Title Author(s) Citation Issue Date Type 中世後期における「百姓的」剰余取得権の成立と展開 : 戦国大名領国支配の前提として 池, 享 日本史研究, 226: 37-67 1981-06 Journal Article Text Version publisher URL http://hdl.handle.net/10086/18661 Right Hitotsubashi University Repository 中世後期の在地g i h向 第一新 83 第 一章 中 世後 期 の在 地動 向 はド しめ に 一 在 地小 領 主 、 および 彼 ら の所持 す る中 間得 分権 の掌 握 ・編成 が' 戦 国大 名 領 国支 配 にと つて の主 要 な環で あ った こと は、 周 知 の事 柄 と いえよ-。 戦 国 大 名 が'中 間 得 分権 の否定 ・給 分化 を 通 じ て、 彼 ら と 知 行- 軍 役 関 係 を 結 び '家 臣団 と し て編成 す ると いう動 向 は' 一九 七〇年代 の研究 の明ら か にしたと ころで あ る。 著者 も' そ の甥尾 に (1) 付 し て'毛 利 領 国 におけ る動 向 を検 討 し LJ. . ( 2) し かし 1方 '批 判 的 見解 J提 出 さ れ て いる0 ま ず ' 戦 国 大 名 の掌 握 自 体 に否 定 的 な 見 解 が あ る 。 こ- し た 見 解 ( 3) は、後 北 条 氏 の検 地 が' 「 内 徳 」( =得分) を 「 本 途」( -年貢)に吸収 しょうとす る志 向 性 を 示 し て いな いと す る 説 に立 脚 し て いる。 し かし、 他 の今 川 など の領 国 に関 し て明ら か にされ た事 実 を 否定 す る こと はで きま いc L から、後 北 ( 4) 条領 国 の 「 内徳 」 も、 実 は、 旧来 の中 間得 分を 大 幅 に否定 され た上で再 編成 された も のな ので あ る . した が って' 戦 国大 名 の政策 と し て'中 間得 分権 の掌握 が行 わ れ て いた こと は、 否定 で き ぬ事 実 と いえ よう. よ-重 視 しな け れば な らな いのは、 戦 国大 名 が中 間得 分権 を掌 握 ・保 障 した こと は認 め るが、 そ れを領 主 的 土 地 84 大 名鏑 国 利 と地1 _ 4社会 第二部 所有権と し て編 成 した こ- には否定 的 な 見解 で あ る。 す な わ ち' 中 間 得 分権 - は、 「 荘 園 制 的 な 職 体 系 と は違 った よ- 自 立 的 な 農 民あ る いは在 地 の職 な ので あ - - -俄 国 大 名 が 名 体 制 を 認 めず 、 加 地 子、内 徳 を 吸 収 し た と し て も' そ れ は在 地村 落で の加 地 子'内 徳 の収 取関係 を直 接 香走 す るも ので はな -、 逆 にそ れ は ﹃ 百姓﹄ 間 の関係 と し 3 L・ J 門 て矛盾 を 激 化 さ せ つつ存 続す る」 と いう 見解で あ る。 こう した見解 は、 在 地小領 主 ・中 間得 分権 の農 民的 ・耕作 権 的性 格 を 強調す るも ので 、 い- つか の地域 を 対象 に' 見解 の対 立 を引 き 起 こし て いる。 今 川領 国 に関 し ては'有 光 友 学 氏 が、 城 国 大 名 は在 地 の土 地所 有 関係 を、 「 名 職 」( 拾恩であ-、年貢定柄 の請負機 ( 6) 能をも つ) ト「 百姓 職 」( 年貢負担葬務)と し て再 編成 し た と の見 解 を 提 出 し た。 氏 は' これ によ って、急 速 な 上 下 分 解 の過 程 にあ っLJ 名主 層 の- ち の特 定 の有 力 部 分 が' 「 名 職 」 所 持 者 と し て、 戦 国 大 名 権 力 体 系 の 一塊 を 祖 - 支 配 階 え LJ。 氏 によ れば ' 名主 級 に転 化 し たと L LJ C これ に対 し て下村 致 氏 は、 「 名 職 」 は自 己 の拘 分 の年 貢 公事 納 入責 任 を も つ点 で 「 百姓 職」 ( 7) ・r 名職」 と本 質的 相違 はな -J そ の所 持 者 も 多 - は 百 姓 身 分で あ った と し て、 批 判 を 加 自 体 は、 近 世 の百姓 的身 分 ・権 利 への傾斜 がう かがわ れ るも ので あ った。大 友 領 国 に関 し ては、 宇 佐 首 領 にお け る 「下作 職 」 の性 格 如何 と い- 形で 、議 論 が 展 開 さ れ て いる。 外 囲 豊 基 氏 は、 そ れ を' 年 貢等 の給 主 への負 担 義 務 を も つが、 坪 付 上 の名 請 と は別次 元 のも ので あ ると 規定 した。 そ の進 止権 は原 初的 には宇 佐富 に属 し' そ の所 持主 体 ( 8) も在 地領 主 で あ ったと し' そ こ に封 建 的 土 地所有 の原 形を 見 た c L かし 1万 、 稲本 紀 昭氏 は' そ れを 耕 作権 と規定 定 し 、 戦 国大 名 によ る検 地を 通 じた し、大 友 氏 はそ の保 護 政策 を と つLJ も の の、 地 南 と の収奪 関係 の存 在 と い- 矛盾 を解決 で きず 、 ま た' そ の集 碑 に ( 9) 固執 す る小 土豪 層 は、 自 ら の領 主 的 発 展 の道 を 閉ざ す こと にな っLJ と し た 。 木村 忠夫 氏 も、 そ れを名 主 に対 し加 地 ( 0 1 ) 1色 支 配 体 制 の構 築 によ って、 名 請 人 し た 。 子そ の他 を 納 め る義 務 をも つ耕作 権 と 規 ( n) と し て の公的権 利 と な ると _ 節一章 I l r 世後期 の祉地 動向 85 この よう に見 て- ると' 戦 国 大 名 が掌 握 ・編成 し た 在 地小 領 主 ・中 間 得 分権 が ' 領 主 階 級 ・領 主 的 土 地所 有 権 へ と上 昇 転 化 し て は いな いとす る見解 の根拠 には' 第 一に' 中 間 得 分権 が 百 姓 の側 に成 立 す る在 地的 権 利 で あ -、 職 国 大 名 によ る編 成 後 も、 一方 で は年 貢 等 の上納 義 務 を有 し て いる こと '第 二 に' 近 世 への移 行 後 ' これ ら の階 層 ・ ど- 評 価 す べき で あ る か は、 避 け て 2 1) ( 3 1) ( い が 、 事 実 と し ては 同様 な点 が確 認 さ れ る 。 と す れば 、 こ の よう な 見 解 を 権 利 が 農 民 的 身 分 ・権 利 と し て位 置 づ け ら れ ると いう こと が あ るQ 毛 利 領 国 に関 し ては' 研 究 は 十 分進 め ら れ ては いな 通 れな い課 題 と いえ よ- 。 著 者 は' 右 の点 は重 要 な 問 題 を 提 起 し て は いるが 、 そ れを も って上 昇 転 化 を 否 定 す る根 拠 と す る こと はで き な いと考 え る。 、 権 利 と し て はき わ め て消 極 的 な も ので あ る0 そ れを前 提 - し て' そ こに お け る剰 余 の 1 ま ず ' 封 建 社 会 に お が る農 民的 土 地 所有 は、 「 隷 農 の個 人 的 土 地 所 有 は、 す な わ ち 領 主 と の隷 従 関 係 そ の も ので ( 4 1) あ る 」と いわ れ るよ う に 定 の安定 的 形 成 が ' 百 姓 間 の搾 取関 係 と し ての中 間得 分権 を 成 立 さ せ る ので あ る。 し かも中 間 得 分権 は、 経 済 外 的 強 制 の体 系 を 確 立 し て いな い点 で ' 封 建 社 会 に お け る権 利 と し ては 不 安定 で あ -、 中 間 的 ・過渡 的 で あ る。 した が って' そ の成 立 の前 提 と し て の百姓 的 ・在 地 的 性 格 を ' 7貫 し た 固定 的 な も のと考 え る こと はで き な い。 む し ろ' こう し た権 利 お よび そ の所 持 主 体 の歴 史 的 発 展 ・展 開 過 程 の中 で 、 城 国大 名 によ る掌 握 ・編成 の対象 と な る に至 る 構 造 」 と考 え る べきで あ る。 そ の際、 在 地性 や そ れ と 不 可 分 の関 係 にあ る年 貢等 の上 納義 務 の存 在 を も ってそ の領 主 的 性 ( 5 1) ( =特殊幕 藩体制的 社全構造)の成 立 格 を 否 定 す る のはへ 兵 農 分敵 によ る 「 在 地 L LJ ま ま で は封 建 領 主 た - え ぬ を前 提 と し て' は じ め て可能 で あ る。 した が って' 戦 国 期 にそ れ を 適 用 す る のは誤 -で あ る。 同様 に、 近 世 に お け る身 分 ・権 利 関 係 と の アナ ロジ Iで 、 戦 国期 の身 分 ・権 利 の性 格 を 規定 す る のも' 結 果 から 見 た 必 然 論 で 歴 史 的 評 価 と し ては 正 し -な い。 86 大 名細 国 制 と地域礼金 酢二 部 問 題 は' む し ろ こ のよ- な 見解 が 提 出 さ れ る根 拠 にあ る。 そ れ は'第 一には、 中 間 得 分 権 ・在 地 中 領 主 の過 渡 あ る 。 したが 的 ・中 間的 性 格と い-、 事 実 と し て存 在 す る問 題で あ る。 第 二 には' 城 国 期 を 近 世 を 基 準 と し てと ら え よ う と す B 耶E って' 戦 国大 名 によ る中 間得 分権 ・在 地小 領主 の掌 握 ・編成 を 正 し-意義 づ る、 研究 方 法 上 の問 題で け る には' そ の歴 史 的 発 展 過 程 を 分析 し' そ の中 に戦 国大 名領 国段 階 を 位 置 づ け、 そ こで の固有 の問 題 と し て検 討 す る こと が 必要で あ る。 本 章 は、 こ- LLJ 問 題意 識 を う け て、 中 世後 期中 国 地方 にお いて、 中 間得 分権 を めぐ って 展 開す る社 会 関係 を 、 在 地中 領主 層 の動 向 を中 心 に分析 し、 戦 国大 名 によ るそ の編成 菅 の歴 史的前 提 を 解 明す る こ とを 課題 と し て いるC 分析 の対象 は'主 と し て、 安芸 国佐 西 郡玖島 郷 と、 豊 田 郡 沼 田庄 梨 子 羽郷弁 海 名 で あ るO前 者 に ついては、 す で に い- つか の先 行 研究 が あ るC そ れ によ れば '玖 島 郷 は、 「 鎌倉 末 期 の ころ から は、 神 主 家 の支 配 に属 し、 厳 島 社 7 1) ( への貢 的 関 係 も 生 じ た と こ ろ」 で あ -、 い- つか の百 姓 名 の集 合 体 - し て構 成 さ れ て い た 。 こ の名 は、慶 長 五 年 ( 8 1 ) 。 った 」 いた 」 . こ のよ- に' 玖 島 郷 中 世 名主 の地位 を継 承 す る有 力 農 民で あ 二 六〇〇)の年 貢 納 入単 位 と し て存 続 し て お-' そ の納 入者 は、 「 ロ M l E さら に、 玖島 郷 には 「 刀 繭 を中 心と す る自 治 的 な 政 治 秩序 が 比 較 的 自 由 に形 成 さ れ て い る 。 (20 ) そ れ によ ると、 鎌倉 期 か には、 在 地中領 主 を中 心 - す る村 落 秩序 が中 世後 期 には存 在 し'職 国 期 まで存 続 し た と考 えら れ てき た ので あ る。 したが って、本 稿 の課題 にと って、 格好 の分析 対象 と いえ よう。 後 者 に ついては、 石 井進 氏 が' 小 早 川氏支 配 下 の名 の実態 の好 例と し て論 及 し て 名主 は中 央 の領 家 ・領 所 と結 び ついて いで、 地 頭勢 力 と 対抗 し て いたQ と ころが、 ら南 北 朝 初期 まで '弁 海 名 主 は'右 衛 門尉 の地 位 を も つ領主 的 性 格 の濃 厚 な源 氏 の 1族 が、代 々勤 め て いた。 名主 職 は預 所 よ - 任 命 さ れ て お 生 南 北 朝動 乱 の過 程で 源 氏 1族 は没落 し、 名 も い- つか に分解 し てしま うC そ れ は' 小 早 川 氏 によ る沼 田庄 制 圧 の時 r l T 地縁糊 の在地動 向 第- 就 87 期 に 一致す る。 梨 子 羽 郷南方 は、 竹原 家 の所 領 とな 上 本 宗 家 の勢 力と 接触 す る第 一線 と し て' 弁 海 名 の かな - の 部 分 は家 臣 の矢 原 氏 ・未 桧 氏 の給 分 と な -、 竹 原 家 の支 配 下 に組 み 入 れ ら れ た。 このよう に'在 地領 主 の侵 略 によ ってそ の領有 体 系 に編 入さ れた弁 海 名 の分析 は、前 者 と の対 比 を 通 じ て' 在 地動 向 を よ -全 体的 にと ら え る こと を 可能 にす るで あ ろう . ( 1) 本書第三部第 一輩。研究動向 に ついては、「はじめに」参照. 九 七七年)EI I 二 ( 2) 佐 々木潤之介氏は、「 俄国大名 の成立 の 一般的契機 とし て'あ る いはほんら い的基礎と し て、内徳分 への掌握があ った か 「 職国大 名 の権力構 造 に ついて」( r 歴史 公論≡ ニI 四号二 Jいえば、それは否であ ろう」と主張し て いる( 頁。まLJ 、小林清治氏も、ほぼ同様 の見解を示 し て いる( 「﹃ 取回期 の梯力と社会﹄書評」( ﹃ 史学雑誌」 八」 ハ ー 八号、 一九七七 年、参照) A ( 3) 池上裕子 「暇国大名領国 における所領 および家臣団編成 の展開」(﹃ 俄同期 の権力と社会﹄ l九七六年) 参照。 ど ( 4) 池上氏自身、「 北条領国 の農民 にと って︰-・ 検地は旧来 の耕作 分類 や本年貢 ・加 地子 ( 内徳)の額 な 人 々が形成 し先例 と して守り抵I 抗 の根拠- してきたも のを 一斉 に否定 するものであ っLJ L( 「 恨国期 における農民闘争 の展開」( r 歴史評論j三 l天 号、 一九七七年、 一九真)と明快 に述 べで いる。 ( 6) 有光友学 「 職国大名今川氏 の歴史的性格」( ﹃ 日本史研究﹄ 一三八号、 7九七四年)参照C ( 5) 松浦黄則 「永原慶 二氏 r 大名領国利下 の農 民支 配原則Lを読んで」( ﹃ 歴史評論-三二六号へ l九七七年)八 1頁。 ( 7) 下村放 「 有光友学氏今川検 地論批判」( ﹃ 日本史研究﹄ 1七〇号、 1九七六年) 参照。 ( 8) 外囲盟基 「中世後期宇佐首領 における在地動向」( ﹃ 史学研究J 二 二号、 l九七 一年) 参照O ( 1) 木村忠夫 「 田原招忍 の軍事力」( r 九州史学﹄ 二七 ・二九 ・三二号、 一九六四年)参照Q ( 9) 稲本紀昭 「 職国的権力編成 の成立」( r日本史研究し 一 〇八号' 1九六九年)参照。 ( 1) 木村忠夫 「 実弾時元 ・大石寺名坪付注文」( r 年報中世史研究j創刊号、 一九七六年) 参照。 る。 ( 1) 松浦義則 「 大名鎖国別 の進展と村落」( ﹃ 史学研究] 二 八号、 1九七二年)が、 その中ではまとま った研究 として注目され ( 13) 中間得分権 が5 , . 主的 土地所有権 に拒化 した 「下級領有権」 には'年貢等 の上納義務が付随す る( 本書第三部第 1章参照)。 川島武宜 r 近代社会 と法≡岩波書店二 九五九年、 二五八京。 また、慶 長 一九年の 「 作付之次第」( 閥二- 九 一 °)によれば、「作職」 は 「当検 地名詞之者 に相定」めること-されて いる。 この点 に ついては'本書第三部第 一章 「はじめに」参照。 朝尾直弘 「 兵濃分離をめぐ って」( r 日本史研究)七 l号、 1九六三年)五 二頁。 松岡久人 「 戦国期を中 心とす る厳島社 の社領支 配概構」( ﹃ 広島大学文学部紀要﹄ 1二号' 1九五七年)四八頁。 松浦弱則 「 豊臣期 における毛利氏鋲国 の農民支 配の性格」( r 史学研究3 1二九号' 1九七五年)1四頁。 石井進 ﹃ 中世武士団A( 小学館版 r日本 の歴史J 12' 一九七四年)二七五∼八二頁。 松岡前掲論文五 1貢O 「 百姓的 」剰余 取得権 の性 格 元応 二年 (二 三 一 〇)二 一月、玖島 郷 を構 成す る名 の 一つであ る国 重 名 の 「名主 職」な る権 利 の宛 文 が発 給 さ れ I 玖 島 郷 に お け る土 地 制 度 まず' 在 地 に成立 す る中間得 分権 の特 徴を、 土地制度 の分析 を通 じ て明ら か にす ること から始 めた いc 第 一節 51 4 20 1 91 8 17 1 61 88 人 名納t 榔r i l Jと地域礼金 軒二部 F l 7 他捜糊の在地動向 節一章 8 9 たC 久 嶋 郷 国 重 名 主 職事 ︺ ( -) ︹ 史 料A 宛行 合伍段大老 貞守 ( 花押) 近久 ( 花押) 右件名 田者'上御沙汰極 了'御判下上着、 不可別 子細者也、但社役 御年貢以下御公事'無 慨怠 可被勤仕者也、 仇苑文状如件 元応 二年十 二月四 日 . これ によれば、 「 国重名主職」と は' 「 社役御年貢以下御公事」を 「 無 聯怠 可被勤仕」 き ことが義務 づけられ、 か 〇月 一 わ- に'五段大 の 「 名 田」 が与 えられ る- い-も のであ った。と ころで' この宛文 が出 され る直前 の同年 一 ( 鴫) 領 知」 さ せ るべき旨 の奉書 七 日に、 「 国重名内 田地五段大 百姓職」を' 「 久 口郷住 人三郎 入道 西 阿」な る人物 に 「 ( 2) が出 され て いる。 この奉書 の宛先は 「 隠岐 七郎左近允」と 「 同弥次郎」-な って いるが、 これが発給 され る前 提( 3) な った正和年 (1三 l二)四月 〓 1 日付 の奉書で は'宛 先が 「 政所隠岐三郎 入道」 とな って いる。 そ こで、在地 の土 地所有 関係を めぐ る荘園領主 の決定 は、 現地支 配担当者であ る政所を通じ て執行 される と考 えられ、 この二通 の文 書 も、国玉名内 の五段大 の田地 の所持を西阿 に認 めた旨を、本人 と政所 と に伝 えたも のと推定で き るo このよ- ド 推定す ると、 1万で は 「 名主職」 J他方で は 「 盲姓職」 と表 現 され て いる権 利が'果 たし て同 1のも のだ と いえ る のかと いう疑問が生 じょ-。 この点 に ついて著者 は'西阿は 「 名主職」 に補任 された のだが、 それ に伴 って与 えら =名主分 「百姓職」)であ った こと によ ると考 え れた権利が'名全体で はな-名内 の 1部 の 「 名田」 にかかわ るも の( 9 0 節二部 大名G T i 国制 と地域社会 あ る C この こと は' 「 名 るO と い- のは第 一に、 この五段大 の 「 名 田」 は'国重名 を構 成 す る全 「 名 田」で はな いからで あ る. すな わち、 ( 4) 正和 1年 の奉書 によれば 、 荘 園領 主 は 「 国 重 名 田」 と し て八段 の面積 を 掌 握 し て いLJので 田」 とは、 年貢 ・公事 の負担単 位 と し て の名と はイ コー ルで はな し 名 を構成 す る田 地- いわば 「 名 田体 制」解 ( 5) の呼 称で あ る こと を 示し て い る 。 とす れば へ そ の権 利 が個 々の田地 体 によ って分割 され た後 の 「二次 的 名 田」 - に関す る 「 盲姓 職」 と表 現 され て, d不思議 はあ るま い。第 二 に、 この 「 百姓職 」 の 「 領 知」 に対応 しLJ 義務 が、 元 応 二年 の奉書 にJ ・ tると、 「 社役 以 下 公事 任 先例 可催勤 」 き ことで あ っLJからで あ る。 す なわ ち、 こ の 「 百 姓 職」所 持 者 は、 名内 の盲姓 に対 し'社役 ・公事 を催 促 す ると い-'名主 的機 能 を果 た さぬば ならな か った ので あ るC このよう に考 え ると、国 重 名 の名主 は、年 貢 ・公事 の徴 収機 能 にお いては名全 体 と か かわ るが' そ のも つ権 利 は'名 内 の 二足の土地 に対す るも のに限 られ て いた こと にな る。 とす れば 、 国重名 内 の他 の土地 に関 し ても、権 利 久 向 十郎入道訴状注進快事」 刀醐 を有 す る百姓 が存在 し た ことが想 定 され る。 そ れを 示す のが'次 の史料で あ る。 ( 6) ︹ 史 料 B︺ ( 端数書) 「 沙弥 見阿謹言上 欽慕早 任訴陳旨 御成敗 、国重名内 刀踊無 山代 入道与 見 阿沙汰 番京 都 経間 ' 令 押領条無其 謂 子細軍 国上 月 件条 於国董名 依為 少分' 安 清 三名 之 余 佃取集 二、 先給 主弥大 郎 入道類井 十余 人百姓 号同 心 一名作 立、為 御 年 鴇弘 ( 蹄カ) 貢偏 国重名作 立処、 山代 入 道 以 非儀 出 沙汰 経京 都其 間 析 読 ニテ、 刀 珊見 阿分押 鎖条存 外次第 也、 排為 山代 入 八 時脱力) 荊同 道無道故' 故 六条之 入道御析 之 御 被 苛責 了'其後復 故 周防之 前 司御所 御時 致復 沙汰 処、 山代 入道 被苛責 分' 見阿□御 下知蒙 国重名内 田地 二刀 爾此 十余 年令押 領存外 次第 也' 国垂名 職者 過 四十余年者 也' 以全御 年 貢御 中世筏籾の在地動向 第-未 9Ⅰ 公事 無 僻患 者 也、 而 一阿 殿代 走 近 時 之 □致 沙汰 刻、 新 田 も 御検 兄 之 時 取 帖 論 坪 仲 条 明文 也、 而台 上 ( カ) 歎 御時 こ、 為 御堂 之 免所 上着 不致 沙汰 処、 自任 方 殿惣 々有 其鉢'蒙 仰 間御 年 貢 可備 進 之 間 御代 馬 入道 殿歎 申 処 、 見 阿為 道 理事 郷内 之 百姓等 被 承条 顕然 也、乍 有 サ ハ佐 方 殿御 下之時 ' 可蒙 御 成敗 所 也'蒙 仰 可然者 如 元刀 禰押 日 領 分国重 可被 付置之 御成 敗 為直 、仇 粗 恐 々言上 如件 ' 正和 四年 十 二月 この史料 は、 国 重名 内 の田地を めぐ って' 「 沙 弥 見 阿」 な る人物 と 「山代 入道」 な る人 物 と が 相 論 を 起 こし' 争 ( 7) いが京 都 に- ち こよ れ て いる 最 中 に' 刀 楠が そ の土 地を押 領 した の に対 し' 見 阿 が 「 如 元刀 禰押 領 分国 重 可被 付 置 之 御成 敗」 を要 求 した訴 状で あ る。相 論 に関 し ては後 に検 討 を加 え る こと と Lt こ こで 問 題 と し た いのは、 国 玉名 の成 立 事 情 に つ いて述 べ て いる部 分で あ る。 そ れ によ れば 国 重 名 は' も と の国 重 名 に他 の三 名 の 「 余 佃」 を 取 ( 8) 「 作 立」 でた - ので あ った。 こ こから 集 め 、「 先給主 弥 大 郎 入道 類井 十 余 人 百姓 号 同 心」 し て' 年 貢 納 入 のた め に 国 垂名 は'第 1に年 貢 納 入 の単 位 と し て、第 二 に従来 の名 を再 編 成 す る形で 、複 数 の百姓 によ って形成 された も の で あ る ことが わ か る。 そ れで は、 これら の百姓 は いかな る立 場 からそ の形成 に、 参 加 した ので あ ろう かO I 訴 人 見 阿 は'国 重 名内 に 「 見 阿 分」 の田地を所 持 し てお-' 参 加 し た 百姓 の 1員 と考 え ら れ る。 彼 は、 四〇年 以 刀 相 によ って押 領 さ れた こ-を領 主 に訴 え、 そ の返付を 求 め て いるので あ る. 訴 訟 にお いて こう L LJ 主 張 が な され 上の 「 国真名 職」 の歴 史 の中 で ' 「 以全御 年 貢 御 公事 無 慨怠 」 - 納 め てき た にも か かわ らず 、 彼 の所持 す る田地 が ると いう こと は' 百姓 が、 自 ら の所 持す る土 地 の年 貢 公事 を 負担 す る こと によ って、領 主 から直 接権 利 を保 障 さ れ て いる存 在で あ った こと を 示 し て いる- いえ よ-Q そ- した権 利 主 体 と し て' 百姓 は名 の形成 に参 加 し LJので あ - 'そ の点 で は、 名主 も同 じ立 場 に いたと考 えら れ る のであ る。 こう した事 情 が'前 述 のよう な名 主 職 の性 格を生 92 新二部 大名糾岨f r i l Jと地域社会 弁 海 名 に お け る土 地 制 度 み出 した のであ ろう。 2 右 のよう な国 重 名 の特 徴 は'弁 海 名 にも共 通す るも ので あ ったと 思 わ れ る。弁 海 名 は、 永 和 1年 (二 二七五)の ( 9) ( 0 1 ) 領 家 分 延 米」 など 五 石 六斗 七升 五合 ( そ の他 に 「 取帳」 によ れば' 一町九段 三〇〇歩 の土 地 から な - 、 そ こから 「 「 古書 銭」 七三〇文)が納 められ て いた。ま た、 「 弁 海 御 公事 足之 外、 名主 職 よ -も と さた仕 候 分」と し て' 領家 や ( ‖) 地頭 の年貢 分などがあ げられ て いる。 これ は'後述す るよ- に、 下地 の抑 留 によ って直 接徴収 され ること にな った た め に、元 は沙汰 し て いたと いう表 現が とら れたも ので あ るが、 そ の こと は、 以前 には名主 が年貢 分など の徽 約 に あ た って いた ことを物 語 って いる。 LLJ が って、 源 氏 一族 投落後 も'弁 海 名 は全体 が 一つの徴 収 単 位- な って お -、 名主 が 一括 し て年貢 ・公事 を納 入す る体制 がとら れ て いたと考 えら れ るので あ る。 1方 、 「 弁 海 名 内 私 注 文」 と 題 さ れ LJ「 道 光 分」・r 勘 解 由 分」・「 道 端 分」 に分 かれ た、 1筆 ごと の田 ・畠 ・尾 ( 12) 敷 ・林 の- ス-が作 成 さ れ て いるo このう ち' 「 道 端 分」 は、延 文 五年 (1三 上 ハ ○)の賢 阿 か ら左 衛 門 五 郎 への譲 ( 13) ( 14) 状 の'ま た 「 勘 解由 分」 は、 明徳 四年 二 三九五)の和気掃部 入道 から彦 四郎 への韻状 の内容 に' それ ぞれほ ぼ 一致 し て いる。 したが って' 一四世紀後 半 にお いて、弁 海名 を構 成す る f筆 ごと の土地 には'譲渡 の対象- な る権 利が 成立 し て 小たと考 えられ よう 。前 述 の 「 注 文」 の端 裏書 には 「 弁 海 名田職安 」 と記 され てお-、 そ れは 「 名 田職」 ( 15) と称 され て いた ことが推定 され る。 そ の所持者 のうち には、 和気 掃部 入道 - い-名主 と思わ れ る存在 も お-、弁 海 名内 の土地 は'名主 を 含 む複 数 の有 力 百姓 によ って分有 され て いたと考 えら れ るC 石井 氏 の指摘 す る名 の分解 と は、 こ- LLJ 事態 里 不したも のと思われ る。 し かしなが ら、 そ のこと は名が そ の機 能を失 っLJことを意味 し て いる l l l 世後親の在地軸向 第一章 93 ので はな い。 先 の 「 道光 分」・ 「 道 端 分」 のう ち には' 「 和気 知 行候 之名 主 職内 」 に含ま れ' 名主 が年 貢 ・公事 を徽納 6 1) ( し て いた土 地が存 在 す る C この こと は、 名 全体 にか かわ る 「 名 田」 と 一筆 ごと の土 地 にか かわ る権 利 と が重層 的 に ( 17) 存 在 し、 百姓 は名 主 を 通 じ て年 貢 ・公事 を負 担 し て いた ことを 意味 す るも ので あ ろう 。 r ・ , 「百 姓 的 」 剰 余 取 得 権 の性 格 以上 の点 からす るな らば'国 重 名 も弁 海 名 も、 百姓 が 二足の権 利 を有 す る土 地 の集 合 体で あ -、 名主 によ って年 貢 ・公事 が統 括的 に微 納 され る単 位で あ ったと いえ よう。 こ のよう に、中 世後 期 中 国 地方 に お いて、 名 は、 一筆 ご あ る。 と の土 地 に関 し て、 そ れを所持 す る百姓 の権 利 が 強化 さ れ てき た状 況 の下で 、 と き には百姓 側 のイ ニシアチブ によ 3 恥E って再 編成 さ れ つつ、 な お在 地 の収納 体 制 と し て維持 され て いた ので こ- した状 況 を前 提 とす るな らば 、中 間得 分権 に ついては、 一筆 ごと の土 地 に関 し て成 立 す る権 利を 、主 要 な検 討 対象 とす る必要 があ ろう。 国 重名で 見 た よ- に、 そ れ は' 名主 も含 む百姓 一敗 に対 し て年 貢 ・公事 負 担義務 に対 応 し て保障 され るも ので あ-、 耕作 権 と し て の農 民的 土 地所有権 と密 接 に かかわ って いる。 し かし'本 質 規定 と し _ ては、農 民的 土 地所有 権 とは区 別 されな ければ な らな い。 と い- のは、 すで に述 べた よう に'中 間得 分権 は'農 民 的 土 地所有 権 の成 立 を前 提と し つつも' そ こ におけ る剰 余 形成 の 二足の安定 化 によ って成 立 す るも ので あ -' さら にま た' 剰 余 の形成 自 体 は' そ れが 耕作 権 と 即日 的 に結合 し て いる限- は'中 間得 分権 の成 立 と結び つかな いから で あ る。 そ の限 -で は、領主 によ る 「 名 田」 の安堵 も、 せ いぜ い年貢 負 祖養 務 を 課 した こと の確 認 にす ぎな いので あ る O 例 えば ' 国 重 名 に お け る西 阿 の権 利 は' 正 和 あ る。 そ こに存 在 す る剰余 に他 人 が着 日 し、 そ の取得権 を めぐ って譲渡 ・売 却 ・相論 な ど、 人 間同 士 の関係 が成 立 5 肥E し て' は じ め て 「 職」■ と いう 対象 化 された権 利 が成 立す る ので 94 大 名領 国利 と地域社会 節二部 一年 (二二二 一 ) 段 階で は 「 名 田」 と の み表 現 さ れ て いた が、 元応 二年 二 三 二〇) 段 階で は、 「 百 姓 職」 と いう 名 称 あ - 、 が加 わ って いjo これ に ついて即断 はで き な いが、 実 は西 阿 は正和 三午 (二 元 ○)以来 この権 利 を めぐ って相 論 を 0 (2 ) そ の過程 を通 じ て' それが 明確化 された とも考 え ら れ る。 そ こで本 章 にお いでは' こ- した 続 け てきた ので 点 を踏 ま え て'中 間 得 分権 と称 し てき LJ も のを、 「 百姓的 」 剰 余 取得権 と 概 念 規定 L LJい. さ し あ た って、 「百 姓 的」 と は、 「 領主 的」 土地所有 権 と の対 比と同時 に'年 貢等 の負 担責 任を負 って いるが、耕作権 と し て の 「 農 民的」 土 地所有権 と は別次 元 のも ので あ ると い-意 味で あ る。剰 余 取得権 と は、 そ の権利 内容 の本 質規定 で あ る。 「 百姓的」剰余 取得権 は、 成立期 にお いでは、耕作 権 と の つなが -が 強 -、権 利 と し て の安定 性 も欠 いて いた こ い る 。 と は'容 易 に推 定 さ れ る。例 えば ' 永和 二年 二 三 七六) 、」 ハ郎 丸杉 久 の後 家 が も って いた防府 天満首 領 佐波令 公文 ( 1 2 ) このよう に、 領主 の交 名 の下作 職 は、 そ の土地 の売却 に伴 って取 -放 た れへ 四郎 三郎 な る人物 に宛 行 わ れ て 替 によ って自 由 に取 -換 え ら れ る状況 は、 す な わち、 耕作 権自 体 の不安定性 の現わ れとも いえよう。 し かし、農 民闘争 の成 果 や生産力 の上 昇 によ って安定的 剰余 が確保 され るよう にな れば '権 利 と し て の強 さも安 い LJ。 定 し て こJ ・ 6 -0 そ の際 に、 この権 利 はど のよ- な発展方 向 をと る のかO前 述 の弁 海 名 にお いて、 土地所持主 体 の 一 ( 2 2 ) ここ に 人で あ った左 衛 門 五郎 は、 そ の土地を 助太郎 な る人物 に耕作 さ せ' 自 らは それを 「 管領」す る立場 に は、権 利所 持者 と直 接生 産者 と の分離 の方向 性 が 見 られ る. し かも、後 述す るよ- に、 助太郎 は在 地領主と 私的 な 関係 を結 んで お-、 左 衛門五郎 と の関係 は、 人身 的 な支 配 関係 へ =従属小作制) で はな -' 経 済 的 な契 約 関係 だ った ので あ るC前 出 の 「 賢 阿韻 状」 にお いて'左衛 門五郎 が相続 した財 産 のうち' 不動 産 が 一町五段 余 の田 地 ・八筆 の ( 3 2) 島 地 ・四筆 の林で あ った の に対 し、 下人が唯 一人であ った こ と は ' 土 地集 稗が経営 拡大 へと向 かわず ' 得 分権 的権 利 の集 積 の方 向性 を と って いる ことを 示 し て いるで あ ろうC 中世後期 の在地動向 弟一章 門 時代 は降 って' 戦 国期 の厳 島 社領 にお いでも、 同株 の関 係 を 見 る こと がで き るQ倉 橋 島 の倉 橋 新蔵 允勝 吉 は、親 以来 の作 職を 所 持 し て いたが、 一両 年 の不作 によ -百姓 が年 貢 を 調 え ら れず 、 そ のた め納 入が 滞 った。 勝 吉 は、 少 1 2) へ しだ けで も納 め るし、事 情 に. ついても報 告 す る ので ' 召し上 げ は やめ ても ら いた いと懇願 し て い る 。 この場合 、 名 あ る いは村 落 を包 括 し た収納 体制 が な いた め'作 職所 持者 が直 納 し て いたと考 え ら れ る。 ここで は作 職 は、 建前 と し ては、 百姓 に年 貢 を 調 え さ せ' そ れを領 主 に納 め る こと によ って保 障 さ れ る権 利 で あ った。 L LJ が って' 「 百姓 的 」 剰 余 取得権 と は' 年 貢負 担 を前 提 と し て百姓側 に留保 され る剰 余 を 取得 す る権 利で あ -、 そ の根拠 は耕作 事 実 と は別 の次 元 に存 在 し て いた ので あ る。 そ し てま た'権 利 所持 者 と直 接生 産者 と の分離 は'権 利所 持者 の地主 化 の 方 向性 で も あ るo そ こで 次 に、 そう した 「盲姓 的 」 剰 余 取 得権 の発 展方 向 の段 階 を 示す も のと し て'定 量 的 得 分 の 問 料 普 佐 々 ︺ 成立 の 題 を検 討し よ う 。 2 (5 ) ︹ 史 C ( 端) 「 木 伊予守寄 進状御判」 奉 寄附 I 雲 樹 寺 三 光 庵 塔 下 田 地之事 ( 四尻) 佐 々木 伊 予守 合 捌俵 半 。 。者、 対置 粘 着志 者 '為 不白院 花 屋常栄井 玉英 源 玖童 子也、 然 間寺 領之 内 百姓 地利 分 買得 仕' 彼 売券 状相 副 寄進 申 者 也、 各 ( 乞) □衆 慈 永預毎 月 不怠 之 霊 供者 、幸 甚 々々、 仇 永代 寄 進之 状 如 件 大 永 六年踊九 月 六 日 96 大名師国利 と地域社全 弟二部 雲樹寺三光庵 経久 ( 花押) 佐 々木経久 は、 もち ろん戦 国大 名尼 子氏で あ る。経久 は'雲樹 寺 三光庵 に対 し'買 得 し た寺 領 内 の 「 百姓 地利 分」を寄進 Lt 一族 の供養 に宛 てることを要請した。 ここで 重要な のは、買得 した のが 「 百姓 地利分」で あ -、 そ あ る 。 れが 「 捌俵 半」と規定 されて いる ことで あ る。すな わち、寄進 された のは、 「 百姓」 が 「 地利 分」とし て所持 し て へ 6 2 ) いLJ 権利な のであ-' そ の取得内容 は、 「 捌俵 半」 -し て定量化 され て存在 し て いLJので も- 一例をあ げ よ-。 大正 一四年 二 五 八六)に、蔵 田秀 信な る人物 が' 「 先祖以来為作 職」 で抱 え てき た 三段 ・ 分銭 一貫 八百文 の田地を、 二斗 人で 四十俵 分 の米を代価 に売却 した。 この権 利 に対応 し て負担す べき義務 は' 「 地 頭役」 とし ての南京 銭 にして九百文 の 「 納所段 銭」 の 「 収納」であ った ( 他 に、「 三年 ニ 1度きほ-せん」もあ ったが、 ( 7 2 ) 。 その額は不明で あ る ) この場合、作職所持者 は、 「 地頭納所段銭」、すなわち上納 分と同額あ る いは倍額 の銭を取得す る権 利を有 して い た。と い- のは' この田地の 「 分銭」 とし て記された 一貫 <百文 は'作 職所持者 が徴収あ る いは取得す べき額で あ った からであ る。上納 分が九 百文と定 められ て いた以上へ この 「 分銭」 は上納 分で な い, 、と は明ら かで あ る。売券 にお いてこの土地 に関す る権 利主 体 とし て登場す る のは、 「 地頭」と作 職所持者 だ けであ る0とす れば' この 「 分 銭」 の意味 は、 二通 - に考 えられよう。 一つは'作 職所持者 が 「 納 所段銭」 も 「 収納」す ると ころ から、彼が この 有 権 」 土地 から徴 収す べき剰余 の総領とす る考 えであ-'もう 一つは、作職所持者 の取得 分 に限定す る考 えで あ る。どち ( 8 2 ) ら にし ても'作 職所持者 は、 一貫 八百文あ る いは九百文 の取得権 を、 明文的 に認 めら れ て いLJので あ る . な お、 ( 9 2 ) に転化 したも ので あ ろうが、 「 分銭」 と いう表現 からすれば' この作 職 は 「 百姓的」剰余 取得権 の 「下級領 中性後nl の在地軸 i 1 節-栄 97 ㍉ 定 量 化 の有 無 を めぐ って の問 題 の検 討 の際 に は、 、こ の相 違 は 捨 象 さ れ て かま わ な い。 こ の よ う に権 利 内 容 が定 量 的 に確 認 で き る の は、 今 の と こ ろ 戦 国 期 に限 ら れ、 「 百 姓 的 」 剰 余 取 得 権 が、成 立 当 初 よ - こ- し た 性 格 を 有 し て いた と は いえ な い。 し か し、 剰 余 取 得 の安 定 化 に よ って、 そ の内 容 が 定 量 化 さ れ る方 向 を と った こと ( 不安定であ れば定量化 は不可能 )は、 そ の本 質 が 、 経 営 ・耕 作 に か かわ - な い、 剰 余 の取 得 権 にあ っ た こと を 示 し て いるで あ ろ う 。 広 と略記し、巻数-真数を付すQ したが ってこの場合 は、広 Ⅳ- 五 二と表記す る こと にな る. ( 1) 「 小田文書」 四 ( ﹃ 広 島県史 ・古代中世資料編﹄ⅣI 五 二頁。 以下、 r 広島 県史 ・古代中世資料編)所収 の史料 に ついては、 ( 2) 同右三五 ( 広 Ⅳ- 七 四)。 ( 3)・ ( 4)・( 20) 同右 二九 ( 広Ⅳ 1 七〇)。 ( 5) 島 田次郎 「 荘 園制 的 〝 職″体制 の解体」(体系 日本史殺害6 F土地制度史1﹄ 一九七三年)参照。 ( 6) 「 小 田文書」三 二 広Ⅳ - 七二)。 の本所が京静 の皇室 関係で あ ったた め、訴訟が京都 にもち こま れたと 思われ る。 ( 7) 嘉暦 l年 二 三 二六)には'院 ・兵部省など へ饗 科な どが納 められ てお- ( 「 小 田文書」五-九 ( 広Ⅳ - 五二-五五))、当 時 は確認で きな いQ しかし、 この時点で は、国重名内 には百姓職が成立 し、年貢公事 ・ J納 められ て いるのであ -' T胞 の名 田 ( 8) この三名 から取-集 められた土地が、佃あ る いはそ の系譜を ひ-も のであ ったために、 こう した表現がとられた かど- か て いると推定して差支えあるま い. と同じ扱 いを- け ( 9) 「 弁海神社文書」 二 ( 広Ⅳ- 四〇七) 。 銭」-思われ る。 ( 1) 後出 の 「 弁海名内 私注文」 によれば、実 際 にはそれを上 回る面積 の土地が存在 し てお-、 この 一丁九段余 は、公口的 「 分 ( 1) 「 東 祁寺文 苔」 一三 ( 広Ⅳ- 三 八〇) 。 ( 1) 同 右 1五 ( 広Ⅳ - 三 八三)Q は、 鎌倉 期 の名主 の性 格 から、領 主 名 の系 譜 を ひ-i のと考 え られ、 名 主 職 JfL 純 に百姓的 権 利 -J す る こと はで きな い。 し ( 1) 同右 一二 ( 広Ⅳ - 三 七九 )。 期 の弁 海 名 にお いて、 百姓 が権 利主 体 と し て登場 し て いる こと を意 味 し' 鎌倉 期 におけ る武士的 名主 によ る支 配 の恥 位 から 中 世2﹄ l九 七五 年、参 順)と ど- か かわ る の か に つ いて触 れ る必 要 以前 の緬 主 の天 文 や代 々相 伝 の事 実 が こ の権 利 の保 証 には な ら な いこと を意 味 す ると し た笠 松 宏 至 氏 の指 摘 ( 「 本 券 な し」 ( 1) この間題 に関連 し て'売券 中 の百 姓職 ・作 職で あ るが ゆえ に本 券 が存 在 しな いと いう 趣旨 の文 言 の存 在 に着 日し、 そ れ は 定で きな いが、 そ の点で は稲 垣氏 と見解 を異 にす ると 思 わ れ る0 は、単 な る年 貢 徴 収 だ けで な-'支 配力 を行 使 しう る単 位 と し て のそ れで あ ると考 えざ るを えな い。 そ の内 容 に ついては確 的支 配拡 大 の過程 にお いて、名 はそ の 1つの叫 位 と し ての役 割 を果 LJ し て いると考 えら れ、 名主 が名 に対 し て か かわ る関係 百姓 に対 し て優 越 的 な 地位 におり、名 形成 に際 し ても中 心的役 割 を果 た し て いるo L かも、 そ の後 の名主 の土 地張 紙 ・経 済 そ の限-で は、稲 垣 説 と の共通性 は大 き いと いえ るQ し かし、 英態 的 には、 後 に玖島 郷 にお いて見 るよう に'名 主 は他 の 格 規定 な ので あ る。 姓的権 利 が成立 し、 そ れを 踏ま え て名 が編成替 さ れたと推定 し て いる。 し たが って、本 文 にお け る規定 も、 そう した名 の性 が あ ろう。 評 者 は、本 文 にお いで' 検 討 し た名 田 の意 味 から、中 国 地方 で は、 鎌倉 末 -南北 朝 期 に l筆 ごと の土 地 にお け る百 ( 「 中 世 の農 業経営 と 収取形態 」 君波 講雄 ﹃日本 歴史 ( 18) このよう に名 の性 格 を規定 す ると、 名 を年 貢徴 収 の単 位 と し、 土 地所有 や経営 と は別次 元 の- のとす る稲 垣泰彦 氏 の見解 性 格転換 をと げ たも のと評価 で き るO かし、 名主 職 の下 に 1筆 ごと の土地 に関す る権 利 が成 立 し、 そ れが名 主以外 の所持者 にも 分有 され る に至 った こと は、当 該 ( 17) 弁 梅 名 に お け る名 主 職 がど のよう な権 利 を 伴 って いた の か に つ いて は、 今 のと ころ不 明で あ るO な お、弁 海 名 に つ いて ( 1)・( 16) 「 米 禅寺 文書 」 l四 ( 広Ⅳ- 三 < 二)0 ( 1) 「 弁 海 神 礼文苔 」 1( 広Ⅳ- E] 〇六)也 一 人 勿付 i l _ 耶1 Lと地他社仝 98 P, 二部 中世綾期のJ l f地軸向 新一 諦 99 ﹃ 日本中世法史論A 一九 七九年、 二八〇貢)は注目され る。氏は、 こうした段 階 から'売券作成 による買主 の権利保証が行わ 職」 の性格 の変化を想定して いるのであ る。 れ る段階 への移行と、そ の時点で のこの 「 1 0 -三〇五と表記す ることにな 防長風土注進案﹄所収 の史料 に ついて ( 21) ﹃ 防長風土注進案 二二田尻宰 判﹄( 山 口氾文書 館版、第 lO巻、三〇五頁.以 下、 r る) 。 は、注と略記し、山 口脹文書館版 の刊本 の巻数 ・真数を付すoLたが ってこの場合 は、注 - 三七九)。 ( 22) 「 東禅寺文書」 一二 ( 広Ⅳ - 四〇E])0 ( 23) 「 暮沼寺文苦」 二二( 広Ⅳ j I1二1二)。苑人であ る棚守元行 の活軌時期から、 この文書を城周期のJのと推定した。 ( 24) 「 厳島 野坂文箸」七 二 ( 広E が寺領と して年貢を取得し て いたとすれば、今 回 の寄進 によ って、 1職支 配化 したとも考 えられ る。 ( 2) 「 雲樹寺文書」( ﹃ 新修島根脹史 史料編﹄第 1巻、四 1六頁) 。 I ( 2) 但し、経久が買得 LLJ 段階で、 この権利は頒主的土地所有権 へ転化したと考 えられ る。また、 この土地 に ついて、芸樹寺 ( 27) 「 石井文書」 二 一( 広Ⅳ - 三〇〇)。 毛利領国 の場 合、 こうした重層的碩有関係 にあ っては、「 上級碩有権」・ ・ J「下級領有権」と の取得分 の比率 はほぼ l対 1 と考 えられるので (二〇八東参照)、 恐ら- 一貫 八〇〇文 は徴収部分 にあ たろ-。 この推定が正し いとすれば、 tつの土地 に (2 ) そ の限-で の 「一職」化 が) 毛利領国 にお いてとられ て いたと考 えら おける複数額 主取得分を 「 分銭」とし て 一指す る政策 ( _ 「 下級領有権」 の性格 に ついては二 1三-」 ハ京参照O れる。 29 ) ( zoo 大 名細 国 制 と地域 社会 節二 部 第 二節 「 百姓 的」 剰 余 取 得 権 を めぐ る諸 勢 力 の動 向 「 百姓的」剰余 取得権 は'領主 取得分 に匹敵 す るほど の比重 を占 め る剰余 の取得を 可能 と し て いた。 この 「 百姓 的」剰余 取得権 の掌握 ・編成を めぐ っての諸勢力 の抗争 こそ、中世後期 の在 地動 向を規定す る- のであ る。 ・ 在 地 領 主 の名 への侵 略-- 弁 海 名 弁海名で は、 1四世紀末'在 地領主 の侵 略 によ って'名体制が破壊 され つつあ っLJ Q 明徳 四年 (二二九 三)以降 に ( 1) 作 成 されたと思われ る 「 弁海 名名主職知 行 注文」な る史料 には、 「 名主職」 から 「ぬけ」 て、名主 を通 じず に在 地 領主 が直 接 「 知行」す るよう にな った土地が列記されて いるo こう した状況 に至 った事情を 示し て いるのが、次 の 史料であ る。 ( 2) ︹ 史料D) 矢 殿絵分い-は無言 殿と られ候 道 祐方 へ調候 原 一、弁海御公事 足之外名主職 よ-もと さた仕候 分 大 豆二舛 桑代 花代鳥銭等 以上 二百文是 も 析 足 二代 貰義 家 公領 米九斗拙褒 小公 軸 物 文 新麦E] 舛 以上名子分之な し物之外 二名主職之内 よ- これ等 を さた中 で候、 いま は二貰文之代 九斗米 ハ卸売得之内 二人 中世後期の在地S J J 向 第一釆 IOI ( と) で候、少公事物 な ロ同- き物 にて候 間'﹀ 可人 かと存候 処 二皆 々下地を おさ へ候 で、名主職之内畠 を つ エ ロ 候 '無故事 かと存 候、 1'名主職内公事 足之外 二金剛坊不知行之処 (抑) 垂 管 得 分 畠 壷 州錆 誓 二 失 原罷 留 田 1段棚帥研処代 ) ▲ ( 敬) 屋 職 ∴M fH. : :: ・( . 1 : 5 g' ; i? I . : ・ : .: '! ' .: I .. 1 . 7 . .. : . ' ; i , . I : : . : . .= .I ・ = . . J ・ , i ・: ' J ; : . : ㌍ 言 : . ,. ・ '. .lil : I.. JL i ': . ・ ' ( I:, : " もとは我等 か方 よ-道久 ニ ロ ロ けて候'近年 ハ不成候欺 「 (・ Sf 却 神迫権 大郎 か迫 ( 末位) 林 二 ヶ所但いまは木なし 堀田半 十 郎 二郎 ( 和 ′ r T r 気 ′ ] .T ' ) 1 . ..︰. _. 一掃 部本屋職 兵庫殿屋敷航州忙讐 競 候 畠 遠 詣 古文是 ハ上意 にて候 と て失原 殿わたされす候、 ● ( 押 印) よ - - ゆ いL よ とな し ミ中 卒 にて候 へ ハ. 本 島 職之 分 ハ御契 約 之 聞 ハ如 元と 被 仰山 使者 畏 人候 、 御 正作 こな り候 ハん時 □ 御扶 持 も あ る へき棟 に 御意 候 ハん には‖ 代入存 幌 、 これはへ記載 された内容 から'名内 の事情を荘園領主 に報告す るため に、名主 によ って作成 された史料と思わ れ ち.まず第 7項で.弁海名で は従来 「 領家 公領」 の 「 析 足」・「 地頭年貢」・「 小公事物」・「 文新 」 は名主 によ って抄 へ 抑 留) ( ラ) よ - - □ 」 し てしま って いる 汰 されて いた ことを確認 し'と ころが いま 「 皆 々下地を おさ へ候 て'名主職之内畠 を ことを' 「 無故事」とし て いる。第 二項 は' 「 金剛 坊 不知行之処 」 の 一覧で あ るC 「 金剛坊」が いかな る存在で あ る 大 名統国別 と地域社会 第二部 かは 不 明だ が' こ こにあ げ ら れた土 地 は、前 述 の在 地領 主 の直 接 「 知 行 」 地 とぴ った - 一致 し てお-' この項 は、 「 代 管 得 抑 留 された 土 地 の 1つ 1つに ついてへ そ の状 況 を 述 べたも のと考 え ら れ るC そ こで 知 ら れ る のは' 矢原 殿 など の在 ( 3) カタ 地領主 が' 「 少 公事 物 」・「 文析 」 と い った自 ら の得 分 の 方 」 と い- 名 目で 下 地を 抑 留 し、直 接 搾 取 を 行 - よ- に 入 官) 分」 と の み記 され て いるが' な って いる ことで あ る。 これ ら の土 地 のう ち' 柳 か坪 の田 一段 は' こ こで は 「 ( 4) 名主 聯 之 内畠 」 にと ど ま らず ' これも実 は未 栓 殿が 直 接支 配す る に至 って いた ので あ - 、 こ- し た 土 地 の抑 留 は' 「 荘 園 制 収 取 の基 幹部 分で あ る田 地 にまで 及 んで いた ので あ る。 こう し て'名 体 制 の破 壊 は 「 無 故 」 き在 地領 主 の下 地 抑 留 によ って進 行 した ので あ るが、 こ こで 注 目 さ れ る の は、 抑 留 された 土 地 の性 格、 および そ の支 配方 式で あ る。 あ ち 原 の田 ・島 ・林 は、 元 は名 主 から道 久 に預 け ら れ て ( 5) いた のだ が ' 近 年 はそ の関係 が崩 れ'道 久 の 「 知 行 」 地と な った 。 名 主 が 呼び 捨 て にし て いる こと からす れば 、道 久 は従来 は名 主 と 同 じ百姓 と し て土 地を 預 けら れ' 年 貢 ・公事 の納 入 にあ た って いた と考 え ら れ る. そ れが名 体制 ( 6) から離 脱 し て知 行 人 とな る ことがで き LJ のは'道 久 が末 松 の名 字 を有 し て いる こ と からす れば 、代 官末 松 殿 の 1族 と し て、 そ の名 に対す る侵 食 活動 に連 な って、 名主 から預 けら れた 土地 を 略 取 L LJ 結 果 -考 えら れ よ- O こう し て 獲 得 された権 利 の性 格 は、 いかな るも のだ った の か。 「 名 主 職 」 から 「ぬけ」 て いる以 上 、 名 主 職 的 部 分 が 含 ま れ て いる こと は い- まで も な い。 同時 に' 以前 は名 主 から預 け ら れ て いた のだ から、 「 名 主 職」 が 正常 に機 能 し て い たと す れば 、 そ の下位 に属 す る機 能 が 艦 与 ㌻ れ て いた と考 えな ければ な るま い。 し た が って' こ の 「 知 行 」=下 地 支 配 は' 「 百姓的 」 剰余 取得権 部 分を も 対象 と し て成 立 し て いた ので あ る。 も- 1例 を あ げ よ- 。 ( 7) ︹ 史料 E︺ 弁 海 名 内 門田五段 ハもとよ- ぬけ候 一助 太郎 分田五段大 同 人分 畠 姦 屋敷 一所 林謂 奥 麻畠聖 露 詐 欝 ㌫ 告 避 退候、 1弥 二郎作 田 1段半 島 一段 半 ( 九郎大夫) 是 ハ道 光 持 分 にて候 、 近年 弥 二郎 髄九 郎 両 人持 分 を l人 にあ っけ候 で、 御 公軸 仕候 、 一膝九郎作 田 丁段 六十歩 畠 1段 松 殿 方 へ三斗 さた申候、道祐 の方 御代 管 方 へ納 候 富 補 よ り さた俣 山 中 恨 、 此 田 二段大 よ-年貢失庶 殿方 へ四斗 さLJ 申候' 末 二段 半よ-麦 四斗大 豆二斗 矢 原 股 へさ L J中候、 門析 -Jて= へも 1二舛 さた申候 哉、島 この史料 は、弁海名内 の土地 の 1部 に関し て' そ の所有関係、 および年貢 1 公事 の負担関係 に ついて記したも の った。前 出 の 「 弁海名内私注文」 に、 「 道端 分」と し て 「 助太郎 分 田五段大」などが 登録 され て いること からす れ ここで 注目した いのは' 「 助太郎分田五段大」など に ついてで あ る。 そ れらは、 「 元道端持分内 公事 免」 の地であ であ る。 そ の所持主体 は、 この史料 の作成段 階 にお いでも、 それ以前 にお いでも、単 一で はな い。 したが って、 こ 姉- Tc 小他線糊の祉地 軌向 ば、 「 道端持分」と は、道端が 「 百姓的」 剰余 取得権 を有 し て いた土地と いう意味であ ろ-。 そ れが'今で は、 「 失 ち. ︹ 史料D)と同 じ-、在 地領主 の土 地抑留 によ って変化 した名内 の実情 を確 認す るた め に作成 され たも のと 思 わ れ の史料 は、弁海 名全体 の年 貢 ・公事 納 入 の総 括責 任者で あ る名主 によ って作成 されたと推定 で き よ-。 そ の中 に I は、 「ぬけ候」'あ る いは 「 矢原 殿御恩 にて」 「下地進 退候」- い-状況 に至 って いた土地が存 在 し てお-' これも 3 0 0 4 ( 8) る 。 そ れで は' この 原 殿御恩」 によ る 「下地進退」 と いう関係 にな って いるので あ 「下地進 退」 の主体 は誰 か。 も ち ろん道端 で はな い。考 えら れ るのは、 この史料 の作 成者 で あ る名主 か、 助太郎 かで あ る。 し かし'失 原 殿 の抑 留 によ って名体制 から抜 け落ち、 そ の 「 御恩」 の対象とな った 土地 が' 抑 留 の被害 者で あ る名主 に与 えら れ ると いう こと があ るだ ろう か。 この史料 が 「 東禅寺 文書」 には い って いる こと からす れば、 そ れ は単な る名主 の私的覚書で はな-'荘 園領主 への報 告書 で あ ったで あ ろうC とす れば '自 らが名 体 制 の破壊 者 よ- 「 御 恩」 を- け て いるな ど にあ -' そ の彼 が か かわ って いた土地で あ る こ と報 告 す る こと はあ るま い。 LLJ が って、 この 「 進 退」 の主 体 は助太 郎 であ ると考 え られ るO傍証 JJし て、 やは( 9) 矢原 殿が、 「 助太 郎 分 の内」と い- 理由で 「 執 心」 し ( ︹ 史料D︺) へ「 知 行」 に 成 功 した土地 のあ る こ- があ げら れ るQ 被官 関係 かI 「 執 心」・「 知 行」成功 の条 件 とな って いたと考 えられ る ので あ る。 そ こで、 この 「 助太 郎 分田五段 すな わち、 助太 郎と失原 殿- は'何 ら かの関係- ので あ る 。 入れ替 え る こと によ って、在 地掌接を 深化 させLJ 独 自 の領有 体 系 を構 築 し' よ- 強固な支 配基 盤 を形成 し て い った ( 0 1 ) 壊 し年貢 の直 接 搾 取を 実 現した。 そ れだ けで な -、 「百姓 的」剰 余 取得権 を 所轄 す る百姓 を'自 ら の 一族 ・被官と 在 地領主末 松 氏 ・矢原 氏 はt .自 ら の 一族 ・被官 が かかわ って いた年 貢 の手が か- に下地抑 留を行 い'名体 制 を破 的」 剰余 取得権部 分を給 恩と し て与 え'自 ら の領 有 体系 の中 に編成 し て い っLJので あ るo 下 に いる作 人的存 在で あ った。在 地領主 は、 こう し た層 と結 託 Lt下 地抑 留 の尖 兵と す るとと も に、 新 た に 「百姓 にな ったと考 えた いO前 述 のよう に、 もともと この土 地 は'左衛 門五郎 の 「 管 領」 す る土 地で あ -'助太郎 はそ の 進 退」 させ る こと 大」 など も、同様 な条件 を有 す る土地で あ った た め に'矢 原 殿 の直 接支 配が実 現し、 助太 郎 に 「 と が、 矢原 殿 の 節二部 大 名苛 E i 国別 と地域社会 r f l l u /後期の在地動向 第一章 '05 2 百 姓 内 部 で の集 積 の進 行- 玖島郷 玖島 郷で は、 1三世紀末 から 7四世紀 初頭 にかけ てへ 百姓間で 土地所有 権 を めぐ っての相 論 が頻 出し て いる。第 7節で検 討した史料 は、 す べ て相論 にかかわ って作成 されたも のであ ったO西 阿が 「 田地五段大 百姓職」 の所持 を 確定 で き た のも、 正応 三年 (〓 1 九〇)以来 の同 じ玖島 郷 百姓 「 重清 人道 西聴」 な る人 物 と の相 論 を 通 じ てで あ っ たC この相 論 は、 訴人 ・諭人 よ -提 出 さ れた 「 御 下文」・「 御書 下」・r 給主等 宛 文」 など の領主 から下 された文書 に ( ‖) 基 づ いて審 理が進 められ' 西 阿 の勝訴 とな -' そ の裁定 の執行 が政所 に命 じられ て いち おう の結著 を みた。 もう 一つの方 の相論 は'性格 を若干 異 にす る。 ︹ 史料B)の場合、 相論 の対象 とな った のは やは- 「 名内 田地」だ が'当事 者 間 の争 いに刀 蹄が介 入した点 に特 徴 があ る。 訴人 見阿 の主 張 によれば '当 初 の相論 の相 手で あ る山代 入 道 は、 「 無 道」 のた め 「 苛茸」 をう け' 見 阿 に土 地を所 持 す べき旨 の 「 下知」 が出 された。ま た、年 貢 公事 も僻怠 な-納 め て いたし、新 田 に ついても検 兄 のとき にち ゃんと坪付 に載 せら れた. 7時 「 御堂之 免所」と い- ことで 年 貢公事 を無 沙汰 L LJこと-あ っLJ が' 「 佐 方 殿」 の意向 で 'ま た年 貢 を 納 め る ことを申 し出 て いるQ このよ- に見 阿 に道 理のあ る こと. 2 5'郷 内 の百姓等 が は っき-と衆知し て いる ことであ るO こう した事情 にも かかわ らず、 な ぜ 刀 蹄が介 入し てき た のかは確 定で きな いが、押 領 し ょう と した のが係争 地であ る こ-、 「 御 堂之 免所」- いう こと で、 一時 見 阿 も無 沙汰 し て いた こと からす れば 、相 諭 の対象 とな -、年 貢 ・公事 の納 入関 係 の混 乱 し て いる土 地 ( 1 2) を、 刀耐JJい-職 分を建前 に差押 えよ- とし LJので あろ-。 刀 繭 によ る押 領 には'まだ例 があ る。 ( 3 1 ) ︹ 史料 F) 久嶋郷若氏住 人伊 豆房良慶 謹言上 工06 第二部 大名縮図制と地域制: 金 カ ) 官 苦 ( 良度 盛花押) 為同所刀楠丸等 '早任本主国重譲状、且御 下知旨、且依重 正同重安等和与儀、 被停止非分押領、 如 元欲宛賜岩 御下如実但国亜後家与流田相論時給之、 氏田九段 半純増 以下田畠等 間事、 ( 副) ロ進 一通 (代 口 1通 同時岩氏屋敷以 下差 息案謂 e ] q=入道殿井 後家 二通 団重譲状案 詐 講 評 響 良庭草、竹 右 名 田 者'日 本 主 国 重 之 手 放 得 之 後'無 相 違 之 処'彼 重 安 .B謂 無 故 令 押 領 之 間、 去 永 仁 四 年 御 検 注 ( 暫) 折甜帥鵬糧 雛屠之時'令申訴訟処'件重正重安等 申云、所詮互 不晋 異論、 以和与之儀、 於岩氏垣内九段 半田地 者可付手長慶 之由'頻中之 間'備進若干新 用途、止敵 対怨成冥水之思経年記畢'愛去正安年中之比へ依有斬要 用寺前 二反深 田 二反巳上 四反、 限四 カ年対干重立命活却之処、前 以重安求次艮慶作 分令押領之聞'先給主代 対 干五郎右近尉、錐度 々訴申、重安与五郎右近尉為 合智 之間、 不及取沙汰'徒過年記之条、 雄堪無極次第也、 適 当御代悦身幸所令言上也、所詮早任本主国重讃状'且任御 下知之旨'且依 重正同重安等和与之儀 、如元可令進 日 退長慶之由、為蒙 御成敗'粗 恐 々言上如件、 文保 元年五月 これは'玖島 郷 住人良慶 な る人物 が、領主 に対 し、国 重名 よ-譲 ら れた 「 岩氏 田九段 半純増 以 下田畠 等 」を玖 島郷 の 「 刀醐丸等」 によ って押領 されLJこと に ついて' そ の停 止と土地 の 「 宛賜」を要求 した訴状であ る。訴人長 慶 の主張 によれば、 この土地 は 「 当 刀禰親 父」で あ る重安 に押 領 されLJ が'検 注 の際 に訴訟を起 こし' 「 若干勘新 用途」を負担す ることで和与が成立 し、点慶 に返付 され る こと にな った。と ころが'後 にこの土地 の l部を垂正 に 中世後期 の在地 軌向 07 第一輩 1 年 紀売 L LJ と ころ'再 び 重 安 によ って押 領 さ れ てしま ったO そ こで ' 「 先給 主 代 」 で あ る五 郎 右 近 尉 に訴 え た のだ が' 彼 は重 安と 「合 智」 の関係 にあ ったた め' そ れが 取 -上 げ ら れな いと いう 状 況 にあ った ので あ る. この押 領 主 体 を、 事書 で は 「 刀 禰丸 」 とLt 本 文で は 「 当 刀 禰親 父」 の重 安と し て いる。 重安 は この段 階で は刀 繭で な いこと、 和与 に重 正が 加 わ って いる こと からす れば 、 重 正 が 刀 欄で あ -、 重 安 が重 正 の親で あ る ことで 整合 的 に理解 され る. した が って、押 領 主 体 は刀 禰重 安 ・重正 父 子で あ るD この場合 へ押 領 は 二度 にわ LJつてお-、 一 度 日 の 口実 はわ から な いが' 11 度 日 は重正 に係争 地を年 紀 売 した こと が き っかけと な って いる。 ま た、 重 安 が 「 先 給 主代 」 の五郎 右 近尉 と姻 族で あ るた め、訴 訟が 受 理 され ねと いう 状況 を 招 いて いるC これ に対す る訴 人良慶 の主 張 は、 以前 の相論 の際 に出 さ れた 「 御 下知」、 あ る いは検 注 の際 にな さ れた 「 和 与 之儀 」 を 根拠 と し て いる。 こ- I Jた相 論 の特 徴 を ま と め ると' 以 下 の如 -で あ る。第 1に'相 論 が 名 で は な - 名 内 の 田 地 の進 退 (=「 百姓 的」剰余取得権 の所持) を めぐ って百姓 問で展 開 され て いる。第 二㌧ な かで も刀 楠 の押 領 が 注 目 さ れ る。 そ れ は' そ の地位 を 利 用 した相 論 への介 入へ拾 主 代と の関係 を 通 じ た訴 訟 の妨 害 、 経済 力 を背 景 と し た貸借 関係 を 通 じ で の押 領 な ど、 社 会的 ・経済 的 カ によ った も のと 思 わ れ る。 第 三'荘 園領主 の支 配 体 制 が そ れな - に機 能 し' こう した相 I 論 への規 制 力 とな って いる。 当 時 の本 所 は京 都 の皇室 関係で あ -' さら に領 家 的存 在 と し て厳島 社 が あ -' そ の中 ( 4 1) に支 配責 任者で あ る拾主 が いて' そ れが現地 の給主 代 ・政所 を 置 いて直 接支 配 を担 当 さ せ て いたも のと 思わ れ る C この体 制 は、 「 御 下文 」 や 「 給 主等 宛 文 」 によ って、 名 田 を所 持 す る百姓 を 確 定 す る、 あ る いは検 見 によ って新 田 を 掌 握 す る、 さ ら に領 家 が 使者 を 派 遣 し て検 注 を 実 施 す るな ど、 そ れな - に在 地 を 掌 握 し て いた。 そ れ に基 づ い て、 あ る いは京 都で 訴 訟 を 取扱 い、 あ る いは領 家 から政所 へ裁定 の執 行 を命 じ るなど の訴訟 処 理を 行 って いた ので あ るQ第 四1 1万 、 百姓 が権 利 の正当 性を 相 互 に承 認 し' 保障 しあ って いる側 面 も見 ら れ るC 一08 大 名印B l別 と地城社台 第二部 このよう に、 玖島 郷で は、 「 百姓的」剰 余 取得権 を めぐ って' 在 地領 主 の侵 略で はな 上 古姓 相互 間 の相 論が 展 開 され、刀輔が そ の地位 と力 を利 用し て積 極的 に集 積を は か って いLJ O し かし、 こ- した非法 によ る土地集 積 は、 他 の百姓 の抵抗 ・領 主 の規制 によ って'困艶 を伴 って いた。 刀 肺 の押 領 の対象 と な った国重 名 が、 刀 秤 によ って所 お - 、 刀 欄 の本 拠で あ る重 正名 ( 後述)に併 呑 さ れ る ことな 持 さ れL J IJ 見 られ る形跡 はな いC そし て' は るか二〇〇年 以 上を経 LJ 天文 二 一年 二 五三 三)の 「 久島 郷 田地貴高差 ( 5 1 ) 出案」 に' 国垂 名 は八段 ・四貫文 の地と し て登録 され て -、存 続 し て いた ので あ るC 、重 正名 内 の田島 以 下 の相 むし ろ注 目 され る のは'名を拠点 と した土地集 積 の進 行で あ る。 貞和 六年 (一三 六〇) ( 6 1) 続を めぐ って、右 馬 入道 の後家 尼 と 子息 右馬 次郎 と の問で相 論が起 こ った 。 これ は、 双方 の認 めた証 人 の講 文 の旨 ) ( 所 当) ( t J) ( 帖 促) に任 せ て右 馬 次郎 に 「 領 宰」 さ せ る旨 の下知 状 を、 地頭 が発給 す る こと によ って結 着 が ついた。 さ ら に右 馬 次 郎 ( 進退) (散 由) は、 応 安 四年 二 三 七 二 一〇 月 一五 日 には、小 右馬 尉 よ - 「 垂正 之 内」で 「心 代 」す べき 「さ ん は -」 の注 文を 7 1) ( 与 えら れて い る 。 この注文 のも つ意 味 は'次 の史料 によ って明ら か にされ る。 8 1) ( ︹ 史料 G︺ ( 永) 入 試 ・□ 代 ゆ つ-申重 正名之事 平右馬 尉 ( 花押) 右 名著、右 馬□ □ ゆ つつ波所 な -、 □年 貢御 公事 し ゃう と -先例 こま か せ □ さ い そ -す へし'名代 者、女 ハ 一 . O た( 代) 街 ( 惣 鏑) ( 過q 代 一か□ たゑ ま ハ そ- れ う 心 代 同 下河 上者 □ ん大 夫 か いと の ら い所 し て重 正 名 之内 口絵候 事 ハ、小 右 馬 尉 殿 ( A) . . □ せ て候 所 也、竹 為後 日譲状 如件 約束之状 こま 応 安韓 年 柵の-の十月十五 日 これは' 平石馬尉 よ- 「 右 馬 ロロ」 に対 し て作 成 された重 正名 の穂 状で あ る。 ここで の権 利 の 一部 が小右馬 尉 の 中世後期 の衣地勤r L ' ・ l 第-帝 09 約 束 に従 って確 認 さ れ て いる こと、 し かも この譲 状 が 小右 馬 尉 が右 馬 次 郎 の進 退内 容 を 記 し た 注文と 同 日 に作 成 さ れ う 凱 ) ( と さ れ て いる。 こ の文 言 避 退) 心代 」 れ て いる こと からす れば ' この 「 右 馬 □ □」 は' 右 馬 次 郎 で あ ると す る こと がで き よう 。 右 馬 次 郎 は' こ の譲 渡 に ( 惟 促) (所 当) ゃう と う 」 の 「さ い そ -」 が 義 務 づ け ら れ た ので あ -' 獲 得 し た の は名 主 職 的 権 利 と考 え 対 応 し て' 「 年 貢 公事 し ら れ る. ( 惣 - こう し て基本 的 点 が確 認 さ れ た後 、 「 名 代 者 、 女 ハ 1代 1か□ た ゑ ま ハ そ のも つ意 味 は何 で あ ろう か. 名代 は' 実 子 幼 少 など の場 合 の家 督 の 一時 的継 承者 で あ -、 「 女 ハ 1代 」 と い- のは、 女 子 の相 続 権 は 1期 分 のみで あ ると いう こと で あ ろう 。 し た が って'意 味 不 明 の部 分 は 若 干 あ る が、 大 意 をと れ ば 、 女 子 が 名代 と し て家 督を 継 いだ と し ても ' そ の権 利 は 一代 限 - のも ので あ - ' そ の後 は家 督 は嫡 子 が進 退す べ きで あ ると いう こと にな ろう 。 冒 頭 の事 書 か らも わ か るよう に' この譲状 は重 正 名 を対 象 と した も ので あ る から' と の相 論 にあ ると す る必 要 が あ ろ- 。 し た が って、 こ の この部 分も そ れ に か かわ って挿 入 され た も のと考 え る必要 が あ る。 と す れば ' そ の 理由 は' 一〇年 前 の重 正 名 内 の 田島 の相 続 権 を めぐ っての'右 馬 入道 の後 家 尼と右 馬 次 郎 ( 9 1) れ る。 部 分 の眼 目 は、 重 正名 が家 督 相 続権 者 で あ る惣領 右 馬 次 郎 に譲 ら れ る のだ と いう こと を 強調 す る こと にあ った と 思 . わ 最 後 に、 小 右 馬 尉 の約束 に従 って、 下 河 上 を 重 正 名 の内 ( とし て進 退す る)こと が 確 認 さ れ て いるD し た が って、 小 右 馬 尉 が作 成 し た注 文 は、 新 た に重 正名 主 と な った右 馬 次 郎 に対 し、 そ の進 退 す べき範 囲 を 明 ら か にす る役 割 を っ た 。 とす ると '右 馬 尉 は、 自 ら の取得 し た 土 地 を ' 惣 額 の統 轄 下 に置 - も って いた ので あ るc JJこ ろで ' こ の下 河 上 は、 応 安 1年 二 三 六 八)に' 「 き ん大 夫 か いち の□代 所 」 と し て' な ( 0 2) ら原 重任 よ -右 馬 尉 へ譲 ら れた も ので あ と いう 体 制 を と って いた と考 え ら れ る ので あ る。 大名 J韓国 n i l lと地域社会 荊二部 確保 しょう - し て いた ので - あ る . こ こに、有 力 百姓 によ る土 地集 積 の方 向性 と'名 のも このJ ・ 8 う に、有 力百姓は名 を拠点 に土 地集 積を 行 い、 それを'惣 領 を頂点 と した 1族結合 を 強化 し て ( 1 2 ) 集 中 によ って- いわば つ実質的 意味 を見出す ことがで きよ-。 そ れが、玖島 郷 にお いて名 を通 じた年 貢 ・公事 収 取体 制が存 続 し た 一つの理由で は な いだ ろう かO と ころで、 この重 正名 は刀蹄 と の関係 の深 い名で あ るQ前 出 の 「 久島郷 E E地貰高 差 出案 」 によれば ' 刀耐絵 は重 正名 に集 中 し て いるO さら に、前 述 のよ- にへ重 正名 と深 いかかわ - を も つと 見 ら れ る重 正が 刀 稀で あ った ( 重正 と い-名前 からすれば、名の形成 の中心を担う名主であ ったとも考えられる) 。 と す る- 、名主 職 を有 す る 「 右 馬 」系 一 史料B︺にお いて、 見 阿は 「 御代馬 入道 殿嘆 申処、 見 阿海道 理事 族 と刀 桐と はどう かかわ って いLJので あ ろう かO ︹ 郷内之 百姓等 被承条顕然 也」 と主 張 し て いた。 この馬 入道 が 「 右 馬 」 系 の人物で あ ると し、 「 御代」 を佐方 殿 の代 官と いう意 味 に- ると、馬 入道 は訴 訟を受 け る側で あ -'相 論 の相 手で あ る刀 翻で はな いこと にな るC で は、 重正 名 には、 刀 術で あ る 「 重」系 一族 と 「 右馬」 系 一族 とが有力 百姓 と し て併存 し て いた ので あ ろ- か。 著者 はそ-で ま で続 はな いと考 え る。実 は'「 重」 系 が 史 料 に登 場 す る のは' 刀 輔 の押 領 に か かわ る 一四 世 紀前 半 に限 られ る。 一方 ( 2 2) 「 右馬」 系 は、 二 一 世紀 初頭 に 「 右馬 次 郎」 な る人物 が 公文 名 の宛 行 を - け て い る のを始 点 と し、 一時 中断 し っ つ 3 2) ( いて萱場 し て いる。 そ こで 著者 は' 1四世紀前 半 の押 領 の央 敗 によ 1四世紀 後半再び 現われ' 一五世紀中頃 って 「 重」 系が没落 Lt かわ って公文 あ る いは代 官 を勤 め て いた 「 右 馬 」 系 が 刀 欄 の地位 を継 いだと推定 した いC そ れだ け刀 桐 の押 領 には抵抗 が強 か ったと考 え るので あ る。 さて' 一五世紀 には いると新 たな傾 向 が生 ま れ る。 玖島 あ る いは近 辺 の長原 の百姓 によ る出挙籾 の借 用状 が出 現 す るので あ る. 1例 をあげよう。 r F ・ 壮後別の在地軸向 節一章 11 ( 24) ︹ 史 料 H︺ ( 端米審) ( 割) 「な かわ ら のそう三郎す この状」 申 う - る御 出 挙 祝 事 合 五斗 者 一 ( 刺) ( 末 並) ( i. カ) そ う 三郎 ( 略押) 右 件 之 執 着 ' 秋 之 時 六 わ - の - 分 を そ ゑ 候 て、 み し ん な -弁 中 へ- 候 、 も し ふ さ □ 仕 候 ハ ・、 か き 内 田 一反 ( 耕 作) ( 柚 門 高 宮) か の ふ物 あ た -候 ハん 分を ' 御 こ う さ - あ る へ-候 、 尚 々相 違 仕 候 ハ 、、 いかな る け んJ Aん か - け神 社 仏 寺 御 ( 郷 質) ( 沙汰) ( ちカ) ( 嫌) 領 内 いち ま - 路 次 を き ら ハす ' 見 合 か - し ち を と ら れ 可申 候 、 其 時 1義 子 細 を 申 ま し - 候 ' 仇 為 後 日 さ LJの ( 証 文) せ う も ん如 件 応 永 升 年讐 月 二 日 な かは ら の これ は、 長原 のそ - 三郎 によ る' 五 斗 の出 挙 粗 の借 用状 で あ る。 三 月 に借 - う け、 秋 に六割 の利 分を 添 え て返済 す る こと' 返 済 不能 の場 合 には負 物 にあ た る分 だ け 「かき 内 田 1反 」 を 耕作 さ せ る こと、 さら にそ れ も 不能 の場 合 . ( 5 2) には郷 質 を と っても かま わ な いことを 約 束 し て いる。 他 の 史 料 も 含 め て、 貸借 関 係 が 成 立 した のが 三 ' 四 月 に集 中 取 - があ げ ら れ て し て いる こと' いず れ も秋 に返 済 を 約 束 し て お-' 収穫 物 を も って充 て て いると考 え ら れ る こと から' この出挙 籾 6 2) ( の用 途 は種 籾 と考 え ら れ るO さ ら に' 担 保 文 言 と し て、 「かき 内 田 」 の耕 作 ' あ る いは 人身 の 召 いる こと からす れば ' 借 手 は、 自立 し た生 産主 体 で あ - な が ら' 種籾 の備 蓄 の余 裕 のな い不安 定 経営 を 営 む 一般 百 姓 で あ った と いえ よ- 。 彼 ら は、 担 保 と し ては経営 の拠点 で あ ろう 垣 内 田 を充 て る以 外 には な - 、 中 には そ れす ら 所 持 せず 自 ら の労 働 力 を 充 て る以 外 には な い零 細農 民 も いた ので あ るo 大 名鏑 国 利 と地域社会 節二部 これ ら の借 用状 の文 言 は酷似 し て お-' そ のパ タ ー ン化 ' すな わ ち、 貸借 関係 の広 汎 な存 在 が推 定 さ ( 7 2) れ る 。 出挙 の主 体 は史料 上で は判 明 しな いが、 郷質 規定 が 記載 され て いる のが長原 の住 人 のも ので あ -' 玖 島 の住 人 のも の に そ れが な いこと からす れば 、 玖 島 郷内 の住 人で あ る- い- こと にな ろ-。 ま たへ 文書 の伝 来 関係 から し て、前 述 の 過程 を 通 じ て経 済 力 を 強化 し てき LJ 刀 輔 など の有 力 百 姓で あ った こと は、 容 易 に想 定 さ れ る0 こう し て有 力 百 姓 1貰 二〇〇 文 を支 出 し て お-' 他 の百姓 の 1 00 文 ・ は、 一般 百姓 と の間 の貸 借 関 係を 桂 子 と し て' よ- 一層 土 地集 積 を進 行 さ せ' 百姓 内 部 で の搾 取 関係 を 展 開 し て い ( 8 2 ) 久島 郷 百姓 年 - ので あ る。事 実 、 重 玉 名 に隣 接す る久 漕 名 には、 刀 繭 の抱 え る田 地 が 多 数 存 在 し て い る 。 ま た、 「 あ る 。 貢 礼 銭 覚 」 によ れば ' 「 馬 の太 郎 殿」 が、 あ と 二人と 並 んで ( 92) 五〇文 に比 べ て、 圧 倒的 な高 さを 示 し て いる ので ま と め 「 百姓的 」 剰余 取得権 を めぐ る諸勢 力 の動 向 は、在 地領 主 の侵 略 によ るそ の領 有 関係 への編 成 'ま た' 百 姓 内 部 の経済 関係 を 通 じ て の集 稗 の進 行 と いう方 向を と った。 前 者 の場合 、 「百姓 的 」 剰余 取得権 は、領主 的 土 地 所有 権 に上 昇 転 化 す る こ- によ って、 そ の中 間性 ・過 渡 性 を あ る 。 克 服す る。後 者 の場合 、搾 取関係 はあ -まで も百 姓 と い- 同 1身 分内 のも ので あ -、 そ の安 定化 のLJ め には、 領主 0 (3 ) 支 配と は異 な った体 制 を 形成す る必要 が あ る。 そ の形成 によ って' 在 地中 領主 が そ の本 格的 成 立 を 見 る ので ( 1) ・( ・ 1)・ ( 5)I( 6) 「 東 禅寺文苫」 1四 ( 広ⅣI 三 八二) 。 この中で 明徳 四年 の散 田 に ついて触 れられ て いる ことを- つて、年 代推定 の禎拠と したO 矢原 殿 に ついては、竹原小早川家 の家臣とし て史料上 に見られる大原氏がそれ にあた るか- しれな い( ﹃ 小早川家文書﹄ 四 Ⅳ- 三八〇)。 同右 l三 ( 広 七四号、 r 小早川家 証文」 三六九号参 照)。同 じ-竹原小 早川豪 の 「 内 の者」と し て、未松 氏 の名 が見ら れ る ( r 小 早 川家 証 「 東 禅寺文書」 一七 ( 広 Ⅳ- 三 八五) 。 文﹄ 四〇 こて) 。 石非氏 は、 この 「 矢原 殿御恩」 を小早川氏 から矢原氏 への給 恩 の意 にと って いる ( 石井荊 掴書 二八二束参照)が、著者 は、 同右 1< ( 広Ⅳ- 三<六). 以下 の理由 から本 文 のような意 にと った。小 早川氏 から の絵 恩 は 「 拾 分」 と表 現 され、内 容 は 「 地頭年貢」二 桑代 花代烏 銭」などで、特恵 の土地と は結び つかず、名主が 沙汰 し てきた 分で あ ち ( ︹ 史料D︺など) o Lたが って、 「 給 分」であ る こと 配 による取得 は、収納体制の変 更をもたらす も ので あ -、 そ の場合 には、 「 知行」 と薮 現 され て いる( 注( 1) 史料 など) Cl 自体 は、名を通 じた収納体制 を否定す る- ので はな い。 それ に対 し、そう した 「 給 分」 の抑 留を通 じた特定 の土地 の直接支 方、 この場合 は 「 御恩」と表 現されて いる。 それは矢原氏 の 「 知行」 令-な った ことで はな-、そ の内部で の下地進 退の関 係 を問題 にし て いるた めと考 えLJい。 「 御恩」 とは'与 え る立場 から の表現L, - LLJ 方が、素直な解釈で はな いだ ろう か。 前 述 の永和 l年 の 「 取帳」 の作成-、 こ-LL. 状態 への対応 の 一つであ ろう。 I 。 「 小 田文書」 二九 ( 広Ⅳ- 七〇) 見阿が 「 如元刀 爾押領分国重 可被付置」 き ことを要求 し て いる点 は'注 目す る必要があ る。 このことは'押領が同時 にそ の対象地 の名 から の離 脱をも招 いて いることを意味 し ては いな いだ ろ- かO-すれば'刀細は この土地を自 らの名主的管 理 「 小 田文書」五九 ( 広 Ⅳ-九〇) C この史料 は年欠であ るが、そ の作 成事情 から年代 を推定 した.' また、国垂 名 は この史料 松岡前禍論文 四九 -五〇頁参照。 「 小 田文書」 二 ( 広Ⅳ- 四九) . の下 に置 こうとしたとも考 えられ るd 1 51 41 3 t f T 世後期の在地軸向 節一章 =3 には見えな いが、 「さんしきう」を負担 して いる 「いわ」 が、実 は国垂名 にあ た る こと は、「 久免除 田差出案」( 「 小 田文書」 広 Ⅳ- 九 二 ) で の 「さんしき-」 が 「 国しけ名」 の負担とな って いること から明ら かであ る。 六〇( ( 16) 同右 二 ( 広 Ⅳ- 五六). ( 17) 同右 一二 ( 広 Ⅳ- 五七)。 広 Ⅳ- 七九)。 ( 1) 同右四三 ( ( 1) この時点で改めてそ のこ1Jが確 認 された のは、 そもそも平右馬封 がそ れまで 重正名を進 退 し て いLJこと に見られ るよう て に、相論 の最中平右馬尉が親族とし て重正名を 一時預 か-、 ここで そ の最終結着 が ついた ことを示し て いるとも考 えられよ ■ フ○ ( 20) 「 小田文書」 四 1( 広Ⅳ - 七八). 刀欄が非法を通 じて実現しょうとした体制が、 ここで実 現されて いるとは いえな いだ ろう か。 ( 2) ここで、刀紺は押錦した土地を自 ら の名主的管 理の下 に置 こ-と しで いたと想定 した こ-J( 注( 1) )を思 い出し ほし い。 内容的 にも他 の史料と の関連がな いこと から、偽文書 の可能性があ る。 ( 22) 「 小 田文書」 1( 広 ⅣI 四九) Q但し、年号 に干支が付されて いる のが、当該 期 のも のとし ては不自然な こと、時代 的 にも 。 ( 23) 同右 一六 ( 広 Ⅳ- 六〇) ( 2)二6 5 2 ) 同右五 二 ・ 五三 ( 広 Ⅳ- 八五 ・八六) 。 ( 2 4) 同右五〇( 広 Ⅳ- 八四) 。 て」土地を売却 せざ るをえなか った例 のあ るよう に( 「 小E E文書」 1五 ( 広 Ⅳ- 五九))、守 讃役等 の収奪 強化 も原 E E Z し て いLJ ( 27) こう LLJ 状況 は、生産力的不安定性L, けでな-、 「つ-LLJ ち はな の御ち ん の時、御 公事 をゑ つかま つり候 ハす候 によ っ 29 28 「 百姓的」剰余取得権 の集積 によ って、他 の百姓 と の間 に広汎な搾 取周係を展開す る階層 を'在 地小領主 と概念規定 した 同右 四九 ( ⅣI 八二) I 「 小 田文苫」 一二 ( 広 Ⅳ- 五七) 。 と考 えられ る。 30 日4 火Y ,G L 日刊制 と地 城 札 全 節二 部 ■ l l 世後期 の在地動向 第一章 5 理由 を 述 べ て お- 必 要 があ ろ-。 「百姓的 」 剰余 取得権 自体 は'本 文 で 述 べLJ よ う に地主 的 椀 利 で あ る。 し かし' 地主 的 権 べきで あ る。 封建 社会 にお いでは、剰 余 の取得 は、 経営 的 、 あ る いはそ の延 長線 上 の個 別 人身 支 配的 既 係 によ るか、 領 主 的 利 と いう のは、 超 雄 史 的概 念 で あ って、 そ の実 現を保 障 す る関係 の内 容 によ って、 そ の所 持主 体 の歴 史 的 性 格 は規定 され る 土 地所有 体 系 の経 済外 的 強制力 によ る か に大 別 され よう 。 「 百 姓 的 」 剰 余 取 得 権 は'本 文 で も 述 べた よ う に、 経 営 から の分 よ って剰 余 を 取 得 す る階 層 は' 領 主 的 性 格 を も つ- のと す る必 要 が あ る ( そ の具 体 的 内 容 は、次 節 で検 討 す る) 。だ から こ 経 によ っで地主 的 権 利 へと発 展 す る- ので あ る。 し たが ってそ れ は' 何 ら か の経済 外 的 な 強制 力 に求 めざ るを えず ' そ れ に 「 百姓的 」 剰余 取得権 は- 領 主 的 土 地所 有 者 権 と し ては認知 さ れ て おらず ' そ の所 持 主 体 J、 そ の こと を も ってし ては 百 姓 そ' 将 来 領 主 階級 は' 彼 ら を 編 成 す る こと によ って、 よ - 強 固 な 支 配 体 制 の構 築 を 目指 す ので あ る。 し かし な が ら l方 、 梓 取 関係 は個 別的 な 経済 過程 を 「 申 付」 け、 通 じ て形成 されか J の にと どま り、 強制力 にも限 界性 が 存 在 す る ので あ る。 こう した領 主 的性 格 を帯 び 統 主 化 の方 向 性 を も - いう身 分 は変 更 されな いD このよう に彼 らが 百姓 と い-身 分的 同 l性 を克 服 しな い限 上 ち つつも、 な お百 姓身 分 にと どま る中 間階層 を、 著者 は在 地小 領主 と規 定 す る ので あ る。 「□ 島 郷 之 内う 地 の-下 地」 を' 盲姓 孫 兵衛 に ( 久) 第三節 「 百姓的」 剰余 取得権 保 障 体 制 の形成 と崩 壊 永正 1二年 二 五 1五) へ 玖島 刀 禰太 郎 右 衛 門尉 は' ん い る 。 先 例 に任 せ て年 貢 ・公事を 収 め る ことを命 じ て いるO そし て、 そ の下地 の所持 に ついて妨害 が生 じた場合 には' 訴 ( 等 閑) ( -) え出 て- れば 「 少-此方 よ- と う か の儀 あ るま し-候」 と の保障を 与 え て 前 述 のよう に' 以前 には、荘 園 ( 2) 領主 'あ る いは地頭 によ って掌 握 され て いた下地避 止権 が 刀 滴 の手 に移 った ので あ る。 こ- した変 化 の原 因 は' 盲 tl 6 大名神国別と地域tt仝 節二部 姓 の土地 に対す る権 利 の強化 と 裏腹 な、 荘 園領 主 の支 配 体制 の弱体 化 に求 めら れ よう O 天文 二 1年 (1五 五 三)、 玖 ( 3) 島 郷内 の寺家 社家 得 分な ど の指 出 しが作 成 されLJ O そ れ によ れば 、玖 島 郷 から の収納 分 は' 刀 禰給 分 な どを 含 め て っ た 。 も ち ろ ん、 前 述 の 〇〇 貫 文 と され て いる。 そ れ から 五〇年後 の慶 長 五年 二 六〇〇)に作 成 さ れた 「- しま村 当年 貢 成前 」 によ れ も一 ( 4 ) 一 〇〇貰 文 が全領 主 取 ば 、 玖島 郷 の全収 納 高 と し て指 定 された のは五 一五 石 二斗 七合 で あ 得 分 と は い いき れな いし、 近 世 への移 行期 にお いて、畠 地 ・屋 敷 地 への嵐 課を は じ め、 搾 取が 強化 され て いる事情 もあ る。 そ れ らを 勘案 し てな お、 一貫 = 一石 の和 市で 換 算 し て五倍 にも 及 ぶ収納 高 の増 加 は' 厳 島 社 の支 配 が いか に限定 さ れ たも ので あ った かを物 語 って いると いわざ るを えな いo LLJ が って' 百姓 の留保 し て いる剰 余 への積 極 的 介 入 は想定 で き な い。 新 たな在 地動 向 への積 極 的 対応 を 放 棄 Lt 既存 の収納権 を守 る の に楢 一杯 と いう状 況 が考 え ら れ る ので あ るO そ れが' 名 田 の進 止権 を 刀 桐 に委 ね る事態 を 招 いて いる ので あ ろ- o そ れで は' 刀 耐自 身 は いかな る立 場 から この下地進 止権 を 掌撞 し て いた ので あ ろ- かQ前 出 の得 分指 出 し の作 成 ( 5) 主 体 は、 楢原 六郎左 衛 門尉 信実 で あ った。 この信 実 を、 ﹃ 広 島 県 史﹄ 編 集 者 も 松 岡 氏 も 刀 楠 だ と し て い る が、 これ は誤 -で あ ろう。 判断 の根 拠 と な った 「 散 使 給 充 文 案 」 は、 楢 原 信 実 が' 「 刀 踊 名 主 いけ ん付」 き、散 使給 を 三 郎 四郎 と 三 郎大 夫 と に分拾 す る ことを、 三郎 四郎 に伝 え た も ので あ る。 した が って信 実 は' 厳 島 社 領 の年 貢 の算 用な ど の管 理 ・現地給 分 の進 止 など にあ た って いる存 在で あ るC 問 題 は、 この決定 が刀 禰名主 の 「いけん」 に従 ってな さ れ て いる点 で あ るC も し信 実 が 刀 .Sで あ ると した ら、 信 実 自 身 が決 定 を 下 し て いる のだ から、 このよう に こと わ ( 6) る必 要 はあ るま いC 信 実 は' 刀 欄で はな - 政 所で あ っLJ - 思 わ れ るC 信 実 は姓 を隠 岐 と も称 し て い LJが' 第 1節 で (7) 見 た よ- に' 玖島 郷 の政所 も 隠 岐 氏 だ った ので あ るo 政 所 の職 分 には、社 役 郷 ・公事 の免 除 の伝達 も あ 生 前 述 の 信 実 の役 割 とも 適合 す る。 こ こからす れば ' 政所 こそ荘 園制支 配機 構 の末 端 に位 置 す るも ので あ -' 刀 欄 は名主 と 第-萩 中 L t i 後脚 のむ地動 向 l J 7 と も に百姓 を代 表 し て政 所 に要 求 を 出 し た - '庄 務 を 補 助 す る立 場 にあ った と す る こと が で き よう 。 し た が って、 刀 相 は荘 園 制 支 配機 構 を 掌 握 し て支 配権 を 強 化 で き るよ う な 立 場 には いな か っLJので あ るO とす れば ' 刀 蹄 によ る 下 地進 止 権 の掌 握 は' 「百姓 的 」 剰 余 取 得権 の成 立 ・集 積 - い- 動 向 のヰ で 、 百 姓 が 自 ら の権 利 を 自 ら保 障 す る権 荘 園 領 主 によ る収奪 確 保 の を 見 る こと がで き る。 限を 獲 得 し た も のと 評 価 す べきで あ ろう O こ こ には、 下 地 進 止 権 のも つ意 味 の転 換た め の負 担 責 任 の確定 から、 百 姓 によ る 「 百姓 的 」 剰余 取 得 権 の直 接 的 保 障 へー こ- し て刀 繭 が 掌 握 し た 下地 進 止権 はt LLJ が って' 百 姓 間 の規 制 力 によ って のみ、 現実 に機 能 す る こと がで き LJ 。 そ の力 は、ど のよ- な 具 体 的 内 容 を も って存 在 し て いた ので あ ろ- かO す で に前 節 で t I四 世紀 初 頭 の相 諭 に お いて' 郷 内 の百 姓 が そ の所 持 す る権 利 を 相 互 承 認 し、 保 障 しあ って いる こと を 確 認 し LJ 。 この相 互 保 障 は、 ど の よ- な性 格 を も って いたで あ ろ- か。 こ こで 注 目 さ れ る のが、 ︹ 史 料H︺に お いで' 契 約 不履 行 の際 の郷 質 の規 定 が 記載 され て いる ことで あ るQ 郷 質 に つ いては勝 俣 鎮 夫 氏 の研 究 が あ -、 「 債 務 者 の所 属 す る郷 と いう 社 会 的 結 合 体 ( 8) を 1つの ユ ニ ッー と し て、 そ の成 員 の財 産 に対 す る債 務 者 の質 取 行 為 」 と 規定 し て い る 。 前 述 の よ- に' 郷 質 規 定 が 記戟 さ れ て いる のは長原 の住 人 の借 用状 で あ - '玖 島 郷 の住 人 のそ れ には な か った。 し たが って' 玖 島 郷 が 一つの単 位 と し て、 共 同 体 的 連 帯保 障 体 制 が 形 成 さ れ て いた と いえ よう。 勝俣 氏 は' こう し ( 9) た 関係 の成 立条 件 と し て、 「 社 会 結 合 の相 互 関 係 に お け る強 い 1体観 の意 識 」 「 集 団 内 部 のき び し い自 己 規制 」 をあ 関 連 」 し て いL Jからで あ るC これ ま で の検 討 と 併 せ て考 え るな らば 、 こ の郷 村 的 結 合 げ て いる。 こ の郷 質 規 定 が 一五 世 紀 前 半 に出 現 す る の は、 勝 俣 氏 - 指 摘 す る よう に' 「 庄 的 結 合 の解 体 ・郷 村 的 結 0 1) ( 合 の成 立 と い- 社 会 的 変化 - は、 自 立 的 経 営 主 体 で 土 地 に対 す る 二足の権 利 を 所 持す る百 姓 の広 汎 な成 立 を 基 礎 と し て形 成 され ると いえ よ う O そ のよう な資 格 に お いて' 百 姓 は共 同 体 に参 加 し、 か つ成 員 と し て そ の権 利 を 相 互 に保障 しあ う ので あ る。 こ- し lZ 8 大 名神国別 と地域1 1 : 金 節二部 LJ 関係 の発 展 と し て'共 同体 の中 心 ・代 表 的 存在 で あ る刀 爾 の下地進 止権 の掌 握 を位 置 づ け る ことがで き よ- o こ の共 同 体成 員 と し て の連 帯 ・ 二 体性 が'共 同 体外 と の土 地 を娃 介 とす る貸借 関係 が成立 し たと き'郷 質 と し て現わ れ るので あ る。 刀 欄 の共 同体代 表 と し ての位 置 は、 対外 関係 にお いて明瞭 に現 わ れ て いる。 玖島 郷 も含 む友 田 ・吉 和 など の山 里 っ LJ. し た が 諸 郷 は、 天文 一 〇年 二 五四 二)、大 内 氏 によ って改 め て厳島 社 に寄進 され、 廿 日市 の桜 尾 城を 通 じ て収納 が 行 わ れ ( ‖) るよう にな っ た Q そ の現地で 収納 を行 って いる新 里 若狭 守 のもと へ' 社納 銭 の末 進 を めぐ って 「山里 百姓等 」 が 訴 B 順[ 状 を提 出 し て いる。 この訴訟 は、未 進 三 力年 分 の皆済 -当 約 分 の馳 走を 百姓側 が申 し出 る こと によ って結 著 が つ い 3 1) ( って' 刀 輔 は 百 姓 の代 表 と し て領 主 と 交 たが' この申 し出 の書 状 を提 出 し た のは' 「山里 刀 禰」で あ 渉 す る立 場 に いLJ と いえ る。 この点 は' 玖 島 郷 にお いて、散 便給 の分 配 に際 し て の刀 秤 と名主 と の意 見提 出 と いう 形で 、 すで に見 ら れLJ と ころで あ るO さら にま LJ t 社納 銭 に ついて' 社家 衆 が撰 銭 を 行 い迷憩 を し て いると の訴 状 3 必E が、 「山里 刀 相中 」 よ-出 され て い る 。 このよ- に' 刀 術 は百 姓 の先 頭 に立 って愁 訴 闘争 を 展 開 し て いた ので あ るO し かも、 「山里 刀 珊中 」 と いう表 現 からす れば 、 刀 補 の連 合 体 が存 在 し て いた こと にな る。 こ の連合 体 は、 山 里 諸 ( 5 1) 郷 のそ れ ぞれ の 刀 相 によ って構 成 され て いると考 えら れ'郷 の枠 を超 えLJ 共 同 闘争 の展 開 に お いて' 刀 補 は重 要 な 役 割 を演 じ て いたと想 定で き よ- o このよう にへ 「 百姓 的」 剰余 取得権 は、 刀 繭 を 項点 と す る共 同 体 秩序 によ って' そ の実 現 が 保 障 さ れ て いたC そ の内 容 は' 百姓 の個 別的 な相 互 承認 から、 独 自 の下 地進 止権 の掌 握 へと発 展 し' 共 同 体外 に対 し ては' 連 帯 責 任 体 制 と し て現 わ れた. 実 際 それ は、 不当 な侵 略を排 除 す る機 能 を 果 LJ Lt ま LJ t 領主 に対す る年 貢 ・公事 負担 と いう 共 同体 外 から の搾 取 に対 し ては、 そ の軽 減 と い- 共 通 課題で 共 同 闘争 を 行 - 基盤 と な って いた。 し かし' 「 百姓的 」 r r l ・ I U _ 後期の在地動 向 節-章 lZ 9 剰 余 取得 権 の集 稗 の進 行 は、 そ の実 質 的 意 味 を転 換 さ せ る。 こ の集 稗 過 程が 経済 的 関 係 によ るも ので あ る限 -、 共 同 体 はそ れ に対 し て規 制力 を 発 揮で きず ' かえ ってそ の権 利 の正当 性 を保 障 せざ るを えな い。 し た が って'客 観 的 には集 積 主 体 で あ る在 地小 領主 層 の利益 保障 体 制 へと 性 格 を 変 え ら れ る ので あ る。 実 際、 そ の運営 の中 核 を 刀 繭を 中 心とす る在 地小 領 主 層 が 担 って いた こと は'散 使給 の分給 の決定 が 「刀 桐 名主 いけ ん付」 いてな さ れた こと か ら も推 定 で き るで あ ろう . 彼 ら は' 自 ら の 地位 と そ の保 障 体 制 を 維 持 す るた め に、 武 力 ・イ デ オ ロギ ー ・交 通 な ど の支 配 力 を 保 持 し て い , い た. 玖島 郷 に ほど 近 い周 防 国 山代 〓 ニケ郷 には、 そ れ ぞ れ刀 槽 が存 在 し' ま た そ の下 の小 村 には名 主 が存 在 し、 所 6 1) ( る O そ の郷 のう ち の 一つで あ る宇 佐 郷 刀 珊 大 蔵 左 衛 門尉 の屋 敷 は、 郷 の中 i 務 の沙汰 にあ た って い と 伝 え ら れ て 心で 川 の合流 点 を 見 下 ろす 高 台 に構 え ら れ て いた と さ れ る. ま LJ そ の上 流 には、 谷 戸 を支 配 す る在 地 小 領 主 層 広 兼 氏 1族 が いた O こ こで ' 刀 輔が 自 分 に対 し私 欲 探 -農 民 を 困 苦 さ せ て いると 批 判 し LJ 広 兼 兵 衛 肋 を討 ち果 た し た こ - を き っか け に、 兵衛 助 の 子松 之 助 ' および 7族 の弘 民部 大 夫 ・値 国 藤左 衛 門 ら が 大 倉 宅 を 襲 い' 左 衛 門 尉 ら家 ( 7 1) 族 ・奴僕 七名 を 殺害● す ると いう 事 件 が 起 き て い る 。 そ の後 天文 期 には'郷 の中 心 にあ る惣鎮 守 八幡 宮 の願 主 を 恒 国 れ る Q 同 じ 山代 の阿賀 郷 の刀 肺 で あ る錦 見 氏 は、 郷 内 を 貫 流 す る下畑 川 沿 民 が 、大 富 司 を広 氏 が勤 め て いる こと が 確 認 さ れ るが 、 これ は本 来 刀 相 の掌 握 す る権 限 が 、 大倉 氏隷 滅 後 のそ の地 ( B l) へ 9 1) 位 の変動 によ って移動 した も のと考 えら いの道 と 峠 を 越 え て 〓 ニケ郷 の中 心で あ る本 郷 に通 じ る道 と を掘 す る交 通 の要 衝 に居 を構 え て いLJ -伝 え られ て い い る 。 これ も る。 ま た' この錦 見氏 を討 滅 す る こと にな る ( 後述)同 じ郷 内 の在 地 小 領 主 三 分 一氏 一族 は、 阿賀 郷 の中 心 に位 置 す ( 加) 討滅 以前 は 刀 珊錦 見 氏 が 掌 握 し て いた る速 田大 明神 と惣 鎮守 正 一位 八幡 宮 の社 報 を 勤 めた と さ れ て も ので あ ろう 。 人 名綿 糊 剤と地域 礼金 新二 部 こ のよう に在 地 小 領 主 層 は' 刀 補 によ る交 通 ・イデ オ ロギ ー支 配権 の掌 握 ' さら に 一族 結 合 ・奴 僕 組 織 によ る武 力 保 持 を 通 じ て、 共 同 体 秩序 の維 持 を は か った。 そ れ は' 建前 と し ては悪 意 的 搾 取 に対 す る規 制 力 と も な っLJ が、 同時 に' 「 百 姓 的 」 剰 余 取 得 権 安 定 化 のた め の' 共 同 体 構 成 員 に対 す る規 制 力 と も な って いたで あ ろう 0 の みな ら ず 、 在 地小 領 主 間 で も 武 力 抗 争 が 展 開 さ れ る に至 って いた ので あ - 、 村 落 支 配 者 への上 昇 転 化 の強 い志 向 性 を支 え る力 にもな って いLJ ので あ る。 こ の在 地小 領主 層 によ って形成 さ れた 「百 姓 的 」 剰 余 取得 権 保 障 体 制 の基 盤で あ る 共 同 体 秩序 は 、 し た が って' 松浦 氏 の い- よ- な 単 な る中 世 名 主 の地 位 を継 求す る有 力 農 民 の連 合 体 だ った ので は な - ' 「百 姓 的 」 剰 余 取得 権 の成 立 と 展 開 を 踏 ま え LJ 、 新 たな 村 落 秩序 で あ ると位 置 づ け る必 要 が あ ろう 0 玖 島 郷 の よ う に' 基 本 的 に共 同 体 秩序 に依 拠 す る こJJによ って 「 百 姓 的 」 剰 余 取 得 権 の保 障 を 実 現 で き LJ 条件 は、 何 よ - も厳 島 社 と いう 地方 寺 社 の所 領 で あ っLJ 点 に求 め ら れよ う 。 す で に見 た よ う に'厳 島 社 によ る玖島 郷 支 配 は' あ る時 は給 主 を 通 じ' ま た あ る時 は 地頭 を 通 じ と い- よ - に安 定 的 に は存 在 せず ' 強 力 な 在 地支 配 を 展 開す る に は至 ら な か った。 し かも重 要 な の は' そ れ にと つて替 る強 力 な 在 地領 主 が存 在 しな か っLJ 点 で あ るQ そ の 理由 は確 定 で き な いが 、 第 1には、 と も か- も 政 所 と い- 現 地荘 務 機 構 が 存 在 し、 請 代 官 を 置 - こと な -' 直 接 収 納 を 行- 条 件 が あ った こと が考 え ら れ るc L かも' 政所 自 身 はそ の権 能 を 利 用 し て在 地 領 主 的 支 配を 展 開 し よう と す る 志 向 性 を 見 せ ては いな いC 第 二 には、 こ の地 域 が 大 内 領 国 と 安 芸 国 人 領 と の中 間 地帯 にあ -、 これ ら の支 配 の浸 透 が 遅 れ た こと が考 え ら れ る。 こう し た点 が、 国 人 領 主 竹 原 小 早 川 氏 の支 配 の拠点 と さ れ る弁 海 名 が' 早 期 に鏡 主 的 支 配 秩序 に組 み入 れ ら れ た のと は 対 照的 な動 向 を 、 引 き起 こし た ので あ ろう 。 し た が って' か か る条 件 の変 化 は、 すで に内 部 抗 争 を 展 開す る に至 った この体 制 を ' 崩 壊 の危機 へと導 - ので あ るQ 防 長 征 服 の開始 によ る強 力 な 戦 国 大 名 権 力 の この地 域 への侵 入 は、 村 落 を と - ま -条 件 を急 激 に変 化 さ せ' 矛盾 I r l . L L l ・ 後糊のt F . 地軌 向 節一乗 三Ⅰ ( 1 2) は 1気 に爆 発す る。 山代 1三 ケ郷 は' 「 郷内 課役 免 許 」を 条 件 と す る陶 氏 の軌 員 命 令 に応 じ'毛 利 方 と の合 職 に参 2 2) へ 二分 一氏 は錦 見氏 の首 級 加 す る 。 し かし阿賀 郷で は、 三分 l氏 が毛 利氏 と通 じ' 刀 耐錦 見氏 と の抗 争を 展 開す るC l 3 猟E をあ げ支 配権 を奪 い、 さら に毛 利 氏 と家 臣関係 を結 んで '峨 国 大名 権 力 の末 端 と し て阿賀 郷 を支 配す る に 至 る O こ う し て在 地小額 主 は、 ま さ に経済 外 的 強制 力 によ って急 速 な 分解 を と げ' そ の 一方 は領 主 階 級 へと 上昇転 化 す るの ( 玖 他) - し ま へてき れを な し候 て' でき 五 人 討 取 候 '定 津 田 と であ る。 玖島 郷 も この戦 乱 にま き こま れ る。 「 白 砂 百姓 中 度 候 」 これ は' 天文 二三年 二 も 田占 白 砂 へ可相動 と存 候 へ け ふ- LJ ち候 ハ 、白 砂 へ可有 合 力 候 t と も 田 ・津 田之俵 き -め - へ-候 ' - しま の儀 ( 4 2) 五 五 五)一 〇 月 に、 毛 利家 臣 児 玉就 忠 が、 同 じ-家 臣 の を おち つき候 ハ ,おと し つけ J )た書 状 の 1部で あ る。白 砂 ・津 田 ・友 田 は' 山里を構 成 す る郷で あ る.厳島 社 に対 し ては 波 多 野就 雅 に宛 て て出 共同 闘争 を挑 んだ 山里諸郷 も分裂 を と げ' 毛 利 氏 は'味 方 に つけLJ「 白 砂 百姓中 」 の協 力 によ って、 陶方 に残 った ( 乎 切) 友 田 ・津 田を 平定 し、 そ の後 玖 島 郷 を陥 落 さ せよう と し て いる。 「 白 砂 百姓 中 」 が 「- しま へ てき れを な し」 た と あ るのは、 強力 な共 同 体結合 を も つ玖 島 郷 が'抵 抗 の中 心とな って いた こと を 示すで あ ろう。毛 利氏 は周 辺村 落 を 山股 郡有 田城主 の子で も あ る楢 原 信 重で あ っ た 。 分漸 ・撃 破 し、 玖島 郷 を 孤立 さ せた上で ' 討 伐す る概 略 をと った ので あ るC 先 頭 に立 って闘 ったで あ ろう 刀 相 の遊 5 2 ) . ( 命 は語 るまで もな いO 五〇年 を 隔 てLJ 慶 長五年 二 六〇〇) '「 久島 村 先給 人 講 取米 注 文 」 を作 成 した在 地支 配者 はJ 6 2 ) ( 政 所楢 原 信 実 の養 子で あ 生 こう し て' 「 百姓 的 」 剰 余 取得権 の保障 体 制 は、 そ の存 立 条 件 を奪 わ れ崩 壊 し て い- ので あ る。 あ - ま で こ の体 制を維持 し ょ- と した勢 力 は討減 の運命 を免 れな か った。 し かし、村 落内部 に対立 ・抗争 が存在 し'領主化 への志 向 性 を在 地小 領主 が 強- も って いた 以上、 ま た大 名権 力 への抵抗 が、 も う 1方 の大 名 の軍勢 への参 加と いう 形態 を と らざ るを えな か った以 上' 抵抗 には限界 があ っLJ ので あ るC L か-' 一方 で は領主 階級 に上昇 転 化 LLJ 層 が存 在 し 大名領国別 と地域社会 第二部 た よ う に、 こ の過 程 は 、 在 地 小 額 主 にと つて、 自 ら の中 間 的 ・過 渡 的 性 格 を 止 揚 す る 1つの方 向 で あ っLJので あ る。 ( 1) 「 小田文書」五七 ( 広Ⅳ- 八八) 0 ( 2) 松岡前掲論文四九 -五二京参照。 ( 4) 同右六三 ( 広Ⅳ- 九五) 。 ( 3) 「 小田文書」六 一( 広Ⅳ- 九三) 。 ( 5) 同右八五 ( 広Ⅳ- 八九) '松岡前掲論文七三頁参照。 ( 6) 松岡前掲論文七三頁参陀⋮ 。 ( 8) 勝俣鎖夫 「 同質郷質 についての考案」( ﹃ 服国法成立史論3 1九七九年)四四頁O ( 7) 「 小田文書」三五 ( 広ⅣI 七四) 。 0 ( 1) 同右四 一頁。 ( 9) 同右五二京。 ( 1) 同右七九 ( 広E j I 五四) 。 ( 11) 「 厳島社野坂文書」 二 七- 一二八 ( 広H- 七七-九〇) 。 広HI五五) 。 ( 13) 同右八〇( ( 1) 白砂 の刀耐に ついては、閥三- 三八人参照。注三 5 - 三八八。 ( 1) 同右 1〇六 ( 広E j- 六五) 。 誠氏よ-多-の抑教示をうけLJ 。 ( 16) 以下の山代地方 についての指摘 は、注記しな い限-、現地調査 の結果 に基 づ-ものであ る。現地調査 にあた っては、館鼻 たかどう かはともか-、歴史状況を つかむ手がか-とはなろう。 ( E 3 ) 注三- 一八。 これは伝桑ではあ るが、 ここで の人間関係 はこれまで の検 討内容とも整合的であり、 この事件が串英であ っ 中世綾期の在地軌向 新一釆 =23 ま LJ J この事 件 の発 生年 代 に ついて'﹃ 注進 案 ) には天 正年中 と 書 永 期 とす るの が妥 当 かわ ること ( 第三 るが '地 元で は、 大 束 ・応氷の 二説 があち. 部 第 二章参照 )から 、天正朔 であ ろう。 かれあ て に か 著 者 は'毛 利領 国 に編 入さ れて以降 は'在 地支 配者 の名称 が刀 両 か ら散任 ば、大 で は な いと考 え る.刀 桶が支配者的 性 格 を 強 め て いる こと から す れ ( 19) 注 三- 一〇 六。 ( 18) 注 三- 〓 ハ。 1 二三。 - 二七四参照。 ( 20) 注 三 ( 21) 閥 四 ( 22) F 徳 陰太平 記 - 巻 二 四参 照。 七 ( 空 二 二 京 参照 . . ( 24) 閥 三 - 二八。 ( 25) 「小 田 文書」 六 二 (広ⅣI九四)。 前 掲論文 七三東参照o ( 2) 松 岡 おわ- に 中 世後 期中 国 地方 に お いて、 名 は' 一筆 ごと の土 地 に関 し てそ れを 所 持 す る百姓 の権 利 が 強化 さ れ てき た状 況 の 下で 、 時 には 百姓側 のイ ニシア チブ によ って再 編 成 さ れ つ つ' な お、 年 貢 ・公事 の徴 収 単 位 と し て維 持 さ れ' そ の 責 任 者と し て名 主 が 置 かれ て いた。 百姓 の有 す る権 利 は' 「百 姓 的 」 剰 余 取 得 権 と 規 定 す べき 性 格 を も つも のと な った。 そ れ は'農 民的 土 地 所有 権 を 前 提 と し つ つも' そ こ に形 成 さ れ る剰 余 の取得 権 を 本 質-す るも ので あ ったc L た が って、 年 貢 ・公 事 負 担義 務 を伴 いな が らも 、 生 産 と 直 接 か かわ るも ので はな -、 直 接 生産 者 に対す る地主 的 tZ4 節二部 大名領国利 と地域社会 権 利 へと発 展 し LJ O そ の取 得 す べき剰 余 は定 量 的 に存 在 し、 年 貢部 分 に匹敵 す る比 重を も って いたo L たが って' 中 世 後 期 の在 地動 向 は、 こ の 「 百 姓 的 」 剰 余 取得 権 の掌 握 ・編 成 を め ぐ る諸 勢 力 の抗 争 と し て展 開 す る. 在 地領 主 は、 土 地 抑 留 によ って名 体 制 を 破 壊 し' 年 貢 の直 接 搾 取 を実 現 し た だ けで な -、 抑 留 L LJ 土地 を 自 ら の 一族 ・被官 に宛 行 い、 「百 姓的 」 剰 余 取得 権 を 自 ら の領 有 体 系 の内 に編 成 し て、 よ - 強 固 な 支 配 基 盤 を 構 築 し た。 一方 、 こう し た在 地領 主 の侵 略 を - けず 、 百 姓 内 部 で 土 地集 積 が 進 行 す る地 域 -あ った。 押 領 と いう 非法 行 為 は' 荘 園 領 主 の規 制 ・他 の百 姓 の抵 抗 にあ って阻 止 さ れ るが、 有 力 百 姓 は そ の拠 点 と な る名 の名 主 と し て、 自 ら の 所 持集 積 し た 土 地 のみな らず 、 一族 の土 地 を も そ の名 に編 入 Lt 経 済的 実 力 を 強化 す る。 こ の力 を 背 景 に' 一般 百 姓 と の貸 借 関係 を通 じ て、 よ -広 汎 な 土 地集 積 を 展 開 し' 搾 取 関 係 を 形成 す る。 こ こ に在 地 小 領 主 が成 立 す るので あ る。 こ- し て百 姓 内部 で 集 積 さ れた 「百姓 的 」 剰 余 取得 権 は、 共 同 体 結 合 を 基 礎 と し た、 百姓 間で の規 制 力 によ って 保 障 さ れ て いLJ 。 そ れ は'村 落 指 導 者 と し て の刀 蹄 によ る下 地進 止権 の掌握 と いう 形態 を と るが、 そ の支 えと な っ C そ れ はま た、 村 領 主 共 同 闘 争 の基 盤 と も な って いLJ 。 した が て いた の は、 郷 質 など に見 ら れ る共 同 体 規 制 だ っLJ ってそ れ は' 全 百姓 の権 利 を 擁 護 す る体 制 で あ った が 、 そ の中 心 を 担 った の は強 制 力 を 保 持 す る在 地 小 額 主 層 で あ -、 ま た、 彼 ら こそが そ の恩 恵 に最 も 浴 す る立 場 にあ った ので あ る。 し かも 彼 ら の間で は、 村 落支 配者 の地 位 を め ぐ って、 あ る いは領 主 階 級 への上 昇 を志 向 し て、 深刻 な 内 部 抗 争 が 展 開 され て いた ので あ -' こう L LJ 矛盾 を 学 ん 既存 の領 主 権 力 に の変 化 は、 直 ち にそ の崩 壊 を も た ら す。 戦 乱 を媒 介 とす る戦 国大 名権 力 の侵 入 の過 程 だ も のと し て' この体 制 は存 在 し て いた ので あ る。 し た が って、 こ の体 制 を存 続 さ せ る条 件1 よ る封 建 的 支 配 の末 展 開 1 で ' 在 地 小 領 主 層 は急 速 な 分解 を と げ る。 大 名権 力 の侵 入を 拒 否 し、 こ の体 制 を維 持 し ょ- とす る勢 力 は、 計減 の 中世後期の在地動向 節一章 1 2ラ 運命 を免 れず、 一方で は、 そ れ に積 極 的 に呼応 し、大 名 の家 臣と し て領主 階級 に上 昇転 化 す る勢 力 も いた ので あ a. そし てま LJ t大 名権 力 によ る在 地掌握 の探化 は' 「百姓 的」剰余 取得権 自 体 の存 在を否定 す る。 ここに' 「 百姓 的」剰余 取得権 保障体制 の存 立条件 は' 二重 の意味で 消滅 した ので あ るC かわ って、 戦国大 名権 力 によ る 7円的 封 建支 配体制が構 築 され、村 落 は領 主階級 へ上昇転化 した 旧在 地小領主 を通 じ てそ の直 接的支 配 下 に置 かれ る。 そ し て 「百姓 的」剰余 取得権 は、大 名権 力 によ る額有 体系 の 一環 とし ての 「下級 領有権 」 に性格転 化 し、 新 たな保障 体 3 1E 制 を獲 得す る ので あ る 。 こう し て 「 百姓的」剰 余 取得権 は' 既存 の領主 的 土地所有 の体 系 に編成 され る方向 に収赦 し、 そ の歴 史的 役割 を 終 えたo L かし、 この方 向性 は必然的 なも のだ った のだ ろ- かO 「 百姓的」 剰 取 得権 の保 障 体 制 は、 そ の内 的 発 展 によ って、内 部 矛盾 を規制 し外 部 に対す る独立性 を主 張 しう る' 政治的 ・軍事 的 ・イデ オ ロギ ー的条件 を獲得 す る こと は不可能で あ っLJのかC戦国大 名領 国支 配 の未 展開 の地域で 、あ る いはそ れと の対決 の中で 構築 さ れた 甲賀 郡 (2) 中惣 など の 「 地域的 1校 体 制 」 や各地 の 1向 一操 は' そ れ への回答 を 示 し て いるので はな いだ ろう か。本 章 は、職 国大名領 国支 配 の前■ 提と い-視角 から問題 を検 討 したが'同時 に、 こう した下 から の封建的 秩序 形成 の動 向 を 含 め る こと によ って'城国期 社食 を総体 と し てとら え る ことが 可能で あ る。 この両者 の対立 の特 殊 な 止揚と し て、 全- 異質な 近世的社全 構造 が成立す ると考 え るが' これら の点 は今 後 の展望と せざ るを えな い。 付与す るかに ついては、第 三部第 二輩で論 じた。 ( 1) そ の領有制とし ての基本的特徴 に ついては、第 三部第 一章で検 討を加 え'それが支 配体制全体 にどのような特徴的性格を ( 2) 宮島敬 1 「荘園体制と ﹃ 地域的 l挟 体制JJ( r 歴史学 研究別冊特集 歴史 におけ る民族 の形成︼ 1九 七五年、参照) 。
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