マハーバーラタはヴィヤーサ仙の自叙伝 2014 年 6 月 15 日(日)ムニンドラ・パンダ先生 記述:茶丸 このマハーバーラタという叙事詩は、聖者ヴィヤーサの自叙伝とも言えます。彼は自らの 人生で経験した事、つまり彼の目前で繰り広げられた出来事を書き表したため、その著作 はマハーバーラタと見なされているのです。 この点をよく理解するために、マハーバーラタにおいてのヴィヤーサ仙の人生を分析して みましょう。まず、ヴィヤーサ仙は王位継承者が不在という国家の重大時に直面した自らの 母に、助言しようと努めました。 「今は、ヴィチトラヴィーリヤを亡くし未亡人となった女王に、子供を授けるにはふさわし くない時間です」 。 そう諭された母のサティヤヴァティーは答えました。 「あなたは私の息子です。母であり、この広大な国の責任を背負う私の命令を聞くべきであ り、私に強要するべきではありません」 。 ヴィヤーサ仙は母の主張を受け入れるより術はありませんでした。そこで、プラーラブダ・ カルマの歩みとはこのようなものである、と考え、こう告げました。 「現在の不適切な時間と状況によって、子供は何らかの障害をもって誕生する可能性があ ります」 。 母であるサティヤヴァティーは言い返しました。 「あなたはこの地上において比類なき偉大な聖者です。そんなあなたから不十分な子供が 生まれてくるわけがないでしょう」 。 高邁なヴィヤーサ仙もこのサティヤヴァティーの頑固さには屈してしまいました。 同様にヴィヤーサ仙は、自らの息子であるドリタラーシトラ、そして孫であるドゥルヨーダ ナへダルマ(正義)の道に従い国を守ることを教示しました。しかし彼らもまた助言に耳を 貸しませんでしたので、ヴィヤーサ仙はこのように理解しました。 「この世界では皆、自らのプラーラブダ・カルマによってもたらされる苦楽を経験するため に生を受ける。しかし、単にプラーラブダ・カルマに駆り立てられた経験とするか、もしく は自己努力(プルシャールタ)を傾け、智慧を通じて経験するべきであろうか。ただプラー ラブダ・カルマにそそのかされた経験を経るとき、人は楽しみの名で苦痛だけを得ることに なる。しかし、同じ経験をしつつも、知恵を通じて知識へと変換しながら生き続けるならば、 それは至福となる」 。 これがアートマ(魂)の本質であるサット・チット・アーナンダの説明です。 全生類は経験を得なければなりません。それゆえこれをサット(真実)と呼びます。プラー ラブダ・カルマによって引き回されて得る経験とは、生き物の苦痛の根源です。 とはいえ、これらすべての出来事を、智慧と呼ばれる第三の目を通じて吟味するなら、一切 が知識へと変換されます。この側面はチット(意識/知識)として説明されます。 また、そのように継続していくなら人生は至福となります。これがアーナンダ(至福)とし て表される側面です。 聖者ヴィヤーサは非常によく理解しています。 「プラーラブダ・カルマの奴隷である人々は誰も智慧の言葉を聞かない。非常に稀なる人々 のみが智慧の言葉に耳を傾けることができる。それでは私が人生において経験した出来事 はどうなるのだろうか。各々の経験は知識の一片として聖典に編まれるべきである」 。 それら経験が、叙事詩マハーバーラタとなりました。 同様に自我を介在させることなく、自らの人生の出来事を目撃し、経験した事を知識として 書き記せるなら、それもまた新しい知識の本であるマハーバーラタとして結実します。 日々新しい経験をし、常に初対面の人々に出会い、いつも新鮮な内容を語る、それら全て の思考を知識へと転換させる事ができるでしょうか。人生の受け入れやすい経験も受け入 れ難い経験も全てありのままに目撃し、知識へと変換できるならば、それもマハーバーラ タと呼ばれるでしょう。
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