時間のない世界とはどんなところか 新しいアトリエ「Studio Duality」の開扉に寄せて Oct 10, 2015 SS 幻想狂騒曲「激痛」 ギックリ腰の痛さは、痛い真っ只中の人にしか分からない。とにかく痛 い。なのに寝返りを打ちたくなる。トイレにも行きたくなる。すると腰を 1 センチ移動するのに、拷問に勝る痛さをこらえながら 10 秒は掛かる。シー ツ1枚の段差が痛さを倍にする。とにかく痛い。現に痛いのである。 この 腰の痛さを現実と言わずして、何をこの世の現実と言うのか。生きている証 拠が、この激痛に勝る証拠が他にあると言うのか。 第1楽章:知覚や感情という幻想 ところが、この痛さは幻想だというのである。腰が現に痛いというこの 事実が、実は錯覚だ、というのである。痛い真っ最中にそんなこと言われれ ば誰だって腹が立つ。これほど明確に痛いのに、それを錯覚と言えるのは、 自分が痛くないからだ。だからと言って「さぞ痛いでしょう、よく分かりま す」と言われるのもまた困る。この痛さは純粋に主観的なものであって、い くら親切だったとしても、他人に分かる訳がない。 脳科学というのは、人間性否定の科学である。腰はなんでもないのに、脳 の前頭葉にある部位 DLPFC がちゃんと動作しないことが、腰が痛いとい う現象に他ならない、と。こっちは痛くて死ぬ方がマシだと思ってると言う のにこうだ。しかしよく考えてみると、怖い夢を見てるときも、冷や汗が出 るほど怖い。なのに、目が醒めれば、なんだバカバカしい、となる。脳の悪 戯に過ぎない。ギックリ腰もその類なんだそうだ。 大体、脳科学も含めた科学そのものが、人間性を否定する。痛さだけでは ない。凡ゆる感情を、無数の酵素の組み合わせの違いや分布の変化に置き換 えてしまう。薬物の煙をちょっと吸うだけで、世界が違って見える。だとす れば、見えてる世界は幻想と言わざるを得ない。眼鏡を掛ければ定規も曲が る。どうせ脳に映った世界しか人は知らない。えっ?自分は目の前の鼻を 見てる?それだって脳に映った鼻の像じゃないか。 第2楽章:自由な意思という幻想 こうして、知覚も感情も頼りない幻想に追いやられてしまうと、それを見 たり感じたりしている筈の主体、即ち自分は一体どこに行ってしまったのだ ろう。ギックリ腰の激痛に耐えていた自分、5 千円を 5 百円と見誤ってレジ で焦った自分。これらすべてが単なる脳の様々な部位の機能に過ぎないこ とになった。前頭葉辺り目掛けて熱いシャワーかけたり、その辺叩いたりし て活性化すれば、ギックリ腰が治るかも知れない。 しかし待て。痛さを幾らかでも和らげようと姿勢を変える。レジでは平 静を装おう。それらは自分の意思であって、仮に痛さや焦りが幻想であって も、意思は自分のものだし、その主体として自分は健在だ。それすら幻想と 言うなら、詭弁と言わざるを得ない。と言いつつも気になるのは、そうした 意思はどれも自然に湧いてくる。意思なのに知覚や感情といった意識と同 様自然に湧き出してくるとはどういうことなのか。 実はこの最後の砦、自由意思ですら脳科学は一蹴する。自由意思とは脳が 無意識下に行った選択を意識として追認する現象に他ならないと言うので ある。人が何かを自由に選択するその 0.35 秒前に、脳はすでにその選択肢 を決定し、その結果が意識として顕在化するとき、人は自ら意思決定したと 錯覚する。この錯覚は実に巧妙な仕組みを創り出したものだ。自己主張の 強い者が社会を支配する、例のあの仕組みである。 第3楽章:合理的科学という幻想 それなら、科学的な見方こそが真実であり万能だとでも言うのだろうか。 傲慢な科学者が何かと吹聴するのは、科学の合理性であり、検証に基づく客 観性である。自身の直観に自信がないときに頼るのが、客観性と呼ばれる大 樹の陰。その客観性の根拠は合理性にある。終局的には科学的実験とそれ らを記述する数学の無矛盾性が合理性を保証する。 こうして科学は自然を破壊して人工物に変え、遂に人間自身をも制御しつ つある。だが、この科学的合理性が実は偽造品なのだ。まず、すべての微視 的物理現象は不確定性関係を満たす限り決定論ではない。因果律は科学の 基礎に於いて破綻。なのに学校で習うのは排中律に従う科学の合理性であ り、その繰り返しで誤った信仰が社会に定着した。 それだけで済まない。無矛盾性を保証する筈の数学自身が、その内に真偽 を判定できない命題が含まれることを証明してしまった。始末に負えない。 裁判官が自分は泥棒だったことに気付いたようなものだ。排中律に従う数 学は、自己言及しながら時間発展する普通の自然現象すら、常に記述できる 訳ではない。そのような数学は不完全なのである。 第4楽章:先験的時空という幻想 あらゆる科学の対象は、人がそれを観察し、考え、理解するのであって、 人を離れてあるものはない。もし人から独立したものがあるならば、それこ そ最も興味ある科学の対象であるに違いない。考えるとは、複数の個体の因 果関係を知ろうとすることであり、更にその因果系列が完全列を成せば、人 はそれを理解したと思う。特にその因果系列が一個の個体の異なる状態の 系列であるならば、その順序を時間的順序と呼ぶ。 個体は環境と相互作用しながら自己を維持する。人の場合相互作用は見 ることであり、考えて、作ることである。時間は人が個体の変化を観察し、 理解するために必要な形式に他ならない。個体毎にそれを理解する時間が 伴う。多くの個体を部分として含む大きな個体の時間は、それに含まれる個 体の時間が合理的に整合するものでなければならない。こうして思考し得 るすべての現象が、一つの時間の中に統一される。 時間は人が現象を理解する過程で導入する抽象概念であって、先験的に在 るものではない。実際一般相対論に基づく現代宇宙論もその前提の下で成 り立つ。ところがここでもまた自称科学者集団は不可解に振舞う。平然と カント氏の先験時空説も認めるのである。自分は生まれる前から生まれて いたと思うのと変わらない。何故そんなおかしなことが罷り通るかという と、考える限りそれ以外考え様がないからである。 時間のない世界 全楽章が終わったいま、主題が聴えてきた。ギックリ腰に戻ろう。 「激痛」 を止めるには熱湯シャワー。時間の場合は思考が時間を作り出したのだか ら、時間から逃れる術はただ一つ。思考停止。時間のない世界は、思考を止 めればそのまま実現している。特に何もする必要はない。だからと言って 死んでしまう必要もない。花は紅、柳は緑。意識はあっても一向に構わな い。主客未分であって、そこに時間はすでにない。 岩鼻やここにもひとり月の客 (去来) 追伸 一度失われた自分は、激痛からも解放され、清々しく復活したんだとさ。 ♢♢♢Viva Studio Duality♢♢♢
© Copyright 2024 Paperzz