「二つの故郷(ふるさと)」 清水千弘・(空・父) 「ふるさとの山に向ひて 言ふことなし ふるさとの山はありがたきかな」。石川啄木の詩です。 この詩は,中学の卒業式で,代表として答辞を述べた時の出だしです。私は,岐阜県の山間(やま あい)にある不破郡(現・大垣市)赤坂町で生まれました。赤坂はとても小さな街ですが,江戸時代 には中山道の宿場街として栄え,陣屋跡なども残る歴史の面影を多く残す風情ある所です。東京 の赤坂という町の名前の由来も,この街から来ています。そして,西に伊吹山を,街の中には金 生山(かなぶやま)という小高い山と勝山とよばれる丘がありました。夏には蛍が舞う杭瀬川が流 れています。そんな山を駆け回り,伊吹山に沈む夕陽を見て,杭瀬川で釣りをして育ちました。 実は,私には,もうひとつの名古屋という故郷があります。私が生まれて一ヶ月後に,兄が交通事 故に遭いました。そして,彼は,数年間を病院で過ごすことを余儀なくされました。そのため,兄の 事故直後に,私は母の姉夫婦に預けられたのです。子供がいなかった母の姉夫婦は,私を本当 に可愛がってくれました。最初の誕生日も,そして,その後の数年間をも,その家で過ごしました。 その家からは,港が近かったこともあり,いつも父と釣りに出かけていました。 そして,私は,兄の退院とともに,赤坂の街に戻ることとなりました。その時には,自分の父母と引 き離されると思い泣きわめき,母も涙を流していたことを鮮明に覚えています。 しかし,私が小学校中学年になった頃には,一人で電車とバスを乗り継ぎ,幼少の頃の父母をた びたび訪ねるようになりました。その父母を石田のお父さん,お母さん(母の姉夫婦は石田という 姓でした)と呼び,二人の父と二人の母,そして,二つの故郷を持つこととなったのです。 そして,大学の進学とともに二つの故郷を離れ,今,四半世紀が過ぎようとしています。 私の中学校の卒業式での答辞は,次のように締めくくられています。 室生犀星の詩を引用し,「『ふるさとは遠きにありて思ふもの』。私たちは,中学を卒業し,それぞ れの道を歩み始めます。この街を去り,どのような苦難にぶつかっても,この故郷の山々や川の せせらぎは,いつまでも温かく私達を包み,そして心の支えとなってくれるでしょう」と。 皆さんも,これからバンクーバーに残る方,去る方様々です。しかし,バンクーバーは,皆さんの唯 一の,または二つ目の故郷となり,心の奥深くに刻み込まれることと思います。そして,いつか苦 難にぶつかっても,遠くから故郷としてのバンクーバーを想い,バンクーバーの「山々」に温かく包 み込まれた日のことを,「ありがたき」と思うことがあるものと思います。 そして,この「山々」とは,ひとつの象徴に過ぎず,実は,今の時間をともに過ごしている両親,兄 弟姉妹,恩師,友達であり,それらの温かさであると言うことに,いつか気がつくことと思います。
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