「人は、人として育てられて人になる。オオカミに育てられたヒトは、人になれなかった。」 人は、枠の中で生きることを自ら考え出した生き物であるという点で、他の動物とは異なる生き方を しています。例えば、 「世界」という枠があり、 「国家」という枠があり、 「社会」という枠があり、 「学校」 「家族」という枠もあります。そして君たち若者の中には、この枠を窮屈なものだと感じている人も多 いのではないかと思います。 一方、君たち若者を勇気づけるのは「自由」「平等」「権利」等という言葉ではないでしょうか。これ らの言葉は「なんでもできるんだ。」「自分たちがやるんだ」という気持ちを奮い立たせるような心地よ い響きがあります。 その昔、異国のリーダー達は、これらの言葉を勝ち取るために、百年以上も血を流してきました。そ の過程で、これまでの枠を粉砕し、考えに考え抜いてうち立てたものが、現在君たちが窮屈に感じてい る枠なのです。(窮屈に感じていない人もいますが。) では、これら若者達を奮い立たせる言葉の上に築き上げた枠を、なぜみなさんが窮屈に感じるかと言 いますと、異国のリーダー達が勝ち取った「自由」「平等」「権利」と現在21世紀の日本で大手を振る ってまかり通っている「自由」「平等」「権利」が全く違うものであるからです。 前者は「一定のルールを守った上での自由」「機会(出発地点)の平等」「義務を伴った権利」であり、 これらを主張することで自他共に幸福になれる可能性があります。後者は、「勝手気ままな自由」であり、 他人のことなど考えてはいません。よって根本的異質のものであるのです。もし、現在の枠がたまらな く窮屈で嫌であるなら、百年以上かけて血を流し、打ち破るのも結構。その結果として得られるものは、 人が唯一他の動物と違っていた枠の中で生きる生き物であるということを取っ払った世界。すなわち他 の動物と同じ、自由気ままな弱肉強食の原始時代以前に逆戻りになること請け合いでしょう。 窮屈に感じる枠は、本当はきみたちを守っていいるものであり、一番身近な枠が父母・家族という愛 情溢れる枠なのです。この枠に反発を感じながら人として育っていく過程を成長といいます。 第 111 号 10 / 21 記 載 者 犬塚将己 人は、人として育てられて人になる。オオカミに育てられたヒトは、 人になれなかった。なぜなら枠がなかったからである。 「 個 性 」 学校は画一的で個性を尊重しないマイナスイメージで語られることが多いのは既知の通りですが、その極めつけが 「宝塚音楽学校」だと思います。言わずと知れたタカラジェンヌを排出する日本で有数の芸能人養成学校です。ここ はほとんど封建社会そのもので、教官と生徒、先輩と後輩の身分差は歴然とし、礼儀作法は息が詰まるくらいの厳し いことで知られています。舞踊・歌唱・演劇等、履修科目の指導は全く容赦がありません。基本的に生徒全員を型に はめ、画一的な教育を徹底して行うのが特徴です。そしてその結果どうなるかというと、学校の卒業生として、まさ しく一人一人が異なった輝きを放ち、絢爛たる「個性」に彩られたタカラジェンヌが生まれていくのです。 しかるに宝塚音楽学校では、個性を尊重しない画一的な教育を推進することで、見事に個性豊かな人材を育成して いるということです。これはどういうことでしょう。結局、かけがえなき「真の個性」とは、このような逆説的な形 でしか生まれようがないということです。舞踊にせよ、歌唱にせよ演劇にせよ、あらかじめ決まりきった体の動かし方、 声の出し方、間合いの取り方など長年かかって完成されたまっとうな型があります。学校ではこれらを徹底して生徒 達に押しつけるのです。生徒達は繰り返し繰り返し練習を重ね、正攻法を極限まで身につけようとします。その過程 で不必要なてらいやプライドやくせを自らそぎ落としてそのあげく消去法をくぐったようにして残った「その人固有 の表現スタイル」こそが「個性」にほかならないのです。 ピカソも最初からあのような絵を描いていたわけではなく、写真のように正確な絵を描くこともできるし、人体に 関しての知識(体の構造)も豊富に持ち合わせています。イチロー選手も最初からあのような打ち方だったわけでは ありません。何万回も基本を繰り返していたわけです。よく巷で言われている「あの人個性的ね」という髪の毛を工 夫したり、ピアスをいろいろと付けたり、変わった服装をしたりするような程度の低いものではありません。大勢の 人と少し違う格好をしたり、違うことを言ったりやったりして刹那的な(一瞬の)快楽を追い求めること、これを個 性などと呼べないことをわかってもらいたいと思います。 中学校を卒業すると上級学校や社会からみなさんに向けられる目はかなり厳しいものです。これまでのようにこれ が自分の個性だなどと勘違いをしていると容赦なく叩きのめされることでしょう。 「人は結果しか見ない」 これは残念ながら今や世間の常識となってしまっています。(昔は違っていたと思います。)「私はこの件に関してこ ういう計画の下にこんな風に工夫を重ね、こんなにも精進努力して参りました。けれどもこの取り組みも報われず、 うまくいきませんでした。」と仮にこのように言ったとしても、人が聞くのは「うまくいきませんでした。」の部分だ けです。今の世の中、多かれ少なかれ結果が全てなのです。(学校教育界だけが、児童生徒の心を育てる上で「結果よ りもその過程が大事なんだよ。」と言いますし、私も絶対に過程が大切だと思っています。しかし、現実にはそうでな いことの方がはるかに多いと言うことです。) ここで肝心なことですが、自分の努力に対して人が高い評価をしてくれなくてもそれを不当に思わないと言うこと です。もともと人から正当に評価されることを期待してはいけない。自分のことを人にわかってもらえなくても、あ るいは誤解されたままであっても、それに耐える力をつけるということです。そういう生き方は当初は成果を得られ ないかもしれませんが、隠れた努力は必ず道を拓きます。そして、更に大切なことは、みなさんが人を見る側の立場 にいたときは、人の結果だけでなく、その人の努力や経過を見てあげるようにするといいうことです。 結局、まっとうに生きるということは、数々の世の中の不条理を引き受けつつ自分自身はいつでも情理を尽くすと いうことだと思います。 今一度、自分を鍛え直すくらいの気持ちを持って生きていかなければならないかもしれません。
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