『カンタベリー物語』by チョーサー

―『カンタベリ物語』を読んで―
THE OTHER SIDE OF THE PERSON
~人間のこちら側~
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『これはただのファブリオの集まりではないか』―――。これを読んで、単純にそう思
った人も少なくないと思う。事実、私がその一人だった。職業も身分も全く異なる寄せ集
めの 29 人の巡礼者たちが、カンタベリ大聖堂へ向かう道中で、順々に話を披露していく―
.....
――。そう、この小説は物語といってもただ単に一人ひとりのおしゃべりの寄せ集めに過
ぎない…と。冒頭から長々と巡礼者の紹介が始まり、話の継ぎ目には、次の物語に展開し
やすいように宿屋や巡礼者たちの会話が盛り込まれているが、そのほとんどが醜い争いば
かりである。はじめから粉屋の話と家扶の物語にみられるように、お互い仕返しや汚名返
上のために自分の話を始めるという有様である。あまりにも民俗的で泥臭いストーリーの
集大成に、私は途中で本を投げ出そうかと思った。
しかし、である。本当にこの物語はただそれだけなのだろうか。いや、そう単純ではな
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い。逆の発想で考えてみよう。この泥臭く醜い人間の生き様、人間の美しくない側にこそ、
この中世時代のより本質に近い何か…当時の時代背景や価値観が反映された何かが描かれ
ているのではないだろうか。そして、その中からゆえに我々が体得しえるものが潜んでい
るのだ、ということに私は最後まで読み終える段階で思い始めたのである。つまり、カン
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タベリ物語が人間の決して美しいとは言えない側を描いた民俗的かつ realistic な物語で
あるからこそ、本質を見ることができるのだ。
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それについて述べる前に、まず、私が冒頭でした『これはただのファブリオの集まりで
はないか』という発言の原因から探ってみる必要がある。この話しのどこが滑稽詩なのか。
それは例を挙げればきりがない。人妻に言い寄る学生、教区書記でありながら友人の妻に
言い寄る男、妻と学生の策略にも気づかず洪水が起こることを信じて大騒ぎする大工、女
の尻に接吻する者…。これのどこが滑稽でないのだろう。いや、むしろそのものである。
その上このようなファブリオは対外教訓や深刻な風刺というよりも、読者を笑わせるとい
うことにもっとも重きを置いている。よって、文学を読み解こうという意気込みで読み始
めた私のようなものには、少し拍子抜けだったのである。
ではこの物語には何もないのか、というとそうではない。我々人間は考える脳を持って
おり、感じる心を持っている。そうである限り、我々はどんなものからも、たとえそれが
何かを意図して書かれていなくても、必ず何かを感じることができるはずなのである。そ
こを作家チョーサーは狙ったと思われる。つまりこのカンタベリ物語においては、一見た
だ様々な職業や身分の人物の寄せ集めのようであり、そしてまたこのように民俗的である
からこそ味わえる何かが必ずあるはずなのだ。
―『カンタベリ物語』を読んで―
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民俗的――かつ realistic な物語。と、一言でいうならば、私はこのカンタベリ物語を
そう呼びたい。『ロミオとジュリエット』のような激しい恋や、『嵐が丘』のような泥沼の
人間関係…。このように、文学には人間の人生の一部を誇張して美的または悲劇的に描く
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作品が多い。それに比べてカンタベリ物語は、それとは反対側の人間の美しさではない部
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分を非常に民俗的かつ realistic に描いているのである。
では、そのような特性のこの物語から我々が感じえるものは何か。それは幅広い世界観、
人生観である。繰り返しになるようだが、彼はこの物語に自分自身も含めて 29 人の様々な
人物を登場させる。そして彼はこれらの人物をあらゆる側面から見事に描写しているので
ある。外貌、服装、表情、言葉遣いなど、その身分からくる性格や個人の生活習慣までを
細かく良い面も悪い面も公平に描いている。それが 23 人(と未完成に終わってはいるもの
の)全く違う語り手により全く違う手法で全てが語られることによって、当時の中世社会
を realistic に表現することを可能にしているのだ。それがいかに愚劣で品のないもので
あったとしても、それ以上それ以下の過剰表現は加えない。それゆえ我々は様々な立場の
人物からそれぞれの価値観があることを知る。それを知ることによって、我々は物事に決
定的な判断を下す前に、それの欠点や欠陥を相殺する何かを見つけることができるのであ
る。
この物語の作家、チョーサーの対人観がこれほどにも公平かつ寛大であったのにはちゃ
んとした背景がある。彼はもともと役人であり、裕福な商人の家に生まれる。後に宮廷に
出仕し、戦にも参加、また何度も外交の仕事で海外も見てきている。そして大した読書家
でもあったようだ。それほどの膨大な経験と広い知識のある持ち主だったからこそ、彼は
公平で寛大な対人観の持ち主だったのではないだろうか。こうしてこの話しが“どこにで
もいる民の寄せ集め”であるのも、彼が“世界の人間生活(人生観)の寄せ集め”を象徴
したかったのではないかと思う。余談であるが、
“読者”といっても当時は人前で朗読する
習慣があったようで、おそらく彼は宮廷人の前でこの大工や商人の話を披露していたに違
いない。このことからも、チョーサーがいかに公平で寛大な対人観を持っていたかという
ことがわかるであろう。
このように、一見単なるファブリオの集まりに過ぎないと思われた作品であったが、逆
の発想で考えてみると、他の誇張された文学作品では味わえない楽しみが含有されていた
...
ように思う。民俗的――かつ realistic な物語―――。このような浅はかで無意味のよう
に思われる滑稽さの中にこそ、我々は人間の多様性、広い世界観または人生観をより現実
的に実感することができるのであろう。このような、人間のもう一方の側面を見事に利用
した作品であると思った。
2389 字 『カンタベリ物語』(角川文庫/1996.1 発行)