被爆 宗教を超えた平和への願い 師(広島教区管理者)の 他、カ ナ ダ の ス ル ピ ス 司 祭会会員を含む約 人の 司 祭 団 が 祭 壇 を 囲 ん だ。 れた方々のために祈ると 「原爆と戦争で亡くなら 共 に、私 た ち の 間 か ら 平 和が実現するように祈り ましょう」との髙見大司 教 の 招 き に 応 え、教 会 を 埋め尽くした約1200 人 の 信 者 た ち は、同 じ 思 いを〝ムネ〟に、祈りをさ さげた。 ト ゥ 司 教 は、「 皆 さ ん は 説教師を務めたカン す べ て、核 兵 器 の な い 世 年を迎えた8月9日 (日) 、午 後 6 時 か ら 浦 上 教 会 で 平 界 を 託 さ れ、こ こ に 集 め 8月9日(日)平和祈 贈したのはゲルニカが位 010年に髙見三明大司 さ れ ま し た が、出 来 事 町も爆撃当時ほぼ破壊 しました。ゲルニカの 教 区 民 の 皆 さ ん、 「教区 教 ら 平 和 巡 礼 団 が、浦 上 シノドスのための祈り」 教会の被爆マリア像と共 および「教区シノドスの 置するビルバオ教区のマ を体験した人が何人も 願祭のミサの前に、2体 生き残っています。 の〝被爆マリア像〟と、 各 にゲルニカを訪れたこと 実りを願う祈り」を唱え を 機 に 交 流 が 生 ま れ、原 てくださり感謝申し上げ 小教区で平和を祈りなが 聖母マリア様とおん ます。皆さまの祈りが決 ら折られた折り鶴が奉納 ひ と り 子 に、こ の 難 し して無駄ではないこと 年 の 今 年、 い時代を乗り越えるこ を、数 字 で た と え て み た 爆投下から とができるようにお祈 いと思います▲これら マリア像が寄贈されるこ り し た い と 思 い ま す。 の 祈 り 1 回 が、お 金 の た された(写真) 。2体は、 5年前に髙見大司教様 と え で 恐 縮 で す が「 被爆した浦上教会のマリ 受 け た イ セ タ 司 教 は、ビ が浦上の被爆マリア像 た 悲 劇 は、人 類 の 歴 史 に 「広島と長崎で起こっ に感謝いたします」 て感謝し、 また、 皆さん さったことにあらため る と し て、 % の 信 者 が 崎教区に信者が6万人い 円」だとしましょう。長 髙見大司教から紹介を ルバオ教区とゲルニカの を持って訪ねてくだ とになった。 部のみが残ったスペイ カトリック共同体を代表 ア像と、1930年代に ン・ゲルニカのマリア像。 してあいさつした。 無差別爆撃で破壊され頭 こ の 日、朝 7 時 半 か ら リ オ・ イ セ タ 司 教 で、信 大 き な 傷 跡、し る し を 残 の 浦 上 教 会 の ミ サ で、ゲ が長崎教区へ受け渡され 徒2人と一緒に来崎。2 ルニカのマリア像 (複製) る贈呈式が行われた。寄 日曜日1回で合計 こ の 祈 り を 唱 え た 場 合、 日曜日のミサに参加して 同世代の若者と共有できるように 平 和 に つ い て 思 う こ と を、日 本 の 万 円、す る と 1 週 間 で 万円です。これが3年 定すると4500万円で 前から継続していると仮 の劇を演じるというこ 聖母平和祈願祭で記念劇 万円 したい」と語った。また京都から です。5%の信者は平日 皆 で 唱 え、平 和 を 築 く 決 意 を 新 た にもミサに参加している にした。 巡礼で訪れた中学2年の女子生徒 でしょう。平日の祈り全 を実現するために求められている は、 「原爆の悲惨さ、 むごさを初め 体を日曜日1回分として ことがここに述べられていると指 周年というこ 千葉から来た大学1年の男子学 て知りました。私たち中学生の思 られた、平和を実現する人々、 神の 生 は、 「長崎被爆 い は 微 力 だ け ど、一 人 一 人 が 平 和 子 で す 」 と 呼 び 掛 け な が ら、 「 と で、朝 か ら 長 崎 市 主 催 の 平 和 祈 見 150 周 年 を 祝 う 今 年、浦 上 キ 念 式 典 に 参 加 し、そ の 流 れ で こ の リシタンの信仰告白に思いを重ね 教 会 を、連 帯 と 委 託 の 精 神 で 強 め 生きている人々」 に思いを馳せた。 が日本の教会とアメリカ合衆国の 平 和 祈 願 祭 に 参 加 し ま し た。 今、 について考えることは非常に大切 摘。この世にあって希望と平和の てくださいますように」との祈り 使者となることができるよう、「主 バオ教区から寄贈された「ゲルニ 「わたしは、何世紀もの間教会を支 拝 領 祈 願 の 後、チ ェ ノ ッ ト ゥ 大 います。日本の教会と殉教者たち、 で説教を結んだ。 えた人々の信仰に奮い立たされて 司 教 は「 何 よ り も 平 和 は 神 の 賜 年前の忌まわしい状況の中で命を カの被爆マリア像」と「浦上の被 そして広島と長崎の人々に対して ミ サ に 先 立 ち、ス ペ イ ン・ ビ ル 爆 マ リ ア 像 」 が、折 り 鶴 を 手 に し 畏敬の念を抱いています。広島と 物。わたしたちが神に向かってこ に奉納された。 そ、平 和 の 道 具 と な る こ と が で き す ▲ ひ ょ っ と す る と、厳 長崎の人々は、世界に対して、 暴力 し い 査 定 で 値 踏 み さ れ、 と戦争を放棄し平和を追求するよ と で、平 和 を 願 う 気 持 髙見三明大司教主司式によるミ ちを持ちながらの参加 サ で は、ジ ョ セ フ・ チ ェ ノ ッ ト ゥ 1回の祈りの価値が「5 聖母被昇天の祭日8月 日 そ れ は、役 者 が 役 を 演 じ る よ う に 〝そして サンタ・マリアがいた〟 円」に値切られるかもし ます」 、 イセタ司教は「体の一部が となりました。道具係 う に と、一 生 懸 命 訴 え て き た か ら は、 2 時 間 の 中 で、 場 面 の 道 具 です」 苦しめば全体が苦しみます。(ビル 大司教(駐日教皇大使)、マリオ・ を次々にセット・撤収を行います。 れません。それでも22 母平和祈願祭がアルカスSASE 50万円です。教区民皆 、佐 世 保 地 区 評 議 会 主 催 の 聖 バオ教区の)ゲルニカの共同体も ( 土 ) こ の ミ サ に 合 わ せ て、長 崎 と 広 島 イセタ司教(ビルバオ教区)、オス ま た、広 島 と 長 崎 の 悲 劇 を 二 度 さ ま の 祈 り は、教 区 シ ノ と繰り返すことがないよう求めた ドスの成功のために支払 カー・カントゥ司教(ラスクルー す。長崎公演よりグレードアップ セス教区・米国カトリック司教協 に 代 え て、日 本 の 信 徒 発 見 1 5 0 来賓を代表してあいさつした。 歴 代 の 教 皇 の 発 言 と、 「 ( 米 国 が ) の人々のために祈っています」 と、 B O で 開 催 さ れ た。 今 年 は ミ サ 〝 道 具 係 の 役 を 演 じ る 〟 と 言 え ま 1945年の原子爆弾投下に対す われた尊い血税です。「教 議会国際正義と平和委員会委員 区シノドス提言」に盛り 演され、 約1500人が鑑賞した。 語』 ( 監 督・ 脚 本 古 巣 馨 ) が 上 リアがいた ― し た 劇 と な り、更 に 充 実 感 を 味 わ ミ サ 後、教 会 前 広 場 で 祝 福 さ れ 時、浦 上 の 被 爆 マ リ ア 像 と 共 に 平 き る よ う な 世 論 の 環 境 」 た 火 を た い ま つ に と も し、午 後 8 和公園へ向けて行列を開始。ロザ いた もので、今 年 3 月 に 長 崎 市 内 な い、愛 に よ る 平 和 の 実 現 を 願 っ へ と 続 い た。 そ し て、武 力 に よ ら ら約 人が出演し、 スタッフを含め 長崎中・佐世保地区の司祭・信徒 公 園 に 到 着 後、被 爆 マ リ ア 像 は こ っ た 悲 劇 と 向 き 合 い、 で上演され好評を博した。今回、 再 地球規模の核不拡散と軍 て『広島・長崎キリスト者平和ア 演 を 希 望 す る 声 が 寄 せ ら れ 実 現。 日 本 の 教 会 と 連 帯 し て、 前 方 に 据 え ら れ、み こ と ば の 祭 儀 備縮小を共に弁護しま す」と語った。 人余が携わった。約2時間 会・ 長 崎 キ リ ス ト 教 協 議 会 議 長 ) に お よ ぶ 舞 台 は、観 客 か らの 惜 し 総勢 長崎と佐世保での公演を裏方と みない拍手の中で幕を下ろした。 ピール』が藤井清邦牧師(古町教 と髙見大司教によって読み上げら 今年2月に発表された 日本司教団の「戦後 年 れた(全文は教区ホームページに を実現する人は幸い 掲載) 。最後にアシジの聖フラン 後 して支えたスタッフの一人は、「戦 ― 司教団メッセージ『平和 今こそ武力によらない平 シスコの『平和を求める祈り』を 年のこの日に平和祈願祭でこ 和を』」にも言及し、 平和 います。 (K・N) 祈りは無駄になってしま る教区民お一人お一人の 2000万円の価値があ 崩 し に な れ ば、最 低 で も いこうという決断がなし 人々に寄り添って生きて で す。 弱 い 立 場 に あ る え が あ る か、と い う こ と くって進もうという気構 の道しかない」と腹をく を 本 当 に よ く 読 み、 「こ ります。それは、 「提言」 しません▲一つ心配があ ず 遂 行 し、無 駄 に は い た 込まれた内容を一つ残ら うことができました」と語った。 長)、宮原良治司教(福岡教区)、浜 15 キリシタン復活物 る深い悲しみを表明することがで をつくることを約束した 牲者の御霊に誓い慰霊の 「長崎の祈り」(作詞・作 言 葉 と す る、と 表 し た。 曲 野下千年)を合唱し、 1983年の米国司教団 この 劇 は、潜 伏 時 代 の 浦 上 キ リ さ る よ う、謹 ん で お 願 い 父と信徒との奇跡的な出会いを描 シタンの日常や大浦天主堂での神 いたします。犠牲者の遺 いった。 リ オ の 祈 り と 聖 歌 が 響 く 中、平 和 慰 霊 の 言 葉 は、県 宗 教 る人々に和解と正義と平 国 の 司 教 団 は、こ こ で 起 を願う光の帯が浦上の丘を下って は、「 人 類 と 和 解 と 平 和 の司牧書簡を思い起こし に 対 す る 私 た ち の 過 ち、 な が ら、 「アメリカ合衆 さ げ ら れ、雅 楽 奏 楽 に 続 人間の尊厳に対する私た 宗教を超えた祈りの集い い て 開 式、賛 歌 合 唱、献 ちの軽蔑をゆるしてくだ 者懇話会会長の野下千年 族 を 慰 め、現 代 の す べ て 和、そ し て 愛 の 心 を 注 い 11 周 年 記 念 劇『 そ し て サ ン タ・ マ 口末男司教(大分教区)、肥塚侾司 15 は閉会した。 水、平 和 の 誓 い の 宣 言 な 原爆落下中心地公園で行 の 人 々、特 に 神 仏 を 信 じ でください」と語った。 30 15 70 また駐日教皇大使ジョセ ら長崎県宗教者懇話会主 どがあった。 われた。戦争と原爆の犠 年にあたり被 師 ら が 述 べ た。 野 下 師 や市民らが集まり祈った。 し て、神 仏 の 助 け を 祈 り 仏 教、神 道 な ど 諸 宗 教 者 な が ら、さ ら な る 平 和 の なことだと思う」 と感想を述べた。 た 子 ど も た ち と 共 に 入 堂、祭 壇 横 。 失 っ た 人 々 と、苦 し い 記 憶 の 中 で しの願い あなたと同じ世界平和」 ゲルニカの被爆マリア像を受贈 るために選ばれたテーマは、 「わた 催)が開催された。日本の信徒発 70 60 和祈願祭(教区・同実行委員会主 被爆 年の日 カントゥ司教が呼び掛け 印刷所 株式会社 藤木博英社 〒 850‐0852 長崎市万屋町 5‐13 TEL 095‐821‐2146 FAX 095‐821‐2148 武力によらない平和を 発行人 大 水 文 隆 フ・チェノットゥ大司教 回原爆殉難者慰 宗教者と市民ら、爆心地で祈る 催の第 牲 者 の た め、ま た 世 界 平 時か 霊 祭 が、長 崎 市 松 山 町 の 8月8日(土) 70 まず、トルコ・イスラー 和 を 願って、キリスト 教、 は、被 爆 10 〒 852‐8113 長崎市上野町 10‐34 カトリックセンター内 TEL 095‐843‐3869 FAX 095‐843‐3417 振替口座 01880‐5‐2699 最後は参加者全員で 爆都市の宗教者・市民と 25 カトリック長崎大司教区 広報委員会 貢 献 に 努 め る 決 意 を、犠 70 ムの平和の祈りと舞が さ 70 40 70 70 19 1031 号 昭和27年1月12日 第三種郵便物認可 9 月1日(毎月1日発行) 70 70 わたしの願い あなたと同じ世界平和 43 (昭和27年1月12日第三種郵便物認可) )第 1カ月140 円 年間1,500円( カトリック教報 (1)2015年(平成27年) ういやな予感を感じたそうです。それ 設工事が始まった年に生まれ、江平に住ん あの不思議な予感がなかったならば子 が一団となって洗礼を受けたかは明白では います。 歳で昭和 働 い て お り、被 爆 の と き に は 瓦 礫 の 下 死したギリシア船籍の船員が埋葬され に昭和 を 移 動 し た と き に、そ の 隣 の ス ペ ー ス ティーの方々 人を含め300人を 三浦町教会の英語ミサ は 2 0 1 2 年 に 始 ま り、 リ ッ ポ( 毎 日 曜 時 第3部は朗読を織り交ぜ て、全 出 演 者 に よ る 平 和 三明 くの人たちが祈ってくださることに今 敷 き に な り な が ら 助 け 出 さ れ、あ と の 約 分) 、 三浦町の3つ。 作曲 瀬尾照明)が演奏 讃 歌〝 A Peace Song in 〟 ( 指 揮・ 構 成・ A n d a n t e Praise 他による管 平和を願うコンサート 和の大工』 ( 作 詞・ 作 曲 終了した。コンサートに 山本きくよ)を大合唱し された。 最後は全員で 『平 出演者の一致が平和を語る 弦楽。第2 部は深堀 8 月 2 日( 日 ) 「NA GASAKI 平和を願 の「この子を残して」の 先立っては、永井 隆博士 紙芝居もスクリーンに映 し出され、 皆で鑑賞した。 参 加 者 の 一 人 は、 「多 くの人が協力して演奏す る 姿 が と て も 温 か く、音 が心に響いた。平和は一 致から始まるとあらため て感じた」 と語っていた。 17, 070, 400円(7/31 現在) も感謝しております。父は 地に埋葬されています。 最 後 に、長 崎 教 会 群 の 世 界 遺 産 の 登 録のための運動があります。大牟田で も「明治日本の産業革命遺産」のため の運動が盛んになっています(*7月 5日に世界文化遺産への登録が決定) 。 にあるのも、 不思議な縁のようです。 家族のその後 原爆投下後3~4日してから大橋の このときの子どもたちは一本木に疎開す 2人の姉たちは下山の途中爆死してい 博愛病院で 方々と三浦町教会信者と うコンサート」が城山教 会で開催され、100人 余の出演者を含む約25 0 人 が、音 楽 を 通 し て 平 和への思いを分かち合っ た。 教区平和推進委員会、 長崎平和を願うコンサー ト実行委員会主催。 Ensemble 第1部は島原高校 管弦楽部と いと思います。今後ともよろしくお願いいたします。 終 戦 ま で は、大 牟 田 に は 神 学 校、幼 稚 園、 と思いながらも「もしかしたら」とい は昭和 不知火学園とでき、戦後には800人の信 の原爆ホームで死亡。このときもう一 で い ま し た。 そ の と き、庄 屋 屋 敷 の 仮 聖 堂 ど も た ち 皆 亡 く な っ て い た と 言 っ て、 は、皆さんもよくご存知の恵み深い歴史的 ないのですが、それらの代母として名前が (1986)年 歳で三ツ山 方の親戚の家の一本木に子どもたち皆 つの出来事に出会いました。それは葬 (1956)年に岐阜県で死亡。母 を連れて疎開することにしました。そ 式 の と き、遺 族 で ロ ザ リ オ を 唱 え て い で 子 ど も た ち と 防 空 壕 に は 入 ら ず、父 れから数時間後たっても何も起こらな るとシスターが遺体のそばに置いてく 者がいたとも聞いています。 かったので、2人の子どもを先に帰し れたマリア様が凄くにこやかな顔をし 聖母マリアの思いは? て家の窓や居間の戸を閉めていたとき ていたのを今でも鮮明に思い出しま 原爆の日 2人は大正 (1923)年に旧・浦上 に、 突然ものすごい熱と閃光、 暴風が一 山口 正美 教会で式を挙げ、教会のすぐ下の家に住ん 瞬 に し て 家 を 襲 い、残 っ て い た 子 ど も 聖アウグスチノ修道会司祭 信などが多数授けられており 歳。 5 歳、父 は で い ま し た。 当 時 母 は 歳 の と き、家 族 共 に 男4女の大所帯でした。父は明治 (18 母は ました。 リーレ神父様から初聖体を受 で 受 洗 し、大 工、職 業 軍 人 と し て 勤 め ま し 毎日唱えるロザリオの中でいつも感謝 す。 そ れ は ち ょ う ど、聖 週 間 の 聖 土 曜 け、 大正 (1923) 年に旧・ た。 福 岡 の 故 深 堀 仙 右 衛 門 教 区 長 と は、学 日の日だったからです。父母の墓は山 浦上教会で最後の外国人主任 生時代のテニス仲間だったようです。終戦 していました。 たちも床に叩きつけられたと言ってい 司祭ヒューゼ神父様によって結婚式を挙げ のときまで大橋の三菱兵器工場で仕事を ました。 て も ら っ て い ま す。 そ の 後、姉 夫 婦 た ち は し、戦後、永井先生の家を建てたとも聞いて 事実です。浦上の婦人 た ち 十 数 名 の 勇 気 あ 工場で働いていた父が大けがをして帰 母は口癖に「戦争のためには子どもがい る行動は、聖霊の導きによるものとして、心 るんだよ」と冗談に言って、私が生まれた 先 日、大 牟 田 の 墓 に 眠 る 母 方 の 遺 骨 る か、学 徒 兵 で 駆 り 出 さ れ る か で し た。 あ この炭鉱の建物が大牟田の実家のそば のは想定外だと聞かされたのにはがっかり 宅。兄たちは大学病院で学徒兵として は 父 方 の 祖 母 で、 歳 の と き に 母 の 洗 礼 の の日の朝は特にいやな予感を感じたと、母 (1957)年に三池港で病 歳で亡くなるまで、他の人の 代母を務め、八代の信愛のシスターたちの 記録から察するところ、この「山口トラ」 しました。 う方の存在が大きかったようです。 から感謝と賛美をささげたいと思います。 残 っ て い る 父 方 の 祖 母、「 山 口 ト ラ 」 と い また、婦人たちを通して信仰を目覚めさせ たマリア様の参与は、いつも大きな霊的成 果を生み、人々を神へと導く特別のはから と こ ろ で、 年 前 に 原 爆 に よ っ て 長 崎 の いであったことが読み と れ ま す 。 て い る の が 分 か り、船 員 司 牧 の 全 国 担 まれ故郷に送還できればと心の中で 当 者 と し て、 「山口トラ」と一緒に生 祈っている次第です。 だお腹の中でした。浦上教会のわき祭 のささやきであったかもしれません。8月 壇にできた被爆マリアの祭壇の壁に は 言 っ て い ま し た。 多 分「 被 爆 の マ リ ア 」 たのが数日後発見されました。私はま 失を免れた母の手帳「公教信者要簿」が今、 旧墓地に埋葬されたと書いてあります。そ 9日は快晴で暑く、朝早くから空襲警報が 教会聖歌隊、 コール愛、 男 れで数年前、長崎市役所の戸籍課や熊本市 の合同ミサが行われた。 唱 団 が そ れ ぞ れ に 合 唱。 あ る。 現 在、教 区 内 で 英 それぞれの名前が書かれていて、 多 役所、八代教会などに行って調べてみると、 ありました。母は、こんな時間に警報とは、 は、 「山口トラ」という方は浦上四 こ の ミ サ は、「 同 じ 教 回目。今回は同教会堂名 時) 、西 坂 の 聖 フ ィ 賀会があった。 に舌鼓を打ち交流を深め 私の手元にあります。 こ れ は 信 者 家 庭 の 籍 番 崩 れ の と き、両 親 と 姉 夫 婦 ら と 会に集う信者同士一緒に で あ る「 イ エ ス の 聖 心 」 曜 声合唱団グランデューク として使用され、今では我が家の過去を観 つけることができました。八代教 るのには大変貴重な記 録 に な っ て し ま い ま 「 山 口 ト ラ 」 と い う 方 の 墓 石 を 見 した。 三浦町で合同ミサ 会の一番古い墓地の雑木林の中 超 え る 信 者 が 集 ま っ た。 参加者は年々増加傾向に コ ー ル、長 崎 セ ン タ ー 合 に、誰も訪れた形跡もない、しかし 通常の主日ミサに加え ミサ後は教会ルルド前の 語ミサがささげられてい 「信徒発見の聖母」の心は、当時のキリシ 名前がはっきり分かる十字架の墓 毎日曜日 時から英語ミ る 教 会 は、諫 早( 第 1 日 タンとの関係で多大な イ ン パ ク ト を 残 し た が建っていました。それを見たと サがささげられている三 そもそも事の始めは、どうして父と母が 共に鹿児島に配流された記録が 歳で亡くなるまで、浦上、八代教 と主任司祭の霊名である する様子も見られた。 ばかりではなく、先祖からいただいた信仰 き、彼 女 が 生 き て い た 時 代 の キ リ 庭で祝賀会。準備された 地理的に離れているの に 結 ば れ た の で し ょ 残 っ て い て、当 時 の 薩 摩 藩 の キ リ ミサを」との声が上がっ 会、熊本、大牟田などと行き来して 30 会長 髙見 60 85 ミ サ に は、 た。いたる所で記念撮影 がマリア様の歴史的介 入 に よ っ て 呼 び 起 こ シタンの姿を少しでも垣間見た喜 ティーの方々も料理を 明師)で6月 日(日)、 料 理 の 他、英 語 コ ミ ュ ニ 浦 町 教 会( 主 任 中 村 倫 持 ち 寄 り、皆 多 彩 な 料 理 (1 たことから昨年5月に初 い る う ち に、母 と 父 の 見 合 い が 実 14 英語コミュニ さ れ た も の で も あ り ま す。 そ れ で、こ こ で びを感じたところです。そしてい フィリピンやアメリカな う か。 記 録 に よ れ ば、母 は ま ず 明 治 シタンに対する取り扱いが緩やか のか定かではありませんが、当時は佐賀、久 ペトロの祝いを合わせて 12 英語コミュニティーと交流 読みとれる家族のわず か な 歴 史 に 焦 点 を あ つかは彼女の遺骨を故郷の長崎に ど英語コミュニティーの てて考えてみたいと思 い ま す 。 持 ち 帰 る こ と が で き れ ば と、心 の 9 0 1) 年、熊 本 の 非 キ リ ス ト 者 の 農 家 に で あ っ た が た め に 生 き 残 り、そ の 中で思いました。 生まれ、それから明治から大正にかけて、家 山口トラが結んだ出会い 族と共に炭鉱で賑わう 大 牟 田 に 移 住 し ま し ま ま 現 地 に と ど ま っ た よ う で す。 め て 実 施 さ れ、今 年 が 2 留米、大牟田教会に巡回してまわるパリ外 現したのではないかと推測してお でいたようです。これ が 何 か の 縁 に な っ た 国宣教会の神父様や司教様たちがいて、教 行 う 会 と し て、ミ サ と 祝 ります。 80 長崎教区評議会 大司教 ヨセフ 31 幸 い に も 火 災 か ら は 免 れ た も の の、 口 の 先 祖 の 墓、経 の 峰 の キ リ シ タ ン 墓 や葬式を見守ったようです。当時なぜ家族 ソ ー レ 神 父 様 か ら 洗 礼 を、 9 5) 年、ち ょ う ど 旧・ 浦 上 教 会 の 本 体 建 28 28 信徒発見の出来事(1865年3月 日) そのまま大牟田に残り、祖父母たちの死亡 聖母マリアの執り成し 22 12 た。しかも旧・大牟田 教 会 の す ぐ 隣 に 住 ん 28 13 会来訪のときにはいつも、洗礼や初聖体、堅 86 34 総額 11 12 代 母 を も 務 め て い ま し た。 そ の 後、教 会 の 86 61 61 32 17 町が焼け野原になったとき、不思議にも焼 70 9 月1日(毎月1日発行)(2) 2015年(平成27年) カトリック教報 1031 号 (昭和27年1月12日第三種郵便物認可) 第 日本の信徒発見150周年記念事業 寄付の御礼 去る 3 月 17 日に執り行われました日本の信徒発見 150 周 長崎教区の皆様へ 年記念行事および関連行事に多大なご協力をいただき、そ の上、時機を失した寄付願いにもかかわらず、寛大なご理解 とご支援を賜りましてまことにありがとうございました。 心より感謝を申し上げます。 なお、この歴史的な記念を有意義なものにするためにも、 教区シノドス提言を皆さんと共に堅実に実行してまいりた 長崎から 人が参加 広島ピース・スタディー まったと 地から集 の取り組み、また、自身が 証 言、平 和 に 向 け た 長 崎 ねて祈り、帰路に就いた。 山甚太郎らの殉教地を訪 爆 地 で も、広 島 は 長 崎 と い る と 感 じ た 」「 同 じ 被 ピース・スタディーに だ っ た。 そ の 後、 リーンに映しながら語っ はまた違う雰囲気。勉強 参 加 し た 中 高 生 は、「 い た。被爆証言を初めて聞 に な っ た 」「 自 分 か ら 情 浦上の被爆マリア像を描 いたという長崎の中学生 報 を と っ て い き、平 和 に き続けていることなどに は、「 僕 は 原 爆 の こ と を ついてどんどん学んでい 思われる 会で広島教区平和 カテドラル幟町教 普段あまり考えたことが きたい」と感想を話した。 訪問者で 行 事 の 一 つ、「 分 な か っ た け れ ど、原 爆 を 深堀 柱さん、分科会で被爆証言 科会」にそれぞれ うけた人たちはそのこと ろんな人が平和を願って 参 加。 広 島・ 長 を抱えながら生きている つ い て、関 連 画 像 を ス ク 崎 の 被 爆 証 言、沖 んだなと思いました」と 大槌ボランティア募集 ⃝月 日㈭~ 日㈬ (9/ 締切) ⃝月 日㈭~ 日㈬ ( / 締切) ⃝月 日㈭~ 日㈬ ( / 締切) ( / 締切) 1 ⃝月 日㈭~ 日㈬ 申し込みは所属小教区へ。問い合わせは教区 本部事務局(松尾)まで。 095‐842‐4450 「祈りの集い」。平 合同プログラム 教 の 主 司 式、 人 の 日 本 わ れ、前 田 万 葉 大 阪 大 司 者追悼ミサが同教会で行 原爆・すべての戦争犠牲 祈る音楽朗読会 子ども ら 城 山 教 会 で、「 平 和 を 8月1日(土) 時か 登茂子氏が主宰する朗読 BSアナウンサーの今井 が開かれた。主催は元T 会、W C C( 世 界 教 会 協 日本カトリック司教協議 祭 団 の 共 同 司 式 の も と、 ン ト ゥ 司 教、 人 余 の 司 セス教区のオスカー・カ タ 司 教、米 国 ラ ス ク ル ー 柱さん( )が長崎の被 は、城 山 教 会 所 属 の 深 堀 た。 広 島 を 離 れ る 際、市 行は教会での日程を終え セ ー ジ を 聞 き、長 崎 の 一 司教らによるピースメッ どのような説教であったか全く しばしばです。 できるものだと感心することが く、よ く も こ の よ う な 捉 え 方 が 23 25 28 30 SCOREの卒業生 た。 皆静かに聴き入ってい 095‐842‐4460 アの丘から愛 ― をこめて 和公園の原爆供養 議会)、日本聖公会主教会 多くの参加者が祈りをさ 5 日 早 朝、バ ス で 長 崎 爆証言をした。深堀さん 記憶に残っていない現実に戸 ループ「空」 、 立教大学グ 「水の会」 、子 ど も 朗 読 グ リークラブOB・OG混 声合唱団トリニティコー ル、聖 マ リ ア 学 院 音 楽 ク ラブSCORE&OGら 総勢約 人。平和への祈 りを込め、 『昭和の遺書』 や今井登茂子作『赤とん ぼ』の朗読、 『大地讃頌』 をメモしてみませんか」という アドバイスがありました。それ から主日のミサに参加するとき は、黙 想 ノ ー ト を 持 参 し 説 教 を 先 日 の 福 音 は、 「 使 徒たちは メモするようにしています。 自分たちが行ったことや教えた )という言葉から始まる 上を求める信徒たちによって 本 勲神父様と長崎の聖歌向 9 7 4( 昭 和 ) 年 5 月、橋 長崎カトリック合唱団は1 種 施 設 訪 問、各 種 音 楽 イ ベ ン 礼 奉 仕、熊 本・ 恵 楓 園 な ど 各 活 動 を 続 け て、教 区 行 事 の 典 楽を通じて社会奉仕を目的に と教会儀式への協力および音 中で醸成された喜びで乗り越 支援者の多くの祈りと活動の 試練と危機があった。しかし 立以来、 順風ではなく、 幾多の 確かに当合唱団の歩みも創 んで説教された。「イエス様は 平本神父様は父の日にちな を新たにした。 時)の練習に励んでいく決意 え る べ く、毎 週( 金 曜 の 夜 7 これからも多くの要請に応 嵐の中で恐れる弟子たちを諭 応えてきた。 周 年 を 感 謝 し、 トへの出演など多くの要請に 日(日)中町教会で記 えてきた。 立ち上げられた。そして今年 6月 1年遅れで 橋本 勲神父様の主司式、野 し な が ら、父 な る 神 と 私 を 信 念ミサをささげた。 下千年神父様と平本義和神父 岩本夏奈さん(ロンドン にはいろいろと伝えてい のことについて話すとき 本 に 帰 っ て き て も、長 崎 http://nagasakicatholicchoir. web.fc2.com た。光の集いでは、1日 をしながら歩いていまし 気あいあいと会話 に は、み ん な が 和 歩巡礼に行った時 神ノ島教会へ徒 外 に も、レ ク リ エ ー シ ョ うになりました。それ以 や感想を話してくれるよ も、普 段 思 っ て い る こ と は、恥 ず か し が り な が ら 2日目の分かち合いで 林田健治 8 月 1 ~ 2 日、木 鉢 教 目 の 出 来 事 を 振 り 返 り、 ン や バ ー ベ キ ュ ー な ど、 城山教会 会 小 瀬 戸 集 会 所 で、北 川 静かに祈っていました。 教区の青年有志が主催 な た め、行 き 届 か な い 点 す。青年の方でも不慣れ えればうれしく思いま 信仰生活に役立ててもら 感じたことをこれからの このキャンプを通して ました。 みんな楽しんでくれてい 大介神父様(サレジオ修 中高生・青年が キャンプで交流 〈合唱団のホームページ〉 様 の 共 同 司 式 で、信 徒 席 に は 団員 (下窄英知神父様を含め) じなさいと言われました。父 を導いてくださるイエス様の と そ の 家 族・ 支 持 者 に 加 え、 親のようにさりげなく私たち 偶然巡礼に来たフィリピンの 深 い 思 慮 に 気 づ い て、信 頼 し 在住・高校3年)は、「 (活 きたいです」と語った。 没者追悼平和祈念館で開 て頑張りましょう」 若者なども共に祈った。 動を通して)平和や戦争 催された。 の 中 で は、 人が参加しました。 画・中高生キャンプ「 One 」 を 開 催、 Fifty Camp 徒発見150周年記念企 道 会 ) の 指 導 の も と、信 創 立 以 来、典 礼 聖 歌 の 普 及 について考えさせられる 卒業してもSCOREは ぐ場所。海外にいても日 光と音で歴史をたどる し た こ の イ ベ ン ト は、青 も あ り ま し た が、ま た こ 間で延べ5000人以上 敷地と天主公園には2日 たいと思います。 八幡町教会 田川雄三 物館(仮称)の担当者と し て、高 田 征 一 氏 を 7 月 〈長崎カトリック神学院〉 1日付で採用しました。 て考えるきっ 爆・戦争につい み を 背 景 に、原 上天主堂の歩 タンの歴史をはじめ浦 歳 ) は、 「浦上のキリシ アキミ様」でした。訂正 様(浦上)故マリア冨永 が、正 し く は「 冨 永 勝 彦 岡様と記載していました 謝・香典返し」の欄に冨 教区報8月号8面「感 会) 。かくれキリシタン し、 お詫び申し上げます。 ヴ ァ ン ジ ラ( 神 言 修 道 著者=ムンシ・ロジェ・ ★村上茂の生涯 か け を、多 く の の帳方として活躍した 故・村上茂氏の生涯を紹 お知らせ れば幸いです」 500円。 介。 聖 母 の 騎 士 社、税 別 日本キリシタン歴史博 と語っていた。 〈教区本部事務局〉 とができてい 方に与えるこ さ ん( 滑 石 教 会 所 属、 トリック信徒の深堀暢師 まさ し 実行委員長の一人でカ としていました。 考えてもらうことを目的 仰 に つ い て、あ ら た め て のようなイベントをやり 天 主 堂 の 創 建、原 爆 に よ が 交 流 を 持 つ こ と、そ し 正 る 倒 壊 と そ の 後 の 再 建、 て先祖から受け継いだ信 復興などが光と音で表現 に 各 日 4 回、計 8 回 に わ が 集 ま り、投 影 後 に 自 然 会場となった浦上教会 たって「浦上天主堂再現 と拍手が沸き起こるな 様子だった。 ど、感 動 を 共 有 し て い る プロジェクト」 (同実行 8月6日 (木) と8日 (土) 訂 発見 (写真) 、 信仰の自由、 年と中高生・中高生同士 浦上天主堂再現プロジェクト キリシタン 迫害と信徒 夜 空 の 下、旧 浦 上 天 主 。原爆投下 堂の姿が浦上の地に浮か ― 年、信 徒 発 見 か ら び上がる から 分間の映像 すごく落ち着ける心安ら ま っ た よ う に 思 い ま す。 2日にも国立長崎原爆死 音 楽 朗 読 会 は、翌 8 月 毎年出演しているという 長崎カトリック合唱団 機 会 を も ら い、考 え が 深 創立40周年を祝う 委員会主催)が実施され こ れ は、被 爆 3 世 や 長 た。 浦上天主堂を再現。約 壁面に原爆で破壊された 手 法 を 用 い て、浦 上 教 会 ンマッピングという映像 たもの。プロジェクショ ことを目指して」企画し り、継 承 問 題 に 寄 与 す る 交流のきっかけをつく 戦争を知らない世代との イエスのところに集まって来て、 崎市民が「戦争体験者と 6・ ことを残らず報告した」 (マルコ 箇所でした。説教師はこのこと を取り上げ、 「皆さんもミサに来 残らずイエスさまに報告してい られたとき、1週間の出来事を 黙想ノートに書き留めました。 ますか」というものであり、 早速 49 40 いっぱい 縄・高江をテーマ のぼり ちょう にした話などを聞 話していた。 年の想いを今に いた。夕方はカト 年の想いを 塔前から幟町教会を目指 を 実 施 し、教 区 内 の 教 会 に広島ピース・スタディー による「平和のための祈 さ げ た。 ミ サ 後、米 国 の を出発。昼頃広島市内 に は、被 爆 当 時 の 様 子 や 戦 の 合 唱 な ど が 披 露 さ れ、 ない現実をなんとかできないも の か と 考 え て い た と き、 「黙想 て い ま す が、自 分 だ け の 読 み 込 「 説 教 の 中 で こ れ と 思 っ た こ と 彼らとことばを交わす か ら で あ 惑 っ て い ま す し、年 を 取 る と は 素 晴 ら し い 話 で も、記 憶 に 残 ら 12 11 10 今 に 繋 げ て 」 で、第 1 回 開 催 か ら ほ ぼ 教区平和推進委員会 グループ「水の会」 。 人 この日の「分科会」で りの集い」へと続いた。 月5日(水)~6日(木) ( 写 真 )。 教 会 到 着 後 は、 バオ教区のマリオ・イセ と髙見三明大司教、2人 から集まった中高生 人が 到着し平和記念資料館 内にあるフランシスコ遠 参加した。 の司祭を含む総勢 へ。戦後 年という節 目 後 の 状 況、海 外 で の 被 爆 あきら の た め か、館 内 は 世 界 各 数年前から「黙想ノート」が ミサに参加するとき私は数人 み で は 内 容 が 偏 り、深 ま り ま せ 発 行 さ れ、そ れ を 使 っ て 少 し で の 方 と 車 に 乗 り 合 わ せ、一 週 間 ん。 そ れ に 対 し、他 の 方 の 読 み る。 他 方、神 の こ と ば に は 非 常 このようなものかとがっかりし 20 16 18 21 ノート」の使い方の一つとして、 1 5 0 年 に あ た る 今 年、 された。 ある司祭から「私た ち は 祈 り の出来事について話しながら行 することが のだと感心 ができるも 深い読み方 くも味わい もみことばを深く味わおうとし を通して自分の願いを 神 さ ま に きます。帰りはみことばの祭儀 黙想ノート― 私の使い方 ② 長野宏樹 多くありま す。特に説教の中でみことばに 西町教会 ま す。 と こ ろ が、意 外 と 今 日 の に大きな力と能力が内 在 し て い たりします。 し か し、残 念 な こ と に い く ら るので、霊魂にとっては糧、霊的 を も っ て 自 分 の 子 ら と 出 会 い、 み こ と ば が ど ん な も の で あ り、 ついて話されることは味わい深 られる父は聖書の中で 深 い 愛 情 す。 ま た 啓 示 憲 章 で、「 天 に お い」と諭されたことがありま い・メッセージを汲み 取 り な さ よ く 読 み、そ こ か ら 神 さ ま の 願 い し て い る よ う に、毎 日 聖 書 を 日々祈りを通して神さ ま に お 願 出 し て い ま す が、神 さ ま の 私 た )と教 出 演 は、東 京 と 長 崎 の たちと共に 第8回マリ 6 日 の 朝 8 時 か ら は、 14 10 12 15 の 司 教、ス ペ イ ン・ ビ ル リックと聖公会の 城山で平和を祈る音楽朗読会 FAX TEL 21 12 11 10 70 して歌いながら行進した 14 ( 岩 村 知 彦 委 員 長 )は 8 12 30 ちへの願いは聖書から 汲 み 取 る 会は教えています。 泉 と な っ て 現 れ る 」( 85 方 に 触 れ る と、な ん と 幅 広 く よ 説教を黙想ノートにメモ 70 26 ことができるのですよ。だから、 について話しながら帰路に就き 21 12 1031 号 9 月1日(毎月1日発行) 54 生活にとっては純粋な 尽 き な い 10 30 30 70 70 54 70 (昭和27年1月12日第三種郵便物認可) 第 カトリック教報 (3)2015年(平成27年) 長の野濱達 実行委員 レクリエーションが行わ に答えるミニ巡礼などの かった」と話していた。 は 口 々 に「 と て も 楽 し 召命フェスティバル れ、参 加 し た 子 ど も た ち 子どもスポーツ大会 長崎と佐世保で熱戦繰り広げる が繰り広げ ムで戦われた(写真) 。 を 除 き、 小 教 区 チー ら れ た。 今 7月 日(水) 、 長崎3 習時間が少なかったこと 期 の 開 催 だ っ た た め、練 うこともあってか応援来 信徒発見150周年とい 張 り も さ る こ と な が ら、 限られた人数で練習を 地区の「長崎地区子ども 場 者 が 多 く、会 場 は 熱 気 してきた小学生たちの頑 分たちでオ は 否 め な か っ た が、各 小 回は例年よ リジナルの 教区で工夫して少ない時 に包まれた。結果は次の 子前・船越 ②浅子 ③神 通り。〈第1コート〉①鹿 崎 C。〈 第 2 コ ー ト 〉 ① に 臨 ん で い た。 結 果 は 主催は長崎教区の有志の 準優勝 木鉢・飽ノ浦B、 次の通り。優勝 浦上A、 た。 種 目 は ド ッ ヂ ビ ー。 間を有効に使って本大会 2 日 目 は、お 告 げ の マ 若手司祭団で結成された 参加を断念した天神教会 会 」 は、少 子 化 の 影 響 で 区子どもドッジボール大 で開催された「佐世保地 尾・間瀬。 大加勢 ②神崎A ③太田 A。〈第3コート〉 ①褥崎・ 神崎B ②大崎A ③相浦 ★ 8月2日(日) 時か ★ ら総合グラウンド体育館 ★ 00人の小学生たちが練 宗教者懇話会が 周年 ▼大村殉教祭 来、協 力 し理解を ㈰ 時、 大村市民会館。 子どもたちの中に召命の 通して、1人でも多くの 長崎県宗教者懇話会(顧 和に向けた活動を続ける 霊 祭 を 主 催 す る な ど、平 下中心地で原爆殉難者慰 毎年8月8日に原爆落 誌 を ご 覧 い た だ き、信 者 て い る。 野 下 師 は、 「本 記事などと共につづられ みが、 写真と文、 一般紙の て活動してきた同会の歩 ▼公開聖書講座「出エジ 公園。雨天時、 田平教会。 ㈰ ンツォ殉教祭 ▼福者カミロ・コンスタ 記念誌『平和への祈り』を発行 深め合っ 種 が 芽 生 え、育 っ て い く プト記 ―真の神に仕え し ょ う。 / 私 た ち の るなら、死はもはや存在しない。 がえる。/もし愛に留まってい 年月が経つにつれて過去がよみ 時、田 平 町 焼 罪 史 跡 日 す」と語っている。 めていただければ幸いで クセンター。講師・澤田 ㈰ 時、カ ト リ ッ に創立 記 念 誌 に は、キ リ ス ト ンター(℡095‐84 入希望者はカトリックセ 1 冊 2 千 円( 税 込 ) 。購 先・教区生涯養成委員会。 当日券1000円。申込 会) 。 前 売 券 8 0 0 円・ A 4 版、全 2 4 8 ㌻。 豊 成 師( 聖 パ ウ ロ 修 道 教、 仏教、 神道の宗教者ら しいものとは思いもよりません れ。 年福江修道院に入 1953年五島市生ま 9月 日㈰ ▼ホームレス支援講演会 時、 中町教会。 者ミサ ▼聖トマス西と十五殉教 同懇話会の会員による寄 で し た。 / ま た、わ た し が 人 生 に 生 き て ~」 たいこと ~釜ヶ崎で、共 月3日 が、 腎機能が低下し、 透析 時、長 崎 原 爆 死に至るまで変わること 参加費無料。長崎ホーム 師( フ ラ ン シ ス コ 会 ) 。 資料館。講師・本田哲郎 時~ な く、体 調 が ゆ る す と き ㈯ は修道院で炊事を手伝 レ ス を 支 援 す る 会 主 催。 を 大 切 に し、良 く 通 る 声 ▼第137回クルシリヨ ℡080‐2714‐8574 問合先・井手。 い、文 や 行 い で 人 々 を 励 穏やかで誠実な性格は を開始した。 療 に よ っ て 小 康 を 得 た 「いま、 私たちが大切にし の 診 断 を 受 け、手 術・ 治 2011年に子宮がん ア病院で奉仕した。 2‐4450) 野下まで。 ℡095‐841‐7731 日、五 島 市 の 聖 ( お告げのマリア修道会) アンナ 鍋内恵子修道女 稿文も掲載。1974年 祈り』を発行した。 時~ のほど記 念 誌『 平 和への 周 年 を 迎 え、こ 9月 日 ことを願っています。 る た め に ―」 9 月 父であるあなたを多 / 私 は 今、時 間 は 人 生 を 消 し さ 野下千年師)が昨年 の皆さんが諸宗教対話運 動への一層のご理解を深 上五島地区 信仰教育委員会 中濱繁喜 月 会長 問 髙見三明大司教、 最後に、6人の司祭で てもらいました。 き、召 命 へ の 理 解 を 深 め 小教区 チーム約4 習 の 成 果 を 発 揮 し、熱 戦 行委員会。 し た。 ま た、子 ど も た ち 仲良くなった人たちとア と一緒に参加した保護者 ル ガ ン・ 共 同 祈 願 な ドレス交換をしたりしま 子どもたちが自分の教 の 方 々 に は、召 命 に つ い お告げのマリア修道会の 会以外にもたくさんの仲 ての話を聞いていただ 協 力 の も と、青 方 教 会 で どの典礼奉仕を担当 間 が い る こ と を 知 り、神 召命祈願ミサを行いまし はじめに行われた した。また事前に各小教 てほしいということ、 また の家族として仲良くなっ た。この子どもの集いを 召命祈願ミサでは、子 区で用意してきた献金が 召命を考えるきっかけと 行いました。 8月3日(月)雲仙 メ ささげられた。午後には なればとの思いから、 この ど も た ち が 朗 読・ オ モリアルホールにおい 滑石教会の子どもたち 方教会に宿泊)が参加し、 ぶどう園 て、〝召命の発見〟をテー に よ る 朗 読 劇、そ の 後 雲 戻ってからは司祭・シス シスターの指導を受けな の創立以 マに召命フェスティバ ル ターによる劇・バンド演 来た6人の志願者が子ど 9月6日 が 行 わ れ た。 教 区 召 命 の主催で2年に一度行 わ 奏などの出し物が披露さ 最 後 に、佐 世 保 地 区 の 人(4~6年生は青 れる召命フェスティバ ル が ら、長 崎 か ら 手 伝 い に 集いを企画しました。 は今回で7回目。教区 内 れ、会場を沸かせた。 委員会(岡 秋美委員長) 仙 地 獄 を 巡 礼 し、会 場 に から250人余の小学 生 をはじめ、引率の信徒、修 もたちの親睦を深めるた できますように。/明るく澄み め の ゲ ー ム を し た り、自 切った自由な心とすべてから離 各小教区が作成した教会 やはり老いは恵みなのです。/ 脱した精神で。 紹介パネルを見てクイズ 与えられた長い年月に/恵みと 道 者、司 祭 あ わ せ て 約 3 う 」 と い う 世 界 に は、孤 独 や 愛のすばらしい宝を/私たちの 50人が参加した。 老いは恵み ありが 人生に積みあげてくれるのです 通じる妻の よ、で から。 私は老いを避けたくない。むし 寂しさがありません。「アレだ た さ 」 と い う 川 柳 は、長 年 愛 ろ、歓 迎 し た い の で す。 / 巡 っ くの恵みでご自分を より良く愛せるで 知らせてくださるあ る 力 が な い、と 感 じ て い る。 / 私は幸せです。とても幸せです。 なたを。 7月 過ぎしこのかたを振り返る余裕 のこの時期に/これほど幸せに 内正志師司式により福江 月 ℡095‐879‐3611 問合先・永山悦子。 イ エ ズ ス 会 立 山 修 道 院。 日 ㈪、 誓願宣立。栄養士として 教会で行われた。 月9日㈮~ 聖 マ ル コ 園、希 望 の 灯 学 日、い と こ で あ る 鍋 園、 聖マリアの園、 聖マリ 葬儀ミサ・告別式は7 で神を賛美した。 マリア病院で帰天。 歳。 ま し 続 け た。 ま た、祈 り が与えられ、/静けさのなかで 会、 年初誓願、 年終生 長 い 旅 路 の あ と で、 / 年 を と る こ と が、こ れ ほ ど 美 じ っ と 味 わ え ま す。 / 主 よ、あ なれるなんて夢にも考えません 14 「あなたたちは生まれた時か し合ってきた夫婦の愛の年輪 時として人々は口 てくる日に、流れ行く日に、 あな ら 負 わ れ、胎 を 出 た 時 か ら 担 にしたくもない/ この世で一日長く生 われてきた。 同じように、わ 年老いて亡く れるようになって久 し い 。 川 まるで「老い」は恥ずかしい たの愛が注がれるから。 を感じさせます。 なったある修道女 柳に「住む世界 狭 く な っ た ことで/隠しておきたいこと きるなら/あなたを たしはあなたたちの 老 い る 日 まで、白髪になるまで、背負っ て行こう。わたしは あ な た た ち を 造 っ た。 わ た し が 担 い 、 の 服 の ポ ケ ッ ト に 「老いは神さまの恵 ら 老いはそこ」と い う の が かのように。/老いは恵みで 入っていました。 が書かれた紙片が (イザヤ ・ 3 ~ 4 ) み 」 と い う 散 文 詩 日 は 敬 老 の 日、日 本 あ り ま す。 若 い と き と 違 っ 16 16 背負い、救い出す。」 9月 22 なたへの旅路の意味を。/与え ら れ る 休 息 の と き は 招 き ま す。 でした。 / 父 よ、あ な た を 眺 め る こ と が 27 10 12 は高齢化社会を迎え た と 言 わ 18 3位 滑石B。 リアの志願者の生活を紹 りして楽しみました。 スポーツ大会」がシー 7月 日(日)~ 日 ハット大村で開催され りも早い時 13 召命は「神の家族」の絆から ロザリオや 栞を作った 上五島で子どもの集い 召命の発見をテーマに雲仙で開催 也師(早岐 小教区)は あ い さ つ の 中 で「 今 日はいろんな発見を し て ほ し い。 将 来 の 自 分 の 召 命 の 発 見 が、 神父様やシスターで 子を対象とした「上五島 あ っ た ら 私 た ち は う (月)の2日間、小学生女 20 子どもたちに話した。 地 区 子 ど も の 集 い 」 を、 介 す る ビ デ オ を 見 た り、 「 子 供 の 会 」 か ら 成 る 実 れしく思います」と 29 20 20 27 14 13 14 10 て、活 躍 の 場 も 交 際 の 範 囲 も す。 狭 く な る も の で す。 し か し 、 あ る こ と を 忘 れ て い る の で ど ん な に 老 い て も、ど の よ う な環境に置かれても 「 愛 し 合 13 40 16 (本原教会) 晃 石 碑 文字彫刻 墓地工事 リフォーム 墓地分譲 19 江夏国彦神父 11 62 41 みことばにふれて 120 10 84 46 40 14 79 67 21 2015年(平成27年) 9 月1日(毎月1日発行)(4) カトリック教報 1031 号 (昭和27年1月12日第三種郵便物認可) 第
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