ヨハネ福音書6章35~40節

主 日集会 2014.6.15
(2)あなたがたはわたしを見ながら信じようとしないと、わたしはあなたがたに言いました(36節)
いのちのパンであるイエス
30節で、不信のユダヤ人たちは、目で見て信じられるように、と主にしるしを求めた。ところがイエスは、前に
ふくい んしよ
も語ったとおり、最大のしるしであるご自身をすでに見ているのに信じていないではないか、と言われた。神の御
ヨハネ福音書6:35-40
い
く
もの
けつ
う
6:35 イエスは言われた。「わたしがいのちのパンです。わたしに来る者は決して飢えること
しん
もの
けつ
かわ
がなく、わたしを信じる者はどんなときにも、決して渇くことがありません。
み
しん
い
6:36 しかし、あなたがたはわたしを見ながら信じようとしないと、わたしはあなたがたに言
いました。
ちち
あた
もの
もの
けつ
す
くだ
き
じ ぶん
おこな
つか
6:38 わたしが天から下って来たのは、自分のこころを 行 うためではなく、わたしを遣わし
ほう
おこな
た方のみこころを 行 うためです。
つか
ほう
あた
お
ひ
ちち
こ
み
しん
もの
えいえん
も
6:40 事実、わたしの父のみこころは、子を見て信じる者がみな永遠のいのちを持つことで
ひと
お
ひ
す。わたしはその人たちをひとりひとり終わりの日によみがえらせます。」
Said
to them
evme.
ouv mh.
me
by no means
-
Jesus:
I
am
peina,sh|( kai.
hungers,
o`
the
bread
-
しかし、恵みのゆえに、神は身をかがめて、おびただしい人類の中から1人ひとりを救い出して下さる。聖書は、
神が救いに選ばれた人々がいる、と教えるのと同様に、福音を受け入れるかどうかは人間の責任である、とも教え
けい よ
かたよ
しりぞ
o`
of life: the〔one〕
in
である。すべての人は自らの罪深さと悪のゆえに有罪宣告を受けている。仮にすべての人が地獄へ行ったとしても、
を救われることはない。人は悔い改めと信仰をもって主のもとに来なければならない。そうするときに、神は救っ
pisteu,wn eivj evme. ouv mh.
and the〔one〕 believing
うに選ばれた人がいる、とは、聖書は1度たりとも教えていない。もし、だれかが救いにあずかるなら、それは神の
ている。もし、主イエスを信じるなら、その人は救われる、という恵与に 偏 りはない。神が本人の意志に反して人
(6:35)ギリシャ語・英語/行間訳
ei=pen auvtoi/j o` VIhsou/j( VEgw, eivmi o` a;rtoj th/j zwh/j¥
け入れなければならない。神は確かに、ある人々を救いのために選んでおられる。しかし、神のさばきを受けるよ
それはふさわしい報いを受けているにすぎない。
がひとりも 失 うことなく、ひとりひとりを終わりの日によみがえらせることです。
じ じつ
リストにお与えになった人々は「みな」救われる、ということである。
恵みのゆえにほかならない。しかし、もしだれかが永遠の滅びに遭うなら、それは本人の責任である、ということ
もの
6:39 わたしを遣わした方のみこころは、わたしに与えてくださったすべての者を、わたし
うしな
(3)父がわたしにお与えになる者はみな、わたしのところに来ます。そしてわたしのところに来る者
を、わたしは決して捨てません(37節)
もう1つは、人間の責任についての教えである。救われるためには、主イエスのもとに来て、信仰によって主を受
ろに来る者を、わたしは決して捨てません。
てん
か疑わしい。
この節は非常に重要である。聖書の中でも最も大切な2つの教えがその中に述べられている。その第1は、神がキ
き
6:37 父がわたしにお与えになる者はみな、わたしのところに来ます。そしてわたしのとこ
く
子が完全な人間の姿をとって目の前に立っているのに、それに気がつかないなら、どのようなしるしで納得できる
evrco,menoj pro,j
coming
to
diyh,sei pw,pote)
me by no means will thirst
never.
てくださるのである。キリストを通して神のもとに来る人で、 退 けられる人はひとりもいない。
(4)わたしが天から下って来たのは、自分のこころを行うためではなく、わたしを遣わした方のみこ
ころを行うためです(38節)
37節で、ご自身に託された人々の救いにかかわる神のご計画のすべては、やがて成就する、と主イエスは言われ
た。これが御父のみこころであるがゆえに、それを実現するために主が自らかかわられる。神のみこころを行うこ
【祈りながら考えよう】
(1)
「イエスが与えるいのちのパン」と「イエスがいのちのパンである」とはどう違いますか。
(2)父がわたしにお与えになる者を「わたしは決して捨てません」とはどういう意味ですか。
(3)39節の「終わりの日」とはいつのことを指していますか。
【解
説】
(1)イエスは言われた。「わたしがいのちのパンです。わたしに来る者は決して飢えることがなく、わ
たしを信じる者はどんなときにも、決して渇くことがありません(35節)
主が、「わたしの父は、あなたがたに天からのまことのパンをお与えになります」と言われると、ユダヤ人たちは
「主よ。いつもそのパンを私たちにお与えください」言った。それに対して、主は「わたしがいのちのパンです」
と答えられた。ここで「わたしが与えるパン」と言うのでなく「わたしがいのちのパンそのものである」と言われ
た。これは重要である。
「いのちを与える食物」というのは、イエス・キリストが持っておられるものなのではなく、
「イエス・キリストご自身」なのである。
それに続くみことばで「わたしに来る者は決して飢えることがなく、わたしを信じる者はどんなときにも、決し
て渇くことがありません」と言われました。このみことばの「来ること」と「信じること」は、ほとんど同一のこ
とが主の使命だからである。御父の「みこころ」を果たすために、主は進んでしもべの立場を取られた。とは言っ
ても、主がご自分の意志を持たなかった、という意味ではなく、むしろ、主のみこころが神のみこころと完全に一
致していた、ということである。
(5)わたしを遣わした方のみこころは、わたしに与えてくださったすべての者を、わたしがひとりも
失うことなく、ひとりひとりを終わりの日によみがえらせることです(39節)
御父の「みこころ」は、義人の復活の時まで、キリストにゆだねられた人がひとり残らず救われ、保たれ、その
時が到来したら、よみがえらせられて、天の住まいに連れて行かれることである。「ひとりも失うことなく、ひとり
ひとりを」というのは信者のことである。ここでは主は、個々の信者というより、その時までの長い期間にわたっ
て救われるクリスチャン全体のこと考えておられる。主イエスは、責任をもって、その集団に属する人が「終わり
の日」によみがえらせられるように見届けてくださる。
クリスチャンに関して言えば、「終わりの日」とは、主イエスが空中にまで来られ、キリストにある死者がまずよ
みがえり、生きている信者の姿が変えられ、すべての者たちが引き上げられて空中で主と会い、永遠に主とともに
いるようになる「日」のことを指す。ユダヤ人にとって「終わりの日」とは、栄光のうちにメシヤが来臨する日の
ことを意味していた。
とを示している。キリストのもとに「来る」とは、キリストを「信じる」ことであり、キリストを「信じる」こと
(6)事実、わたしの父のみこころは、子を見て信じる者がみな永遠のいのちを持つことです。わたし
はその人たちをひとりひとり終わりの日によみがえらせます。」(40節)
は、キリストのもとに「来る」ことである。どちらも、魂のすることであり、自らの罪と欠乏を自覚して、「キリス
父なる神の「みこころ」は、御子を「見て信じる者が」ひとり残らず、永遠のいのちを持つことである。
「子を見
トにすがり、自らをキリストにゆだねる」ということを示している。
て」とあるのは、「肉眼で」というよりむしろ「信仰の目で」という意味である。イエス・キリストを見て、イエス
キリストによることなしに、私たちの魂の飢え渇きがいやされることはない。キリストこそ、私たちにいのちを
・キリストが神の御子であり世の救い主であることを認識する必要がある。その上で、イエス・キリストを信じな
与え、私たちに本当の生きがいを与え、私たちの人生を生き生きしたものにしてくださる。この節のギリシャ語原
ければならない。これは、はっきりとした信仰の行為によって自分の救い主として主イエスを受け入れることを意
文では「エゴー・エイミー/わたしはある(I am)」と書かれており、主が旧約聖書の「主(ヤハウェ)」と等しい
味する。こうする人はすべて「永遠のいのち」を今、所有する者となり、「終わりの日」によみがえりにあずかる確
お方である、という主張がなされていることに注意したい。
証をいただくのである。
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