日 本 弘 道 会 第 1097 号

100 80 60 50
30
20 10
5
K
―――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――
古典をめぐって ………………………………………………………………………安嶋 彌
平成二十七年八月三十一日発行
【巻頭の言葉】古典を読もう ………………………………………………………土田健次郎
弘
道 特集 緑陰随想 ─ 私の古典
弘
道 第百二十三巻第一〇九七号
平成二十七年七 ∼ 八月号
第百二十三巻第一〇九七号
平成二十七年八月三十一日発行
第 1097 号
私の古典『言志四録』………………………………………………………………松本 慶蔵
自立と助力の狭間で…………………………………………………………………市川 昭午
アランの『幸福論』と哲学教育 ……………………………………………………菱村 幸彦
『徒然草』を楽しむ
……………………………………………………………渡貫 博孝
『平家物語』に関わる小さな経験 …………………………………………………小川 義男
―――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――
【講話会記録】日本人の忘れたもの ………………………………………………加地 伸行
─家族・教育・道徳─
【連載エッセイ】
「日本道徳」再考(十) …………………………………………田中 英道
平成27年
7∼8 月号
日 本 弘 道 会
日 本 弘 道 会 発 行
─本居宣長と西村茂樹─
本誌の購読料は会費︵三、〇〇〇円︶に含まれています。
……………………………………………………………髙坂 節三
金五〇〇円 ︵税込み︶公益社団法人日本弘道会
私の古典『方丈記』
自識録、續自識録、記憶録、建言稿、往事録、偶筆
讀書次第、東奥紀行、随見随筆、校正萬國史略、萬國通史
萬國史略、防海要論、海防新編、農工卅種家中経済、経済要旨、輿地誌略、数限通論
泰西史鑑
格勒革力道徳學、哈芬氏道徳學、
寧氏道徳學、殷斯婁氏道徳學、求諸己齋講義
理學問答、休物爾氏徳學、査爾斯蒲勒氏要須理學、人學譯稿(査爾斯蒲勒氏)
、希穀氏人心學、
可吉士氏心象學摘譯、泊翁日記
論説1 明治7年から明治27年までの間に、明六雑誌、脩身学社叢説、東京学士会院雑誌など
に掲載された西村茂樹の論説を収録
論説2、明治28年以降の論説、教育史、求諸己齋蔵書目録、皇太子御教育建言書
泊翁存稿、樸堂小稿、漢詩・詩文補遺、泊翁書簡、雑文集、年譜、西村茂樹稿本目録、語彙索引
申込先
〒101-0065 東京都千代田区西神田3-1-6
日本弘道会ビル8F
公益社団法人 日 本 弘 道 会
☎03
(3261)
0009 FAX 03(3288)0956 振替0140-1-4317
会祖の真蹟
第11巻
第12巻
心學略傳、心學講義、初學寳訓、女子寳訓、婦女鑑、泊翁巵言
ノコ
第10巻
徳學講義、西國道徳學講義、社會學講義、小學脩身訓、日本教育論、或問十五條
︻大意︼
櫻 の 花 が す べ て 散 り、 地
上は泥まみれの花のみ。芳野の山に
路をたどれば葉櫻の緑が山一杯で、
ために新月
︵ 陰 暦 三、四 月 頃 の 月 ︶も
光をさえぎられて暗い。ホトトギス
が啼いて過ぎた、後醍醐帝の古い御
陵の西を。
︵
﹃図説・日本弘道会一一〇年﹄より。
釈文・解説は古川哲史博士による。
︶
第2巻
著作
第3巻
著作
第4巻
著作
第5巻
著・訳
第6巻
訳述書
第7巻
訳述書
第8巻
訳述書
第9巻
訳述書
日 記
西村泊翁先生傳、日本弘道會創立紀事、日本弘道會大意、日本弘道會婦人部設立の大意、日本
弘道會要領(甲號・乙號)
、弘むべき道、日本道徳論、國民訓、國民訓對外篇、儒門精言、國家
道徳論、續國家道徳論、道徳教育講話、道徳問答、修身講話、泊翁修養訓
初夏吉野ニ遊ビ
第1巻
著作
元陵に謁ス
泊翁茂樹
容
櫻花落尽剩香泥
落チ尽シ香泥ヲ剩ス
櫻ミ花
チ
路芳山ニ入リ魂迷ワントス
路入芳山魂欲迷
緑樹満山新月暗
緑樹山ニ満チ新月モ暗シ
子規 過古陵西
子規 ンデ過グ古陵ノ西
巻
12
初夏遊吉野 泊翁茂樹
謁 元陵
全
内
㈱思文閣出版
定価17,000円
(税別)
第2巻:平成16年12月 既刊
定価17,000円
(税別)
第3巻:平成17年 8月 既刊
定価18,500円
(税別)
第4巻:平成18年 8月 既刊
定価17,000円
(税別)
第5巻:平成19年11月 既刊
定価18,000円
(税別)
第6巻:平成20年11月 既刊
定価18,000円
(税別)
第7巻:平成21年3月 既刊
定価19,000円
(税別)
第8巻:平成24年3月 既刊
定価18,000円
(税別)
第9巻:平成22年10月 既刊
定価18,000円
(税別)
第10巻:平成22年3月 既刊
定価16,500円
(税別)
第11巻:平成23年3月 既刊
定価18,000円
(税別)
第12巻:平成25年3月 既刊
定価17,000円
(税別)
日本弘道会編・発行
第1巻:平成16年5月 既刊
集
西村茂樹全 増補・改訂
西村茂樹の学問的な業績を中
心に、その思想と活動の全貌
を示す画期的全集の刊行完結。
報 道 言 論 の 公 正 を 求 め る こ と、
社会悪に対し世論を高めること
教育の適正を期すること、道義
の一般的関心を促すこと
自然の美と恩沢を尊重すること、
資源の保存と開発を図ること
政 治 の 道 義 性 を 高 揚 す る こ と、
経済の倫理性を強調すること
世界の形勢を察すること、国家
人類の将来をおもんぱかること
乙
号 ︵社会道徳︶
日本弘道会綱領 ︵昭五一・一〇・三〇︶
甲
号 ︵個人道徳︶
皇室を敬愛すること、国法を守
ること
信教は自由なること、迷信は排
除すること
思考を合理的にすること、情操
を美しくすること
学問を勉めること、職務を励む
こと
教養を豊かにすること、見識を
養うこと
財物を貪らないこと、金銭に清
廉なること
家庭の訓育を重んずること、近
親相親しむこと
一善一徳を積むこと、非理非行
に屈しないこと
健康に留意すること、天寿を期
すること
信義を以て交わること、誠を以
て身を貫くこと
会祖西村茂樹先生小伝
礼・福沢諭吉・西周・加藤
日本弘道会の会祖・西村
茂樹先生は、明治六年森有
弘之・中村正直らと相図り
﹁明六社﹂を設立。﹃明六雑
誌﹄を発行して、開化思想、自由思想の啓蒙運
動を精力的に展開いたしました。
身学社﹂を
その後明治九年三月には、国民の道義向上を
目指し、さらに国家社会の基礎を強固にするた
めの道義教化団体として、﹁東京
創設しました。これが現在の﹁日本弘道会﹂の
前 身 で あ り ま す。 明 治 十 九 年 に は﹃ 日 本 道 徳
論﹄を公にして、当時、西欧の模倣と追随に終
始していた社会の風潮と政治の在り方を厳しく
批判し、日本道徳の確立を訴えました。
西村茂樹先生は、明治時代における卓越した
道徳学者であり、同時に偉大な国民道徳の実践
家でもあります。明治二十六年、宮中顧問官を
脚して社会道徳の高揚に一身を捧げ、今日の生
除くすべての官職を辞して野に下り、全国を行
涯教育の先駆的役割を果たされました。
( 1 )
目
次 ︵第百二十三巻第一〇九七号
平成二十七年七・八月号︶
会祖の真蹟
�表紙裏�
日本弘道会綱領・会祖西村茂樹先生小伝⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⑴
田
健次郎⋮⑷
�巻頭の言葉�古典を読もう ⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮土
*
―
*
* ―
特集
緑 陰 随 想│ 私 の 古 典
嶋
彌⋮⑹
古典をめぐって⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮安
私の古典﹃言志四録﹄⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮松
本
慶
蔵⋮⑻
自立と助力の狭間で⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮市
川
昭
午⋮⑽
私の古典﹃方丈記﹄⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮髙
坂
節
三⋮⒀
村
幸
彦⋮⒅
アランの﹃幸福論﹄と哲学教育⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮菱
﹃徒然草﹄を楽しむ ⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮渡
貫
博
孝⋮
﹃平家物語﹄に関わる小さな経験 ⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮小
川
義
男⋮
*
―
*
* ―
�講話会記録�日本人の忘れたもの ⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮加
地
伸
行⋮
│ 家族・教育・道徳│
( 2 )
﹁日本道徳﹂再考㈩⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮田
�連載エ�セイ�
中
英
道⋮
│ 本居宣長と西村茂樹│
�連載�出陣学徒の自省㈦ ⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮安
嶋
彌⋮
昭和史回顧 ―
―
木
勲⋮
�随想�出光佐三氏の講話 ⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮鈴
雅
士⋮
�随想�福澤諭吉に学ぶ
和魂洋才の教え ⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮文珠川
木
勲⋮
�弘道余話�⑿ 私の生活信條 ⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮鈴
英
武⋮
�北 斗 星�米国黒人大量殺人と南軍旗 ⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮澤
慶
蔵⋮
英
武⋮
について ⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮松
本
�熟年からの健康�
�読書案内�岡崎久彦著﹃国際情勢判断・半世紀﹄ ⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮澤
言葉のひろば⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮
会告⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮
事務局往来⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮
編集後記⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮
弘道歌壇⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮松 坂 弘 編⋮
弘道俳壇⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮河 内 朝 生 編⋮ �モニタ�便り� ⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮
弘道シンポジウム二〇一五開催要項⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮
( 3 )
M
E
R
S
復刻
資料
〰〰〰〰〰〰〰〰〰〰〰〰〰〰〰〰〰〰〰〰〰〰〰〰〰
【巻頭の言葉】
古典を読もう
日本弘道会副会長 土
田 健 次 郎
日本学術会議という機関がある。「日本の科学者の内外に対する代表機関」
(日本学術会議法第二条)とされているもので、私は今そこの「哲学委員会」
( 4 )
の「古典精神と未来社会分科会」に所属している。この分科会では、古典の
現代的意義を今の人々にアピールしようとして、いくつかの活動を行ってき
た。
まず一つはシンポジウムや連続講義などを開催し、古典の価値を啓蒙する
ことで、既に一昨年、島根県松江市で「グローバル化社会における伝統知と古典教育の意義を探る」
というシンポジウムを開き、その時は、弘道会島根支会の荒木光哉会長をはじめ支会の方たちも多
数来られた。主催者側は参加者が少ないことを懸念していたが、おかげで予想以上の盛会となった。
もう一つの活動は、世界の古典の魅力を紹介する啓蒙書の出版であり、今メンバーで原稿を持ち
寄り、出版社と相談中である。ちなみに私は『論語』部分を担当している。なお公務員試験に古典
についての出題を加えることを提言しているメンバーもいる。
このような試みをするのは、古典離れが進んでいるからである。古典は、単に古い書物というこ
とではない。長年人々に受容され、指針や感動をあたえてきた書物である。我々は古典を読み込む
〰〰〰〰〰〰〰〰〰〰〰〰〰〰〰〰〰〰〰〰〰〰〰〰〰
〰〰〰〰〰〰〰〰〰〰〰〰〰〰〰〰〰〰〰〰〰〰〰〰〰
ことによって、同じく古典に向かい合った古人と時間を超えて同じ場を共有できる。古人は古典を
どのように受け止めたかに思いを致すことは、その古典を媒介にして古人と語り合うことでもある。
古典には一民族の古典もあれば、複数の民族にわたる古典もある。身近な例をあげれば、前者で
は『古事記』や『日本書紀』
、後者では『論語』がそれである。また異文化の古典を知ることは、
その文化の最も本質的な部分を理解することである。欧米社会を知るには『聖書』は必読書であり、
同じ事はイスラム圏の『コーラン』についても言える。
古典は古い書物である。それゆえ今の人々にとって理解し難いところもあるのは当然である。だ
からといって古典を無意味だと断ずるのはあまりにも早計である。理解し難いところがあることを
( 5 )
しっかりと受け止めることは、逆に我々が現代的思考の枠組みに囚われていることを自覚するよい
機会でもある。昔から人々は古典の中に共感できる部分と違和感を感ずる部分の両方を見出し、そ
れと向かい合うことで、自分を反省するきっかけを得てきたのである。もっとも古典には共感でき
る部分の方が圧倒的に多いからこそ、古典として生き残っているであるが。ともかくもまず古典に
身を投げ込んでみることをお薦めする。意外なほど豊かな世界が開けていくはずである。
私が学生であった時にもてはやされた本の多くが今は書店から消えている。おそらく今書店で山
積みになっている本のうちかなりのものが、同じ運命をたどるであろう。時代は否応なしに変化す
る。その変化を乗り越えてきた古典を、今一度心静かに読み、人々に指針と慰安をあたえてきた永
遠に変わらないものを味わおうではないか。
(早稲田大学教授)
〰〰〰〰〰〰〰〰〰〰〰〰〰〰〰〰〰〰〰〰〰〰〰〰〰
彌
応の判断をもたなければならない。未来についても
嶋
古典とは何かといえば、古くて基本的な書籍という
ことであろう。まず、
「古い」とはどこまでをいうの
一応の見通しを持たない限り、自覚的に生きてゆく
安
であろうか。孔子、プラトンは当然としても、その下
ことはできない(世界観、政治経済社会観)。コン
古典をめぐって
限は明確とはいえない。平成二十七年は、昭和の元号
パスと地図がなければ歩けないと同じである。古典
や年齢の如何にかかわらず、不可欠な本のことである。
が生きてゆくに必須な本のことであろう。専門や職業
よい。次に基本となる書籍とは何かといえば、私ども
著とされたものは、すでに古典に入っているといって
岩波文庫に収められているところを見れば、戦前に名
者もこのことを期待しているに違いない。吉田松陰
あげて、これに対する思い入れを語るであろう。編
「私の古典」について語るとすると、多くの方々は、
一、二又は数冊の、自己の人生の指針となった本を
○
とは、このコンパスと地図に等しいといってよい。
る世界の位置や由来や、またその将来についての一
でいえばすでに九十年である。戦後の著作でさえ一部
もちろん人によってその選択は異る。
の人たるを得ん」といったそうである。万巻までは
は「万巻の書を読むにあらざれば、いずくんぞ千秋
私どもはまず、己を省る。自己とは何かを弁えな
ければならない(人生観)
。かつ今日己の生きてい
( 6 )
ンであった。シナ事変はすでに始まっており、社会
私の読書は、昭和十四年旧制高校に入ってからと
いってよい。
それは人生の大きな画期、イノベーショ
ついて述べることとしたい。
許さないので、以下、私の古典読書の起点、始点に
なる。この一々について感懐を述べることは紙数が
比較文化等などの分野にわたって、まずは百近くに
歴史、政治、経済、社会、心理、言語、国語、芸術、
ゆかなくても、私の場合、古典は宗教、哲学、文学、
今も強く残っている。
リルケについても様々の助言を頂いた。その影響は
ゲーテ、ニーチェはもとより、私が小論をものした
の研究者としても知られていた。後年学習院大学教
第二の起点は、クラス担任の秋山英夫先生の指導、
助言であった。先生はドイツ文学者であり、ニーチェ
あって、これを緒として私の読書は次々と拡がった。
土」であった。これらが、私の読書の第一の起点で
やはり和辻哲郎の「日本精神史研究」の正、続と「風
の「 愛 と 認 識 の 出 発 」
、 西 田 幾 多 郎 の「 善 の 研 究 」
部次郎の「人格主義」
、
「三太郎の日記」、倉田百三
校生の必読書ともいわれたものは明白であって、阿
この頃は、若者の活字ばなれがいわれ、パソコン
やスマホの時代であるらしい。文化的、文明的に大
にしても、若い頃の、右の二つの起点の延長である。
そして私は今、九十二歳。時間の殆どを読書に費
やして退屈を知らない。有難いことである。いずれ
授としてゲーテ協会の会長でもあった。先生からは、
主義的な空気はすでに凋落し、大正教養主義の色が
に高山岩男の「哲学的人間学」
、高坂正顕の「歴史
きな転機といえる。一体この世の中はどう変わって
濃く残り、京都学派が抬頭しつつあった。当時、高
的世界」などが新しく加わっていた。岩波新書が出
ゆくのであろうか、私の不安は大きい。
(本会顧問・修養団特別顧問)
たのもこの頃のことである。私も当然こうしたもの
を読んだが、後々まで大きな影響を受けたものは、
( 7 )
私の古典『言志四録』
松
本
慶
蔵
この言辞は、いつ、どこでも、静かに反省しうる。
私自身電車内にあっても目を閉じてこの言辞を思い
れているが、これは適切であろう。
藤一斎先生の言志録に接し得て、読み始めて肯綮に
浮べて反省するのである。
私自身の至らざることを、若い時から自覚してい
たので、自分の修養書を探していたのであるが、佐
当る言葉に強く打たれた。
ここに掲げる一九項は次の如き言志である。「面
は冷ならんことを欲し、背は暖ならんことを欲し、
西郷南洲の愛誦した事項も掲げられているが、川
上正光先生の解説にも教えられた。
の問題に対応する訳である。胸のドキドキなどが入
論も考えたことがあった。胸は虚心坦懐にして、種々
るのである。背は暖ならんことと欲する抱負は色の
爾来五十年を閲している。
胸 は 虚 な ら ん こ と を 欲 し、 腹 は 実 な ら ん こ と を 欲
ることはないのである。腹の実ならんことは、自分
頭をかっかとしないで冷静に考究し、背は暖なら
んとは、背の方に暖かな抱負を自分で考える場とす
す。
」
の呼吸法を考えて実践していることに一致する。
ついていない心構えもあるし時には医学の研究方法
面は現在で言い換えれば、頭と考えて良いと書か
( 8 )
私自身今迄この言葉で幾度救われたか、思い出す
度に感謝の念に満たされるのである。
私は東北大学第一内科で二十年、ついで、内科教
授として約二十年間を長崎で過ごした。この道に入
る前の東北大学第一内科の助手、講師の頃、所謂薬
害問題に逢着した。それ以後私は不眠症になり、今
日に至っている。しかし解決の方法は一つ、全身全
霊をあげて、その生じた原因の追及に当った。研究
班長は恩師中村隆先生であり、私は研究班の事務局
員でもあった。実験は理学部的手法によるものもあ
り、その頃に佐藤一斎先生の言志録におあいするこ
とが出来たのだった。長崎大学時代も違った臨床的
難問題に逢着した。私は自分自身を責任の中心にお
き、教室員の責任として扱ったことは一度もない。
これも佐藤一斎先生から教えられたことと感謝して
いる次第である。
(本会特別会員・長崎大学名誉教授・結核予防会学術相
談役)
( 9 )
自立と助力の狭間で
教育に絶対はない
市
川
昭
午
つの根拠は教育が一期一会の個別的な関係だという
る人間に当てはまる一つの理想的で完全な教育があ
ない」をモットーとしてきた。というのも、あらゆ
式教授法、△△カリキュラムが効能書き通りに成功
成功するとは限らない。事実、○○主義教育や□□
教育者、被教育者、教育の諸条件、教育を取り巻
く環境などがすべて異なる以上、特定の教育が必ず
ことである。
るといった言説には全く根拠がないと考えるからで
する場合もあるが、さほど効果がなかった、全く役
「すべて教育はかくあらねばならない」
教育界には
と仰る方が少なくないが、私自身は「教育に絶対は
ある。
は珍しくない。
「優しい教育」と「厳しい教育」、「型はめ教育」と「型
破りの教育」、「管理主義の教育」と「放任主義の教
に立たなかった、むしろ有害無益だったという事例
(
『教育政策研究五十年』
日本図書センター、
回想録
二○一○年)にも書いたように、これを最初に口に
的な教育観を一言で」という注文を受けたときであ
育」、「閉ざされた学校」と「開かれた学校」を比べて、
したのは職業生活を終える頃に新聞記者から「基本
るが(
「毎日新聞」一九九九年四月一七日)、その一
( 10 )
一方が他方より決定的に優れていると断定すること
教育に係るこの逆説は若い時に読んだ木村素衛
(モトモリ)著『国家に於ける文化と教育』
(一九四六
年一月一五日、岩波書店)から学んだ。 手元にあ
るのは私が学生だった昭和二十年代に古書店で購入
も難しい。これは当然のことで改めて言うまでもな
もう一つの根拠がある。
したものであるが、敗戦から半年後の出版のため、
教育は被教育者の自立を教育者が助力する営みで
ある。したがって、むろん助力が足りなくてはいけ
数多く見られる。
しろ逆になってしまうといった事例が我々の周辺に
育政策の結果が意図したものと違うだけでなく、む
類型的な人間を量産してしまうなど、教育活動や教
れるということであって、而も明白にこの二つの契
は精神の自覚的自己発展が他人の助力の下に遂げら
「教育とは根本的に矛盾した契機をもった概念であ
いて次のように説明している〈括弧内は引用者〉。
いうことである」と定義し、そのパラドックスにつ
著者は「教育はもとより主体に関し、教育者の助
力に依って主体を形成することが人間を教育すると
いことかもしれないが、
「教育に絶対はない」には
教育のパラドックス
は一読に値する。
ないが、かといって多ければ多いほどよいというも
機即ち自己発展ということと助力の下にということ
用紙、壮丁共に甚だ粗末なものであるが、その内容
それは教育には逆説的なところがあることであ
る。最近でも「ゆとり教育」がゆとりのない人間を
のではなく、却って自立を妨げる場合もある。その
は本来矛盾的なものとして結びつくことができない
生み出してしまうとか、
「個性尊重教育」が極めて
兼合はケース・バイ・ケースで同じではあり得ない
筈であるからである。教育とは実に自己発展が他人
ると云わなければならないであろう。何故ならそれ
のが、教育の難しいところである。
( 11 )
ならないのである。
〈中略〉パイース(子供・被教
自己の発展に媒介するというような事態でなければ
の助力の下に立ち、他人の助力が直ちにみずからを
と言って戦時下の教育界が直面した課題から全く
逃げているわけではない。約四〇〇頁ある本書の半
ばこそそのまま戦後に出版できたのであろう。
にもかかわらず、戦時色は殆ど見られない。であれ
介的な相即的連関が即ち教育されるということの意
に棹さすことなく、個人主義や自由主義を利己主義
分近くを占める「第五章 国民文化と国民教育」は
まさにこの問題に取り組んでいるが、そこでも時流
育者)とパイダゴゥゴス(指導者・教育者)との交
味なのである」
(九一頁、一二三頁)
。
として拒斥する人々が独断的国民主義や帝国主義に
渉に於いて前者に於ける自発性と受動性との相互媒
私の古典
急逝した。
一二日講演先の長野県において享年五十歳の若さで
り、 教 育 学 の 哲 学 的 基 礎 を 築 い た が、 四 六 年 二 月
学校教授を経て一九四〇年京都帝国大学教授とな
は「私の古典」なのである。
ば、極限状況にあっても冷静な立場を崩さなかった
も資する書物と解さるべきであろう。そうだとすれ
であると同時に、後人の規範となり、人々の教養に
「古典」の意味は専門分野によって違うが、ここ
では当該分野において価値の定まった第一級の作品
陥っている矛盾を鋭く指摘している(二二〇頁)。
著者によれば本書は一九四一年春に稿を起こし、
四四年春に原稿が完成したが、翌年春の空襲で組版
(本会特別会員・国立大学財務・経営センター名誉教授、
木村は一八九五年三月一一日石川県に生まれ、京
都帝国大学文学部哲学科選科を卒業、広島高等師範
が灰燼に帰し、組み直して校正刷りが完了したのが
国立教育政策研究所名誉所員)
著者から研究者としての姿勢を学んだ点でも、本書
終戦の日だったという。まさに戦時中の執筆である
( 12 )
髙
坂
節
三
河合神社の禰宜の息子として生を享け、嬉しい時も悲
私の古典 『方丈記』
糺の森と河合神社
超えてわれわれに迫ってきたように思える。
試しは、糺の森を下鴨神社の一の鳥居から河合神社ま
望むことが出来たし、少年時代、ボーイスカウトの肝
に通った頃、小学校の土手を上がれば賀茂川の流れを
わが家の前を高野川が流れ、泉川を渡って下鴨小学校
い起される古典であると言っても差支えないと思う。
れて生活をした私や私の家族にとって、折に触れて思
われる。大学卒業までの間、鴨のお社と糺の森に抱か
川辺の草をなびかせている。そんな時の森の朝の一
斜めに朝の陽が洩れてくる。小川の水が急に増して、
と、しっとりとした白い砂の上に青葉が散っている。
めて歩く時もある。雨あがりの朝早く出かけて見る
歩いてくることもあれば、夜になってから、星を求
ただの一日もない。雨や霧の合間に急いで雫の中を
「この頃の私にとって、糺の森を逍遥しないで過ごす
私の父、髙坂正顕は、公職追放中に記した『森―
解釈学的考察』で「糺の森」について、
こう記している。
しい時も糺の森を散策し思索を続けた鴨長明が時空を
「ゆく河のながれは絶えずして、しかも、もとの水
にあらず」で始まる鴨長明の『方丈記』は、私自身、
で歩くのが常であった。まさに高野川と賀茂川に挟ま
時は、実にすがすがしい。糺の森はこのようにして、
歳をとるにつれて、その理解が深まって行くように思
れた三角州の中で育った私には、八百年以上前にこの
( 13 )
私の日々の生活の一部に織り込まれている」
。
これが〝鎮守の森〟と言うものであろう」と。
うのも、またすばらしい。私は糺の森のなかで、そ
ともあまりない。しかし、無為の安らぎや幸せとい
が多くなった。動き廻って遊ぶとか、心を燃やすこ
の森でした。最近は、孫やその家族を連れての散歩
けば思い出す。もっとも大切な決断もその表明を糺
い雰囲気、深刻な雰囲気と変わるのが、その場に行
の散歩の思い出もむろんある。楽しい雰囲気、淋し
書 く こ と が で き る。
・・・ 友 人、 恋 人、 愛 す る 人 と
国家の運命もすべて糺の森と自分のかかわりとして
ない。だから私は、自分の人生も、社会の歩みも、
ても、糺の森に足を踏み入れなかった日はほとんど
る。その間、通学路、遊び場、散歩道と形は変わっ
の森も近くに住むようになってから五十六年にもな
のは、深い虚無の淵である。時間が単なる延長とし
亡び、新しい秩序の未だ形成されない間に露呈する
中世の思想を研究して優れた業績を残している唐
木順三は、鴨長明の旅について「既にあった様式が
と記されている。
この遷都は暴挙であり、一年を経ずして京へ戻った
か言われているが、実際のところは判らない。ただ、
きたいからだとか、自らの政権を確実にするためと
ためだとか、比叡山の僧侶から離れた所に本拠を置
る。実際には、福原遷都は、中国・朝鮮との貿易の
福原遷都の物語が繋がっているように思えたのであ
は「福原遷都」の物語であった。平家の没落の話と
で始まるこの物語を知ったとき、まず思い出したの
『方丈記』と同じ頃に読んだのは『平家物語』で
あった。「祇園精舎の鐘の声、諸行無常の響きあり」
平家物語と「福原遷都」
の神にどこかで見守ってもらいつつ、半世紀以上も
てではなく、非連続として、飛躍としてその姿をあ
兄、髙坂正堯もまた、亡くなる直前、下鴨神社の
葵祭に配る小冊子に寄稿して、
こう記している。「糺
生きてこれたことへの感謝の気持ちで一杯である。
( 14 )
繋がる哀れな物語であったことは間違いない。『方
一ノ谷の鵯越に始まり、安徳天皇の壇ノ浦の入水に
け目であった」そしてこの裂け目から続いたのは、
深い裂け目をあらわにする。長明がみたのはこの裂
らわすとき、一点から一点への、その間に、深淵を、
ぬもの 賀茂川の水、双六の賽、比叡の山法師」と
いう言葉に親近感を覚えたものである。
権勢を誇ったあの白河法皇に言わしめた「ままなら
眼下を流れる高野川の暴れ川を見て、後になって、
二六、〇六二名と記されている。遠くに望む比叡山、
風で、死者三九八名、行方不明者一四一名、負傷者
のではないかと、当時中学生であった私には恐ろし
戸が無かったこともあり、今にもガラス戸が破れる
台風が襲ってきた。二階の高野川に面した窓には雨
一九五〇年(昭和二五年)九月四日の朝、高野川
に面し、比叡山を望むわが家に初めて経験する強い
ジェーン台風と「治承の辻風」
界を彷彿とさせる描写であると感じられる。
直してみると、現代における政治の世界や官僚の世
だに、身をそこなひ、かたはづける人、数も知らず、
家の損亡せるのみにあらず、是をとりつくろふあひ
るも、小さきも一つとして、やぶれざるはなし。
・・・
を吹きまくるあひだに、こもれる家ども、おほきな
りて、六条わたりまで吹ける事はべりき。三、四町
あろうと思われた。「治承四年(一一八〇)卯月の
かった時代に起こったつむじ風はこれ以上の惨事で
「治承の辻風」に記されている風は台風とは違っ
た も の で は な い か も 知 れ な い が、 木 造 家 屋 し か な
丈記』に見られる「福原遷都」での公家や官吏の右
い体験であった。父をはじめ家族総出で内側から毛
この風、ひつじの方に移りゆきて、おほくの人の嘆
往左往ぶり、時の権力者への諂いぶりは、今、読み
布などで押さえた記憶がある。記録によれば、神戸
きなせり。辻風は常に吹くものなれど、かかる事や
ころ、中御門京極のほどより、おほきなる辻風起こ
市に上陸し若狭湾に抜けた、近畿地方を直撃した台
( 15 )
員 が 暗 が り の 階 段 を 往 復 し て、 近 く の コ ン ビ ニ で
員全員が不安に駆られたことは言うまでもない。職
ビで一部始終を知ることができた。大きな揺れで職
町の二三階にある事務所でこの地震を経験し、テレ
( 成二三 東
) 北地方を襲った大地震
二〇一一年 平
とそれに続く大津波が発生した時、私は東京・大手
東日本大震災と「元暦の大震災」
臨場感あふれる文章にひかれるものである。
ない京都で、なぜかかる辻風が吹いたのか。長明の
などぞ疑ひ侍りし」
。三方を山に囲まれ、災害の少
ば、地割れ裂く。羽なければ、空をも飛ぶべからず。
家の内にをれば、忽ちひしげなんとす。走りいづれ
し。地のうごき、家のやぶるる音、雷にことならず。
或は倒れぬ。塵灰たちのぼりて、さかりなる煙の如
堂 舎 塔 廟、 ひ と つ と し て ま た か ら ず。 或 は く づ れ、
は足のたちどをまどはす。都のほとりには、
在々所々、
り。土裂けて、水わきいで、いはほ割れて、谷にま
れて、河をうづみ、海はかたぶきて、陸地をひたせ
ること侍りき。そのさま、世の常ならず。山はくづ
鴨長明は「元暦の大地震」の惨事をこう書いてい
る「同じころ(一一八五)おびたたしくおほなゐ振
ある。ただ事にあらず。さるべきもののさとしか、
残っている食料を買い出し、ほとんどの職員は事務
竜ならばや、雲にものらむ。おそれの中におそるべ
ろびいる。なぎさ漕ぐ船は波にただよひ、道ゆく馬
所で一夜を過ごした。
へ飛ばされる経験をした。地震に強く、津波対策も
災と国防』『津波と人間』『地震雑感』『日本人の自
「災害は忘れた頃にやって来る」という言葉で有
名な寺田寅彦は、既に「方丈記」を読んでおり、
『天
かりけるは、ただ地震なりけりとこそ覚え侍りしか」
。
行ってきた「地震国」で本当に過去の経験に学んで
然観』などの随筆も書いている。また吉村昭は、東
それ以前の阪神淡路大震災の時は、高松のホテル
で早朝の大きな揺れとテレビまでが室内の端から端
きていたのか。
( 16 )
大震災の後、また鴨長明没後八百年という記念する時
『方丈記』には、既に述べた三つの災厄の他にも「安
元の大火」
「養和の飢饉」などの災厄が記され、東日本
世間的敗北者と人生の無常
だろうか。
災害が起こった後でしか読まれなかったのではない
の恐ろしさを著しているが、かかる意見もまた、大
実を細かく調べ、
『三陸海岸大震災』において、そ
北地方の地震・津波の恐ろしさについて、過去の事
待つことなし」。
しぼみて、露なほ消えず。消えずといへども夕べを
花残れり。残るといへども、朝日に枯れぬ。或は花
しむる。そのあるじとすみかと、無常をあらそふさ
為にか心をなやまし、なにによりてか目をよろこば
「知らず、生まれ死ぬる人、いづかたよりきたして、
いづかたへか去る。また知らず、仮のやどり、誰が
来無一物」「捨てる自分を捨てる」境地であろうか。
いる名文につながっていくように思える。「人間本
ま、いはば朝顔の露にことならず。或は露落ちて、
期にあたって、一般には『方丈記』といえば災害に関
し」と記しているのである。
今、草庵を愛するも、閑寂に著するも、障りなるべ
する貴重な教訓書として理解されるようになっている。 「仏の教え給ふ趣は、事にふれて執心なかれとなり。
私自身は古典として、むしろ「世間的人生の敗北
者」が、人生への深い洞察と出家者の修行生活から
得た人生の智恵に深い共感を覚える。
第一人者、中村昌生の手になる「方丈の庵」が築か
今は、自らが跡を継ぎ、「主」となることを当然
と考えていた河合神社の境内の片隅に、伝統建築の
祖母の家を出て移った鴨川沿いの住まいは、それ
までの屋敷の十分の一の広さとなり、さらに洛北大
れ、長明はここに鎮座している。
(本会理事・公益財団法人日本漢字能力検定協会会長)
原の住まいへ、日野の方丈庵へと移りながら、捨て
るものは捨て、最後は現世の旅立ちの覚悟を記して
( 17 )
アランの『幸福論』と哲学教育
菱
村
幸
代に書かれ、長く読み継がれてきた書物であろう。
オー・ペルシュで生まれた。鴎外(一八六二年生ま
著者アラン(本名エミール・オーギュスト・シャ
ルチエ)は、一八六九年にフランスのモルターニュ・
彦
その意味では、アランの『幸福論』は、古典とはい
れ)、漱石(一八六七年)と同時代の人である。
れ、この書から慰めと励ましを得てきた。
えない。けれど、長く馴染んできた書物として、取
鴎外や漱石も今の若者にとっては古典となった、
という。しかし古典というからには、もっと古い時
り上げたい。
アランは、エコール・ノルマル・シューペリュー
ル(高等師範学校)を卒業して、リセ(高等学校)
の哲学教師の職に就き、定年となる一九三三年まで
アランの『幸福論』に出会ったのは、大学生のと
きだった。街の古本屋で目にし、
「幸福論」という
リエ、ガロア、パストウールなど数多の文人・学者
ルトル、フーコー、デリダ、ロマン・ロラン、フー
幸福に生きる実践的知恵
言葉に少し気恥ずかしさを感じながら買ったことを
を輩出している名門の高等教育機関である。
四〇年勤めた。周知のように、高等師範学校は、サ
覚えている。それが長年の愛読書となった。折に触
( 18 )
問題を取り上げ、人間に対する深い洞察を基に幸福
念的・抽象的な哲学論ではない。人間社会の現実的
る。哲学者の視点から叙述した幸福論であるが、観
『幸福論』 原
( 題は「幸福についてのプロポ」 は
)、
新聞に連載した語録(プロポ)をまとめたものであ
がある。優しさ、親切、快活さなどをまねるならば、
〇礼儀の習慣は、私たちの思考に対してなかなか力
いし、未来はまだ存在していないのだから。
も未来にも苦しむ必要はない。過去はもう存在しな
〇わたしたちは現在だけを耐え忍べばよい。過去に
も実際より誇張されているものだ。
に生きる実践的な知恵を示している。
八十一章』という哲学概論書がある。その中で、「哲
〇小雨が降っているとする。あなたは表に出たら、
なからぬ手当となる。
それは不機嫌や、さらには胃病に対してさえもすく
学の全力は、死に対し、病に対し、夢に対し、欺瞞
傘をひろげる。それでじゅうぶんだ。「またいやな
ア ラ ン の 著 作 の 一 つ に『 精 神 と 情 熱 と に 関 す る
に対し、確固とした判断を持つというところに存す
雨のしずくも、雲も、風もどうなるものではない。
哲学教育を重視するフランス
いということだろう。 中
( 略 自
) 分について愚痴を
こぼすことは他人を憂鬱にするだけだ。
〇 幸
( 福となる方法は 現
) 在のものにせよ過去のも
のにせよ、自分の不幸について決して他人に話さな
雨だ」などといったところで、なんの役に立とう。
る」
(小林秀雄訳・創元ライブラリ と
) 述べている。
『幸福論』は、こうした哲学観に基づいて、人間い
以
( 下、白井健三郎訳『幸
かに生くべきかを説いているのだ。
例えば、こんなふうに
福論』集英社文庫による 。
)
〇わたしたちは痛みで苦しむ以上に痛みをおそれる
のである。 中
( 略 恐
) 怖をつくりあげるのは、想像
力の働きなのだ。 中
( 略 人
) が想像する不幸はいつ
( 19 )
鍛えるか」「我々は幸せになるために生きているの
のバカロレア試験では、「芸術作品は我々の知覚を
目についた具体物を例にとって、自分の経験に根ざ
か 」「 な ぜ 自 分 自 身 の こ と を 知 ろ う と 努 め る の か 」
アランのリセにおける授業は、黒板とか鉛筆とか、
した話から始まり、プラトン、デカルト、カント等
など人間の生き方に関する設問となっている。
生涯リセの教師として哲学を教えた。高校生に対す
アランは、ソルボンヌ大学からの招聘を辞退して、
の理論に至るという見事な指導であったという(清
水徹・前掲集英社文庫)
。
フランスのリセでは、今も最終学年で「哲学」を
我が国の高等学校では、「倫理」の科目があるが、
る哲学教育を重要と考えていたのだろう。
系で週四時間というから半端な授業ではない。フラ
週二時間の選択科目に過ぎない。それも、ともする
必修科目として課している。人文系で週八時間、理
ンス教育省が省令で定める「プログラム」(日本の
ついての知識を覚え込む学習となっている。高等学
とセンター試験を意識して、東西の思想家や著作に
容は、⑴主体(意識、知覚、無意識、他者、欲望等)、
校の「倫理」は、アランの幸福論のように、人間の
学習指導要領に当たる)によると、哲学科の指導内
⑵文化(言語、芸術、技術、宗教等)
、⑶理性と現
在り方や生き方について学ぶ学習であってほしい。
(本会理事・国立教育政策研究所名誉所員)
実(理論と実験、証明、解釈、生命体、物質と精神
等)
、⑷政治(社会、国家、権利等)
、⑸道徳(自由、
義務、幸福等)と幅広いテーマを扱っている。
哲 学 科 の 授 業 で は、 論 文 作 成 が 重 視 さ れ て お り、
バカロレア 大
( 学人学資格試験 で
) は、文系・理系
を問わず哲学の論述試験が課せられる。二〇一四年
( 20 )
『徒然草』を楽しむ
年金情報の流出が報道された。情報に向き合う姿
勢について、
『徒然草』第一九四段に面白い記述が
している人
渡
貫
博
孝
5 本当とは思えないがあの人が言うのだからそん
なものだろうとそれ以上は考えない人
6 あれこれ推測し、わかったつもりで利口そうに
頷き、微笑しながら何も分かっていない人
ある。以下、文章を一通り読んで考えてみたい。
人間の類型
7 推測して「あ、そういうことか」と思いながら、
自分の推測が間違っているかも?と危ぶんでいる
9 嘘であることを知っているのに知っていると言
わず、自分が分かっていることも言わず、知らな
8 何も変わったことはなかったなと手を打って笑
う人
人
達人の人を見る眼は少しの誤りもない。ある人が
虚言を作り出して人を欺こうとした時に
1 素直に本当のことと思って言うままに騙される
人
2 嘘を深く信用し、その上に嘘を添加する人
3 言われたことを何とも思わず気にしない人
4 よく分からなくて、信じてよいのかどうか思案
( 21 )
い人と同じように振る舞う人
「その親はどこから生まれたの?」「そのまた親は?」
と聞く。「生き物は親から生まれます」と説明すると、
と際限がないという。
嘘を作り出した意図を始めから見抜いて、作り
出した本人と心を合わせて協力する人
と指摘した。私の態度は類型6であった。恥ずかし
された三人の憲法学者は、この法案が違憲である、
折しも国会では安全保障法案が審議されている。
平成二十七年六月四日の衆院憲法審査会に参考招致
が、その後は空しかった。
プ細胞の報道に対して最初は類型1万歳!であった
年金情報流出の報道に対する私の姿勢は類型8で
あった。
消えた年金が頭にあったからである。スタッ
たか地から湧き出したのだろう」と言って笑った。
な仏に教わったの」と言ったら、父は「空から降っ
によってなったのだ」と答えた。「最初の仏はどん
仏には誰が教えたの?」と。「それも先の仏の教え
の?」とまた聞いた。「仏の教えによってなったの
のだ」と答えた。「人はどのようにして仏になった
とはどんなものなの?」と、父は「仏は人がなった
と兼好は分類している。
いと思いながら、法案提出側の政治家諸公を観察す
問い詰められて父は答えられなくなったのだ、と兼
『 徒 然 草 』 第 二 四 三 段( 最 終 段 ) に も 似 た 話 が あ
る。著者兼好が八歳になったとき父に質問した。
「仏
ると、類型9の方が多いようにお見うけした。或い
好はいろいろな人たちに話しては、面白がっていた。
兼好は約七百年前の人であるが、子供の好奇心に
現代と大きな違いはない。子供の純粋な心が根源的
だよ」と父は答えた。また聞いた。「教えてくれた
の方も?との想いがチラと頭をかすめた。
子供の好奇心今昔
な問いを発するのであろう。
は類型
博物館の学芸員を質問攻めで困らせる子供がいる
10
( 22 )
10
のが人間であるのなら、人間の力で核をコントロー
宇宙はビックバンで生じたと聞く。物質も空間も
時 間 も そ の 時 に 生 じ た と い う。 そ の 前 に 何 が あ っ
人間は知性を磨くことによって、今まで見えてい
なかったものが見えるようになった。
ル出来るはずである。
た の か? 問 う て 見 て も、 時 間 が 存 在 し な か っ た か
今春ある大学院の修了式で、総長式辞の中に「諸
君には人間の知性の限界を押し広げて欲しい」とい
問うことの楽しみ
ら「前」は無かったであろう。宇宙は膨張を続けて
う言葉が贈られていた。
C²
の知恵をこの式は示している。原発も核兵器もこの
式に支えられて人間の知恵が生み出した。開発した
(本会理事・元佐倉市長)
いるそうだ。星(星雲も)達は互いの距離が大きく
E
( 23 )
なる方向に移動し、観測者から遠いものほど離れる
速度が大きいとも聞く。真空中の光の速度は秒速約
三十万㎞で、これが速度の上限という。しかし、膨
張する星達の速度が上限を超えてしまったら?そこ
から出る光は見えなくなるだろう。在るものが見え
ない、色即是空なのかとも思う。
m
=
物質の質量mとエネルギー との間に
の関係があるという( は光の速度)
。わずかな量
E
の物質から膨大なエネルギーが得られるという人間
C
『平家物語』に関わる小さな経験
小
川
義
「平家」は、時折難しい言葉に突き当たるのだが、
とにかく面白い。読み進めているうちに、とうとう、
うと、妙に親近感が涌いてきた。
実は苦労して、冒頭の一句をものしたのだな」と思
句ほどに流麗ではないことに気がついた。「筆者も
分だけで、先の方に進んで行くに従って、冒頭の一
いるうちに、本当に流麗なのは、その書き出しの部
片方は、人をひっつかんで朝まで離さず、片方は、
原典、口語訳とも、ストーリーそのものに違いは
ないのだから、面白さに甲乙ある筈がない。なのに、
つかんで離さない、あの魔力は一体何なのだろう。
に考えた。「平家原典」の、人を、むんずとばかりひっ
少しも面白くない。どうしてなのだろうと、しきり
の続きの部分から読み始めた。分かりやすいのだが、
寝室には「平家」の口語訳もあるし、吉川先生の
「新平家物語」もある。翌日は、「口語訳」の、昨日
男
夜が明けてしまった。私は教師だし、その日は朝ゼ
一時間に満たぬ間に、眠りに誘い込む。
てあんなに面白かったのだろうと考えた。
ミのある日でもあったから、
眠くて仕方がなかった。
これは結局、言語そのものの持つ美しさに起因す
「平家物語」の原文を、一夜、寝室に持ち込んだ。
流麗な、例の書き出しに、うっとりして読み進めて
眠い目を擦りながらも、
「夕べの平家」は、どうし
( 24 )
の典型と言うべきであろう。
ここには明らかに、
「易しいことは良い事だ」と
いう思想が根深く存在している。戦後イデオロギー
て、私は表面上、賛同を装った。
奥行きに底が知れている校長と争うことの愚を思っ
かも知れないではないか」と私は思ったが、教養の
あった。
「何、今日貸してあげても、明日奪い取る
代ちゃんに消しゴムを貸してあげました」と書いて
分かりやすいだろう」
と得意になった。そこには「美
ある女の先生の「所見」を私に見せて、「これなら
「これでは難しい、
分かりにくい」
と評された。彼は、
所見に、
「親切で礼儀正しい」と書いたら、校長に、
「易しいことは良い事だ」という思想が支
戦後、
配的になった。小学校教員だった頃、通知表の行動
く関わっているように思われてならない。
美しさ、韻律の美しさが、文学そのものの魅力に深
るのではないだろうか。
言語そのものの持つ豊かさ、
する力は、衰えてしまったように思われてならない。
ればされるほど、文学の本当の深みや美しさを理解
かえっている。「考える国語」の重要性が強調され
昔の小学校を訪れると、校内の幾つもの方向から
音読、いわゆるコーラスリーディングの声が美しく
低めてしまったように思われてならない。
になった。そのことが、我が国の文学水準を一段と
なり、小、中、高等学校で、音読が軽視されるよう
韻律ではなく内容が問題だ、とする思想が支配的に
韻律の美しさを軽視し、音読を軽んじる傾向が支
配的になった。「思想的豊かさ」が問題なのであって、
思想が、猖獗を極めるに至るのである。
ことは良い事だ。難しいことは悪いことだ」という
人がいる。かくして、日本語の文章は、易しく、易
いる。中には、「校長先生の文章は難しい」と言う
識力より、少し高いあたりで記述するよう心がけて
響いてきた。今の小学校は、いつも不気味に静まり
しくと、手を入れ尽くして行き、世間には「易しい
私は、生徒や保護者に読ませる文章を、生徒の認
( 25 )
艶歌が演歌と呼ばれるようになって久しい。時を
同じうして、美しい歌詞が激減した。古賀政男先生
は、 大 作 曲 家 で あ り な が ら、
「 文 句 が お 姉 さ ん で、
メロディーは妹だ」と、しばしば指摘された。
かくして、歌だか、文字通り「演歌」なのか分か
らぬ「演歌」が、ブラウン管を支配するようになっ
た。
歌手の意識は、
芸人から支配者に変貌してしまっ
たのかも知れない。それに比例して、流行歌そのも
0
道徳の目的 (『泊翁巵言』より)
0
0
0
0
、即ち其主義を以て幸福を得るに在りと
道徳の目的
(ギリシア)
ベンタム
ミ ル
スペンサー
云ふ、此説希臘の時に起り、本棠、彌爾、斯辺撤の諸
大家之に和し、其勢力甚強し、然れども余が考ふる所
にては、此説は事実に於て支障あるのみならず、論理
0
0
0
0
0
0
0
0
0
0
に 於 て も 亦 適 当 を 欠 く 者 の 如 し、 夫 れ 幸 福 を 求 む る
ば善悪邪正上智下愚を合わせたるの名なり、道徳と云
は、人生の目的にして道徳の目的に非ず、人生と云へ
へば最高至善の道を教ふるの名なり、最高至善の道を
教ふる者と、善悪邪正智愚混合せる人類と、其目的同
の情にして即ち知欲の働なり、知欲の働と道徳の目的
のも衰退してしまった。
文学の美しさ、面白さは、その有する思想の豊か
さと共に、言語そのものの持つ韻律の美しさにも担
と同一なりと云ふは殆んど不通の論なり、夫れ人と云
るなり、
0
きは、之をして最高至善の地に進ましむること能はざ
しめんとする者なれば、人類天然の目的と同一なると
論なり、况んや道徳は教に属して、悪を去り善に就か
相混合せる者と其目的を同くすと云ふは、是亦不通の
ラ良心に従ふの教えなり、純全なる良心と、良心物欲
へば良心物欲相混合するの名なり、道徳と云へば、専
0
一なりと云ふこと能はず、蓋し幸福を求むるは、人類
われているのではないだろうか。
俗訳は原典には勝てない。学校は、作品の豊かさ
は、その思想的高さ、豊かさと共に、韻律の美しさ
にも担われていることを再認識すべきだと思うので
ある。
(本会参与・狭山ヶ丘高等学校長)
( 26 )
【講話会記録】
―家族・教育・道徳―
日本人の忘れたもの
(平成
地
伸
行
日総会における講話)
加
年5月
めだ!」ということを言っているわけです。家族な
の広告で中身が分かりました。要するに「家族はだ
ます。私はこの中身は読んでいないのですけど、こ
の名前は『家族という病』というタイトルかと思い
という、作家と称している元アナウンサーです。本
最近、新聞を見ていましたら、本の広告が出てお
ります。それを切り抜いてきたのですが、下重暁子
しょ。そのくだらなさを楽しんどるわけですね(笑)。
楽しみなんですわ。実にくだらんことを言ってるで
連中が来て、あれこれ言っています。あれ聴くのが
いろんなことがありますとコメンテーターと称する
一番楽しみなのは、あれはバラエティショーですか、
でもやっぱり楽しみがありますね。私が今テレビで
不善をなしますので、テレビを見ております。そう
んていうものから離れて、己がしっかりと生きてい
私みたいな素人には、例えばスポーツでもやっぱ
り説明はちゃんとしてほしい。われわれが求めてい
るのは、分かっている人に本当のところを説明して
すると、くだらんですな。そのくだらんテレビの中
けばいいというのがこの本の趣旨のようです。
ほしいのです。それはそうですよ。われわれは素人
皆さん、こんにちは。
30
私は皆さんと同じく高齢者でありますので、もう
暇ですわ。暇になりますと、やっぱり小人閑居して
( 27 )
27
ころに問題があるという、本質といいますか、そこ
ですから、その道のプロの人に、ここはこういうと
くわけです。
いから、走るとか跳ぶとかいうのが得意になってい
い間、農耕民族で生きてきたわけです。しかもわれ
のところを突いてほしい。
例えば去年の今頃でしたか、日本の選手団がワー
ルドカップのサッカーで負けたじゃないですか。な
われは米というすばらしいものを食べていますが、
しかし、特にわれわれ日本人は、なにしろ東は太
平洋、どこへも行きようのないところに住んで、長
ぜ負けたかという話になりました。そうしたらアナ
これは消化に悪いので腸が長くなる。だから胴体が
生活を長くやってきたわけですから、サッカーみた
ウンサーと解説者いわく、
「監督の作戦がまずかっ
人の脚が短いからよ」
(笑)
。それはね、脚の長いや
いなものをやったってしょうがない。われわれは腰
長くならざるをえんのですわ(笑)。短い脚だから、
つと短いやつとがボールの蹴り合いをやったら負け
を落として、重心を低くするスポーツなら負けない。
たからだ」とか、そういうようなことを言っていま
ますよ。だいたいアングロサクソン系の連中という
剣道ですよ。これは腰を低くしますね。
鍬を打つとうまく耕せるというわけです。だからわ
のは、もともとのルーツは全部狩猟民族です。だか
したけど、
それじゃ説明にならんですわ。もし私だっ
ら、日ごろから跳んだりはねたりするというのが彼
だから、サッカーの解説をするなら、脚の短い日
本人がどうやったら勝てるかという話をやるのがわ
れわれは胴長で重心が低くて、脚が短い。そういう
らの生活なんですね。腸が短いし、脚が発達するか
れわれに一番分かりやすいわけでしょう。そういう
たらこう説明します。
「なぜ日本が負けたか。日本
ら胴体が短くなる。重心が上のほうになって脚が長
( 28 )
解説をやれっていうわけですね。
いうのは狩猟民族の思想です。個人の能力というこ
とを重んじるわけです。ですから、例えば弓矢の上
らない。私はそう思うんですね。家族もそうです。
われわれも物事を見るときには、その奥にあるも
のを見ながら考えませんと本当のところに行き当た
ふうに個人の能力というものを重んじる。これが狩
ころは仕留めた者が取ります。当然です。こういう
の先を切ってやるとか、肉を分けてやる。重要なと
手な男がいて鹿を仕留めたら、当然にその鹿の処分
家族は早く別れろ、一人で生きるのがいいのだと、
猟民族の特性です。彼らはそういうものを背景とし
日本人の家族観
そんなことを言っているようでは家族の全体は分か
て、 や が て は 個 人 主 義 と い う よ う な も の に な っ て
権を持ちます。そして一緒に応援してきた連中に脚
りません。では家族とは何か、そして家族をつない
例えばこう言う人がおります。西洋の学問をした
人に多いのですが、個人主義というのは西洋の近代
です。これは狩猟民族とは違うんです。
化圏の人々の持っていた家族観がやっぱりあるわけ
だけではなくて、私をも含めた、東北アジア儒教文
私はこれは昔から言っていることですが、私が言う
て罵倒し尽くしてきたのです。特に明治の近代化の
ところが日本では、農耕民族の中心になっている
家族主義というものを、古い封建的なものだといっ
うふうに考えなければならないと思うんですよ。
れのものは何であるかということでしょう。こうい
民族というところを中心にして生まれてきたわれわ
き方という、長い歴史が生んできたものです。農耕
できたものは何かということになるじゃないですか。 いった。それだけのことです。それは狩猟民族の生
が生んだ思想だと。そんなことはない。個人主義と
( 29 )
けないわけです。
景の違いということを心得た上で家族を見ないとい
と私は思っています。そういう大きな、文化的な背
も何でもない。要するにあれは、狩猟民族の思想だ
この百年です。個人主義というものは近代の思想で
義を中心にすべきだ」とわめき続けてきた。それが
だ。こういうのはやめて、ヨーロッパ近代の個人主
中で、
「家族主義なんて古ぼけた封建的なものなの
ロッパでもありました。ただ、ヨーロッパの歴史は
になっていく。これは当然のことです。これを要す
日本ではその一番大きかったのは、やはり血です。
血統です。これがお互いを結び付け合う大きなもの
なってくるわけですね。
は、 そ の 人 た ち を つ な ぐ も の は 何 か と い う こ と に
いた。まず一つはそういうつながりがあります。で
と、これは家族といったって、同時に労働もやって
ないという時代を長くやってきたのです。そうする
て農業をやるという、そんな時代と違います。人力
きた。自然にそうなります。今みたいに機械を使っ
て親戚一統集まって、農業をやるという形でやって
んてありませんから、人力でやるわけです。そうし
住んでいて、一緒に農業をやったんですよ。機械な
戚一統が近くに住んでいた。中心となる家の周りに
いくという特殊な歴史を作っていくわけです。
的な神というようなものの存在をみんなが信仰して
ているものですから、その家族主義を超えた、絶対
う、ある意味では特殊な宗教がヨーロッパを支配し
うものも出てきます。そうすると、キリスト教とい
な力を持ってきた。一方、中近東でイスラム教とい
非常に複雑で、途中でキリスト教というものが絶大
る に、 共 同 体 と い う も の な の で す が、 そ れ は ヨ ー
では、農耕民族をつないでいるものは何かという
ことです。現代と違いまして昔は、農家といえば親
で多数の人間が集まって耕さなければ農作物はとれ
( 30 )
多神教で、農耕民族で、血のつながりだということ
になってきたら、やはり人間、集団を作った場合に中
いっぱいあるでしょう(笑)
。
るたびにお守りをいただく。だから、家にお守りが
専門の神を探してお参りに行く。そしてお参りをす
を祈っても効きません(笑)
。だから、それぞれの
から、えびすさんのところに行って息子の大学合格
を祀るということをやっていますから、正月から始
ずっと守って生活してきた。今では日本仏教は先祖
がわれわれの中心的な信ずべきものであり、しかも
ですけれども、そのグループの祖先です。この祖先
といったら、血のつながりのグループごとに違うの
るお方がいらっしゃるわけです。それは何であるか
われわれの場合はどうなるか。われわれだって中
心となるものがあり、かつそれが抑止力となってい
日本民族の中心は祖先
絶対的な一神教の神という、抑止力があったのです。
いことをしてはいかんと。そういうことの背後には、
が生活するという形です。そしてその神が抑止力に
われわれにはそんなものはありません。キリスト
教のような、よく言う一神教的な考え方は全くない。 もなっているわけですね。個人の行動においても悪
本日いらっしゃる皆さんもほとんどが多神教。し
かも八百万もあるのです。なんで八百万もあるのか
というと、要するに専門があるということです。学
業ならば天神さん。天神さんは学業の神様。えびす
心となるものが要るわけです。キリスト教の社会で
まっていろいろな節目節目にお仏壇の前に座り、一
さんと言えば商売の神様。専門があるわけです。だ
は、エホバという、唯一最高絶対の神がその中心に
家が属している宗派のお経を唱え申し上げて、一家
その祖先が抑止力となっている。これをわれわれは
いらっしゃって、その周りにそれを信じる人間ども
( 31 )
もはなかなか聞きません。しかし、私が仏壇の前に
ないですからね。だから、親は叱り飛ばしても子ど
うことを聞かんでしょう。だいたい今は親に権威が
をしているときに親は叱り飛ばしますけど、親の言
止力として効き目あるんですわ。子どもが悪いこと
私は真言宗ですが、もちろんお仏壇の前でそうい
う節目節目にはお参りをします。ご先祖。これ、抑
いですか。
はそこでお互いのつながりを確認しているんじゃな
れこういう宗教の信者である」と断固言い切れる方
本日いらっしゃった皆さんの中でも、「私はこれこ
を持った人はあまりいないですね。そうでしょう。
すよ。しかし、日本人には、そういう宗教的な信念
なくてもいいと言う人がいる。それはそれでいいで
れます。私はある宗教を信じているから別に祖先は
われわれが忘れたものの一つが祖先なのです。別
に祖先がなくたっていいじゃないのと言う人はおら
いい。そういうお仏壇を作ればいいのです。
もある。形式的にはいろいろあるでしょう。何でも
は、おそらく少ないのではないか。
座り、家の者一同が座って、一緒に読経をしてから
おもむろに、
「私が言うのではない。ご先祖様の言
徒でなくたっていい。祖先を祀るというのが一番大
仏壇は。段ボールで作ったらいい(笑)。別に仏教
す。今からざっと八百年、九百年前、あるいは千年、
て、今ここにたまたまわれわれは同席しているので
で し ょ う ね。 い ら っ し ゃ っ た か ら こ そ ず っ と 続 い
葉である」と言うと子どもは聞きますね(笑)。 われわれに一番ぴったりするのがわれわれの祖先
だから、家ごとに仏壇を持てと私は言っています。 なのです。もちろん祖先といったって、どんな人か
仏壇がない家もあります。作ったらよろしいがな、 分 か ら な い の で す け ど、 ま あ、 い ら っ し ゃ っ た の
事なことだから。日本仏教形式もあるし神道の形式
( 32 )
るのは皆さん、ショックを受ける話です。
でしょう。何言っているんですか。今からお話しす
「そんな宗教的なことを
こういうことを言うと、
学校で教えたらいかんのだ」なんていうことを言う
かり教えるべきだと思います。
がら生きているということです。これを学校がしっ
いうほかはない。こういうものにわれわれは依りな
だから祖先以来の、脈々と続く生命の連続性とい
うことを意識すれば、これはもう本当に不可思議と
のなんですね。
まったということじゃないですか。実に不思議なも
時間を経てきて、いろいろな関係があってここに集
間違いなくどこかでご一緒だったんですよ。そして
た皆さんのご先祖さんがどこかにいらっしゃった。
千五百年前、
実に不思議なことに、
本日いらっしゃっ
す。これを読んだら恐るべきことが書いてありまし
場合があるわけです。決まらない場合はどうなるか
はだいたい話し合いで決める。ところが決まらない
か、あるいは先祖を祀るのはどうするかとかいうの
う。あるいは、兄弟はみんな遠くへ行っているから
う」という形で相続をすることもありうるでしょ
近所に住んでいる者が「じゃあ私がお世話しましょ
民法では一応規定が書いてあります。それはだい
たい慣行によります。慣行ですから、お墓だったら
これを誰が相続するかということになるわけです。
辺の祭具、それからお墓。これだけが最後に残る。
かりやすい。残るものは、お仏壇並びにお仏壇の周
民法ではこういうことを決めています。まず財産
処分。建物にしても動産にしても、物的なものは分
が国では相続というのが発生します。
といいますと、民法八百九十七条というのがありま
大阪にいる私が引き受けようとか、お仏壇、お墓と
仏壇なら仏壇、そういうものは一応形を持ってい
ますから財産になります。人が亡くなりましたらわ
( 33 )
ことを国家が定める。
「定める」と書いてあるんで
よ。あなたの家の祖先の祀りを誰がすべきかという
定めると書いてある。家庭裁判所って国家権力です
祀・祭具等の相続を受ける者は家庭裁判所がこれを
た。どうしても話し合いで決まらない場合、その祭
えば領事裁判権というものです。もう一つは関税自
しんだのは二つありました。一つは、今風の言葉で言
ご承知のように、明治維新になった。すると一番初
めに困ったのが不平等条約です。あのころ日本が苦
言いたいのです。
ちゃんと教えてくれなきゃ困りますね。それを私は
主権がなかったことです。重要なのはこの二つです。
すよ、民法で。これはすごいことです。
今の民法は、明治三十三年に生まれた民法の内、
親族編と相続編を改定したのですが、その条文は改
中学校や高校の社会科で教えたっていいでしょう。
律ですよ。法律だったら、小学校は無理としても、
るのです。なぜこれを学校で教えないのですか。法
整備を一生懸命やることになるのです。
こう来たわけですよ。それで明治政府は内部の法律
それを作らなければ不平等条約の改正に応じない」。
ロッパの人々と同じような法律がないじゃないか。
この改正のために、いわゆる欧米列強と日本の明
治政府が渡り合った。そうしたら欧米の列強が言っ
教えないのです。教えないどころか、大半の教員は
定していない。おまえさんの家の祖先の祀りを誰が
そんなことを知らない。祖先を祀るというのも法的
刑法はすぐできた。なぜなら、殺人、放火とか、
刑事事件というのは全世界だいたい同じでしょう。
た。「何言っているんだ。おまえのところにはヨー
な保障がちゃんとあるんですよ。信仰とか気持ちと
これは明治の初め、非常に早くできました。問題だっ
するかを国家権力が決めると、明々白々と書いてあ
かいうものとは別にあるわけです。そういうことを
( 34 )
一族はほかの何よりも上だということになっている
ているように一族主義です。一族が団結してやる。
方だったのです。江戸時代は、今私が縷々申し上げ
そのときに当時の日本の法律の専門家たちが英知
を絞って作り出したのが、戸主権というすごい考え
てやっと作ったわけです。
とで、やっと最終案ができた。それまで揉めに揉め
三十三年ですよ。国会が開かれたのもそのずっとあ
れでやっさもっさやって、最終的にできたのは明治
だからヨーロッパはモデルにならないんですよ。そ
本家さんがさまざまな力を持っているのと同じよう
の権利を持つようにしたのです。ちょうど一族のご
掛けて、その所帯の長を「戸主」とし、戸主が一定
んなが納得するでしょう。所帯を一族のように見せ
帯を一族のように見せ掛けたのです。そうするとみ
そこでどうしたか。すごいですね。明治のころに
は天才がおりました。日本の一族を見てみたら、現
一族主義ではヨーロッパ人には通用しないわけです。
題をクリアして民法を作らなければならない場合に、
ヨーロッパにはありません。そうすると、家族の問
たのが民法です。なぜなら家族制度が違うでしょう。 た。これは江戸時代では強烈でした。そんなものは
わけです。
というものを与えた。これはものすごい知恵だった。
この戸主権というものであたかも小さい形の一族
であるかのように見せ掛けて、日本人に納得をさせ
なことの小型版です。そういう家族を作り、戸主権
実には所帯の集団です。この所帯に目を付けて、所
だから、ご承知のように、熊本藩、すなわち細川
藩で起こった事件をもとに、森鴎外が『阿部一族』
といえども、阿部一族の名誉を守るために戦ったわ
たのです。事実上は所帯ですから小家族です。ヨー
という小説を書きました。あれはたとえ相手が藩主
けです。そういう強烈な一族意識というものがあっ
( 35 )
慣行として昔からずっとありました。明治になって
に生まれた女性が家督を継いだ。そういうやり方は
は当たり前だったのです。男女平等です。むしろ先
督を継ぐ場合の女性は「姉家督」と言って、福島で
のほうでは女性のことを「姉」と言うんですが、家
戸主になれたのです。福島県はその典型です。福島
うなことを言う人がいます。違いますよ。女性でも
しかし、誤解がある。女性の研究者の一部には、
戸主権というのは男どものエゴの固まりだというよ
スムーズに行ったんです。
主権があったからこそ、戦後の個人主義へもわりと
を作ったという、すごいことだったのです。あの戸
は、一族主義から個人主義へ行くまでの途中の段階
を作った。それが戸主権と言われるものです。これ
族」といいます。一族と言ってもいい。われわれは
んです。中国は徹底的な血縁共同体です。それを「宗
そうしたら、中国もそうじゃないか、日本もそう
じゃないか、では同じかといったら、ちょっと違う
ます。
は、ぜひ改めてお知りになっていただきたいと思い
に非常に問題を感じているわけです。皆さんもそれ
校はしっかり教えないのですか。私はそこのところ
していただきたい。そういうことなんかも、なぜ学
だから、封建的だとか、そんなものとは違う。非
常に現実的に日本人は考えていたわけです。そうい
を図ったわけです。
漁師の仕事は危険で死ぬことが多い。そこで安定化
戸主
名前を失念しましたが、秋田県の漁師町では、
権ができたときに戸主になったのは全員が女性です。
ロッパの家族にも似ているわけです。見事な妥協案
もそれは生きていたから、戸主に女性がなっていっ
一族といったら何人ぐらいの感じがします? 今は
う歴史があっての戸主ですから、間違えないように
たわけです。
( 36 )
われわれはいろいろな意味で中国人とうまく話が合
ばいいんです。これが徹底しているものですから、
ろうと関係ない。中国人は自分たち一族が生き残れ
ろん国家なんかには何の関心もない。誰が政権を執
の共同体は、はっきり言えば何の関心もない。もち
この血族共同体の中で生きることに人生の全てが
あるわけです。だから、自分の血のつながる者以外
人ですよ。これが一つの集団を成しています。
しょう。中国の宗族はケタが違います。七百人、千
親戚が集まるといっても、せいぜい十人かそこらで
で役所へ行って、ハンコを突いたらしまい。これで
誰も要らない。親も要らない。仲人も要らない。
二人
しょう。二人が合意したらしまいなんです。あとは
で き る か ら や や こ し い( 笑 )。 ま あ 一 応 男 女 に し ま
て成立し」です。もっとも最近は男性同士でも結婚
書かれています。「婚姻は、両性の合意のみに基づい
二十四条は何が書いてあるか。たぶん皆さんご存
じないから申し上げます。二十四条は家族について
二十四条も改正しなければいません。
の改正の問題ではいつも九条、九条と言いますが、
を進めた。日本国憲法第二十四条がそれです。憲法
だんだん親戚付き合いが少なくなってきましたから、 ています。ついには今の日本国憲法が、さらにそれ
わなくなってくるわけです。今、中国共産党はその
婚姻は両性の合意のみに基づいて成立するんです
よ。こういうことをやっていますから、今、血縁共
れていっている。
うに言っているから、最近はまさにそれが実質化さ
宗族を解体させようといろいろな努力をしています。 婚姻は成立するというわけです。憲法はそういうふ
だいぶ解体されてきましたけども、それでもなおか
つまだ生きています。
日本はその点、明治以後に導入してきた個人主義
という形で、だんだんと血縁共同体が解体していっ
( 37 )
実はわれわれの本性には残っているんですね。そこ
止です。相続税なんかやっているのは血縁共同体の
祖先を祀るようなことはしないというのだったら、
日本がなすべきことは何か。まず第一は相続税の廃
同体は急速に形を失おうとしているのです。しかし、
のところが問題で、形は変わっていくのですが、実
重要なことを行っている。
それですよ。私は常々言っ
なって思い出しているわけでしょう。慰霊祭という
祖先を祀り、そして近く亡くなった方々の慰霊を行
だ」と言います。慣習じゃないですよ。われわれは
れがなされていない。大半の人は「そんなもの慣習
が、それは当然、学校もやるべきだと思います。そ
けません。もちろん家でもやらなければいけません
これを何とか元へ戻すためにはやはり、祖先を祀
るという基本的なことを学校教育がやらなければい
私はものすごい問題点を感じているわけです。
これが宙に浮いてしまっているということ。ここに
国の民法が保障しているんです。配偶者は必ず半分
れている。私が亡くなったあとの財産処分権は日本
あとは子どもが均等に分ける。それは法律で保障さ
われわれは違います。仮に私が遺言書を書かなく
ても、私の持っている財産の半分は私の家内が取り、
いう意味の相続です。
ないから血縁者を探していって相続をさせる。そう
遺言状なくして亡くなった人がいた場合、しかたが
は個人がやる。個人がやるのだけれども、たまたま
相続の順番を決める法律はあります。それは何かと
は相続税なんていうものはありません。向こうにも
際は心の中には、強い血縁共同体意識がある。ただ、 強いところだけです。ヨーロッパの個人主義社会に
ているのですが、慰霊というのは、ある意味では全
取れる。あと残りを子どもが均等割りする。そうい
いったら、向こうは個人主義ですから、財産の処分
世界共通です。
( 38 )
徹底して個人主義でやれというふうに私は言ってや
決まっている(笑)
。それはおかしいですよ。ならば
の?」と聞きたい。「それは私、もらうわよ」と言うに
義 と ワ ー ワ ー 言 う。だ か ら こ の 人 に「 相 続、ど う な
相続税と家族主義というのは二人三脚なんです。
だから日本はおかしい。学校では個人主義、個人主
すよ。だから相続税というものがあるわけです。
やってもらうかという、重要な問題があります。そ
ていかなければいけません。どういうことを学校で
今度は、道徳教育の内容についてわれわれが要求し
しいことです。間もなく始まります。そうなったら
で教えることになるでしょう。これは非常にすばら
ります。これからは道徳というものを真っ当に学校
鈴木会長は何十年も前から、国語や算数と同じく
道徳を小学校から教科にせよとおっしゃってこられ
うふうに法律にある。これは家族主義の法律なんで
りたい。そういう問題があるということを申し上げ
れは道徳教育学会と日本弘道会とが一緒にそれを
た。そのご努力が実って、いよいよ道徳が教科にな
たいのです。
やっていただけると思いますが、念のために私は申
しょう。この日本弘道会は本山ですから私が要らん
家族の問題はまだいろいろあるのですが、一応こ
こ で 切 り ま し て、 道 徳 の 問 題 も 大 事 な の で 申 し ま
けない。盗まない。古代のいろいろなところの諸宗
今東西変わらない道徳です。人を殺さない。火をつ
まずは一般論を申しますと、道徳はだいたい大き
く三つに分かれます。一つは絶対的道徳。これは古
し上げておきます。
ことを申し上げる必要もないのですが、若干だけ申
教でもそれは出ていますし、あらゆる法律でもそれ
道徳教育
し上げたいと思います。
( 39 )
かっていて難しい場合で、判断に苦しむものです。
二つ目に、絶対に対するものとして相対的道徳と
い う の が あ り ま す。 こ れ は 非 常 に 事 情 が こ ん が ら
ばいけません。
のは絶対道徳ですから、きちんと学校で教えなけれ
ない。火をつけたりしない。盗まない。こういうも
えなければならないことです。理由もなく人は殺さ
ものを支える道徳として、古今東西を問わず必ず教
が基本です。この絶対的道徳は、そういう法律的な
るいは能力主義を言う者もいる。「俺はこれだけす
うのもあるじゃないですか。くじ引きで決める。あ
いうことです。そこでまたいろいろある。抽選とい
二人はここから引き下がればいい」という結論の仕
「いや、そうじゃない。一人は生き残れるのだから、
そうすると、「三人やっとこの船にたどり着いた
のだから、ここで一緒に死のう」という結論もある。
なっていくわけです。
じるプロセスと考え方が重要なディスカッションと
ごい能力を持っているから残るべきだ。無能なやつ
方もある。じゃあその二人はどうやって決めるかと
こういうのはアメリカの道徳教育では「モラル・ジ
レンマ」と表現しています。彼らはよくギリシャ神
場合にどうするか。これが問題なのです。そういう
沈んでしまう。では、たまたま三人の人間が乗った
か乗ることができない。それ以上の人間が乗ったら
一隻の船がある。船の力として、この船には一人し
しい道徳教育では必要だと思います。
うような考え方の訓練をする。これはこれからの新
なディスカッションをしていって、どう選ぶかとい
ル・ジレンマがあるわけです。そのときにいろいろ
選ぶかというのも大変難しい問題です。ここにモラ
話などから例を出すのですが、それはこんな話です。 は死んでしまえ」。いろいろあります。今度は誰を
問題を与える。正解はありません。ただ、それを論
( 40 )
何もヨーロッパに限らない。実は日本でも、そう
いうモラル・ジレンマの問題は昔からやっていまし
状を出しているのです。それは心学のメンバーの前
で講義をさせるわけです。今日でもよくやっている
ますと、
「心学」というものを日本に広めた石田梅
るようになった。どういう人がやっていたかといい
時代がもっと下がりまして、江戸時代にはこのモ
ラル・ジレンマが、庶民を中心とする学校でも教え
です。
忠か孝かという形になる。これがモラル・ジレンマ
れば忠ならず。こうやって重盛は悩むわけですね。
ならんと欲すれば、親に対して孝ならず。孝を進め
かない。そのときに重盛は言った。皇室に対して忠
に、長男の重盛が父の清盛を諫める。でも清盛は聞
平清盛が後白河法皇とややこしい関係になったとき
た先の親が刀で斬り結んでいる。さて、この養子に
抜いて斬り始めたんですよ。生みの親と、養子に入っ
た。侍のことですから喧嘩でもひどいもので、刀を
いたのですが、何かの拍子でこの二人の親が喧嘩し
暮らしていた。そこからです。ある日、自分を生ん
家の養子に行ったとします。そしてみんなと幸せに
こんな問題があります。皆さんも考えてください。
侍の家の話です。甲家に生まれた男の子が、侍の乙
残っていて非常におもしろいです。
ういうテーマでするかというのは、たくさん問題が
心学を教えてよいという免許状を与える。それをど
た。古くは、例えば『平家物語』の中に出てきます。 模擬授業ですね。そして評価してよろしいとなれば、
岩という人がいます。この人は心学を広めるために
行った息子はどうすればよいかということです。
一つは、自分の養い親の助太刀をやる。というこ
でくれた甲家の父親が乙家へ遊びに来た。話をして
教員養成をやりました。日本で教員養成をした。す
ごいですね。そして教員免許試験をやって教員免許
( 41 )
対して生みの親の敵討ちをしなければならない。こ
親を殺したら、その子どもは、今度は逆に養い親に
しの重罪になります。あるいは養父と一緒に生みの
して二人で一緒に自分の親を殺したとしたら、親殺
これは大変ですよ。のみならず、仮に養父を手助け
の親のほうに行ったら、養父を裏切ることになる。
とは生みの親を殺すことになる。それをやめて生み
切ったら血も出ません。そうやったら両方の親は喧
じゃないですか。「腹を切りますぞ」と言って薄く
切 る 覚 悟 だ け や れ と い う わ け で す ね。 こ れ は 見 事
いてある。「薄う切れ」(笑)。皮一枚だけ。だから
「腹を切っ
そこまでは建前の話。その次がすごい。
て覚悟のほどを示せ」とあり、腹の切り方をこう書
マであり、解決方法を教えたりしたのです。
ぱいあります。だから、今と同じで変わらない。ど
の話はややこしいわけです。どうします? 皆さん。 嘩をやめるだろう。こういう話なんですね。江戸時
この子どもはどういう態度をとったらいいですか。 代にはそういうモラル・ジレンマを扱った話がいっ
難しいでしょう。生みの親のほうに付くのか。養い
書いています。これは一つの答えですね。腹を切れ
的な関係におけるモラルです。
一番目の絶対的道徳、二番目の相対的道徳、モラ
ル・ジレンマはその人間と他人との関係です。社会
しっかり教えたらいいと思います。
で し ょ う ね。 こ う い う の は 相 対 的 道 徳 の と こ ろ で
親のほうに付くのか。これは非常に難しい問題です。 うしたらいいかという問題で悩む場面があったわけ
これがモラル・ジレンマなのです。いろいろなこ
とを考えさせる。そうすると、梅岩ではなくて、手
ば両方の親に対して申し開きができるということで
三番目のモラルは自分の修養です。これは重要な
島堵庵だったかな、
「そのとき、子は腹を切れ」と
す。すごいでしょう。こういうのがモラル・ジレン
( 42 )
請いながら生き方を訓練する人もいる。また、自分
ような生き方の人もいれば、あるいは、誰かに教えを
生懸命読んで、そういう中から何かを得ようとする
やり方があると思います。自分がある特定の本を一
黙ってやっているわけです。人によっていろいろな
も重要な道徳の部門です。だから、この修養をみな
ます。これは他人とは関係ない。己を鍛える。これ
ことですね。個人が修養をするというモラルがあり
ない。
すね。よほどしっかり教えてもらわなければ分から
ですが、その「道徳」というものはやはり抽象的で
同体を結び付けているものは何かというと道徳なの
底的な共同体、日本は緩やかな共同体です。その共
同体」の意味合いは少し違っていまして、中国は徹
それは何かといいましたら、先ほどから申してい
る共同体です。中国も共同体、日本も共同体。その「共
ります。
のがあります。こういうものもこれからの道徳教育
礼というものを中心に据えたわけです。礼というの
そこで、そういうもの全部をどういうふうに表現
していたかというと、モラルの根源的なものとして、
道徳と礼
の心だけではなくて、例えば剣道なら剣道の中に自
分が入っていきながら何かを得ていこうとしたりす
る。いろいろなやり方があります。これは個人に関
できちんと教えて、そういう訓練をさせるべきだと
は単なる言葉や観念的なものではなく姿形で表しま
わるものでありますけれども、修養という重要なも
思います。
のを明らかにしていこうとしてきた。これを中国は
す。動作や儀式で表す。こういう形で道徳というも
そういうような道徳は精神的なものであり一般論
的なものですが、アジアにはアジア独特のものがあ
( 43 )
なっていきます。しかし、ずっと沈めたら倒れてし
だん深くなればなるほど相手に対する敬意が大きく
でもいろいろな表現でやっている。同じ礼でもだん
これは、実務的動作をもとにしてやっています。
例えば礼をする。頭を下げますね。頭を下げる場合
れども、礼という点では共通しているわけです。
形式に流れやすくなる。そこがだいぶ違うのですけ
似てやるのですが、どちらかというと日本の場合は
徹底的にやってきました。日本ももちろんそれを真
の場合、やはり敬意を払う姿を表します。どこで表
カと歩きますか。そんなことしませんよ。目上の人
だって、自分より目上の人の前を通るときにズカズ
だから、礼というのは非常に実際的、実務的なも
のなんですよ。歩く場合もそうです。例えば皆さん
すぐ分かるじゃないですか。
押さえるのはブレーキですよというふうに教えたら
しゃいませ」と言って何で腹を押さえるのか。腹を
とやっているでしょう。あれは正しいの。「いらっ
ブレーキを掛けないといけない。そこで、深い礼を
歩き方をするわけです。
じゃないですか。だから、足の幅を空けないような
まうでしょう。そんな不作法なことはできないから、 すか。それは当然、足です。ズカズカ行ったら失礼
するに従って手を前にもっていくわけです。これが
ブレーキになるから、前につんのめらないで行える。
神社へ行ったら、神主さんは階段を上がるときに
しゅう
必ず足を揃えて上がります。聚(集)足といって足
を集めるんですね。そうするのは敬意を表している
これを拱手といって、ブレーキを掛けて直伸の体を
倒すわけです。
当は足と足との間を空けずにすり足で行く。それが
からなのです。これは実務的な意味なんですよ。本
会社の人事係が新入社員の女の子にこれを教える
わけです。腹に両手をあてて、
「いらっしゃいませ」
( 44 )
れますからズカズカと歩いてよろしいけれども、意
の時代ですから、足を揃えて歩いていたらばかにさ
礼式ももういっぺん見直していいのではないか。今
教育をするのだったら、そういうわが国の伝統的な
が失われていっているというわけです。だから道徳
作で教えていくようなことをやってきた。今、それ
に道徳というものを観念的に教えないで、実際の動
かどうかということの表現になっていく。このよう
こういうようなものがマナーです。そのマナーは
相手と自分との関係を表します。敬意を表している
くということにならざるをえない。
てしょうがないから、今言ったように足を揃えて歩
です。これがわが国の教育を混乱させている。
等なものであるという、誤った認識になっているの
まって、教育は誰でもがみな受けることができる平
ころが、最近は「能力に応じて」をみんな忘れてし
応じて教育を受けると書いてある。さすがにね。と
ているのです。あのわが国の憲法でも、その能力に
の平等は認めます。ところが、その次から狂ってき
いったら、人間みな平等である。それはいい。権利
加わってくるわけです。今の人間観は何であるかと
観の問題です。人間観がまずあって、そこへ教育が
やってきましたが、これは大失敗だと思っています。
教育であと一つだけお話しします。戦後、わが国
は六三三制というような学校教育に変えて今まで
本当の敬意を表す歩き方なのですが、時間が掛かっ
味合いはこういうことだというのは教えていいので
集団の一、二割はちゃんとできる。あとはアホやと
これが私の本当の気持ちです。教育というのは人間
はないかと思います。
もっとはっきり言えば、私が関わっている儒教な
ら儒教の人間観では、分かりやすい言葉でいうと、
「能力に応じて」教育
( 45 )
す。ところが驚くべきことに、ある統計によると、
て小学校の算数を完全に理解したことになるわけで
できることです。この割合計算ができることをもっ
条件は何であるかといったら、算数では割合計算が
教えようというわけです。今、小学校六年生卒業の
ただし、教える場合に難しいことを教える必要は
ないのです。本当に重要な最小限のことをきっちり
からこそ八割を教えなければいけない。
放っておけというようなものです。東洋は違う。だ
ロッパは違います。ヨーロッパは八割はアホだから
教えなければいけない。そういう人間観です。ヨー
です。自分でやりますから。残りの八割はしっかり
うじゃない。この一、二割は放っておいても大丈夫
いことを言うな」と言われるかもしれないけど、そ
いうわけですよ。これが人間観なんですよ。「ひど
いったら割合計算だけです。あとは何もない。
すって。大半の人間は、社会に出てから使う数学と
だから、割合まではちゃんと教えなければいけま
せん。これをしっかり教えたら一生、生きていけま
りしている。今、無理なことをやっているんですよ。
をしたり、ウロウロ歩いたり、携帯電話をいじった
するという道徳があったけれど、今はそんなものど
いているんですよ。これは耐えがたいわ。昔は辛抱
そうすると、中学校三年、高等学校三年の六年間、
一週間の七、八割は訳の分からない話をジーッと聴
ん。分からないですよ、そんなもの。
ないのが出てくるわけです。高等学校へ行ってごら
てくる。そうすると割合計算ができた子でも分から
んですか。分かりませんよ。ますます分からなくなっ
こかへ消し飛んでしまった。辛抱しない。だから話
小学校の六年生で割合計算を理解できない子が三割
だから、しっかりと割合計算さえ教えたら、中高
の数学は要らない。ちゃんとやるクラスだけは残し
近くいる。この子たちは、中学校に行ってどうする
( 46 )
ティアに行ったらいいんですよ。
時 間 は 何 を す る か。 私 が 思 う に 福 祉 方 面 の ボ ラ ン
て、あとはなしにしたらいいの。そして余っている
話もしてもらえる。頭のしっかりした連中は勉強を
ちは老後においてそのポイントを使えば、介護の世
命ポイントを稼いだらいいの。そうしたらその子た
そういうポイント制にしたら、お金は一円も掛かり
時間働いたら六ポイント渡したらいい。日本全国で
自分が介護を受けるときに、来ていただいた方が六
ト、四万ポイント持つことになります。そうしたら
れを四十年やったら、引退したころには三万ポイン
きる。そうやってポイントをずっと持っていく。そ
もできますよ。介護福祉士さんの下請けの仕事がで
につき一ポイント与える。中学生ならどんな仕事で
す。そういうボランティアに行った子には、一時間
い。分からん子は別の生き方をする。そしてその子
はないの。分かる子は上級学校へ行かしたらよろし
ある意味では、その能力に応じて教育を受けると
いうのは本当です。これは決して差別しているので
ぱい起こっているでしょう。
く。こうなるわけです。だからややこしい問題がいっ
遊び相手も学校じゃおもしろくないから街へ出て行
らん時間を過ごしている。そして遊び歩いている。
しょう。無理ですよ、これは。大半の者は訳の分か
わけです。ところが、みんながみんな中高へ行くで
ただし、ボランティアもただ単に行くのではなく、 し、働いて一生懸命税金を納める。そうやってみん
ポイント制にしろと私はずっと言い続けているんで
なで回し合いをするというようなことをやればいい
ません。管理は厚生労働省がやるだけであって、お
教育だと思います。かつて江戸時代にはそういう個
互いにポイントを渡すことでいけるじゃないですか。 たちに向くような仕事を与えていく。これが本当の
特に勉強の分からない子たちはそうやって一生懸
( 47 )
別的な教育を寺子屋という形でやったわけです。そ
ういう徹底をしてほしいというところから始まって
加地 伸行先生のプロフィール
昭和十一年 大阪市に生まれる
昭和三十五年 京都大学文学部卒業
教育の問題を論じたいと思うのですが、時間をオー
バーしました。残念ですけども、きょうはこれで終
文学博士
中 国 哲 学 史・ 儒 教 古 典 学 専 攻、
わります。
(拍手)
高野山大学、名古屋大学、大阪
大学、同志社大学に勤務
平成十年
大阪大学名誉教授
平成二十年 立命館大学教授
( 川 静 記 念 東 洋 文 字 文 化 研
白
究所長 )
平成二十五年 立命館大学フェロー
平成十三年 本会特別会員
主な著書
(
)
・加地 伸行著作集全三巻 『(孝研究』
『中国論理学史
研究』
『日本思想史研究』 ・
『
・
『沈黙の
) 儒教とは何か』
宗教―儒教』
・
『論語全訳注』等多数
( 48 )
㈩
「日本道徳」再考
―本居宣長と西村茂樹―
英
道
であり、中国は「心わろき国」であるから、「理りめき
中
前号で、新渡戸稲造が、仁、義、礼、智など、儒
教の言葉を上げながら、日本人の「武士道」を論じ
たる」教えが必要になった、と述べていたのである。
田
ていたことに、私は異議を唱えたが、実をいえば、
これは新渡戸稲造だけでなく、今日の孔子至上主義
そのような儒教用語に対する批判はすでに、江戸時
の中国に対して、日本人が抗弁すべき言葉として有
ことわ
効であろう。儒教の「理り」によって人に説教を垂
ことわ
真淵は説いていた。日本はもともと「人の直き国」
代の国学者たちによって語られていることであっ
た。例えば賀茂真淵は『国意考』で、すべて人間た
れるより、その行為そのものによって示すべきだ、
人間の真実を表現したものではない。さかしらな議
するので、初心者には理解しやすいが、実際には、
なのだ、と説いていたのである。儒教は理屈で説明
れをことさら「仁義礼智」などと名付けるのは愚か
「さとり」などの感覚を持っているものであり、そ
私は日本の道徳が、神道=自然道とのべた。その自
知によってはかり知ることが出来ない、と考える。
であるとし、「奇しく妙なるもの」であるから、人
真淵の考えを、さらに発展させたのが、本居宣長
である。宣長は、森羅万象すべては「神の御所為」
とするのが、真淵のみならず、日本人の立場なのだ。
ことわ
るものは、
もともと「いつくしみ」
「いかり」「理り」
論などせず、「天地の心のまゝ」
であることが尊いと、
( 49 )
〈連載エッセイ〉
自然信仰を作り上げたことである。
本居宣長まで、日本の神道が、そこに思い至って、
述べた。それを、すでに『古事記』も、そしてこの
いっていること、そのものが神道の元なのだ、とも
たのである。サムシング・グレートだと、科学者が
に人知にはかりしれぬ性格を、宗教性、と言ってい
いことを、アインシュタインの言葉を引いて、まさ
然を現在の科学が、まだまだ解明の域にいっていな
続けて宣長は言う。「神道に随うとは、天下を治
め賜ふ御しわざは、ただ神代より有りこしまにまに
いた。
りに信ずるべきだ、ということなのだ、とも言って
れは『古事記』をはじめとする古典の記述を字義通
どりつくことは出来る、と考えていたのである。そ
のではなく、その「大和心」で、本当の「道」にた
別し、「物の理」を極めようとする「漢心」による
であると述べ、そこには「万の事の善悪是非」を弁
彼は『玉勝間』で、「道」とは「生まれながらの真心」
うに語っていた。つまりそれが中国の本質だと、見
ぎないと、まるで今日の中国を予知していたかのよ
を奪うか、奪われまいとするかを意図しているに過
るに過ぎない(
「天祖都城弁弁」より)。儒教は他国
事、此理の外はなしと、かたおちに思ひ」込んでい
然」のことであり、自ら然りの世界なのである。
明らかにしている。本居の「神」とはあくまで「自
しかないという、恒久の自然に対する帰依の精神を
いので、人間はただ黙って自分たちの運命に耐える
頂が語られるが、「神の御所為」の意図は測りがた
きをいふ」(「直毘霊」)。この発言にこそ、本居の骨
から ごころ
「漢人」は、人間が窺い知ることが出来ない現象
うつつ
を「かしこげ」に説明するが、それは「今の現に見
物し賜ひて、いささかもさかしらを加へ給ふことな
込んでいたのである。
この見方は、今日でも全くの真理である、と思わ
れるであろう。すべての現象には、それなりの「こ
したが
聞くことの、尋常の理になづみて、古今天地の間の
「漢心」の儒教と
それは宣長自身の「学問」が、
は全く違う、
「大和心」のそれだと考えていたのだ。
( 50 )
の格率となるのである(同上)
。ここには身分秩序
の秩序は厳守されなければならないし、「身分相応」
(
「秘本玉櫛笥」
)
。すると、当然ながら、社会の上下
を順守することが良き統治の秘訣ということになる
規の有来りたるかた」を考慮し、既成の価値と秩序
であるから、したがって「時世のもやう」や、「先
ここから生まれる道徳とは、人間生活や社会のあ
りさまは、
古き世から「神(=自然)の御心のまま」
感情を表現することに帰着する、
というものである。
し、そのような諦念にもとづいて素直の喜怒哀楽の
究明したりせず、それを運命として受け入れて黙従
真心」とは、出来事の「ことわり」を推論したり、
る(
「臣道」
)
。結局、本居のいう「生まれながらの
ば、まことのよしあしきは知がたきわざ」なのであ
く神の御心にしあれば、人のちひさきさとり心もて
出来事も悪い意図の結果かもしれない。「ことごと
神の善い意図にもとづくものかもしれず、また良い
とわり」があり、人間にとって悪い出来事でさえ、
に服従せよ、と言っているが、その真意を理解して
が、本居の道徳論を否定的に見て、下が上を無条件
ということは、その意味であろう。よく現代の学者
上を敬ひ畏るると、然らざるとにある」(「玉櫛笥」)
姉妹の上下関係とおなじものを考えており、「下の
を述べているわけではない。そこには、親子、兄弟、
を、「近代人」が言うように、支配、被支配の関係
ないといけないことを述べ、決して「上」の「下」
本居は百姓一揆について、次のように言っている。
百姓一揆は、「下」の非ではなく、「上」が悪いのだ
るのである。
ばならない。身分相応の道徳が要求されることにな
の武士らしく、下の人々のために恵みを与えなけれ
質素倹約が「下々の武士」には必要だが、大名は上
味も、また、自ずから「能力」の区別も含んでいる。
べきだろう。「身分相応」という言葉には、その意
が含まれていることを念頭においている、と考える
はないが、すでに既成の身分秩序の中に、その序列
という。「上」が「下」を「めぐみいたはる心」が
の根本となる、
「長幼の序」や「年功序列」の言葉
( 51 )
ろう。日本の皇室の存在の大きさを指摘することに
ずく道徳観は、ひとつの前提になっていたからであ
学を知ることとなり、彼にとって、神道やそれに基
する本格的な言及はない。すでに西村は、西洋の哲
や本居を閲読した、と書いているだけで、それに対
としたことでも知られている。国学に関しては平田
を述べたが、西村は儒教を西洋の哲学と折衷しよう
と こ ろ で、 前 回、 新 渡 戸 稲 造 の『 武 士 道 』 の 前
に、西村茂樹の「日本道徳論」が語られていたこと
いないのだ。
うのである。
モ之ヲ取ル」。それが「聖学」となるものだ、とい
フ者ハ宗教ノ語モ之ヲ採リ、儒教モ之ヲ採リ、哲学
事実ニ拠リテ其真偽ヲ判ズ・・凡ソ其言ノ真理ニ適
ヲ求ムルニ在リ、何ヲ以テ真理ノ真ナルコトヲ知ル、
言う。「聖学ノ要ハイカント問ハバ、天地間ノ真理
を論じず、ことさらに他説を排撃する欠点があると
合しようとした。西洋の哲学は「知」を論じて「行」
る「宗教」から離れた「正教」、つまり儒教と哲学
学、中国の儒教の一致に帰するところの「天地の真
この条目そのものも、個人から共同体へと道徳を考
郷里ヲ善クシ 第四 我本国ヲ善クシ 第五 全世
界ノ人類ヲ善クス」(『日本道徳論』)を挙げているが、
をむすびつける概念の他に、「聖学」と名付けて統
よって、その思想は、織り込みずみとなっていたの
この「聖学」によって行うべき条目として、「第一、
我身ヲ善クシ 第二 我ガ家ヲ善クシ 第三 我ガ
理」という概念をもつに至ったとき、
それが「神道」
えている「道」だと述べている。西村自身は、思想
である。それをあえて分析し、西洋や中国のそれに
の「真理」でもあったことを指摘するまでもなかっ
家であるとともに、教育の実践家であったから、そ
対置することをしなかった、と言えよう。西洋の哲
たのである。
家」に実践するかを考えていたのである。当然、思
れをいかに国民の教育という、明治以降の「近代国
この「真理」は、そのまま『日本道徳論』に取り
入れられており、その追求のために、
「詭教」であ
( 52 )
想家だけの存在であった本居宣長のような国学者と
立場を異にしていた。
『国家道徳論』において、
「本邦の国体は他国と同
じ か ら ず 」 と「 総 論 」 の 冒 頭 で の べ、「 皇 統 一 系、
万古弗渝、是他国に勝れたる所にして、亦他国に無
き所なり、故に、皇室は即ち国家、国家は即ち皇室
なり、
・・天祖天孫以来、皇室の鞏固なること既に
幾千年、近年立憲政体の定まるに及び、皇室益々其
鞏固を加ふ・・」と語り、そのことと「聖学」の条
目の五条目と一致して国民の道徳教育をしていくこ
とを述べていた。
「道は固より天地の大道に循ふも
ミ ル ス ベ ン サ ー
道徳の実行 ( 泊翁巵言より)
弥爾士邊徹の学力は吾輩の企て及ぶ能はざる所な
り、然れども道徳を吾身に行ふに至りては、吾豈二
子の下に出んや、若し考究思察の力、二子の地に至
る に 非 ざ れ ば、 真 の 道 徳 者 と な る こ と 能 は ず と 言
はゞ、日本人中には、一人も道徳者となるべき者は
なかるべし、又道徳の原理定まらざれば道徳を行ひ
難しと言はゞ、天下遂に道徳を行ふの期無かるべし、
本邦古代の美術家は、其学問決して欧州今日の美術
を観るに、反て現今の欧人に勝る者あり、道徳の如
家に及ばざるべし、然れども其図画彫刻其他の工事
国家」の中での、皇室中心の道徳をどのように行う
き実行の学は、其学識の力劣りたりとて、其品行の
のにして国を以て隔つべきものに非ず」と、「近代
のかを、考える立場にいたのである。その意味で、
位格は、必ず彼に下るの理なし、况や東方の道徳は
ひがごと
於てをや、
一種特別の性ありて、西洋の道徳に勝るの点多きに
江戸の国学者本居宣長が、儒教を僻事と糾弾したの
に対し、明治の西村茂樹が言葉を重視する儒教や哲
学を援用し、
しかし「心」は同じ、「大和心」であった。
(本会特別会員・東北大学名誉教授)
( 53 )
―昭
和
史
回
出陣学徒の自省 ㈦
六 課 題
顧―
次に戦争に関する重要な言葉の幾つかを掲げてみ
よう。
㈠ 戦争は人の心の中に生れるものであるから、人
の心の中に平和のとりでを築かなければならない
(ユネスコ憲章)
㈡ 兵は国の大事なり。生死の地、
存亡の道は、(明)
察せざる可からざるなり(孫子)
㈢ 人間の本性が変らぬかぎり、このような悲惨は
起りつづけるであろう(トウキュディテス・ペロポ
ネソス戦史)
安 嶋 彌
㈣ 平和を欲するならば、戦争に備えよ(ローマの
格言)
㈤ 人間という、ねじ曲った素材から、完全に正に
通じたものを作り出すことはできない(カント・歴
史哲学論集)
㈥ 天体の運動であればいくらでも計算できるが、
人間の狂気までは計算できない(ニュートン)
㈦ 銘記すべきは、万物の変化の中にあって、人間
性はだいたい不変であるということである(マハン)
㈧ 戦争は、政治におけるとは異る手段をもってす
( 54 )
〔 連 載 〕
末を誤った考えである(クラウゼヴィッツ)
を無視しようとするのは、無益な、それどころか本
る粗悪な要素を嫌悪する余り、戦争そのものの本性
出直しの機でもあったが、しかし今は、兵器の進歩
これに不満を抱く人がいるからである。戦争は、か
戦争の起るのは、平和が現状の肯定、維持となり、
平和は貴い。しかし、その惨禍にもかかわらず、
依然として戦争は起っている。暴力は否定されても
る、政治の継続にほかならない。戦争に含まれてい
㈨ 狂気は個人の場合は稀なことである。しかし、
集団、
党派、
民族の時代にあっては通例である(ニー
によって互いに自滅に近い結果をよぶ。従って、大
つては経済のパニックのように「御破算」として、
チェ・善悪の彼岸)
という手法は今も稀ではない。また右の「無視」と
開、隠蔽するために対外危機を煽り、戦争に訴える
「政治」は、内政のことであろう。内政の閉塞を打
京事件や慰安婦のことをいう。それは恐らく、クラ
あろう。しかるに中国も韓国も今だに歴史認識や南
不正を不問にし、出直すというのが国際法の通念で
平和條約が締結されれば、その内容に不満が残っ
ても、当事国の関係は旧に復し、お互いに過去の正、
国間に戦争はない。
は、目を瞑ることであろう。
怨念として分からないではないが、しかしそれでは、
○
また、二○○一年の九・一一の事件に当って、ア
メリカ人は「ゴッド・ブレス・アメリカ」と歌った
平和條約は何であったのかが分からなくなる。カン
右にクラウゼヴィッツ(一七八〇―一八三一年、
ナポレオン戦争の頃の、プロシヤの戦術家)のいう
が、アルカイダの徒もアッラーの神に祈り、身を捧
トは「平和條約は休戦協定にすぎない」といった(「永
ウゼヴィッツのいう「政治」
(内政)の延長であろう。
げている。正と正との対峙である。
( 55 )
遠平和のために」
)
。
韓国や中国、特に韓国は、日本の朝鮮支配を不正
として認めるよう主張している。韓国がそのように
内部)の、力のバランスがどう変化するかに懸って
いる。南シナ海の島嶼の問題もある。
く、さらに複雑なものになってくる。韓国は、親日
中 国 が 抬 頭 し て く れ ば、 東 ア ジ ア の ゲ オ ポ リ
ティークは、日清戦争以前の状況に復するだけでな
○
国は、いま」。「中国の市民社会」岩波新書。「中華
「較差」とは、次元を異にする性質の問題である(「中
インサイダー取引で利を収めているらしい。それは
穏健な、おとなしい国でもない。また、権力者は「特
中国は決して安定した国ではない。伝統的に専制
国家であり、現在は共産主義を「看板」とする一党
か、親中か。北鮮との関係を考えれば、親中ではあ
万華鏡」岩波現代文庫)。中国人は、古来、国家よ
主張することに私も同情はするが、
かつてイギリス、
り得ないが、しかし反日、親中的ポーズもする。韓
りも、個人、一族を尊重し(ネポティズム)、役得
支配である。国家資本主義ともいえる。その政治が
国は反日の看板を降せないでいる。孟子のいわゆる
の習慣もある。役得と汚職との限界は分明ではない。
アメリカ、フランス、スペイン、ポルトガル等の行っ
敵国外患である(告子下)
。ロシアは、今のところ、
社会構造の問題である(内藤湖南「支那論」)。
共産主義の理念、理想で動いているとは思えない。
北方四島問題以外では動いていない。
もっとも中国に関する日本のマスコミの記事も、
どこまで信用していいか分からない。針小棒大やそ
た戦争についてそれらの国は陳謝していない。
東アジアの将来は予測はつかないが、その安定は、
日、米、中、露、朝鮮、印度、東南アジアの諸国間の、
の逆もあり、理想化したり、貶めたりしているよう
殊利益集団」を形成し、情報を先取りして、一種の
また中国自身の国内情勢(新彊や西蔵、また共産党
( 56 )
天秤にかけていることを日本は夢忘れてはならな
カの変り身は素早い。アメリカが、日本と中国とを
クソン、キッシンジャーの例に見るように、アメリ
の国益を損じてまで日本を選ぶことはあるまい。ニ
は大きい。しかしアメリカは世論の国である。自ら
ではあり得ない。今や日米同盟の中国に対する意義
アメリカは、いつまでその覇権を保ち得るか。私
は日米の安保体制を重視するが、これまた永久不変
いるかという不安もある。
一方、日本の実情もどれだけ中国に正しく伝わって
にも思う。
あるいは両方とも事実なのかも知れない。
㈡ 一 七 世 紀 か ら 一 九 世 紀 に か け て、 世 界 史 は 発 見、
政治」講談社学術文庫)。
必 然 と し て、 行 動 し て き た( 佐 々 木 毅「 宗 教 と 権 力 の
いう。事実、近世国家は、武力の行使や優勝劣敗を当然、
同 一 視 す る、 き わ め て 近 世 的 な 政 治 観 念、 国 家 観 念 と
裸々な権力の行使と理解し、かつ内政と国際関係とを
マ キ ャ ベ リ ズ ム は、 政 治 を 正 義 や 道 徳 か ら 分 離 し、 赤
るといわれる。古く一七世紀のヨーロッパに拡がった
が春秋に義戦なしといったのも、これに近い。
な く、 国 家 存 立 の 理 由、 根 拠 と い う こ と で あ る。 孟 子
従って国家理性は、国家のもつ理性という意味では
国家理性という言葉は、マキャベリズムと関係があ
い。
言 葉 が あ る。 国 是 と も い う。 そ れ は、 一 国 の 政 治 は、
)という
Staatsraison,raisond`Etat
れ ば、 そ れ は や は り ヴ ェ ル サ イ ユ 体 制 に お い て、 現 状
の批判の対象となった。政治哲学や歴史哲学を別とす
に ブ レ ー キ が か か り、 い つ の 頃 か ら か 戦 争 が 正、 不 正
革 命、 戦 争 の 時 代 で あ っ た。 し か し そ の 後、 帝 国 主 義
何 よ り も ま ず、 そ の 国 の 利 益 に よ っ て 規 定 さ れ、 す べ
を即正義として以来のことではないか。そして例外と
○
ての動機は、これらに従属すべきであるとする国家行
し て、 刑 法 の 緊 急 避 難 の ご と く、 自 衛 戦 争 の み が 正 当
㈠ 国 家 理 性( 動の基本原則である(広辞苑)。
( 57 )
容 認、 確 認 さ れ た。 国 際 連 盟 を 主 導 し た ウ ィ ル ソ ン の
義 戦 争 は 否 定 さ れ、 一 方、 世 界 分 割 の 状 況 は そ の ま ま
あ り、 国 際 連 盟 の 発 足 で あ っ た。 こ れ に よ っ て 帝 国 主
ロッパ大戦であった。その帰結がヴェルサイユ体制で
第一次世界大戦は、世界大戦といっても、実質はヨー
と容認されて今日に至った。
のフランスも蒋介石の中国も、連合国の勝利にはほと
仏 は 衰 退 し て、 米 ソ が 抬 頭 し た。 ち な み に、 ド ゴ ー ル
し た が、 前 回 と は 異 り ヴ ェ ル サ イ ユ 体 制 は 崩 壊 し、 英
撃 で あ っ た。 し か し、 日、 独 は 敗 北 し、 連 合 国 が 勝 利
㈢ 第 二 次 世 界 大 戦 は、 ヴ ェ ル サ イ ユ 体 制 に 対 す る 反
正デモクラシー論」参照)。
わゆる大正デモクラシーの時代に当る(三谷太一郎「大
㈣
熱意にもかかわらず、アメリカはこれに加盟しなかっ
戦 後 間 も な く 米 ソ の 対 立、 冷 戦 が 始 ま っ た。 し か し
んど貢献していない。実質は敗戦国であったにもかか
その頃日本も大きな転期を迎えていた。原敬や山県
たが、ヴェルサイユ体制をさらに確実なものとしよう
有朋や森鴎外が他界し、皇太子裕仁親王が攝政となっ
一 九 九 ○ 年 に な る と、 ソ 連 は 崩 壊 し、 中 国 も 共 産 主 義
わらず今日国連の常任理事国であるのは時運にすぎな
た。日本共産党がコミンテルンの支部として非合法に
を 放 棄 す る に 至 る。 ア メ リ カ 覇 権 の 時 代 と な っ た。 近
としたのがその後アメリカが主導したワシントン体制
結 成 さ れ た。 実 質 的 に は 大 正 の 中 頃 に 明 治 が 終 り、 こ
年 は、 ブ ラ ジ ル、 ロ シ ア、 イ ン ド、 中 国 な ど、 い わ ゆ
い。
こから昭和が始まったともいえる。一九二○年頃のこ
る ブ リ ッ ク ス の 抬 頭 が 著 し い。 新 し い 転 機 と い え る。
であった。
とである。もう少し細かくいえばこの移行期、過渡期は、
大 戦 争 は 起 き て い な い も の の、 パ レ ス チ ナ、 シ リ ア、
第二次世界大戦後の世界情勢の変化は急激である。
明 治 四 一 年 の 戊 申 詔 書 の 頃 か ら、 政 党 内 閣 の 成 立、 大
アフガニスタン等においては今も戦火は絶えない。こ
正 十 四 年 の 普 選 の 実 施、 治 安 維 持 法 の 制 定 に 至 る、 い
( 58 )
トナムのような持久力はない。このためには憲法九
遂行の能力に欠ける。抗日戦の中国や反米戦のヴェ
乏しく、小さな精密機械のような日本は、近代戦争
日本も国益とともに平和を追求し、戦争を避けな
ければならない。国土は狭小、人口稠密で、資源に
しかない。
めぐる戦争を避けるとすれば、国家間の協議、協調
最終的に判定する第三者機関は存在しない。これを
土地や海洋や資源は、領土や領海や専管水域や大
陸棚として、囲いこまれていて、その正否、当否を
は戦争から自由になれないのである。
国際間には平和が望ましく、戦争はあってはなら
ない。しかし人間が悪から逃れ得ないように、国家
跡的といわれる。
○
の 間 日 本 は、 未 曽 有 の 平 和 と 発 展 を 享 受 し て き た。 奇
日本はこの狭間に漂っている。
ていない。屡々常任理事国の拒否権が行使される。
大国の支配が主流であって、国連の理想は実現され
世界は、相変わらず力の支配、力の均衡の場であ
る。国際世論や正義がものをいっても、依然として
近衛の論旨と似ているではないか。
繁回顧録、東京大学出版会)。しかし、なんと昔の
の直後、占領下で行われたことに注目したい(南原
めである」と述べた。私は、南原のこの発言が敗戦
『正義に基づく平和』でなければならない、かつて
というものはあり得ない、単なる『平和』ではなく、
南原繁は、昭和二一年の、いわゆる憲法議会にお
いて、第九條に関連して、自衛権とともにある程度
九條は消える。
国際連盟が失敗したのも、現状維持の平和観念のた
の防衛力を肯定し、「現状維持だけの、奴隷の平和
條は残すべきである。しかし、九條を守れば戦争が
従って大局の判断が重要である。目標は、国が生
き残るための協調である。自明の方策があるわけで
防げるというものでもない。
現実に戦争が始まれば、
( 59 )
○
影響力の大きいのは、最富、最強の国だからである。
である。富国強兵を図らない国はない。アメリカの
である。このためには、総合的な国力の維持が必須
はない。外交の背景は、軍事力を含む総合的な国力
本は、一九七五(昭和五○)年、フランスのランヴィ
た。しかし、実体は二流国であった。そして一流国
すなわち、日本は鎖国の夢から覚めて、脱亜入欧
を果たし、五大強国あるいは三大強国の一と称され
という漠たるいい方をしたのもこのためである。
観点からその悪戦苦闘を見るべきである。先の戦争
たるべくあせったのがこの一連の戦争であった。日
冒頭に「先の戦争について」と書いた。先の戦争
と は 一 体 何 を 指 す か。 第 一 は い う ま で も な く「 大
事変を含めて、十五年戦争ともいう。いずれの呼称
しかし、
太平洋戦争(この呼称は GHQ
が提唱した)、
アジア太平洋戦争という呼び名もある。さらに満州
があった。この無理を遂げるために数百万の人命を
で「大店」を張ってきたともいえる。そこには無理
国ともいえない。資源もない小国が、よくもここま
エで発足したG7の原加盟国である。日本の現状は、
も戦争に対する見方の相違に基く。私が「先の戦争」
失い、莫大な国幣を費した。のみならずアジア諸国
は禁止した)である。
GHQ
というのは、漠然と幕末の攘夷以後、昭和二十年の
やその人民に量り知れない損失を与え、反感を植え
東亜戦争」
(この呼称を
敗戦までの約百五○年の戦争を指す。
あった。
平和は貴く、戦争は悲惨である。戦争のないこと
を心から祈るが、しかし、戦争は、やはり起る。現
つけた。明治以来の日本の歩みは運命的、悲劇的で
日本人が卑下するような二等国ではない。しかし大
私 は、
「 大 東 亜 戦 争 」 を 肯 定 す る も の で は な い。
しかし、単に四年間の対米戦ということではなく、
嘉永以降の歴史の流れは、アジアにおける日本の置
かれていた位置環境という大きな視野でまた長期的
( 60 )
譲らない。 争う。特に国家は、威信の象徴として領土は寸土も
常に勝敗を争う。実利だけではなく、名誉、威信を
う人間の「性、さが」は容易に改まらない。人間は
いている。ユネスコ憲章のいう「心」やカントのい
に起っている。正と正が対立し、暴には暴を以て報
り、 後 段 は 五 稜 郭 で 敗 れ な が ら 明 治 政 府 の 顕 官 と
戸城を無血開城に導いた勝安房に対する論難であ
も思われる論説がある。その前段は、戦わずして江
実利、実学を唱えた福沢諭吉に「瘠我慢の説」
(「福
沢撰集」岩波文庫)という、彼としてはやや意外と
次の江戸開城とは次元を異にするのである。
ラリー」の「日本の選択」の「本論」として再版さ
(森嶋のこの論文は九五年に岩波の「同時代ライブ
がいいと書いた。しかし、九一年にソ連は崩壊した
一九八一年に森嶋通夫は、ソ連が攻めてきたら、
玉砕などせず、むしろ整然とその体制下に入った方
する。
ともあれ、国内問題と国際問題は、全く次元を異に
なみに、小泉は、息子の信吉を戦争で失っている。
この福沢に共鳴している(「読書論」岩波新書)。ち
る前段の部分を引用する。面白いことに小泉信三は
なった榎本武揚に対する批判である。次に勝に関す
れた。そして、森嶋は二○○四年に亡くなった。彼
れはアメリカによる占領又は冷戦のもたらした僥倖
本人は先の占領に押されて敗戦を甘く見ている。そ
き表面には、官軍に向て云々の口實ありと雖も、其
交へず、早く自から勝算なきを悟りて謹慎するが如
一方より観察を下すときは、敵味方相封して未だ
の最後の考え方がどうであったかは知らない)。日
にすぎない。敗戦は元来、苛酷なものである。森嶋
勇気なく、勝敗をも試みずして降参したるものなれ
内實は徳川政府が其幕下たる二三の強藩に敵するの
のいうように整然と降伏すれば、万事 O
Kか。あ
るいは恫喝には一矢を報いるべきか。国際関係は、
( 61 )
が外敵に逢うて、時勢を見計らひ手際好く自から解
之を筆にするも、不祥ながら億萬一にも我日本国民
瘠我慢なきものは外に封しても亦た然らざるを得ず
たる士気を弛めたるの罪は遁る可らず。(中略)内に
に固有する瘠我慢の大主義を破り、以て立国の根本
ば、三河武士の精神に背くのみならず、我日本国民
近代の日本は、昭和二十年を境として、それ以前
のおよそ七十年は戦争、それ以後のおよそ七十年は
らない。これが人間の宿業である。
は、ほとんど無意識である。お先にどうぞ、とはな
一歩でも半歩でも、他人の前に出ようとする。それ
ある。交差点で信号待ちをしているときでも、人は
論は嘆きともいえるが、その故にこそ平和協調に努
平和であった。世界は激動をつづけている。私の結
○
痛みを伴わない平和は、望み得べくもない事を肝に
散するが如きあらば之を何とか言はん。
歴史の進行は、直線的ではない。混沌なのか、蛇
行した螺旋形なのか、円環なのか、不明である。歴
銘ずべきである。
(本会顧問・修養団特別顧問)
力を盡くさなければならないと思う。そして、全く
史は人間の悪戦苦闘の軌跡であって、正義か否か、
といった価値判断の批判の彼岸にあるともいえる。
二百年、三百年における、先の戦争の評価は今は分
からない。古人、先人の足跡には従って、毀誉褒貶
を越えて、冷厳な事実として向い合うべきものでは
ないか。
戦争は人間の宿業ともいうべきものである。負け
ると分っていても戦わなければならないのが人間で
( 62 )
〔 随 想 〕
出光佐三氏の講話
私が千葉県教育長をしていた頃、日教組の力が強
く、
これに対抗して正常化の教員組合が結成された。
当時、出光興産の千葉製油所の所長が正常化組合を
支援され、会社の宿泊所を開放して、会合に使用す
ることなど便宜を図って頂いた。このことは一所長
鈴
木 勲
三氏の講話があり、それを私が記録したメモが見つ
かったので、再録してみた。
出光佐三氏の人生観、経営観が率直に語られてお
り、教員にとっても考えさせられる内容であった。
皆さんが(正常化で)ご苦労なさったことが、皆
さ ん の 為 に な っ て い る と 思 う。 出 光 で も 苦 し み が
の考えだけでなく、福岡県における教育の正常化に
力を入れておられた出光興産の会長出光佐三氏の考
あった故に今日の出光がある。眞の闇夜が長ければ
ソ連の副首相が千葉製油所を見学して、お前は哲
学者だと言った。私は哲学に興味をもったことはな
出光の経営には哲学がある。国際シンポジウムで
も出光の哲学について話せといわれた。
夜明けは鮮やかだ。五十八年の経験から思う。
えでもあった。
出光佐三氏は、軽井沢の出光第一寮を開放して千
葉県の正常化組合の研修会に利用することを許して
くださった。時には、研修会で佐三氏自ら講演する
こともあった。
たまたま昭和四十四年七月二十七日の研修会で佐
( 63 )
い。あるとすれば日本人が哲学を実行しているとい
うことになる。
命がけでやろうと覚悟させられた。それから神戸
に帰った時に陰徳を教えられた。日田重太郎氏が、
黙って京都の別荘を売って六千円を恵まれた。これ
と、母が坐ってお茶をのんでいる姿は浮かばない。
の為につくせ。母は年中仕事をしていた。眼を閉じる
育った。家風は働け、質素で麦めし、自らに厳しく人
そこで教員の尊さを教えられた。宗像神社を尊崇して
私はなぜ日本人として生れたか。福岡県宗像郡で生
れた。小学校の名校長や名教員を輩出したところで、
めのものだ。私も終始月給取りだ。私生活は社員と
出光には定年制はない。組合もない。出勤簿も不
要。明治以前にはない、明治以降の外国からの輸入
の晩年を軽井沢の「雅楽園」に住んでもらった。
何かやろうとしたのも日田翁のおかげだと、日田翁
よく親に孝行せい、と言われた。石に囓りついても
を返すに及ばぬ、人に喋るな、主義を貫いて兄弟仲
それから、神戸高商に行き大阪を見た。世は投機
中心であったが、私は人間中心でなければならぬと
公平に暮している。
私は日本人離れをしたことはない。
思った。黄金の奴隷になるなというのが校長水島哲
弟が、一間間口の下駄の小売をしていた。これが幸
なということだ。家に帰ったら破産していた。母と
大事業をなすには小さいことを心得なければなら
ぬという信念から丁稚奉公した。学問の奴隷になる
等の幼稚な主義だ。人間には向かない。働く人には
私は共産主義そのものを排斥したことはない。悪平
管理は要らぬ。皆が管理者だと思って働いている。
る。尊い報酬を払わなければ人間はできない。人事
だ。賃金は労働の切り売りではない。生活安定のた
也氏の教えだった。
結婚すると本俸を上げ、住宅料をやり、妻の扶助
料をやるので八割給料が上る、これで生活が安定す
せだった。
( 64 )
京都の皇室のように平和におられるのが日本だ。征
服者はその前のものを全部滅ぼしている。日本には征
をすることは道徳上許せない。―
心から自然に涌きでたもの―学校の先生が坐り込み
教えだ。道徳はお互いに平和に暮すこと。人間の真
モラルについて―モラルは征服者のつくった法規
(書いたもの)を守ること―これは鈴木大拙先生の
区別がつかない主義だ。
木大拙先生がいわれた。お互いに厄介になっている
ない。支那には恩という事実もない、字もないと鈴
外国では罪悪。権利の放棄で邪道となる。日本人は
い自分をなくしてお互いのために尽す。互譲互助も
犠牲、これらはいずれも外国にはない。日本では強
すれば立派だ。無我無私、互譲互助、恩、義理人情、
日本人はバカではない。バカが世界を驚かせる産
業が出来るか。人間が考えれば、先生と労働者の区
それに合うように公平にやることだ。公平と平等の
服はない。皇室と国民がお互いに認め合っている。戦
から自発的な恩をかえす。日本の道徳の根源をなす
よい人がゆずる、弱い者を助ける。これは外国には
別はできるはずだ。道徳心のある人がモラルを活用
争に負けて占領政策にあってめちゃくちゃになった。
故、民主となった。日本の皇室を中心としている尊
日本が何と立派な国かというようになるまでは頑張
日本人が道徳の民族になること。教育者や官僚の
在り方。出光が何と立派な会社といわれるように、
ものは向うにはない。
厳性を傷つけることが占領政策だった。教育基本法、
らないと。今の世代の人、若い人はよくなっている。
新憲法を英文にして渡された時、私は憤慨した。
日本は道徳性中心に行われている。外国は中心なき
労働三法も対立抗争をとり入れたものだ。そのほか
自発的によくなればよい時代になると思う。
(本会会長)
に、日本人はつまらぬ国民だ、教員は労働者だ、モ
ラルは高級だが道徳は低級だと宣伝した。
( 65 )
は、
江戸時代の二百数十年にわたる鎖国政策の下で、
私は、かつて勤務の関係で長崎に住んだことがあ
る。この地は、幕府直轄の重要都市であった。それ
れが、後に日本の近代化への大きな推進力となり、
吸 収 し て い っ た と、 も の の 記 録 に 残 っ て い る。 こ
らもたらされた品々や何よりも新しい情報を貪婪に
文 珠 川 雅 士
唯一の対外貿易港としてアジアとヨーロッパに向け
百六十年余を経た今日、わが国は、医療・交通・通
〔 随 想 〕
福澤諭吉に学ぶ 和魂洋才の教え
て「開かれた窓」の役割を果たし、さまざまな「先
志に燃え、進取の気性に満ちた若者たちがこの長崎
からやってくる新しい時代の到来を予感し、遊学の
ような魅力あふれる都市であって、そこには、これ
化の交錯した摩訶不思議で、しかも、身ぶるいする
例えば、西洋医学、造船、蒸気機関車、書籍、西
洋料理など、当時の長崎は日本人にとって、東西文
い。また、交通機関の先端技術面でみても、今や安
ぬ努力によるところが大きいと言っても過言ではな
医学の恩恵と、長崎遊学を果たした先人たちの弛ま
暮らしが享受できるのも、長崎に伝来したオランダ
界一の長寿国日本の恵まれた福祉社会の中で健康な
ことができた。その上、現代に生きる私たちが、世
の夢多き好青年の福澤諭吉が居た。そして、外国か
進文明」をこの地にもたらすという運命にあった。
信・教育・生活文化 衣
( ・ 食・ 住 等
) 、あらゆる分
野において、世界に冠たる近代国家に発展を遂げる
に大勢やってきた。その若者たちの中に、二十一歳
( 66 )
染みの「福澤諭吉」である。
にしている、日本銀行券の壱万円札の肖像画でお馴
生き方を示唆したのは、私たちが日々生活の中で手
の勉学意欲を掻き立てる気運を醸成し、独立自尊の
本列島に着々と整備されている。このように日本人
全性と正確さを世界に誇れる高速鉄道網が、この日
中で教育と就学の重要性を丁寧に説いている。
のである。続けて出版したのが、世にも名高い「学
売れたという、今で言うベストセラー作家となった
日本の若者たちの間で評判となり、約二十五万部も
急に摂取することの重要性を説いた。当時、これが
情」に著述して、欧米における「先見的文明」を早
三十三歳の時、西欧諸国で見聞した情報を「西洋事
これを機に、明治時代の「文明開化」という気運
が我が国の近代化の原動力となり今日の日本人の勤
問のすすめ」である。建学精神の強い諭吉は、その
そこで、福澤諭吉の歩んだ道に目を向けて、その
活動などを考察してみると、先ず、長崎でオランダ
去り、大阪に出て「緒方洪庵の適塾」に入門し勉学
勉性に伝承され、こんな小さな島国に暮らす民族の
には渡英して、西欧諸国の情報を詳細に収集した。
感に着眼し、少しばかり考察をしてみたいと思う。
私は、近年、世界が注目している魅力的な美しい
日本語で、「おもてなし」という言語の普遍的倫理
語を学び西洋医学の重要性に注目した諭吉は長崎を
に励む。
い発展を遂げ今日に至っている。
そして、蒸気機関による産業体制の確立、学校制度、
それは、福澤諭吉の歩んだ時代背景からみて江戸時
特性となって、世界的に見ても稀有な状況で目覚し
その後、江戸に出て英語を学ぶことの将来性に着
目するや、徳川幕府の通詞となり二十七歳の時に渡
病院や議会制度等を早急に導入することの必要性を
代の武家社会から明治時代の文明開化へと、日本の
米して、あらゆる情報を収集するとともに、二年後
痛感して帰国した。さらに、
一八六六年(慶応二年)
( 67 )
近代化に拍車をかける役割を果たしたという意味で
は、筆舌に尽くしがたいものがあり、日本人の温和
さなど道徳的気質に象徴されているように思えてな
らない。その根源は、古来から伝承されている「武
士道の精神」によるもので、寛容、勤勉、奉仕、礼
儀と自尊という我が国の誇るべき特質であり、これ
からも未来永劫に継承されていくことを願う思いで
ある。
そして、これからの人生を日本人の精神と西欧諸
国の学問を兼ね備えた、すなわち「和魂洋才」の日
本人の一人として品位と尊厳を大切にしながら歩み
たいと思う今日この頃である。
(本会会員・学校法人日本航空学園 参与)
( 68 )
昭 和 三 十 年 三・四 月 号 の「 弘 道 」
は、「私の生活信條」を特集している。
そのいくつかを紹介しよう。
( 別会員・東郷元帥
小笠原長生 特
い ろ は かるた
「 以 呂 波 骨 牌 」 の「 旅
の秘書 は
)、
みちづれ
は道連・世は情」をモットーとして
いる。この諺を個人的に引用すれば、
他に対する敬愛となり、同情となり、
え ど そく
慈悲となり、仁恕となって、穢土即
浄土を実現するであろう。嗚呼『世
は情』なるかな、と述べている。
河野省三(特別会員・文学博士)は、
天武天皇十四年に制度された冠位の
名称である「明浄正直勤務追進」を
定めているが、これを指標として「快
ま じ め
活にして真面目」の気持をもって寛
厳宜しきを得るのを念とし、小学校
時代から国家の発展に貢献したいと
いう実践的信條を追求してきた、と
述べている。
片 口 江 東( 富 山 県 射 水 支 会 代 表 )
は、中村敬宇の「西国立志編」の冒
頭「 天 は 自 か ら 助 く る も の を 助 く 」
の一句を以て一生を貫いて肝に銘じ
とであり、消極面に於ては「獨りを
てきた、と述べているが、会祖の築
地邸を往訪し座右銘を願ったところ、 慎しむ」ということである。良き環
境を作るの例として、中江藤樹を生
半切大の絹に「激発不自制。竟胎身
後 累。 十 年 記 此 心。 除 得 一 忿 字。」 んだ村のことをあげている。
太清左衛門 福( 島県江名支会顧問 )
と書いて下さった。この教訓を守っ
て益すること大であった、と述べて
は、三つの戒と一つの行として、己
いる。
れを知る、恥を知る、足を知る、と
ちな
生に対する日常の感謝の行をあげて
因みに、この漢詩は、会祖の「偶
成 三 首 」 の 一 つ で、「 弘 道 叢 記 」 第
いる。
和波豊一 特
( 別会員 は
) 、現在の
境遇を天運と思い、これに満足し感
謝し、吾唯知足を以て生活の信條と
している。また、居室の掃除整理は
人を煩わさず、下着や靴下は必らず
自分で洗濯すると述べている。
十三号(明治二十六年五月)に掲載
河野省三博士の小学時代から、国
さ れ て お り、『 増 補 改 訂 西 村 茂 樹 全
家の発展に貢献したいという念願は
集 』 第 十 二 巻 五 七 頁 に 載 っ て お り、 当 時 の 少 年 が 抱 い た 率 直 な 気 持 で
会祖が自ら書いた詩として残ってい
あ っ た ろ う が、 社 会 に 出 て か ら は、
る。
「 日 本 国 家 ― 日 本 文 化、 民 族 的 情 操
は、公
―に関する自覚反省を深くしたい―
高城駿(埼玉県忍支会長 )
私を問わず、生活の信條としてきた
世界と国家と自己を結びながら」を
ものは、次の一つである。積極面に
あげており、博士はこの信條に殉じ
於ては「良き環境を作る」というこ
た人であった。
〈弘道余話〉⑿
私の生活信條
鈴木 勲
( 69 )
が多い教会で、二十一歳の白人青年
イナ州チャールストン市の黒人信者
になった。現場は南部サウスカロラ
六月十九日夜、米国の教会内で銃
乱射事件が起きて、黒人九人が犠牲
成された。
種の移民を加えて、多民族国家が形
カ黒人、アジアその他地域の有色人
アメリカ合衆国。現地住民、アフリ
て、統一を成し遂げた国家が現在の
首里城に、南部連邦旗が一時掲げら
の南部連邦旗を持ち歩いていた。先
旗でもある。六月の黒人虐殺犯もそ
戦争で、北軍と勇敢に戦った南部軍
邦旗が高々と掲げられている。南北
前に、南北戦争で使用された南部連
れたという話もある。
の 大 戦 で 米 軍 が 沖 縄 を 占 領 し た 時、
の単独犯行だった。青年は日常、黒
第 二 次 世 界 大 戦 後、 制 度 的 に 民
族・人種差別をなくす努力が続けら
人蔑視の言動を繰り返していたとい
う。
しかし一方、この旗に黒人奴隷制
度擁護のシンボルという黒い影も付
いて回る。
今度の事件を受けて、ヘイリー知
事は議事堂前の南部連邦旗の撤去を
議 会 に 提 案 し た。 し か し、 事 件 後、
り、食いつめたりしたヨーロッパ人
十五世紀末、コロンブスが新大陸
航路を開くや、宗教的迫害を受けた
の黒人虐殺事件以外にも、白人警官
蔑視という根強い感情がある。今度
現実はなお、白人社会一般に、黒人
れ、黒人大統領も誕生した。しかし、
対して行った歴史の清算という壁が
白人種には、真の人種平等社会実
現の道に、過去数百年、有色人種に
れたトラックを走らせた者もいる。
旗が掲げられた。南部連邦旗で飾ら
た者があったが、すぐ別の南部連邦
掲揚柱をよじ登り、旗を引き降ろし
が続々と大西洋を渡ってきた。彼ら
による黒人市民への暴力事件が頻発
立ちはだかっている。
( 70 )
ヘイリー州知事は「犯人を死刑に
すべきだ」と主張した。しかし地元
裁判所の審理で、犠牲者の遺族たち
が、 手 錠 姿 で 無 表 情 の 青 年 に、「 神
があなたを救済することを願う」な
どと声をかけていた。黒人の親族な
は原住民から土地を奪い、アフリカ
している。
だけにその寛容さに胸を打たれた、
黒人を運んできて奴隷とした。英本
サウスカロライナ州の議会議事堂
澤 英武
国との独立戦争や南北戦争などを経
米国黒人大量殺人と南軍旗
石油で豊かな国ですから、ロンド
ンに飛行機で行って治療を受けた患
院の患者と共に医療関係者にも感染
棟などに入院しましたので、その病
その患者は別の病院にゆき、救急病
者もおりましたが、元来人に伝染し
(重症
が拡大しました。その感染拡大の様
は「中東呼吸器症候群」
と呼ばれ、三年前に出現した重症の
相を
呼 吸 器 疾 患 で す。
て拡がる病気ですから、受取る病院
の発生は
のクローズアップ現代
急性呼吸器症候群)と同じくコロナ
今度の韓国の
で見せられました。国谷裕子アナウ
ンサーと東北大の賀来満夫教授の対
談の中でその拡大の原因等とその防
御の仕方が論ぜられました。患者の
病院の空気が外
隔離(減圧病室 ・・・
に出ない)
、医療関係者の厳重な感
染防御の体制も論じられました。日
本に感染が及ぶか否かは現時点で考
え ま す と、 韓 国 の 医 療 体 制 が 急 速
し、それが始めて出現したのは、サウ
おります。元来ヒトコブラクダに発症
も一〇%を超えています。その原因
と比較すると低いのですが、それで
であり、致命率はサウジアラビア等
先進国では考えられない程の発生数
はありませんので、マスク着用や手
クチンはなく、有効な抗ウイルス薬
と 思 い ま す。 た だ し、
ますので、心配はないのではないか
では感染拡大は皆無でした。
ウイルス感染による重症感染症です。 も隔離病室に入れ、ロンドンやパリ
共に四〇%台の致命率を持っていま
す。元来このウイルスはいわゆるか
ぜ症候群の原因として発見されたも
と言う重
のでした。これが原因は解りません
や
症の感染症を惹起するウイルスに変
が、
は中国で特に問題にな
貌したのです。
りましたが、日本での感染者は無く
予防体勢も整えられてい
に 改 善 さ れ て い る こ と、 日 本 で の
ジアラビアで二○一二年から発生し
は初診時の医師が頭の中に
は隣の国で猛威をふるって
ホッと一安心でした。しかし今度の
たのです。本来沙漠の国ですから、人
ワ
口も少なく、発生数も少ないのです
がなく、海外渡航症の問診を行って
松本 慶蔵
いなかったと推測されます。従って
(46)
が、重症の呼吸器感染症ですので、そ
MERS について
S
A
R
S
M
E
R
S
の致命率は約四〇%と大変高率です。
M
E
R
S
M
E
R
S
術相談役)
( 長 崎 大 学 名 誉 教 授、 結 核 予 防 会 学
洗いの徹底が望まれます。
M
E
R
S
( 71 )
M
E
R
S
S
A
R
S
S
A
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S
N
H
K
M
E
R
S
M
E
R
S
崎研究所で、国際情勢分析に取り組
した。本書は、外務省とその後の岡
昨年十月、サウジアラビアとタイ
国大使を歴任した岡崎久彦氏が急逝
けんかもした、と述べている。
使)とは至るところで怒鳴り合いの
した。橋本恕中国課長(後の中国大
贈っていただき、大変光栄に思いま
て、岡崎大使から自作の漢詩の書を
議 決 定 が 行 わ れ た。「 こ れ を 記 念 し
一人熟考した。米国の幾つかの研究
あった。そして「回顧録」はこう結
的自衛権行使容認は著者の宿願で
権 謀 術 数 の 絡 み 合 う 国 際 舞 台 で、 した。」
敗戦国日本が、どう生き抜くべきか、
日本の長期外交戦略は日米同盟の
強化以外になく、その柱となる集団
続けてきた同氏の「戦後外交の回顧
機関をめぐり歩き、討論し、日本の
み、日本外交に指針と警鐘を鳴らし
録」と主要論文をまとめた緊急出版
である。
ばれている。
「 集 団 的 自 衛 権 の 行 使 を 認 め、 自
衛隊がシーレーンのパトロールに加
われば、東南アジア諸国も含め、日
本は大きな信頼を得ることができる
でしょう。日米関係は、米英関係と
安全保障戦略の欠如を痛感する。雑
米国情報を常に的確に把握すること。
日米関係を盤石にすること、そして、
同等の強固な運命共同体になります。
誌にも寄稿した。それが『戦略的思
を含む安全保障の法整備のための閣
本書の巻頭に、安倍首相の追悼の
辞がある。昨年七月、集団的自衛権
名著を生んだ。
の試行錯誤から得た結論です。
」
外務省勤務四十年、退官後二十二年
世紀も日本の自由と安全と繁栄を維
( 72 )
東大在学中に外交官試験に合格し
た、いわゆる超エリートながら、官
僚 的 出 世 主 義 に は 関 心 が 薄 か っ た。
入省して英ケンブリッジ大留学。米、
仏、韓、フィリピンなどの日本大使
館勤務、そして前記二カ国の大使を
民族性などを徹底的に勉強した。結
務 め る が、 任 地 で は そ の 国 の 歴 史、
果、国際情報局長として外務省きっ
その二つのことができれば、二十一
のため」という使命を自覚する。省
持 で き る と 確 信 し て い ま す。こ れ が
内の親中派や左派とも正面から論争
『ドゴール外交の分析』
在仏時代、
を ペ ン ネ ー ム で 出 版、 自 身、「 お 国
考 と は 何 か 』( 一 九 八 三 年 ) と い う
澤 英武
ての国際情勢分析に名を残した。
『国際情勢判断・半世紀』
岡崎久彦著 育鵬社
2015 年 4 月 1700 円 + 税
子供らの琴線に触れる、全身全霊の道徳授業
小倉 正敬
⑵ 手段
①ネタや道具等の教材を創意工夫する。例えば、
読み物、映像、新聞記事、写真、体験談、小
説、漫画、テレビ、紙芝居等々生活の中のあ
りとあらゆることから取り入れる。
②指導方法は、子供とのやり取りの中で、練り
上げていく。そして、子供たちが参加したと
いう充実感を持てるようにし、討論の中から
型討論形式)。指導上の工夫・アイデアは欠
結論めいた内容を形づくる(練り上げ式参加
ボランティアとして、地元の小学校で道徳の授業
をやらせて頂いている。その実践を通して気付いた
かせない。
⑴ 指導者がそれまでの人生で修得した、生き方
2.子供達に本当に伝えたいことを全力で伝える。
なる。
一生に影響を与える。→⑥本物の道徳授業と
打ち震える。→④琴線に触れる。→⑤子供の
⑶ 結果
①本気度を響かせる。→②心に響く。→③心が
ことや感じたことを述べる。尚、これは弘道フォー
ラム二〇一七で詳しく発表する予定である。
1.道徳授業の目的と手段を見極めて、真心を込め
て実践する。
⑴ 目的
①人生で一番大切なこと、一番伝えなければな
らないことを明確にして伝える。
② 利己主義の抑止力になれることを目指す。
( 73 )
の全てを伝授する。
⑵ 指導者と子供らとの人間としてのぶつかり合
い・ガチンコ勝負を展開する。
⑶ 本当に伝えたいことを持たない指導者には、
道徳の授業が出来ない。尤もそんな指導者はい
ない筈だが。
3.教材の実例
殺すことも出来る。
⑶ 人間は欲とやっかみの動物
欲とやっかみの解消法は、満足の住み分けと
恥の文化の復活・伝承にあると思われる。弟
子 が 師 匠 を 越 え る こ と に よ っ て、「 恩 返 し 」
をするという風習も大切である。
⑷ 江戸しぐさ
江戸しぐさとは、江戸時代の庶民の知恵、生
活の規範である。特に重要な例が、「三つ心、
(平川支会読者モニター)
も人にしなさい」を挙げることが出来る。
聖書「人にしてもらいたいと思う事は、何で
の欲せざる所、人に施すこと勿れ」
感じる著作物である。実例として、論語「己
二五〇〇年の人類の超ロングセラーの重みを
聖書と論語
る」である。
自分自身で内容がストンと胸に落ちなくては教材
としては駄目である。使えない。自分自身で納得で
六つ躾、九つ言葉、十二文、十五理で末決ま
⑸
きる教材を使う。
⑴ 惻隠の情
①水師営の会見での乃木将軍の敗軍の将に対す
る扱い ②平家物語の敦盛最期 ③安宅関の
富樫左衛門 ④鈴木貫太郎の哀悼の意の表明。
⑵ 言葉の大切さ
人間の思考は言葉によってなされる。格調高
い言葉は人を変容させる。
言葉一つで、人を勇気付けることも出来るし、
( 74 )
弘道シンポジウム 二〇一五
「今、家族の何が問題か」
開催要項
一、日時及び会場
て家族の形態や意識が多様化するとともに、大幅に変質して
い、核家族化・非婚化、離婚率の上昇等が進み、戦前に比し
戦後、家族に係る法制度の変革や社会経済情勢の変動等に伴
十月二十二日(木)神田学士会館にて
・日 時 平成二十七年十月二十二日(木)
・後援(予定) 文部科学省・日本道徳教育学会
三 テーマ
「今、家族の何が問題か」
・
四、開催の趣旨
*基調講演
・講 師 梶田 叡一先生(奈良学園大学長)
五、講師等
いてご提言を頂き、
ご参会の皆様と共に考えたいと思います。
こうした状況の中で、改めて、今日我が国の家族が抱えて
いる問題と、家族の意義やあり方、家族再生への道筋等につ
更に、近年においては、家庭崩壊という言葉で表されてい
るように、家族機能が喪失している事象も少なくありません。
きております。
十二時三十分~十六時三十分
-
家族は、社会生活の礎となる基本的な集団であるが、
( 75 )
│
│
・会 場 学士会館二階大講堂(二〇二号室)
二十八
千代田区神田錦町三
三二九二 五九三六
☎〇三
二、主催・後援団体
-
・主 催 公益社団法人 日本弘道会
-
*シンポジウム
一六:三〇~閉会
七、記録の公開
・総括
メールに
・参加者 本会役員・会員、友好団体会員、関係学会会
員、教職員、企業関係者、一般市民等
シンポジウムの記録を本会会誌「弘道」に掲載する。
八、参加方法等
・パネリスト(五十音順)
髙橋 史朗先生(明星大学教授)
)
土田健次郎先生(早稲田大学教授、本会副会長)
宮本みち子先生(放送大学副学長)
・コーディネーター
・参 加 費 無料
・申込方法
ハガキ、電話、ファックス、又は
より左記にお申し込み下さい。
〇九五六
( 76 )
多田 建次先生(玉川大学名誉教授、本会理事
六、当日のプログラム
一一:三〇~受付開始
一二:三〇~開会
三二八八
[email protected]
〇三
-
-
※総合司会 宮崎 哲夫先生
(遺珠刊行会社長、本会参与)
・主催者代表挨拶(鈴木勲日本弘道会会長)
E
〇〇六五 東京都千代田区西神田三 一 六
〒一〇一
公益社団法人 日本弘道会事務局
三二六一 〇〇〇九
ファックス 電話 〇三
・来賓祝辞(文部科学大臣)
一二:五〇~基調講演
・申込期限 平成二十七年九月二十五日(金)
Eメール (休 憩)
一四:〇〇~シンポジウム
・提 言(各二十分以内)
・追加提言(各五分以内)
(休 憩)
・質疑応答・ディスカッション
-
-
-
-
-
目を休め心の疲れも癒しいるわが家に近き公園愛し
き
ほど近き薔薇園訪なう日の迫る今年も愛たき「プリ
ンセス・ミチコ」を
旅先グルメ 東京都 松村 早苗
空腹にさまよふ路地でかじりたるロシアケーキに暮
るるモスクワ
りゅうじょ
▼投稿短歌
舞ひつづく柳絮の中を駆けぬけて飲みほす「白樺の
水」ほの甘き
は
極まりし渇きに知りぬ うっすらとはる水の匂ひを
すさまじき陽射しの圧を背負ひても露店にしゃがみ
クンジェラブ峠をめざす炎天の村より薫るカレース
み うり
う
哈密瓜を喰む
びる
きかな
としかできず……
皹われて癩の痕跡のこす手にキャンディーを盛るこ
らい
パイス
心癒す色濃き緑とそよぐ風隣のベンチの幼子愛らし
あひし村
硝煙のかなたに消され亡びしは仔猫とマトンを分け
ひび
緑濃き公園のベンチに腰おろす風のそよぎの心地よ
は
藤棚の木陰に眺める公園の民家は初夏の日差しを浴
藤棚を見上げて憩うわが心自然の恵みを有り難く思
藤棚 千葉県 砂見 茂博
目に優しき藤の花房眺めつつ正岡子規の名歌を偲ぶ
松 坂 弘 編
三台の車椅子の人も訪ねくる目に緑染みる自然公園
に
( 77 )
弘 道 歌 壇
白毫に銃創を見るトラウマの癒えよとオレンジペコ
▼選者近詠 松坂 弘
ゆる
麦を踏む感覚ふいによみがへり枯れ草踏めば故郷み
うごく
長野県 鹿浜 樟夫
枯草 たつたいま立ち去り神、たつたいま現れし神枯れ草
河口ちかき岸にゆりかもめ数多ならび大方は西日に
れつつ
満潮の潮どきの運河に添ひながら河口にむかふ心ゆ
るなり
指なしの手袋は何かを掴みたき形をたもち干されゐ
すす
を啜れる
手袋
ひと冬を書斎に使ひし指なしの手袋を妻に洗濯に出
霧雨のいづくかにする鳩のこゑ何の合図か知るよし
向きてゐるなり
す
もなし
河の面に届きし刹那の桜の花 陰つくり陰を瞬に消
がひかる
とゞかざりけり
*
▼感想
松坂 弘
砂見さんの作品は、正岡子規の有名な
・瓶にさす藤の花ぶさみじかければたゝみの上に
したり
水つぽき曇天なれども波立つといふことあらずきさ
を念頭にされながら詠んだ一連です。子規にはこの
曇天 長野県 千曲 次郎
曇天をおぼるるさまに飛ぶつぐみ見届けし後硝子戸
らぎ尽は
他に
見つむれば涙わきくるきさらぎの曇天の深みに何か
とざす
*
( 78 )
・藤なみの花をし見れば紫の絵具取り出で写さんと
思ふ
・瓶にさす藤の花ぶさ花垂れて病の牀 と
(こ に
)春
などの名作があります。
もともと詩歌は季節感と人間との交信が基本だっ
たのです。しかし、地球環境の異変により季節のう
つりかわりにも変化が始まっています。
の世界を詠んだ作品がもてはやされています。
暮れんとす
砂見さんの作品には心根のやさしさがしっとりと
あふれていて読み応えがありました。
さらには、破調の短歌がもてはやされているのも
もう一つの傾向です。若い歌人は外来語をしきりに
季節感を歌に詠みにくくなっているのは確かで
す。そのような背景があって、短歌においても虚構
松村さんの作品は、基本的には旅行詠なのですが
単なる見聞報告になっていないところが個性的で
用いています。こういうことも破調の増えている原
( 79 )
す。
新しいタイプの旅行詠として位置づけられます。
良さをもっと大切にしたいとしきりに思うこの頃で
す。 因のようです。日本語のもつしっとり感やひびきの
旅行詠が難しいのは、作者の感動した風景や建物
がどういうものであるか、をまず読者にわからせ、
さらにはその風景や建物にどうして感動したか、を
読者に伝えなければならないわけです。つまり二重
日(年末号は休載のため十月は除く)
作品提出期限
偶数月の
千
代田区西神田三─一─六日本弘道会ビル八階
公益社団法人日本弘道会「弘道」編集部宛
〒一〇
一 〇〇六五
10
の手枷足枷があるからです。
前回も書きましたが、短歌の世界では近年「虚構
表現」のありようについての議論が盛んです。機械
文明や映像文化の高度な発達が、言語表現をベース
とした詩や短歌や俳句の表現にもじわり影響が及ん
でいるのです。
-
河 内 朝 生 編
豊島区 川崎 鋸南 川崎市 小林 三郎 奥出雲 石原みちを 葉桜の緑日に映ゆ加賀の宮
ご じんじよたい こ
陣乗太鼓空に満つ
梅雨晴間御
うま
◎青田風生るる能登の千枚田
(註)日本海を渡る風美しく
短夜や旅愁の募る船の旅
ブリツジ
橋明易し
復唱の舵手に船
◎船長の指示よく通る夏の航
(註)国際航路の緊張感
喧騒を遮る新樹別天地
庭園を通る夏風やわらかし
しじま
いこ
◎松落葉こぼる静寂に昼憩ふ
(註)都心の静もる生活空間
ひでり つ
ゆ
くらがり
柴田 孤 岩
練馬区
奈良唐古 山岡 成光 大田区 鏑木 雲州 雲南市 勝部 桃友 いろあらばいのちのいろの青田風
かきつばた
子花
一生は戦後なりけり燕
めしすえ
◎わが庵は楠のそそりて飯饐る
(註)自若の心境
ひ
の川に鮎釣る人や旱梅雨
簸
いで
抜き出て未だ葉のなき今年竹
おうとう き
◎谷水に魚影の見えし桜桃忌
(註)出雲の川に憶う太宰忌
まくなぎ
蠛蠓を払ひ暗峠越えにけり
風誘ふ甘き香りや柿若葉
路地裏に子等の足音金魚売
はま お も と
万年青天空を舞ふ鳶の輪
浜
(註)汀と海空の対比
桑苺卑弥呼も唇を染めたるや
( 80 )
弘 道 俳 壇
◎潜み咲く池畔のあやめ業平寺
は むら
(註)大和の夏の天地
しや ら
横浜市 尾俣セツ子 沙
羅散りし空に葉叢の美しき
花水木映る道空絵画めき
◎賛美歌に舞ふ異国児や夏祭
(註)童心に国境なし
世田谷区 新里 昭子 町田市 大野 隆司 鎌倉市 三隅田海堂 熱帯魚水槽世界にある孤独
はま お も と
万年青
落日を沖に潮の香浜
◎聖五月園より聞こゆアベマリア
(註)爽やかな聖母月
峰に立つ立夏の風や富士遙か
船宿に確かむ釣具明易し
たいりん
◎緑蔭に陛下台臨慰霊の儀
目を癒す日陰の十薬風通う
(註)戦歿船員慰霊祭
短夜の明け初む森に鳥の歌
◎長谷寺に幕翻る初瀬夏
(註)見上げる本堂舞台
らんちゅう
世田谷区 沖 丈与志 横浜市 立石 健三 鋳のしだり尾触れて藻を揺らす
蘭
た
明易き山小屋発てる尾根の道
ゆ
◎夏霧や北の海航く操舵室
(註)ブリッジの緊張感
若葉風舞へる池の面浮見堂
ろうおう
鶯や声を背に聴く男坂
老
し び ぬき
◎金色の鴟尾抽んづる若葉風
川崎市 渡邉 東洋 卯の花や瀬音に混じる風の音
う
(註)夏の奈良渡る風
若鮎の踊りて川の瀬を跳べり
み
も
◎街川の水の面に躍る鯉幟
(註)五月晴れの下町
( 81 )
なほ
ころもがえ
横浜市 木下かつみ 弘喜
中川
品川区 山名 和雄 横浜市 武田 伸昭 余生猶しきたり守る更衣
讃美歌の流るチャペルや聖五月
◎縁先に結いの隣人新茶汲む
(註)親しき隣人と睦む一刻
出目金の槽を狭しと泳ぎをり
麦秋や風に波打つ佐賀平野
きざ
◎紫陽花の色濃き翳や雨兆す
(註)庭に陰翳深き静寂
海鳴りの夜もすがらに明易し
松戸市
日暮来る路地に声引く金魚売
◎玉音に首うなだれて玉の汗
(註)鮮明なる思い出の日
深々と彼岸参りの翁かな
ポストまで素足で急ぐ街の朝
◎夏めける空の果て迄飛行雲
(註)視界を拡ぐ空の音
よはい
安田のぶ子
船橋市 湯浅 康右 きざ
横浜市
紫陽花をホームに咲かせ無人駅
短夜をさらに短かく齢知る
◎勤労の思い出遠き額の汗
だ
(註)思い遙かな日
じ
朶を噛む真珠の耳輪梅雨兆す
耳
まつはると見えて消えけり梅雨の蝶
はんげしょうそう
◎半夏生草雨後の木の橋乾きけり
(註)葉の先が白く変化する季節の花
八王子市 松木 昌子 滝落ちて惜しみなく散る日のかけら
白昼の刹那翳らす黒揚羽
におうき す
◎鳰浮巣樹影さざめく池の面
(註)夏の光走る池の面
世田谷区 小谷田敏子
おしのはっかい
水ふふむ忍野八海麦の秋
六月や下弦の月の滲む空
( 82 )
そらまめ
ひすい
◎蚕豆や翡翠の如き白磁皿
(註)磁器の色合い見事
川崎市 佐々木晶子 古利根の輝く波に桐の花
は ま ゆ う
木綿の香りの重き浜の風
浜
◎天使魚や茶房に流るモーツアルト
船橋市 重永 泰彦 ( 83 )
(註)憩いの一刻
應酬の長きテニスや汗光る
悠然と振る尾や金魚の昼下り
◎紫陽花の藍鮮やかに昼の雨
日(年末号は休載のため十月は除く)
(註)健康な季節感
作品提出期限
〇八一八 船 橋市緑台一 三 一 四〇一
河内朝生
-
-
-
偶数月の
〒二七四
10
-
言 葉 の
ひ ろ ば
の 育 成 に な く て は な ら な い 取 組 で す。
もとより皆様のご理解とご支援なくし
ては、なし得ない大改革でもあります。
『 す べ て は 子 ど も た ち の た め に 』 と
いう言葉を胸に、今後とも尽力してま
いる決意です。引き続き変わらぬご指
会長先生のいっそうのご多幸とご平
安とを祈ります。 不悉
平成二十七年四月
宮田力松
日本弘道会会長 鈴木勲様
―――― ・ ―――――
充実した内容の「弘道」をいつもお
送り頂き、大変勉強になります。
鈴木勲様
―――― ・ ―――――
導ご鞭撻を賜りますよう、心よりお願
皆様のご尽力に感謝申し上げます。
謹啓 深緑の候 皆様にはますますご い申し上げます。
平成二十七年四月
清祥のこととお慶び申し上げます。
内海静雄
末筆ながら皆様のご健康とご多幸を
日本弘道会会長 鈴木勲様
さて、私こと このたび文部科学省 お祈り申し上げ、お礼のご挨拶とさせ
大臣官房付として高大接続改革・生涯 ていただきます。
―――― ・ ―――――
学習政策局担当を命ぜられ、過日着任
拝復
新たな課題に、勉強の毎日です。引
しました。
き続き頑張りますので宜しくお願い申
向暑の候、時下ますますご清祥の段、
千葉県教育長在任中は公私にわたり し上げます。 謹言 お慶び申し上げます。
温かいご指導とご厚情を賜り心から感
平成二十七年五月
こ の 度 は、「 弘 道 」 第 一 〇 九 六 号 を
謝申し上げます。二年九月の間、数々の
瀧本 寛 御送りいただき、誠にありがとうござ
貴重な経験をさせていただくことがで 日本弘道会会長 鈴木勲様
いました。
きました。お世話になりました皆様方
―――― ・ ―――――
鈴木様の一層の御健勝と、貴会の御
には、本当にありがとうございました。 昨年度は学道をお導き頂き、ありが
発展をお祈りしつつ、取り敢えず御礼
たくお礼申し上げます。
まで。 敬具
今年度もよろしくお願いいたします。 平成二十七年七月三日
渡部昇一
さて、高大接続改革は、アクティブ
ラーニングなど高校と大学の教育改革
に加え、入試制度の一体的改革であり、
次代のわが国を担う「底力」ある人材
( 84 )
会 告
◎御寄付者芳名(平成
年5月~6月)
自 平成 年 月 日
◎会費領収報告 至
平成 年 月 日
1 こ の 報 告 を も っ て 領 収 書 に 代 え さ せ て
いただきます。
金、一万円也 庄司昊明殿 (東京都)
金、一万円也 匿 名 (東京都)
金、一万円也 匿
名 (東京都)
27
2921
6 4
(紹介者)
鈴木 勲
河内 朝夫
5
(入会者)
(紹介者)
◎新入会員芳名(敬称略)
年 月~6月)
(平成
(支会名)
27
年
㉗
重永
鈴木 仲秋㉗㉘ 髙木 伸夫 ㉗
永井 輝 ㉗ 増田 好彦 ㉗
和田 昭通 ㉗ 小澤 皎 ㉗
松坂 弘㉗㉘㉙ ○小谷田敏子 ㉗
赤松
豪 ㉗
上野 明義 ㉗
織方 郁映 ㉗ 大久保建紀㉖㉗
今田
会田 正江 ㉗ 大家 重夫 ㉗
奥上 正一㉕㉖ 飯塚 弘 ㉗
亀谷 一郎 ㉗ 楠 元尾 ㉗
阿部 光夫 ㉗ 池野 和己 ㉗
太田和良幸㉖㉗ 岡本 親宣 ㉗
出井 朗夫 ㉗ 今尾 知義 ㉗
砂見
菅野 啓 ㉗ 河野覚兵衛 ㉗
茂博 ㉗
菅谷 誠一 ㉗
小島 一郎 ㉗ 小藤 計 ㉗
泰彦 ㉗
鵜之沢康雄 ㉗ 北尾 美成 ㉗
大島 民義 ㉗ 塚本 隆 ㉗
島 根 永野 信吾 兼折 右慈
中川 弘喜 ㉗ 根本 淳祐 ㉗
岩 手 橋本 昌好 八巻 恒雄
松浦 成子 ㉗ 山﨑 侃 ㉗
(北海道)
湯浅 康右 ㉗ 中村 二郎 ㉗
中村 浩一 ㉗
斉藤
守 ㉗
前田 昭一 ㉗
(宮城県)
菅谷 昌德 ㉗ 林 謙治郎 ㉗
西澤 啓文 ㉗
松﨑 一康 ㉗ 鑓水 浩 ㉗
(埼玉県)
日髙 靖輝 ㉗ 筑後 則 ㉗
鶴田 登 ㉗ 青柳 邦忠 ㉗ 生山 智己 ㉗ 長谷川國雄 ㉗
田村 和凡 ㉗
天田 耕一 ㉗
祖父江昭一 ㉗ 立𥔎 隆 ㉗
出 和夫 ㉗ 須田 勉 ㉗ 鈴木 正敏 ㉗ 大島 和俊 ㉗
(千葉県)
米田 耕司 ㉗
小田金 清 ㉗ 安藤 隆弘 ㉗ (東京都)
⎠⎞
2 お名前の上の○印は新入会員の方です。
3 お名前の下の括弧内の数字は会費納入
最終年度です。
2727
4 ご不明の点は本部事務局会員会費の係
までご連絡下さい。
牛尾 郁夫
小谷田敏子
(入会者)
6
( 85 )
⎝⎛
◎新入会員芳名(敬称略)
年 月)
(平成
(府県名)
滋 賀 県
東 京 都
27
神守 隆一 ㉗ 岸田 輝夫 ㉗
庄司 昊明 ㉗ 柴田 武 ㉗
下田 陽 ㉗ 髙田 賢 ㉗
野原 数生 ㉗ 三浦 良雄 ㉗
村井 昭三 ㉗ 山本 毅 ㉗
渥美 和也 ㉗ 飯嶋 清 ㉗
上田 幸夫 ㉗ 大矢根てる ㉗
鏑木 義之 ㉗
菊池 敏夫 ㉗
鯉川 英一 ㉗ 鈴木 治子 ㉗
中村伸之助 ㉗ 松山 茂雄 ㉗
森田 昌之 ㉗ 渡部 武 ㉗
大賀佐怡子 ㉗ 長村 幸雄 ㉗
葛山為久子 ㉗ 吹浦 忠正 ㉗
松木 昌子 ㉗ 五十棲吉巳㉕㉖㉗
大門 隆 ㉗ 大野 隆司 ㉗
鈴木 重雄㉗㉘ 中田貴志男 ㉗
村越 正則 ㉗ 高岡 浩二 ㉗
西田富士雄 ㉗
松本淳一郎 ㉗
真辺 将之 ㉗ 馬場しづ子 ㉗
鬼澤 佳弘㉖㉗ 佐久間聖名子㉖㉗
浅井 経子 ㉗ 小野スミ子 ㉗
苅田 吉夫 ㉗ 大内 保治 ㉗
宮下 修 ㉗ 水田 武 ㉗
生平 齊月 ㉗
鎌田 邦彦 ㉗ 石井 俊一 ㉗ 渡貫 竜也㉖㉗
古賀 喜博 ㉗ (福井県)
㉗ 川崎 修 ㉗
中谷 実伸 ㉗
(一財)
教職員生涯福祉財団
(一社)倫理研究所図書室
㉗
鈴木
進 ㉗ (岐阜県)
佐藤
孝 ㉗
奈良
威 ㉗
今井 春昭 ㉗
石川 正郎 ㉗ 師 俊紀 ㉗ (静岡県)
松下 魏三 ㉗
喜田 安信 ㉗ 新里 昭子 ㉗
久田 龍二 ㉗ 中山幸豁㉕㉖㉗ (愛知県)
谷口 泰三 ㉗ 大平 恵理 ㉗ 鈴木 保實 ㉗
岩渕 信夫 ㉗
(三重県)
(神奈川県)
山本とし子 ㉗
尾俣セツ子 ㉗ 篠𥔎 昭彦 ㉗ (滋賀県)
○牛尾 郁夫 ㉗
半田 栄一 ㉗ 播戸 正臣 ㉗
北村俊夫㉕㉖㉗
牧 光徳 ㉗ 福岡純一郎 ㉗ (大阪府)
木下 勝実 ㉗ 谷合 明 ㉗ 原野 圭司 ㉗ 下野 厚子 ㉗
田沼 茂紀 ㉗
武田 伸昭 ㉗ (兵庫県)
石沢 彰文 ㉗ 浦田 徹 ㉗
正木 啓介 ㉗
安田のぶ子㉕㉖㉗ 小林 三郎 ㉗ (鳥取県)
西原 孝夫 ㉗ 藤田 芙美 ㉗ 永井 伸和 ㉖
渡邉 東洋 ㉗
山口 圭介 ㉗ (山口県)
(新潟県)
伊賀 訓之 ㉗
(愛媛県)
菅原 康夫 ㉗
(山梨県)
( 86 )
会員増強キャンペーン
第一一八回定時総会の式辞で鈴木会長が述べたよ
うに、本会会員の減少傾向が続いており公益社団法
人として存立の危機に立っております。
7月1日(水)
*白川耕市嘱託を本会正職員に採用
月号に掲載)
鈴木会長、大澤事務局長、白川耕市、近藤嘱託
30
このため、会員一人一人が会員の勧誘に努め会員
の増強について協力されるようお願いします。
月 日(水) : ~ :
*「弘道フォーラム二〇一五」を銚子支会(千葉県銚子市)
出席者
8月 日(木)
: ~
*養源寺において会祖の墓参
において開催(「弘道」9~
16
平成二十七年五月三十日
鈴木 勲
土田 健次郎
秋山 富一
生平 幸立
大澤 幸夫
押谷 由夫
木村 治美
髙坂 節三
澤 英武
多田 建次
菱村 幸彦
古川 清
松平 直壽
茂木 友三郎
渡貫 博孝
30
出席者 鈴木会長、大澤事務局長、小島俊夫、白川耕市、
秦きぬ代、井原幸子
00
公益社団法人 日本弘道会
副会長
理 事
〃
〃
〃
〃
〃
〃
〃
〃
〃
〃
〃
〃
13
11
( 87 )
5
13
10
8
す。暑い夏の日木陰で,古典に読みふ
しい古典に巡り会っていらっしゃいま
稿いただきましたが、それぞれ素晴ら
「 私 の 古 典 」 で す。 七 名 の 先 生 方 に 投
⦿本号は緑陰号として特集のテーマは
になることを期待したいと思います。
り、真に民主的な政治が行われるよう
を実施し、若者の政治参加意識が高ま
後,中等教育でしっかりと公民教育等
えての一票でなければなりません。今
のこと、地域のこと、公共の利益を考
自分たちの利益だけでなく、国や世界
さ せ よ う と の 趣 旨 に よ る も の で す が、
これは若い人たちの意見を政治に反映
に は 十 八 歳 以 上 が 大 半 と の こ と で す。
用される見通しとなりました。国際的
政選挙では、来夏の参議院選挙から適
上から十八歳以上に引き下げられ、国
法が改正され、選挙権年齢が二十歳以
編集後記
⦿只今開会中の通常国会で、公職選挙
十歳まで結婚の経験のない人の割合を
している一つが、未婚者の増加で、五
たとのことです。出生数の低下に影響
前年に比し九年ぶりにマイナスに転じ
数を示す合計特殊出生率が一・四二で、
一人の女性が生涯に産む子供の推定人
⦿厚生労働省の発表によると、昨年の
がとうございました。
たのではなかったかと思います。あり
毎号楽しみに待っていた会員も多かっ
貴重で有益なものでした。この連載を
づく終戦に至るまでの回顧録は、大変
〇年を迎えた今日、当時の実体験に基
て終結することになりました。戦後七
和史回顧―」は、本号の第七回をもっ
嶋彌顧問の連載「出陣学徒の自省―昭
⦿昨年の七・八月号から始められた安
再現できないのが残念です。
生の分かりやすいゼスチャーが紙面に
を楽しく聞かせていただきました。先
記念講話を収録しました。有益なお話
なられた加地伸行大阪大学名誉教授の
欲的な実践例などご期待ください。
(誠)
の特集です。道徳の教科化に向けて意
市で実施の「弘道フォーラム二〇一五」
⦿次号は、本年八月五日に千葉県銚子
皆様の参加をお待ちしています。
も議論になるものと思います。多数の
ンポジューム二〇一五」でもこの問題
年十月二十二日に開催される「弘道シ
何が問題か」の特集をしましたが、本
本誌の本年三・四月号で「今、家族の
の 生 涯 未 婚 率 は ど の よ う で し ょ う か。
始まりともいえる結婚について、今年
勢調査で明らかになりますが、家族の
のことです。この数値は五年ごとの国
郵便番号一〇
一〇
〇
-六五
公益社団法人 日 本 弘 道 会
東京都千代田区西神田三 一 六
TEL 〇三(三二六一)〇〇〇九
FAX 〇三(三二八八)〇九五六
振替口座〇〇一四〇 一 四三一七
東京都千代田区神田神保町三ノ一〇
-
(株)共立社印刷所
印刷所
-
-
発行所
平成二十七
年八月三十
一日印刷
平成二十七
年八月三十
一日発行(定価五〇〇円)
編集人
鈴 木 勲
発行人
けるとともに未来の古典探しもいかが
示す「生涯未婚率」は、二〇一〇年で
は男性二〇 一
· %、女性㆒〇・六%と
でしょうか。
⦿本号では、本年度の総会で寿昌者と
-
( 88 )
自識録、續自識録、記憶録、建言稿、往事録、偶筆
讀書次第、東奥紀行、随見随筆、校正萬國史略、萬國通史
萬國史略、防海要論、海防新編、農工卅種家中経済、経済要旨、輿地誌略、数限通論
泰西史鑑
格勒革力道徳學、哈芬氏道徳學、
寧氏道徳學、殷斯婁氏道徳學、求諸己齋講義
理學問答、休物爾氏徳學、査爾斯蒲勒氏要須理學、人學譯稿(査爾斯蒲勒氏)
、希穀氏人心學、
可吉士氏心象學摘譯、泊翁日記
論説1 明治7年から明治27年までの間に、明六雑誌、脩身学社叢説、東京学士会院雑誌など
に掲載された西村茂樹の論説を収録
論説2、明治28年以降の論説、教育史、求諸己齋蔵書目録、皇太子御教育建言書
泊翁存稿、樸堂小稿、漢詩・詩文補遺、泊翁書簡、雑文集、年譜、西村茂樹稿本目録、語彙索引
申込先
〒101-0065 東京都千代田区西神田3-1-6
日本弘道会ビル8F
公益社団法人 日 本 弘 道 会
☎03
(3261)
0009 FAX 03(3288)0956 振替0140-1-4317
会祖の真蹟
第11巻
第12巻
心學略傳、心學講義、初學寳訓、女子寳訓、婦女鑑、泊翁巵言
ノコ
第10巻
徳學講義、西國道徳學講義、社會學講義、小學脩身訓、日本教育論、或問十五條
︻大意︼
櫻 の 花 が す べ て 散 り、 地
上は泥まみれの花のみ。芳野の山に
路をたどれば葉櫻の緑が山一杯で、
ために新月
︵ 陰 暦 三、四 月 頃 の 月 ︶も
光をさえぎられて暗い。ホトトギス
が啼いて過ぎた、後醍醐帝の古い御
陵の西を。
︵
﹃図説・日本弘道会一一〇年﹄より。
釈文・解説は古川哲史博士による。
︶
第2巻
著作
第3巻
著作
第4巻
著作
第5巻
著・訳
第6巻
訳述書
第7巻
訳述書
第8巻
訳述書
第9巻
訳述書
日 記
西村泊翁先生傳、日本弘道會創立紀事、日本弘道會大意、日本弘道會婦人部設立の大意、日本
弘道會要領(甲號・乙號)
、弘むべき道、日本道徳論、國民訓、國民訓對外篇、儒門精言、國家
道徳論、續國家道徳論、道徳教育講話、道徳問答、修身講話、泊翁修養訓
初夏吉野ニ遊ビ
第1巻
著作
元陵に謁ス
泊翁茂樹
容
櫻花落尽剩香泥
落チ尽シ香泥ヲ剩ス
櫻ミ花
チ
路芳山ニ入リ魂迷ワントス
路入芳山魂欲迷
緑樹満山新月暗
緑樹山ニ満チ新月モ暗シ
子規 過古陵西
子規 ンデ過グ古陵ノ西
巻
12
初夏遊吉野 泊翁茂樹
謁 元陵
全
内
㈱思文閣出版
定価17,000円
(税別)
第2巻:平成16年12月 既刊
定価17,000円
(税別)
第3巻:平成17年 8月 既刊
定価18,500円
(税別)
第4巻:平成18年 8月 既刊
定価17,000円
(税別)
第5巻:平成19年11月 既刊
定価18,000円
(税別)
第6巻:平成20年11月 既刊
定価18,000円
(税別)
第7巻:平成21年3月 既刊
定価19,000円
(税別)
第8巻:平成24年3月 既刊
定価18,000円
(税別)
第9巻:平成22年10月 既刊
定価18,000円
(税別)
第10巻:平成22年3月 既刊
定価16,500円
(税別)
第11巻:平成23年3月 既刊
定価18,000円
(税別)
第12巻:平成25年3月 既刊
定価17,000円
(税別)
日本弘道会編・発行
第1巻:平成16年5月 既刊
集
西村茂樹全 増補・改訂
西村茂樹の学問的な業績を中
心に、その思想と活動の全貌
を示す画期的全集の刊行完結。
100 80 60 50
30
20 10
5
K
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古典をめぐって ………………………………………………………………………安嶋 彌
平成二十七年八月三十一日発行
【巻頭の言葉】古典を読もう ………………………………………………………土田健次郎
弘
道 特集 緑陰随想 ─ 私の古典
弘
道 第百二十三巻第一〇九七号
平成二十七年七 ∼ 八月号
第百二十三巻第一〇九七号
平成二十七年八月三十一日発行
第 1097 号
私の古典『言志四録』………………………………………………………………松本 慶蔵
自立と助力の狭間で…………………………………………………………………市川 昭午
アランの『幸福論』と哲学教育 ……………………………………………………菱村 幸彦
『徒然草』を楽しむ
……………………………………………………………渡貫 博孝
『平家物語』に関わる小さな経験 …………………………………………………小川 義男
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【講話会記録】日本人の忘れたもの ………………………………………………加地 伸行
─家族・教育・道徳─
【連載エッセイ】
「日本道徳」再考(十) …………………………………………田中 英道
平成27年
7∼8 月号
日 本 弘 道 会
日 本 弘 道 会 発 行
─本居宣長と西村茂樹─
本誌の購読料は会費︵三、〇〇〇円︶に含まれています。
……………………………………………………………髙坂 節三
金五〇〇円 ︵税込み︶公益社団法人日本弘道会
私の古典『方丈記』