日中歴史和解プロセスの基礎的研究

日中歴史和解プロセスの基礎的研究
―花 岡 和 解 を事 例 に―
李 恩 民 (桜 美 林 大 学 リベラルアーツ学 群 教 授 )
はじめに
近 年 「東 アジア共 同 体 」は、アジア・太 平 洋 地 域 の持 続 的 経 済 発 展 と平 和 的 安 定 に寄 与
できる仕 組 みの一 つとして大 いに期 待 され、政 治 家 から研 究 者 まで、その中 身 および可 能 性
について活 発 な議 論 が展 開 されている。しかし、アジアの双 璧 としての貿 易 大 国 に成 長 し地
域 統 合 に多 大 の 貢 献 を なしうる力 を 備 えながら、 日 本 と中 国 は主 に第 二 次 世 界 大 戦 中 の
「歴 史 問 題 」を巡って絶 えず摩 擦 と対 立 を繰 り返 している。これが東 アジア共 同 体 構 想 を実 現
するうえでの障 害 になっていることに異 を唱 えるものはないだろう。日 中 両 国 の、政 府 レベルも
国 民 レベルもその障 害 をどのように取 り除 き、負 の遺 産 として残 された歴 史 の葛 藤 をどのよう
に克 服 し、歴 史 の和 解 を実 現 させていくかが、東 アジア共 同 体 の構 築 の上 での重 要 な課 題
である。
幸 いに 21 世 紀 の直 前 に、日 中 間 の国 民 レベルによる歴 史 和 解 が実 践 され、東 アジアにお
ける歴 史 和 解 の基 本 的 モデルとして提 示 された。 ① それは 2000 年 11 月、東 京 高 等 裁 判 所
において花 岡 事 件 訴 訟 の和 解 成 立 であった(略 称 「花 岡 和 解 」)。花 岡 事 件 訴 訟 は、第 二 次
世 界 大 戦 中 、鹿 島 組 (現 鹿 島 建 設 株 式 会 社 )の強 制 連 行 ・強 制 労 働 により被 害 を受 けた中
国 人 が初 めて損 害 賠 償 を求 めて提 訴 した訴 訟 で、企 業 の戦 争 責 任 を追 及 する最 初 の訴 訟
でもある。花 岡 和 解 において「信 託 方 式 」「基 金 方 式 」「全 体 解 決 方 式 」「民 間 方 式 」といった
戦 後 補 償 裁 判 の中 であまり類 のない大 胆 な試 みが行 われ、世 界 の注 目 の的 となった。以 来
10 年 間、日 本 の戦 後 和 解 は基 本 的 に花 岡 和 解 をベースにして進 められ、和 解 不 可 能 と言 わ
れた西 松 裁 判 の和 解 も実 現 された。本 研 究 は花 岡 事 件 の歴 史 的 経 緯 を究 明 した上 で、被
害 者 と加 害 企 業 である鹿 島 建 設 との交 渉 から裁 判 を経 て裁 判 上 の和 解 に至 るプロセスと、そ
の後 の中 国 紅 十 字 会 、花 岡 平 和 友 好 基 金 等 の活 動 を介 しての「心 の和 解 」のプロセスを探
①
一 般 的 には言 えば、和 解 は裁 判 上 の和 解 と心 の和 解 に分 類 することができる。裁 判 上 の和 解
は、訴 訟 提 起 前 または訴 訟 継 続 中 において、当 事 者 双 方 が権 利 又 は法 律 関 係 についての互 い
の主 張 を譲 歩 し、それに関 する一 定 内 容 の実 体 法 上 の合 意 と、訴 訟 終 了 についての訴 訟 法 上
の合 意 を行 うことである。一 方 、心 の和 解 は歴 史 において戦 争 や紛 争 等 によってもたらした異 民
族 間 、異 国 民 間 にわだかまる感 情 的 な摩 擦 や対 立 を解 消 させるための歩 み寄 りで、過 去 をふま
えた未 来 の共 生 のため寛 容 度 を広 くする行 為 である。本 報 告 の言 う「歴 史 和 解 」は社 会 全 体 とし
て衝 撃 的 な復 讐 行 動 を抑 え、憎 しみを憎 しみで返 さず復 讐 ・怨 恨 ・憎 悪 の戦 いを収 束 するための
高 潔 な社 会 行 為 である。戦 争 や紛 争 は人 間 の心 の中 で生 まれるものであるため、平 和 のとりでは
人 間 の心 の中 に築 かなければならない。人 の心 に始 まった戦 争 と紛 争 を人 の心 をもって終 わらせ
るためには、国 家 はもとより国 民 も意 欲 的 に取 り組 んでいく必 要 がある。本 研 究 は市 民 運 動 の視
点 から、日 本 社 会 における和 解 と平 和 を創 る市 民 の力 を再 発 見 し、日 中 歴 史 和 解 における民 間
の役 割 を実 証 的 に検 討 するものでもある。
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究 し、花 岡 和 解 が内 包 する戦 後 日 中 歴 史 和 解 の意 義 と普 遍 性 、即 ち日 本 型 歴 史 和 解 モデ
ルのアプローチについて分 析 する。
周 知 の通 り、日 中 間 の歴 史 和 解 は民 間 レベルで模 索 しながら賛 否 論 戦 のなかで展 開 され
てきている。そこで蓄 積 された先 行 研 究 や編 集 された既 成 の資 料 集 は殆 ど存 在 しない。本 研
究 報 告 は文 献 調 査 と実 地 調 査 のデータを慎 重 に分 析 して信 頼 できる史 料 に基 づき、日 中 歴
史 和 解 のプロセスを初 めて学 術 の視 点 で把 握 しようとする独 創 的 なものであるが、同 研 究 領
域 の開 拓と今 後 の日 中 歴 史 和 解 の大 業 の展 開 にも貢 献 したい。
一 花 岡 事 件 と共 同 発 表 1945~1995 年 (第 1 期 、第 2 期 )
1 花 岡 事 件 の概 要
第 二 次 世 界 大 戦 中 の 1942 年 11 月、戦 時 労 働 力 不 足 に対 応 するため、東 条 英 機 内 閣 は
「華 人 労 務 者 内 地 移 入 に関 する件 」を閣 議 した。その後 、企 業 の需 要 に応 じて、東 亜 省 、外
務 省 、日 本 軍 が連 携 して北 京 の華 北 労 工 協 会 による供 出 、掃 討 作 戦 による農 民 の拉 致 、捕
虜 の連 行という手 段をもって4万 人 余 の中 国 人 を労 工 として日 本 各 地 の 135 事 業 所(35 企
業 )に連 行 した。彼 らは全 員 鉱 山 、土 建 現 場 、港 湾 荷 役 などに投 入 された。そのうち、1944
年 8 月 から 1945 年 6 月 までに 986 名の労 働 者 が、秋 田 県 北 秋 田 郡 花 岡 町(現 大 館 市)に
あった鹿 島 組 花 岡 出 張 所 に連 行 された。そこで強 制 連 行 された中 国 の労 工 は厳 しい監 視 の
もとで、花 岡 川 の改 修 工 事 や水 路 工 事 に強 制 的 に従 事 させられた。劣 悪 な衛 生 状 況 のもと
で、体 力 と忍 耐 力 の限 界 を超 えた長 期 間 の過 酷 な重 労 働 や、監 視 役 の補 導 員 による暴 行 な
どが行 われ、餓 死 、病 死 、虐 待 死 の死 者 が絶 えず続 出 し、137 名 が死 亡 して花 岡 の工 事 現
場 は死 の恐 怖 に覆 われていた。 ②
1945 年 6 月 30 日 深 夜、こうした想 像を絶 する奴 隷 的 使 役 に耐 えかねた労 工 は耿 諄(こう・
じゅん)大 隊 長 らの指 揮 のもとで、一 斉 暴 動 した。しかし、失 敗 後 、近 くの山 に逃 げ込 んだ全
員 が延べ 2 万 4000 人 を超 える憲 兵、警 察 官 、警 備 隊 、地 元 の一 般 市 民 によって捕まえられ、
100 名 以 上 の人が弾 圧 およびその後 の残 酷 な拷 問 等 により殺 害 された。同 年 8 月 15 日、日
本 は敗 戦 したが、花 岡 現 地 の戦 時 体 制 はすぐには変 わらなかった。花 岡 暴 動 後 に連 れ戻 さ
れた中 国 の労 工 は、依 然として重 労 働 させられ、わずか 2 ヶ月 間 で、またもや 117 名 の死 者 を
出 してしまった。さらに、秋 田 地 方 裁 判 所 は 9 月 に、耿 諄 ら暴 動 首 謀 者 に無 期 懲 役 等 の有 罪
判 決 をした。しかし、その翌 月 、アメリカ軍 は花 岡 現 地 で中 国 人 強 制 連 行 ・強 制 労 働 の事 実
を確 認 し、戦 争 犯 罪 調 査 を展 開 すると共 に、耿 諄 をはじめとする中 国 人 労 工 の生 存 者 全 員
を解 放 し、戦 犯 裁 判 の証 人 として残 留 する者 を除 いて逐 次 帰 国 させた。
花 岡 事 件 の結 果を見 ると、986 名 労 工 のうち、武 力 鎮 圧、暴 力 虐 待、栄 養 失 調 などで死 亡
したのは約 42%にあたる 418 名にも上 り、死 亡 率 は極 めて高 い(中 国 人 強 制 連 行 ・強 制 労 働
の平 均 死 亡 率 は約 17%、シベリア抑 留 の死 亡 率 は約 10%)。死 亡 率 の高さと死 亡 者 数 の多
さという視 点 から言 えば、花 岡 事 件 は最 初 から戦 時 中 の強 制 連 行 と強 制 労 働 の典 型 的 な事
件 として各 国 に注 目 されていた。花 岡 事 件 についての戦 後 補 償 も勿 論 、人 々の関 心 事 であ
田 中 宏 、松 沢 哲 成 編 『中 国 人 強 制 連 行 資 料 ―「外 務 省 報 告 書」全 5分 冊 ほかー』、現 代
書 館、1995 年;西 成 田 豊『中 国 人 強 制 連 行 』、東 京 大 学 出 版 会 、2002 年。
②
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る。
2 花 岡 和 解 のプロセス
花 岡 事 件 について裁 判 上 の和 解が実 現 したのは 2000 年 11 月 であるが、加 害 者 と被 害 者
との「心の通 じ合 う和 解」は現 在 進 行 中 である。和 解 実 現 に向 けての努 力 は、実 に 1945 年 か
ら半 世 紀 以 上 の歳 月を要 した。以 下 はこのプロセスを三 つの時 期 に分 けて考 察 する。
第1期 (1945 年 の戦 争 終 結 から 1989 年 の冷 戦 崩 壊 までの 44 年)は「遺 骨 送 還 と事 実 究
明 」の時 期 である。この間 、GHQ は外 国 人 強 制 連 行 ・強 制 労 働 、花 岡 事 件 等 についての調
査 を行 い、アメリカ第 8軍 戦 争 犯 罪 法 廷 は調 査 の事 実 に基 づき花 岡 事 件 の加 害 者 である鹿
島 組 現 場 責 任 者 らに対 し有 罪 判 決 を下 した(「横 浜 裁 判 」と称 す)。 ③ 外 務 省 も外 国 人 労 働
者 の使 役 企 業 に事 業 場 ごとの報 告 書 の作 成 を求 め、それをもとに「外 務 省 報 告 書 」をまとめ
た。 ④ 同 時 に、戦 争 の反 省 という視 点 から、大 館 市 現 地 の住 民 は花 岡 事 件 の真 相 を究 明 し、
慰 霊 祭 の定 期 開 催 、記 念 碑 の設 置 などを通 して次 世 代 に伝 える努 力 を続 けてきた。この期
間 に花 岡 事 件 殉 難 者 の遺 骨 がダムなどの建 設 によって多 く発 見 された。これらの遺 骨 は日
本 各 地 で収 集 された中 国 人 労 工 の遺 骨(4万 人 の内 死 亡 者 6830 人 )と共 に宗 教 慈 善 関 係
者、特 に日 本 赤 十 字 社 と中 国 紅 十 字 会 の協 力 によって 1953 年から 1964 年までに9次にわ
たり中 国 に送 還 された。1963 年、鹿 島 建 設 は宗 教 団 体 及 び現 地 住 民 、ボランティア団 体 から
の度 重 なる強 い要 望 をやっと受 入 、信 正 寺 裏 境 内 地 に犠 牲 者 の供 養 塔 を設 置 した。これら
の活 動 を通 して中 国 人 強 制 連 行 の全 体 像 や花 岡 事 件 の真 相 は基 本 的 に究 明 され、悲 惨 な
歴 史 として日 中 両 国 は共 有 していた。歴 史 の事 実 究 明 が花 岡 和 解 の重 要 な一 歩 である。特
に注 目すべきことは日 中 両 国 の赤 十 字 社 の参 加 である。これは約 40 年 後、中 国 紅 十 字 会 が
利 害 関 係 人 として花 岡 和 解 金 の受 け皿 となるきかっけであった。しかし、公 開 された中 国 の外
交 秘 密 文 書 によると、遺 骨 送 還 について日 中 両 国 の思 惑 は最 初 かなり隔 たりがあった。人 道
的 な立 場 で平 和 運 動 を行 う日 本 側 の動 機 に対 して中 国 側 は、日 本 側 が遺 骨 送 還 の機 を利
用 して在 華 死 亡 の日 本 人 遺 骨 問 題 を持 ち出 すのではないか、と警 戒 したが、 ⑤ その後 疑 念
が解 け協 力 することにした。
第2期 (1989 年 から 1995 年 までの約6年 間 )は「自 主 交 渉 」の時 期 である。1980 年 代 末、
花 岡 事 件 の生 存 者 は主 要 メンバーの存 命 と居 場 所 を互 いに確 認 した後 、連 絡 を取 り合 って
花 岡 殉 難 者 聯 誼 準 備 会 を設 立 した。この準 備 会 はその後 、日 中 両 国 の歴 史 研 究 者 や日 本
の市 民 運 動 団 体 から経 済 的 支 援 と法 的 支 援 を得 ることができた。1989 年 12 月 22 日 、耿 諄
ら生 存 者 は鹿 島 建 設 株 式 会 社 に対 して「公 開 書 簡 」を送 り、謝 罪 、大 館 市 と北 京 市 の両 市
における花 岡 殉 難 烈 士 記 念 館 の建 立、一 人 当 たり 500 万 円 の賠 償 金 の支 払 いの3項 目 を提
出 した。これが自 主 交 渉 の始 まりであり、のちの戦 後 補 償 請 求 の原 型 となった。この公 開 書 簡
は戦 時 中 の企 業 の責 任 を問 う最 初 のもので、日 本 の産 業 界 に大 きな衝 撃 を与 えた。当 時 、
マスコミも大 々的 に報 道 した。これを受 けて鹿 島 建 設 は躊 躇 していたが、自 主 折 衝 に入 り交
花 岡 研 究 会 編 『花 岡 事 件 横 浜 法 廷 記 録 』、総 和 社 、2006 年 。
『太 平 洋 戦 争 終 結 による在 本 邦 外 国 人 の保 護 引 揚 関 係 雑 件 ・中 国 人 関 係 ・華 人 労 務 者 事 業
場 別 就 労 調 査 報 告 書 』第 10 巻 、外 交 史 料 館 所 蔵 、分 類 番 号 k7-3-0, 1-2-4。
③
④
⑤
「紅 十 字 会 関 於 処 理 我 在 日 本 殉 難 烈 士 遺 骨 的 請 示 」(1965 年 )、外 交 部 外 交 档 案 館 所 蔵 、
番 号 105-01758-04。
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渉 を始 めた。鹿 島 側 の弁 護 士 によると、鹿 島 側 は歴 史 の事 実 を確 認 し、戦 時 中 に鹿 島 の作
業 場 で亡 くなった方 々に対 して深 い哀 悼 の気 持 ちをもって交 渉 に臨 んだ。 ⑥ こういう気 持 ち
があったからこそ自 主 交 渉 ができた。交 渉 の結 果 、1990 年 7月 5日 、双 方 は共 同 発 表 を行 っ
た。
共 同 発 表 の内 容 は三 つある。第 一 に、「中 国 人 が花 岡 鉱 山 出 張 所 の現 場 で受 難 したのは、
閣 議 決 定 に基 づく強 制 連 行 ・強 制 労 働 に起 因 する歴 史 的 事 実 であり、鹿 島 建 設 株 式 会 社
はこれを事 実 として認 め、企 業 としても責 任 があると認 識 し、当 該 中 国 人 生 存 者 およびその遺
族 に対 して深 甚 な謝 罪 の意 を表 明 する」。「閣 議 決 定 に基 づく」という言 葉 と「企 業 としても責
任 がある」という言 葉 は鹿 島 側 の要 求 に応 じて入 れたものである。つまり、鹿 島 側 から見 ると、
この責 任 は主 に企 業 が負 うべきではなくて、国 が負 うべきものである。第 二 に、公 開 書 簡 の 3
項 目 要 求 等 については、鹿 島 は双 方 が話 し合 いによって解 決 に努 めなければならない問 題
であるとの認 識 を示 した。第 三 に、双 方 は「過 去 のことを忘 れず、将 来 の戒 めとする」(周 恩
来 )との精 神 に基 づいて協 議 を続 けて問 題 の早 期 解 決 を目 指 す、と約 束 した。この共 同 発 表
は花 岡 和 解 の基 礎 であり、前 提 でもある。
しかし、この共 同 発 表 の後 、鹿 島 建 設 は動 けなかった。戦 時 中 、外 国 人 の強 制 連 行 ・強 制
労 働 にかかわった多 数 の企 業 に「なぜ企 業 が責 任 を負 うのか」と非 難 されたためである。また、
共 同 発 表 の作 業 に携 わっていた交 渉 者 も会 社 の内 部 で袋 だたきに遭 った。したがって、その
後 、鹿 島 側 は早 期 解 決 を目 指 すと言 いながら、前 向 きに検 討 することがなく、そのまま6年 が
経 ってしまった。その間 、高 齢 だった生 存 者 数 名 が亡 くなった。中 国 側 の被 害 者 は鹿 島 の誠
意 に疑 いを 持 ち、 自 主 交 渉 を 打 ち切 っ て、 法 治 国 家 と 言 われる日 本 で訴 訟 を 行 うことにし
た。
中 国 では戦 後 処 理 は民 意 を問 うことなく政 府 主 導 で行 ってきた。筆 者 の調 査 によると、多 く
の人 は戦 後 補 償 や賠 償 制 度 の存 在 自 体 さえ知 らなかったし ⑦ 政 府 の意 向 を聞 かず自 ら法
律 の力 で裁 判 を通 して自 分 の権 益 を守 ろうという意 識 はそもそも薄 かった。花 岡 被 害 者 が訴
訟 を決 意 したのは、日 本 の市 民 運 動 団 体 との交 流 から「法 治 国 家 では裁 判 で権 利 を守 ること
ができる」との情 報を知 り、そこからヒントを得 たからであろう。
二 裁 判 から和 解 へ 1995~2000 年 (第 3 期 )
花 岡 和 解 プロセスの第 3期 (1995 年 から 2000 年 の 5 年 間 )は法 廷 対 決 から裁 判 和 解 への
転 換 期 である。1995 年 6 月 28 日、原 告 耿 諄 、王 敏 ら 11 名 は鹿 島 建 設を被 告 として国 際 条
約 違 反 、債 務 不 履 行 (安 全 配 慮 義 務 違 反 )を理 由 に、金 6050 万 円(弁 護 士 費 用 込 みで一
人 当 たり 550 万 円 )の損 害 賠 償 請 求 訴 訟 を提 起 した。これは中 国 人 被 害 者 による初 めての
訴 訟 提 起 である。当 時 、第 二 次 世 界 大 戦 終 了 50 周 年 であるが、戦 後 和 解をどのように進 め
ていくべきか分 かっている知 的 な法 曹 は極 めて少 なかった。こうした状 況 の中 で、1995 年 12
和 田 衛 弁 護 士 へのヒヤリング(聞 き手 :今 西 淳 子 ・李 恩 民 )、2001 年 4 月 20 日 、東 京 和 田 法
律 事 務 所 にて。
⑥
⑦
李 恩 民 「戦 後 日 中 関 係 の歴 史 に対 する中 国 人 のイメージ――華 北 における現 地 調 査 にもとづ
く事 例 的 研 究 ――」、『政 経 研 究 』第 68 号 、1997 年 5 月 。
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月 10 日 、東 京 地 裁 は証 人 調 べなどをすることもなく、除 斥 期 間 経 過 を理 由 に、生 存 者、遺 族
らの請 求 をすべて却 下 した。被 害 者 側 の弁 護 士 によると、「我 々は最 初 勝 てると思 っていたの
ですが、事 実 調 べや原 告 尋 問 などを全 くせず、門 前 払 いになってしまい、本 当 にショックを受
けました」。 ⑧ 全 く納 得 できないので、原 告 側 は直 ちに控 訴 した。その後 の交 渉 も繰 り返 し意
見 の対 立 があったが、最 も重 要 で決 定 的 な和 解 要 因 は当 時 の裁 判 官 であった。バランスのあ
る歴 史 の感 覚 を持 ち、歴 史 の教 養 に富 む裁 判 官 、特 に新 村 正 人 裁 判 長 は、単 に法 の立 場
からではなく、花 岡 事 件 の重 要 性 、影 響 の大 きさの視 点 から、この問 題 については長 期 的 な
視 点 に立って対 処 した方 がいいのではないかと考 えて、双 方 に和 解を勧 告 した。
当 時 、両 者 は和 解 勧 告をどう受 け止 めたのか?被 告 の弁 護 士 によると、鹿 島 側 は哀 悼 の意
を表 したいと思 っていたため、基 本 的 な考 え方 が受 け入 れられるならば、和 解 のテーブルに
つくことができると考 えていた。 ⑨ 原 告 側 は最 初 、自 分 たちが絶 対 に勝 てると思 っていたため、
和 解 はしたくないと考 えていた。しかし、支 援 者 団 体 から日 本 の現 行 法 の枠 組 み、制 度 の詳
細 、裁 判 所 勧 告 の意 味 や重 さについての説 明 を受 け、それで多 くの人 が納 得 し和 解 を進 め
ることにした。
この交 渉 の最 も重 要 な問 題 の一 つは、金 額 とそのお金 を誰 が責 任 をもって被 害 者 に渡 す
のかということであった。鹿 島 建 設 は、そのお金 が当 初 の意 図 通 りに使 用 されるかどうかに関
心 があり、公 益 機 関 が支 出 金 の管 理 をすることが一 番 重 要 だと考 えていたようである。そこで、
原 告 側 の代 理 人 である新 美 隆 弁 護 士 、田 中 宏 、林 伯 耀 らが中 国 紅 十 字 会 に思 い至 った。
1950 年 代 から遺 骨 送 還 を担 当 し、人 道 的 な立 場 で公 正 公 平 に事 を成 しているからである。
彼 らは原 告 や支 援 者 の同 意を得 て、中 国 側 に事 情を説 明 して、中 国 紅 十 字 会 に依 頼 した。
しかし、それは簡 単 なことではなかった。中 国 紅 十 字 会 は民 間 の機 関 であるが、名 誉 総 裁
は江 沢 民 国 家 主 席 であった。紅 十 字 会 が戦 後 補 償 の表 舞 台 に出 ると、中 国 政 府 が民 間 の
戦 後 補 償 裁 判 を支 持 しているという姿 勢 に見 えてしまうため、中 国 政 府 としては慎 重 な姿 勢
を取 らざるをえなかった。しかし、日 本 の政 治 家 や民 間 団 体 の折 衝 と粘 り強 い交 渉 の結 果 、
中 国 紅 十 字 会 は 1999 年 12 月 16 日、在 京 中 国 大 使 館 を通 して和 解 手 続 きに利 害 関 係 人 と
して参 加 することを正 式 に表 明 した。これで花 岡 和 解 が実 現 可 能 となった。結 果 として中 国
紅 十 字 会 の介 入 は、和 解 実 現 にプラスになった。
花 岡 和 解 は 2000 年 11 月 29 日に東 京 高 等 裁 判 所 で調 印 された「和 解 条 項」によって成 立
した。主 な内 容 は次 の通 りである。
第 一 、「当 事 者 双 方 は、平 成 2年 7月 5日 の『共 同 発 表 』を再 確 認 する。 ただし、被 控 訴 人
は、右 「共 同 発 表 」は被 控 訴 人 の法 的 責 任 を認 める趣 旨 のものではない旨 主 張 し、控 訴 人 らはこ
れを了 解 した 」。これは花 岡 和 解 の基 礎 である。過 去 の事 実 、歴 史 についての認 識 は双 方 が
一 致 しており、鹿 島 としては謝 罪の気 持 ちもある、これを再 確 認 した。
第 二 、鹿 島 建 設 は、「花 岡 出 張 所 の現 場 で受 難 した者 に対 する慰 霊 等 の念 の表 明 として、
利 害 関 係 人 中 国 紅 十 字 会 に対 して金 5億 円 を信 託 する」。この信 託 金 は、被 告 が原 告 に直
原 告 代 理 人 新 美 隆 弁 護 士 、中 国 人 強 制 連 行 を考 える会 代 表 田 中 宏 氏 へのインタビュー記 録
(聞 き手 :今 西 淳 子 ・李 恩 民 )、2002 年 5 月 19 日 、東 京 日 中 友 好 会 館 にて。
⑨ 和 田 衛 弁 護 士 へのヒヤリング(聞 き手 :今 西 淳 子 ・李 恩 民 )、2001 年 4 月 20 日 、東 京 和 田 法
律 事 務 所 にて。
⑧
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接 払 うのではなく、第 三 者 の中 国 紅 十 字 会 に払 うということである。すなわち第 三 者 がまずそ
の信 託 金を引 き受 けてから、責 任 をもって被 害 者 に渡 すという形 になる。
第 三 、本 件 信 託 金 は「花 岡 平 和 友 好 基 金 」として管 理 する。「本 基 金 は、日 中 友 好 の観 点
に立 ち、受 難 者 に対 する慰 霊 および追 悼 、受 難 者 およびその遺 族 の自 立 、介 護 および子 弟
育 英 等 の資 金 に充 てるものとする」。即 ち使 用 対 象 ・使 途 などについてすべて細 々と規 定 さ
れている。
第 四 は全 体 解 決 方 式 であ る。本 件 和 解 は「いわゆる花 岡 事 件 について全 ての懸 案 の解
決 」を図 るものであり、原 告 を含 む受 難 者 およびその遺 族 が「花 岡 事 件 について、全 ての懸
案 が解 決 したことを確 認 し、今 後 日 本 国 内 はもとより、他 の国 および地 域 において一 切 の請
求 権を放 棄 することを含 むものである」との規 定 である。花 岡 裁 判 の原 告 は 11 名 であったが、
和 解 の対 象 、信 託 金 の支 給 対 象 者 は 11 名の原 告 ばかりではなく、986 名 被 害 者 全 員 である。
言 い換 えれば、この裁 判 に全 く参 与 しなかった被 害 者 も補 償 を受 ける権 利 があるが、逆 に和
解 の内 容に対 して不 満 をもっていても、新たに裁 判を引 き起 こすことができなくなる。
しかしながら花 岡 和 解 はすべての当 事 者 を満 足 させることはできなかった。中 国 人 強 制 連
行 ・強 制 労 働 の被 害 者 と鹿 島 建 設 の代 表 者 は和 解 を慶 ぶ握 手 さえしなかった。この意 味 で
言 えば、この和 解 は残 念 ながら「理 想 の和 解 」、「真 の和 解 」ではなかったと言 える。花 岡 和 解
を拒 否 する花 岡 事 件 の受 難 者 (生 存 者 と遺 族 )、花 岡 和 解 を批 判 する学 者 、弁 護 士 、市 民
運 動 家 らはそれぞれの立 場 から意 見 を言 っているが、それをまとめると、次 の通 りである。 ⑩
1)鹿 島 建 設 の法 的 責 任 を否 定 する和 解 は不 当 である。2)謝 罪 の意 を表 明 した「共 同 発 表 」
の文 言 は和 解 条 項 のなかに直 接 書 き入 れなかったため、その意 味 が低 くなってしまった。3)
第 5 条 は 986 名 分 の和 解 としているが、和 解 に参 加 していない者 のことまで取 り決 めてしまっ
ているのは、他 人 の権 利 (請 求 権 )を勝 手 に奪 うことは許 されず、法 的 効 果 は発 生 しない。4)
和 解 金 が低 すぎて、請 求 額 の十 分 の一に過 ぎない。韓 国 人 強 制 連 行 ・強 制 労 働 について一
人 当 たり 500 万 円 で和 解 しているのに ⑪ 、中 国 人 についてはなぜ低 い金 額 で我 慢 するのか。
反 対 意 見 は花 岡 和 解 の課 題 として残 され、後 に他 の類 似 事 件 を解 決 する際 、貴 重 な参 考
となった。花 岡 事 件 の被 害 者 と彼 らを支 援 している市 民 運 動 団 体 は、この和 解 の経 験 と教 訓
を総 括 した上 で第 二 次 世 界 大 戦 時 の遺 留 問 題 を早 期 に全 面 的 に解 決 するために、真 の和
解 に向 けて新 たな行 動 を引 き起 こした。
三 裁 判 上 の和 解 から心 の和 解 へ 2000 年 以 降 (第 4 期 )
通 常 は裁 判 上 の和 解 成 立 は「終 わり」を意 味 するが、花 岡 和 解 はこれから基 金 の運 営 を通
じて和 解 を具 体 的 に実 現 していかねばならない。同 和 解 プロセスの第 4期 は「心 の和 解 に向
けての努 力 」の時 期 と称 す。原 告 耿 諄 らをはじめとする被 害 者 が最 初 に出 した要 求 は、謝 罪 、
賠 償 金 の支 払 い、記 念 館 の建 立 であった。花 岡 和 解 の内 容 を見 ると、謝 罪 と賠 償 金 の支 払
2009 年 8 月 23 日 ~ 9 月 3 日 、 12 月 23 日 ~ 29 日 、 花 岡 事 件 被 害 者 現 地 調 査 の際 、生
存 者 ・遺 族 ・支 援 者 等 へのインタビューによる、中 国 華 北 各 省 市 現 地 にて。
⑪ 実 は 富 山 県 株 式 会 社 不 二 越 事 件 の 和 解 金 は 全 体 解 決 で は な く 、原 告 ら 関 係 者 9 名 の み
に対するものである。
⑩
- 74 -
いという要 求 はある程 度 、実 現 したが、記 念 館 の建 立 は全 然 手 つかずの状 態 であった。そこ
で日 本 の支 援 者 と中 国 の原 告 、特 に花 岡 平 和 友 好 基 金 運 営 委 員 会 は和 解 後 、いくつかの
新 しい事 業 を始 めた。
まず、慰 霊 事 業 として毎 年 、生 存 者 と遺 族 を中 心 とする訪 日 団 を中 国 から派 遣 することで
ある。被 害 者 が 986 名 もいて、その中 には自 分 のお父 さんがどこで死 んだのか、いつ死 んだ
のかを全 く知 らない人 もいる。彼 らを派 遣 し花 岡 の現 場 でお父 さんはこの地 で強 制 労 働 をさ
せられて死 亡 したことを本 人 に体 験 してもらうことが必 要 であるため、この事 業 が始 められた。
2001 年 から 2009 年 まで、SARSの時 期を除 いて、毎 年、数 十 人 規 模 の代 表 団(最 多 時 約
80 名)を派 遣 し、大 館 市 主 催 の慰 霊 祭 に参 加 させている。もちろん、慰 霊 祭 には中 国 紅 十 字
会 の主 要 メンバーや中 国 大 使 館 の代 表 が参 列 している。これが第 一 の事 業 である。生 存 者
や遺 族 が訪 日 中 、日 本 国 内 のその他 の戦 後 補 償 裁 判 と連 携 してデモ行 進 したり、内 閣 宛 に
請 願 書 を出 したりするほか、自 ら戦 後 平 和 国 家 として成 長 を成 し遂 げた日 本 社 会 の真 の姿 を
体 験 している。2009 年 8 月、日 中 友 好 宗 教 者 懇 話 会 及 び中 国 人 強 制 連 行 殉 難 者 合 同 慰
霊 実 行 委 員 会 が東 京 で「遺 骨 発 掘 六 十 周 年 世 界 平 和 祈 願 中 国 人 俘 虜 殉 難 者 慰 霊 大
法 要」を主 催、1953 年 に発 足 した中 国 人 俘 虜 受 難 者 慰 霊 実 行 委 員 会 の設 立 精 神 を受 け継
いだ。
第 2の事 業 は、受 難 者 (生 存 者 および遺 族 )の調 査 、補 償 金 および育 英 資 金 の引 き渡 しで
ある。2009 年 12 月 現 在、986 人 のうち 520 名 の受 難 者 を探 し出 すことができた。そのなかで
和 解 を受 け入 れる 479 名 の対 象 者 に所 定 の賠 償 金 (25 万 円 を円 で支 給 )と奨 学 援 助 金
(5000 元 を人 民 元 で支 給 )の交 付 が完 了 した。和 解 を拒 否 する対 象 者 が十 数 名 、親 近 者 の
いなかった対 象 者 が20数 名 もいた。居 場 所 が全 く分 からず、本 人 が生 存 しているかどうか、
遺 族 がどこにいるのかが分 からない者 も多 数 いる。 ⑫ しかし、中 国 紅 十 字 会 は力 を尽 くして
『中 国 青 年 報 』や山 東 省 ・河 北 省 ・河 南 省 ・山 西 省 ・安 徽 省 等 現 地 のマスコミやネットワークを
利 用 して情 報 を収 集 し、対 象 者 を探 している。公 益 的 機 関 のサポートがあるから、この位 の実
績を上 げることができたと言 える。
記 念 館 の建 立 については、和 解 金 と関 係 なく推 進 されている。花 岡 関 係 者 は北 京 近 郊 の
盧 溝 橋 にある抗 日 戦 争 記 念 館 の敷 地 内 か隣 に「花 岡 労 工 記 念 館 」を造 ってもらうため、中 国
政 府 や関 係 機 関 に働 きかけたが、結 局 、同 記 念 館 内 での展 示 のみが許 可 された。しかし、天
津 市 政 府 は 2006 年 4 月 に郊 外 の烈 士 陵 園 に新たに「在 日 殉 難 烈 士・労 工 記 念 館」を建 設、
1950 年 代 日 本 より送 還 された 2340 体の中 国 労 工 の遺 骨(花 岡 労 工 の遺 骨も含 む)を安 置 し
た。2008 年 11 月、遺 骨 送 還 55 周 年 記 念 式 典 は同 記 念 館 で盛 大 に挙 行 された。
他 方、大 館 市 には、現 地 の市 民 団 体が 2002 年6月 に NPO 法 人「花 岡 平 和 記 念 会」を設
立 して、花 岡 事 件 の常 設 資 料 展 示 場 の建 立 を目 指 して全 国 に寄 附 を呼 びかけた。その結 果 、
2009 年6月 までに約 3000 万 円の寄 附 が集まり、その中 で約 330 坪の土 地を確 保 し、「花 岡
平 和 記 念 館 」を 2009 年 11月に造 り、2010 年 4 月 に対 外 公 開 の予 定 である。 ⑬
四 花 岡 和 解 の要 因 と普 遍 性
⑫
⑬
花 岡 平 和 友 好 基 金 関 係 者 へのインタビュー記 録 、2009 年 12 月 25 日 、北 京 にて。
NPO 花 岡 平 和 記 念 会 川 田 繁 幸 理 事 長 へのインタビュー記 録 、2009 年 6 月 29 日 、大 館 にて。
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一 般 的 に和 解 と言 えば、裁 判 の中 で勝 訴 でもなければ敗 訴 でもない、引 き分 けをイメージ
する。しかし、花 岡 和 解 は、裁 判 で最 上 の方 策 としての勝 訴 はできそうもないから、次 善 の策
として和 解 しかないという発 想 からの「和 解 」ではない。花 岡 和 解 は、過 去 の戦 争 中 の不 幸 な
出 来 事 について、ある程 度 認 識 が一 致 し、戦 争 によって生 み出 した憎 悪 をなくしたうえで、被
害 者 と加 害 者 の双 方 が前 向 きに協 力 し、ともに明 るい未 来 を迎 えようという歴 史 の和 解 を意
味 する。筆 者 は裁 判 における勝 ち負 けの判 決 は新 たな恨 みや不 満 ひいては憎 悪 を招 く可 能
性 があり、判 決 による「心 の和 解 」の実 現 が難 しいと認 識 している。加 害 者 は被 害 者 の痛 みを
思 い知 ること、被 害 者 は加 害 者 に復 讐 ではなく寛 容 の心 をもつこと、そして常 に意 思 を疎 通 し
て前 向 きに努 力 することが、初 めて心 と心 の和 解 が可 能 になる。このような和 解 は理 想 的 な歴
史 和 解 で、ベストチョイスである。
花 岡 和 解 は理 想 的 でなくても画 期 的 と言 える。今 後 、歴 史 問 題 について国 家 間 または企
業 間 の交 渉 の際 、花 岡 和 解 が示 した知 恵 、例 えば、和 解 方 式 、和 解 による歴 史 問 題 の全 体
解 決 方 式 、信 託 または基 金 方 式 、公 益 機 関 の介 入 などから、あるヒントを得 ることができるか
もしれない。花 岡 和 解 が実 現 できた理 由 は二 つあり、その一 つは、日 本 の民 間 人 の私 心 なき
支 援 で、もう一 つは、鹿 島 建 設 のある程 度の良 心 的 な対 応 があったことである。
周 知 の通 り、戦 争 で犠 牲 になるのはいつも貧 しい階 層 の民 衆 である。強 制 連 行 ・強 制 労 働
に遭 った花 岡 の被 害 者 も例 外 ではない。悲 痛 な思 いで殺 害 された、または餓 死 ・病 死 した
418 名 の死 者 が、自 分 自 身 の苦 しみも悲 しみも怒 りも語 ることができないまま、死 んでしまった。
裁 判 で勝 訴 であれ、和 解 であれ、彼 らは自 分 の目 で償 いを確 かめることは当 然 できない。現
在、花 岡 和 解 が実 現 したといっても、亡 くなった 418 名 の被 害 者 はそれを見 ることはできない。
同 時 に、生 存 者 や遺 族 は、長 期 的 に肉 親 や友 人 を失った怨 みを飲 み込 んで、困 窮 の生 活を
続 けなければならない。華 北 農 村 出 身 の筆 者 は河 北 省 で農 村 調 査 をしている時 に、彼 らの
生 活 の貧 困 さを初 めて目 撃 したが、彼 らのほとんどは、余 剰 のお金 もなく、交 通 手 段 もなく、
法 で自 分 の身を守 るようとアドバイスしてくれる知 人 のつてもない。1994 年 12 月、強 制 連 行 さ
れた被 害 者 の家 族 から聞 いた言 葉 、「一 介 の農 民 である私 たちには(この問 題 を)追 及 する
能 力 がない」の一 句 は十 何 年 経 っても忘 れられなかった。 ⑭ こういう状 況 の中 では、彼 らに法
的 支 援 、経 済 的 な支 援 を行 わなければ、彼 らが自 分 の尊 厳 や名 誉 の回 復 のために自 ら裁 判
を起 こすことは勿 論 、ましてや外 国 で裁 判 を起 こすことはとうてい不 可 能 である。幸 いに、日 本
および中 国 には、強 制 連 行 の悲 劇 に遭 った家 族 の苦 しみや悲 しみを誠 実 に想 起 する人 や、
犠 牲 となった人 たち一 人 一 人 の不 幸 を心 に刻 むように思 い起 こす人 、犠 牲 者 の悲 しみ、怒 り、
悔 しさに思 い至 ることのできる人 が多 くいる。終 始 法 的 支 援 をしてきた弁 護 団 の弁 護 士 達 、 ⑮
市 民 運 動 、平 和 運 動 をしてきた「中 国 人 強 制 連 行 を考 える会 」の人 々、国 会 議 員 、大 館 市 の
市 民 と市 民 団 体 、在 日 の華 僑 ・華 人 たち、さらに宗 教 関 係 者 はこういう方 々にあたる。彼 らの
寺 北 柴 村 蘇 小 為 氏 へのインタビュー記 録 、1994 年 12 月 25 日 午 後 。三 谷 孝 編 『中 国 農 村 変
革 と家 族 ・村 落 ・国 家 ――華 北 農 村 調 査 の記 録 ――』所 収 、154 頁 、汲 古 書 院 、1999 年 。
⑮ 日 本 側 の弁 護 士 費 用 、その他 和 解 成 立 までに日 本 側 支 援 者 らが支 出 した実 費 (現 地 調
査 費 や被 害 者 の全ての費 用 等 を含 む)も一 切 和 解 金 から支 給 しなかった 。その理 由 は、これ
は歴 史 の問 題 であり、中 国 人 受 難 者 のためだけでなく、日 本 社 会 を変 える運 動 でもあるからであ
る。
⑭
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私 心 なき支 援 がなければ、花 岡 事 件 の裁 判と和 解 はできなかっただろう。
加 害 者 鹿 島 建 設 の対 応 も良 心 的 であった。戦 時 中 に日 本 企 業 が、いわゆるお国 のために
隣 人 にどのような被 害 を与 えてしまったのか、その事 実 を直 視 する勇 気 があるかどうかが最 近
問 われている。具 体 的 に言 えば、強 制 連 行 の被 害 者 、犠 牲 者 を思 いやり、彼 らの不 幸 を悲 し
む人 間 としての感 性 、モラルを持 っているかどうかが問 われている。この基 準 に照 らしてみると、
鹿 島 の対 応 は十 分 ではないが、他 社 に比 べてみれば、ある程 度 社 会 に対 して良 心 的 な対 応
をしていた。前 述 した通 り、鹿 島 は公 開 書 簡 提 出 の前 から、作 業 場 で血 を流 した被 害 者 に対
して深 い哀 悼 の気 持 ちをもっており、花 岡 事 件 は戦 時 中 に起 きた大 変 悲 惨 な出 来 事 であっ
て、こうしたものの解 決 が長 年の問 題 になっていたことも不 幸 なことであったと認 識 している。
鹿 島 建 設 は基 本 的 に、弁 護 士 の言 葉 を借 りて言 えば、法 的 な責 任 ではなく、道 義 的 な責
任 で対 応 してきた。1999 年、東 京 高 裁 より「和 解 による解 決」という職 権 勧 告 が来 たとき、彼 ら
は、それはやぶさかではない、と言 って、和 解 のテーブルにつくことにした。しかも、筆 者 が最
も立 派 だったと思 っているのは、鹿 島 建 設 が和 解 をずっとあきらめなかったことである。最 終 的
に和 解 に応 じた鹿 島 建 設 の決 断 を称 賛 するとの評 価 があるが、その最 終 決 断 の決 め手 は何
だったのかについては、東 京 高 裁 の新 村 正 人 裁 判 長 さえ「何 か非 常 に強 い、不 思 議 な力 が
働 いたとしか思 えない」と語 っている。 ⑯ 当 時 の議 事 録 を目 にすることはまだできていないが、
鹿 島 側 の弁 護 士 は筆 者 の質 問 に次 のように語 った。「長 い間 交 渉 して、会 社 としても努 力 し
てきたので、決 裂 ではなく、長 年 の懸 案 を解 決 したいという気 持 ちが強 かったのだと思 います。
企 業 にとっては、株 主 に対 して支 出 金 額 の根 拠 を充 分 に説 明 することが必 要 ですから、金 額
的 な開 きを調 整 することは大 変 でした。あまりに開 きが大 きく、和 解 が不 可 能 ではないかと思
ったことも一 時 はありましたが、和 解 をあきらめてしまったことはありませんでした。お互 いに理
解 できるというところまで歩 み寄 ることができました」と。 ⑰
しかし先 に述 べた通 り、花 岡 和 解 はすべての当 事 者 を満 足 させることはできなかった。和
解 直 後 、中 国 人 強 制 連 行 ・強 制 労 働 の被 害 者 から鹿 島 建 設 に対 する不 満 が噴 出 した。完
全 勝 訴 を確 信 している一 部 の被 害 者 は、「和 解 」という言 葉 を甘 美 の言 葉 として理 解 するので
はなく、むしろ裁 判 中 の「挫 折 」として受 け止 めている。そのため、リーダー格 の耿 諄 も含 む十
数 人 の被 害 者 が花 岡 和 解 を受 け入 れないことを宣 言 した。 ⑱ 現 在 、花 岡 和 解 のプロセス、
苦 難 に満 ちた道 程 、その歴 史 的 現 実 的 意 義 を十 分 理 解 せず、花 岡 和 解 を否 定 するジャー
ナリストや研 究 者 、原 告 を支 援 してきた市 民 運 動 の人 々まで批 判 する人 もいる。歴 史 和 解 の
難 しさは花 岡 和 解 を通 しても感 じ取 れる。
展 望 : 日 本 型 歴 史 和 解 のモデル
花 岡 和 解 は日 本 国 内 の現 行 法 制 の下 で前 例 を作 り上 げた開 拓 的 な試 みである。その後
⑯
東 京 高 等 裁 判 所 第 17 民 事 部 「裁 判 所 所 感 」 平 成 12年 11月 29 日 。
⑰
和 田 衛 弁 護 士 へのヒヤリング(聞 き手 :今 西 淳 子 ・李 恩 民 )、2001 年 4 月 20 日 、東 京 和 田 法
律 事 務 所 にて。
⑱
2009 年 9 月 1 日 、筆 者 が河 南 省 定 襄 県 に住 んでいる 95 歳 の 耿 諄 氏 へのインタビューの際 、
耿 氏 は和 解 後 の進 展 について評 価 したが、和 解 受 け入 れの姿 勢 は示 さなかった。
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の約 10 年 間、戦 時 中 の強 制 連 行 について被 害 者 と関 係 企 業 との和 解 が徐々に進 んでいる。
そのいずれも、花 岡 和 解 を基 本 モデルにした上 で、花 岡 和 解 の問 題 点 を洗 い出 し新 たな和
解を前 進 させたものである。ごく最 近 の出 来 事 、2009 年 10 月 の西 松 和 解を実 例 としてみてみ
よう。
西 松 和 解 は、戦 時 中 に強 制 連 行 され、過 酷 な労 働 を強 いられたとして中 国 人 元 労 工 らが
西 松 建 設 に損 害 賠 償 を求 めた訴 訟 に絡 み、同 社 は被 害 者 救 済 のための基 金 を設 立 するな
どの内 容 で和 解 したことを指 す。和 解 条 項 をみると、西 松 和 解 は花 岡 和 解 よりいくつかの点
で前 進 したものの、花 岡 和 解 をベースとしている。例 えば、謝 罪 について同 和 解 条 項 のなか
で、西 松 建 設 は強 制 連 行 の歴 史 的 事 実 を「事 実 として認 め」、企 業 としても「その歴 史 的 責
任 」を認 識 し、当 該 中 国 人 生 存 者 およびその遺 族 に対 して「深 甚 なる謝 罪 の意 」を表 明 した
(第 2 条)。その文 言 は花 岡 和 解 の基 礎 である「共 同 発 表 」の文 言から援 用 したものであるが、
花 岡 和 解 より一 歩 前 進 して和 解 条 項 のなかに直 接 書 き入 れた。
補 償 については、西 松 建 設 は受 難 者 360 名 分 の一 括 した和 解 金 として 2 億 5000 万 円 の
支 払 義 務 があることを確 認 した(第 4 条)。当 然 、この金 額 は受 難 者 全 員 に対する補 償 に加 え、
未 判 明 者 の調 査 費 用 、記 念 碑 の建 立 費 用 、受 難 者 の故 地 参 加 ・慰 霊 のための費 用 、その
受 難 にかかわる一 切 の費 用を含 むものとしている(第 4 条)。和 解 金 については、花 岡 は一 人
約 50 万 円 であったが、西 松 では約 70 万 円 となった。
受 難 者 が強 く望 んでいる記 念 施 設 については、和 解 条 項 は「後 世 の教 育 に資 するために」、
強 制 連 行 の事 実 を記 念 する碑 を建 立 し、その場 所 として強 制 労 働 の現 場 となった安 野 発 電
所 敷 地 内 を第 一 の候 補 地とした(第 3 条)。この点 は花 岡 和 解 時 に心の中 に秘 めていたが明
確 に掲 げられなかったことであった。なお、和 解 金 の運 営 については、花 岡 和 解 と全 く同 じ、
信 託 方 式 を採 用 した。西 松 建 設 は和 解 金 を社 団 法 人 自 由 人 権 協 会 に信 託 するが、同 協 会
はこの信 託 金を「西 松 安 野 友 好 基 金」として運 用 する(第 6~7 条 )。
以 上 の記 述 からわかるよう、花 岡 和 解 が実 現 してから約 10 年 、アジアでは、ドイツと違 った
歴 史 和 解 の姿 、即 ち「日 本 型 歴 史 和 解 」の姿 がようやく見 えるようになった。それを概 括 して
言 うと次 の通 りである。
(1)和 解 の要 素 : 謝 罪 の表 明 、記 念 碑 (館 )の建 立 、補 償 金 または賠 償 金 の受 難 者 全 員
への支 給 。この三 大 要 素 が備 えられるならば、受 難 者 は和 解を基 本 的 に前 向きに考 える。
(2)和 解の方 式:
A)信 託 方 式 ――和 解 金 は原 告 と被 告 あるいは被 害 者 と加 害 者 間 の直 接 支 払 いがなく、
公 益 機 関 (人 道 ・人 権 活 動 にかかわる公 益 機 関 )に信 託 するという方 式 を採 用 する。戦 時 中
に強 制 連 行 された人 のなかに、偽 名 を使 用 せざるを得 なった人 も存 在 し、連 絡 の取 れない人
も存 在 している。被 害 者 の居 住 地 や遺 族 の確 認 には相 当 な調 査 広 報 活 動 が必 要 である。和
解 解 決 は原 告 だけでなく全 員 の解 決 を目 指 す場 合 は、信 託 の法 理 をもって対 処 することが
最も法 的 には相 応 しいと考 える。 ⑲
B)基 金 方 式 ――公 益 機 関 は信 託 金 を「平 和 基 金 または友 好 基 金 」とし、運 営 委 員 会 を
⑲
「花 岡 事 件 補 償 問 題 解 決 のための要 請 」(中 国 紅 十 字 会 宛 新 美 隆 の手 紙 )、1999 年 9 月 21
日。
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設 置 して受 難 者 への支 払 い、遺 族 調 査 等 すべての事 業 に対 して責 任 をもって運 営 するとい
う方 式。
C)全 体 解 決 方 式 ――日 本 国 内 の現 行 法 のように和 解 金 は原 告 のみに適 用 されるので
はなく、受 難 者 全 員 (行 方 未 判 明 の者 も含 む)が対 象 者 となり、原 告 団 に加 えなくても一 括 し
てこの歴 史 遺 留 問 題 が解 決 される方 式。
D)民 間 方 式 ――政 府 の力 によらず、民 間 レベルの市 民 運 動 の強 力 の推 進 で和 解 を実
現 させる方 式。
日 本 はドイツに比 べ歴 史 的 責 任 認 識 が企 業 でも国 会 でも遅 れているため、人 々は歴 史 和
解 を論 じる時 は、いつもドイツ方 式 、即 ちドイツと周 辺 諸 国 、特 にフランスとの歴 史 和 解 方 式
に照 らして日 本 の対 応 を批 判 する。戦 時 中 、日 本 の同 盟 国 だったドイツの企 業 は日 本 の企
業 と同 様 、外 国 人 労 働 者 の強 制 連 行 と使 役 に加 わったが、和 解 に向 けての作 業 もやはり企
業 から始まった。1988 年、自 動 車 のベンツ社(Daimler Benz)が社 史 編 纂を機 に被 害 者 への
補 償 を行 い記 念 彫 刻 も設 置 した。2000 年、統 一 後 のドイツは戦 時 中 の国 家と企 業 の両 者の
政 治 的 ・道 義 的 責 任 を認 め、歴 史 遺 留 問 題 を全 面 的 に解 決 し、近 隣 諸 国 との歴 史 和 解 を
図 るため、政 府 と企 業 折 半(合 計 100 億 マルク)で記 憶 ・責 任・未 来 財 団を設 立 した。2006 年
までに、ドイツは世 界の 98 ヶ国に居 住 する生 存 者 の被 害 者 166 万 5690 人 に約 6500 億 円
の補 償 金を支 払った。
筆 者 から見 れば、ドイツ方 式 の特 徴 を次 の通 りまとめることができる。1)責 任 の認 識 につい
て:法 的 責 任 は認 めていないが、「犠 牲 者 への政 治 的 、道 義 的 責 任 があること」を承 認 してい
ること(記 憶 ・責 任・未 来 財 団 設 立 法 前 文)。2)政 府と 5000 の企 業が共 同 で同 財 団 の資 金を
拠 出 する。財 団 設 立 法 には「ドイツ企 業 はナチ時 代 の奴 隷 労 働 の不 正 義 に加 わった歴 史 的
責 任 があり、正 義 を実 現 しなければならないことを承 認 する」と、企 業 の姿 勢 は鮮 明 に出 して
あること。3)被 害 者 に対 して支 払 う補 償 金 は一 人 平 均 60 万 円 位 とするが、1999 年 2 月 16
日 にドイツ政 府 が財 団 法 を設 立 させると閣 議 決 定 し、シュレダー首 相 が記 者 会 見 で声 明 を発
表 した日 に生 存 していた受 難 者 に限 ること。4)民 間 レベルの研 究 によって長 きにわたって対
立 していたドイツとフランスとの共 通 歴 史 教 科 書 の作 成 を経 て本 格 的 な国 境 を越 える歴 史 教
科 書 『ヨーロッパ共 通 歴 史 教 科 書 』の作 成 を試 みること。但 しそのなかで国 家 を超 えた歴 史 理
解 の共 通 性 を強 調 するだけでなく、その差 異 が持 つ意 味 の理 解 を教 育 目 標 の一 つに据 える
こと。 ⑳
上 記 のドイツ方 式 に比 べて花 岡 和 解 をはじめとする日 本 型 歴 史 和 解 は異 なるところはかな
りあるが、遜 色 はない。特 に補 償 対 象 についてである。ドイツ方 式 では、1200 万 人 以 上 にも及
ぶと言 われる強 制 労 働 の受 難 者 の内 、生 存 者 だけ(167 万 人 弱 、受 難 者 の 13.9%)が補 償
の対 象 であり、1999 年 2 月 16 日 までに亡 くなった受 難 者 には、彼 らの遺 族 も含 めて一 切 の
補 償 金 は得 られない。花 岡 和 解 や西 松 和 解 といった日 本 型 歴 史 和 解 は、ドイツ方 式 と違 い、
生 存 者 は勿 論 、亡 くなった受 難 者 の遺 族 全 員 に補 償 が可 能 な全 体 的 な解 決 を目 指 した。ド
⑳
まとめに当 たってドイツユダヤ人 中 央 協 議 会 、ゲ オ ル ク ・ エ ッ カ ー ト 研 究 所 、 フ ラ ン ス 国
立 図 書 館 ( BnF) から貴 重 な資 料 の提 供 、ベルリン在 住 ジャーナリスト梶 村 太 一 郎 氏 からのご教
示 を頂 いた。
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イツ方 式 に比 べ、日 本 型 歴 史 和 解 は受 難 者 への配 慮 がはるかに深 く、しかも将 来 にわたって
補 償 が履 行 できる優 れた方 式 である。受 難 者 の 9 割 が既 に亡くなっている現 状 から、遺 族も
補 償 し、歴 史 の公 道 の実 現 を将 来 にわたって可 能 にしたのである。これは前 例 のない画 期 的
方 式 である。
現 在 世 界 各 地 において中 国 人 ・韓 国 人 等 による日 本 政 府 や日 系 企 業 に対 して戦 後 補 償
を求 める訴 訟 が絶 えず起 こっている。日 本 国 内 においても、花 岡 事 件 に類 似 した戦 時 強 制
連 行 ・強 制 労 働 訴 訟 、例 えば「中 国 人 強 制 連 行 北 海 道 訴 訟 」「対 国 ・三 菱 鉱 山 中 国 人 被 爆
者・遺 族 損 害 賠 償 請 求 訴 訟」「中 国 人 強 制 連 行 謝 罪 補 償 請 求 七 尾 訴 訟 」など 14 件 以 上あ
り、全 体 解 決 の場 合 は数 万 人 規 模 となる。この問 題 を含 む戦 後 補 償 問 題 の全 面 解 決 にはや
はり政 府 の力 が欠 かせない。被 害 者 と加 害 者 、政 府 と民 間 を共 に巻 き込 んだ全 面 的 な和 解
がなされなければ、国 家 間 、国 民 間 の心 と心 の通 じ合 う和 解 が不 可 能 である。この意 味 で言
えば、日 本 政 府 と企 業 はドイツ方 式 に学 び、政 治 的 ・道 義 的 責 任 において戦 後 補 償 問 題 の
全 体 解 決 を目 指 し、しかるべき補 償 を行 うことに期 待 する。
主 な参 考 史 料 分 類
(1)外 務 省 外 交 史 料 館 、外 交 部 外 交 档 案 館 、東 京 華 僑 総 会 等 所 蔵 の強 制 連 行 と強 制 労 働 、
受 難 者 の遺 骨 送 還 に関 する外 交 文 書
(2)中 国 人 強 制 連 行 、花 岡 事 件 の史 的 研 究 や花 岡 和 解 に尽 力 した「中 国 人 強 制 連 行 を考
える会 」「花 岡 事 件 を記 録 する会 」をはじめとする市 民 団 体 、慈 善 団 体 刊 行 ・保 存 の原 資 料
(3)山 東 省 ・河 北 省 ・河 南 省 の農 村 で生 存 者 ・遺 族 を対 象 に実 施 した聞 き書 き史 料 とアンケ
ート調 査 記 録
(4)受 難 者 の遺 骨 を納 める在 日 殉 難 烈 士 ・労 工 記 念 館 、大 量 の史 料 を展 示 する抗 日 戦 争
記 念 館 所 蔵 の一 次 資 料
(5)花 岡 平 和 友 好 基 金 や中 国 紅 十 字 会 本 部 責 任 者 に対 するヒヤリング記 録
(6)大 館 現 地 で花 岡 和 解 を推 し進 めた「NPO 花 岡 記 念 会 」、「日 中 不 再 戦 友 好 碑 をまもる
会」等 団 体 責 任 者 に対 して行 われたインタビューの記 録
(7)加 害 企 業 である鹿 島 建 設 側 の交 渉 担 当 副 社 長・弁 護 士 へのヒヤリング記 録
(8)日 中 歴 史 和 解 に携 わる国 会 議 員 へのインタビュー記 録
(9)ドイツ・フランス歴 史 和 解 に関 する資 料
(本 研 究 は財 団 法 人 JFE21世 紀 財 団 の助 成 を得 て行 われたものである。ここに記 して深 甚 な
る感 謝を申 し上 げたい)
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