キリストの故に嫌われる

キリストの故に嫌われる
ヨハネによる福音 55
キリストの故に嫌われる
15:18-25
朗読された最後の一句(:15)は、詩篇 35:19 にある言葉です。原文のソ
ネアーィ・ヒンナーム
~N"xi ya;n>f
は、「故なく私を憎悪する者たち」か、「理
由もない私の敵たち」という意味ですが、ここでは前後の文章の流れに合わ
せて、「理由なしに私を憎んだ」と訳しています。「理由なく」は筆者の主
観から言うので、全く理由がないわけではなく、「不当に」の意味と見てよ
ろしいでしょう。旧約の中では、神に信頼して生きる人が、周りの世界から
憎しみを受けて、無理無体な虐待を受けながら叫んでいる姿を描いたもので
す。イエスの引用は、弟子たちと一緒に理由のない憎しみを受けるご自分を、
その絵に重ねているだけではなく、その前の行と繋いで考えれば、天の父、
主なる神ご自身に向けて、人間が「理由の無い」憎しみを爆発させている
―不信と反逆の姿を映し出します。
人間の恐ろしい憎しみの中で一番根が深いのは、神への憎しみだと言えば、
飛躍も甚だしいと言われますか……。18 節と 23 節に示されている「究極の
憎しみ」を明らかにする前に、もっと具体的な憎しみを考えてみましょう。
人から傷つけられた恨み、愛する者を殺された人の憤りはすべての憎しみの
ドラマの源になります。
西洋の古典では、三千年前の「イリアス」という叙事詩の第一行が、「怨
念を謳え、詩の女神よ」です。冒頭、第一語が「ミーニン」,これは
〔ウラミ + 憎しみ ÷ 2〕のような単語です。アキレス腱で知られるギリシ
ャ随一の勇将アキレウスが、自分の女を奪った王への怨みと、親友を殺した
敵への憎しみで、狂ったように死地へ突入するドラマです。西洋最古の文学
ですが、その後に続く“ギリシャ悲劇”はその前、本国でトロイ出陣の際に、
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娘を人身御供にされた王妃が、娘を犠牲にした王のアガメムノンを家に迎え
て殺す。その息子のオレステスが、妹と一緒になって母を殺す。その呪いが
今度は……と終りのない連続復讐劇です。
ところで、多くの人が憎しみの背景に気づかず見過ごす話に、創世記の「カ
インの兄弟殺し」があります。4 章の初め、カインとアベルの物語―殺し
の場面は簡潔で、たった 2 行です。「彼らが野にいた時、カインは弟アベル
に立ちかかって、これを殺した。」ハワード・ヒューズさんの映画「天地創
造」では、ナタのようなものを振るって、麦畑のまん中でカインがアベルを
一撃で倒します。太陽の光が降りそそぐ中での一瞬の惨劇です。主の声が天
から聞こえます。「弟アベルはどこか?」「知りません。アベルの番人じゃ
ないでしょう。」カインの答えです。「あなたはいったい何をしたか。あな
たの兄弟の血が土の中から叫び声を上げているぞ。」カインがアベルを殺さ
ねばならない程の憎しみが、主なる神の判定への不服と怒りであったことが
伏線になっています。
「主はアベルの供えた羊の犠牲は喜ばれたが、カインが供えた地の産物は
顧みなかった。」そこからカインの憤りが主なる神に向かって燃え上がり、
憎しみはアベルの上に爆発します。この憎しみの根を掘り起こすのは、創世
記の解釈の難所です。社会学者は、遊牧民族の価値観から説明しようと試み
ます。新約聖書のへブル書の視点から見る人は、血を流す“犠牲”だけが罪
人の供物として意味を持ち、人間が汗を流した地の作物は律法の義と同じで、
作物を献げる人を救わない―という所に「贖いの血」の予告を見ます。で
も、ここは「なぜ羊か」「なぜ作物は不適か」という区別は、さほどの重み
を持たないと思います。私はこのカインの憤りと憎しみの中に、イエスが言
われた「神の子への憎しみ」と「神ご自身への憎しみ」の根を見るように思
うのです。
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1.弟子たちは世の憎しみを浴びる。
:18-19.
間もなくイエスが去ると、すぐに「世」との衝突が始まります。宗教家か
らの迫害を弟子たちは経験するのですが、「今から言っておく。その時にな
って驚くな」と。イエスは警告というより、断言保証なさいます。これは不
可避的だ――あなたたちが私の弟子である限り……。
18.「世があなたがたを憎むなら、あなたがたを憎む前にわたしを憎んでい
たことを覚えなさい。19.あなたがたが世に属して(罪の中に留まる「世」の
一部分で)いたなら、世はあなたがたを身内として愛したはずである。だが、
あなたがたは世(ほかの人たちと同じ生き方の世界)に属していない。わた
しがあなたがたを世から選び出した。だから、世はあなたがたを憎むのであ
る。
日本の民族的な風土の中では、人が神に拘らないかぎり、同じ一つの社会
の仲間として受け入れます。しかし、神を持ち出せば、異文化の人か「病気」
扱いされます。「世間」は自分と異質なものを許しません。特に日本人は、
同じ色に統一して安心する気風を持ちます。そういう風土の中で、ひとりの
神を仰いで、ひとりの主に仕えて生きるか、それとも「世」の最大公約数に
合わせるかが問われます。特に、イエス・キリストによる罪のあがない、死
からの復活を自分の命として受けるとなると、世間という共通の生き方を持
った世界から浮き上がります。
イエスは「世」world と呼ばれる民族共通の生き方の世界から、弟子たち
を選んで引き出したと言われます。シモンやヤコブの場合、これはユダヤ人
という民族と宗教の安全圏から、外へ出て、全社会の憎しみを浴びてもしよ
うのない所に立ったのです。
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2.イエスへの憎しみの全てが弟子たちの上に降る。
:20-22.
イエスは弟子たちに、「私を憎んだ世の憎しみが、私を信じるあなたがた
に集中する」と断言しました。日本の「坊主憎けりゃ袈裟まで憎い」と似て、
ユダヤの諺は、「主人憎けりゃ奴隷も殺したい」と言いました。
20.『僕は主人にまさりはしない』と、わたしが言った言葉を思い出しなさ
い。人々がわたしを迫害したのであれば、あなたがたをも迫害するだろう。
わたしの言葉を守ったのであれば、あなたがたの言葉をも守るだろう。 ―
ここは多分、少数とはいえ、あなた方の語る内容に耳を傾ける人もいる。勇
気を失うな―という意味で言われたものです。もっとも大多数は排斥、憎
悪、迫害にまわるでしょうが……。
21.しかし人々は、わたしの名のゆえに、これらのことをみな、あなたがた
にするようになる。―それは私に矛先を向けて、私に石を投じているのだ
―わたしをお遣わしになった方を知らないからである。 22.わたしが来て
彼らに話さなかったなら―天の父の意志をこうして伝えているのでなかっ
たら―彼らに罪はなかったであろう。だが、今は―父の意志が示された
以上、彼らは自分の罪について弁解の余地がない。
イエスが来て語ったことは、ユダヤ人たちには、耳をふさぎたいような内
容でした。彼らは、先祖たちが理解した律法によって充分正しく生きて来た
つもりなのです。世間全体が、「この生き方でいい。エルサレムの長老たち
もこれを認めている」というのに、田舎の一介のラビに過ぎないイエスが、
「あなたの罪を見よ。それは神の支配を受けねば清め得ない」と言い、「そ
の権限と力は全部父が私に委ねた」と断言したのです。指導者たちはイエス
を、死刑に当る冒涜者と見なします。その怒りが今から全部、ヨハネやヤコ
ブやペテロの上に落ちかかるのでした。
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私たちもそんな方を主と仰いでいるのです。単にこの方を先生にして愛の
訓練や修養ごっこするのなら、日本の社会も充分認めてくれます。尊敬して
くれるかも知れない。マジメな人たちだと……。でも、この方の中にだけ神
の意志があるとか、復活したキリストを主と仰いで、この方から命を受けて
死を征服する、などと言うと、それは正気の沙汰とは見なされません。昔の
ように石は飛んで来ないが、無形の石は飛んできます。飛ばさない人も、み
んな武装して私たちをウサン臭そうに見ます。
主のパンと杯を頂く時に、私どもが、「信仰者以外の方も遠慮しないでど
うぞ加わって下さい」と言わないのはなぜか―誤解はないと思いますが、
あれは今学んでいる人への差別ではなく、自由と中立への配慮なのです。心
ならずも運命を共にさせたくない、イエスと一緒に石の飛んで来る所へは、
立って頂かないのです。立つ人はやはりイエスと一緒に石を受ける理由を、
一人ひとり持っていねばなりません。「信仰者」についての私の定義はしか
し、「特定の宗教文化に従って聖書的手続きを踏んだ者」という古い規格か
らは解放されました。その人が喜んでパンと杯を取るのであれば、彼は「信
仰者」としての告白をしているのです。
3.弟子たちが浴びる憎悪は実は神を呪う憎悪。 :23-25.
初めのカインの憤りの話がこの辺で繋がります。「大いに憤って顔をふせ
た」カインの憎しみは、「主よ、お言葉の通りです」と顔を上げた人に向け
られるのです。第一ヨハネ書の中に見るヨハネのカイン評は、面白いもので
す。……カインは「なぜ兄弟を殺したのか? 自分のしている事が間違ってい
て、兄弟のしている事が正しいという理由からだった」―それが耐えられ
なかったのです。神の判決を「一方的だ、狭い」と断じるカインは、それに
服して喜ぶアベルに、興ざめと憤りを覚えた。それと同じ人間の悲しさを、
イエスは 23 節以下で指摘されました。
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23.わたしを憎む者は、わたしの父をも憎んでいる。 24.だれも行ったこと
のない業を、わたしが彼らの間で―これはイエスの生き方の全部を含めて
言われたものと思います。「私を見た人は父を見たのだ」と断言された生き
方です―わたしが彼らの間で行わなかったなら、彼らに罪はなかったであ
ろう。だが今は、その業を見たうえで、わたしとわたしの父を憎んでいる。25.
しかし、それは、『人々は理由もなく、わたしを憎んだ』と、彼らの律法に
書いてある言葉が実現するためである。
以上イエスは、これから世の憎しみと迫害の的になる十一人の弟子たちに、
その迫害は私に対する迫害、その憎しみは天の父へのいわれなき憎しみだ。
それがあなた達の上に爆発していることを知れ、これは私が起こる前に保証
する。そう言われたのでした。
≪ ま と め ≫
いかがですか……。こういう見方は不必要に悲観的で、自虐的に見えます
か……。でもこれは、弟子たちの中の悲観論者が勇気を失った瞬間に弱気を
もらしたのではなくて、イエスご自身が、そのピークの瞬間に断言され、保
証された言葉なのです。
「キリストの故に嫌われる」という題でした。「世」という慣れ合いの、
無難な常識の国から引き抜かれて、神の義は何か、神は何をお与えになるか、
という全く新しい世界へ選び出されたのがイエスの弟子です。
「私があなたがたを選び出した。もうあなたがたは世に属さない」と言わ
れたイエスは、決して私たちを無理に説得して、「世」から切り離したので
はありません。黙って十字架刑になって殺されて、これは天の父の意志だが、
何か分かるか……と無言の呼びかけを残されました。そして、人が分かって
も分からなくても、死の墓場から出て、現に生きている真実を弟子たちに見
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キリストの故に嫌われる
せて、父の所へ帰られたのです。
主の食卓に集まるのは、イエスの中に自分の罪のきよめと、命の源泉を見
た人だけです。それは、「イエスと一緒に世の憎しみの的になってもいい」
人の集まりです。「イエスは私のために本当に復活した」という人の食卓で
すから、たしかに一部の人だけが立っているのですけれど、本当はあなたも
同じ食卓につけるよう、いつも招かれていることを、座っておられる方も、
考えさせられてこそ、この食卓に意味がある訳です。
「主が来られる時に至るまで、主の死を告げ知らせている」というのはそ
のことを、毎週宣言していることになります。
(1987/06/07)
《研究者のための注》
1.17 節「これらのことを命じるのは、あなた方が互いに愛し合うためである」は前講の
区分の結びとも、本講の区分の切り出しとも受けとれます。新改訳のようにここで段
落を切らないものは別として、日本語訳は大体 17 節のあとで区切っていますが、これ
は UBS と Nestle のテキストによったものです。
2.17 節冒頭「これらのこと」は、16 節までの言葉が全部、「互いを愛し合え」という命
令に集約され、この命令への前置きや説明になっていると解釈しました。
3.カインとアベルの供物につき引用した1ヨハネ 3:12 の形容詞は邪ま、邪悪
というより、神の評価において正しくない意味に使われていると理解しました。
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