JOMF NEWS LETTER No.249 (2014.10) 病 気の世界 地図・ トラベル ドクタ ーとまわ る世界 旅行 第2回 「熱帯の戦国大名」フィリピン~マニラ 東京医科大学病院 渡航者医療センター 教授 濱田篤郎 【マニラに渡ったキリシタン大名】 フィリピンの首都マニラには熱帯病 の調査で何度も訪れています。最近は デング熱の研究のため、この町に住む 在留邦人の調査を行いましたが、その 時に興味深い話を聞きました。マニラ 中心部にあるパコ地区に、日本の戦国 大名の銅像があるというのです。早速 その場所に行ってみると公園の真ん中 に 大 き な 銅 像 が 建 っ て い ま し た( 写 真 )。 着物姿のその男性の名前は日本語で 「高山右近」と書かれていました。 高山右近はNHKの大河ドラマ「軍 師官兵衛」にも登場するキリシタン大 名です。もとは大阪の高槻城の城主で したが、織田信長や豊臣秀吉の傘下に なり、天下統一のために奔走します。 そ の 後 、彼 は 日 本 か ら 3000 キ ロ も 離 れ た熱帯のマニラに渡り、その地で亡く な っ て い た の で す 。 そ れ は 今 か ら 400 年 前 の 1615 年 の こ と 。こ の 銅 像 は 彼 の 記 念 碑 と し て 1977 年 に 建 立 さ れ た も の で し た 。 高山右近が活躍した時代、マニラはスペイン領ルソンの首都であるとともに、東ア ジアへのキリスト教布教の要衝でした。日本では江戸時代が始まるとキリスト教が禁 じられますが、棄教を拒否した多くの信者がマニラに追放されました。キリシタン大 名である右近もその一人だったのです。 JOMF NEWS LETTER No.249 (2014.10) 高 山 右 近 が マ ニ ラ に 到 着 し た の は 64 歳 という当時にしてはかなりの高齢でした。 マニラの人々は彼を英雄として迎え、 VIP待遇の暮らしが提供されましたが、 熱帯の国での慣れない生活のため、彼はマ ニラ到着後わずか1か月で病没しています。 【デング熱とマラリア】 彼が亡くなった時の模様については詳し い記録が残されており、高熱を発して数日 で死亡したことが明らかになっています。 なんらかの感染症が原因のようですが、病 原体は何だったのでしょうか。 現在、マニラでは熱をおこす感染症とし てデング熱が流行しています。この病気は 2014 年 に 日 本 で 約 70 年 ぶ り の 国 内 流 行 が 発生し、ご存じの方も多いことでしょう。 蚊が媒介する病気で、高熱や発疹、関節痛などの症状がでます。ほとんどの患者は 1 週間ほどで回復しますが、時々、消化管などの出血やショックをおこし死亡すること もあります。日本からの在留邦人が感染するケースも多く、私がマニラで行っている 調 査 も そ の 実 態 を 明 ら か に す る も の で し た 。在 留 邦 人 の 患 者 発 生 は 7 月 ~ 9 月 の 雨 季 に 多くみられましたが、重症になるケースはほとんどありませんでした。 では、このデング熱が右近の死因だったかというと、私はその可能性はないと思い ま す 。な ぜ な ら 、こ の 病 気 が マ ニ ラ で 流 行 す る よ う に な っ た の は 18 世 紀 以 降 。彼 が 亡 く な っ て か ら 100 年 以 上 も た っ て か ら で し た 。 デ ン グ 熱 は も と も と ア フ リ カ 大 陸 の 風 土病でしたが、ヨーロッパ諸国がアフリカで植民地経営に乗り出してから、アジアや 中南米に流行が拡大していきました。 熱をおこす感染症として、もう一つ重要なのがマラリアです。この病気も蚊に媒介 されますが、高熱とともに脳や腎臓の障害を併発することが多く、現代でも治療が遅 れると死亡する病気です。マラリアは古くから東南アジアで流行しており、高山右近 の時代にもマニラでは多くの患者が発生していました。こうした状況から、彼の死因 はマラリアの可能性が高いのではないかと思います。 【熱病の主役交代】 マニラではその後もマラリアの流行が続いていました。第二次大戦中も日本や連合 国の兵士の中にマラリアで倒れる者が数多くいたようです。しかし、大戦後、マニラ ではマラリアの患者が急速に減少し、現在では流行が終息しています。その一方、大 戦後のマニラで拡大した病気がデング熱というわけです。 このようにマニラでは熱病の主役が、マラリアからデング熱へと交代したわけです が、同じ蚊に媒介される病気なのに、なぜこのような変化がおきたのでしょうか。こ JOMF NEWS LETTER No.249 (2014.10) れは媒介する蚊の違いによります。マラリアを媒介する「ハマダラカ」の幼虫は清流 の中でしか育ちません。このため、マニラの開発が進み、川や池の水が汚染されるの に と も な い 、「 ハ マ ダ ラ カ 」が 棲 息 で き な く な っ た の で す 。と こ ろ が 、デ ン グ 熱 を 媒 介 する「ネッタイシマカ」の幼虫は汚水の中でも育つことができます。つまり、マニラ の開発が進んでも「ネッタイシマカ」の数は変化せず、その一方で この町の発展に伴 い、地方から多くのデング熱患者が集まってくることにより、この病気の流行が加速 したのです。 マニラでマラリアの流行が終息した背景には、行政による大規模な撲滅作成の効果 もありますが、この町の川や池の水質が汚染されたこと が大きな要因と言えるでしょ う。 【蚊は昼間も吸血する】 マラリアとデング熱で媒介する蚊が異なることを紹介しましたが、この違いは蚊が 吸血する時間帯にも影響します。そもそも蚊の中で吸血をするのはメスだけですが、 これは産卵のために血液を必要とするからです。では、マラリアを媒介する「ハマダ ラカ」が吸血する時間帯はいつかというと、それは夜です。一方、デング熱を媒介す る「ネッタイシマカ」が吸血するのは昼間。この違いは病気を予防するために大変重 要な情報です。 マラリアもデング熱も蚊に刺されない対策が最も効果的な予防法ですが、マラリア を防ぐには夜の対策が、デング熱を防ぐには昼間の対策が必要になります。つまり、 高山右近の時代に蚊の対策をとるべき時間帯は夜でしたが、現在のマニラでは昼間と いうわけです。 ところが、蚊が昼間に吸血することをご存じない人も多いようです。マニラの在留 邦人を対象に「デング熱の予防法」を質問すると、ほとんどの方は「蚊に刺されない 対 策 」と 回 答 し て い ま し た 。そ れ で は 、「 そ の 対 策 を と る 時 間 帯 は い つ で す か ? 」と 聞 くと、多くの方が「夜」と答えていたのです。私たちにとって蚊という昆虫は、夜中 に周囲を飛び回り、眠りを邪魔する厄介者という印象があります。蚊取り線香を焚く のもほとんどが夜です。こうした印象が強いので、蚊は夜しか刺さないと思っている 人 も 多 い よ う で す 。し か し 、デ ン グ 熱 予 防 の た め に は 昼 間 の 蚊 の 対 策 が 必 要 な の で す 。 【デング熱スポット】 昼間の蚊の対策が必要と言っても、具体的にどのような場所で蚊に刺されてデング 熱に感染するのでしょうか。私はマニラを訪問するたびに、こうしたデング熱スポッ トを探して、現地の在留邦人の皆さんに注意を促しています。 ま ず は ゴ ル フ 場 。マ ニ ラ 市 内 や 近 郊 に は 数 多 く の コ ー ス が あ り ま す が 、樹 木 が 茂 り 、 水場も多く、蚊の棲息にはもってこいの環境です。しかも、ゴルフアーは半袖のシャ ツに半ズボンとかなりの軽装でプレーをします。これは蚊に「吸血してください」と 言わんばかりの服装になります。このような場所では、虫よけの薬を皮膚に塗ってお くことをお奨めします。 もう一つは墓地。お墓の周囲には花を供える容器など水の溜まりやすい環境が沢山 JOMF NEWS LETTER No.249 (2014.10) あ り ま す 。こ う し た 場 所 で 蚊 が 大 量 に 発 生 し 、お 墓 参 り に 訪 れ る 人 を 吸 血 す る の で す 。 これ以外にも町中の公園や川沿いの遊歩道など蚊の発生しやすい場所はマニラの各所 にあり、そこを歩く時も、虫よけの薬を使用するなどの注意を忘れないことです。ま た、こうしたデング熱スポットはマニラだけに限定されるものではありません。東南 アジアの他の町でも同じような環境では要注意なのです。 【右近の命を救う薬草】 高 山 右 近 が マ ニ ラ に 渡 っ た 1600 年 代 に は 、彼 の 銅 像 が 建 つ パ コ 周 辺 に 日 本 人 町 が あ り ま し た 。最 盛 期 に は 3000 人 近 い 日 本 人 が 住 ん で い た そ う で す 。当 時 、こ の 町 で は マ ラリアが猛威を奮っていたわけですが、当時の人々はこの病気が蚊に媒介されること を知りませんでした。川や沼の近くで患者が発生するため、水の中から湧き上がる悪 い空気がマラリアの原因と考えていました。日本人町のあったパコは川の近くに位置 するため、とくにマラリアの発生が多かったようです。右近はそんな状況下でマラリ アに感染してしまったのでしょう。 彼 が 亡 く な っ て か ら 10 年 ほ ど し て 、南 米 の ア ン デ ス 山 脈 で キ リ ス ト 教 の 宣 教 師 た ち がマラリアの特効薬を発見します。キナという薬草で、現地のインデイオが解熱剤と して昔から使用していました。その後、この薬草はヨーロッパ諸国が熱帯地域に植民 地を拡大するための、重要な武器になります。マニラの町でも、キナは多くの植民者 の命を救ったはずです。 も し 、高 山 右 近 の マ ニ ラ 渡 航 が あ と 10 年 遅 か っ た ら 、彼 は マ ラ リ ア と い う 死 に 神 か ら救われていたかもしれません。彼の銅像を見上げながら、私はそんな思いにふけり ました。
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