に殉 へつつ 新 しき世 に捧 げたる 尊 き至 誠 の香 に匂 ふ 昔 江 戸 の鎮 護 の地 東 叡 山 の丘 の上 そそりて立 つは我 が母 校 (二 ) 屋 上 高 く登 り行 き 霊 峰 富 士 に対 ひつつ 三 千 年 の源 遠 き 国 の生 命 と国 民 の 雄 々しき明 き潔 き 日 本 精 神 をたたふかな (三 ) 158 学 海 風 は荒 べども 人 生 谷 は深 けれど 人 を頼 まぬ雄 心 に 力 協 せて捧 げ持 ち 仁 愛 正 義 赤 白 の 旗 影 遠 く靡 かせん 2.4 同 校 体 育 園 の歌 松 林 常 治 作 詞 (旧 8期 ) 柏 木 俊 夫 作 曲 (一) 踏 めよ 大 地 を 愉 快 に強 く 仰 げ青 空 輝 く太 陽 光 光 光 光 光 行 けよ 我 らの体 育 園 (二 ) 吸 えよ 大 気 を 存 分 深 く 揺 らぐ青 葉 に 心 は躍 る 緑 緑 緑 緑 緑 行 けよ 我 らの体 育 園 (三 ) 跳 べよ 溌 刺 自 由 に高 く 我 らが五 体 に 血 潮 は高 鳴 る 力力力力力 行 けよ 我 らの体 育 園 159 2.5 東 京 校 歌 祭 開 催 の趣 意 平 成 7年 11 月 18日 、日 比 谷 公 会 堂 で開 催 された第 3回 プログラムより抜 粋 会長 神津 康雄 東 京 府 立 旧 制 中 学 校 の中 で、最 も古 い学 校 は、明 治 11年 9月 創 立 の東 京 府 立 第 一 中 学 校 (現 日 比 谷 高 等 学 校 )であり、また私 立 では、明 治 4年 共 立 学 校 として 開 校 した現 在 の開 成 中 学 校 でありますが、爾 来 今 日 迄 、多 くの伝 統 校 が各 校 夫 々の教 育 方 針 に従 い、人 間 形 成 を根 幹 とする中 等 教 育 によって優 秀 な卒 業 生 を輩 出 し、今 日 迄 首 都 及 び日 本 の各 界 、各 分 野 に於 ける人 材 育 成 の源 泉 として、 日 本 の社 会 に大 きな貢 献 を果 たしてきました。 その教 育 の中 で、各 校 が夫 々目 標 とする理 念 や理 想 を、学 校 創 設 に携 わった校 長 先 生 や指 導 的 な教 育 者 が情 熱 を篭 めて歌 詞 に謳 い込 んだ「校 歌 」は、長 く生 徒 達 に歌 い継 がれて夫 々の学 校 の校 風 と伝 統 を形 作 り、幼 い 少 年 の心 を鼓 舞 すると共 に、全 ての卒 業 生 にとつても夫 々 人 間 形 成 の原 点 を顧 み、懐 かしむよすがとなってきました。 私 達 は今 でも、あの当 時 、機 会 ある毎 に感 激 をもつて校 歌 を高 唱 して過 ごしたあの素 晴 らしい青 春 の日 々を忘 れること が出 来 ません。そして私 達 は、この心 を平 成 の若 い後 輩 の 人 達 にも伝 えて行 きたいと思 います。 この校 歌 祭 は、その意 味 に於 いて、先 輩 も後 輩 も、男 性 も 女 性 も、渾 然 一 体 となって共 に放 歌 高 吟 し、夫 々の校 風 、 伝 統 を鼓 吹 する場 であると共 に、各 校 歌 の精 神 を通 して、 多 くの若 い人 達 の魂 が鼓 舞 、激 励 される催 しとなってゆくも のであることを信 じて疑 いません。 以 下 茗 渓 會 出 版 部 編 「茗 渓 歌 集 」(昭 和 32 年 不 味 堂 )より 2.6 東 京 高 等 師 範 学 校 ・東 京 文 理 科 大 学 校 歌 北原白秋作詞 山田耕筰作曲 (一) あか おこ 青 雲 の空 に高 く 桐 の葉 と照 り 明 るもの 故 あり 大 塚 我 等 興 れり 羽 ばたく更 正 自 治 よ自 由 文 教 新 たに時 代 を指 示 せん 160 こぞ いつ 挙 れよ 若 人 栄 あれ この岡 愛 なり 道 なり 使 命 は 一 なり (二 ) あさかげ きおいつよく あが 朝 光 の 勢 剛 く 桐 の葉 と照 り明 るもの 学 府 よ 大 塚 志 気 は 揚 れり せいさい り り 東 の精 神 西 の科 学 生 采 離 々た ひと り 斉 しく取 るべし まつ つち 俟 あれ 人 生 輝 け この 地 愛 なり 道 なり 起 つべき今 なり (三 ) みやい 大 君 の宮居 近 く 桐 の葉 と照 り明 るもの いらか 母校よ 大塚 ぎ ぎ 甍 魏 々たり 教 化 の国 本 真 の知 徳 培 え 育 てよ 理 想 に生 きつつ 与 えよ 総 てを 没 せよ 己 を 愛 なり 道 なり 至 上 の善 なり 161 2.7 同 校 宣 揚 歌 大和資雄作詞 作曲不明 (一) 桐 の葉 は 木 に朽 ちんより 秋 来 なば 先 駆 け散 らん 名 のみなる 廃 墟 を捨 てて さ おのこ 醒 めて立 て 男 子 ぞ我 等 (二 ) 日 の本 の 教 の庭 に まなびや いと高 き 学 舎 ありと 人 も知 る 茗 渓 の水 か にご よし 涸 れよ 濁 さんよりは (三 )(作 詞 大 山 信 郎 ) 時 を経 て 百 年 過 ぎぬ か もと 今 ここに 水 は 涸 るとも 新 泉 は 筑 波 の 麓 に いざ立 たん 若 人 我 等 162 2.8 同 校 桐 花 寮 寮 歌 今井宇三郎作詞 (一) ひんがし 雲 東 の天 を染 め 紫 匂 ふ桐 の花 は 霧 霽 れわたる大 塚 の 占 春 園 のあさぼ らけ 希 望 の光 輝 きて 万 象 生 命 新 たなり (二 ) 今 警 鐘 の鳴 りいでて 暁 の夢 醒 めて起 つ ほうすう 鳳 雛 こゝに六 百 の 桐 花 の寮 の健 男 子 あした 革 新 の歩 歩 堂 々と 興 亜 の 朝 響 くなり (三 ) 濤 暗 雲 の空 に湧 き 暴 風 猛 り 荒 ぶとも しちじふ 春 秋 ここに 七 十 の 桐 花 の寮 の健 児 等 が 教 学 の旗 燦 然 と 翳 せる腕 力 あり (四 ) 鳴 呼 桐 の花 日 の本 の 教 の泉 ここに湧 く 茜 に暮 れし学 舎 の 桐 花 の寮 の健 男 児 報 国 の火 に赤 々と 六 寮 の窓 光 あり 2.9 寮 歌 井 上 武 士 作 詞 (一) 占 春 園 の朝 ぼらけ 映 ゆる桜 の紅 に 芙 蓉 の雪 の白 妙 や 坂 東 太 郎 の気 を受 けて 世 に清 新 の虹 を吐 く 尚 武 の健 児 名 は高 し (二 ) 彩 雲 匂 ふ初 夏 の 白 日 に舞 ふ鳳 凰 の 羽 衣 の曲 を見 よや君 朱 冠 輝 き翼 照 り 163 青 雲 高 き夏 空 に 銀 光 強 く放 つなり (三 ) 星 はさやかに月 淡 く 銀 漢 高 く冴 ゆる宵 濃 きぬばたまの空 仰 ぎ 遠 き想 ひを馳 するかな 遊 子 思 郷 の悲 しみの 心 に湧 きて限 りなし (四 ) 秋 茗 渓 に回 りては 泉 の水 もいと清 し 峯 の嵐 をよそに見 て 紅 葉 の錦 桐 一 葉 高 き薫 を身 にしみつ 注 ぐ怒 濤 のわだの原 (五 ) 鳴 呼 鳳 凰 の宿 るてふ 其 の名 も床 し桐 花 寮 文 を尚 び武 を磨 く 臥 竜 の健 児 意 気 を見 よ 千 仭 翔 くる鳳 の影 弦 月 吼 ゆる猛 虎 の威 2.10 寮 歌 駒 柵 実 作 作 詞 (一) 占 春 園 に春 たけて 池 畔 の梧 葉 かをる時 その名 も清 き茗 渓 の 泉 に集 ふ俊 秀が 御 民 の儀 表 夢 みつゝ 師 魂 培 う桐 花寮 (二 ) 朝 霧 こむる尾 久 河 畔 春 風 そよぐ 保 谷 の庭 青 空 高 き北 条 に 鍛 へ鍛 へし寮 友 が 悠 々和 楽 相 共 に 師 魂 に生 くる桐 花寮 (三 ) 厳 冬 きさらぎ霜 白 き 未 明 の空 にこだまする こせい一 事 もろともに 錬 武 に励 む若 武 者 の 164 英 気 凛 冽 天 をつき 師 魂 を鍛 ふ桐 花 寮 (四 ) 星 はうつろひ代 は変 り 世 俗 のあらしたけれども 伝 統 ほこる自 治 寮 の 高 き使 命 に目 覚 めたる 五 百 の健 児 ひたすらに 師 魂 を磨 く桐 花 寮 2.11 寮 歌 和 歌 山 春 吉 作 詞 (一) 匂 もふかきむらさきの 桐 の花 蔭 雫 して 地 に湛 へては名 も清 く いさお 誉 は高 き茗 渓 や 星 霜 とみに移 れども 功 績 はつきぬ此 の流 れ (二 ) こうげい 空 を彩 る 紅 霓 の 一 時 の栄 は染 めざれど 不 変 の操 色 に出 で おもひ 銀 光 冴 ゆる黎 明 の かの明 星 の影 やどす 底 には深 き 理 想 あり (三 ) ず ね こ 闇 をどよもす松 籟 の 一 夜 の曲 は 誦 せざれど 不 断 の響 音 に 罩 めて 範 の清 水 は潺 湲 と 湧 きて流 れて末 遠 く 行 くてに崇 き光 明 あり (四 ) ふ え ねじろ と は 不 壊 の巌 を 根 城 にて 永 久 に曇 らぬ姿 こそ かがみ 人 の 亀 鑑 と仰 がるれ 時 運 の雲 の迷 ふ時 精 気 凝 りては玉 となり 錬 りては秋 の水 となる (五 ) しこくさ ほふ 見 よ此 の水 の行 くところ 醜 草 の根 を 屠 りつつ はて 桐 の花 香 を移 しては 東 亜 をめぐり 涯 知 れぬ うみ をしへ 西 の 洋 なる荒 磯 にも 咲 くや 教 花 の浪 の華 165 (六 ) ゆかり 栄 の歴 史 を囁 きの 由 緒 も深 き小 石 川 みなもと 若 木 の桐 に培 ひて 源 泉 さらに涵 はん つとめ 本 務 はいよよ大 塚 や 地 は秀 麗 の寄 宿 寮 (七 ) ず りょう ああ六 百 の自 治 の友 高 誦 せんかな 領 の歌 れい 朝 残 月 の影 ふみて 霊 の泉 を掬 ぶ時 ゆふべ いりひ へ せい をしへ 夕 落 陽 の丘 の 上 に 聖 の 教 訓 偲 ぶ時 2.12 寮 歌 葛 原 しげる作 詞 (一 ) 野 山 の霞 後 にして 都 大 路 の花 吹 雪 分 けては集 ふ大 塚 の 占 春 園 の朝 ばらけ さわやかに ほがらかに 若 き日 の 希 望 にをどる胸 よ 友 よ (二 ) 燦 爛 として昇 る旭 に 映 えて輝 くあかね雲 と は どよもすばかり高 鳴 るや 生 命 は 永 久 の自 治 の鐘 はれやかに ほこりかに 若 人 に 起 てよと響 く自 治 の 鐘 よ 166 (三 ) を 野 山 の草 木 生 ほすべく 桐 の葉 かげに湧 き出 づる 久 遠 の泉 共 に汲 む 桐 花 の寮 の夕 まぐれ 床 しくも 豊 けくも 若 き日 の 思 ひは遠 き歌 よ 友 よ (四 ) 煌 々として永 劫 の 自 治 の鏡 と澄 むか月 ほこ 仰 ぎて磨 き茗 渓 に 古 きを 矜 る我 が歴 史 新 しく進 みゆく 若 人 の 行 手 を照 らす自 治 の 鐘 よ 2.13 桐 の華 (七 寮 節 ) 大塚音楽会作曲 A (1) 月 の七 日 はお薬 師 参 詣 り ヨイヨイ お薬 師 参 りにそなたを見 初 め エートエート あらや こらやとせ (2) 見 初 めたばかりぢゃ相 済 みならぬヨ イヨイ 相 済 みならなきゃ文 やらしゃんせ エートエート あらや こらやとせ (3) 文 は玉 章 文 箱 に入 れてヨイヨイ 送 るそなたは白 装 束 よ エートエート あらや こらやとせ B わたしゃ好 きだよ七 寮 の書 生 さん ヨイヨイ 稽 古 帰 りのあの乱 れ髪 エートエート あらや こらやとせ C 那 須 与 一 は扇 の的 よ ヨイヨイ 要 射 られて骨 ばらばらと エートエート あらや こらやとせ 167 D 西 郷 隆 盛 や話 せる男 ヨイヨイ 国 の為 なら死 ねと云 ふたよ エートエート あらや こらやとせ E 咲 いた桜 になぜ駒 繋 ぐヨイヨイ 駒 が勇 めば花 が散 る エートエート あらや こらやとせ 2.14 寮 歌 祭 記 事 同 窓 会 誌 「 茗 渓 」893 号 ( 昭 和 43 年 11 月 )より抜 粋 去 る昭 和 43 年 10 月 27 日 の第 八 回 日 本 寮 歌 祭 にわが東 京 高 師 が初 登 場 した。 秋 晴 れのこの日 、日 本 武 道 館 に参 集 した高 師 勢 は、山 高 帽 モーニング姿 の津 野 団 長 をはじめ、剣 道 佐 藤 卯 吉 、柔 道 工 藤 一 三 両 大 先 輩 をはじめ、東 京 、神 奈 川 、 千 葉 、埼 玉 を中 心 とした 120 名 近 い勢 力 であった。 今 回 の寮 歌 祭 は旧 制 高 校 、旧 制 大 学 予 科 、旧 制 専 門 校 を合 せて 55 校 であった ため、一 校 の持 ち時 間 は入 退 場 をも含 めて6分 という制 限 をうけた。高 師 は第 1部 7 番 目 に登 場 したが、指 揮 は葭 内 善 三 郎 が執 り、太 鼓 は大 阪 から馳 せ参 じた小 林 繁 が受 け持 ち、「宣 揚 歌 」と「桐 の華 」を唄 いあげた。葭 内 指 揮 者 の学 校 紹 介 の 朗 々たる第 一 声 から調 子 はよく、若 き日 の蛮 声 が場 内 に響 き堂 々たる唄 い振 りであ った。 11 時 開 始 から実 に6時 問 にわたる熱 気 に充 ちた歌 祭 りの後 、17 時 から武 道 館 前 広 場 でファイヤストームがくりひろげられたがここでも小 林 繁 は太 鼓 を叩 きまくった。 18 時 から武 道 館 内 で合 同 懇 親 会 が開 かれたが、高 師 は一 食 卓 を独 占 し、津 野 団 長 のモーニングを囲 んで新 旧 同 窓 が飲 み、食 い、語 り哄 笑 爆 笑 に時 の移 るのを 忘 れ、20 時 ごろ再 会 を約 して袂 を分 った。 寮 歌 祭 の好 きは、老 若 の同 窓 が壇 上 で思 い出 の歌 を唄 い合 うだけでなく、今 まで 顔 も 名 も 知 ら な か った先 輩 後 輩 が一 堂 に 打 ちと け て 話 しあえ る 機 会 を 得 る とこ ろに ある。散 会 後 筆 者 は更 に高 師 最 終 年 度 卒 のA 君 と、新 制 大 卒 のB君 という遥 かに 年 代 の隔 たった二 人 と新 宿 で飲 みあい語 りあうという大 収 穫 を得 て 28 日 朝 退 京 西 下 した。 来 年 度 は一 層 演 出 に工 夫 を加 え(例 えば佐 藤 卯 吉 先 輩 の剣 道 着 、工 藤 一 三 先 輩 の柔 道 着 など)、母 校 の教 授 連 も狩 り出 し、大 茗 渓 の情 熱 を展 開 したいものであ る。 (昭 8 体 甲 ・四 天 王 寺 女 子 大 教 授 小 林 繁 ) 168 参 加 校 55 校 吟 爾 浜 ・東 船 ・大 同 ・山 口 商 ・神 船 ・京 府 医 高 師 ・陸 士 ・拓 大 ・満 医 大 ・東 亜 同 文 ・長 崎 商 ・海 兵 ・北 大 ・山 形 ・弘 前 ・高 知 ・二 高 ・水 戸 ・学 習 院 ・成 蹊 ・武 蔵 ・成 城 ・浪 速 ・姫 路 ・甲 南 ・三 高 ・大 高 ・富 山 ・松 本 ・八 高 ・四 高 ・新 潟 ・大 商 大 ・神 高 大 ・東 商 大 ・旅 順 ・城 大 ・台 大 ・台 北 ・旅 順 工 大 ・静 岡 ・浦 和 ・府 立 ・東 京 ・一 高 ・広 島 ・松 江 ・松 山 ・山 口 ・六 高 ・福 岡 ・佐 賀 ・五 高 ・七 高 169 編集後記 平 成 8 年 (96 年 )3 月 、八 乙 女 先 生 は一 橋 学 院 を最 後 に昭 和 24 年 以 来 47 年 間 に亘 る教 員 生 活 を終 えられた。先 生 はその際 贈 られた慰 労 金 により自 叙 伝 「私 の歩 んだ道 」を B5 判 で 118 部 自 費 出 版 されたが、本 書 はその増 補 改 訂 版 である。 私 が先 生 と出 会 ったのは昭 和 28 年 、高 校 2 年 で物 理 を選 択 した年 であった。 「物 理 を分 からせてやるぞ」という熱 意 が伝 わってくるような授 業 で、どちらかといえ ば文 系 に向 いていた私 が理 系 の道 へ進 んだのも、このときの影 響 が大 きい。 卒 業 後 も折 に触 れ先 生 とお話 する機 会 が多 かったが、実 社 会 に出 てからは2回 の海 外 生 活 を経 て、いつしかお目 に掛 かること も稀 になってしまった。ところが二 三 年 前 、高 校 時 代 の親 しい同 級 生 から「高 校 の同 期 会 に出 たら、八 乙 女 先 生 が君 を 探 しておられたよ」とメールが届 き、「これは申 し訳 ない」と慌 てて先 生 のお宅 に電 話 し、とあるレストランでご一 緒 に食 事 をした。 その際 、先 生 が「君 のことも書 いてあるよ」と見 せてくださったのが、平 成 8 年 5 月 に 作 ら れ た本 書 の オ リジ ナ ル 版 であ っ た 。 「 この 本 に は 直 し た い 個 所 も ある し 、 付 け 加 えたい話 もある」とのお言 葉 に「パソコンでできる範 囲 ならばお手 伝 いしましょう」と 申 し出 たのが、今 回 の改 訂 版 誕 生 のきっかけである。 本 の出 版 には多 額 の費 用 が掛 かるので、今 回 は手 軽 に製 作 できる PDF 版 とした。 私 は組 版 の知 識 が乏 し いので、将 来 どなたかがもっと読 みやすい体 裁 に仕 上 げて くださることを期 待 し、PDF の他 に Word97 の形 で文 書 ファイルを手 元 に保 存 してい る。有 志 の 方 が 居 ら れ たら無 料 で 差 し上 げる のでご連 絡 いただきた い。なお 、 本 書 は八 乙 女 先 生 のご意 向 により著 作 権 ・版 権 フリーとなっている。ファイルのコピーは もちろんのこと、収 録 された画 像 も含 めご自 由 に利 用 いただきたい。また、読 者 の皆 様 から先 生 にまつわるエピソード、思 い出 などをお寄 せくだされば、将 来 それらも追 加 し、本 書 をより充 実 した内 容 にできればと考 えている。 「袖 振 り合 うも他 生 の縁 」とか。人 は一 生 の間 に大 勢 の人 々と出 会 うが、時 を越 え 場 所 を変 え、何 度 も出 会 う人 の数 は意 外 に少 ない。このたび先 生 のお手 伝 いがで きたのは、目 に見 えない運 命 の糸 が交 差 しているのであろう。まことに有 難 き仕 合 せ と感 じる。 2004 年 3 月 20 日 小 山 台 高 校 7 回 生 佐 鳥 聡 夫 ( さとりとしお) [email protected] TEL/FAX 03-3721-5631 170 追 記 本 書 は 2004 年 3 月 に完 成 したが、その後 八 乙 女 先 生 のご希 望 により内 容 をさら に小 修 正 し た。また 本 書 を読 ま れ た方 々 との 交 流 なども あり、 ここ に その 後 のエ ピソ ードを追 記 する。 2004 年 11 月 20 日 佐 鳥 聡 夫 後 日 談 その 1:3回 生 沼 田 耕 作 さんから 7 回 生 小 川 恵 一 さんへの E メール (お二 人 の了 承 を得 て転 載 ) 小川恵一様 今日は数十年前の物理学徒の時代に帰り、ご専門の大家に大変失礼を申 しましたことを何卒お許し下さい。 また、早速八乙女先生の自分史をご送付頂き誠に有難うございました。 早 速 目 次 に 目 を 通 し 66 頁 の 量 子 力 学 ゼ ミ ナ ー ル の「 昭 和 29 年 に 卒 業 し た 中の数名の大学生(東大、東工大、早大)が集まって―――」の早大生と は 私 の こ と と 思 い ま す 。「 テ キ ス ト は 朝 永 先 生 の 量 子 力 学 と シ ッ フ の 量 子 力 学 ― 」と あ り ま す が シ ッ フ は 既 に 3 年 の 量 子 力 学 の 講 義 が シ ッ フ で し た ので、私は朝永先生のⅠ巻とⅡ巻の初めのほうまでに一年間毎回出席しま した。 このゼミナールの終わり頃、先生がご結婚されることになり、世田谷区 弦巻町のアパートに有志3人でお祝いを持参して、先生のお母上に逆にご 馳走になりました。このときのゼミの仲間の名前も見つけられると思いま す。 先ずは興奮気味で御礼申し上げます。今後とも宜しくお願い致します。 沼田耕作 171 後 日 談 その 2: 3 回 生 との再 会 (2004/10/30 佐 鳥 記 ) 小 川 さんと沼 田 さんの出 会 いがきっかけとなり、66 頁 に登 場 する 3 回 生 と先 生 と の半 世 紀 ぶりの懇 談 会 が、10 月 17 日 東 京 ・代 々木 の代 々木 倶 楽 部 で開 かれた。 当 日 集 まったのは南 雲 さん、岸 田 さん、酒 井 さん、それに 7 回 生 の小 川 さんと私 が 加 わり計 6 人 。先 輩 達 との同 席 はいささか緊 張 を覚 えたが、当 時 の話 が始 るとその 面 白 さにすっかり引 き込 まれた。八 乙 女 先 生 が「いやー君 達 には本 当 に驚 いたよ。 僕 が間 違 えやしないかと期 待 して熱 心 に聞 いているのだから」と言 うと、「あの頃 は 僕 等 も新 任 の教 師 をからかってやれという気 があったから」との答 え。流 石 幻 の秀 才 グループだけあると、授 業 について行 くのが精 一 杯 だったこちらは感 嘆 した。 3回 生 は都 立 八 中 に入 学 し、在 学 中 に学 制 改 革 で生 まれた小 山 台 高 校 を卒 業 された 由 。 何 と 昨 今 話 題 の 公 立 校 に よる 中 高 一 貫 教 育 が 、す でに 図 らずも 実 現 し ていたのである。この世 代 の人 達 はその前 にも後 にもない体 験 をされたことになる。 私 にとってこの集 まりは小 山 台 高 校 の昔 を知 るよい機 会 であった。 左 から小 川 さん、八 乙 女 先 生 、岸 田 さん、酒 井 さん、南 雲 さん 172
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