2006年 度哲学若手 フォー ラム講演要 旨 誇張懐疑 と現実 デカル トとレヴィナスをめぐつて 村上 yasuhik⊆ 靖彦 [email protected] 現 在名 古屋 大学 医学部 で衝 動的 な暴力 の 精神 病 理 につ いての共 同研 究 に参 加 してい る。 そ こで検討 した事例のい くつ か に共通す るのは、現実 (と りわけ 近親者 の死や 自己の死の可能性 )を 受 け入れ られ な い ときにそれ を否認 し存在 しなか った ことにす る試み として一 見動機 不明な暴力 に訴 えるこ とである。生 起 したのに体験す らされ なか った事象 あ るいは生 起 が許 され なか った事象 をめ ぐつて犯罪 が構成 され る。現実 とは何 か 、現実 とどの よ うに した ら出会 うこと がで き るのか 、あ るいは どの よ うに出会 い損 ね るのか 、 これ が本研 究 を動機 づ けて い る問 いで ある。 この よ うに考 えた ときに、西洋哲学史は (キ リス ト教神 学 も含 めて)こ の現実 との 出会 い方 を探 る試 み で あ つた と考 えることがで きる。 自然 学 を超 える学 と しての形而上学 とは、認識 に よつては了解 し得 な い現実 と の 出会 い方 につ いての学であ つた とい える。 生起 したに もかかわ らず体験 で き な い事象 。わ けがわか らな い事象 として の 「現 実」 へ と形而上学 は踏み込む の であ る。形 而上学 とい う語 に重 きを置 いた二 人 の 哲学者デ カル トと レヴィナ ス もそ の よ うな現実 との出会 い方 につい て思考 した哲学者 の一 人であ る。本稿 で は、両者 を論 じつつ フ ッサール を念頭 に置 き、反 思弁 。反形 而上学 と して構想 され て発展 して きた現象学 の 中に、現実 につい ての学 と しての形 而上学 を位置 づ け し直す こ とを試 みてみた い。 『 省 察』 にお ける誇張懐疑 は、二段階 の議論 の構成 にな つてい る。 一段階 目 は欺 く神 が導入 され る以前 の懐疑 つ ま り (知 覚・ 想像 。幻覚 ・ 夢 な ど)直 観 の 諸領域 の 区別 をか つ こに入れ る懐疑であ り、二段 階 目が欺 く神 を導入す ること で得 られ る、領域存在論・ 形式存在論そ して形 式論理学 のか っこ入れ である。 これ に よつて コギ トはあ らゆる秩序 を失 つた 了解 不能 な事象 に襲 われ る こ とに な る とともに、 コギ ト自身実は志 向性や経験 を秩 序 立て る諸 カテ ゴ リー を もた ない 「自己」と して現象す る事 にな る。この よ うな眩量 をデ カル トは 「深 き淵」 と表現 してい る。 コギ トは心身二元論 の定式化 、志 向性 の極や 自己統覚 といつ た通常の理 解 には還 元で きな いの である。 この よ うなデカル トの経験 は 、 レヴィナ スが『 実存 か ら実存者 へ』で 「ある」 と呼んだ現象 と呼応す る点が あ る。「ある」とは存在者 な き存在 の経験 と定義 さ れ るがその形式上の特 徴 はや は り経験 を秩序 づ けるカテ ゴ リーの か っこ入れ に ある。この点 で「ある」の体験 と誇張懐疑 にお ける眩 量 は同質 の もので あ るが、 ところが実際 には対照的 な結果 を生む。誇張懐疑はエ ゴ と しての主体 の創設 ヘ と直結 してい るが、「ある」の 体験 は主体の匿名性 へ の溶解 の体験 であ り、そ こ か ら主体 を定立す る hypostaseは 不連続的な出来事 であ る。 誇張懐疑はポジテ ィブであ り「あ る」はネガテ ィブ な の であ る。 つ ま り前者 は了解不能 な現実 の 引 き受 けに成 功 して主体 の定立 にいた るのであ るが、後者 は失敗 の記述 であ り、主体の定立 のためには別 の契機 を導入す る必要 に迫 られ るので ある。欺 く神 ・ 悪 い霊 は呼称 に も関わ らず ポジテ ィブな装置 であ り、経 験的には現象 し得 な いが コギ トを創設す るために方法的 に要請 され る超越論的 「あ る」は経験 的 に体験 され る事象であ るが主体 の解体 とい うネ な契機 である。 ガテ ィブな体験 であ る。誇張懐 疑 とは現実 を引き受 けて主体 を創 設す るために 必要な しか し経験 し得 な い 「形而上学的 」な装置 なので あ り、経験 を支 える構 造 と して超越論的 な ものに とどま る限 りにおいてポ ジテ ィブ な もの である。現 実 との直接 の 出会 い は主体 を破壊 す るが、同時に、出会い を可能 にす る装置 と してのみ主体 は可能 にな る とい う逆説 をデ カル トは明 らかに してい る。「ある」 の体験 は逆に現実 との出会 い損ね の体験であ り、冒頭 に書 いた よ うにあ る種 の 犯罪がその よ うな出会 い損ね の様態である とす るな らば、 レヴィナ ス が『 マ ク ベ ス』 とい う犯罪劇 にお ける幽霊 へ の怖れ を論 じるのは必然 であろ う。「あ る」 は実は現実そ の もの との 出会 い ではな く、現実 の影 であ る。 こ うして現実 と出 会 い直 して主 体 を創設す る仕組 み として、 レヴィナ スは他者論 へ と導かれ るこ とにな るのであ る。 (む らかみ やすひこ/日 本大学)
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