FIAL 第 42 回フォーラム 2014 年 3 月 20 日 発表者 高岡淳二 切支丹語学 戦国時代のポルトガル人の日本語勉強 1.切支丹来航まで 種子島への「鉄砲伝来」は 1543 年、ザビエル日本到着は 1549 年と言われています。 この日本と西洋の出会いは、15 世紀・16 世紀の所謂「大航海時代」なしには考えられま せんでしたので、このあたりを簡単におさらいしたいと思います。まず、コロンブスの新 大陸発見ですが、これは有名な 1492 年のことです。コロンブスはジパングそしてインディ アス(アジア)を目指して、大西洋を西に向って横断し、結果としてアメリカ大陸を発見 しましたが、その後もスペイン王室をパトロンとして、マゼランが大西洋から南米南端の 「マゼラン海峡」を発見(1520 年)、太平洋を渡ってフィリピンに到着しました。スペイン は西廻りでした。 一方のポルトガルは、アフリカ大陸西岸を辿り、喜望峰を発見、かのヴァスコ・ダ・ガ マが 1498 年にインドに到着(ポルトガルは東廻り)、その後、ゴアを拠点に、マラッカ海 峡を経て、目的の香料諸島に到達します(今のインドネシアの北東部に位置するスラウェ シ〔セレベス〕島とニューギニア島の間に位置するモルッカ諸島)。主な香料は丁子、ナツ メグ、シナモン。尚、胡椒はインド原産で、インド・スマトラ・ジャワが主産地のようで す。その後、日本到着となります。 日本では、「 鉄 砲 伝 来 → 鉄 砲 製 造 → 織 田 信 長 の 全 国 統 一 」 へと歴史が近代化に大きく 動きました。 2.日葡辞書 実は学生時代(私自身がポルトガル語を勉強していた縁から)、16∼17 世紀に日本に来た ポルトガル人がどのように日本語を勉強したかに興味を抱き(当り前の話ですが、当時の 日本人、それも貧しい農民がポルトガル語を勉強し、ポルトガル語の説教を聴いた訳では あり得ませんので)、このあたりを少し勉強しました。勿論、もう 50 年近くも前のことで すので、記憶は相当アヤフヤであろうかと思いますが。 今でも手許にありますが(但し、岩波が 1960 年に出した写真復刻版です)、1603 年に「日 葡辞書」が刊行されています(広辞苑に多く引用されているのは、お気づきかと思います)。 ポルトガル人宣教師達が作ったものです。日本語(単語)がローマ字で表示され、その意 味がポルトガル語で説明されている、まさに「日葡辞書」です。和英辞書的に言うと「和 葡辞書」でしょうか。単語表示とその意味に続いて、日本語の例文がローマ字で示され、 そのポルトガル語訳が示されます。語彙数は 32,000 語強(因みに、「現代ポルトガル語辞 典」の収録語彙数は 53,000 語、1996 年発刊)、日本で宣教を始めて 50 年そこそこ、物凄 い業績だと思います。更にグーテンベルグが活版印刷を発明したのは 15 世紀の半ば頃。こ の印刷機が日本に持って来られ「加津佐(長崎県)のコレジオ」で印刷されています。尚、 この印刷機は 1590 年に天正少年使節が持ち帰ったものだそうです。当時のカトリックの資 力・財力が伺われると思います。 写真版の関係から不鮮明な箇所が多いのですが、いくつかまずは鮮明に読み取れる部分 を抜き出してみました。ハヒフヘホが「f」で表示されていますが、キリシタンの時代、日 本では、いまのハヒフヘオをファフィフフェフォと発音されていたようです。 Fumi (Carta) (例文)Fumiuo asobasu (Escrever carta pessoa nobre) Fumiuo faiken itasu (Ler carta cõ ‘?????) Fumiuo xitatamuru (Escrever, concertar, dobrar e fechar a carta) Fumiuo todoquru (Entregar a carta para quem vai) Miazuccai (Servir a gente honrada) (例文)Miazzucaino nhobotachi(Mulheres de serviço) Pinpin (Modo de dar couces a besta) (例文)Vmaga pinpinto fanuru (O cavalo da couces) Xibaxi (Por hum pouco de tempo) (例文)Xibaxi uomachi are (Espera hum pouco) Yobai (O chegarse a algua molher que nao he legitima dentro de mesma casa secretamente) Yume (Sonho) (例文)Yumeuo miru (Sonhar) Yumeuo samasu (Espertar do sonho) Yumenimo zonjenu (Não sei nada disso. Nem por sonhos) 3.対訳本 外国語を勉強する際、「対訳」が使われ役に立ちますが、この時代の宣教師の日本語の勉 強の為、「対訳本」が作られています。「平家物語」「伊曾保物語」他が、まず日本語をロー マ字で表記し、そのポルトガル訳が付されています。 (インターネットで調べましたところ、 「対訳」そのものは確認出来ませんでした。「平家物語」については、祇園精舎はともかく として「諸行無常の響きあり、、、」がどうポルトガル語に訳されているのか興味があります が)。 以上 コメント:イエズス会士の日本語研究 コメンテーター 金七紀男 大航海時代の嚆矢となった北アフリカの都市セウタの攻略(1415 年)以降、ポルトガル は交易と布教を車の両輪のごとく一体不可分のもとして海外進出を進めた。16 世紀半ばに 来航した日本でも、マカオを中継地として中国の生糸と日本の銀の取引に従事するととも にイエズス会士フランシスコ・ザビエルによってキリスト教の布教が始まった。16 世紀末 には布教も進み、西日本を中心にキリスト教の改宗者、キリシタンの数は少なくとも 30 万 に達したという。 このように急増した信者に対応する必要からイエズス会士たちは日本語の習得に迫られ、 ポルトガル語で書かれた日本語の文法書『日本大文典』、『日葡辞書』、さらには平家物語な ど日本の古典の対訳書が編纂、出版された。注目すべきは、これらの書籍を出版するため にヨーロッパから印刷機が輸入され、ベルナルドという若者が天正少年使節に同行しヨー ロッパで印刷術を習得したことである。高岡氏も指摘するように、日葡辞書は日本の国語 辞典の語釈の重要な典拠の 1 つとなっている。その語彙数 3 万 2000 余。当時日本には言葉 の用例集はあってもこのように語釈本位の体系的な国語辞典は存在しなかった。さらに、 編纂者たちは当時の日本語を発音どおりにラテン文字で正確に記していたことから、当時 の日本人がどのように発音していたかを知ることができる。たとえば、母は fafa、日和は fiyori、穂は fo、法は fô と記され、当時、ハ行は、ファ、フィ、フ、フェ、フォと発音され ていることがわかる。文法書の編纂は、当時ヨーロッパで盛んに行なわれていた自国語文 法の体系化と軌を一にしており、彼らはラテン語を規範として日本語の体系化を試みた。 また対訳本としては、『平家物語』などの日本の古典のポルトガル語訳とともにイソップ物 語が『伊曾保物語』として和訳紹介されている。 この時代のイエズス会はヨーロッパ世界進出の先兵と酷評されることもあるが、『日本 史』を著わしたルイス・フロイス、ブラジルでトゥピ語の文法書を作ったアンシエッタ、 中国のマテオ・リッチをはじめアジア、ラテンアメリカにおいて彼らが布教先で果たした 知的貢献は高く評価されるべきであろう。
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