飾 しき 梅 うめ 分 教 会

しき
うめ
飾 梅 分 教 会
つ むらよし こ
平成 十 八 年 十 二 月 二 十 六 日
初代会長 津村嘉子 任命
設立
大 阪 府 近 郊 の 羽 曳 野 市 で、「 真 理 教 」
という 新 興 宗 教 の 一 つ が あ り 、 主 と し て
墨色判 断 と か 霊 感 な ど に よ っ て 宗 教 活 動
を行っ て い た 。 と こ ろ が 、 そ の 教 祖 が 亡
くなり 、 こ れ か ら ど う す れ ば よ い か 、 と
教祖の 娘 や 役 員 達 が 途 方 に く れ 、 い ろ ん
な宗教 や 信 仰 を 参 考 に し た い と 京 阪 神 の
有名な 寺 院 や 神 社 な ど へ も 見 学 を し て い
た。天 理 教 教 会 本 部 、 お ぢ ば に も 何 回 か
訪 ね て い る。 ま た、 様 々 な 宗 教 家 と も
会って い た 。
そ ん な 時、 飾 大 の あ る よ ふ ぼ く が
「一度 飾 大 の 会 長 さ ん に 会 っ て 話 し を 聞
平成
年
月
12
日
26
祭典日
るが、それよりも信仰について一緒に勉
「一口に、信仰について語ることもでき
開口一番、男の役員が竹川会長に「信
仰とは一体何でしょうか」と尋ねた。
俊治会長と話し合うことになった。
六月のある日、飾大分教会を訪ね、竹川
の男性の役員と二人の婦人が、平成七年
教祖の娘である津村嘉子と、七十歳前後
かれたらどうか」とにをいがけをした。
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強しませんか」と、竹川会長。
「それ
は有難
いが、
どうし
て信仰
につい
て勉強
日
大阪府羽曳野市
竹川会長の提案により、毎月三回、津
村 宅 で〝 勉 強 会 〟 を 開 き、 真 理 教 の 主
だった信者や、奈良県御所市で腰痛など
を治療する元天理教の布教師の所へ行っ
ていた津村利子嘉子の知人の人々も、こ
の勉強会に参加して、共に信仰について
語り合うことが、その場で決定した。更
に 竹 川 会 長 の 提 案 に よ り、
『おふでさ
き』を拝読しながら『おふでさき』をテ
キストにして勉強会を毎回夜七時から十
時過ぎまで実施した。毎回熱のこもった
信仰論議が交わされたのである。特に津
村嘉子は竹川会長から「人を助けて我が
身助かる。助ける理で助かる」という教
えを徹底的に仕込まれた。お道の信仰と、
信仰の道の方向性を与えていただいたと
思った、と言う。
勉強会が始まって三ヶ月程経って、津
村嘉子とこの勉強会に参加していた九人
すれば
よいの
男と共に修養科を修了した。次いで飾梅
が別席を運び、一年後には津村嘉子は四
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か」と、
役員。
教会の外観
初代会長
津村 嘉子
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分教会史
し、大 阪 教 区 の 布 教 師 の 集 い で あ る 〝 若
みによ り 、 に を い が け ・ お た す け に 奔 走
を営み 五 人 の 男 児 を 育 て た 。
竹川会
飾大の
わら、
るかた
日参す
飾大に
津村
嘉子は
が、平 成 二 年 に 夫 が 出 直 し た 後 、 そ の 店
津村 嘉 子 は 大 き な 青 果 店 を 経 営 す る 夫
と結婚 し 、 夫 の 両 親 に も よ く 仕 え て い た
者で賑 わ っ た 。
長から
もちろ ん 、 布 教 所 の 月 次 祭 も 多 数 の 参 拝
でさき 』 を 終 え 『 み か ぐ ら う た 』 も 完 了 。
村嘉子 が な り 、 勉 強 会 は 約 三 年 で 『 お ふ
布教所 を 津 村 宅 で 開 設 。 布 教 所 長 に は 津
教祖百二十年祭の旬の立教一六九 平
(成
の精神定めをするよう厳しく仕込まれ、
があり、何でもどうでも神一条、道一条
飾梅布教所の道も次第に進展し、飾大
分教会長また前会長より教会設立の話し
き手足となって道一条で勤めている。
間住み込み、布教実習。帰国後、母の良
原布教所(当時)に他の青年と共に一年
め。布教の家徳島寮一年、台湾の飾大豊
講習前期を終え、飾大分教会で青年づと
そのまま二ヶ月ひのきしん、そして検定
に帰り、直ちに修養科へ。修養科修了後
よう言われた次男は、一週間後に母の元
竹川会長から、大阪へ帰り修養科に入る
の夜十時過ぎ、次男を見事に捜し当てた。
不思議なおはたらきをいただき、その日
長も初めての群馬県であったが、教祖の
長と共に群馬県へ初めて行った。竹川会
しに行こう」とその翌日、嘉子は竹川会
友人からの話を竹川会長に伝えると「探
頃、今は群馬県に居るらしいとの次男の
も告げず家出をしていたが、数年経った
和六十年十一月二十六日松尾正治が四代
五十九年八月三代会長出直しにより、昭
尾 喜 久 恵 が 三 代 会 長 に 就 任 し た。 昭 和
日森尾周市が二代会長を拝命した。二代
事情により辞職の後、昭和十一年二月三
日加佐分教会は大正十四年四月十日山
本八十二を初代会長として設立されたが、
尚、当教会は日加佐分教会を事情復興
した教会である。
ていただいている。
いんものと日夜おたすけ、布教に励ませ
ただき、津村嘉子も次男もその御恩に報
まさに、をや(親神様、教祖)の自由
用のおはたらきを、まざまざと見せてい
会長の誕生となったのである。
いただいてから丸九年にして、津村嘉子
いう精神定めによって、初席を運ばせて
土地建物もすべて親神様にお供えすると
それに先立ち、新しく神殿建築、及び
教職舎建築のご守護もいただき、自宅の
の仕込
としての任命をいただいた。
十八 年
) 十二月二十六日、飾梅分教会設
立のお許しを戴き、津村嘉子は初代会長
たものである。
後事情により移転、改称、所属変更をし
日松尾昭枝が五代会長に就任した。その
会長に就任した後、平成五年十月二十六
会長出直しにより昭和四十六年十一月森
道会〟 に お い て も 熱 心 に つ と め 、 次 男 や
またそ の メ ン バ ー と 共 に 大 阪 府 下 の あ ち
こちで 布 教 す る よ う に な っ た 。
嘉子 の 次 男 は 父 が 亡 く な っ て か ら 母 に
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分教会史
参拝場内