日課︾ 聖書 書 五章 一 一 二 一 七節 司郎 イ エスに つなが す九 - 二 節 に日をとめよう。 この部分 で'弟子が 「 藤 って いる」 こと は 「 イ エスの愛 にとどま る」 こと であり'さ ら には 佐 標記 の聖書箇所 は 一般に決別説教と呼 ばれる l四 1 一六章 の 1部 で 「 イ エスの淀を守 る」こと であると語られる (一四 ・一五㌧二二㌧二三 東北学院大学キリスト教学科教授 - 一七節 のまとまり の中 で理解されるべき で あり'とり分け 一五章 一 参照) 。 この 「 イ エスの綻」が 〓 一 節以下に示され て いるとす れば'わ れわれ の箇所は'ぶどう の木 の響話 の続き'な いしそ の帰結と理解 し - 一七節 の三分も 〓一 節 で二分す るか、 1- 人節'九 - 一一節' 二 一 可能 であろう ( 岩波版'他) 。内容的 には、九節 で二 つに分けて考える る (二 一 と 一七節)わ い 守 るよう に命じられているかと言えば、究極的 にはそれによ ってイ エ って いるよう に'なぜ彼 の愛にとどまるよう に'そし てなぜ彼 の投を も含むぶどう の木 の説話全体を指すと解した い。なぜイ エスに つなが こと ではな い.内容的には 一- lO節だけ でなく'むしろ 一七節ま で 移行部分 の終わ- 二 節 の 「これら のこと」とは'たんに 一〇節 の てよ い。 て ル ジ ・す ま れ ン ク 込 ・ スの 「 喜 び」が弟子たち の内 にあ-'彼らがそ の 「 喜 び」 に 「 満 たさ れる」に いたるから である。この喜びは 「 復活節 の喜び、キリ スト の で 一五章 一節以下 のぶどう の木 の替話は'弟子たち に'イ エスに 「つ 別れ'そして彼ら自身 の迫害 の接近と いう切迫感 である。そうした中 (一七 ・二二)言及される。重要な ことは この終末論的な喜 びがイ エ I 二四)それに続くイ エスの祈り の中 でも 説教 の中 でも (一六 ・二〇 S c h n a c k enbur g . Da sJo h a me s e v ange l i u m. B d . 3 . S . な った成就 であ る」( R. I ) 7) . この喜びを洗礼者 ヨ ハネは証しして いた ( 三 ・二九)Lt決別 永続的現臨 の喜 び' ヨ ハネ の終末論によれば旧約 の約束 の今 や現在と なが って いる」よう に強く勧 める・。 大きな文脈 の 一四- 一六章を貫く のは'イ エスの死と弟子たちと の した い。 以下はじめに釈義的事項を確認し'そ の上で説教 のため の黙想を記 切 である。 れわれ の聖書箇所 は'前後関係 に注意し て理解 されることがと- に大 愛し合 いなさ い」と いう青葉 で囲 い イ 。 いずれにし ても'「 互 いに のがよ いよう に思われる ( ルター訳'他) ある。新共同訳聖書 は 一一節 で二 つに分け て いるが'口語訳 のよう に 第五 (] 二〇七 〇 年五月六 日 復 ( 活 節 主日) ヨハネによる 福 音 説教黙想 どう の木 の讐話」とわれわれ の聖書箇所と の関係 である。移行部をな はじめにわれわれが問う ておきた いのは' この先行 の 「 ま こと のぶ 彼ら の内に満ちあふれる」 ) ?そ の喜びは永遠 でありだれからも奪 い取 ス ・キリストと結び ついた喜びだと いう こと である ( 「 わたし の喜 びが 5月 6 日 39 ■ ー ー. られることはな い (1六 二 六- 二四) o くださ った。 スによ って 「 神 の子 の自由」 の 「 贈り物」 ( S c h n a c k e nb ur g . S . ) 25)杏 与えられたと いうことである。弟子たちはイエスによって自由 にされ 僕ではなく友 であると いうことは'彼らが、そしてわれわれがイ エ た者とし て'その自由にお いて互 いに愛し合う ことが求められ'愛し 〓一 節t l七節 一二節と 一七節は 「 互 いに愛し合 いなさ い」と いうイ エスの碇 で呼 l六節 応しテキストの枠をなす。「 提」とは命令'諌め'委託 の意味。この枠 に愛し合えと いうイ エスの命令 で重要なことは'イ エスが愛したよう 弟子たちと のこうした友としての関係'それとともに開かれた父な 合わなければならな い ( 八 二二二-三六) 0 にわれわれも愛し合う こと、すなわち'互 いに向け合う愛は'イ エス る神と の交わりはイ エス ・キリストの選びによ って可能とな った。愛 によ って囲まれた 二二I l六節は'相互愛 の命令を根拠づける。互 い がわれわれに向 けられたそ の愛 でなければならな いこと であ る 二 とは選びである。イ エスは彼らを愛し'彼らを選んで友とした ( 六・ を選び、あなたがたを任命した ( 立てた) 」.そ の使命 の 一つは派遣 の 選びは特定 の目的'使命 の授与と結び つく。「わたしがあなたがた 七〇㌧ 一三 ・一八' 一五 二 九。ルカ六 ・一三参照) 。 三 二二四- 三五参照) . その愛はど のような愛 であるか。 〓ニ節 それは 「 自分 の命を捨 てる」 ことにお いて証しされる、それ以上な い愛 である。 三 ・一五)として生かされるよう にと いう ことであろう。 ヨハネ の手 て示されるイ エスの愛 が'われわれ のあ いだ で具体的に 「 模範」 (一 なるなら'それによ って、わたしの父は栄光をお受けになる」二 五 ・ れるべき であろう。「 あなたがたが豊かに実を結び'わたし の弟子と ずしも伝道 のことではな い。差しあたり先行 の普請と の関連 で理解さ 一三- 一四' 一五 ・七) 。前者 の 「 出かけて行 って'実を結 ぶ」とは必 三八t l七 ・1人'二〇 ・二 一参照) .もう 一つは祈り の奨励 (1四 ・ 言葉 で語られる。すなわちへ「 出かけて行 って、実を結ぶ」こと ( 四・ 枕 一は'イ エスのよう にわれわれも兄弟 のために命を捨てるべきだと 「 友 のために」がここで付加されて いるのは'命を捨 てることにお い 勧め つつ'兄弟 のために命を捨 てることは 「 行 いをも って誠実に愛し 人 のなす ことを知 っているからであり'友と呼ばれるのは彼らにイ エ て「 祈り」願うと いう のが 一番もとにある意味 のように思われる。し 係するのか。 一五章七節を受けて言えば'「 実を結ぶ」ことを弟子とし 後者 の 「 祈-」 の奨励と前者 の 「 実を結ぶ」 こととはど のよう に関 と いって間違 いな い (一三 二二五) 0 を結ぶこと'すなわち互 いに愛し合う ことは'伝道 であり宣教 である を結ぶことによ って父なる神が栄光を受けるのであるなら'信仰 の実 八) 。この実は第 1に信仰 の実 である.しかし ここにあ るよう に'実 しもぺ 「僕 」 と 合う」 ことであると説 いて いる ( 三 ・二ハー 一八) 0 lEt I tH ] & イ エスは友 のために命を捨 てる。イ エスは弟子たちを今や スが御父 の御心をす べて知らせたから である。 いや何よりもイ エスは かしそれだけではなく'この 〓ハ節後半は'イ エス ・キリスI の御名 は呼ばず'「 わたし の友」と呼 ぶ。彼らがもはや僕 でな いのは彼らが主 れわれに'イ エスご自身を通しでの神と の親し い交わり へ道を開 いて 彼ら に 「 御名」を知らせた (一七 二 一 六) 。イ エスは彼らに'そしてわ 40 ス ・キリ ストと の生き生きした関係 の中 にとどま-続け るよう にと教 ち に'ご自身 が共 におられることを約束 し'彼 らも聖霊 にお いてイ エ え られた。と ころでふ つう われわれは'この響話を '「 わたしはま こと によ って願う こと が聞き入れられ る'祈り斬う ことを父な る神が与え 届けを確信す る祈- への勧 めと し て' これを読む ことも でき るLt読 のぶどう の木」(一節)と いうイ エスの自 己宣言 から出発し てイ メージ て-ださ ると いう い っそう大きな約束 の言葉と し て'そ のよう な聞き む べき であ る。 を ふく らませ て いく ことをす る。しかしたとえ ばヴ アルター ・リ ユテ ィは次 のよう に語 り はじ め、われわれ の思 いを 広 げ てく れ る。 「 神は 愛 であ る。 これがこ の 二 五︺章 のメ ッセージ であ る。 -- いま や神 の愛 は' キリ ストが人間となられること によ って' いわば生きた'ま 二 以下、説教 の手 引きと し ての黙想を記 した い。 ( J oh a n n e s . D a svicrteE v a n g el u i m, )9 4 2 ,S . 2 2 7).美 しく った のであ る」 た生育能力 のあ る植物とな って' パラダイ スからへ この失 われた地上 教会 は交 わり であ る。 ﹃ 使徒 信条﹄は教会を 「 聖徒 の交 わり」と告白 ある。イエ ス ・キ リストは'神の園から' この世 の か つ的確な講解で 先行箇所を含 め てわれわれ の聖書 テキ スト にもし神学的主 題を求 め Lt「 アウグ スブ ルク信仰告白」は唯 一の聖な る教会を、そ の中 で福普 中 に'すなわち'神 から離反し神を喪失した こ の世 の中 に'愛 の成 長 に持ち込まれ'そ の中 に沈 み込ませられ、深くそ の中 に根 づかせられ が純粋 に説教され'聖礼典 が福音 に従 って与えられ る 「 全信徒 の集 ま のために植え込まれた生ける木な のであ る。それはた んな る 一本 の木 るなら'そ の 一つは教会 論 であ ろう。教会とそ の現実を われわれ の箇 り」と規定 した ( 第七粂 ) 。また 一九 三四年 の r パ ルメン神学的宣言J ではな い。他と並 ぶ木 ではな い。それだけが命 の源 であ るま こと の木 所 の説教準備 にさ いし つね に考慮す る こと は報 いられる こと であ ると 第 三 テーゼは' エフ エソ四章 一五㌧ 一六節を引照し っつ'教会をイ エ が地上 で成長す るために'犠牲 にす る こと こそ農夫 の尊 いこころであ ス ・キリ スト の御 言葉と サ ク ラメ ントにお いて聖霊 によ って主と し て であ る。それがす でにこの世 に植え込 ヽま ヽれ ヽ' ヽ成 ヽ長 ヽを ヽは ヽじめ て いる。 こ れ こそ'聞き逃す こと のできな い'われわれ の箇 所 の本来的な中心 で た。けれども パ ラダイ スの最も美 し い植物を'すなわち、愛を' それ 今 日も働きたもう 「 兄弟 たち の共 同体 」 であ ると宣 した。 これは後 に あり'前碇 であ る。 こ の木 はそ の枝 々を伸ばし て大きく成長 しよう と 思う。 バ ルトや エリク ・ヴオル フによ って'短 - 「 キリ スト支配的兄弟 団」 す る。 「 生けるキリ スト の生ける教会」( バ ルト)'それがキリ スト の教 よく明らかにして いる。イ エスはご自身を ぶどう の木 に、われわれを スト であり、先行箇所 「ぶどう の木 の替話」(一- 八節)はそれを最も て いる」 ( 岩波版'他 ) こと。持続性を含む。 「 人がわたし のうち にと って いる」であ ろう 。 「つなが って いる」とは'別 に訳せば 「 とどま っ それ ゆえ われわれ の教会生活 のポイ ントを ついた言葉 は'「つな が ち'キリ ストと の生け る関係 にお いてしか存在 しな い。 教会 はこの中心'神 によ って世 に植え込まれた ぶどう の木 'すなわ 会 であ る。 と言 い表わされたも のであ る。 はじめにわれわれは'交わ-とし て の教会 の中心 に立 つも のを問う てよ い。 か しら 教会 の中心、あ る いはそ の方 の体 であ る教会 の頭 は'イ エス ・キ リ そ の枝 に'そし て父な る神を農夫 にたとえ' この世 に残 され る弟子た 5月 6日 41 どま って いて'わたしも彼 のうち にとどま って いるなら' この人は多 友愛的交わ-はど のようにし て成立す るのか。それはイ エス ・キリ っき-語 って いると ころはな い。 。しかしそれを'われわれ の聖書箇所ほどは 三へ三六'二〇 ・二参照) ではな い。持続的 にそ こにあり つづけ ることがどれほど主体的な決意 Ⅰヨハネ四 ・一九)。友 のためにイ エスは自分 の命 ストからはじまる( - の実を結ぶ」( 五節) 。「 とどま って いる」とは消極的 ・受動的なこと と情熱を必要とす ることか'とく に説明は要しま い。イ エス ・キリ ス たも のを愛す ること であり'「 イ エスの愛 にとどまる」 ( 九節)とはイ われわれが友としな いことができようか。神を愛す るとは神が愛 され れわれは ルターの言葉を思 い起 こす。「 信仰 は-- ︹ 人間 の︺たまし い エスの愛された人を愛すると いう仕方 でしか実現されな い。イ エスが を捨 てて愛を示された。イ エスが命をかけ て愛 された人を'どうして をして'あたかも新婦をそ の新郎 にめ合わすよう にキリ ストと 一体な スがわれわれを僕 ではなく友と呼 んだ ことによ ってわれわれは自由を 弟子を友と呼 んだ こと によ ってわれわれも互 いに友な のであ る。イ エ トがわれわれ の 「 うち に」とどまり'またわれわれがイ エス ・キリ ス らしめる」oそし てこの婚胎 の結果とし て「 キリ ストとたまし いとは 一 トの 「 うちに」とどま る。互 いの 「 うちにとどま る」と いう言葉 でわ 体とな-'従 ってまた両者それぞれ の所有も幸運も不運も'あらゆる 「 神 の子 の自由」 ( 復活節第五主日のテー マ)はイ エスがわれわれを 与えられた。友愛的交 わり の基礎は自由 にあ る。 の有とな-'たまし いの所有す るも のがキリ スト のも のとなる。そ こ 友と呼 んでくださ った ことにお いて成立する。それゆえイ エスのそう も のが共有される。キリ スト の所有 したもうも のは信仰あ るたまし い でキリ スト のも っておられたす べての善きも のと祝福とはたまし いに い。自由と いう言葉はわれわれ の聖書箇所 には出な いが'じ つはわれ われ のテキ ストの隠れたテー マだと言 ってもよ い。 ヨ ハネ八草 三二節 した呼 びかけ に開く ことがなければ'自由 はたちまち失われるはかな じま るわけ であ る」( ﹃ キ リ スト者 の自由﹄十 二㌧石原訳) 。 こうしたま 罪 の奴隷」と対比し て明らかにし て いる0 以下は'「 本当 の自由」を 「 所属す ることにな-'同株 にたまし いに属し て いたす べての不徳と罪 さに 一人 ひとり のイ エス ・キリ ストと の生命的な交わりが教会 の交わ ること から解放 された。われわれは自由を賜物 と し て与え られ た。 イ エスの十字架 の死によ ってわれわれは罪から購われ'罪 の奴隷 であ 過とはキリ ストに託 される。 かく て今 やあ-難 い交換と取り合 いがは はかな い。パ ルメン第 三テーゼが語 った'イ エス ・キリ ストが御言葉 り の基礎 であり'それが失 われれば教会 はたんなる人間集団 に堕す る まるとき自由をも つ。 この自由 は非拘束的 ・慈恵的 ではな い。自分勝 「 わたし の言葉 にとどま るならば'あなたたち は本当 にわたし の弟 子 手 にやれる、何も のからも自由だと いう自由 ではな い。信仰 の自由' とサク ラメンーにお いて聖霊 によ って主とし て今 日も働きたもう教会∼ イ エス ・キリ ストが主とし て今 日も働きたもうとき'それに対応す である。あなたたちは真理を知り'真理はあなたたちを自由 にす る」 るのは教会 の位階制的秩序 ではありえな い。そう ではなく て「 兄弟 ( 柿 教会 の自由は御言葉 の真理に立ち、ただそれによ って拘束されるとき 二百で いえばイ エス ・キリ スト の教会とはそ のような 「 人間教会」 で 妹)たち の共同体」 であり'友愛共同体 である。弟子がイ エスによ っ にのみ他 のい っさ いの非真理から自由な のであ る。しかし この自由 に ( 八 二二一1 三二) 。われわれはこのイ エス ・キリ スト の御言葉 にとど て友と呼 ばれるのは、共観福音書 にも第 四福音書 にも多くはな いけれ お いて人は同時に、他 に対して 「 謙遜な開放性」へ バルト)をも って歩 はなか った。 ども存在す る ( ルカ 一二 ・四、 ヨ ハネ三 二 一 九㌧ 一一・一一。 一一 42 特定 の人びと'また特定 の個人を恵 みによ って選 び' これを召 してご ラ エルと教会 がそ のよう な神 の民 である。教会 は選 び に基礎 づけられ 自分 の民としたもう ( 申命記七 ・六- 八'Ⅰペ- ロ二 ・九'他) 。イ ス 一三- 一五節 によ って今 われ われ は' イ エスによ って与 えられ る教 て いる。神 は いわ ば見込 んでわれわれを選ばれた。選 びは'使命 授与 む 。互 いに愛 し'互 いに仕 え合う のであ る。教会 の友愛的交 わり の根 会 の友愛 的交 わりを強調 した。そし てそ れは今 日強調 され てよ いこと と結 び つく 。われわれは何 のために選ばれた のか'目的論的闘 いを問 底 には こう した信仰 の自由 があ る。 だと思う 。む ろん教会 も世 であり、義 人 にし て同時 に罪人 であ る者 の ま した」 二 七 ・一八) 。 一七章 の 「 イ エスの祈り」 は、世 に遣わされ 「 わた しを 世 にお遣 わし にな った よう に'わた しも彼 らを 世 に遣 わ し 間的 ・歴史的要素 にも かかわらず ' いやま さ にそれら にお いて教会 の た弟子たち が彼 らを憎む世 にあ って悪しき者から守られ るよう にと祈 う べき であ る。選びと派 遣 の関連がし っかり語られ るべきだと思う 。 神的 ・不可視的本質 を紛 れも なく信仰 によ って見 る こと が許 され て い る。彼 ら弟子たち がなす べき ことは何か。 一七章 二〇節が示唆す るよ し同時 に、われわれ は 「 われ は教会 を信ず 」と告白 し つつ、それら人 る。 ヨ ハネ は 1三幸 三 四- 三 五節 で こう 言う 。「わた し があな た がた こと であ る。そ のた めに世に遣わされる。世 の救 いのた めに彼 らは遣 う に'彼ら の宣 教 の言葉 によ って人びとがイ エスを信 じるよう にな る 集 まり にす ぎな い。教会 の人間的側面を見 な いのは正 し- な い。しか を愛 した よう に'あなた がたも 互 いに愛 し合 いな さ い。 互 いに愛 し合 わされる ( 三 ・一六) 。そ の意味 でも教会 は教会自身 のた めにあ る ので う なら ば'それ によ ってあなた がた がわたし の弟 子 であ る ことを'皆 が知 るよう にな る」。わ れ わ れ が本 当 にイ エス ・キ リ スー の碇 に生 き はな い'教会 は世 のた め にある のであ る。 新約聖書略解﹄「ヨハネによる福音書」 ( 松永希久夫) 詩編註解を めぐ って」 日 時 ︰二〇〇七年 三月 二 一日 ( 水'祝)午後 二時 コメンテーター ︰金 子晴勇氏、鈴木昇司氏 発題者 ︰竹 原創 一氏'野村信氏 ルターと カ ルヴ ァンの聖書解釈- アジ ア ・カ ルヴ ァン学会主催 シンポジ ウム 参 考 文 献 ﹃ 新 共 同 訳 るなら ば'たとえそれがど んな にか欠 け多 い現実 であ ろうとも、そ こ がキ リ スト の教会 であ る ことを 「 骨 が」 'す べての人 が'世 が知 るよう にな る。そ のこと は' 一人 ひとりを 大切 にす る'神 に つ- られ神 に愛 された かけがえ のな い人間と し て他 人を 思 いやる、愛す ると いう よう な思 いが後退し つつあ る雇う べき こ の国 の現実 の中 で、ど んな にか大 切な こと であ ろう か。 それ は伝道的 ・宣 教的意味をも って いる。互 い に愛 し合う '仕え合う こと は、今 日教会を 決 し て秘教的存在 にはしな い。またそう し てはならな い。むし ろそれ こそが教会 の世 におけ る最 も強力 な証しな のであり 'そ こに世 にあ る教会 は希 望を おく こと が許 され て いる。 最後 に 一六節 に触 れ てお こう 。 ヨ ハネ はす でに六章 七〇節 、 一三章 場 所 ︰立教大学 12号館会議室 ( 地下) 参加費 ︰五〇〇円 ( 茶菓代含) 43 一八節 で弟子たち の選 び に ついて語 って いた.彼 ら は ここで 「 友 よ」 る こと によ って力と励ま しを与え られ る。 聖書 の証言 によれ ば、神 は と呼 びかけられ'もう 一度 「 わたしがあなた がたを選 んだ」と語 られ 5月 6日
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