Title 甲武鉄道の開通 Author(s) 佐藤, 正広 Citation - HERMES-IR

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Type
甲武鉄道の開通
佐藤, 正広
国分寺市史, 下巻: 481-536
1991-03
Book
Text Version publisher
URL
http://hdl.handle.net/10086/17717
Right
Hitotsubashi University Repository
第 八華
都 市 化 のは じ ま り と 鉄 道
甲 武 鉄 道 の 開 通
第 l節
第 五章 でも見 たと おり' 国分寺 を含 む北 多 摩 地方 あ る いは三多 摩 地方 は、今 日 で こ そ 東 京 の郊 外 の いわば第 二 の山 の手 と し
て' 住 民 も多 く そ の所得 も大 き いが' 明治期 には東 京東 郊 の水 田地帯 に- ら べ て、 畑作中 心 の比儀 的貧 し い純農 村 であ った。 こ
の北多摩 地方 の経済 的 地位 が 上昇 す る にあ た って は'第 1に明治 二十年 代 から三十年 代 にかけ て本格化 す る養 蚕業 の導 入' 第 二
に昭和堅 剛期 にそ の動 きが みられ るよう にな り'・
今 日 に至 っても続 いて いる都 市化 と のふた つの要 因が作用 し て いる。特 に第 二
の要 因 は時代 を下 る ほど強 -作 用 し て いる。関東 大震 災後 に都 人 士が別荘 地 と し て転 入 した のが はじ めであ るぶ、 昭和 戦 前 期 で
は軍需 工場 の進 出 ととも にそ の工場 に つと める人 々が住 む よう にな った。 さ ら に戦後 の高度 経済 成長期 には急速 に ベ ッドタウ ツ
化 が進 んで' 以前 の農 村 のおも かげ を ほと んど失 う こと にな った。 いま こ の点 に ついてみ てお- と' 昭和 六十 三年 (一九 八 八)
一月 1日現在' 国分寺 市民 でど こか に通 勤 ・通 学 し てL
いる者 が 五万 六六 八四人 いるが' こ のう ち七 四 パ ー セ ント に当 だ る四万 二
\
..
〇〇九 人が 国分寺市外 へ通 って いる。中 でも都 心部 に通 う者 が多く'千代 田 ・新 宿 ・中 央 ・港 ・渋谷 の五区 で 一
.
万 三 八 一六人'
二四 パ ー セ ント に達 す る。
明治 の人 々の行動 圏
本 文 では 「
都 市化」 と いう ことば を'都 市 への通勤者が多 く居 住す るよう にな 各 ことも含 めて理解 し て いるO こ のこと は、 国分寺 に住む
人 々の活動 す る地域的 ひ ろが りが、 明治期 に- らべ拡大 して いる ことを意味す る。 (
佐藤 正広 「明治 ﹃
近 代﹄ 法制 の導入 と 伝統 的農 村慣習
第 一節 都市化 のはじまりと鉄道
第 八華 甲武鉄道 の開通
四 八二
汰 - 家 産所 有 と家 長権 の事 例研究-」 ﹃
社会経済 史 学﹄ 第 50巻第1号) は' 明治 十年代 の神奈 川県 下 の 1箇 相 を例 にと り'当 時 の村 人 の行
動範 囲と意 識 のあ り かたを分析 し て いるが' それ によれば' 当時 村人 の九割 以上が' 居 村 を中 心と し て半 径 五 キ ロメート ル程度 の人 々が、
互 いに顔 見知 った地域内 で商 取引 や 日常 .Q用が足 りてしま い、 取引 にさ いしては 口約束 が交 わされ る のみ であ った. しかし' 江 戸期 に村役
人を つと めた人 々を中 心と す る層 では' 数 十 力村単位 (これ は江戸期 の村組 合 に匹敵 す る地域 的広が り であ る) で人的 交流 が あ り' 文書 に
ょる契 約が自 然 にお こな われ て いた。 また明治 二十年 代 の富 山県 のあ る知識 人 は' イギ リ ス古典経済 学 で用 い ら れ る国民 国家 の意味 で の
「国」 を' ほと んど 無意 識 のう ち に 「越
佐藤 正広 「明治 期 地方 知識 人 の経済 思想- 加 工統 計」 越 中生 産 への推
∫中 の周」 と読 み替 え て いた (
計方 法 と精度 の検 討 ﹃一橋論叢﹄第 98巻第3号)。 こ のよう に明治期 の人 々が' な んらか の形 で帰属意識 を持 つ 「地域」 の空間的 ひ ろが り
㌔
は' 社 会階 層 により' ま た局 面 により異 な って いる。 本章 でと りあげ る 「地方名望家」 のは あ いは' さ まざ ま な判 断を下す にあ た っては肝
村組 合 な いし郡 程度 の地域 が想定 され て いる ことが多 いが' 居 村と他 村 と の利害が 対立す るよう な局 面 では' 居村 の利害 の代 弁者 と し て の
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性格 が前 面 に出 て- る こと にな る。 これ ら の問題 に ついて は第 二章 政治過 程 の分析 を参照 され た い。
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こう した都市化 の進行 にあ た ってt.
大 き な役割 を果 た した のが'今 日 の中央線 であ る。開 通当 時 は甲武鉄道' そ の後 院線、省
線' 国鉄tlR線 と ひんぽ んに名 を変 えた この鉄道 は'物 ・人 をとわず大 量輸 送機関 と し て' 三多摩 地方 と東京 とを直結 す る大
動脈 であ る。 こ の鉄道 の開 通 によ って'北 多摩 と東京 と の間 の物資 の流 通 は大 いに促 され'生産物 の販路も開 け た のであ るLt
東京 への通勤者 が定住 す る ことも 可能 にな った。 ここで旅客輸送 に着 目 Lt中 央線 沿線 各駅 の乗降客数 の変化 をみ ると' 図 1 の
よう にな るO この国 では中央線 各駅 の中 から中野'吉祥寺' 境' 国分寺 '立 川 の五駅 をと ってあ る. この図 から' ご- おおま か
に次 のよう な i
Jとを読 みと る ことが でき よう。
第 一に'全部 の駅 に共通 の点 と し て'大 正 から昭和十 六年 (一九 四 一) にかけ て乗降客数 が増 加 し'第 二次大戦 を はさ んだ昭
和 二十 四年 (一九 四九) には激減' そ の後 ふたたび増 加 に転 じ て いる。中 でも立川 は、戦争前後 で落 ち こみが大 き い。 これ は飛
行第 五連隊 の存在 や飛行機会社 を はじ めとす る軍需産業 が集中 し ており' これが 敗戦 によ って 一挙 に存 在 しな- な っ七と いう事
情 によるも のだ ろう。
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中央線主要駅 の年 間乗降客数 の変化
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昭
明治4
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年 『
帝国鉄道庁統計図表』(鉄道庁)
大正 4年 『
鉄道院統計図表』(
鉄道院)
昭和 1,11
年 『
鉄道統計資料』(
鉄道省)
昭和2
4
年 『
鉄道統計年鑑』(日本国有鉄道)
昭和 1
6
年 『
鉄道統計』(
鉄道省)
注 1 乗降客合計値であ り。連絡私鉄利用客を省いた。
2、
,
通過数を含まない。
3 定期券に よる旅客を含 まない。
第 7節 都 市化 のはじまりと鉄道
す大き な要 因 のひと つにな ったと考 えられ るが、戦前 の段階 では'乗降客 数 の水準 にみるかぎ り'中野 にははるかに及ば な い.
が深 か った。 これ に対 し'立川 ま で の区間が電化 され た のは昭和 五年 であ った。.
電車 の運転 の開始 は'北多摩 地方 の都市化 を促
中野 は明治 三十 七年 (1九〇 四)電 車が ひんぽ ん に運行 され るよう にな った際 の終点 であ り'東 京市 と の人的 ・物的交流関係
三十年代 を経 て中 野と近 い水準 にま で達 して いる。
第 二 に' やや細 かなうごき に注 目す ると'中 野へ吉祥寺 に- ら べ' 境以 西 の各 駅 の方 が相対的 に戦後 の伸 び率 は大きく' 昭和
人o
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第 八章 甲武鉄道 の開通
四 八四
国分寺 村 の人 口を み ても' 急 速 な伸 び はほぼ 昭和 三十年 代 以降 に見 られ るよ_
ぅ にな る のであ りT 駅 の乗降客 数 の変 化 とあ わ せて
み るな らば ' 市 域外 への通勤 通学者 を中 心 と した人 々が' こ の時 期 以降 に急増 し たと見 る ことが でき るだ ろう。
こと にし た い。
こ のJ
i.う に中 央線 は国分寺 を含 む北多 摩 地方 の都 市化 に深 Y か かわ って いると考 え られ る。本章 で は' こ.
の鉄道 が敷設 され た
際 の いき さ つに ついて検討 したう え で' そ の開 通 が 地域 経済 に及ぼ した影響 に ついても' 可能 な限 り見 て い-
第 二節
全国的 規模 で の地域 再編
明治 期 のす 本 の経 済 と 鉄 道
国分寺 村 を めぐ って第 1節 でみた よう な現象 は'実 は明治以降、全 国的 な規模 で進行 し て いた日本
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経済 の' 地域構造 の再編 成 の過 程 のご- 一部 分 であ る。 したが って、 三多摩 地方 の事 例を考 え てみるた めには'当時' 全国的規
模 ではど のような過程が進行 して いた かと いう点 に ついて鳥撤 Lt そ の中 に三多 摩 の例 を位 置づ け てみなく てはならな い。
東京 への 一極集中 へと形 を変 えなが らも-
さ て' ここにいう経済 構造 の再編 と は'極 めておおづ かみ に いう なら' 日本海 側 と太平洋側 と の経済的 地位 の逆転 と いう こと
であ る。 この傾向 は東京が首都 とな った明治以降 にはじまり'今 日 に至 るま で
ひき つづ いて存 在 して いる。
ここで、 ひと つの例 をと ってみる こと にしよう。 いま..明治 二十 一年 と二十 三年 卦とり' 二十 三年 以降 に つ い て は十年 おき
に'府 県ご と にそ の府 県 に本社 を置-会社 の払込済資 本金額 をと って' そ の全 国合計値 に対 す る割 合 の大き い順 に'第 一位 から
国中黒点)
' 九位 から十 六位 溝 で .
(国中斜線) の府 県 を
四十 七位 ま で の順位 を つけ るとす る。 そ のう ち図2 で仮 に第 八位 ま で (
合名' 合資 など の会社制度 が整 備 され ておら
み る こと にす る。明治 二十 一' 二十 三 の両年 次 は商 法施行前 であ るから' 株式t.
ず、 1
1
1
+ 三年 以降 と直 接 の比較 はでき な いわけ であ るが' それ でもな お' 全体 を通 じ て次 のような明ら かな特徴 が認 \
旬られ る。
第 一に'東京 及び京阪神 の地位 の高 さ は' 全期間通 じ て変 わらな い。 これ に北海道 を加 え ても よ いだ ろう。北海道 は明治 以降
開発 の本格化 した 「
植 民地」 であ り'新 天地 を求 めて1 本 土 から大 量 の資 本金 が流 入 したと考 えられ る.
第 二 に' 八位 ま でにあげ た地域 に次ぐ地域 を みると' かな り大幅 な府 県 の入れ替 わりが みられ る。 まず明沿 二十年代 は秋 田'
山形'新潟' 石川 など北陸以北 の日本海 側 の県が高 い位 置 を占 める のに、 明治末 から大 正以降.
になると' こ の中 で残 る のは石油
産業 のあ った新 潟だけ で'他 は のき な み地位 を低下 さ せて いる。富 山県 は こ の中 では例外的 に明治 三十年代 以降 地値 を上昇 さ せ
明治期 の日本 の経済と鉄道
るが' これ は同県が このころから'従来 の稲作 を中 心とす るも のから水力発電 へと産業構造 の転換 を はかり' これが当時進行 し
第 二節
淑 <樹 計省議贈 Q監頗
払込資本金順位
匿…
詔 1-8位
医書
国 9-1
6
位
(
警鮎
暮雲 l合名)
図 2 府県別 にみた払込済資 本金額 の順位
つつあ った日本経済 全体 の工業化 からく る需 要 にみあ った結果 とみられ る。
これ に対 し'太平洋 側 では明治 三十年 代 に神 奈 川、 明治 四十年 代 には愛知が全 国 のト ップ ク ラ スに入り' 両県 にはさまれ た静
岡 の地位 も明治 三十年 以降高 ま って いる。 ま た福 岡と大阪 にはさまれ た山陽 地方 が, 明治末 期以降 そ の地位 を上昇 さ せて いる か
も 目 に つく 。
このよう にし て'大 ま か にみ るなち 明治 四十年代 ご ろ には'京 浜'中 京' 京阪神 、北 九州 と いう経済 の四大中 心地域 と' それ
ら にはさまれ た太平洋側 ならび に瀬 戸内海 沿岸 地域 の経済 的 地位 の上昇 と' これ と反 対 に北陸' 奥 羽地方 を中 心とす る日本海 側
諸 地域 の地盤沈 下 とが.L貯瞭 にな って- る のであ る。 ちなみ に' 聞く と ころによれば'富 山県 で 「
裏 日本」 と いう語 が公然 と用
鉄道輸送 の革 命的性格-
前 項 にみたよう な 日本経済 の地域構造 再編 と関連 し て' そ の大き な要 因 のひ
いられ はじ める のは' 明治 三十年代半ば からだと いう。
舟運から 鉄道 へ-
i)つ七考 えられ る のが' 大 量輸送手段 の和船 による河川及 び海 上輸送 から' 鉄道 による陸 上輸送 への転換 であ る。前節 でと りあ
げ た図2で'時代 をさ か のぼ るほど資 本蓄 積 の水準 が相対的 に高 か った尭 域 は'江 戸期 以来 の西廻航路 の航 路 にあ たる地域 と は
ば 一致 して いる。西廻航路 と は'大阪 から瀬 戸内海 ' 下関 を経 て日本海 に出' 日本海側 のいく つか の港 を寄港 地 と しなが ら松前
小木'新潟' 酒 田'秋 田丁能代、 函館 な どがあ る。 これ ら の寄港 地 にはtL
問屋 そ の他 の商人が集 まり'取引 も満
㌔発 に行 わ
(
北海道) に至 る'江 戸時代 の日本 の交通 の 一大 動脈 であ った。 日本海側 の主な寄港 地 と して は萩'浜 田'鳥 取'敦賀' 三 国'
輪卑
れ た こと から' お のず と資 本 の蓄積 も促 され たも のi)
考 えられ る。 こ の西廻航路 に対 し'太平洋側 を通 る東 廻航路 の 輸 送 能 力
は' あ まり大き なも のではな か った。
次 にt.同 じ図2 で'時代 を下 ると共 に資本蓄積 の水準 が'相 対的 に上昇 して い った地域 は太平洋側 であ ったが' こちら は' 明
治 中期 以降'鉄道網が急速 に発 展 した地域 であ る。図3は' 日本 で主要幹線網 の形成 が既 にあ る程度 みられ'鉄道 国有化 の行 わ
れ る直前 の時点 でもあ る明治 三十九年 (1九〇 六) に開 通 して いた鉄道路線 を示 したも のであ る. これを みると' あき ら か に東
京 を中 心とす る太平洋側 に偏 っ七 おり、 旧来大 阪 を中 心 に海 運 で結ば れ て いた地域 は' 完全 にとり残 され.
た形 にな って iる。例
第 二節 明治期 の日本 の経済と鉄道
第 八華 甲武鉄道 の開通
図 3 明 治 39 年 の 鉄 道 網
四 八八
えば' 四国' 南 九州' 紀伊半島 にはほと んど鉄道 は滋 い。 ま た日本海側 で
西洋 型汽船
も、今 日 の山陰 本 線 は存 在 しな いLt 北陸' 羽越 の各線 も全通 し て いな い
ので' 日本海 側 の鉄道 路線 は寸断状態 であ った ことが わ かる。
海 運 の側 でもも ち ろん、 和船 にだ.
け頼 って いたわけ でなく
な ど の技術導 入も行 ったわけ であ るが'何 と い っても海 上交 通 は' 気象 な
ど の様 々の制 約 をう け やす-'輸 送時間 も鉄道 に- ら べ多 - かかる ので'
こ のよう に述 べてく ると' 次 のよう な疑 問が生 まれ
鉄道 に太 刀打 ちす る こと は難 し か ったo
明 治初 年 道 路 事 情
てく るだ ろう。 「
海 運が大 量輸送手 段 であ った こと は認 める にしても'陸
上 にだ って江戸時代 から五街道 を はじ めとす る道路網 があ り' 駅伝 の制 度
も整備 され て いた ではな いか」 と。 これ はま こと にも っとも な疑問 であ る
から' 次 にこの点 に ついて考 え てみ ょう。
現在 のわれ われが' 目 の当 たり にでき る大 量輸送 手 段 は' 発達 した道路
網 の上 を走 る トラ ックであ る。 一
〇 ト ン、 二〇 ト ンも の荷 を積 んだ大型 ト
ラ ックが 昼夜 をとわず' 山も河 も こえ て長距離 に わ た る 輸送 を行 って い
る。土 のトラ ック輸 送 の発 展 の前 に' 一度 は海 上輸送 を圧倒 Lt 日本 の大
量輸送 に関 す る市場 を制 覇 した鉄道輸 送 も敗退 した。 これが 国鉄民営化 の
一因 とな った こと は、 まだ われ われ の記憶 に新 し い。
しかし'仮 に首年 以前 の日本 堅 戻 ったと したら'当 時 の道 路 上 でわれ わ
れ はど のよう な光 景 を目 にす る ことだ ろう か。 いま' こ の点 に ついて考 え
るた め に' 明治 十 六年 な いし十 七年 (一八 八三年 な いし 一八八 四年) に書 かれ たと推定 され る文書 「甲州街道角 等村停 車場 ヨリ
武州 八王子新 町 二至 ル道 路実 況調査」 (
図4) を見 てみ る こと にしよう。 そ こ にわれ われ は、 今 日 の道路 の輸 送条件 と は全く違
れ
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紅 林 順 三家 文 書 )
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長
弐 間 マテ
壱 間未 満
弐 十 三 ヶ所
三 十 七 ヶ所
内
玉川 ハ巾 四 百間 都 テ応 分 通 行 所 設 ク ル コト外 堤 切 割 1ヶ所 ア リ
平 水 川 巾 凡 古間 水 底 前 後 川 原 敷 ヨリ凡 十 五 尺 ノ高 低 ア リ
又浅 川 ハ巾 二 百間 ノ処 都 テ応 分 通 行 所 ヲ設 ク
平 水 川 巾 未 定 卜錐 ト モ先 以 テ凡 四 十 間 ヲ目 的 ト ス
百 尺 以上
弐 ヶ所
高 低 ハ凡 十 五 尺 ア リ南 岸 二至 り堤 上 ヲ百聞 余 運 搬 ヲ要 ス ル コト
高
一 大小 坂 弐 十 弐 ヶ所
内
一 玉川 浅 川 弐 大 川 ア リ
ヨリ其 仕 掛 ヲ要 スル コト
右 何 レ モ現 在 橋 巾 ヲ調 査 セ シ モノ ニ付 重 ‖
此ヲ運 搬 ス ル ハ前 後 六 尺 以 上 橋 台 外
同
同
同
但 何 レ モ重 量 力 無 之
甲 州 街 道 角 筈 村 停 車 場 ヨリ武 州 八 王 子 新 町 二至 ル道 路 実 況 調 査
った様相 を兄 いだす であ ろう (
昭島 市
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(ママ)
積 水渡 六 十 七 ヶ所
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図 4 甲州街道 角筈村停 車場 ヨ リ武 州八王子新町
二至 ル道路実況調査 (紅林順三家所蔵)
同
同
同
十 五 尺未 満 小 坂
十 五尺以上
三 十 尺以上
五十 尺 以 上
九 ヶ所
七 ヶ所
三 ヶ所
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第 八章 甲武鉄道 の開 通
同
内 藤 新 宿 角 等 村 停 車 場 ヨリ武 州 八 王 子
新 町 迄 運 搬 費 見 積 り書
巾
長
九 尺未 満
五間 未 満
四個
以 上 三 百 五拾 貫 ヲ越 ル量数 ハ玉川 浅 川 両 橋 通 行 難 相 成 二付 其 量数 二応 シ別 段 ノ手 段 ヲ設 ケ運 搬 ヲ要 ス ル コト
物品
以 上 数 件 ハ其 形 其 量数 ニヨリ見 積 り候 事
三 千 貫 目 ヨリ
三 千 五 百貫 目 マテ
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此 人 足 弐千 八 首 八拾 人
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此賃 金 千〇〇 八円也
但 壱 人 賃 金 三 十 五銭
是 ハ角 等 ヨリ八王 子 マテ里程 十 里間 1日拾 弐 丁歩 行 此 日数 三十 日
外 積 卸 一日大 川 弐 ヶ所 五十 尺以上 大 坂 三 ヶ所 外 二坂 十 九 ヶ所 橋梁
六十 七 ヶ所 ト モ五 日計 三 十 六 日壱 日八拾 人壱 個 弐 十 人掛 り
外
尾張 八台 道 板諸 色其 他 1切 器械 見積 り
是 ハ橋梁 六十 七 ヶ所 諸 色 及 玉川 浅 川 弐 ヶ所 道 修 繕 且水 路諸 色
金 四百円也
弐口
但壱 個 l
l付金 三 百五拾 弐 円也
合 計金 .千 四 百〇 八 円也
右 の通 見 積 リ ニ有 之 侯 也
当時tや 州街道 のよう な主要 な街道 でもt.
川 を渡 るた めには渡 し舟 (
増 水期) 雪 舟 を横 にな ら べ て上 に板 を渡 しただ け の仮
板橋 (
渇水期)
.があ るだけ で' これ ら は重 量物 の運 搬 にはと- て い耐 え な か った。 ま た' 馬 は蹄鉄 を し て いな か った から十分 に
力 を出 せず' ヨー ロッパ のよう に' 馬車 が大 量輸送 手 段 にな る こと は難 し か った。 そ のた め'重 量 のあ るも のの運 搬 は牛 車 によ
るし かな か った。 ただ し'癌 に東 日本 では牛 車 の数 は少 な か った か■ら' 圧倒的多数 は'人背 '馬 背 による か'手押 車 '馬 車 など の
小 型 の.車 両 によ るし かな い状態 であ った。 これ ら の輸送 手段 にと って' 河 川 の土手 や' ち ょ っと した坂 の上下 が非常 に大 き な障
害 とな った。 この結果、上 記 の文書 にみたよ- に、 約十 二 ト ンの貨物 を八王子 から新 宿 ま で運 ぶ た めには' これ を四 つに分 け'
延 べ二千 八 百八十 人 の人足が 三十 六 日も かけ て、 途中橋 の修 理や道 普請 を しなが ら' 担 って歩 いて いかなければ なら な いこと に
第 二節 明治期 の日本 の経済七鉄道
第 八華 甲武鉄道 の開通
な った のであ る。今 日 であ れば' 中央線 でも甲州街道 でも約 一時間 の道 のり であ る。
四九二
・明治期 の道路輸 送 は このよう な実態 であ った から'鉄道 があ らわれ るま では' 地域間 の大 量輸送 は、 どう し ても海 上輸送 に蘇
らざ るを得ず'内陸 と海 上輸送 と の結 び つき は' 河川舟 運 による以外 な か った のであ る。 こう した こと から考 え て' それ ま で海
上輸 送 の条 件 にめぐ まれ て いな か った太平洋側 の各 地方 にと って'海 上輸送 を し のぐ輸送能 力 をも った鉄道 が開通 し'東京 と い
全 国的 にみたとき のこのよう な過程 と周様 の過程が'東 京近 辺 と いう小 さな地域内 でも生 じ て いる。今 '東 京
う大 市場 と の連絡 が 一挙 に ついた こと の経済 的意味 は' はかりしれ な いも のがあ ったと考 えられ る。
三多摩と鉄道
近 辺 で \ 江 戸期 に航 路 のあ った河川 を みると'利根 川水系 で烏川、 鏑 川' 利根 川' 巴波 川' 思川'鬼 怒 川'小 貝 川' 江戸 川'
印潅 沼,北 浦,霞 ケ浦, ま た荒 川水系 で新 河岸 川 であ った。 こ のほかは相 模 川・富 士川程度 であ り,東 京府 関係 で いうL・東部
各 地 には交 通が開 け て いるが' 三多摩 地方 は利根 川'荒 川 両水系 と相模 川 と の間 にはさ まれ て' ち ょうど ド ーナ ツの穴 のよう に
空 自 地帯 にな って いる。上記 の甲州街道 の実態 を考 え に いれ てみ るなら' こ のこと は事実 上、 三多摩 地方 が大 量輸送機 関 を欠 い
て いた ことを意 味す る。言 い換 え るならば' 三多 摩 地方 は'江戸 な いし東 京 から の地 図上 の距離 は短 いけれども'少 なく とも経
済 的 には、物資 や人 の大 量輸送 が でき な いた め'
・山間僻 地 に近 い条件 の下 にあ ったと考 えられ る のであ る。 こ のこと は第 五章 で
見 たよう な' 明治初 期 に.
おけ る東 京府 経済 の 「
東高 西低型」 の 一国 と考 えられ る。
さ て' 鉄道 は東京 の東 西 ど ちら の地域 で7
9開 通 し て いる。東 部 地 域 で は東 北本線 と常磐線 があ り' 西部 地域 では甲武線 があ
る。 ただ'東部 地域 には旧来 の河 川舟 運 に関係す る問屋 や輸送業者 が存 在 し て' それ な り の集荷能 力 を伴う取引 のネ ット ワーク
をも って いた た め、 鉄道輸送 への急転換 は困難 だ った.と推 測 され る。 これ に対 し' 西部 の三多摩 地方 にと っては、 わず か二年 間
で廃 止 の憂 き 目をみた玉川 上水 の通船 を のぞ いて は、 甲武鉄道 は はじ めて獲得 した大 量輸 送手段 であ った から' 鉄道輸 送 の増 大
には これ と い った障害 はな か ったと考 え られ る。 こう した条件 の差 がt のち にな って三多摩 地方 の東 京府東部 に対 す る相 対的 地
位 を上昇 さ せる 一因 にな ったとす るなら、 これ は日本海 側 地方 に対 し て' それ ま で 「
裏 日本」 であ った太平洋側 地方 の経済 的 地
位 が 上昇 したと いう' 全 国的 規模 で の地域構 造 の再編 と同質 の過 程 であ ると言 え るだ ろう。明治以降 の国分寺村 の経済 を考 え る
空
は あ い' こう した動き の中 で見 る ことが どう し ても 必要 であ る。
第 二節 明治期 の日本 の経済と鉄道
四
第 八章 甲武鉄道 の開通
当 時 の鉄 道 網 は ど の よ う に し て形 作 ら れ た か
これ ま で考 え てき た のは' 明治以降 形成 され てき た鉄道網 が' 結果的 にど のような効果 をも った かと いう
第 三節
鉄 道網形成 の要田
こと であ った。 しかし' こ のこと は'当 時鉄道網 が ど のよう な過程 を経 て' ど .のよう に形作 られ た かと いう問題 に ついて明 ら か
にす るも のではな い。 この問題 に ついては' これ ま でみ てき た ことと はまた別 に考 え てみなければ.
ならな い。前述 のよう に、
.国
分寺 村 は'
.全 国的 な地域再編過 程 の中 にあ って・'東京近郊 地域内 で生 じ た再編過 程 (
す なわ ち経済 の 「
東高 西低型」 から 「西高
東低 型」 への変化) の中 で' 地位 の上昇 す る西部 地域 に属 し て いた。 ここではそ の地域変 化 のひと つの大き な原動力 にな ったと
考 えられ る甲武鉄道 が' ど のよう な経緯 の中 で現在 の路線 に落 ち着 - こと にな ったかと いう点 を' 鉄道網形成 に関 す る全 国的 な
動 き の中 でど のよう に位置づ け るかと いう視 点 から考 え てみた いと思う。鉄道網 は個 々の鉄道 が敷設 され た結 果 と し て形成 され
てく る のであ るから、鉄道網 があ る形 をと って いく過程 に ついて考 え よう と思 えば' 個 々の路線 が ど のよう に計 画 され'敷 設 さ
れ る に至 った かと いう'意思決定 のあ り方 が当 然問題 にされなく てはならな い。
ご- 一般的 望 口って'個 々の鉄道 の計画'敷 設 にあ た って の意 思決定 のあ り方 は国 によ って違 っており'大 別 し て次 の三類 型
のいず れ か に当 てはま る.
第 lの類型 は個 々の鉄道 の計 画'敷 設 にかかわ る意 思決定 が'完 全 に民間 の出資者 な いし企業家 にゆ だねられ て いるも ので'
「
分散型」 と でも呼 ぶべきも のであ る。そ の典型 はイギ リ スであ る。 イ ギリ スでは鉄道 は当初 から完全 に民営 であ った。
第 二 の類 型 は、 鉄道 の計画'敷 設 にかかわ る意 思決定が'完 全 に国家 にあ るも ので、 「国有 型」 と でも呼 ぶ べきも のであ る。
これ の典型 は ベルギ ーであ る。
第 三 は' この両者 の中間型 であ り'基 本 は民営 であ るが'民間 から の鉄道敷 設出願 に際 し ては' 国家が そ の計画内容 に立 ち入
I
って強 い指導 権 を行使 した上 で許 可す ると いう も のであ るO.
この いわば 「
特 許型」 の典型 は フラ ンスにみ る ことが でき る。
さ て' 上述 の区分 で 「
特許 型」 に属 す る日本 では' 鉄道網 形 成 にあ た って'意 思決定 を下 す当事者 と して政府 ・出資 者 の二者
が存 在 す る。 こ の両者 の間 では、想定 し て いる輸 送 の対象 や' それ に伴 って定 ま る最 も経済 合 理性 にあ った予定路線 に つ い て
も'常 に 一致 し て いたと いう保証 はな い。 こ の点 は両当事者 が' 同時代 の輸送 の現状 をど のよう に認識 して いた かと いう点 とも
かかわ り' さら にそ の認識 に基づ いて意 思決定 が下 され た結果' 現実 に形成 され た鉄道網 が'事後 的 にみたとき' ど 9よう な効
果 を持 った かと いう問題 にも関連 す る のであ る。
中 央と地 方 の利幸 の相 違 当 事者 の意 思決定 と い っても' 政府 も出資 者 も それぞれ の中 に'利 害 を 異 にす る複数 の集 団 を含
み' それ ら利害 の担 い手 .
の相 互関係 の中 で意 思形 成が行 われ て いると考 え なく てはならな い。 このこと は これ ま で にも注 目され
第 六輯﹄)。 ま た中 西健 一
てき た。例 えば島 恭層 はか つてへ 明治 三十年 代 の鉄道 国有 化論 を めぐ り、中 央政府 の意 思形成過 程 を 「鉄道」 「軍事」 「
大蔵」 な
ど の官僚群 の関係 から解.明 しよ う と し た (
「日本資 本 主義 と国有 鉄道」 ﹃
京都 大 学経済 学会研究叢 書
都 市交 通 の発 展 とそ の構造」増 補 版)。 ただ これ ら は いず れも' す で に形成 され た鉄道網 の運
は' 鉄道資 本家 を出身 地域 や社会的 地位 など に応 じ て五群 に分 け' や はり鉄道 国有化論 を めぐ って資 本家 の意 思形成過程 を追 究
し て いる (
「日本 私有 鉄道史研究
用 に ついて の意 思形成過 程 の解 明 に力点 があ るた め' お のず と全 国 を見渡 す立場 にあ る中 央 の政府官僚 及び中央 の出資 者 の意 思
形 成I
過 程が'中 心的 に取 り上げ られ る こと にな って いる。
し かし'今 私 たちが試 みよう と し て いるよう に、 明治十年 代末 から 二十年 代 にかけ て の、 鉄道網 が形成 され て- る過 程 におけ
る鉄道敷 設 の出願 ・免許 に関 す る意 思決定 .に つ小て問題 にす るは あ いには'鹿 討 の対象 と し て'中 央 の政府 及び出資者 だけ では
不十分 であ る。個 々の鉄道 が計画出願 Lt.
免許 を受 け る過 程 では' 全 国的 な視野 にた った・
鉄道網 の整備方 針 や 資 金 の 運 用方 針
と' 地方 政治 や地域経済 の.
必要 とす ると ころとが' 1致 す ると は限 ら滋 いから であ るo こ,
.).
では' この観点 から当事者 の意 思 形
成過 程 及び意 思決定 に ついて考 え るた 9.
.① 政府 と出資者' ②中央 (
東 京 など の大都 市所在 の関係者) 七地方 (
線 路通過地 方 の
関係者) と いう 二種類 の基 準 によ っ.
てt.
当事 者 を四種類 に区 別 し' そ の利害 の相 互関係 を見 て い- こと にす る。
こ の四着 それぞれ の'
・鉄道敷 設 の目的 ・輸 送対象 ・路線 の選定 を めぐ って予想 され る利害 に ついて述 べ てお こう。
第 三節 当時 の鉄道網 はどのよう にして形作られたか
①中央政府
第 八章 甲武鉄道 の開通
四九大
民間 から の鉄道敷設 の出癖 に対 し'中央政府 (
所轄官庁 は明漁 二十 三年 ま で内閣鉄道局 で' 二十 五年 ま で内務省鉄
注-
道 庁' 二十 六年 ま で逓信省鉄道 庁」以後 四十 1年 ま で逓信省鉄道局 と変化 したo また明治 二十年 の私設鉄道条 例施行 ま で鉄道敷
設 を認 可す るさ いの根 拠法 は、 太政官布告第 六四八号 であ り' 同布告 は民間 資 金 による建 設 を 前提 と して いたと いう。小川効
﹃民間活 力 による社 会資 本整 備﹄)は' 出願者 の資 産 の状 況や信用力等 を厳 しく審 査 し'路線 の選 定 に ついても' 必要 とあれば強
力 な指導 を行 った のち'免許 を与 え る のが通例 であ った。 さき に日本 の鉄道網 の形成 に ついて 「
特許型」 と した のは この理由 に
よる。 さ て'中央政府 の中 でも'軍事官僚が早 い時期 かち外 国 による海岸線 への侵略 を恐 れ'内陸 経由 で各師団 の所在 地を連 絡
す る ことを考 え て いたことは周知 であ るが'兵員輸送 の効率化 と いうそ の要求 は' 明治 二十年代 でも中央政府 の鉄道政策 に強 い
影響 を与 え て いた.明治 二十 四年 (一八九 1) の井上勝鉄道局 長 の建議 「鉄道 政略 三関 スル議」 など からも これ はぅ か Jか わ れ
これ に対 して'各府県官僚 の レベルにな ると' 全国規模 で の輸送体制 の整備 と いう より'管轄地域 の
る。 そう した立場 から構想 され た鉄道網 の中 心 には首都東京 があ った0
② 地方官僚 (
府 県官 僚)
行 政的把 握 のた めに必要 な輸送網 の整備が意識 され たと思 われ る。輸送対象 とし ては、兵長 のみならず'民間 の人や物資 ま でが
想定 され たと考 えられ る。 なぜ ならへ このよう な地方官庁 の意思形成 にあ た っては'府 県会 や郡会 の議員 な どを務 め' 地域社会
の中 心人物 と して 1般住民 を組織 し て いた各 地 の 「
名望 家」 の動向が強 -意識 され、鉄道敷 設む この層 を自 己 の側 へ引 き付 け て
おく た めの手段 とし て の意味 を持 つから であ る。当時' 鉄道 の敷 設 にかかる出麻 は鉄道会社 の本社 が所在す る府 県庁 を通 じ て行
う よう定 められ て いた (
「私設鉄道条 例」など) から'府 県官僚 は これ を中央政府 に進達 す る にあ た って添申 ・伺等 の形 で自 ら の
各 地 の名望家層 が府 県 の行政的中 心地 や首都 i
Jのあ いだ で の人的交流 の利便 を求 めた こ
意 思表 示 をす る ことも でき たLt
・出願者 に対 しては進達 の条件 と し て路線 の選 定等 に関 し て指導 をす る ことも 可能 であ った。
③ 地方 の出資 者 (
地方 「
名望家」層)
と は疑 いな い。 しかし' かれ ら はそれ と同時 に' 地域経済 な いし地域産業 の利害 の代弁者 (
往 々にし て自 らそ の経営主体 でもあ
る) とし て'身 分 たち の所属 す る地方 の産品 の輸送条件 の改善 を強 く求 める こと に・
な ったと思 われ る。 かれ ら ほ多く のは あ い地
方 におけ る鉄道 の発起人 でも あ る。
に
市
街
線の新宿
四
谷
国 分寺
日
八王子
・
年
④ 中 央 の出資 者
中 央 の出 資 者 は' 資 金 調達 力 ・監 督 官 庁 への影 響 力 等 の点 で地方 の出 贋
者 と は格 段 の差 が あ り' そ の資 金 の運 用 に当 た って は' 輸 送 の対 象 が 人 ・物 いず れ であ る
か を問 わず ' 投 下 資 本 利 回 り の最 も 良 い路 線 を選 定 し ょう と し た と思 わ れ る。 た だ し' 一
般 論 と し て はそ う であ った と し ても ' 実 際 に大 都 市 在 住 のかれ ら の下 す判 断 が ' 目前 にあ
さ て本 章 で は' 今 日 の中 央 線 のう ち飯 田町 (
現在
る大 市 場 の動 向 に左 右 され た であ ろう こと は想 像 に か たく な い。
甲武 鉄 道 を と り あ げ る 意 義 に つい て
は貨 物 駅) ・八 王 子 間 の部 分 の前 身 であ る甲 武 鉄 道 会 社 を取 り上 げ て' そ の出 願 免 許 の経
緯 に ついて検 討 し' そ の上 で こ の鉄 道 が 事 後 的 にみ た とき 国分 寺 村 にど のよう な影 響 を 及
ぼ し た かと いう 点 に ついても み て いく わ け だ が ' こ の鉄 道 に つ いて検 討 す る こと は、 実 は
前 に述 べ た観 点 から す る と' 一地 方 に関 す る研 究 と いう だ け でなく て' 全 国的 な レ ベ ルで
も ひ と つの典 型 例 の研 究 と いう 意 義 を 持 つ。 な ぜ な ら 甲 武 鉄 道 で はそ の出 願 に際 し て(
-)
東 京 の出 資 者 と地 元名 望 家 層 の間 で の' (
2) 中 央 政 府 と県 (
神 奈 川 県 知 事 ) の間 で の利
害 の相 違 が' 競 合 路 線 の出 願 と そ れ に際 す るそ れ ぞ れ の態 度 表 明 と いう 過 程 のヰ
ヽで浮 き 彫
)
十 二年 (一八 八九) に新宿・八王 子間開通' 明 治 二十 八年(一八九 五
二
り にな って いる か ら であ る。
甲 武 鉄道 は明 治
イ
六
始
乳
飯 田 町 間 を開 通 した (図5)。 二七 マ ル 五 チ ェ-.ン _
(
約 四四 ・
七 キ ロメートル
) と いう 短 小 路線 で はあ る
(1九〇 一) 官 設中 央 線 と の連 帯 輸 送 の開 ' 同 三十 七年飯 田・
町中 野間 で電 車がひん ぽ ん に運 行 さ れ る よ
図 5 甲武鉄 道開通 当初 の駅
第 三節 当時 の鉄道網 はど のよう にして形作られ たか
「鉄 道 政 略 l
l閑 ス ル議 」 からも う かが われ る。
を最 初 町受 け て国有 化 さ れ た. 甲 武 鉄 道 が 東 京 を中 心 と す る鉄 道 網 の 1頑 と し てへ 中 央 政 府 から 注 目 され て いた こと は' 瀧 述 の
にな る と, 貨 物 旅 客 共 に好 調 な営 業 を続 け、 明 治 三 十 九 年 (一九〇 六)十 月 一日.
' 北 海 道 炭 鉱 鉄 道 と 共 に' 鉄 道 国有 化 法 の適 用
が , 明 治三十 四
1月開業
日野駅は 明治2
3
年
症
宿
野
川
野
第 八章 甲武鉄道 の開 通
四九 入
江 - 小 川効 による この指摘が正 し いとす ると' ここで新 たに問題 となる のほ'従来 ﹃日本鉄道史﹄等 の叙述 を前提 と してしば しば論 じられ てき たような'当初官設主
義 であ った中央政府が'民営容認 に変化 した のはなぜかと いう点 ではなく、逆 に当初 民間資本 による こ七を原則 として いた中央政府が '幹線鉄道 国有 の原則 に転
換 した のはなぜかと いう点 であ ろう。
第 四節
甲武鉄道 の出願 から開 通 に至 る経過 の中 から行論 の関 係 上'注 目す べき点 を摘 記 す れば以 下
甲 武 鉄 道 の 出 願
出 願 の纏 樺 と検 討す べき開 選点
の通 り であ る (
詳 し- は表-)0
第 1に' 計 画路線 は明治十 六年 (一八八三) の出願 から' 二十 二年 の開通 に至 るま で に何 回 か変 更 され て い驚 十九年 の免 許
ま では' 路線 のかな り の部 分 で玉川上水 に沿 って いる点 で共通 し て いるも のの' 細 かく見 ると' 新宿 ・羽村 (
路線 -)'東 京 ・羽
路線3)
'新宿 ・福島 (昭島 市内) ・八王子 (路線4) と変 化 し、 路線4
村 ・青 梅 (
路線 2)'新 宿 ・羽村 および砂川 ・八王子 (
で免 許 を受 け て いる。甲武 鉄道 が最 終 的 に今 日 の中 央線 と同 じ路線 5をと るよう にな った のは'鉄 道局 によ って明治 二十年 (一
八 八七) に行 われ た実 測以降 と.推定 さ れる。
第 二 に' 地 元名望家 (
甲武鉄道 のは あ いは'北多摩 と西多摩 の境界 地方 にあ たる福 生' 羽村近 辺 から指 田茂十肝 ・田村 半十 郎
ただ路線 2 から3 への変 更 に際 し て東 京 の出 資者 に対 し'青 梅 よりも 八王子
ヽ
ほかが盛 ん に活 動 して いる。 国分寺 近 辺 の村 々から は' 甲武鉄道 の敷 設自 体 を めぐ ってはほと んど積極的 な動き はみられ な か っ
た)五 胡治 二十年 ま で経営 に参 れ した形跡が なく
の有利 な ことを助言す る にとど ま って いる。
第1
1
1
に' 明線十九年 (一八八六) 十 二月 に'相 次 いで ふ た つ の虚 合路線 の出願 が見 られ る。 ひ七 っは田村 ・
由 田ら 「地 元有
志 」 による武甲鉄道 (
路線 6) でT これ は甲武鉄道 の路線 3と ほと んど同 じ路線 を採 り' 甲武鉄道 が路線 を3 から 4 に変 更 し て
免 許 を得 た直後 に出願 し て いる。も う ひと つは原書 三郎 ら酪 浜 ・八王子 の出資 者 によ る武蔵鉄道 (
路線 7).
で' 八王子 ・川崎 間
を結 ぶ計 画 で出願 した (
図6)。 こ の出願 に際 し ては' 当時 三多摩 地方 の属 し て いた神 奈 川県知事 が' 中 央政府 にこれ を推薦 す
る上申 を し て いる。 これ に対 し' 山県内務大 臣 および井 上勝 鉄道庁 長官 は強 力 に甲武鉄道 を推 した。 そ の結果'武蔵 鉄道 の出願
は却下 され て いる。
第 四節 甲武鉄道 の出願
表
明治 年 月 日
1
8
. 5
.2
5
1
9
.l
l
.1
0
1
2
.1
6
1
2
.1
9
甲武鉄 道 開通 に至 る経過
事
項
「
東京近辺 ノ有志」玉川上水築堤 を利用の新宿 ・羽村間馬車鉄道
を東京府に請願。不許可。
申武馬車鉄道出願。資本金 3
0万円。井関盛艮 ・岩 田作兵衛 ・服部
」。当初計画は東
九一、ほか 「
埼玉県の豪農四人ばか り (
岩 田談)
京 ・羽村間の ところ青梅 で石灰の産出を知 り、青梅 に延長。
さ,
らに指 田茂十郎 ・田村半十郎に相談の結果、第 1期 :新宿 ・和
田 ・堀之内 ・福生 ・羽村、第 2期 :砂川 ・八王子に変更。
甲武馬車鉄道、路線 を変更 して申請。藤波富二郎 ・岩 田作異衛 ・
浮谷五郎兵衛 ・藤波治助 ・井関盛艮。第 1期 :新宿 ・上保谷新 田 ・
福 島、第 2期 :福 島 ・八王子。
5
万円。
甲武馬車鉄道免許。資本金 3
武甲鉄道出願。資本金 7
5
万円。砂川憲三 ・紅林徳五郎 ・由村半十
郎 ・指 田茂十郎 ・西川敬治 ・山口朗貞 (
以上三 多摩)・杉浦義方 ・
岩谷松平 (
以上東京)。第 1期 :新宿 ・和 田 ・堀之 内 ・西荻窪 ・関
前 ・小金井 ・砂川 ・青梅、第 2期 :砂川 ・八王子 「馬車鉄路汽鍾
路 線 1
路 線'
2
路 線 3
路 線 4
路 線 6
‖二
l1
12
21
31
1
2
3
■ ●.
HH
叩
2 3●4●5●7●8■
1●
2●
2
2
車鉄道二変換願」提出。藤波富二郎 ・
琴谷五郎兵衛 ・
藤波治助 (
以
上埼玉県北葛飾郡)・井関盛艮 ・岩 田作兵衛 (
以上東東)
。
1
2
.2
8 武蔵鉄道会社 出願。資本金 5
0万円。原書三郎他 1
2人。川崎 ・
二子 ・
蓬光寺 ・八王子。神奈川県知事沖守固、 これ を推薦す る上 申を内
路 線 7
務大臣に提 出。
2
0
. 1
.3
0頃 甲武 ・武 甲両鉄道、雨宮敬二郎の仲介によ り合 同。
以後雨宮 も発起人に加 わる。
3
. 5 山県内務大 臣、武蔵鉄道に反対の意見 を開陳。
3
.1
0 井上勝鉄道局長が、山県に賛成の意見 を表明。
5
.21 神奈川県知事、武蔵鉄道創立願書 を内閣に進達。
6
. 6 甲武鉄道会社、馬車鉄道免許 を私設鉄道条例第 3条に基 く仮免状
とみなすべ きか東京府知事 に伺。
創立委月選挙結果 :委月長 奈良原索、
_要点 井関盛艮 ・谷元道
之 ・未広重恭 ・浅野綿一郎 ・指 田茂十郎。
7
. 1 仮免状 とみなすべ き旨回答。
7
. 4 武蔵鉄道につ き内閣が神奈川県知事 に対 し 「伺 ノ趣難聴届」 と指
令。
甲武鉄道 を日本鉄道の支線 とみな し、工事 を鉄道局が担当す る。
担当者は仙石貴。
甲武鉄道免許状 申請。資本金9
0
万円。
免許状下付。
6マ イル 7
4チェー ン開通。 日本鉄道に営業 を委託。 路 線 5
新宿 ・立川間1
路 線 8
甲武市街線出願。新宿 ・神 田三崎町間。
甲武市街線仮免許状下付。
立川 ・八王子間 6マ イル 3チェー ン開通。
注
鉄道省 [
1
9
2
1
]・菅原 [
1
8
9
7
ト 東京都 (
棉) [
1
9
8
1
]所収 の資料 に よ り作成。
第 八華 甲武鉄道 の開通
1
7
. 4.22
1
第 四節 甲武鉄道 の出願
口
川
以 上 のような経過 を踏 まえ「 本章 では次 の四点 に つき
考 え て い- こと にす る。
第 一にへ東京在住 の出資者 は明治十 七年 (一八八四)
当 時' なぜ 玉川上水を通 じ青梅 に達 す る路線 を計画 し た
か'彼 らが想定 して いた輸送対象 はな にか、・
また当時'
三多摩 地方 経済 の中 心地 であ った八王子が'彼ら の視野
から おちた のはなぜ かと いう問題 があ る。
第 二 に' 地方名望家 (
史料 上 は 「地元有 志」)の田村 ・
指 田ら は' これ に対 しなぜ青 梅 よりも 八王子 への連 絡 を
勧 めた のか。
第 三 に'東京 の出資者 に対 し' 八王子 への連 絡 を勧 め
るなど甲 武鉄道 に協力的 であ った 「地元有 志」が' なぜ
にわ かに武甲鉄道 を' しかも甲武鉄道 の旧路線 と同 じ経
路 で出願 したか。以上三点 は'甲 武鉄道 の出資 者 の内部
で の中央 と地方 の利害関係 の解 明 にかか って いる。
第 四 に' 武蔵 鉄道 の競願 に際 し、神 奈川県知事 が これ
を推 し' 山県内務大 臣 らが これ に反対 した のはな ぜ か.
はじ めに、東 京' 地
これ は政府 の意思形成過 程 におけ る中央 と地方 の利害関
係 の問題 であ る・
。
三多摩 をめぐ る物資輸送 の実態
五〇 一
表 2 三多摩 関係地 域 の内陸輸送道路 (
数量 及び主 な品 目)
発送地 送 り先 駄
数
路
経
主
京
1
7,
5
0
0 甲州街 道他
6
0,
2
1
5八王子(
町田)
街道他 織物
織物
南 多摩 横
浜
西 多摩 東
京 1
1
0,
2
3
3青梅街道他
北 多摩 東
京 2
0
4,
21
5青梅街 道 .甲州街道 薪
品
算
方
法
注番号
1
生糸
駄数 と推定 (
原資料に単位なし) 2
な し(
原資料 が駄数表示)
1
晒粉
薩摩芋 な し(
原資料 が駄数 表示)
1
8,
4
6
3青梅街道 .甲州街 道 (
織物
京
山
梨 静
岡
横
浜 南 多摩
東
京 西
南 多摩
4
5,
41
1八王子 (
町田)
街道他
5
2,
0
6
2青梅街道他
q
L,
ト
ト
1
街道
肥料 塩
9
0
4
5
東
京 山
1
6,
4
41青梅街 道 .甲州街道
東
京 北 多摩 1
9
5,
81
2青梅街 道 .甲州 街道 塩
肥料 石 塩
油
注
換
な し(
原資料 が駄数表示)
梨 東
梨
位
生糸
山
米
単
炭
石灰
3
2,
1
4
4富士 川舟運
目
生糸 ?)
綿糸
繰棉
ー
2個 -1駄
3
8斗 -1駄 、
3
6
貫 -1
.
臥
4
第 八華 甲武鉄道 の開通
南 多摩 東
要
駄数 と推定 (
原資料に単位なし) 2
米
な し(
が駄数 表示)
原資料 が駄数表示)
1
2個 -1駄
砂糖
な し(
原 資料 が駄数 表示)
3
1
1南 多摩 ・西 多摩 ・北 多摩 の各地 と東京の間の数値 は、西 多摩郡 羽村町 ・指 田家文書 「
東京 P
gツ谷 口運 河
利益予算調査書 」 (
明治 1
6年 1
2月 :羽村町教育委月会 [
1
9
77] に復刻)●
に よるC
2南 多摩 ・横浜間は明治1
8年値 と推定 され るD原資料 は、国立公文書館所蔵 「公文類衆 第三十七」所収 資
料 「
川崎 ・八王子聞鉄路布 設願」 に よる。 ただ し貨物 の単位 は原資料 には記 されていないので、駄数 と
推定 した。 また この欄 での 「
南 多摩 」 は、原資料 で八王子 と原町 田 とに別 けて記 されて いる値 の合計 で
あ る。
3山梨 ・末京間は山梨 県 [
刊年不明] よ り、 明治1
2年値。単位 は 2個 を 1駄に換算。
4山梨 ・静 岡間は山梨 県 [
1
8
87] よ り、 明治 1
7
年値。 ただ し原資料 での数量は石 ・貫単位 なので、 8斗 お
よび3
6
貫 をそれ ぞれ 1駄 として換算 した。
五〇二
元 双方 の当事者 たちが' ど のような条件 のも と で意
思決 定 を下 して いた のか に ついて' 見通 しを つけ る
た め'本章 で扱 う鉄道 に関係 す る地域 で の'当時 の
物資 輸送 の実態 に ついて概 観 し てお こう。.
A
)のた め
に主要 な輸 送経路ご と に輸 送物資 の数 量 (
駄数 に換
寡) と主 な品 目とを列挙 し てみた (
表2)。 典拠資
料 も区 々で あ り' 対 象年 次も明治十 二年 (一八 七
九) から十 八年 と幅 が あ る。 ま た' ここで 行 った
「個」 「石」 「
貫」 から 「
駄」 への換算 には'確 固 と
した根 拠 があ るわけ ではな-' 文脈 と の関係 で いえ
ば'仮 に山梨関係 の輸送 量が換算率 の関係 で二倍 に
な ろう と' 逆 に二分 の 一にな ろう と' ほと んど差 し
支 えな い。 ここにあげ た数値 の精度 はそ の程度 のも
のであ るから'当 然 そ こから は極 めておおま かな傾
向 し か見 られ な いが' それ を承知 のう え で' な お注
意 す べき と 思 われ る点 を あげ れば' 次 の よう にな
る。
第 一にへ東 京 と の間 の輸送 量 では'北 多摩 ・西多
摩 の両部 が極 めて多 く'東京 への移 出 入を合計 す る
と'北 多摩 四十 万駄' 西多 摩 二十 万駄 にな る。 これ
に対 し' 南多 摩 ・東 京 間 では同 じく 七 万駄' 山梨 ・東 京 間 は仮 に富 士川舟 運 で静 岡県 への移 出 入とされ て いる部 分 ま で' す べ て
東 京 と の取引 と し て合 計 し ても十 四万駄 であ る。 ま た'南 多摩 郡 と他 の地域 と の間 の輸 送 量 を み ると' 東京 と の間 が前 述 のよう
に七万駄 であ る のに対 し て' 横 浜 と の間が十 万駄 と ,
)
.
れ を上 回 る。
第 二 に' 主要 輸送晶目 に ついてみ ると' 西多 摩 .
・北 多摩 ・山梨 (
富 士川) から の移 出が 石灰 ・炭 ・薪 ・米 な ど であ る のに対 し
て、南多 摩 から の移 出 は' 移 臥先 が東 京 ・横 浜 の いず れ かを問 わず生糸 ・綿織 物 な ど の軽 量高 価 物 とな って いる。山梨 から陸 路
東 京方 面 へ移出 され る品 目 は不明 であ るが」 全体 と し て見 ると 富 士川舟 運 によ る.
も のより 軽 量高 価 であ った ことが 判 明 し てお
り' 生糸 や綿織 物 など を多 く含 んだも のと推定 され る。
以 上 からも' 地域 により東 京 あ る いは横 浜 と の間 で の 輸 送 品 目及び輸 送 量 に' かな り の相 違 があ った ことが わ かる。 こ のこ
とは ' 鉄道敷 設 を計 画 す る際 に計 画者 が生糸 や絹魔 物 のよう な、 特 定品 目 の輸送 コスト の引 き 下げ を目的 とす る か'輸 送 対象 を
問 わず に運賃 収 入 の最 大化 を 目的 にす るかなど により'最適 と判 断 され る路線 は異 な って 小た ことを示唆 し て いる。
、
次 に甲武 鉄道 および 田村 ら地 元有志 によ る武 甲鉄道 の計 画線 のかな り の部分 が' 玉川上水沿 いに計 画 され
ま た' これ と は別 に' 鉄道敷 設 の計 画者 たちが輸送 の現状 に関 す る情 報 をど の程度把 握 し て 小た かと いう ことも' 問 われ なく
て はな らな い。
玉川上水 への慧 目
て いた こと の意味 に ついて考 え てお こう。
第 一に考 え られ る のは' 上水築 堤 を利 用 す る こと によ る建 設費 の軽 減 であ る。と れ により' 鉄道敷 設 に際 し て' 通常 一な いし
二割 を占 める測 量 及び用 地買収費 を節 約 す る ことが でき る。後 述 のよう に建 築費 の大 小 は'当 時 の人 々が鉄道会社 の収 益 性 を判
断 す る にあ たり' 重要 な意味 を待 ったと考 え t
D
/
れ る.
第 二 に考 え られ る のは' 明治 三年 (一八七〇)から五年 ま で行 われ た玉川 上水通船 に対 す る認識 であ る。 これ は青 梅 ・
羽村 ・
四谷
間 に数箇 所 の河岸 を設 け て'貨 物旅客 共 に輸 送 したも のだが' 上水汚染 を理由 に禁 止 され た。実 際 に輸送 され た品 目と数 量 は不
明 だが' 明治 二年 に砂川源 五右 衛門 から出 され た通船 の許 可願 によれば '東 京 から の移 入 で・「
粉 糠藁 灰等」'束 京 への移 出 で 「杉
第 四節 甲武鉄道 の出願
表 3 玉川上水新規掘貫 ・素掘計画見積 内訳
第 八章
甲武鉄道 の開通
9,
1
6
5.
6
041,
1
9
4.
1
6
2
0
5,
9
8
9.
35
5,
61
7.
1
1
円
1
計 ■ 2
4,
3
9
0.
5
63
2,
0
2
8.
5
6
3
5
3
5
0.
,
8
0
0
3
0
3
3
7
9.
1
6
6
7
素
水門建設費
堀敷地買上代
4
5,
5
7
2.
7
9,
1
1
4.
5
6
9,
1
1
4.
5
6
9,
1
1
4.
5
6 9,
1
1
4.
5
6
素 堀 分
円
秤
9,
1
6
5.
6
03
2,
0
7
9.
6
0円 1
5,
2
7
7.
7
7
7 1
6
0,
4
16人
.
6
円
掘 貫 分 1
5,
2
7
6秤 2
2,
91
4.
0
0
賃
掘
足
人
坪
土
費用合計
その他
掘- 質
坪
土
胡 治 8年 1 月 見.
痩
1月 見 積
明 治 5年 1
原史料記載のママ,実数は4
1,
5
7
3
円3
2
銭 6厘 7毛 (
羽村 指 田家文書に もとづ く伊藤好一の計算による)
五〇 四
槍薪炭等」 があげ られ て いる。.
この事業 の有 利性 に対す る地元 の認識 は'
禁 止後 に再開願が繰 り返 し (
新 上水 を開 整す る こ.
と によるも の六 回' 荒川
筋 へ連 絡す る運河計画が 二回) 見 られ る こと からも'強 か ったと考 え られ
る。 これ ら の再開計 画 は いず れも大規模 な土木 工事 を伴 い' 必要 とす る資
金 額も大 き い。伊藤好 一の計算 によると'そ の費 用 は明治 五年十 一月 の見
積 で四万 一千 五百七十 三円' 明治 八年 (一八七 五) 一月 の見 積 で五万 六千
四百九十 七円 に のぼ るも のであ った (
表3)0
東京 でも上水通船 の経緯 とそ の有 利 性が知 られ て いた こと は' 甲武鉄道
の発 起人 のひとり であ る岩 田作 兵衛 の回顧談 からもう かが われ る。岩 田 は
明治 三十九年 (一九〇 六)に つぎ のよう に述 べて いる (
「甲武鉄道 の創 立」
﹃鉄道 時報㌢ 二四八号)。「明治 か初年 竺 一
条 公 の御許 しで玉川 上水 に船 を
入れ た ことがあ りま した。 日ならず それ は差止 めになりま したが' 此時非
常 に沢山 の荷物 があ りま した のでナ'誰 だ か知 りま せ ぬが'其時 に此 処 に
鉄道 を敷 いたら よ からう と云 ふた人があ った からぢ ゃさう なが、 これ はタ
ワイ無 -却下 され ま した」
前述 のよう に東 京 の出資者 は' 地方 の出資者 に比 べ'特定 の品 目 の輸送
にかかわ る効果 よりも' む し ろ見込 まれ る運賃収 入 の多 寡 を路線選 択 の基
準 とす る傾向が強 か ったと推定 され るが'彼 ら は当時東京 と の間 で物資 輸
送 量 の多 か った西多摩 ・北多 摩 の両部 を念 頭 にお いて いた可能 性が大 き い
と思 われ る。次 に こ の点 に ついて考 え てみ よう。
石灰 石と砂 利に対す る需 要 東 京 の出資者 によ る路線 の選定 に ついて考 え る前 に'
・まず当時 の東 京市場 で' ど のよう な品 目 の
輸 送 に対 して需要 が見込 まれ て いた かと いう こと に ついてへ み てお いた ほうが よ いだ ろう。
結論 から述 べるならば'当時'東京 です で に進行 中 の 「
東京府 防火令」 に基づ く市街 不燃化 計 画 と、策定 が始 ま って いた市区
改 正計 画 と による漆 喰 ・セメ ント ・砂利 に対 し て先行き予想 され た需 要 が強 く意識 され て い た と推定 でき る。.
さ て、 それ で は
「
東 京府防火令 」 及び 「
市 区改 正計画」.と は い った いど んなも のだ った のだ ろう か。次 にこ のことを み てみ ょう。
こけらぶき
日本 の伝統 的 な家屋 のことを しば しば 「
木 と紙 の家」 と いうが' 明治十年 代半ば ま で の東 京 の市街 は'文字 通 り木 と紙 の衝 で
ま つや に
あ った。明治十 四年 (一八八 一) に東 京府 が行 った調査 の結果 であ る 「
東 京府 下十 五区 家屋種塀棟 坪数 計査表」 によれば'柿 葺
注-
等 の強燃性 の建 物 が棟数 で約半数'木造 瓦葺 を含 めれば 八割 に達 し て いた (こ の中 には和紙 に松 脂 を しみ こま せたも ので屋根 を
市街 編
第 六十 五﹄)。 こ のよう な状 況 の中 で 「
東 京府防火令」 は' 市街 の中 心部 であ る日本橋 ・神 田 ・京橋 の
茸 いたと いう おど ろ- べき も■
のも' かな り の数' 含 まれ て いる)? これ は' 面積 で いう ならそれぞれ 五割 弱 な いし九割 に当 た る
(
﹃
東 京市 史稿
)
三区 を中 心 に強 力 に推進 され'藤森 照信 の研究 によれば・
' 明治十 七年 ま で には主要道 路 ・運河 に面す る建 物 の八割程度 が蔵造 ・
煉 瓦造 ・石造 に改 築 され た。
他方 、 市区.改 正計画 は 「
東 京府防火令」 の施行.前 から検討 が進 められ、 明治 二十 一年 (一八八八) に 「
東 京 市区改 正条 例」 と
し て正式 に発布 され る。 これ は東 京 を ナポ レオ ン三世治 下 のパ リ にな ら って改造 し'首都 たる にふさわ し い美観 と偉容 を具え、
か つ都 市機能 も向上 さ せよう と いう計 画 であ る。防火 のみな らず 衛生 ・交 通 ・都 市景観 の改 良等 も含 み'対象 地域も はば 現在 の
屯ち つね
山 の手線 の内 側 に相当 す る全面的 な首都改 造 計画 であ った。総費 用 四千 三 百七十 万円余 と見 積 も ら れ て い た。 これ に対 し三島
通庸 ・井 上馨 は' 明治十九年 に'東京 の衛生 ・軍事 ・交 通 の 条件 の悪 さ に加 え て市 区改 正 の費 用 の多額 な ことを理由 に上州 遷都
を建議 Lt そ のため に必要 な費 用 を五百 二十 万円 と見積 も って いる.
0
市街 編
第 六十 六﹄)0
五〇 五
ここで注意 す べき な のは'市区改 正計画が 明治十 五年 (一八 八 二) と いうごく早 い時期 から新 聞 により人 々に周知 さ せられ て
いた こと であ る。 こ の点 に ついて' 次 のよう な資 料 を紹 介 して いる (﹃
東 京 市 史稿
第 四節 甲武鉄道 の出願
第 八章 甲武鉄道 の開通
五〇 六
党 是 府 吏 委 員 ヲ シ テ本 務 上要 用 ナ ル諸 材 料 ヲ採 集 セ シ メ' 合 テ十 数 年 前 二肥 田浜 五郎 力規 画 セ シ東 京 湾 築 港 ノ図 面 ヲ以 テ仮 二問 題 ト ナ シ' 陸草
海 軍 工部 ノ三 省 駅 遮 土 木 ノ両 局 並 府 会 議 員 商 法 会 議 所 地 学協 会 三菱 会 社 工業 社 石 川 島 造 船 所 三 井 物 産 会 社 風 帆 船 会 社 其 他 諸 新 聞 社 二付 シ テ各 其
・
意 見 ヲ問 ヒ' 又 大 工輿 論 ヲ喚 起 セ ンガ為 メ' 諸 新 聞 紙 上 二広 告 シ テ世 人 ノ意 見 ヲ求 メタ リ キ。 英 二此 等 ノ大 事 業 ハ' 衆 説 ヲ集 テ参 検 ス ル ニ非 ン
ハ其 得 失 詳 カ ナ ラ ス。
明治 三十年 (1八九 七) の菅 原恒覧 ﹃甲武鉄道 市街線 紀要﹄ によればこ 石田ら東 京 の出資 者 は'も とも と漠然 と玉川上水通船
の有 利 性 に注 目 し' 羽村 ま で の計画 を立 て て いた ことが' たまたま有志 の勧誘 .
に訪 れ た先 の青梅 で' 石灰 の産 出 す る ことを知 る
や' ただ ち に青梅 への路線 延長 を考 え たと いう。 こ のこと は'第 一に' 彼 ら■
の目的 が輸送 対象 を問 わず 運賃 収 入 の最 大化 にあ っ
た こと'第 二 に'東京 で の前 述 のよケ な大規模計 画 に伴 う建 設資 材 の需要増 大 を'彼 らが意 識 し て いたと考 えれば 理解 でき る.
土淵真 佐子家文書 )。 設 立願 では 「
方今 道 路家屋 ノ築造 日 ヲ.
追テ
明治 二十 二年 '甲武鉄道 が開 通 した直後 に'岩 田らが 日野宿 及び立川村 地先 の多 摩 川原 から の・
砂利採取 を目的 とす.
る 「
多 摩 川砂
利会社」 を設 立 し て いる こと は' そ の傍証 にな ろう (日野市
相増 シ随.
テ是 二要 スル砂利 ノ如 キ益 々其需要 ヲ相 加 へ候 処御府 下近傍 二於 テ ハ之 ヲ生 出 スル場所 モ少 ク」 と述 べたう え で' 多 摩
次 に' 西 ・北 両多摩 郡 の境界 地方 の田村 ・指 周らが東 京 の出資者 に対 しt
.八王子 への延長 を勧め た
川 の砂利 が建 築 用 と し て一
良質 であ るが'交 通 の便 悪く利 用 不能 だ った こと'今般 甲武鉄道 の開 通 に伴 い' そ の運搬 が 可能 にな っ
た ことを述 べて い・
る。
・
八 王子市場圏 のひろがリ
こと の意味 に ついて考 え てみ よう。
明治十 六年 (1八八三)前後 には' 八王子 を中 心 とす る南多 摩郡 と東 京 と の間 の輸送 量 (
駄数 )は、前 述 のよう に西多 摩 及び北
多 摩 両郡 に及ば な か ったが (ただ し品 目を見 ると南多 摩 から東 京 への移 出 は織 物 と生糸 と いう凝 量高 価物 を中 心とす るから'価
額 で見 れば そ の地位 は相対的 に高 ま ると思 われ る)、そ の原 因 は、ひと つには、 当 時 三多 摩 と東京 と の間 の輸送が わず かな例外 を
除 いてほと んど陸 上輸送 によ って いた点 に求 められ る。当時 の陸 上輸送 が' 利 用 可能 な輸送 手段 の制
●約 から' 1時 に運 べる物 資
の量' 輸送時間 のいず れ でも内陸 水運 より劣 っており'特 に登坂 ・渡 河等 が大 き な障害 にな って いた こと は前述 の通 り であ る。
標高(
m) 御殿峠
2
0
0
5
0
1
5
0
0
さら に八王子 にと っ・
て主要 な移 出 入品 目 であ った生 糸 は' 横 浜 から輸 出 さ れ る 品 目 であ
り、利 用 でき る輸送 手 段が同 じならば迂 回 し て東 京 へ向 かう よりも'横 浜 へ直 接 に向 かう こ
偶 の道」 のひ
と にな ろう。 いま' 八王子 から原 町 田を経 て横浜 へ向 かう ル ート (いわゆ る 「
難所 を な し ており'甲 州
と つ' 図6参 照) と八王子 ・新 宿間 の甲州街 道 を と り' 八王子 を基点 としたとき の距離 と僚
によ る障害 は相対的 に軽 微 だ ったと思 われ る (
図7).
八王子市場 圏 のひろが り に関連 し て' 正 田健 一郎 (﹃八王子編物史
以上 の推 測が正 し いなら' 八王子 ・横 浜問 の輸 送 手 段 の改革 (
鉄道
五〇七
時 に' 八 王子 ・三多摩 地方 で産 出 す るそ の他 の品 目 の輸送 も 目個 と Lt そ の観点 から見 て最
敷 設等) により'生糸 の輸 送費 の低廉化 を めざす動きが出 る のは自 然 であ る。 ま た これ と同
「
地 元有志」 の利幸
を占 めて いく条 件 が存 在 したと見 る ことが でき る。
以上 のよう な事情 から' 山梨 ・長野産生糸 の横 浜 への中継 地 と し て' 八王子が 一定 の位 置
輸送 で甲州街 道 と競 争 す る には海 運運賃 が極 めて低廉 にならなければ ならな い。
る。 ま た長野県 では、 陸 上輸送 では甲州 経由 以外 は名古 屋 へ出 る こと にな るからJ東 京 への
高 価 な産 物 の移 出経路 だ った のであ り' それ は具体 的 には生糸 ・絹織 物 であ ったと推 測 され
れ た よう にt.
富 士川が米等 の重 量物 の輸 送路 と し て利 用 され た のに対 し て' 甲州街道 は軽 量
場圏 が 山梨 ・長野 両県 に及 ん で いたと主張 して いる。山梨 県 の移 出 入 に・
ついては' 先 にも触
上﹄
) は' 八王子 の市
向 かう ほうが はるか に短 - てす む。特 に生糸 のよう な軽 量高 価物 では'標高 差 の大 き いこと
上 に渡 河 の必要 が あ り' さら に新宿 から横 浜 ま で の輸送 を考 え ると'全行 程 では直接 横浜 へ
街 道 のほうが全体 に平 坦 に見 え る。 し かし' 甲州街 道 で は多摩 川 の河岸 段 丘 と築 堤 を越 え た
高 砂関 係 を比較 し てみ ると'前者 は御 殿峠付近 の標高 差が大 きく
図 7 陸運 2経路の比較 (
八王子か らの距離 と標高)
40
35
3
0
2
5
2
0
1
5
1
0
5
八王子か らの距離 (
k
m)
第 四節 甲武鉄道 の出願
1
0
0
第 八章 甲武鉄道 の開通
五〇 八
も有 利 と判 断 され るような' 別 の経路 で両地 を結ぼ う とす る動 きも現 れ てく るだ ろう。前者 は横浜 の生糸商 ら によ って武蔵 鉄道
計画 (
後 述) と し て具体化 した。後 者 が甲 武鉄道 であ る。.
明治維新直後 の二年 間行 われ た玉川 上水通船 は' 甲武鉄道 の先駆 と し
(2 )
によ るときが 八㌧ 五〇〇
往還 (
上野原 .槍 原 ・八王子) から玉川 上水・ (
3)甲府 ・丹波山 ・槍 原 ・八王子 に至 る ル ートから玉川上水 の三通
-)甲州街 道'
上﹄ によ ると' 明治 三年 (一八七〇) ご ろ の甲州 ・八王子 ・束京 間 の輸送経路 と し ては' (
て の意 味 を持 って いる。
新 平
﹃八王子織 物 史
(
2)
りあ り' 四谷 上野原 間 の駄賃 の 「一駄標 準 計算」 を見 ると (
-) にょ るときが 一万 三 二〇〇文 、
文 と大差 があ った。 ま たち ょうど同 じ時期'倉賀 野 ・東 京 聞 及び名古 屋 ・東京 間 に蒸 気船 が就 航 し て いる。 こ のこと に関連 し て
甲府 の運輸業者和泉 平右 衛門 は'名古 屋 から東 京 への蒸 気船 が就航 Lt飯 田から名古 屋 ま で中馬付 け通 したば あ い運賃 が低 廉 に
な ると の信州飯 田商 人 の話 を紹介 し て' 「左侯得 ハ' 是 又当 冬 ヨリ荷物 甲州街 道中 へハ運 送有 無難 計」 と述 べて いる。 こ のよう
な状 況 の中 でみ ると, 玉川上 水通船 には・ 八王子市 場圏 の甲信 両地方 へのひ ろが り の維持 を かけ・蒸 気船 二 ルー.
トと対抗 す ると
いう意味 のあ った ことが わ かる。実 際' 羽村 から の船 出 は毎 月 五 の日' 九 の日 で、A
,
)れ は八王子 の市 日 ・
(
四 ・八 の月 六斎) の翌
日 であ った。 し かし同時 に' 上水通船 の出願書 類 には見込 まれ る輸 送品 目と し て 「
粉糠藁 灰等」 「杉槍 薪炭 等」 が あげ られ て い
る。 こ の事実 は、 西多 摩 ・北多 摩 で生産 され る林産 品 の東 京 への移 出 と' 主 に北多 摩 で消費 され ると思 われ る肥料 の移 入を意味
し ており、 地方名 望家 であ る出願者 が'自 ら の属 す る地域 の経済 活 動 に密 接 な か かわ りをも つ品 目 の輸 送 も意 図 し て いた ことを
働 語 っで いる。 上水通船 は短 期間 で禁 止 され てしま い' 以後 再三 にわ た る 再開 願 にも か かわらずへ 許 可され る こと はな か った
が' 八王子市 場 と つなが る形 で大 量輸送 手段が得 られ る こと によ る地 域経済 の活 況 は、 地 元 の名望 家 を中 心 とす る人 々には'強
く 印象づ け られ たも のと思 われ る。以 上 のよう な事 情 を わき まえ た地 元′
の田村 ・指 田らが' 甲武馬車 鉄道 の八王子 への延 長 を勧
めた のは'自 然 であ ったと いえ よう。
注2
こ のよう に彼 ら は、 地方 の中 心人物 と し て八王子市場圏 に ついて展望 を持 ち、 か つ地域経済 の振 興 を はかる立場 にあ った ので
あ るが' それ だけ でな-'個別経営 上 の利害 から い っても、 八王子 への延長 を望 む条 件 をも って いた。 いま辛未 (
明治 四年) 十
月 二十 八 日 の日付 のあ る文書 「入置申 一札之事」 (
立川市
砂川昌平家文書) を見 ると、青梅村 から吉祥寺村 ま で の問 に二十 一
人 の舟 持 な いし船 頭総代が いるが' そ の中 で福生村 の田村半十即 は単独 で十 八般 を持 ち' 同 じ- 二十 二腹 を持 った砂川村 の砂川
源 五右衛門 (
憲1
1
1
) に次ぐ大船拝 だ った ことが わ かるO彼 ら は上水通船 で船持兼荷継商 の機能 を果 たして いた のであ り'鉄道 の
八王子 .
への連絡 の効果 に ついても'客観的知識 と して のみ でな-'鉄道開通 に伴-問屋営業 の再開等'自 己 の営業 に直接 かかわ
る こととしても受 け止 めて いたと思 われ る。
田村 ら の認識 は' 明治十九年 (一八八六) に彼ら自身発起人 にな って出願 した武甲鉄道 の 「
鉄道 設置願」 (
東京都 公文書館文
書) からもう かがう ことが でき る。
葱l
l当 府 下南 豊 嶋 郡 内 藤 新 宿 ノ儀 ハ' 甲 州 ・青 梅 南街 道 三跨 カ リ' 神 奈 川 ・埼 玉 ・山 梨 三県 下 二通 ス ル要 路 ニシ テ' 甲 府 ハ勿 論 ' 八 王 子 ・府
様 ヲ墨 守 セ サ ル ヲ得 ス。 故 二青 梅 地方 の如 キ薪 炭 等 ノ物 産 殊 二歩 シト錐 ト モ' 候 令 ハ
中 ・青 梅 ・所 沢 等 ノ各 駅 輪 湊 ノ都 会 有 テ物 産 甚 夕多 ク' 随 テ物 荷 ノ運 輸 人 民 ノ往 復 陸 続 織 ルカ如 シ。 然 シ テ八 王 子 ノ如 キ ハ馬 車 ・人 草 ノ設 ケ有
テ行 旅 往 来 ハ脚 力其 便 ヲ得 ルト離 ト モ、 物 荷 ノ往 復 ハ猶
之 ヲ府 下 三 冗却 ス ル ニハ壱 駄 ヲ引 テ往 返 二 日 ヲ費 ス故 二原 価 低廉 ナ リ ト錐 ト モ計 算 相 償 ハス シ テ山 野 無数 ノ物 産 モ繁 殖 ノ道 之 力為 メ ニ閉塞 ス。
山 梨 県 下 及 ヒ長 野県 伊 那 ・諏 訪 両 郡 如 キ .ハ' 物 荷 ノ往 復 此 ノ道 路 l
l出 ツ へキ モ' 運 輸 不便 ナ ルカ為 メ十 中 ノ七 八 ハ甲 州鰍 沢 ヨリ危 険 ヲ皮 シ テ船
ヲ降 シ為 メ ニ損 害 ヲ蒙 ル モノ年 年 砂 カ ラ ス
東京 の出資者 たちは'前述 のよう に輸送 され る品 目 のいかんを問 わず'輸送量 な いし運賃収 入が最大 にな るごと に.
:主 たる関
心があ ったと考 えられ る のであ り'従 って彼 ら は、 地域経済 の実情 を踏 まえ た田村 ら の勧 めに、納得 したも のであ ろう。
武 甲鉄道 の出 願 明治十九年 十 二月十 六 日 の武甲鉄道 の出願 の経緯 は' これ ま で見 てき たよう な地元有志 の利害 と、 そ の.
資金
調達 力 の限界 とを ふた つながら 物語 って いる。
と ほと んど同 一であ り,.
甲 武側 が路
武 甲鉄道 の計画線 (
路線 6) 紘,前述 の通 り甲武馬車鉄道が明治十 七年 に出願 した路線 3・
線 3から 4.
時変更 して免許 を得 た直後 に出願 して いる。そ こで甲武鉄道 の計画路線 を見 て い- と'路線 Iから3ま では玉川上水
に沿 って砂川 から福 生 を経 て羽村 に至る部分 を含 んで いる のに'路線4では、新宿 から砂川 ま では変 わらな いも のの'福生 や羽
第 四節 甲武鉄道 の出願
第 八華 甲武鉄道 の開通
村 より手前 の砂川 で上水 をそれ'福 島 (
現 昭島 市内) を経 て' 八王子 へ向 かう こと にな って いるC
五一
〇
注意 す べき な のはt
.明治十 六年 (一八八 三) から十 九年 の免 許 に いた るま で'甲 武鉄道 の出願者 に地 元有志 の名 が な-' 武 甲
鉄道 で は逆 に三多 摩在住 の出願者 が中 心 にな って いる こと であ る。武甲側 の漠触 れ を見 ると'東 京近 辺 の二人以外 は'福 生 の田
村 半十郎、 江 戸期 に玉川上 水 の役 人 を務 めた家柄 の砂川憲 三 及び羽村 の指 田茂 十郎 の玉川 上水沿 い三人t.
八王子近 辺 二人' 郷 地
村 (
現 昭鳥 市内).
一人 であ る。 ま た東京 の出資 者 のう ち' 岩谷松 平 は 「天狗煙草」 で有 名 な投機 的 な経営者 であ る。 この こと
は' 地 元 の出資者 をヰ 心 とす る武 甲鉄道 が'東京 で はかな り投機的 な性格 を持 つも のと し て受 け止 められ て いた ことを物 語 るだ
ろらノ
。,
甲 武鉄道 で路線変 更 に際 し て' ど のよう な意 思決 定 のプ ロセ スを経 た かは不明 であ る。 ただそ の経営方針 が'当 初 かな り閉鎖
的 か つ排他的 であ った こと は' 岩 田作 兵衛 の次 の証 言 からも知 ちれ る (
鉄道時 報局編 ﹃日本 の鉄道論 ﹄
)0
さんご
其傍 に金 の心配 も せねは なら ぬ' 此馬車 鉄道 の資 本金 は三十 六 万円と 云 ふ勘定 であ りま したが'井 関 さ んは これを株 式 にせず にti
.とう かし て自
分 共 三 五人 で持 ち た.いと 云 はれ る' 其処 で私 はみ なたき へ承知 な ら私が金 は拓 へて来 ると 云 ふた' ソ Iせると 己 の名 で出来 るかと笑 って居 られ
)
たが' 私 は其 頃有名 の亜米 一 (ゥ ォ ル シ ュ ・ホ ー ル商 会 -引用老 ) にブ ツ つか って' 通弁 の小 泉敦 と 云 ふ人と 一緒 に行 って借金 の相 談 を申 込 む
と、 一遍 で承知 し て呉れ まし て井 関 を件 れ て来 いと 云 ふ のです' それ で ナ数 回往 ったり釆 た り し て居 る中 に' 三十 六万円残 らず貸 すと 云 ふ事 に
な り まし た。
い せきもりとめ
井関 盛 艮 の発 言 は'直 接 には資金 の調達方 法 に ついて いわれ て いる のだが' これ は当 然 経営 上 の意 思決定 権 を独占 しよう とす る
意 図 と' 結 び つくも のと見 るべき であ る。
他方' 武甲鉄道 出願 の中 心人物 であ る田村 ・指 田ら は甲武鉄道 の路線変 更 により沿線 から外 れ る村 に居住 し て いる。彼 ら にと
り、 計 画線 が自 分 の居村 を通過 し て いる限 り'自 ら資 金 を出 す こ七な- そ の恩恵 を受 け る ことが でき る ので'助 言も含 め協 力 を
いとわ な か ったと思 われ る。 し かし'彼 ら の関与 せぬと ころで路線 が変 更 され' 彼 ら の経営 上 の利 益 はお ろか'自分 の居村 の属
す る地域 (この例 では北多 摩 と西多 摩 と の境界 地域) 全体 と し て の経済 上 の利 益 ま でも損 なわれ る危険 が生 じ た。 こ のことが彼
ら に'自 ら甲武鉄道 の意 思決定 に関与 す る必要 を認識 さ せ、 そ の結果'彼らが経営参加 と路線変 更 のふた つの目的 をも って武甲
鉄道 を競験 したも のであ ろうO.
∼
甲武鉄道 と武甲鉄道 は'当局 の指導 と雨宮 敬次郎 の仲介 と により' 明治 二十年 (一八八七) 二月 に合 周 した。そ の際甲武側 で
作成 され たと思 われ る覚書 (1月三十 1日付断簡) には次 のよう にあ る (
紅 林 順1
1
1
家文書)o
一 御内論 二基 キ鉄道 願意御 認 可之上 は線路沿 道 地方之老 共 工株券 之内十 万 円丈 ケ分割株 主も仕候 間此旨御 承知 可被成侯 以上
一 両 豊嶋 郡
一 新 座郡
一 北多摩 郡
右 八万円分
一 南 多摩郡
右 二万円分
〆十 万 円
、
資本.金 六十 万円 のう ち東京以外 の沿線 で負担す る のは十 万円 に過ぎ な いb経営 上 の意 思決定権 を手中 にす ると いう東京 の出資者
望 息図 は' 地方名望家層 の参加要求 に妥協 しなが らも貫 かれ て いたと見 るべき であ ろう。
地元 の中心人物 であ り'資産家 でもあ りなが ら' 地方 出資者 の利害 が このよう に中央 の.出資者 の利害 によ って圧倒され てしま
う原 因 は'結局 のと ころ両者 の資金調達力 の差 に求 められ ると思 われ る。井関盛良 はも と神奈川県令 で社会的信用もあ り'岩 田
は彼 の名 の下 に亜米 1と交渉 して三十 六万円 の融資 の約束 を取 り付 け る ことが でき た. 1万' 三多摩最大 の地主 であ った田村 は
大正十 四年 (一九 二五)時点 で水 田六町歩'畑 二百四町歩 を所有 して いた。今 この所有規模が明治十年代末 でも変 わらな いと仮
定し (
過大推計 の可能 性が高 い)、当時 の反あ たり土地価格 を仮.
に水 田七十 円' 畑十 五円として計算す ると、 そ の資産 は三万 四
〇分 の 一にすぎ な い。
千 八百円 で' 三十 六万円 の 一
第 四節 甲武鉄道 の出陳
第 八章 甲武鉄道 の開通
五 一二
地方 の出資者 と中央 の出資 者 の資 金 調達 力 の差 を示す 例 は、 甲武 鉄道 よ り五年 遅 れ て開 通 し.i
Z川越 ・青 梅 両鉄道 にも見 る こと
が でき る。 ど ちらも 地 元 の名 望家 たち によ って発 起 され たが' 川越 鉄道 (
国分寺 ・所 沢 ・川越) が甲武鉄道 の支線 と し′
てそ の主
導 下 で建 設 され た のに対 し' 青梅 鉄道 (
立川 ・日向和 田) は、 田村 ・指 田らが当初 甲武鉄道 に支線 と して賂 設 を要請 したが拒 ま
れ' 地 元 の出資 者 の努 力 で建 設 を行 った。 そ のた め' 川越 鉄道 のゲ ージが 日本 で標 準的 な三 フ ィート六 イ ンチな のに対 し' 青梅
注3
鉄道 は二 フ ィート六 イ ンチ の狭 々軌 であ った。 ただ し'営 業 開 始 後 の青 梅 鉄道 の経 営 は' 石灰 石 の輸送 を中 心 と し て好 調 であ
り' 明治 四十 一年 にはゲ ージを三 フ ィート六 イ ンチ に改 修 し て いる。 これ から み ても'青 梅 鉄道 より はるか に大規模 な武甲鉄道
の計 画 を' 地 元有志 の力 で竣功 す る こと は困難 であ り、 こ の計 画自 体 が' 甲武鉄道 への経営参 加 を要求 す る手 段 であ ったと'考
え を ほうが合 理的 であ る. ま た' そ のよう な要求 に対 し'中 央 の出資者 が妥協 せざ るをえ な か った のは'彼 らが名望 家 と し て'
武蔵 鉄道 は明治十 九年 十 二月 二十 八 日、 武 甲鉄道 より十 二日遅 れ て出願 した。 そ の発 起 人 は横 浜 の生糸 商 原
地域住 民 を組織 Lt協 力 さ せる力 を持 って いたた めと考 え られ る。
武蔵 鉄道 の出 願
書 三郎' 茂木 惣兵衛' 八王子 の呉服買継商 谷 合弥 二を はじ めとす る十 四人 で' 地域別 の内 訳 は八 王子 六人' 横浜 八人 であ った。
図 6)' 当時 の日本 の主要輸 出品 目 であ る生糸 の横 浜 への輸 送 と いう観点 から見 るとき' 経済 合 理
ま た株 式 の配分 は' 八王子関係者 二へ〇〇〇株' 横 浜関係者 三'〇〇〇株 であ .
って' これ以外 の地域 から の出資 は予定 され て い
い。
な
こ の計 画路線 は (
路 線7
性 の点 で甲武鉄道 を上 回 って いた可能 性が あ る。
武蔵 鉄道 の発 起 人 から提 出 され た敷 設願 を み ると' こ の鉄道 が横 浜 から の輸 出品 と し て の生糸 のはか'絹織 物等 の八王子市場
に集 散 す る生産物 の運 搬 を目指 し て いた ことが\
わ かる (国立 公文書 館所蔵 ﹃公文 類 釆﹄)0
八 王 子 ノ主点況 ヲ見 ル ニ(
中 略)右 ノ如 ク繭 糸 ・織 物 ノ産 額 ハ逐 年 増 殖 シ' 石油 ・鉄物 ・米穀 其 他 他 方 ヨリ輸 入 スル物 品 ノ数 量 モ亦 随 テ増 加 シ、 横
浜 ・八 王 子 間 ノ関 係 ハ向 来 益 々盛 大 ト ナ ル ベキ模 様 二有 之 侯 。 依 テ 一朝 此 両所 ノ間 二鉄 路 ヲ敷 設 セ ハ将 来 八 王子 近 傍 ノ産 出品 ハ容 易 三見浜 ノ需
要 二応 シ' 且 ツ京 浜 物 品 ノ供給 ヲ シ テ同 地方 二速 ナ ラ シ ムル ハ必然 ノ義 卜存 侯 。 是 レ私 共 力鉄 路 ヲ以 テ之 ヲ連 続 セ ント企望 ス ル所 以 二有 之 侯 。
表 4 各鉄道の建設費の内訳 (
単位%)
金
森
名
架
第 四節 甲武鉄道 の出願
(
官設)東海道線
¥
橋.
.測量
I .用地
隆
道
軌 .追
停車場 . 車両
建設費合計
2
2
6
8
1
4
5
1
7
3
7,
81
9
4
3
2
0
3
9,
5
.
3
2
日 本
鉄
道
1
5
6
阪
堺
鉄
道
l
l
1
3
0
1
8
1
7
9
2
5
4
0
0
伊
予
鉄 .道
6
1
6
1
2
2
5
2
0
1
8
8
山
陽
鉄
1
4
1
3
6
1
6
3
1
4
1
6,
3
7
4
道
鉄道局 より甲武鉄道開業以前に開業の分.明治3
0
年現在。
但し 「
鹿設費合計」は単位千札
表 5 甲武鉄道工事予算の内訳 (
単位%)
敷
地 土
馬車(
M1
8
) 9.
9
※
工 架
橋 内鉄橋 軌
1
5.
7. 0.
9 ナ
シ
道 付属 品 a .
# 草
4
9.
0 ナ シ
4.
0
両 内機関車 %A
の他 合(
円)
計
1
4.
5 (0.
0
4
) 5.
8 2
7
6,
2
6
9
「馬車鉄道建設工事予算 (
明治1
8
年 5月)および 「
鉄道布設工事予算 (
明治1
9
年1
2月)」 に
よる。
「
敷地」は用地買収費用。「
土工」は砂利代金および作業月賃金。「
架橋」は鉄橋、小橋、伏
樋等。「
軌道」はレール、枕木、継手、犬釘等の他 レール据 え付け工事の賃金 を含むO「
付
属品」はシグナル、 ウヲ- トタンキ トルチンチーフル、 ポイン ト (
以上原文のまま)等。
「
建築」は社屋、駅舎、柵。「
車両」には馬匹および馬具 を含む。「その他」は什器、創業
費等. また、計算め対象 となった区間は馬車鉄道 (
明治1
8
年)が新宿 ・福 島 (
現東京都昭
9
年)が新宿 ・八王子間である。
L
島市)間、蒸気鉄道 (
明治1
それ にも かかわらず'経路 を横浜 ・八
王子間 にせず、川崎 ・
L
八王子間 とした
理由 と して 「
敷設願」 は'第 一に地勢
が平坦 で坂 や河川が少 な いこと'第 二
に川崎が東京 と横 浜 の中間 地 点 で あ
り'横 浜 ・八王子 と東京 ・八王子 の二
経路 の利点 を合 わ せも っことが でき る
ことをあげ て いる。
今 日からみ ると' これ ら の理由 は合
理的 と思 われ る。第 一に' 地勢 の平坦
な こと'特 に河川 の少 な いこと は' 架
橋 工事 が当時相当大き な資金 を必要 と
した こと から'重要 な意味 をも った。
ヽ
例と して甲武鉄道以前 に開業 した鉄道
各線 の中 で明治 三十年 (一八九 七) 覗
在営業 中 のも のに ついて'建設費中 で
主要項 目 の占 める割合 を みると' 架橋
〇 な いし二〇 パ
費 は伊予鉄道 を除き 一
ー セ ントで' 測量 ・用地買収 ・軌道 ・
車 両等 の費 目と同 じも し- は これ らを
五 二二
標高 (
m)
八王子か らの距馳(
k
m)
45
図 8 鉄道 2経路 の比較 (八王子か らの距離 と標高)
第 八章 甲武鉄道 の開通
新宿
40
3
5
30
25
20
1
5
1
0
5
上 回る値 にな って いる (
表4)0
五 一四
架橋費 用が鉄道建設 にと って大 き な負 担 にな る状態 は' そ の後 長 い間 続 いて いた よ.
う であ
る。 今 日新 宿 ・八王子間 を結 ぶ京王電鉄 はヾ 大 正五年 (一九 二 ハ) に新宿 ・府中 間 で開 通
し'多 摩川鉄橋 を含 む府中 ・八王子間 は大 正十 四年 に玉南電車 と いう別会社 と して開通'後
に両社 が合併 す る こと で成立 した。社名 からも分 かるよう に東京 ・八王子間 の連絡 を めざ し
て発 足 し た京 王電鉄が' このよう に変 則的 な開業 のし かたを した のは清 水正之 によれば多摩
川架橋 の費 用が調達 困難 だ ったた め だ と い -。 ちなみ に'甲武鉄道 が明治十 八年 (
馬車鉄
道) 及び十九年 (
蒸気 鉄道) に提 出 した工事 予算書 を再集計 す ると表5 のよう にな る。馬車
鉄道 で多摩 川 ・浅 川 にかかる路線 を含 まな い計算 に比 べると'架橋費 と車 両 (
特 に機関 車)
費 が大き- な って いる。 こ のよう な事 情 で鉄橋自体 が珍 し か ったた めであ ろう'明治 二十 二
年 四月十 日付東京朝 日新聞 の甲武鉄道開通 を報 じた記事 には'沿線 の名所 と し て 井 の頭弁
天 '小 金井桜へ 武蔵 国分寺跡等 と並 んで 「玉川 の鮎漁' 立川 の鉄橋等名所要 地等 同鉄道 の便
によるむ の少 な からず と いう」 と多摩 川 の鉄橋 があげ られ て いる。
さ てへ 甲武鉄道 が こ 9よう に多 摩 川 ・浅 川 にかかる橋 梁 工事 を要す る のに対 し'武蔵鉄道
は'全線 が多 摩川 ・浅 川 の南岸 にあ って大き な架橋 を要 さな い。 こ の両路線 (
推定線) に つ
いて' 八王子 を基 点 と した距離 と標高 の関係 をみ ると'武 蔵 鉄 道 のほうが全体 に平坦 であ
睦4
8)0.
これ は必要 とす る建 設費 の点 で' 甲武鉄道 に比 べあき ら
り' 河川 とも交 差 しな い (図.
か に利点 にな って いる。
また' 前述 のよう に' 八王子市場が甲信 両地方 から生糸 を集荷 Lt横浜 へ送 る中継点 とし
て の割合 を担 って いた以 上' そ の需要 に こたえ る ことを目的 とす る路線 としては東京 へ迂 回
す るよりも'横浜 から より近 い川崎 へ向 かう ほうが合 理的 であ る。
沿線 から の生糸 の集荷能力 に ついて考 え てみ ても'武蔵鉄道 は甲武鉄道 を上 回 って いたと思 われ る。前掲 の表 2 では'南多 摩
郡 と東 京 と の間 の移出 入駄数 は西多摩 ・北 多 摩両郡 より少 なく' こ の両郡 を通過 す る甲武 鉄道 のほ-が輸送 に対す る需 要 が大 き
。
そ の武相 地域 の生糸等 の集散 地 であ った原 町 田と'
いよう に思 われ るが' 生糸 に ついて見 る かぎ り' この両郡 で養 蚕製糸 が本格的 に盛 ん にな る のは明治 二十年代 半ば 以降 であ り'
こ の時点 では武蔵 ・相 模 の境界 地域 (
通称 「武相 地域」) に及ば な か った
横 浜 と の間 の流 通 量を考 え ると' この舟 のかな り の部分 を吸収 しう る武蔵鉄道 は' 甲武鉄道 より有 利 であ ったと思 われ る。
以 上 の点 から考 え ると'少 なく とも輸 出向 け生産 物 であ る生糸 の コストダ ウ ンと いう視 点 から は'武蔵鉄道 のほうが有効 であ
ると の見方 が成 り立 つであ ろう。
神 奈 川県知事 沖守 国 は次 のよう な理由 から武蔵 鉄届 を支 持 した。① 八王子 ・川崎 線 のほうが生糸輸送 の需要 により良 - こたえ
- ると いう経済 効果 と' ② 人的交 流 の面 で県庁 所在 地 と県 下各 地 とを他 の府 県 を経 る こと な-直接 に結 び得 ると いう県治 上 の利
点 の二点 であ る。次 にそ の上申 の 一部 に ついてみ てみょう。
原書 三郎外 十 二名 ノ願意 タ ルヤ(
中 略)管 下三多摩 郡 ハ勿論' 山梨県 下等 ヨリ輸出 スル所 ノ生糸 ・織物 其他 ノ物産 ヲ横浜港 へ運搬 スル ニ (
中 略)
今 鉄道 ヲ八王子 ・川崎間 二布設 セバ' 八王子 ・横 浜間 ノ交通 ハ忽 チ開通 シ'前 述 ノ不便 ・不利 ヲ免 ル ーノミナ ラ ス、 該鉄道 ハ京 浜問官 設鉄道 二
接続 スルヲ以 テ東京 ・八王子間 ノ交通 モ充 分 ノ便益 ヲ得' 1挙 両得 ノ策 ナリト云 フ ニ之 アリ. (
中 略)尚 ホ本県県治上 の利害 二照 ゾ之 ヲ考 スル
ニ(
中 略)若 し之 ヲ川崎 路線 二取 ラ ス ソ ハ' 三多摩郡 地方 官 民 ノ交通 ハ常 二他管 タ ル東京府 下 ヲ経 由 セサ ルヲ得 サ ル.
姿 二相成'自 然 一県 下 ニア
リナカラ全然分裂 ノ状態 ヲ現 出 ス へク'実 二不都 合 ノ至 リ ニ之 アリ (
後 略)
ここにあげ られ た理由 のう ち特 に後者 は'自 己 の管轄 地域 の 二刀的 な把 捉 を志 向す る県官 僚 固有 の利害 と いえ る.沖 は当 時'横
浜 の有 力商 人 たちを相 手 に県当局 の指導 権 を確 立す るた め に心を砕 いており'管轄 地域 の 二刀的把 握 に対 す る要求 は特 に強 か っ
たと思 われ る.
これ に対 し て'当時 の内務大 臣山県有 朋 は' 「
汽催 事鉄道布 設 の件」 と題 す る建議 を提 出 し' 甲武鉄道 を支 持 した。 そ の主旨
第 四節 甲武鉄道 の出願
第 八華 甲武鉄道 の開通
五 一六
は、 ① 横浜 ・八 王子間 の物資 流通 は、東 京 ・八王子間 に比 べ品 目も偏 り、 量も わず かであ る。②横 浜 の便 香 のみを考 え て首府東
京 の利 を等閑 にす る こと は許 され な いと いう 二点 にあ った (
国立公文書 館 所蔵 ﹃公文塀 釆 ﹄
)0
其 川 崎 '八 王 子間 二布 設 セ ント ス ル モノ ハ' 線 ヲ八 王 子 二起 シ、 東 京 ・横 浜 ノ中 間 ナ ル川 崎 二於 テ既 成 ノ官 線 二結 ヒ' 京 浜 両 地 ノ便 二供 セ ント
ゝ .
ノミ ナ ラ ス (
中 略 ) 又横 浜 ・八 王 子間 の関 係 タ ル多 ク ハ其 季 節 工於 テ 一時 僅 々少 量 ノ生 糸 其 他 ヲ輸 出 ス ル ニ過 キ スシ テ' 東 京 ・八
ス ル ニ在 リ ト錐 モ、 此 等 各 地 ニ
・
蘭 係 ヲ有 セ ル.場所 二於 テ布 設 ス ル鉄 道 ハ必 ス先 ツ首 府 ヲ以 テ基 点 ト シ、 而 シ テ他 ノ各 名 邑要 区 l
l連 絡 ヲ取 ルヲ原
則 ト セラ ル
王 子 間 ノ如 ク 一歳 聞 古貨 ノ出 入行 旅 ノ送 迎 ヲ断 タ サ ル ノ関 係 ト ハ大 差 ア ル哉 l
l認 メ う ル レ ハ' 横 浜 ノ便 苧 l係 ル 1点 ヨリ言 フト キ ハ' 或 ハ少 シ
ク遺 憾 ナ キ ヲ得 サ ルト ス ル モ' 其 力為 メ主府 ノ関 係 ヲ柾 ケ計 画 ノ大 要 ノ誤 ル へカ ラ ス
こ の五 日後' 鉄道 局長官井 上勝 も山県 を支持 す る意見 を述 べて いる。
横 浜 から の生糸輸出 は'殖産 興業政策 をすす めるた め に' 必要 な外貨 を獲得 す る手段 と し て重要 な意 味 をも って いた。
︰そ の輸
出品 目 とし て の生糸 の コストダ ウ ンのた め の手段 と し て出願 され た武蔵鉄道 に ついて' 山県 の建議 が 「一時僅 々ノ生糸其他 ヲ輸
出 スル 1
1過 キズ」 と述 べて いる のは不自 然 に思 われ る。 しかし' 山県 は明治十 六年 (1八八三) 慢軍参謀 本部 長 と し て幹線鉄道
v<
を内陸部 に設置す べLと の建議 を お こなう など、 軍事 (
特 に陸 軍)官 僚 の利害 を代表 す る人物 であ り、 ま た御 厨貴 によれば 明治
なら
十 九年当時 は内 務大 臣 と し て東京貯知事 芳川 顕正 らと とも に'首都東京 を ベルリ ンや第 二帝政 下 のパ リ に倣 って政治 ・文化 の中
しりぞ
心 にしよう と いう 「
市区改 正計画」 に与 し て いた。 ここから構想 され て- る のは、 東京 を中 心 と した放 射状 の鉄道網 であ り、東
京 を迂 回 し て各 地方 間 を直結 す るよ- な計 画 は二義的 と みなされ る か'東京 を基 点 とす る鉄道 と競 合 す るも のとし て斥 けられ る
こと にな ろう。 こ のよう な事情 を考慮 に入れれば、 武蔵 鉄道 に対 す る山県 の否定的態度 も 理解 でき る。そ し て彼 の意 見 は中央政
ここで'当事 者 の利害 に ついて' これ ま で見 てき た ことを簡 単 にまと めてノお こう。
府 全体 の方針 と し て容 れ られ る こととな ったO神 奈 川県知事 の上申 は' こ のよう な中央政府 の方 針 に抵触 した のであ る。
まとめ
まず出資者 に ついて言 えば'資 金力 では明 ら か に東京 ・大阪等 の中央 の出資者 が圧 倒的優 位 にあ る. こ の点 は杉 山和雄 「明治
三十年 代 におけ る鉄道会社 の大株 主 と経営者」 ﹃(
成膜大学) 経済 学部論集﹄ からも明 ら かであ るが、 明治 三十年度末 現在開業 の
私設鉄道 三十 二社 のう ち'十 1社 が東京 1大 阪 ・神 戸 に本社 を置き' これ ら十 一社 だけ で私鉄 の開業線 路総 マイ ル数 の六 五 パ ー
注5
セ ント' 同 じ-払込済資 本金額 の五六 パ.
- セ ントを占 めて いる ことも' そ の癖 証 とな ろ-。彼 ら は投下資金 に対 す る利 回りが最
大 にな るよう'収 益性 の高 い路線 を選定 しょう と し た。
し かt t 出願 の際 の路線決定 にあ た って はヽ 鉄道 が通過 す る地方 の有 力者 な いし名 望家 と い った層 の意 向 を無視 でき な い. こ
甲武鉄道 のば あ い、 西多摩' 北多
の階層 は地方 の経済 の実態 に通暁 し て いると共 に' 地方 の 一般住 民 を組織 し て協力 さ せる力 を持 って いるから であ る。彼 ら は こ
れ ら の能 力 を背 景 に、 中央 の資金 を導 入 しなが ら'自 らも経営 に参 画す る こと を求 めて い{
摩 両郡 の境界 地域 に居住 した田村' 指 田らを中 心 とす る 「地 元有志」 は中 央 の出資者 を説得 し て'東 京 ・八王子 ル ート に中央 の
資 金 を導 入す る こと に成功 し て いる。
これ に対 し て' 中央資金 の導 入 に失敗 し' 地 元 の資 金 に依 存 し て鉄道 を敷 設 しょう とす るば あ い'多 く は馬車 鉄道 ・人事 鉄道
や' 軌 間 の狭 い軽便 鉄道 と し て実 現 した。 こ のよう な ケ ー スでは'計 画 され た路線 が東 京中 心 の鉄道網 に直 接連 絡 し て いな か っ
澄6
たり'河 川船 運等 旧来 の交 通網 に沿 う か' ま た はそ の培 養線的 な役割 を持 たされ て いる ことが しば し ば あ る。 これ ら の 「小鉄
道 」 は' そ の後 の交 通網 の再編 の中 で収支 償 わなく なり'廃 止 され て い った例が多 か ったと思 われ る。
政府 も ま た中央 と地方 で利害 に相 違があ る。知事 を はじ めとす る府 県 の官 僚 は' 中央政府 により任 命 されへ そ の直 接 の管 理 の
下 にあ った。 し かし'彼 らも委譲 され た権 限内 では相対 的 に独自 の意 思決定 をな しえ た し'実 際府 県会 (しぼ 七は 地方 名筆 家層
の利害 を代表す る) と対峠 す る中 で' そう し た意 思決定 を迫 られ る傾向 にあ った。 地方官 僚 の関 心 は'管轄 地域 の行政的 な把 握
にあ り、 ,
.)のこと は県都 の政 治的 及び経済 的 地位 む向 上 さ せる志 向 と不可分 であ る。 こ の点 は中央 ・地方 と レベルこそ違 うが'
中央政府 が東京 の政治的 卜経済 的 地位 を向 上 さ せる志 向 を持 った のと軌 を 1
1に し て い る。前述 のよう に当時'鉄道 の免許出願
は' 本社 所在 地 の所轄府 県庁 を経由 す るよう定 められ て い た か ら' そ の際 に府 県知事 は出願者 に対 し' 路線 選定等 の面 で指導
し' そ の路線 が県治 に必要 と の判断 にた てば'中 央官 庁 に対 し添申 ・伺 ・要請等 の形 で意 思表 示 をす る ことも あ った。中 央政府
も地方統 治 にあ たる彼 ら の意 思表 示 を無 視 す る こと はできず' な んら か の対応 を迫 られ る こと にな る。甲武鉄道 の例 では' 横 浜
第 四節 甲武鉄道 の出願
第 八章 甲武鉄道 の開通
五 一八
を中 心 と して県内主要 地点 を結 ぶ必要 を述 べた神奈 川県知事 の主張 は'東 京 の政治的 ・経済 的 地位 の向上 を めざ して いた中央政
府 の方針 と抵触 Lt認 められな か ったが' 明治十九年 から 二十年 にかけ福 岡 ・熊 本 ・佐賀 ・長崎 の四県令 が総 理大 臣 に対 し'官
設 では工期 の遅 れが ちな幹 線 鉄道 の早期 実現 のた めへ 九州鉄道 を認 可す るよ-上申 Lt 認 められ た例 にも見 られ ると おり'府 県
から のこ のよう な要望 は容れ られな いわけ ではな い。
さ て' 以 上 のよう な諸関係 の中 で形成 され て- る鉄道網 は'結果的 に見 るなら'中央政府 の政治的 必要 におおよそ沿 うも のに
な ると同時 に'東 京市場 を中 心 に見 るかぎ り' 貨物 の集散 の点 でも' 人的交 流 の点 でも中 心 とな る こと から' そ の経済 的発展 に
対 し て\
は' 大き な効果 を持 つこと にな った であ ろう. しかし これ は東 京 を中 心と し て見 たば あ いであ り' 旧来 の商取引 の中 心 で
あ った大 阪市場 を中 心 と し て見 ると' この鉄道網 の経済 的意義 は' 必ず しも高 いと は言 えな か ったよう であ る。 明治 三十年代中
ご ろ' 鉄道 国有化 と関連 し て闘 わされ た論戦 の中 で'活 動 の根 拠 を大阪 に置 いて いた南清 が当 時 の鉄道網 を 「
支離滅裂」 と評 し
た のに対 し' 工部省御 用掛 ・逓 信省鉄道技師 ・鉄道局運輸課 長等 を歴任 した仙 右京 (
仙 石貢 「
鉄道 敷 設 の方針」﹃
鉄道時報﹄ 一九
三号) が真 っ向 から反対 し' 経済 上 の要求 に叶 って いると主張 をし た のも' これ を反映 す るも のであ る。 両者 の主張が こ のよう
に対 立す る こと にな った背 景 を考 え てみ ると' 南 が大 阪中 心 の商品流通 の海 上輸 送 から'鉄道輸送 への転化 と いう視点 から' す
で に形成 され た鉄道網 と彼 の構想 し て いた日本海側 に重点 を お いた鉄道網 と のあ いだ で' ど ちらが経済 合 理性 に叶 って いるかと
い-判断 を し て いる のに・
対 し' 仙石 は' 明示 し ては いな いも の の'東 京市場 を中 心 とした視 点 で'軍事輸送も意識 したう え で の
判断 にな って いると思 われ る.
。 こ のよう な対 立 は東京 と大阪 の間 のよう に顕在化 しな いま でも'中央 と地方 の間 に常 に存在 し て
いたと見 るべき であ ろう。
2 地元有志 の行動 に ついて考えるには、当時 の三多摩地方政界 の動向を考慮 に入れる必要があ るだ ろう。・
三郡 の-ち南多摩 は村野常右衛門や石坂昌孝ら の影響下
注 - この調査は'火災保険制度 の導 入と関係 して実施 されたも ののようであ るC
にあ って自由党 の力が強-'神奈川県と のつながりが深 か ったが'他 の二郡、特 に北多摩では自由党 の影響力は比較的弱-、政治的 には中央志向 の傾向が強 か
「
実業者相談会」等 の名称 で政治色を薄 め、あ るいは郡役所 の協力団体 のような形をとること によ って' はじめて地元
ったと いわれるC田村らが東京 に直結す る甲武鉄道 に協力的だ った のも このことと無関係 ではな いだ ろう。北多摩郡では'中央政府 にた いす る反対党として旗
職を鮮明 にす ること によ ってではなく
の有力者を組織す ることが できた。 この傾向を反映 して'明治 二十年代 に北多摩郡では改進党 の影響力が強まる (
第 二章参照)
。
3 立川 ・青梅間 の鉄道敷設と石灰 の輸送は'甲武鉄道 のそもそも の月的 であ ったOそれにもかかわらず'田村 ・指田らによる申 し出を甲武鉄道が拒否したのはt
.
当時 甲武鉄道が新宿 ・飯 田町間 の市街線建設に力を入れていたためだと いう。開業後 の甲武鉄道が'当初目的とした都市間貨物輸送 の役割以上に、市街な いし
郊外鉄道としての性格を強 めていた ことをうかがわせる。
4 武蔵鉄道 の計画線 は'今 日の京王線 のうち八王子 ・聖蹟桜 ケ丘間'南武線 のうち南多摩 ・川崎間を つないだも のに近-'目論見書 によればそ の通過地は川崎 ・
南州原 ・戸手 ・古川 .
・
鹿 島 田 ・市 ノ坪 ・今井 ・小杉 ・宮内 ・北見方 ・諏訪川原 ・二子 ・溝 ノロ ・久地 ・宿川原 ・登戸 ・生田 ・菅 ・矢 ノロ ・東長沼 ・大丸 ・蓮光
寺 ・関戸 二 宮 ・落川 ・百草 ・三沢 ・南平 ・西長沿 ・北野 ・元子安 ・八王子 の三十三箇駅村 であ った。
5 株式会社 の配当率 およびその安定性を決定す るうえで'重要な要田として減価償却 の実施があ を。出資者 は投資 の意志決定 にあ た って'会計 システ ムが固定資
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ng)制度 を採 っている。固定資産 は 「
建設費」として計 上さ
であり、.
日本でも明治三十九年時点では、 1部 の例外を除 いて各社が取替会計 (
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産 の保全を保証す るも のであるか否かに注目する。しかし'(
高専貞男 ﹃明治減価償却史 の研究﹄
) によれば' 一般に鉄道業 は減価償却制度 の導 入が遅れた業種
れ'当初 の価額が毎年変わらず に営業報告書 に掲載 される。従 って投資者 の関心は営業係数 (
運賃収 入を営業費 で割 ったも の).
および建設費 に向けられたよう
である。このことは暗黙 の裡 に営業費中 の固定資産 の修理保全 ・交換 にかかる部分が'単位距離あたり の建設費 の額 に比例することを前提としていることにな
人草鉄道 は 一部を除 いて貨物輸送を目的とす るも のが多か ったが'そ のなかには河川船運 の河岸を起点とす るも のも しばしば見られた。
る.しかし実際 にはこの比例関係が必ず しも成立しな いことは'当時 の論者も指摘していた。閑 1 ﹃
鉄道講義要領﹄ はそ の 1例であ る。
6 老川慶喜 「
明治期地方鉄道史研究」 ﹃
鉄道史叢書﹄ は馬串鉄道 の例をとりあげ ている。また'伊佐九三四郎 ﹃
幻 の人事鉄道 豆相人草 の跡を行-﹄ によると、
第 四節 甲武鉄覚 の出願
甲 武鉄道 と川越鉄道
これ ま で に見 てき た よう に' 中 央 政府 と地方 政 府 ' 中 央 の出資 者 と地方 名 望 家 た ち のそ れ ぞ れ の利害
鉄 道 敷 設 への国 分 寺 村 の対 応
第 八章 甲武鉄道 の開通
第 五節
一 鉄道開 通 ま で
小 金井 駅 か 国分 寺駅 か
が 作 用 し合 った結 果' 甲 武 鉄 道 が新 宿 と 八 王子 を結 ぶ路 線 で開 通 す る こと にな った (図9)
.. そ れ で は' 国分寺 村あ る 小は.国分
寺 を含 む北 多 摩 東 北 部 はへ こ の鉄 道 の開 通 にあ た ってど のよう な動 き を み せ ただ ろう か。
結 論 から述 べ るな ら' 北 多 摩 ・西多 摩 両郡 の境 界 地域 に属 す る名 望 家 た ち (田村、 指 田' 砂 川 ら) が 甲 武 鉄 道 の誘 致 に熱 心 で
あ り、 中 央資 金 の導 入 に向 け て積 極 的 に動 いた と みられ る の に対 し' 国分寺 村 近 辺 の人 .々の動 き は こ の段階 で は ほと んど みられ
な いと い ってよ い. おそら く ' こ d地 域 は、 江 戸 からも 近 -、 物 資 の大 量輸 送 はとも かく も' 人的 交 流 の面 で は近 世 から 「
江戸
稼 」 等 の形 で往 来 が しば しば あ った た め、 鉄 道 のも つ意 義 が 明確 には認 識 さ れ に- か った のであ ろう 。
し か し' い った ん鉄道 の敷 設 され る ことが 決 ま り' 村 に駅 が 設 置 され る か否 かと いう 段 にな れば 、 話 は違 ってく る。
当 時 甲 武 鉄道 沿 線 は' 前 述 のよう に多 摩 川 の砂 利 以 外 は' 炭 や薪 等 の若 干 の産 物 が あ るだ け の' 経済 的 にはた ち遅 れ た農 村 で
あ った から' 会 社 で は停 車場 を戯 け る にあ た って は少 し でも旅 客 の多 い地 点 か、 ま た は蒸 気機 関 のた め の補給 水 の得 や す い地点
を選 定 す る のが自 然 であ る。
当 時 ' 国分寺 村 近 辺 で' 旅 客 が多 - 利 用 す る見 込 み のあ る.
場 所 と いえば ' まず 第 一に小 金 井 村 の玉川 上 水堰 堤 の桜 であ った。
小 金 井 桜 が些 戸期 よ り都 人 士 の来 遊 す る名 所 と し て有 名 であ・
つた こと は' 天保 七年 (一八 三 六) に刊行 され た ﹃江 戸名 所 図会 ﹄
に次 のよう に記 さ れ て いる こと からも知 られ る。
小 金 井 橋春 景
第 五節 鉄道敷設 への国分寺村 の対応- 甲武鉄道 と川越鉄道
(
図 9 甲武鉄道線路の略図 「甲武鉄道茂与利名所案内」 国立公文書館所蔵)
図1
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『江戸名所L
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会』)
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第 八華 甲武鉄道 の開通
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五 二二
小 金 井 橋 ハ' 小 金 井 邑 の地 に 傍 て流 る 1所 の玉川 上 水 の素 堀 に 架 す 故 に此 名 あ り。 岸 を 爽 む桜 花 ハ数 千 株 の棺 を並 べ' 落 英 績 紛 たり。 開 花 の時
わ
よつ
いとわ
す-な
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此 橋 上 よ り眺望 す れ ハ' 雪 と ちり雲 と まが ひ て 1日千 里前後 尽 る を知 らず o 偽 て都 下 の騒 人遠 を 厭 ず し て こ こに遊裳 す るも の 少 からず . 橋 頭
しま ひけ り
酒 を緩 め茶 を煮 る の両 三店 あ り。 達 人 或 ハ憩 ひ或 ハ宿 す。
春 の 夜 ハ 桜 にあ け て
芭 蕉
甲武鉄道 は明治 二十 二年 の八月 に'新宿 ・八王子問 を開 通す る に先立 ち' 同年 四月 に新宿 ・立川間 で営業 を開始 して いるが' こ
れ は小雀井堤 の観桜客 を見込 んで の・
ことだ ったと いわれ るo実際'開業当初 の営業 成績 をみると'境、 国分寺 (図日) の両駅 の
・も っとも' この表 から は且別 の乗
年 間乗降客数 は'新宿'立川' 八王子 に及ば ぬも の.
の中野 を はるか に上 回 って いた (
表 6)。
降客数 はわ からな い。 ただ、 明治 二十 三年 には甲武鉄道 は観桜客 のた めに' 上下各三本 の臨時列車 を増発す る旨' 四月 八 日付 の
名
名
境
同
同
東 京 日日新聞 に次 のよう な広告 を出 して いるから'桜 の時期 には' かなり の利用客があ ったと見 て差 し支 えな いであ ろう。
釈
釈
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こ のよう な事 情 も あ り' 甲武 鉄道 では'鉄道 局 によ る測 量 の結果、今 日 の路線 が確 定 し
た時 点 で は' 境 及び小金井 に停 車場 を設 置 す る方針 であ ったよう であ る。 これ に対 し て国
分寺 村 で は駅 の誘 致 に向 け た請 願 が行 われ たら し い。 そ のことをう かが わ せる次 のよう な
文書 が' 昭島 市 の紅林 順三家 に残 され て いる。
請 願書
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今 般 甲 武 鉄 道 敷 設 二付 て は便 宜 ノ地 二就 キ停車 場 可被 相 定 而 シ テ該 位 置 は実 二緊 要 の義 ニ シ テ 目 下
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交 通 運 輸 の便 否 卜将 来 ノ如 何 ヲ考 察 セ サ ル可 ラ サ ル事 と 思 考 仕 候 抑 モ当 地方 ハ街 駅 殖 産 興 業 ノ 道相 関
ヲ 欽
ケ 従 テ物 産 ノ運 輸 商 倍 の行 通 尽 頻 繁 ト ナ ル ノ気 運 二際 シ幸 二鉄 道 ノ便 ヲ添 ハ此 上 幾 層 ノ進 歩 ヲ 見 ル
これあろべさJし
こ至 ル期 ス へキ也 聞 ク 本 郡 小 金 井 村 二停 車 場 ノ設 置 可 有 之 由 仝 所 ハ府 中 駅 ヲ距 ル殆 卜壱 里 半 亦 田 無 町
(TT)
これあり
キ自 然 全 町 幅 湊 ス へキ貨 物 甚 少 額 に 有 之 侯
ヲ距 ル西 南 ノ方 弐 里 余 旦埼 玉県 所 沢 町 ヨリ ノ行 通 便 利
反 の全 村 ヨリ 西 拾 七 八 町 ヲ距 て テ国 分 寺 地 内 二停 車 場 ヲ設 置 相 成 ル ト キ ハ南 府 中 駅 ヨリ北 ハ所 沢 町 及
ヒ川 越 二通 ス ル経 過 ス ル往 還 二接 近 し (国 分 寺 村 ヨリ府 中 駅 l
l至 ル 二十 一町余 又所 沢 村 二至 り弐 里 余
ナ リ) 殊 二近 ク ハ小 川 村 辺 ヨリ村 山 地方 二速 ス ル道 路 有 之 十 分 運 輸 の利 益 卜行 通 之 便 ア リ故 l
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「甲武鉄道 茂与利 案 内」
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図1
1 開業 当時 の国分寺駅
第 五節 鉄道敷設 への国分寺村 の対応- 甲武鉄道と川越鉄道
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1日の開業であるC
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年 1月 6日、荻窪駅は同年 1
2月21日に開業 した。
旅客数の うち,運賃半額の小児については 2人を 1人 として計算 したC
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年度の数値は不明である。
1斤は0.
6キログラムである。
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如 上申 候 也
地方 ヨリ八 王 子 駅 及 ヒ東 京 府 等 々輸 出
或 ハ輸 入 ス ル モ頗 ル便 利 ヲ与 フ ル事 小
金 井 村 二設 置 ス ル此 ノ如 ク ナ ラ ス従 テ
鉄 道 会 社 二於 テ モ難 渋 仕 侯 間 右 便 否 利
害 御 商 量 の上 何卒 右 国 分 寺 村 内 へ停 車
場御 設 置 相 成 候 様 御 詮 議 相 成 度 連 署 斯
こ の史 料 は日付'署 名 とも に欠 いており' 国分寺 村 の有 志 から出
され たも のであ るかどう か確 定 でき な いが' 国分寺 市 東 元町 の故小
柳 孫 四郎 の話 によ ると' 同家 では甲武 鉄道 の敷 設 工事 が行 われ た当
時'作業 員 頭 を下宿 さ せて いたが' 孫 四郎 の祖 母が食 事 の給 仕 中 の
雑談 で' そ の作業員 頭 から停車 場が小金井 村 に設置 され る予定 であ
るが' まだ決定 したわけ でな-' 国分 寺 村 で駅 の用地 を寄 付 すれば
誘 致 でき ると の話 を聞き、 駅予定 地 (
現 在 地) の土地所有者 と交 渉
し' 山林 の交 換 を行 って半分 を小柳 孫 三郎 (
孫 四郎 の祖 父)、 残 り
半分 を小柳 九 一郎 (
図 12) が寄付 す る こと で' 駅誘 致 に成功 したと
いう。 この経過 の中 で' 国分寺 村 の有 志 が前 述 のよう な請願書 を出
した のであ ろう。 こ の間 の いき さ つは、 国分寺 駅南側 に建 つ小柳 九
こ のよう に今 日国分寺 市 が
一郎 の頒 徳碑 からもう かがう ことが でき る (
第 三章第 四節 参 照)。
川越鉄 道 (
規 西武 国分 寺線) の敷 設
第 五節 鉄道敷設 への国分寺村 の対応- 甲武鉄道と川越鉄道
図1
3 昭和初期 の川越鉄道 国分寺駅
図1
2 小柳九一郎
(
小柳亨司家所蔵)
第 八華 甲武鉄道 の開通
五二六
発 展 す る上 で・
の大 き なき っかけ のひと つにな った町武鉄道 の敷 設 にあ た って、 当 時 の国分寺 村 の人 々はあ ま り関 心が な いと い っ
。
てよ い状態 であ ったが、 この状 況 は甲 武鉄道 の五年 後 の明治 二十 七年 (1八九 四) に開 通 した州越 鉄道敷 設 の際 にも変 わ って い
い
な
川越 鉄道 は」 明治 二十 三年 (1八九〇) に出願' 二十 五年 に免 許 を受 け' 二年 後 の二十 七年 には全線 開通し て いる。路線 は国
分寺 から東 村 山 に至 る現在 の西武 国分寺 線 全部 のほか'東 村 山 から所 沢 を経 て川越 に至 る現在 の西武新宿線 の 一部 の前身 をな し
て いる。
いま、 こ の鉄道 の発起 人 (
全 三十 九 人) の顔 ぶれ を.み ると' 埼 玉県 の地方名 望 家が 圧 倒的 に多 - 入間郡'高 麗郡 の二部 で三十
四人 を占 める (こ のう ち十 人 は所沢 町)。 こ のほ か.
の五人 は東 京府 であ るが' 彼 ら はす べ て東京 市内 であ り、 北多 摩郡 の関 係者
は ひと りも いな い。
こ のよ う に' 国分寺 村 及びそ の周辺地.域 の人 々は' 鉄道 の敷 設 に際 し ては' 必ず しも積 極的 で はな か った のであ るが' とも か
- も 明治 二十年 代 末 には国分寺 は川越 鉄道 及 び甲 武鉄道 と いう 二本 の鉄道 の分 岐 点 と し て' そ の 後 の 発 展 の条 件 を得 た のであ
る (図 13)0
鉄道 開 通後 ' そ の効 果 と し て最 も早 い時 期 から目立 った のは' や はり何 と い っても小金井 観桜客 によ る利 用 で
二 鉄道開 通 の影響
観 光 客 の誘致
あ ろう。 そ の利 用客 が実際 にど の- ら いの数 に上 る か は定 か でな いが' 甲武 鉄道 会社 で はさき に述 べた よう に観桜客 向 け の臨 時
列車 を増 発 して いる。 ま た境' 国分寺 両停車 場前 の茶 屋中 で は同 じ 年 に 図14 のよう な チ ラ シを作 り'都 人 士 に向 け配布 し て 小
る。
ちな み に この文章 では' 独特 な ふり仮 名 の用 い方 を し て いる。 例 えば' 「
状 況」 が 「あ りさま」 であ り' 「性質 」 が 「も ちま
い」 であ ったりと いう よう に. これ は' 明治 から大 正 にかけ てよく 用 いられ たや り方 で' 当時 1般 の人 々にはな じ み のうす か っ
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第 八華 甲武鉄道 の開通
五二八
た漢語 に'人 々が 日常生活 の中 で使 って いた.
ことば を ふり仮名 と し てあ てた のであ る。試 み に、 こ の文全体'あ る いは 一部 分 を
声 に出 し て読 んでみよう.そ のL
際 は漢字言葉 を音読 み にLt 次 にも う 1回' こ の文章 にふちれ たふり仮名 に従 って読 んでみ る.
鉄道 のも う ひと つの効果 と し て'今 日 に至るま で続 いて いる都 市化 が始 ま った事 があげ られ る。 そ の最 も早
後 者 はま るで芝居 のせり ふ のよう に調 子 よく ひびく。
駅前集 落 の形成
く みちれ た例 は'鉄道 工事関 係者 の来任 であ ろう.市内 には' も とも と所沢 など市域外 の人 であ り'甲 武儀道敷 設 にあ た って作
業員 と して来任' そ のまま定着 したと いう 人 々の子孫も居住 し て いる。鉄道敷 設当時 のこう した動き に ついてはt
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か にはは っき りと した史料 が残 され て いるわけ ではな いが' こののち三十年 を経 た ころにな ると' 国分寺 駅前あ る いは駅▲
周辺 の
町並 み の形成 と いう形 で' そ の結果 を みる ことが でき るよう にな る。例 えば' 大 正十年 (一九 二 こ 以降 の国分寺郵便局管内 の
電 話加 入台数 の変化 をみ ると'大 正十年 三十九台'十 一年 三十 八台'十 五年 五十台' 昭和 七年 (一九 ≡ 二) 百七台 と' こ の約十
年 の間.
に約 三億 に増 え て いる。 この中 には小金井村 や小平村 の加 入者 も含 まれ て いる ので' これ を除 いて国分寺 村 の加 入者 だけ
に限定 した 一覧 リ ストが表7 であ る。
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こ のリ ス+から'次 のよう な ことが分 かるo まず' 加 入者 の住所 に注 目す ると、 例 えば 昭和 七年 で の七十 二台 の加 入電話 のう
ち大字 国分寺 の殿 ヶ谷戸が 三十 1台..花沢 が十 七台' こ のほか国分寺 駅構内 に二台 と' かな り の部 分が 国分寺 駅 周辺 にあ った こ
とが分 か る。 これを大 正十年 にま でさ か のぼ ると'住所 の確認が でき た三十 六台 (
加 入数 は府中局 一台 を含 め四十台)のう ち殿 ヶ
谷戸 二十 一台' 花沢 六台 で' 七割以上が こ のふた つの字 (
あざ) にあ った こと にな る.次 に これら の字 の加 入者 の職業 に つ小て
み ると' 大正十、十 1年 (こ の両年 次間 では加 入者 は変 化 し て いな い) で判明 す る限 り次 のよう であ る。 な お'括弧内 は件数 で
あ る。 肥料商 (
≡)'銀行支店 (
二)
' 旅館 ・料 理業 (二)'米穀商 (
二)、新聞社 (こ '蕎麦 屋 (一)t.糸繭商 (こ '足袋商 (こ '
土地仲 介業 (一)
、 菓子商 (一)'荒物商 (一)'運 送業 (一)' 石材業 (一)' 駅仲売業 (一)'医師 (一)、材木商 (一)'自転車
商 (一)'呉服商 (一)、 種苗会社 (一)'合 計 二十 四台。 こ のほか に' 殿 ヶ谷戸'花 沢 にそれぞれ ひと つず つの別荘があ った。
また'昭和七年 で職業別 の分布 をみ ると' 米穀商 (
五)
、 運送 ・自動事業 (
四)'歯 科医 ・医師 (
四)'料 理 ・旅館業 (
≡)へ 酒 ・
箇 油商 (
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' 銀 行支 店 (二)'荒 物商 (
二)へ菓 子商 (二)、典 菜 (二)へ会社 員
(二)' 新 聞社 (こ '蕎麦 屋 (一)
' ポ ンプ商 (一)' 足袋商 (一)
へ 石 工 (こ 、
鉄道構 内営業 (一)' 材木商 (一)'計転車 商 (一)' 呉服商 (1)
'青 物乾物商
(1)' 土地管 理業 (l)
、弁 護 士 (1)'鮮 魚商 (1)
' 石炭 商 (1)
' 牛 乳商
(一)'合 計 四十 四台 であ る。ここで は兼業 は適当 に いず れ か に入れ てあ るが'
こ の約十年 間 に駅 周辺 では業 種 も多 様 にな った はか に'会社 員'弁 護 士 など'
都 市 通勤者 と みられ る人 々も単 な る別荘 と し てでな-居住 し はじ めた こと をう
かが わ せる。
以 上 は、 甲武 鉄道 開 通後 す で に三十年 を経 ており' そ の前 の状況 は明 ら か で
はな いが' 甲武、 川越 両鉄道 の開 通 によ って、 駅 周辺 に各種 の商店 を中 心 とす
る町並 みが形成 され はじ めてお-、これが そ の後 十年 前後 を経 た昭和初年 には'
一層 拡 大 したと みられ る のであ る (図 15)。 この傾 向 は戦前戦 後 を通 じ て継 続
し ており'特 に高 度 経済 成 長以降著 し い動き を みせ る こと にな ったが'第 二次
大戦 以前 では' まだそ の萌芽的 な状態 を みうけ る にとど ま る。
こ のよう な駅前 の発 展 のようす を' 別 の面 から み る こと にしようO付 図 は'
それぞ れ大正十 一年 ご ろ' 昭和十 1年 ご ろ の国分寺 駅 北 日の町並 みを地 図 の上
第 五節 鉄道敷設 への国分寺村 の対応- 甲武鉄道 と川越鉄道
末 二九
大 正中期 の駅前集落 の中 心 をな した道路'今 日 の通称 「大 学通 り」 は、 国分寺 と府 中 を結 ぶ当 時 の いわゆ る幹線 道 路 の 一部 を
る ことが わ か る。
に発達 し て いる のに対 し て' 昭和初 期 にな ると'北 に向 か って大 き -集 落が 延 び'今 日 の本多 ≡ 丁目'祥 応寺 付近 ま で達 し て い
で復 元 したも のであ る。 まず' 大 ざ っば にふた つの地 図 を比較 し てみ ると'大 正中期 には町並 みが ほぼ東 西方 向 (
駅 から東 むき )
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第 八華 甲武鉄道 の開通
五三四
な し て いた。国分寺 に駅が でき '経済 的繁 栄 から取 り残 され る ことを恐 れ た当時 の府 中 町 は'国分寺 村 に対 して出資 を申 し出 て、
国分寺 ・府 中間 の乗合 い馬車 を通す た めに両町村 を結 ぶ道 路 の 1部 (
今 日 の通称 「国分寺街道」 よりやや西側殿 ヶ谷戸庭 園 の東
約
証
側 を通 って いた) の道幅 を拡張整備 した. こ のいき さ つは次 のよう な史 料 からも読 みと る ことが でき る (
本多良雄家文書 )o
密
北 多 摩 郡 府ヰ 町 長
矢島次郎 左衛 門陶
明 治 升 二年 七 月 廿 六 日付 ヲ以 テ当 町 ヨリ貴 村 停 車 場 l
l至 ル道 路 取 拡 事 件 二係 り両 町 村 ヨリ金 弐 千 円献 納 請 願 書 御 同意 ヲ得 タ ル モ出 金 ハ都 テ当 町
本多 良助 殿
明 治 升 二年 七 月 廿 六 日
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1於 テ負 担 及貴 村 へ御 迷 惑 中 人 間 数 為 念 ノ密 約 証 偽 而 如 件
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国分寺 村 長
仮 契 約証
壱 反 に付
金 壱 百廿 五 円
金 弐 百円也
島田
三郎
野 口久 兵 衛
府 中 町道 路 委 員
一 国 分 寺 府 中 間 道 路 敷 地 ノ内 府 中 町 ノ地 所 ニテ 国 分 寺 村 小 坂 勘 助 外 五 名 所 有 ノ地 所 府 中 町 地 主 並 ノ価 格 l
l表 面 ハ同意 被 下 僕 得 共実 地 買 受 ノ節
一 畑
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ハ左 ノ価 格 1テ買 受 可申 候
一 山林
明 治 升 弐年 八 月 升 一日
国分寺 村
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本 多 八右 循 門 殿
中 柳 平 蔵殿
長 沢 利 助殿
本 多 万 五 郎殿
国分寺 と府 中 と を結 ぶ道 路 の道 幅 を広 げ る に当 た って、 土 地 の買 収 資 金 は
府 中 町 の側 です べ て負 担 す る上' 国分寺 村 民 が所 有 す る土地 は' 府 中 町民
の所 有 地 よ りも補 償 横 を高 - す ると い- のであ る。府 中 町 の抱 いた危 機 感
が いか に強 いも のであ った かを う かが う ことが でき よう。
いず れ にし ても ' 岡分 寺 の駅 前 の発 展 は、 こう し た いき さ つで整 備 さ れ
た新 し い幹 線 道 路 の起 点 と し て の'今 日 の 「大 学通 り」 から始 ま った ので
印発着 所 と いう の
あ る。 いま こ の こと を頭 にお いて付 図 を見 ると、 駅前 の広 場 を取 り囲 む よ
第 五節 鉄道敷設 への国分寺村 の対応- 甲武鉄道 と川越鉄道
五三五
んな こと からも' 大 正 から 昭和 にかけ て こ の道 路 が' 観 光 客 の通 る 「遊 歩 道 」 から生 活 道 路 に変 化 し た ことが う かが わ れ る。 商
ぅ な接客 業 のほ か' 魚 星 ' 米 屋' 洋 品店 ' 履 き 物 産' 酒 屋 な ど' 日常 生 活 に密 着 し た種 頬 の商 品 を売 る店 が 多 く な って いる. こ
つぎ に昭和初 期 のよう す を見 ると' 「駅 前 通 り」 に沿 って北 のほう に商 店 街 が 続 いて いる。 業 種 を見 ると' そは 星 や料 亭 のよ
も いえ な か った よう であ る。
の体 を な し て いな いo 当 時 こ の道 路 は玉川 上 水 の観 桜 客 が利 用 す る 1種 の遊 歩 道 と い った性格 が ま だ強 く' 生 活 道 路 と は必ず し
これ と対 照的 に' 駅 から北 に延 び る通称 「駅前 通 り」 沿 いは' 駅 から少 し はなれ ると家 並 みも まば ら であ り' ま だ集 落 と し て
派 の寄 り合 いが も たれ るなど' 北 多 摩 政 界 の動 き の中 で大 切 な場 所 と な る。
が あ る。 これが 府 中 行 き の馬 車 の起 点 であ る。 ま た こ の中 で 「柳 星 」 「糸常 章 」 は大 正' 昭 和 にかけ て政 友 会 系 ・非 政 友 会 系 両
ぅ にし て' ど こ の駅 にも 共通 し た運 送業 者 ' 駅弁 屋 (図 16)、 料 理屋 な どが 並 ん で いるが、 そ の 一角 に乗 合 馬
6 大正 1
4年 国分寺駅 の駅弁 包装紙
図1
(
『汽 車研 文化 史』)
第 八章 甲武鉄道 の開通
五 三六
店 衝 の中 に' カ フ ェーや' ク リ ー ニング屋 が そ れ ぞ れ何 軒 か見 られ る のも' 当 時 の世 相 を反 映 し て興 味 深 い・
ど ころ であ ろう。 ま
▲
た' 駅 から ごく 近 い地域 の様 相 は' 基 本 的 には大 正中 期 と大 き -変 わ って いな いが' 1つの敷 地 を 細分 し て分 かち持 つ形 で いつか の新 規 商 店 の参 入が みられ る点 には注 意 し て お■
いてよ いだ ろう 。
これ と対 照的 に' か つて国分寺 駅 前 の目抜 き であ った 「大 学通 り」 のほう は' ま った- と い って良 いはど変 化 が な い。 こ の間
に駅 前 の発 展 の方 向 が' 東 西 から南北 に変 わ った ことが み てとれ る のであ る。今 日 の国分寺 市 9中 心街 の発 展 のあ り方 は' 昭和
初 期 以来 のこ の傾 向 の延 長線 上 にあ ると いう ことが でき よう 。
これま で見 てき た よう に' 甲 武 鉄道 は' 全 国的 な鉄道網 の形 成 の.
う ごき の中 で敷 設 され' そ れ に伴 って発 生 し た 日本 経済 の地
域 構 造 再編 の中 で は' 東 京 府 の東 郊 と 西郊 と の地位 の逆転 に際 し て大 き な役 割 を果 た し たと みられ る。 国分寺 を含 む北 多 摩 郡 東
北 部 の村 々は東 京 府 を めぐ る二地 域.
の中 で は明治 以 降 地位 の上昇 し た西郊 に属 し て いる。 こ の地 域 の村 々は鉄 道 敷 設 にあ た って
は必ず しも 主体 的 に活 動 し たわ け でなく' む し ろ結 果 的 に鉄 道 の経 過 地 にな ったと いう 色彩 が濃 か ったが、 仮 にそ う であ ったと
し ても' 鉄 道 の開 通 によ ってそ の後 の都 市 化 ' 経済 的 地位 の上昇 のた め の前 提 条 件 を与 え られ た と いえ よう。