今博士の還暦に際して

今博士の還暦に際して
佐々木 隆興
今博士還暦記念會から執筆を需められた。今君と親しく交わったのは三十餘年前伯林
留學中同じ階の下宿に居った時からである。歸朝後自分の京都在職三年餘を除いては君が
北大に就職する迄は鮮なくとも月一回は必ず會て居った。是は我々同志の談話會である。
金曜會が毎月一囘あって自分は幹事であり、今君は必ず出席されたからである。自分には
君が病氣其他の事故で缺席せられた記憶がないのである。相互に學問的に卒直に自己をむ
き出して意見を述べ又た疑義を他の專問の人に氣取らずに質問するのが此會の主旨である。
修養の話も其他の感想も勿論毎に話し合ったのである。君が北大就職後出京の折は大低相
會して歓談するのが自分の一の樂みである。叉自分の研究室に於ける病理學的標本は其際
君に覧て貰って意見を需めるのである。嘗て君の出京の折 O-Aminoazotoluol の極く初期の
時分未だ何等腫瘍學的に明確な意義を現はさなかった時分標本を君に見て貰ったら之は面
白い良い仕事に發展するだらうと云って若き吉田君を激励したのは確に君であった。君は
自分の學問の友、心の友である。從て君の還暦記念に際して君の事を述べると或は君を褒
め過ぎる虞がある。是は自分は君の缺點を認める事が出來ないからである。然し敢て自分
の観た今裕君を有の儘に述べて責を塞ふと思ふ。
抑も世の所謂成功者には奮闘苦戰荊棘を拓き峻瞼を撃ぢ頂上に達する人が多い、是亦
景仰すべき英雄ではあるが、強ひて自分の好む所を言はしむれば君の如く何等苦戰の跡な
く何とはなしに人から尊崇せられ竟に適所を得た人である。夫唯不争故天下莫能興之争と
は古人が正さに君の爲めに書き残した感がある。君は健康で精力絶倫である。ヒポクラー
テス全集の翻譯には專門學術研鑚以外に此餘力あるには驚かされた。君は亦た剣道に達し
繪畫に長し優に專門家の疊を摩す。然し是等は君から見れば餘技であって何しても鍛錬に
鍛錬を積まれたのは專門の病理解剖學である。之は自分が最も君に傾倒する點である。君
は我邦病埋解剖學の先輩たる故藤浪鑑教授が歸朝後間もなく助手となり病理學者としての
偉材なる故人からたゝき上げられた者である。其時分は病理教室も無人であり、材料も多
く、教授は研究心熱烈であり、綿密周到の人であったから、若し君が奮闘努力の時があっ
たとすれば正に此の時分であったであらう。今日人體病理解剖學に於て根本的にたゝき上
げて修業大成して眞の專門的病理解剖學者となった君の如きは鮮なくとも我邦に於ては甚
だ稀なる存在であると信ずる。典型的病理解剖學者の比較的少なき我邦に於て君は益々健
康にして後進を激励せられ、病理解剖學者の養成に更に努められむ事を切望して巳まない。
叉た自分は同時に此人格高潔常識圓満にして而も學問に理解深き好總長を得られた北海道
帝國大學の前途を祝福する者である。
初出;今博士還暦記念誌、武田勝男編、今博士還暦記念会刊、昭和 14 年
今裕博士略歴;1878 生。東北医学校卒、ドイツ Roessle 教室留学、帰国後、京都大学医学
部病理学教室創設に与り藤浪鑑教授助手、次いで台北大学医学部教授、慈恵医科大学教授
を経て北海道大学医学部第一病理教授。1934 年、
「組織の銀反応に関する研究」で日本学士
院賞受賞。北海道大学評議員、医学部長を歴任し 1937 年から 1945 年まで総長に就任。1954
年没。