【沖縄県教育庁文化財課史料編集班】 【Historiographical Institute, Okinawa Prefectual board of Education 】 Title Author(s) Citation Issue Date URL Rights 学童疎開調査報告 高嶺, 朝誠 史料編集室紀要(30): 105-118 2005-03-30 http://okinawa-repo.lib.u-ryukyu.ac.jp/handle/okinawa/7792 沖縄県教育委員会 史料編集室紀要 第3 0号 ( 2 0 0 5 ) 学 童 疎 開調 査 報 告 高嶺 朝誠 1 は じめ に 2 0 0 4年は、沖縄戦 における学童疎 開か ら6 0周年の年であった。周知の ように、沖縄県 に 9 44年 ( 昭和 1 9 ) 7月 1 9日に沖縄県内政部長か ら 「学童集団疎 開準備二 おける学童疎 開は1 4日先発 隊 と して1 31 人が潜水母艦 の迅鯨 に よって出発 関ス ル件」 の通牒 が 出 され、 8月1 6日に鹿児 島-上 陸 した時か ら開始 された。 し、1 0周年 を記念 して、南風原 町教育委員会は 「第11回南風原町子 ども平和学 この学童疎 開6 習交流事業 0周年記念」 を 「学童疎開か ら戦争 ・平和 を学ぶ」 とい うテーマで 学童疎 開6 企画 した。参加 したのは、大城昇教育長 を団長 に引率職員が 2名、小学生 は町内の南風原 4名、学童疎 開体験者が 1 0名 ( 男性 5名、女性 5 小 ・北丘小 ・湖南小 ・津 嘉山′ トの児童 1 名)、一般参加者が 9名、マス コミ関係 が 1 0名で、総勢4 6名の交流団 となった。 南 風 原の学童疎 開 は 2陣 に分 けて行 われ た。 第 1陣 は 1 9 4 4年 8月21日に学 童 11 0人が わうら 和 浦丸 に乗 って那覇港 を出発 した。同 じ船団 に対馬丸があ り、南風原 の学童 は最初の計画 では対 馬丸 に乗 る予定 だった とい う。南風原の学童 たちは、対馬丸 と一緒 に攻撃 され、そ の沈没の様子 を目撃 していた。 和 浦丸は、米軍の攻撃や僚船 どう しの衝突の危機 をなん とか乗 り越 え長崎県 に入港 した。 南風原の学童 たちは長崎 に上陸 して汽車 に乗 り、 8月31日に熊本県八代市 日奈久 に到着 し 9 4 5 年 ( 昭和 2 0)の 6月には空襲 を避 けるために山 て 日奈久国民学校へ通 った。 しか し、1 間の坂本村-再疎 開 しなければな らなか った。第 1陣の引率教諭 は大城東 ( 字宮平)、照 屋善輝 ( 字神里)、糸数 昌書 ( 久米 島)の先生方で、疎 開学童 はほぼ仝字か ら参加 してい た。 この和浦丸 には、玉城村 や与那原 町の学童疎 開団等 も乗船 していて、共 に 日奈久国民 学校で疎開生活 を送 った。 2 4人が 9月 9日に那覇港 を出発 し、鹿児 島を経 て宮崎県へ疎 開 した。 ) 南風原の第 2陣は 1 さ んさ い かみほ互f l 9人、上穂北 国民学校 に字与 宮崎県では西都市 の三財 国民学校 に字津 嘉山の学童 を中心 に2 TAKAMI NECh o s e i :Re s e a r c hNo t e . ・Th eEv a c u a t 1 0 1 10 fSc h o o l c h i l d r e nf r o m Ok i n a wal nt h eWo r l dWa rⅡ -1 0 5- 史料 編 集室 紀 要 第3 0 号 ( 2 0 0 5 ) 那覇 を中心 に2 8人、高鍋 町の高鍋 国民学校 に字宮城 を中心 に2 9人、 日向市の美 々津 国民学 3人が分 かれて疎 開 した。引率教諭 は、仲村 渠キ ヨ ( 字官平)、宮 校 に字与那覇 を中心 に3 城 トミ ( 字 山川)、上原清 ( 与那原 町)、大田守盛 ( 与那原 町)の先生方であったo 私 は、兄弟姉妹 が熊 本県へ の一般疎 開の体験者であ り、 また市町村史や沖縄県史料編集 室 で 「沖縄県史各論 編 沖縄戦」 に関わっている者 として、ぜ ひ学童疎開の足跡 を調査 し 参加 し、 自分 な りの学童疎 開調査 を試みた。辛い、当時の学童疎 開体験者 1 0名が同行 して いたので、その聞 き取 り調査 と、疎 開先 の人々 との交流の様子 を記録 し、疎 開跡の現状や 史料 を写真撮影す る ことを中心 に調査 を行 った。 2 疎 開 の足 跡 を訪 ね て (1)対馬丸慰霊 祭 < 8月 3日 ( 火) > 私 たちは、午前 8時発 の大島運輸 「フェ リーなみの うえ」 で那覇港 を出発 した。船 は、 本部港、与論港 、沖永 良部島和泊港 、徳之 島亀徳港 を経 由 しなが ら名瀬港 、鹿児島新港へ と向かったO 「フェ リーなみの うえ」 は、対馬丸 とほぼ同 じ大 きさであった。 船の中では、児 童 た ちが グループに分かれて学童疎開体験者か ら聞 き取 り学習 を した0 -人の体験者 を 2、 3名が取 り囲 んで熱心 に聞いていた。 )また、午後 6時半か らは全体で 対馬丸の生存者で あ る平 良啓子 さんか ら対馬丸の体験話 を聞いた。 , 平 良 さんは、国頭村字安波 の出身で昭和 1 6年 に国民学校へ入学 した。疎 開する と決める ときに、お父 さんは東京へ 出稼 ぎに行 ってお り、お母 さんは同意 していいか どうか悩 んだ そ うだ。それで も、当時 3年生 だった啓子 さんは 「ヤマ ト-行ける。雪が見 られる。汽車 に乗れる」 と思 ってお 母 さん を説得 した とい う。 結局、約 5 0 0名 の村 か ら4 0人が 「来年 の 3月には また会 えるか らね」 と言 って一般疎 開 に応 募 し、 国頭 村 の鏡 地 か ら船 に乗 って那覇へ 向 か ・、 ! ∴ 対馬丸 は 、6・ 75 4トンの真 っ黒 な貨物船 で 1 9 4 4年 8 象 月21日の午 後 6時 か ら乗 船 が始 まった とい う。 翌 8 月2 2日に兵 隊 に 「今 晩 はあぶ ない」 と注意 され 「静 か にす る こ と。 鼻 紙 、サ トウキ ビガ ラな どを海 に捨 てて はな らない O泣 く子 ど もな どは船底 へ行 けo先 -1 0 6- 対馬 九での体験 を語 る平 良啓 子 さん 史料編 集室 紀 要 第3 0号 ( 2005) 生方 は寝 ないで見張 ってお くこと」 な どの注意 を受 けた。 対 馬丸 は、午 後 10時過 ぎに攻撃 を受 け撃 沈 した.子 どもたちは 「お母 さん助 けて -」 「 先 生助 けて -」「 兵 隊 さん助 けて -」 と泣 き叫 んでいたそ うだ。啓子 さんは 「なん とし て も生 きて帰 りたい」 と思い、50メー トル ぐらい先で騒いでいるイカダの方へ泳いで行 き、 大 人たちにけ落 とされ ない ように工夫 しなが ら乗 り込 んだ. イカダの上では、す えた飯や カイコの まゆの中のサ ナギを食べ なが ら飢 え を しのいだ とい う 。 イカダに乗 って漂流 したが 、1 0名いた人々は 5人だけ しか残 らなかった。漂流 して 6日 日に、奄美大 島の技 手 久 島に漂着 して助 か った。そ して、宇検村の久志、瀬戸 内町の古仁 屋 を経 て安波 に帰 って きた とい う。結局 、当時 6年生だった兄 とい とこの時子 さんは助か らなかったそ うだ。 t l ) 私 は、す でに平 良啓子著 『 海鳴 りの レクイエム』 を読 んでいたが、当時の現場近 く奄美 諸 島沖の海上で聴 く体験 談 は実感 を伴 って理解す ることがで きた。私たちは午後 7時半か ら奄 美大 島沖合 で 「 対 馬 丸海上 慰霊祭」 を行 った。式順 は 「1.黙祷 ( 全員 ) 霊 ・哀悼 の ことば ( 平 良啓子) 3.焼香 ( 全員) 4。花束献納 ( 全員) 2.慰 5.対馬丸 哀歌斉唱 ( 全員 ) 」 で あ った。 この 「 対 馬丸海 ヒ慰霊祭」 には、「フェリーなみの うえ」 も 全面協力 し甲板 での会場 設営 を支援 し、黙祷 の時 には哀悼 の汽笛 を鳴 ら して くれたo 平 良啓子 さんは、涙 なが らに 「 戦争 の ため に小 さな命が海 に沈め られた。二度 と戦争 を 起 こさない ように、私 たちは叫 び続 け なけれ ばな らない」 と追悼文 を読み上 げた。そ して、 亡 くなった兄 さんが好 きだった紙飛行機 を作 って きて海 中へ向か って飛ば した。 また、花束献納の時 には仲酉祈 さん ( 1 1 歳 。北丘)が 「明 日か らは、本土 の熊本 ・宮崎 をまわって 『 学童疎 開』 について もっ と勉強 して きます。 お じい ちゃんが本土 に行 けなか った分、私がいっぱい遊 んで、勉 強 して、い ろんな体験 を して きます。お じい ち ゃんが好 きなサ ー タ-ア ンダーギー をおみやげ に持 って きま した。食べ て くださいね」 と手紙 を読 み上 げ、 お じい ち ゃ んが 眠 る海 にア ンダー ギー をさ さげ た。 このお じい ち ゃん とは、仲 西 さんの祖 母の 弟 の こ とで 、 国民 学 校 5年生 の時 に対 馬 丸 で遭 難 、 亡 くなった とい う。 一人 一 人 焼 香 した 後 、全 員 で 「 対 馬 丸哀歌」 ( 作 ( 2 1 詞 :宮城 マ リア 作 曲 :海勢頭豊 ) を合 唱 した。私 ( 1 )平良啓子 『 海鳴 りの レクイエム』( 民衆社,1 9 8 4年) ( 2 )平良啓子 さんの姉で対馬丸生存者。在アメリカ合衆国。 -1 07_ 船 上 で の対 馬 丸慰 霊 祭 の様 子 史料 編 集室紀 要 第3 0号 ( 2005) たち も、各 自で持 参 した花束 やお菓子 、泡盛 などを海中へ捧 げて、慰霊祭 を終 了 した。学 童疎 開体験者の赤嶺善助 ( 字神里) さんは 「これで胸 のつかえが取 れた」 とつぶやいた。 対馬丸の犠牲者の半分 を占め る約 700人は学童疎 開の児童 であった。 南風原 国民学校 第 1次疎 開の児童が乗 った 「 和浦丸」 は、1 9 4 4年 8月21日対馬丸 と一緒 に船団 を組 んで那覇港 を出発 したO最 初 は、対馬丸 に乗船する予定 だったが、和浦丸 に変 更 に なった と きは悔 しい と思 った とい う。今 回同行 した学童 疎 開体験 者の 中村活 さん ( 71)の話 による と、22日午後 1 0時す ぎ牧命胴衣 を着 け甲板 に出ていた ら遠 くに火柱が 上 が るの を見 た とい う。和浦丸 も魚雷攻撃 を受 けて逃げ回 り、 しか も突然僚船の暁空丸が逃 げ なが ら突 っ込 んで きたので あわや衝突 しそ うにな り、船 は傾 き船内はパニ ックになった そ うだ。 対馬丸海上慰霊祭が終 わって、午後 9時前 に船は名瀬港 に入港 した。児童生徒 は就寝の 時 間 となった。 (2)熊本県坂本村 <8月 4日 ( 水)> 船が鹿児 島新 港 に入港 したの は、午 前 8時半であった。私 たちは、直ちに貸 し切 りバス に乗 り移 って熊 本県- 向か った。 バス は鹿児 島県か ら九州 自動車道 を通 り九州山地 を越 え て熊本 県へ 入 った。 そ して球 磨 川 の急流沿 い に走 っ て、午前 1 1時半 に熊 本県坂 本 村 に着 い た。坂 本村役 場 には 「歓迎 南風原P J J L 子 ど も平 和 学 習」 とい う看 板 が 立 て られ 、 役 場 職 員 の 暖 か い 拍 手で 迎 え られ たo役場 の ホ- ) I ,で交流 式 典 が あ り、南風原 町か ら 坂 本村- 学童疎 開の感謝状 と記 念 品 が贈呈 され た 。 交 流 式 典 の 後 、 私 た ち は学 童 疎 開 の 足 跡 を訪 ね 南風 原 町 か ら坂本 村 - 感 謝状 の贈 呈 た。南風原 町の疎 開学童 は、最 初 日奈久国民学校 に通 ったが、第二次疎 開 と して八代郡 う え まJくま 上栓求麻村 ( 現在 の坂本村 )へ移 り、上松求麻村第一 一 一国民学校 ( 現在の藤本小学校) に通 ∴\ うようになった とい う。宿 舎 は、学校 の教室、坂本の崇光寺、葉木の正 善寺の 3カ所 に分 宿す る ようになった。 そ こで まず、坂本 の崇光寺へ行 く。 このお寺では、同行 した中村清 さんがお世話 になっ た。 中村 さんは、あい さつの 中で 「 故郷 に帰 って きた ようだ」 と話 していた。崇光寺での 引率教諭 は糸数 昌吉 先生 、世話 人が仲 里 ヨシ子 さん と糸数先生の奥さんで、総勢 32名で共 同生活 していた とい う。お堂の 中は、そんなに広 くはないので窮屈 な思 い をしただろ うと い うことが よ くわか った。 _1 08- 史料 編 集室紀 要 第3 0号 ( 2005) 崇光寺の住職 さんは、若い住職 に交代 していたので疎 開時代 の ことは知 らない と話 して いた。代 わ りに、 当時-緒 に学校へ適 った り遊 んだ とい う本 田 さんが体験 談 を話 して くだ さった。本 田 さん ( 男性)は 「 男子 と女子 は別 々に勉 強 した り遊 んでいた。 だか ら、女生 徒 の こ とはあんま り覚 えてない」 と話 していた。 私 た ちは次 に、か つ ての上松 求麻村 第一 国民学校 で あ っ た藤 本 小 学 校 へ 歩 い て行 った0 校 門 の前 に , ぎ 圭. / 三 二 は、道路 の両側 に当時 の生徒 だ った方 々が大 勢並 ん で歓迎 して くだ さった。 )役場 や教 育委員会の細 やか な配慮 が感 じられ た。 しか し、残念 な こ とに藤本小 学 校 は過疎化 に よ り廃 校 になってい た。 かつての宿 崇光寺 で学童疎 開体験 を語 る中村清 さん 泊場所であった教室 も、すで に建 て替 え られていて跡形 もな くなっていた。かろ うじて、 中庭で教育委員会の方 か ら学校の沿革紹介 を開 くことがで きた。 運動場 は食糧確保 のために全 ここで も中村活 さんが、当時の様子 を話 して下 さった。「 て イモ畑 になってい た」 とい う。私 たちは、地元の方 々に冷 たい飲 み物 で歓待 され、『 坂 ( H 本村立藤本小学校閉校記念誌ふ じもと』 をいただいて学校 を後 に した0 昼食後 に、葉木 の正 善寺 を訪 問 した。 ここで は、 72) た ちが宿 泊 した。疎 開 同行 した大域清 一 さん ( の引率教諭 は清一 さんの母 親 の大城 東先生 、世話人 は赤 嶺芳子 さん と大 城 チエ子 さん、養護 の伊 波 タケ さんで、生徒 は30名 前後 で共 同生 活 を してい た とい う。清 一 さんは、 当時 旧制 中学 1年生 で沖縄 県立二 廃 校 にな った藤本小 学校 の校庭で 中か ら八代 中学校へ転校 した とい うo 私 たちが葉木 に着 くと、隣近所の関係者がお寺の前 の道 に並 んで歓迎 して くだ さった。 とがで きたO きっそ く、お堂の中で交流会 を開いた。大域清一 さんは、あい さつの冒頭で 「 私 には、ただい ま と言 わせ て下 さい」 と話 していた。そ して 「寺では 離 合自足 の生活で、 炊 事や風 呂の燃料 となる タキギ取 りをよ くやった。 )土 ・日曜 には段 々畑 の開墾 をやってサ ツマ イモ を植 えた。 )険 しい山道 を肥 や しを担 いで登 った。食糧事情 が悪 く、皆飢 えてい た」 と話 した。 ( 3) 藤 本 小 学 校 閉校 事 業 実行 委 員会記 念 誌 部 会編 集発 行 『 坂 本 村 立 藤 本 小 学 校 閉校 記 念 誌 ふ じも と』 ( 平成 1 5 年) -1 〔 ) 9- 史料編集室紀要 第3 0号 ( 2 005) また、当時小 学校 5年生 だった当田康雄 さん も思 い出話 を語 って くださった。当田 さん は大域 さん と会 って 「 兄弟み たい な存在 だったか ら感激 している」 と涙 を浮かべ なが ら語 った。「当時の食べ物 で は カボチ ャとジ ャガイモが印 ままで とて も小 さか った。 よ くもここで3 0名余 りの学 童疎 開者たちが生活 した ものだ と思 った。葉木地区 自 体 が 、球磨 川 とL 山 こ挟 まれ た山 間 の狭 い集落で あ っ た。いかに学童疎 開が厳 しい環境 の下で行 われたのか p ー. :∼ .示珊′ ∴ 象 に残 ってい る」 と話 された。お寺のお堂 は、戦前 の 正 吾 寺 で 体験 を語 る 天 城 清 一 さん が実感で きた。 ( 3)熊本県八代 市 日奈久 <8月 4日 ( 水) > 午後 3時半 頃 に菓木村 を出て、 4時半 頃に八代市 の当時 日奈久国民学校 だった 日奈久小 学校-着いた。 日奈久国民学校 には、南風原の第 1次学童疎 開をは じめ多 くの市町村 の疎 開学童がお世話 になった。私 たちは、与那原町教育委員会発刊の 『 与那原 の学童集団疎 開 ( l ) 第 1部体験 集 ムギ メシヒ トツ ココフ タツ』や玉城村役場発刊 の 『 玉城村史 第 6巻 ( r ) : ) 戦時記録編』 で も与那原 国民学校や玉城国民学校の学童疎 開の体験記 を読 むことがで き る。 南風原の第 1次学童疎 開団 は1 944年 8月21日に 「 和浦丸」 で那覇港 を出港 し、僚船 「 対 馬丸」 を撃沈 され た後 8月2 4日に長I l 酎 こ到着 した。その後 1週間長崎で旅館生活 を した後、 8月31日に列 車 で 日奈久駅 に到着 したのである。学童数 11 0名、家族 3名の疎 開団で、宿 泊所 は新湯旅館 と松野崖旅館 であった。沖縄県か ら日奈久- の疎 開児童は全体で 1 5校か ら 1,1 00名 もいた とい う。 私 たちは 日奈久小学校 の体育館 で 「 六郎太鼓」 の演 奏で歓迎 された。 そ して、 日奈久小学校 の 5、 6年生 と南風原町の児童生徒 との 「 平和学習交流会」が催 さ れ た。 会順 は 、「1. 開会 2.あい さつ (八代市教 育長 ・南風原 町教育 長 ・日奈久小学校長) 状並 びに記念 品交換 3.感謝 4.平和交流 ( ∋児童発表 ( 南 風原町児童 ・日奈久小児童) 沖縄 の疎 開学 童 が学 ん だ 日奈 久小 学校 ② 学童疎 開当時 を語 る ( 4) 与那原町学童疎開史編集委員会 『 与那原の学童集団疎開 第 1郡 体験集 ムギメシヒトツ ココブタツ』 ( 与那原町教育委員会,1 9 9 5 年) ( 5)玉城村史編集委員会 『 玉城村史 第 6巻 戦時記録編』( 王城村役場,2 0 0 4 年) - ll ( )- 史 料 編 集室 紀 要 ( 南風原町の方 。竹之 内町 員で歌 う 坂 口正一 -さん) 第 30号 ( 2005) ③ 意見交換 ④ 『は との絵 を描 こう』 を全 5.閉会」 であった。 南風原町か ら日奈久小学校へ は感謝状 と記念品が贈呈 された。南風原町児童の発表では 「エ イサ ー」 を披露 して好評 であった。 また、中村清 さんが代表 して学童疎 開当時の話 を した。 中村 さんは 「日奈久で 1 0・1 0 空襲の ことを聞いて、沖縄が戦場 になるのだ と不安 に 思 った」等 の思い出 を話 した。 日奈久国民学校では、地元の児童 と疎 開学 童がほぼ同数 だ ったので、地元 を 「日奈久班」、疎 開学童 を 「沖縄班」 と分 けて 1週 間交代 の 2郡授業 と なったそ うだ。それで、地元の児童 と机 を並べ て勉強す ることはなかった とい う。疎開学 童 の食事 は竹製のお椀 にスイ トン ( 水 団)汁でいつ も足 りなかった。旅館 に泊 まっていた 一般 客の食べ残 しを棄 てたゴ ミ箱 をあ きった り、道ばたに落 ちてい る ミカ ンの皮 や芋の く ず を拾 って食べ た りしたそ うだ。 竹 之 内町 の坂 口 さんは 「沖縄県 の疎 開学童 た ち と 一緒 に勉 強 した こ とはないが、家が お寺 だ ったので 学 童 たちの生活 の様 子 は よ く見 てい た。皆 ひ も じい 思 い を してい てかわいそ うだった」 と話 してい た。 八 代 市 が 空 襲 され 、 日奈 久 も危 な い とい う こ と で、 沖縄 か らの疎 開学童 は、 内陸部へ 2度 目の疎 開 疎 開学童 た ちの宿 泊所 で あ った新湯旅館 をや らなければな らなか った。南風原 の疎 開学童 は球磨川沿いにある上松 求麻村 ( 現在の 坂本村)へ移動 したのである。 日奈久′ ト学校での交流会が終了 した後、私 たちは当時の宿泊所であった新揚旅館へ投宿 した。新湯旅館 は戟 前か らその まま残 っている旅館で、玄関、柱時計 、階段、温泉 と当時 の雰 囲気 をうかがい知 ることがで きる。南風原の疎開学童 たちは、 ここで 1年近 く生活 し た。私 たちは、今回参加の児童たちと同 じ部屋 に宿泊 した。 夕食後の午後 9時か らも学習会が開かれ た。私 たちは、学童疎 開を新湯旅館 で体験 した 71 )の話 を聞いた。当時 5年生であった慎助 さんの話では 「 起床時間は午 金城慎助 さん ( 前 5時半で皆 よ く勉 強 したO遊 んだ記憶 はない。いつ も、 ひも じい、 ひも じい と思 っていた。 弁当箱 は軍へ 供 出 して、竹 製のお椀 で食事 を していた。運動場 を全 部排 して イモ を植 えた。冬で も夏服 しか な くとて も寒 か った」 とい うことであった。 翌朝、私 は午前 6時か ら調査 を開始 したO玉城村の 戦前か ら残 る新湯旅館 玄関の柱時計 疎 開学童が宿泊 した とい う場屋 と織屋の旅館跡 を捜 し -1 11- 史料 編 集 室紀 要 第3 0号 ( 2005) てみ たo場屋 の跡 は確認 で きたが、現在 は ( 秩 )岩崎 水 産 加 工 中支 店 の か まぼ こ屋 の周辺 にな り当時の面 影 は残 ってい なか った。疎 開学童 た ちが、 よ く掃 除 を さ せ られ た り参拝 させ られ た 日奈久神社 ( 現 在 は温泉神 社 と改称 )- も登 ってみ た。神社 の境 内の下 を鹿児 島 本線 の電 車 が走 ってい た。 また、傷 病 軍 人 の療養所 で 玉城村の学童が宿泊した場屋旅館の跡 あ った とい う金波 楼 の写真 も撮影 した。 日奈 久小 学校 で 一番 印象 に残 ってい るの は、校 門の近 くの 「 創立百年 之碑 」 の側 に 「 沖 975年 ( 昭和 5 0) の 日奈久小学 縄 県 同 窓生 友情 の碑 」 が建 ってい た こ とで あ る。 これ は 、1 校百 周 年事 業へ の疎 開学童 たちの協 力 を記念 して建 て られ た もので あ る。 その文面 には 「 昭和十九年九月親元をはなれた沖縄県の友だち千百余名がここに転校 してきた/不幸な戦争の さ中ではあったが当時の生徒たちは不 自由 さをわかち手 を取 り合って学業にいそ しんだ また町の 人々も側面か ら学校を援助 した そ して翌年の六月 友 らは別れを惜み再び疎開 していった/それか ら戦後三十年の歳月が流れた/本校創立百同年にあた り故里沖縄に帰った友 らは幼い頃の様々な思 い出をあたため母校への感謝の しる Lに自ら浄財 を集め送付 された/わた くしたちは友 らの心根の や さしさと真心の厚 さとを永久にたたえ友情の灯 をともしつづけるために/ これを建立する/昭和 五十年七月吉 日/創立百同年期生会一 同」 と刻 まれ てい る 。 また、 日奈久 国民学校 で学 んだ赤 嶺 善助 さん ( 72) の体験 談 も胸 をい ためた。善助 さんは当時南 風原 国民 3歳で あ った。 善助 さんは、母親 の 学校 高等 科 1年 、 1 反対 を押 し切 って勝 手 に印鑑 を持 ち出 し疎 開の手続 き を したそ うだ。 また、善助 さんは 日奈久 で満 州 開拓青 945年 4月 に茨城県 少年義 勇 軍 に応 募 した。 そ して 、1 東 茨城 郡 内原 町 ( 硯水戸市 ) にあ った内原訓練所 に送 日奈久小学校にある 「 沖縄県同窓生友情の硝」 られ た。彼 は、 3カ月の厳 しい訓練 に耐 え大 陸へ 渡 る夢 を描 い てい た。 5日に敗 戦。所属 してい た第 3大 隊26中隊 は11月 に解散 した。 しかたな く しか し、 8月 1 善助 さん は疎 開先 の 日奈久-戻 った。 そ して、米 や ミカ ンを作 ってい る米本 家へ 農 家奉公 946年 11月、疎 開学童 た ちに沖縄へ 引 き揚 げる連 絡 が 入 った。善助 さ す る こ とになった 。1 ん も米本 家が必死 に引 き留 め るの を断 って、長崎県佐世保港 か ら船 に乗 った。 船 は那 覇港 に入港 し、い ったん中城村 の久場 崎 に収容 され た後 、南風 原 まで送 られ た。 しか し、母 カマ ドさん も妹 カメ子 さん も戦死 して、善助 さんは戦災孤 児 に なってい た。役 場 か ら約 4 km の 神里 集 落 までの道 の りを疎 開学童 た ちが家族 と手 をつ な ぎ、笑 い なが ら -112- 史料 編 集 室 紀 要 第3 0 号 ( 2 0 0 5) ( い 帰 る列の最後尾か ら碓れて、善助 さんは一人で歩いて帰 った とい う。 ( 4)宮崎県西都市 <8月 5日 (木 ) > 私 たちは、午前 8時半 に 日奈久 を出発 し、九州 自動車道 を通 り宮崎 自動車道 を経て、l l 時 頃西都市 に着いた。 まず、西都市役所へ行 って、市長 を表敬訪問 した。 日野市長のあい さつの後、南風原 町 か ら酉都市へ感 謝状 が贈 呈 された。市長のお話では、奥 さん と中城村 の稲嶺 さん とい う方が学童疎 開時代 の友人で 、5 3年ぶ りに再会 した との ことであった。 昼食のあ と、午後 1時半 ごろ三財 国民 学校 だった三財小学校 を訪問 した。今回の交流事 業 に参加 した三財 国民学校体験者 は南風原 町字津嘉 山か ら金城静子、仲村清子、金城礼子、 儀保松 吉の 4名であ ったo三財小 学校の校門で も、学童疎 開時代 の恩 師や同期生 たちが待 ちか まえて迎 え、抱 き合 って泣 いてい た。沖縄の学童疎 開体験者 と、 ここの同期生 との交 流 は現在 も盛 んであ る とい うo 職員室での交流会 では、当時国民学校 4年生であっ た吹井 孝夫 さん ( 7 0 ) が い ろい ろ と説 明 して下 さっ た。吹 井 さんは、 酉都市 の総務課長 で定年退職 し現在 は教 育委員 を務めてい る との こ とであったo吹井 さん の お話 に よる と 「当時三財 国民学校 には1 03 3部隊が駐 屯 していたため分散授業 になった。沖縄県か らは3 9 名 三財小学校 で恩 師や級 友 に迎 えられた 学童疎開体験者の皆 さん の疎 開児童が来たo宿 泊所 は学校 の裁縫室であったo 三財国民学校時代 の跡 は裏 門 と明治 ー J ' J : ) y ・ ン 1 ) / 41 年 に植 え らj tた校庭 の広葉杉 の木が 当時の まま残 っている。 )三財 には グラマ ン戦闘機 の 襲撃 もあった。食糧 不足 で運動場 は全 て イモ畑 になっていた。疎 開児童 たちは、 ひも じさ と、寒 さと、 さみ しさ と闘い なが ら生活 していた。学校の近 くの家の ミカ ンを盗 んでおば あ ちゃんに怒 られた こ ともある。 しか し、逆 にお じい ちゃんが疎 開児童 を しか ったおばあ ち ゃんを怒 っていたのが思 いI T J Mこなってい る」等 とお話 して 下さった。 三財小学校の職員室 には、学校 の沿革史 ・年表板が掲示 されていた。その中には 「昭和 十 九年沖縄 一般疎 開児童三九名入学」 と記録 されていた。駆 けつけて くださった元教諭の 牧野 田 ミヨさん ( 8 2 )は 「沖縄 の児童 は、冬 の寒い 日ぼーっとひなたぼ っこを していた」 と思い出 を語 った。私 たちは、交流 会の後 さっそ く校庭の当時か らある杉 の木や、裏 門 を 見学 に行 った。儀保松吉 さんは、広葉杉 の木の まわ りで遊 んだ思い出 を話 した。 ,今回、儀 保 さんの奥 さんの ヨシ子 さんや、お孫 さんの具志堅沙織 さん も同行 したのだが 「お じいち ( 6)赤嶺善助 さんの詳細な体験談は r 沖縄 タイムス ・戦場の童」( 2 ( ) ( ) 5 年 1月2 0日-2 3日)参照。 -11 3- 史料 編 集室 紀 要 第30号 ( 2005) やんが戦争時代 に こん な に苦 労 した とは知 らなか っ た」 と話 してい た。現 在 の三財 小 学 校 は、お茶 や ト ウモ ロ コ シ畑 が 広 が る の どか な環 境 に囲 まれ て い た。 西都 市 では、上 穂 北 国民 学校 の 後 で あ る穂 北小学 校へ も寄 った。 この学 校 で は、 南風 原 町字与那覇 と 兼城 の疎 開学童 が お世 話 に な った。 しか し、今 回 は 戦前か ら残 る三財小校庭の広葉杉の木 体験者が参加 してい なか ったので、学校見学 だけの 日程 となっ た 。校長先生が、校内 を案 内 して下 さった。 当時の面 影 を伝 える正 門の門柱や校庭のセ ンダンの大木が印象 に残 った。 (5)宮崎県高鍋 町 < 8月 6日 ( 金) > 宮崎県での 2日目は、午前 9時 に西都市 を出発 して 9時半 には高鍋町役場 に着いた。役 場 では、町長 と教 育長 を表敬訪問 した。南風原町か ら感謝状が贈呈 された。高鍋町教育長 は 「沖縄 がたい- んな ときに何 に も してやれな くて ・-」 と涙 ぐんでいた。 私 たちは、疎 開学童がお世話 になった高鍋小学校では下車せず、バスの 中か ら校門の写 真 を撮 った。そ して、高鍋 国民学校 の疎 開児童たちが宿泊所 に していた堀之内訓練所の跡 を訪問 した。高鍋 町の文化財保護委員の平 田和彦 さんが案内 して 下さった。堀之内訓練所 跡 は空 き地 になっていて、現在 日豊本線 の線路が敷地内 を走 っていた0 この訓練場では引率 の大 田守盛先 生 と家族 3名、世話人が金城 り夕さん、仲里 ヨシ子 さ ん、城 間 タケさんの 3名、 そ して字宮城 を中心 とした疎 開学童 ら合計 3 4名が 2年間余 も宿 泊生活 を した。そ して、真冬で も半 ズボ ンに靴下 もな く霜焼 け、あか ぎj lの足で学校 まで 4 km の道 を通学 した とい う。戦争 末期 か らは自給 自足 の生活 を強い られた。 私 たちは、堀之 内区の公民館 に案 内 され、歓迎のスイカや飲み物 をいただ きなが ら思 い 出話 を聞いた。 当時 4年生 だった方の話 で は 「 沖縄 の疎 開学童 たちが話 している言葉はわ か らなか った。 自分 た ち も苦 しい生活 で、 あげたい物 もあげ られなか った」 とい う。堀之 内では、1 9 4 6 年1 0月 1 4日にお別れ会があったそ うだ。 疎 開児童たちは 自分 た ちで薪 を取 った り、畑 を開墾 した りしていた とい う。飛行機 の空襲が激 しかった。 疎 開児童 と交流が あ った佐 山敏子 さん ( 68) の話では 「あの海 を渡れば沖縄へ帰 れ るの だ。沖縄-帰 る」 と 言 って疎 開 して きた 2人の きょうだいが手 をつな ぎ、 口向灘 に入ってい くの を大 人たちが連れ戻 した事件 も -Iレl- 日豊本線が走 る堀之内訓繰所跡 史料 編 集室紀 要 第3 0号 ( 2005) あ った とい う。 公民館 での懇談会の後、私 は 1人で松 、セ ンダン、ハゼや グ ミの木 らが繁 る防風林 を抜 け海岸へ行 ってみ た。 そ こには、荒波が打 ち寄せ る 日向灘の海が広が っていた。疎 開児童 たちの望郷 の思 いがいか ほ どだったか、胸 に痛いほ ど伝 わって きた。 (6)宮崎県 日向市 <8月 6日 (金) > 昼食後 に高鍋町 を出発 して、午後 1時半 に 日向市の美 々津国民学校跡へ着いた。 ここは、 現在 日向市美 々津支所 の庁舎 になってい る。学校 は移転 して戦前の面影はないが、わずか に校 門の門柱が残 っていた。庁 舎の 2階ホールで 「 交流会」が開かれた。 交流 会 の スケ ジ ュ ー ル は、 まず 日向市議 会副議 長 の歓迎 の あい さつ の 後 、南風 原 町教 育長 に よるお礼 の あ い さつ と感 謝 状 、 記 念 品 の 贈 里が あ っ た。 次 に、南風 原 町の小 学 生 と美 々津 中学 校 の生徒 が学校 紹 介 を行 った。 その後 、疎 開体験 者 の話 に移 っ たo南風 原 町側 か らは、 当時引率教 諭 で あ った宮 城 富先生 ( 82) が息 今も残る美々津国民学校の門柱 t 7 ) 52) と 一緒 に話 をされた.美 々津の人々は、富先生 の顔 を見 る とす ぐに駆 子 の寛詳 さん ( け寄 った。先生 は、現在 で も当時の同僚や教 え子 たちか ら慕 われていた。富先生 は 「当時 は食料不足 で、子 どもた ちを食べ させ るの に苦労 したO美 々津 m T の人か ら食べ物 を分 けて もらった り、時 には風 呂 に入れて もらった りするなどお世話 になった」 と語 ったO 82) と、 6年生であ 美 々津側 か らは当時美 々津 国民学校の教諭であった相馬佐得先生 ( った緒方英 正 さんが話 を した。相 馬先生 の話 では 「沖縄 の疎 開学童 たちは成績が 良か っ た」 とい う。緒方 さんは 「 疎 開学童 たちが食べ物 に苦労 しているのが強 く印象 に残 ってい る」 との話 で あ った 。与那覇 区 を中心 に33人の疎 開 学童がお世話 になった。 最 後 に、双方 の郷 土 芸 能 の披 露 が あ った。南風原 町 の小 学生 はエ イサ ー を踊 って大好 評 で あ ったo美 々津 中学 校 の女生徒 た ちが、美 し く珍 しい 「別軒 の 盆 踊 り」 を一生懸 命 踊 って くれ た。 閉会の あい さつ 元同僚の宮城先生と相馬先生のご対面 は、 日向市 の教育次 長が行 ったO ( 7)宮城富先生は足が不 自由なため、美々津から合流されたo _11 5_ 史料編 集室紀 要 第3 ( ) 早 ( 20C ) 5) 交 流 会 の後 に、私 た ちは高松 公民 館 へ 移動 して、 聞 き取 り調査 と交流 会 を行 った。建 物 は改 築 されて い たが、 ここは、 当 時楕 舎 の ユつで あ った高松 公会 堂 の跡 で あ っ た。疎 開学 童 は美 々津 へ の空襲警 報が 激 し くな った の で、宿 舎 に して い た学 校の裁縫 室か ら高松 、落鹿 、宮 ノ下 の各公 会 堂へ 分 散宿 泊す るこ とになった。 集 まって下 さった地元住 民 の話で は、 交流 会でエ イサ ー を披 露す る 南風原 E H Tの児童 当時の 5、 6年生 たちは学校 まで 3 km の道 を歩 いて 通学 したそ うだ。夏 は裸足 で、冬 はわ ら じを履いて通った とい う。夜 は、灯火管制が厳 し い生活であった。 J ' らI ノ か 次 に、 まわ りを田んぼ に囲 まれた落鹿公民館-向かったo ここで も、落鹿区民の暖かい 歓迎 を受 けた。 ここは、宮城富先生 一家の宿舎であった。当時、富 先生 は弱冠23歳の教諭 であったO ここでは、終戦 と重 な り、復 員兵 も増 え配給 の食糧事情が悪化 した とい う。そ 二で、個 人か ら 1反歩 の畑 を借 りて大根 等 を植 え、 ! , 自給 自足 の努 力 を したそ うだ。富先 生 は終戦後 しぼ 象 ら く美 々津 国民 学校 で教壇 に立 ってい たが 、4 6年 頃 に引 き揚 げ たそ うだ。 お世 話 に なった美 々津 の人 た ち に、 これ まで お礼 が で きなか った こ とを悔 や んで いた とい う。今 回、その念願が果 た され たのだ。 私 た ち は 、 美 々津 地 区 か ら 日向 市役 所 へ 移 動 し 銭 落鹿公民 館 で の交流 会 の様 子 て、最後の 日程 である 日向市長、 日向市教育委員会への表敬訪問 を行 った。 日向市役所の 玄関前広場 には、浦添市 をは じめ学童疎 開でお世話 になった市町村 の記念碑が建 っていたo 日向市長の歓迎 のあい さつ を受 けて、南風原町教育長か ら感謝状 と記念品が贈 られた。思 いがけず、 日向市 長や教育長 か らは、参加者全員へ記念品の贈呈 もあった。以上で、学童 疎 開の跡 を訪 ね る 日程 は終 7 した。 3 おわ りに 今 回初めて、学童疎 開の足跡 を訪 ね調査する機会が もてたO学 童疎 開は 「もうひとつの ト ・ 沖縄戦」 とも呼 ばれて きたが、それは予想以上 に厳 しい状況だった ことが解 った。熊本県、 ( 8)吉浜忍編集 『もうひとつの沖縄戦 南風原の学童疎開』( 南風原町教育委員会,1 991 年) -116 - 史料 編 集室 紀 要 第3 0号 ( 2005) 宮崎県 と実際 に宿 舎 や学校 の跡 を訪 ねてみ る と資料や活字で読 むよ りも学童疎 開の実態が 立体 的 に皮膚感覚 で理解 で きる ようになって きた。 学童疎 開は、国民 学校 の 4年生 -6年生が基本であったが 1、 2年生 もいた。幼い学童 」 」 たちは、異境 の地 で約 2カ年 間 「 ヤ ーサ ン ( ひもじい ) 「ヒ-サ ン ( 寒い) 「シカラーサ ン ( 淋 しい)」 の 3つの苦雄 に耐 えて生 き抜 いて きたの だ。 私 は、学童疎 開 は学童 の生命 を守 り、学習の場 を保障す るためにやむ を得ず取 られた政 策 だ と思いが ちであ った。今 で も、その ように評価 している人々の言説 を読 む ことが ある。 しか し、1 9 4 4 年 ( 昭和 1 9 )7月1 9日付 けで沖縄県の内政部 長名で通達 された公文 「敦親第 595号」の 「 学童 集団疎 開準備 こ関スル件」 には次の ように書かれている。 「時局 ノ現段 階二対処 シ一億 国民総力 ヲ敵 反攻二備 フル国士防衛態勢確立急務ナル トキ 人 口疎 開 ノ一翼 トシテ県下学童 ヲ安全地 区二集団疎 開シ戦時 卜難モ少国民 ノ教育運営 二遺 憾 ナキ ヲ期 シ併 セテ県内食糧事情 ノ調節 ヲ図 ランガ為標記疎 開二付 キ計画致 シ度二付左記 川) 事項参照 ノ上達急 二可然措置相成度此段通牒 ス」 この公文 を読 めば、学童疎 開の 目的は児童 を 「 安全地区二集団疎 開」 させ 「 少国民 ノ教 育運営二遺憾 ナキ ヲ期 シ」 そ して 「 県 内食糧事情 ノ調節 ヲ図 ランガ為」 だった ことは明白 で ある。その結果、疎 開学童 たちは飢 え と寒 さと栄養失調の生活 に投 げ込 まれたのである。 と りわけ、沖縄戦 に於 いては 「 県 内食糧事情 ノ調節」 とは、 まず軍隊の食料 を確保す るこ とを意味 していた。 私 は調査 しなが ら、次 の ような素朴 な疑 問が湧いて きた。第 1に、坂本村の ように土地 も狭 く経済的 に も決 して豊かで はなか った場所が疎 開地 に選 ばれたのはなぜ だろう。学童 疎 開先 は、 どの ような過程 で、 どの ような条件で選 ばれ決定 されたのだろ うか。 第 2に、学童疎 開 に対 す る戦後補償 は どの ように行 われただろ うか。特 に、疎開先で病 死 した学童や、沖縄 へ引 き揚 げた ら孤 児 になっていた学童の場合 は どんなだっただろ うか。 第 3に、今 日まで学童疎 開の全県 的 な調査 が行 われ なかったのはなぜ だろ うか。 また、 全県的な比較 をす る こ とに よって新 たに沖縄戦の どんな断面が見 えて くるのだろうか。 以上の ことは、今 後 も沖縄 戦 について学 びなが ら調べ てい きたい と思 っている。幸 い、 沖縄県 は2004年度 に学童疎 開 を含 む 「 疎 開関係者実態調査」 を行 っている。私 もその成果 の報告書 を読み分析 し、考察 を重 ねてい きたい と思 う。 一方、学童疎 開の足跡 を訪 ゴ 1る こ とに よって、戦後 も疎 開体験者の方々は 「 お世話 にな ったのに、十分 なお礼 もで きなか った」 とか反対 に 「 冷 た くされた」 とい う思い を持 って ( 9)文数局研究調査課編 『 琉球史料 ( 第三集) 』( 琉球政府文教局) -11 7- 史料 編 集 室 紀 要 第 30号 ( 2005) お り、疎 開地 の方 々は 「困 ってい る疎 開学童 たちに何 もやれ なか った」 とい うわだか ま り 6 0 年間のわだか を持 っていた こと も知 った。南風 原 町企画 の今 回の交流訪 問 は、様 々な 「 ま り」 を解消 してい くきっかけに もなったのでは なかろ うか。 最後 に、 この調査報告 を執筆す るに際 し、共 に参加 した南風原文化 セ ンター館長天城和 樹 、沖縄 タイムス記者城 問有 、琉 球新報記者高江洲洋子の報告記事 を参照 した こ とを記 し、 心 か ら感 謝 申 し上 げたい。 また、今 回の 「第11回南風原町子 ども平和学習交流事 業 学童 0 周年記念」 を企画 した南風原 町教育委員会 をは じめ、調査 に協 力 していただい た学 疎 開6 童疎 開体験者 の方 々、そ して疎 開地 の役場 や教育委員会の ご配慮 や、歓迎 していただいた 地元 の方 々へ もお礼 を述べ たい。 あ りが とうござい ま した。 押 ; {' J, 雪 こ ヽttP / ・ J I . ー \ 弘 く∠ 弥\こ 適 毒す ⊥二 / / ( // r Jt k十 、 「 ハ1、 了 」 、' r\ 、 ∠ 滞 T \ -∫ ∴ \ . と ′ 、 鹿 児島 県 / ⋮調 L 、 - \ ∼ し ′1 \ し/ ; 7 : 5 レノ 学童疎 開調査地 図 ( 今回の学童疎開調査関係の市町村。なお、実線はバスの移動で利用 した高速道路である。) -11 8-
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